はてなキーワード: 有効とは
地方の薄給労働者は大都市にオフィスを構える企業にリモートワーカーとして転職することで、給料を上げることができる。
実際、とあるど田舎の有能ITエンジニアがリモートワークで都内のベンチャー企業に転職してしまう例がでた。
地方の中核都市でIT系専門学校を卒業し、地元の零細IT企業勤務と家業の農作業(実は田植えと稲刈りくらいしかやってない)で日々スキルを磨いた40代のK君は見事転職を果たした。
転職先の給料は500万未満、でもこれでも前職より100万以上増えたそうだ。とりあえずは満足しているそうだ。
私はK君のことをよく知っている。都内の相場観からすると、彼はもっと給料貰ってもいいIT技術者だと思う。
リモートワークが普及すれば、地方の相対的薄給労働者が大都市圏の求人に群がってくる。
私はこれは、人材の有効活用の点や地方創生的な観点からは非常にいいことだと思うが、よくない!イヤだ!と思う人も確実にいるだろう。
企業のリモートワーク離れという話もあるようだが、マネジメントが適切にできれば、大都市圏の企業はトータルで人件費を削減できる。
私は今後、リモートワークは加速的に普及すると思う。
そしてお前らの給料は下がると思う。
「『日本語の原郷』についての論文を読んでみた」(anond:20211121124146)を書いた増田です。思ったより多くの反応があって嬉しいので、調子に乗ってはてブの反応に対して補足説明みたいなのをしてみます。
そもそも言語学では分かりようがないところを考古学と遺伝学の視点からも補正したっていうのがあの論文の眼目だと思うので、言語学の面だけ否定しても…
こういう意見がみられましたが、少なくとも考古学や遺伝学の成果からは言語については何もわからない、ということを強調しておきます。
極端な例を挙げると、100年前にアメリカに移住した日本人の子孫で、ご家庭でも英語しか使っていない日系アメリカ人のことを考えましょう。彼もしくは彼女は遺伝的には日本列島に遡ることができます(おうちを探すと日本列島由来の品が出てくるかもしれません)。では言語的には? 彼もしくは彼女が話しているのは英語であり、英語というのは印欧語族ゲルマン語派西ゲルマン語群アングロ・フリジア諸語に分類されるイングランド発祥の言語であるわけです。どれだけ遡っても日本列島には行き着かない。「この人は遺伝的には日本列島の出身なのだから、英語の起源も日本列島にあるんだ!」なんて話はおかしいでしょ?
古代にどのような人口の変動があったのかはわかっていません。移民や同化が起きたのかもしれない。婚姻によって遺伝子が混ざりあった可能性もある。その場合、遺伝子の伝播と言語の伝播が異なるルートである可能性もあります。遺伝子はヒトの移動について詳しく教えてくれるけど言語の移動についてはなんも教えてくれないんですよ。せいぜい傍証になるだけ(「言語学の観点からは○○語は××地域あたりが原郷だと思われるが、遺伝学で調べてみたら××地域からの大規模な人の移住があったっぽいので、このときに言語も広まったんだと思われる」みたいな)。
様々な仮説があるのはいいけど、定説化とか定説がエビデンスによって覆されたとか以外はニュースバリュー無いと思うんだが、なぜ報道されたのか。
いやー、Natureにマックス・プランク研究所の研究者が載せた日本に関する斬新な論説をニュースにするな、という方が無茶じゃないでしょうか……
正直、これメディアを責められないと思うんですよね。実は著者のロベーツさん、去年オックスフォード大学出版会から『オックスフォード版トランスユーラシア語族ガイドブック』なんて本を出してるんですよ(Robbeets and Savelyev 2020)。天下のオックスフォードUPから『~語族ガイドブック』なんて出てたらその語族の実在は学界の定説になってるって勘違いしちゃうのも当然っていうか……これ、今回は日琉語だから気づけたけど、パプアニューギニアの言語とかでやられたら引っかからない自信ないです。
なおその『ガイドブック』には辛辣な書評が出てます(Vovin 2021)。掻い摘んで批判の内容を紹介すると、「分析されてるのが現代語ばっかりやんけ」「系統関係があるって言うなら明確な対照表を示してみろや」「中期朝鮮語の再建がおかしいけどちゃんと韓国語の先行研究読んどるんか?」「“leading international scholars”が書いたガイドブックって謳ってるけど著者のうち6人は院生じゃねーか」みたいな感じです。さらには、
We move now from the bad quality of research to the realm of science fiction in Table 39.1 that is supposed to present core Koro-Japonic etymologies. But there is at least one mistake and/or data fabrication on every line. (Vovin 2021: 126)
これは元増田でも書きましたが、大野晋は、少なくとも日本語の起源という点については完全にトンデモです。
タミル語はドラヴィダ語族というインド南部の語族に属する言語ですが、大野は「日琉語族とドラヴィダ語族はより大きな語族に内包される」というありえそうな穏健な主張ではなく「日本語の起源はタミル語である」という主張をしています。しかし「なぜドラヴィダ語族全体ではなくタミル語と比較するのか」「ドラヴィダ語史がまったく考慮されていない」「語義の解釈がおかしい」「サンスクリット語からの借用語に気づいていない」などのツッコミに対して有効な反論ができていない上、ツッコミを受けた箇所をしれっと書き換えたりツッコミを入れた人たちに人格攻撃を加えたりしています(長田 1998;児玉 1996;山下 1996; 1998)。やり口がもうきちんとした学者のそれではありません。
