はてなキーワード: 役者とは
2,5次元舞台、アイドル舞台、小劇場、演劇、歌舞伎、宝塚、ジャニーズ舞台、ミュージカル、海外ミュージカル、海外演劇、能、落語、狂言、文楽、その他古典芸能、劇団四季、ファミリーミュージカル、パフォーマンスショー、アイスショー、ダンス、朗読劇。
バレエやクラシックコンサート、オペラでは、もっとデリケートになってくるのではないでしょうか。
それぞれのジャンルのルールに従いながら、マナーを守って観劇しましょう。
バッグや持ち物は座席の下かひざの上におきましょう。バッグハンガーを前の座席にかけ荷物を吊るすようなことはおやめください。大荷物の場合は、コインロッカーやクロークを活用してくださいね。
3点/5点満点
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I'm full teen!!!!!!!!
「表参道高校合唱部!」というドラマを観て、毎週泣いていたので合唱繋がりでこちらの作品を観た
やはり人の歌声は自分のゆるゆるな涙腺を揺すり、最後泣いてしまった
予想としては本人が部に働きかけて前向きになってくストーリーかと思ってたけど全然違った
まぁこの予想は「表参道高校合唱部!」を観てたからかもしれないけど
・かすみはなぜ牧村の事が好きなままなんだ!普通嫌いになるだろ!
ってか歌の素晴らしさ知って、誤解とはいえ馬鹿にしてくるような男、清々しいぐらいに嫌って欲しかった!
・湯の学の合唱観たら、うたに前向きになったのは良い
ただその前の「自己中な歌手」感が弱くて、変化の振れ幅が少なかった
・「本当は伴奏の子だって歌いたかったんだよ」が伏線になってるのかと思いきや全然回収してなくてがっかりした
最後のアンコール、伴奏無しで歌って皆の願いが叶った感じにしたらもっと感動するような気がした
・権藤の「川の流れを雄大にたたえた姿に感動した!」という台詞めっちゃ面白かった(?)
それ聞いてもっと高校生の等身大に近い歌を合唱してくれたら見やすかったかも
・かすみの中で物語が完結しちゃってて、他を巻き込むとかなかったのが気に入らなさの根源にあるかもな
全体的に役者がうまくて見応えがあった
夏帆、ゴリ、薬師丸ひろ子はもちろんだけど、ともさかりえが非常に良かった
2点/5点満点
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どうせ…と思って期待してなかったから、裏切られた感は無かった
ただただ成宮寛貴がかっこよかっただけ良かった
ただ疑問はたくさんありすぎる
・杉山博の本当の姿はAVに映っていた、より太った不細工な方でいいのか分からなかった
・玉木小百合=デブ女にラブレターを送ったのは一体誰なのか確信が持てなかった(勝手に栗野だと思ってたけど、最後スカウトしてるの観て違うんだと思った)
・智子の父親は本当に不眠症だったの?
・栗野は智子に何で会わないの?マネージャーやってたなら其の後連絡無いの不思議過ぎ
奥田英朗の小説は読んだ事無い(リア充臭がするから…)けど、映画だけじゃ余りにもお粗末だったので読みたいな
とにかく、こと映画に関して飽き性の自分が最後まで観られたのは良かった
こういう系で言ったら、以前観た「風俗行ったら人生変わったwww」なんかひどかったからね
あれも役者さんは悪くなかったんだけどね〜
と、まぁいいです
あなたも心当たりはありませんか?
