「男性は女性との恋愛に関心はなく、ただセックスしたいだけなのではないか?」
という問いは、非常に本質的で重要なものでありながら、まともに回答できる男は少ない。
良識的な答はこうだろう。
「そういう男ばかりではないよ。現に俺は違うし」
これは嘘ではない。嘘ではないが余りにも考察が浅い。
私の現時点での回答はこうだ。
「男らしさ、男性性に忠実に答えるならば、確かにその通りである。しかしそのことを自覚的に肯定できる男は多くはない」
まず私としては、「セックスしたいだけ」に隠れた「女性との恋愛に関心はない」という部分を重視したくて、冒頭のように設問した。
このことはこれまでの日本の「家父長的夫婦関係」に最も端的に表れている。
主人と家内。
「家父長的夫婦関係」とは、男女関係から恋愛要素を排除したシステムだ。
男は性欲を満たしたいが、女の主体性は認めたくない。よって、主体的な男女の交わりである恋愛にも関わりたくない。
このような男の無意識の集合体を理想的に実現したのが旧来の日本の夫婦関係であるというのが私の理解だ。
意識的に「自分は女性の主体性を認めておらず、ただ性欲のはけ口として見ている」ということを肯定できるほどマッチョな男はそれほど多くはあるまい。
少なくとも私にとっては醜悪で認めがたいことである。
極めて男性的な思想家であるブッダは、この醜悪な男性性への解法として、「性欲そのものを捨てる」ということを提案した。しかしこの提案は余りにも現実的でなかった故に、彼の思想は宗教となった。
ところが女性の社会進出が加速し、お見合いが衰退した現代日本において、まるでブッダの思想を体現しているかのような「草食系男子」、「絶食系男子」が顕著になってきていることは注目に値する。
現代では「自然な男性」、「男性性に忠実な男性」は確実に挫折する。
モテない。まったくモテない。というか、そもそも女性と会話できない。
これは物理的に会話が発生しないという意味ではない。男子校でもなければ女子と会話する機会程度はあるだろう。
さすがー。しらなかったー。すごーい。センスいいー。そうなんだー。
実際の言葉は「さしすせそ」よりは大分高度だろう。ただその本質は「さしすせそ」である。
女性は「男性性に忠実な男性」、つまり「女性の主体性を無意識に認めたくない男性」の無意識に沿うように「さしすせそ」で主体性の無さを演じる。
そうして「男性性に忠実な男性」はますます男性性に忠実になる。圧倒的にモテない存在へと進化してゆく。
ここで「さしすせそ」の欺瞞に気づいたモテない男性は自らの性欲を否定する方向に傾き、気づかないモテない男性はキモいアプローチをしてフラれることになる。
しかしあるとき、モテない男性が何らかのきっかけで、男性性に忠実ではない行動、女性の主体性を認める行動を選択することがある、そして本当の意味で女性と「会話する」。
これは嬉しい。
素晴らしい成功体験とともに、これまでの自らへの「男性性の要求」に自覚的になり、「男性性の要求に懐疑的になれば、女性と相互に主体的に話ができる」という条件がインプットされる。
女性との主体的な交わりを通してその条件はますます洗練されてゆくが、一方で「男性性の要求」が消失するわけではない。男性性との終わりなき闘争の始まりである。
自らの性が完全に充足されているとき、人は最高に幸せな状態だと言えるだろう。
かつての男性の性は社会の中で完璧に実現され、満たされていた。
自らの中の決して実現されることのない男性性に自覚的になったとき、どのような選択をするかに、現代の男の資質が問われている。