大野の語源論が誤っている一例として、amarar「不死なる者」という単語について挙げておきます。大野はこれを日本語「あま」と関連付けて「天上界の人」の意だと解釈するのですが、これはサンスクリット語amara「不死の」からの借用語です。これはさらにa-maraと分解でき、a-は否定の接頭辞、そしてmaraの語根mrは英語murderやmortalとも関連しています(つまり、印欧祖語に遡る語ということであり、どう考えてもタミル語起源の単語ではない)(山下 1996: 204–205)。
日本祖語から琉球語、もう片方の枝が本土語と八丈島語に分かれた系統図を覚えてたんだが、あれからずいぶん研究が進んでるんだなあ。/20年前に既にずいぶん版を重ねた本で得た知識だから当然か…。
五十嵐(2021)の説は発表されたばかりなので「定説」といえるほどではないですが、きちんとした分岐学的手法に基づいて系統解析してるんで個人的には信用してます。
で、従来説における八丈語の位置づけですが、正確には、「上代東国語の唯一の生き残りが八丈語」というものです。つまり、「本土日本語派」がまず上代日本語(OJ、奈良など当時の首都で使われていた言語)と上代東国語(『万葉集』の東歌と防人歌に痕跡が残る)に分かれ、後者が八丈島(&青ヶ島)以外では滅んだ(=上代日本語に同化された)ため、現代では八丈語が日本語と対立するひとつの語派を形作っているということです。
系統樹にするとこんな感じ(樹形図をどう書けばいいのかわからないんでとりあえず「うんこするの?」の樹形図からコピってきたんですが、見づらかったらすみません)。
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この樹形図から絶滅した言語を取っ払って現代語にのみ注目するとこうなります。
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├─八丈語
それに対して、五十嵐(2021)は、上代東国語は滅びたわけではなく、表面上は関西からの影響を受け続けたものの、現代の関東・東北地方の方言として生き延びていると主張しています。つまりこういうことです。
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八丈語が際立って特殊に見えるのは、この言語が失われた東国語の唯一の生き残りだからではなく、他の東国語の末裔(茨城弁とか)と比べて中央からの影響が少なかったため東国語の特徴が保たれたおかげだ、とするのが五十嵐説です。
要するに、「東国語は滅んだ(=東国語話者が完全に同化された)」のか(従来説)、それとも「東国語は生き残っている(=東国語話者は中央からの影響を受けたけど完全に同化されはしなかった)」のか(五十嵐説)、という違いです。個人的には後者が妥当じゃないかなーと思うんですが、どうでしょうか(だってそんな大々的な言語置き換えはどうやって起きたの? ってなりません?)。
なお、五十嵐(2021)だけでなく、元増田でも言及したローレンス(2013)も、八丈語には他の東日本の諸方言と共有される要素が見つかり、それは西日本の諸方言には見られず、したがって八丈語は東日本の諸方言の内に位置づけられる(=八丈語と本土日本語が対立する系統であるとする旧来説は誤り)と主張しています。
”日本語に興味のある&研究手法を学んだ”素人には、この論文の言語部分はとても怪しい。増田の指摘以外に日本語の粟を他言語の大麦の借用としたり、味噌(未醤)を漢語ではなく朝鮮祖語からの借用にしたりしてる。
実は増田もそれを見たとき「えっ……?」って思ったんですが、否定できるほどの根拠を持ってないので書きませんでした。確かに先行研究では意外な言葉が朝鮮語からの借用語だとされてることがありしょっちゅう驚いているので(たとえば「つち」とか)、「味噌」が朝鮮祖語からの借用というのをありえないと即断することはできないんですが……。
いちおうここで論文の内容を紹介しておくと、『鶏林類事』に[mitsu]という語があって、そこから朝鮮祖語*micuを導き、平城京の木簡にみえる「末醤」から上代日本語の*misoあるいは*misəを再建し、それは朝鮮祖語*micoもしくはその交替形*micʌからの借用である、という議論になってます。これだけじゃ門外漢の増田には当否がわからんのですが国語学的にはどうなんです?
なお、該当箇所に、
...This fragment preserves the following inscription: 御末醤一石二斗, i.e. HON-“bean paste” reads as miso. The Wamyoshō, a Chinese to Middle Japanese dictionary compiled in the mid Heian period has the same kanji (末醤) glossed as miso (美蘇)...
とあるのですが、「一石二斗」の部分いらなくね? とか、転写するならWamyōshōじゃね? とかはケアレスミスの範疇だろうから突っ込まない方がいいのかな……
マイルCS、グランアレグリアが有終の美を飾ってくれて最高でしたね……あとはコントレイルがジャパンCで有終の美を飾ってくれれば……実はまだ「三冠馬が勝つ」ところを見たことがないので、一度は見ときたいなぁと(にわかですいません)。
本当に素人なんだけど何でみんな信じてくれないんです……?