実は、「役不足」を正反対の意味で使って周りから失笑される光景は日常茶飯なのだ。
お恥ずかしながら、MBAを取得した私も、つい先日まで間違えていた。
「役不足」というのは、役者に対して役が不足であることを指す言葉である。つまり、与えられた役目が軽すぎることを表すのだ。あなたが上司に重要な任務を命ぜられたときに「役不足とは思いますが頑張ります」などとは決して言ってはならない。 (引用元:http://anond.hatelabo.jp/20150901013450)
あなたが上司に重要な任務を命ぜられたときに「役不足かも知れませんが頑張ります」などと言ったら失笑もの。
それは謙遜どころか、任務が自分にとって不当に軽いものである不満を表していることになるんです。
ですから、今日からは「役不足」の代わりに「力不足」や「経験不足」を使おう。
「役不足」の意味を知ってしまったあなたは、今後周りの友人などが誤った使い方をしいるのを耳にするかもしれない。
しかし、そんな友人を失笑してはいけない。なぜなら、分別ある大人は他人の言葉使いの間違いにいちいち触れませんから。
「それでも友人のことが気がかりなんだけどどうしたらいい?」
教えてください。
年1くらいの頻度で食事に誘ってくれる知人がいる。有難がるべきだと思う。でも何を話したらいいかわからない。
相手の家族や地元や病気等の近況、知らないアニメやゲームや役者、再構成された思い出話や共通の知り合いの話、それらと絡んだ世間話を相槌を打ちながら聞く。
「増田はいいよね、心身が丈夫で恵まれてる」などと言うので、実は精神を病んで働けなくなっていることは話せない。「甘え」と言われそうで、そう言われたら否定できない気がする。
今更打ち明けたとして「今まで話してくれなかったなんて酷い、裏切られた」となりそうだ。裏切っているのだろうか。報告の義務はないと思うのだが。色恋沙汰も同様だ。
こうして年々話せないことが増えていく。ただ、仮に話すことに問題や抵抗がなかったとしても特にしたくない部類の話であり、おそらく問題の本質ではない。
「数年来の友人と旧交を温める」こと自体が、時間共有が主な目的であり話題など二の次で何でもよいという認識はある。穿った見方をすれば……、……やめよう。
他に共通の話題がないから、もう何年も会っていないような共通の知り合いの話やなんかに終始してループする。
他に交流もないので知人を例に出してしまったが、この知人に限らず大体の人が仲間内の人間関係の下世話な噂かやや重い人生相談のようなうち明け話をする。
趣味や仕事関係の人間関係であっても、このような話題から逃れられたためしがない。
他人の人生譚を聞くのは別に嫌いではないが、人付き合いが活発で会合頻度の高い人達もいつもこんな話ばかりしているのだろうか。
この増田に「技法といえるほどのものはない」というブクマがついていたので気になった。どの程度のものを以って技法と考えるべきなんだろう。
例えばストーリーの構造分析と組み立てについては、McKee: "Story: Style, Structure, Substance, and the Principles of Screenwriting" あたりがカバーしてる内容は、脚本家だけじゃなく監督や役者目指してる人もシーン分析のクラス等で学ぶけど、そういうのは技法のうちに入らない? Voglerの"The Writer's Journey" は…技法というよりは基礎教養かもしれないけど、必読書っていう評は聞くし、実際役に立ってる(自分は書く方じゃないけど。脚本分析にね。)
もちろんこういうのは「この通り書いたらすごい脚本が書けます」ってレシピじゃなくて、「こう作ったら頑丈で壊れにくくなる」とか「必要なものか不要なものかを判断する基準になる」みたいなノウハウの集積ではあるんだけど。だから全部その通りに書いても凡庸なものになることは多いけど、全く骨抜きのグダグダになる危険は減るわな。
実際の作品としては、むしろ破綻しそうになるくらいのギリギリのバランスを攻める方が面白くて、それが制作上のいろいろな事情からバランスを崩して落っこちちゃうってことはよくあるんだけど。
「徹頭徹尾ナンセンス映画でさ、狂気の中では80年代アメリカ風の青やピンクのカラフルな色遣い、現実はすさんで、臭くて、すえた臭いがするような描写で落差をつけててさ」