自分の頭を整理したくて書くんだが、
炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか @gendai_biz
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864 #現代ビジネス
ここで言われているような「意味づけ」って一体何が問題なんだろう。
小宮さんの主張はだいたい以下のように展開すると理解している。
(1) 「性的な女性表象」はしばしば「女性は性的客体である」という差別的な女性観を前提として作られる。
(2) ある特定の女性観を前提として表現を作ることは、その前提を用いた女性一般に対する意味付けとなる。
(3) (1),(2)より「性的な女性表象」は、しばしば「女性は性的客体である」という女性一般に対する意味付けとなる。
(4) 同様の差別的女性観を前提としてなされる行為は、表象の外にもあふれている。
(5) 女性のうち、表象の外でその手の差別的言動に苦しめられている人は、(3) のような意味付けを行う「性的女性表象」に累積的抑圧を感じる。
で、私がまだ飲み込めてないのは、(1) と(2) なんですね。
とりわけ「意味づけ」がまだしっかりと飲み込めていない。
というのも、小宮さん自身指摘する通り、ここでいわれている「意味づけ」って表現作成者の意図は無関係なんですよね。
差別する意図がなく、単にお約束的なパターン化技法を使うだけで意味付けが成立することになる。
というか、むしろ女性を表象するお約束的なパターンなのが問題にされてるように見える。
以下で引用する「第一に〜なっています」という部分が、まさにそう書いているように見える根拠になる。
「第一に、これらは圧倒的に、女性を性的に表象するための技法です。男性が同じような技法で表象されることはあっても稀で、実際こうした表象の数における男女間の非対称性はあきらかでしょう。「女性」を性的に表象するときに繰り返し用いられるパターン化された手法であるという点において、これらは単に個別の女性を描くためのものではなく、「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づけるものとなっています。」
女性を表象するお約束的なパターンとして女性をしかじかの形で描いていることは、単に個別の女性を描くために使われているんじゃなくて、女性というカテゴリーを性的客体として意味づけるものとなる、と言っている。
これが成立するってめちゃくちゃ不思議じゃないですか? 個々の作者が特定の女性観を持っているか / 前提しているかとは一切無関係に、表現の表面的な特徴を切り取って、それが特定の意味を持つから作品全体もそうだって言いたいってことなんでしょうか。でも、これって、表現の読み方としてめちゃめちゃ不自然じゃないですか? 作者が思ってもないことが明白なヤバい命題を、作品のメッセージにするんですか? ふつうの典型的な対面コミュニケーションなら、相手がそう意図していないのは明らかなメッセージを、相手のメッセージと受け取るなんてことしないですよね? と、少なくとも今の自分は思ってる。
フィクションの女性をお約束パターンで描くというのは、現実の女性がどうであるかと無関係に、単に「フィクション女性」を一定のやり方で書いているにすぎないってことですよね。お約束パターンというのは、「俺/私がフィクションの女性を書くというのはそういうこと」という前提に基づいてそう書いているということです。したがって、個々の作者は「現実も含めた女性一般は性的対象である」(露骨に言い換えれば「現実も含めた女性一般は、男を性的に喜ばせるための道具だ」ということ)というヤバい前提のもとに描いてると考える必要はない。 男も女も主体性をもった人間じゃないですか。当たり前ですよね。現実世界でセクハラは駄目、無理やり強要は駄目、「嫌よ嫌よも好きのうち」じゃない。性的同意は性的同意。フィクションに対してお約束パターンを使ってるってことは、女性の意味付けにつながるんじゃなくて、むしろ逆に、現実の女性にたいするある種の命題へのコミットメントを逃れていることになる。
つまり、そんなヤバい前提を持っているかどうかと、作品内でフィクション女性を一定の仕方で描くことは全く独立ですよね。フィクションの女性が特定の仕方で描かれていても、女性全般に対する作者の見解が現れているとは限らない。ファンタジーを楽しんでるだけなのに、現実世界に対するある種の命題にコミットメントしていることにはならない。
そして、ふつう私達は、コミュニケーションにおいて、相手の意図を読み取ろうとする。表現の場合なら、作者の意図を読み取ろうとする(ここは必ずしも現実の作者じゃなくてもよくて、「理想的な作者」「作品から合理的に復元された作者」のメッセージとかでいいです。)。ところが作者は特定の女性観なんか持っていない(少なくとも、持っているとまでは確証を持って推論できない)。したがって、特定の仕方で描かれている個々の作品に対して、現実の女性が性的対象であるというメッセージを帰属させるのもおかしい。
にもかかわらず、小宮さんの論によれば、個々の作品はある種の意味付けを行っていることになる。それがよくわからない。意味付けって、女性はこういうもんだって人々に思わせるってことなんだろうけど、じゃあそれを誰が何を言っているというメッセージとして受け取るのか。
つまるところ、「意味づけ」がわからないというのは、「ある特定の女性観を前提して作品を作る」という言い回しが、実際のどういう営みと対応しているのかわたしにはさっぱりわからないことだ。誰が、どのような仕方で前提しているのか。本当にそれは作品を作っている人(つまり作者)と同じ主語にしてよいのか。
ふつうの会話にでてくる「前提」を比較として出しても良いかもしれない。たとえば、言語学的な「前提 presupposition 」ならば、前提に基づいて何かを発話することが発話者のコミットメントつながるし、発話者のメッセージとしたってよいでしょう。
たとえば、" The King of France is not bald" と発話しているならば、定名詞句"The King of France"が焦点位置にあらわれていて、発話者はフランス国王の存在を前提している。だから、非明示的なメッセージとして、「フランスに国王がいるのだ」とその発話者は暗に主張するといっても全くおかしくない。聞き手は「いやいや、そもそもフランスには国王はいないから」と有効に反論できるし、それに対して話し手は「あーそうなんか、すまんかった」と謝るほかない。
でも、ここで言われている「女性観を前提」はもっともっとゆるい意味で、なんなら個別の作者の意図にさえ帰属させるのは合理的ではない。にもかかわらず、表現が持つメッセージになってしまうと小宮さんは言っている。その広告を見て聞き手が「いやいや、女性はお前を喜ばせる道具じゃねえから」なんて言い返そうものなら、話し手は「いや、そんなこと思ってないしどこにも描いてないでしょ」と合理的に言い返せるにもかかわらず。単にファンタジーとして楽しんでいるだけであるにもかかわらず。
という感じで、さきに述べたようなことから「意味づけ」がなんで成立するのかがさっぱり理解できない。
但し書きとして描いておくけど、フィクションをフィクションとして理解できない方がいらっしゃるとか(お子様とかね)、こっちがフィクションとして楽しんでいるだけであることが読み取れない方がいらっしゃるとか(オタクの生態に詳しくない人とか)、そういう人々が現れること自体は全然おかしくない。そういう一般人たちが多くいるところに作品を置くと、誤って読解した人が傷ついちゃうからやめましょうと主張するんなら、(受け入れるかはともかく)理解できなくもない。でも、それって作品を誤解する人が出てしまうからやめようという話でしかなくて、作品自体が何らかの意味付けをしたことにはならないでしょ。作品ないし作者を主語にして、「意味づけ」という行為をしたと帰属させる必要はないでしょ。それ自体の悪とやらを語る必要はないでしょ、と思う。
以上が現時点での疑問点です。頭の整理を終わります。
アプリ上の残高が期間限定ポイントの111ポイントのみでも、 アプリ側にセットした200円引きクーポン(201円以上で有効)が使えるかと思って、 290円ほどの小物を買おうとレジでd払いのバーコードを読んでもらったら、 エラーになったので、200円クーポンは諦めて、いつも使っている楽天ペイで支払った。 d払いのクーポンキャンペーンサイトをよく見てみると、 クーポン分の金額は店舗側のレシートには表示されない模様。 これはおそらく、クーポン分の決済は、d払いのサーバ側での処理っぽくて、 店舗レジでの決済時には、店舗での決済金額分がアプリ側の残高に入っていないと、 残高足りないですよエラーになるっぽい雰囲気。 追記: 残高ではなく、クレジットカードを登録して使える事に今更ながら気が付いた…。
ストーリークリア、準伝を捕まえたところでひと段落して、所謂「ダイパキッズ」による素直な感想を書きたいと思う。ネタバレ注意なので買うことを悩んでいる方には読むことを控えていただきたい。
ではまず簡潔に箇条書きで。
・二頭身グラは慣れてしまえばなつかしさを感じられた
・ちかつうろのアップグレード
・バグの多さ(特にデバッグで取り除ける程度の簡単なバグの量)
私たちダイパキッズは、リメイクが「最新ナンバリング作品の技術で作られるもの」であると思い込んでいたようだが、そうではなかった。
剣盾のグラフィックを期待していたダイパキッズの夢は、初期トレーラーのパワプロ女主人公によって見事に打ち砕かれたのだった。
「剣盾グラのダイパをやりたい。」その気持ちが無くなった訳ではないが…プレイしているうちに二頭身への違和感はうすれ、当時を思い出しながらプレイできたのでパワプロも必ずしも悪いことばかりではなかった。
地下大洞窟には原作では序盤で捕まえられなかったポケモンが生息しており、そのポケモンと共に旅をするのが楽しかった。
自分はそこでつかまえたポケモンを進化させ、ベロベルト、トゲキッスと共に旅をした。
なつかしさの中に新鮮さを感じるとてもいいアップグレードだった。
まずリョウのドラピオンにすばやさで負けた時には本当に驚いた。上からクロスポイズン急所を叩き込まれトゲキッスがやられたときはマジで焦った。
その後も「ちいさくなるかるわざバトンを決めてくるフワライド」、「トリルをめちゃくちゃ有効活用してくるゴヨウ」と本当に強い戦術を駆使してくる上に
極めつけは「さめはだ 剣舞 ドラクロ じしん ヤチェのみ ガブリアス」「かえんだまミロカロス」を使ってくるシロナさん。
「シンオウの猛者たちとたたかってるんだ」という感じがとてもよかった。(ちょっと強すぎる気もしなくもないけど…)
広告展開を見るに大人がターゲットである、というのは勘違いなのかと思わせてくるゲームの中身。
「一度ゲームから離れた」大人がターゲットならば、大人であっても自分はそこからは外れていると言えるが…。
大人になってもゲームが趣味で、ダイパリメイクを期待して待っていた層も間違いなくいたはずで。
その「ダイパリメイクを待っていた大人視点」からするとこの出来は期待外れだったと言えるだろう。
なぜ期待外れかというと、先ほども話した剣盾グラの話であったり、リメイクで深堀りされると思っていたシンオウの魅力である神話についてだったり、そういうものが決定的に足りなかったリメイクだからだ。
10年以上前のゲームの中身をそのままに、3Dモデルを刷新しただけのゲームでは、このリメイクが出るまでの間のゲームの"進化"を経験してきたダイパキッズを満足させるものになる訳がないのだ。
それにだ。もしターゲットが子供だとしても、あのダイパリメイクが今の子供を満足させるに足るものなのか?という疑問もある。
今の子供たちがSwitchでやっているゲームといえば、剣盾、マイクラ、BotW、Splatoon2あたりだろうか。
最新ゲームの素晴らしいゲーム体験をすでに得ている子供たちが、中身が10年以上前のゲームであるダイパリメイクをプレイして本当に面白いと思えるのだろうか?
当時HGSSをダイパと同じくらい楽しいと思っていたように、ダイパリメイクを遊んで剣盾と同じくらい楽しいと思える、いや最低限楽しめる作品なのだろうか?
私たちダイパキッズには「懐かしい」という補正があるが、子供たちにはそれがない。今の子供たちがどう思っているか聞く由もないが…HGSSと同じ感覚でダイパリメイクを遊んでいたとしたら、私はキッサキシティへ向かう道中、テンガン山の山腹で凍死しただろう。
ならば結局のところメインターゲットはどこなんだ?
当時を忠実に再現したものが「一度ゲームから離れた層」に刺さったとしても、ほかには刺さらない。それでいいのか?
もし剣盾グラで出ていたら「一度ゲームから離れた層」に刺さらないのか?HGSSのように全員が楽しめるゲームになったのではないか?
このダイパリメイクの方向性は全く納得できない。剣盾グラもシンオウの深堀りもアルセウスではなく「ダイパリメイク」でやってほしかった。それだけ。
「ダイパの懐かしい部分」で言うと、ひみつきちの家具は自分の中では筆頭クラスに懐かしいと感じるもの。
良くも悪くも原作完全再現のリメイクじゃないんですか?旗の取り合いはともかく、それ消しちゃいかんでしょ。
ここはリメイクの方針やグラフィック以前に完全に酷いと思う部分。もはや銅像飾るのひみつきちじゃなくてもいいよね?ひみつきちである意味が全くないよね?
ついでに言うと大した使い道にもならないのにかせきほりから銅像出すぎ。1枠銅像でつぶれてるの損してる感じしかない。
これもなぜ消費にしたのか分からない。
剣盾との行き来ができるようになるまで待つだけだよこんなの。なんで?消費に?したの?なんで?ピカブイ消費じゃないよね?なんで?
そもそもレート対戦もないダイパでそこまでガチる必要もないのに。本当になにを考えて消費にしたのかが理解できない。
これが一番ひどいというか、ノウハウがないイルカに依頼したせいで起こるべくして起こった事態。
色んなゲームやってきたけど、これだけの細かなバグが目立つゲームってCyberpunkに続くレベルだと思う。(大袈裟)
小さく頻発しやすいバグが目立というのは、ポケモンというAAAタイトルで到底やっていいことではない。
特に一本道のRPGにおいて、バグで没入感を一々損なわせてくるなんてのは言語道断。
ゲームを面白くすることが難しくても、こういうデバッグすればどうにでもなる部分を放置するってのはただの手抜きに他ならない。
イルカとゲーフリの本気度のなさがうかがい知れるし、個人的に一番ありえないポイント。
じてんしゃがひどいという意見がネットで散見されるが、この原因はじてんしゃではなくマップの当たり判定のつくりにあると思っている。
214ばんどうろの柵を見て貰えれば分かると思うが、めちゃくちゃ引っかかる。マジで引っかかる。なぜそうなるかというと、当たり判定を柵の見た目どおりに設定しているのではなく、タイルごとに当たり判定を設定しているからだ。
これが問題で、リメイクで斜め移動が追加されマップチップに縛られない自由な移動ができるようになったのにも関わらず、当たり判定がマップチップを塗りつぶすように設定してあるからこうなってしまう。
これもデバッグやブラッシュアップの段階で改善されておくべきレベルの内容なのだ。じてんしゃが使い物にならないことくらい簡単に分かることなのだ。
というか作る段階でXYやORASやサンムーンのノウハウがあれば簡単に改善できることなのだ。
さきほどのバグもそうだが、これらのノウハウがないことがイルカに外注することによる決定的なデメリットであり、それを改善せずに発売してしまったゲーフリの本気度のなさもうかがい知れる完成度。
彼は町行く人に尋ねつづけました。「ダイパリメイクはいつきますか…?」「ダイパリメイクの伏線ですよね…?」
しかし、待てど暮らせどダイパリメイクが来ることはなく、なんと初代の再リメイクであるピカブイまで来てしまいました。
当時、FRLGを持っている友達にマウントを取られみじめな思いをしていた彼の記憶がよみがえります。
思わせぶり(こじつけ)な伏線を見つけては期待しはずれ、過ぎてゆく時間。
もうダイパリメイクなんて来ないんじゃないか、そう思っていた時でした。
連れ歩きではない、外にポケモンたちがいる。
「すごい!ついにポケモンもここまで来たんだ!」「このクオリティでダイパリメイクが出たらすごいことになるぞ!」
圧倒的スケールのでんせつポケモンたちや没イベントのまぼろしのポケモンが剣盾のグラフィックで。
ずっと潜っていられた ちかつうろ がリメイクで。
「これ伏線じゃん!」「ポケダイやるぞ!ダイパリメイク発表されんぞ!え、ユナイト?」
2019ー
2016ー
2013ー
2010ー
「2006」
「きたあああああああああああああああああああ」
あの禍々しいオープニング音楽、何度聞いたか。間違いありません。
待ちに待った、ついにその時がやってきたのです。
「あの輝きを、再びー」
パワプロ頭身ヒカリコンチャ
😃
👚
「は?」
「なんだよ、増田ァ!なにやってんだよ!くそ、止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ、
ダイパキッズの悲鳴などお構いなしに、二頭身のその映像は流れ続けます。
「なんの空白だ…?やめろ!」
「ポケットモンスター ブ リ リ ア ン ト ダイヤモンド」
「やめろおおおおおおおおおおおお!!!!!」
おまけに、謎の開発会社である🐬がゲームを開発するとも発表されていましたが、もはやダイパキッズの耳には何も届いていません。
https://anond.hatelabo.jp/20211122102416
そして、広くしたところの満足度が上がるし、多くの場合人は住み比べをしないし、できない。
結局は数千万をかけて建てたものに対し、人は一度必ず満足をするのである。
常識的に考えてスペースが取れるのならばあったほうがスッキリする。自明である。
広くしたところの満足度は上がるし、多くの場合人は住み比べをしないし、できない。
結局は数千万をかけて建てたものに対し、人は一度必ず満足をするのである。
冷えが入ってくるのもあるのだが、樹脂とアルミでは、結露防止性能が神とミジンコほどの差がある。
これはハイブリッド(樹脂-アルミ)でも防げないところがある。
結露防止は躯体の健全性を長期的に保つのに非常に有効であるのだが、
日本は「結露?するもんだろ?」という認識がまかり通ってるため、
そういった諸々で住宅寿命が諸外国と比較してめっちゃ短い(国交省によると30年程度)。
樹脂サッシが耐久性に難があるという印象を持たれがちなのも間違いあるあるだ。
加速試験ではない実際の耐久試験が30年以上続けられているが、致命的な問題は今のところ出ていない。
所詮は実家と比較して「結露しにくいね〜〜〜(してるけど)」で終わる。
結局は数千万をかけて建てたものに対し、人は一度必ず満足をするのである。
気密性が高い方が熱効率がいいのは確かであり、24時間換気の「有無」によらない。
要は「どの程度の24時間換気を行うか」の設計と運用が熱効率に重要であって、
気密性が高いことによって「任意の場所から吸って、出せる」ことも
大きなメリットだろう。我が家は空気の出口付近にゴミ箱を設けることで夏場も匂いが気にならない。
所詮は実家と比較して「すきま風少ないね〜〜〜(あるけど)」で終わる。
結局は数千万をかけて建てたものに対し、人は一度必ず満足をするのである。
窓を適切に設けることや日射取得/遮蔽を適切に行うことで、
天然でクリーンな太陽光を取り入れて精神衛生と熱効率を同時に得ることができる。
まず、自分の家にどのように光が入ってくるのか?家を建てる時にはそこから見るものだ。
確かに、隣家と密接していたり、太陽光が照射しない北側に窓を設けることは熱効率を悪くする。
しかし、適切に光を取り入れる側に(ひさしやシェードで夏場の遮蔽を考えられて)窓を
大きくとることは家を建てる前にしかできない重要な設計項目の一つである。
所詮は実家と比較して「暗いけど暖かいね〜〜〜(寒いけど)」で終わる。
結局は数千万をかけて建てたものに対し、人は一度必ず満足をするのである。
熱効率も家屋の寿命も、それが自分の愛する何かとトレードオフであることを
きちんと正しく捉えている限り、人は自由に愛する要素を家に盛り込むべきだ。
多くの場合、人は住み比べをしないし、できない。
【下に追記あり】
親の介護が終わり、自分の介護が必要になったとき、家族のサポートがない老人は困難が付きまといます。
20年後から30年後にある、新しい技術のネット通販的なものはやり方がわからない。
電球が切れたけど交換ができない。
洗濯物を干したいけど重くて持てない。
毎日のように病院通いだけど、歩くだけで足腰が痛い。通院がつらい。
連絡を取りたいけど、友達も気力がなくて連絡がこない。
同じような困りごとを抱えている老人なので、連絡しても頼りにならない。
老老介護ですね。
いまなら、ネット検索等を使って、公的支援や私的サービスを含めて、最適なサービスを選んでくれます。
同居していなくても、ケアマネ等と話し合って必要なものを決めてくれるだけでも大助かりです。
結婚してない、子供がいない、頼れる人がいない孤独な老人が今どうしてるかって?
(訪看じゃないよ。個人に雇われて24時間看護師がいるんだよ?すごくない?)
そこまでいかなくても、コンプラがしっかりしてる豪華な有料老人ホームにはいれば、
最低限の生活はできるでしょう。
入居金だけで数千万ですが……
訪問介護は、決まった時間に決まった支援しかしてくれないから、
小指の爪が剥がれたら、痛いよね。何もする気がなくなるし、痛みのことしか考えられないし、痛くて寝れないよね。
そういう痛みや苦しみが複数、24時間365日、何年も終わりがなく続いていくのが老後だよ。
それを少しでも避けようと、老後のコミュニティ維持を考えて結婚出産してる人も一定数いるよ。
結婚しない子供を産まないのは自由だけど、健康寿命と平均寿命の差は10年くらいあるからね。
お金をいっぱい貯めたほうがいいよ。
以下追記
前から思ってたけど、はてなの人は老後のリアルを知らないのかなー。
人間関係が貧困な人は、それ以外も貧しい確率が高いんだよね。多重貧困。
これがつらい。
あと、介護の現状が知りたい人はヘルプマンって漫画をとりあえず読むといいかも。
http://sonorama.asahi.com/series/helpman.html
老後は友人同士でっていうのもいいけど、友人も同じように老いることは考えたほうがいいと思う。
あと、認知症(みんなが想像するであろうアルツハイマー)は急にはならないんだよね。
徐々に進行する。
初期のMCI(軽度の症状)くらいの時には、家族のサポートがすごく有効。
買い物に行って、何を買うのかたまに、少し抜けてしまう、ってときに買い物同行してあげるとか。
長年住んだ家で、日常生活が手続き記憶になってる場合、軽度のうちは、家族のサポートがあれば暮らせるケースが多い。
そのほうがQOL高いケースが多いと思う。
あと、私個人は、家族が排泄 入浴 食事の介助をするのは無理だと思ってる。
だから施設に入れてほしいんだけど、安くすむ特養は空きがないし、要介護3以上じゃないとは入れないし。
みんながイメージする老人ホームは、介護付き有料だね。たぶん。死ぬまでいられるところ。
老人3人につき、スタッフ1人いるから、人件費がかかるんだよ。
いいところだと、2.5人だったり、2人だったりする。さらにお金がかかるね。
安い老人ホームの闇も、ヘルプマンに書いてある。住宅型だけどね。
住宅型とか、介護付きとか急に言われてもわからんよね。そういう説明もしたほうがいいのかなー。
要望があれば。いまは出勤前で忙しいのよ。
お子さんがいてくれるだけで、こっちは助かるんだよね。
保佐人や後見人は、介護施設に行くことは決めてくれるかもしれないけど、
認知症の進行の悩みについての、本人の相談話兼愚痴話を聞いたりはしてくれないんだよね。
本人が困らないように、過去の人生を踏まえて荷物を用意したりもできないんだよね。
今までの愛着のある品物とかも全部捨てられたりする。古いよねとかいって。
後見人は決まったこと以外はできないから、そこから漏れ落ちる諸々がたくさんあるんだよね。
つい先日まで揉めに揉めていた 仁藤vs米山の泥沼戦争が「温泉むすめ」という共通の敵の出現により一気に鎮火した。
なぜ左派はオタクを叩くのか?という疑問の答えはやはりこれだと思う。
インターネット上で意見の異なる人々が団結するためには、「キモオタ叩き」は有効なのだ。
・いつでも叩ける
・オーディエンスにキモオタの醜悪さを共有する際、オタク絵だけを表示すれば良い
特に重要なのは、ネットにはキモオタが常駐しており、叩けばすぐに群がってくれるということだろう。
これによってSNS上のアテンションを一気に集めることができ、他の話題を中断して対オタクでの共同戦線に持ち込みやすい。
また、他の政治的な話題だと叩く論拠としてどうしてもある程度の長さのテキストが必要になってしまう。
しかしキモオタ叩きは画像+キャプションだけで成立するので非常に簡単にオーディエンスを稼げる。
オーディエンスの基本使用デバイスがスマートフォンである事を考えれば望ましい性質と言える。
ネトウヨ叩きは一時このポジションだったが、とくに20代以下の世代では熱心なネトウヨが減少しており、反論やアテンションを集めづらくなってきている。
いくら叩かれても消えないキモオタという存在はますます重要な政治的資源となっていくだろう。
異なる意見を持つ人間が議論によって団結することは非常に難しい。というかほぼ不可能である。
むしろ議論すればするほど敵対者が増え、内ゲバのような構造になってしまうのが左派の歴史だった。
結論から言うとそんなことできっこない。しかし、公益を保つための統制なら次の幾つかのルールを守ればやっていいのではなかろうか。
デマを拡散したいがためにエビデンスと逆行するのであればまあ捕まってもしょうがない。ただし、感情論での議論はここで考えない。でも最近厄介な奴らは理論的な話できないからなぁ。フェミ然りウェイ然り。
言論統制のために監視社会を導入するということは無様だ。そんなことをしないと成り立たない国家ほど惨めなものはない。あくまでも目立ってきたら切り倒すだけ。
容疑者になったら静かに捕まえてどこかにでも送る。北とかいいかもしれない。人手を提供して代わりに現在の問題を解決してもらう。取引カードとしては有効だ。
証拠のない感情論的思想論的政治的意見ほど有害なものはない。そんなことをよく喋る鸚鵡に喋らせたら、被害者が増えていく。とっ捕まえないと。逆に言えば、証拠や骨のある政治的意見はたとえ右派でも左派でも推進されなければならない。
放送免許を年限制にして更新には査察や試験をパスしなければならないと言う仕組みが放送免許年限制。之を導入しない限り政治的中立制は保たれない。政府のゲンロンカイニュウガーと言ってる奴らは放置に放置されまくった報道機関の現状を見てほしい。中立なのはテレ東くらいだろう。
さらに財務体質は積極的に逐次チェックし、法律違反があればいつでも経営陣を豚箱送りが最低限ラインだろう。そうでないといつまで経っても守らない。また、親会社に多少の影響を受けるのだから、親会社の報道的中立性を検討し検査するための法整備機関創設は免れられない。
また、大手ネットメディアに対しても同様に適用し、デマを抑止しなければならない。結局モラルが云々よりも力がデマを防ぐのだ。
知恵を貸してほしい
新しく赴任してきた上司が
「コロナだけ騒ぎすぎ、インフルエンザのほうがたくさん死んでいる」
「ワクチンで2000人死んだ」
「〇〇支店の社員の親戚(80代)がワクチン打った翌日に死んだ。ワクチンさえ打たなければ死なずに済んだ」
「ワクチン打ったのに世界中でコロナ再拡大している。よってワクチンは効かない」
「ワクチン打って一時的に免疫を得られても効果が薄まったらまた打つの繰り返し。一生打つつもりか」
「日本でコロナの死者が少なくすんだのは日本人の生活習慣が欧米と違うせい」
「ワクチンが効いた証拠もないのにどうしてそんなに信じられるのか」
「俺から見たらワクチン打った増田さんこそ感染する危険性がある」
「宗教じみている」
これに対して
「ワクチンを万能とは思っていない、でも感染しても重症化が防げる」
「8月の感染者は1日25000人を超えていたが11月現在は200人前後、この期間に変わったことはワクチン接種率。日本人の生活習慣は変わっていない」
「なぜ国によって感染率や死亡率が違うかは分からないが感染率を下げるための方法を一つ一つ実践すべきでワクチンは最も有効とされている」
「ワクチンさえ打てば良いとは思わない。マスク、手洗い、消毒も続けるべき」(上司は喋るときだけマスクを外す)
「正直私もコロナ感染しても重症化する気がしない、でも高齢の親にうつしたり他の人に被害が行くのが嫌だ」
「ワクチン接種率の高い国でコロナ再拡大した理由は分からない、日本より早く打ったから効果が薄まったのかもしれない、だから日本も3回目を打つ方針を政府も出している」
「時間が経てば効果が薄まるにしても接種後の感染率死亡率が明らかに下がっているのだからパンデミックを防げて病院がパンクするのを防げる」
「コロナ初期は死者に高齢者が多かったが高齢者からワクチン接種していくと高齢者の死亡率が下がった」
「分かりました、ワクチン打ったら死ぬとしましょう、でも一人で死ぬんだからいいじゃないですか。コロナは感染病だからコロナで死ぬときはほぼ確実に身近な人間を巻き込んでいます」
「はっきり言いますと一人で死んでくれるなら文句言わないです。うつされるのが嫌なんです」
ということを言った
最初は忙しくて打ててないのかなと思ってこっちでワクチン受けられるよう手続きしてあげようと思ってた
でも聞いてみたらバキバキの反ワクだった
と言うので堂々巡りになる
「いやワクチン打ってない人が周りにいないんで知りませんね」
「あちゃー、そうなの?(驚)」
温泉むすめを擁護したい人からの嫌がらせではないとしたい人たちからのリプがすごい気持ち悪い。相手にするのもアホらしいですが、Colaboや私の電話番号は使われていませんでした。どなたかの番号を悪用している可能性があるため、画像では隠しておきました。😩〜 https://t.co/AZLqruXORR— 仁藤夢乃 Yumeno Nito (@colabo_yumeno) November 18, 2021
ネット注文の際に入力する電話番号は電話連絡が必要になった時初めて使われるものでいちいち有効か確認なんかされないので適当に入力しても問題なく注文可能である
適当に入力された番号が関係のない誰かの物である、あるいは攻撃者が悪意を持って関係のない他人の電話番号を使用した可能性を考えるとネットに公開する際にそれを隠すのも当然の処置である
こんなことは常識があればすぐわかることなので、電話番号が仁藤さん本人の物であると勝手に思い込んで内部の犯行だと言ってる小倉秀夫弁護士は仁藤さんを叩きたくて目が曇ってるか、ただのとんでもないアホである
この件に関して別に明確におかしなところや仁藤さんの自演を疑うような根拠は特にない
私は基本的にはまったく「怒る」ということはしないのだが、でも、教育上、「怒り」はある程度は必要だと思っている人間である。なぜなら言語やロジックが分からない人間に対しては非常に有効なコミュニケーションの手段だからだ。(今回の「怒る」は大声で怒鳴る怒りを指してる。) あと、自分の考えを纏めながら書いているので、少々読みにくい文章になるかもしれない。怒らず、ご容赦頂きたい。(私なりのジョークである。)
例えば、ある人間が危機的状況に陥いったとしよう。たとえば、小さい子どもが火の中に手を入れようとしたり、道路に飛び出しそうになったりしたとしよう。そのとき咄嗟に大声で「ダメ!」と言ったとしても、それはその危機的状況から救うための「怒り」である。また、こういう危機的状況の陥いるとき、本人はなにかに夢中(たとえば、ボール遊びに夢中で道路に飛び出しそうになったとか)で危機に気づいてなかったりする場合が多く、そういった子どもに、普通に話しかけても聞かないことも多い。なにかに没頭している子どもを気づかせるために「怒り」をつかうのだ。そうすると、子どもは静止する。
では「怒り」の相手が大人だとどうだろう?正直、子どもが相手よりかは、「怒り」の必要性がそこまでないと思う。なぜなら、相手は話せばわかるし、論理も通じる場合が多い。だから正直「怒り」が必要な場面があまり思い浮かばないことが多いだろう。アンガーマネジメントをしっかり行なうべき状況が多いように感じる。しかし、その怒る状況が思い浮かばないからといって、私は基本的に「怒り」は必要ないと言い切ってしまうのも恐ろしさを感じる。やはり、「怒るべき」ときに適切に怒るべきでなのだ。ある程度の感情表現は必要だと思うからだ。
また、しかしながら、大人であっても相手がやはり「言葉」や「論理」が全くつたわらない人間であって、または、相手を救う状況の「怒り」は存在するように私は思う。例えば、部下が客先でミスを犯したとしよう。それで上司が「なんてことをやったんだ!」みたいな「怒り」を表現したとしよう。そうすると、クライアントが「まぁまぁ、そんな部下もがんばってるんですよ」とフォローをする。そのような茶番だが、でも結果的に、部下を救っている。ただし、このような場合であっても「怒り」でなくても部下を救う手立ては他にもあっただろう。ただ、沢山ある選択肢の中で、「怒り」選んでいることは尊重するべきだ。
あと、「危機的状況」を救うための「怒り」もよくよく考えたら、工事現場のおっちゃんも怒鳴るのが多いように思うのは、おそらく本当にミスったら死に直結することが多いからだろう。論理的になぜ「ダメ」というのを説明して辞めてもらうより、直感的に「ダメなこと」を覚えてもらう、体に覚えこませる方法だ。論理的に考えさせると、手遅れパターンだ。その場合は、「怒り」は有効な手段である。その場合は、なぜダメかよりも、とりあえず、「ダメな行為」を覚えこませるために怒鳴るのだ。工事現場のおっちゃんの偏見が入っているが、しかし、工事現場以外にも、論理的に考えたら作業的に遅れる場合、「怒り」を表わすのは他の職業でもありうるように思うし、その時に優しい口調で諭したらたぶん、作業自体が遅れる場合、も多いにあるだろう。時間というのが大事で遅延に損害が発生るう現代において、こういうことは多いにありうることは想像に難くない。
とまあ、いくつか「怒り」のフォローをしてみた。ただ、始めにもいったが私はそこまで「怒り」を表現することは殆どない。そういう恵まれた状況だからというのもあるだろう。しかしながら、「怒り」という表現を排除するのもなんだか寂しい、ように感じるのである。喜怒哀楽は人間に備わっている表現だ。感情表現のない上司は、ハードボイルドさもあり、クールにも感じる。一方で、熱血な上司もまた、一つの個性をして否定したくないと私は考えているのである。