「今度マーベルヒーローのデッドプールをやるライアンレイノルズって役者が主人公なんだけど」
「ひょんなことで同僚のマドンナをXXしちゃって、そっから統失もっとこじらせて他の同僚も……って話」
「なんつーか、サイコキラー、シリアルキラーって無個性なんだよな。特にパラノイアだから自分で意図したわけじゃなくて、要するにラリパッパの結果、っていうか。映画自体は駄作だったよ。」
「ひとりだけ忘れられない同級生がいるんだ」
「色白で黒髪がツヤツヤで、最近流行りのちょっとだけ目の離れた涼しげな美人で、誰にでも優しくて、泣きぼくろがあった。これは事実。本当の話。しかも賢くて志望は国立医学部だった。浪人後は知らないが絶対に受かったに違いないよ。すごくキレイな人で女神に見えたんだ」
「俺はそのころいじめられてて、何もうまくいかなくて、彼女の隣の席で彼女を解体する妄想ばかりしてたんだ」
「それ以前も以降も、女性を好きになったことはない。解体する妄想も、最高にキレイな人じゃなきゃ意味なくて、牛や豚や鶏を解体する動画を見て、人体の解剖を学んで、人体ならどういう順序で解体すべきか何度も何度も脳内や紙の上でシミュレーションしたんだ」
昨年急に浮世絵に目覚めた人です。
http://anond.hatelabo.jp/20150815210249
これに対して、
http://anond.hatelabo.jp/20150816024827
こんなエントリを返してみたのだが、風景画などに比べると、人物画は、少なくとも浮世絵というジャンルにおいては、日本は独特の様式で進化してるように思う。
ここで、それについて説明していきたい。
日本人のアイデンティティに関わる部分が多く、絵だけでなく、できれば安保やSEALsにも話を展開できればなんだが、とりあえず筆にまかせて書き綴っていく。
ここで、見てもらいたいのは、ルフィが市川猿之助に似ていないこと。
なぜだろう?
「なにを言っているんだ?」「ワンピースの絵でありゃよくて、役者に似せる必要などないだろ」
その通りだ。
ワンピースであることが大事であり、尾田絵であることが大事であり、役者の顔など関係がない。
ナミもロビンもオッサンが演じるわけだが、オッサンにする必要はないのだ。
役者絵とは、舞台看板に由来するため、元来似せる必要がなかった。
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狭い意味で言えば、鳥居派の絵こそが公式な絵、ワンピースで言えば尾田の絵であり、この後隆盛を誇る勝川派や歌川派の役者絵は、非公式なアンソロジーみたいなものである。
絵はすなわち、歌舞伎の様式美、世界観、江戸の空気を体現したものではならない。
ゆえに、役者絵に描かれる人の顔は、あのように似ていなかったのである。
似絵、似顔絵という、役者に似せた絵にたどり着き、2人の共著の一冊の絵本は世界を変えた。
勝川春章
この二名のうち、勝川春章のほうは歌舞伎の世界観、様式美との調和に成功し、商業的にも成功、多数の弟子をとり、勝川派という一派が出来る。
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顔のみならず、肢体まで正確なデッサンを基本に描いているのがよくわかる。
歌舞伎の雰囲気をそのままに、デッサンは正確、一世を風靡する。
彼は印に「画中造化」(造化とは造物主、天地の法則のこと)を用い、絵の中に神を宿すという気概があったんじゃないかと俺は思う。
ちなみに、葛飾北斎は勝川春章の弟子であり、若い頃は勝川春朗を名乗っていた。
面白いことに、この顔を対象に似せて描くというムーブメントは、男性の顔に対してだけである。
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歌舞伎の女役ならば、オッサンにするわけにいかないのはわかるが、町娘書く場合であっても、テンプレ顔。
正確にはテンプレ顔のなかにも表情はあるのだが、男性がデッサンを基づく顔で、立体造形は可能なのに対し、女性の顔はおそらく3D化できない。
スネオの髪型やカイジのの顎ほどではないが、この顔は立体造形が難しい。
女性の顔については、この後に続く喜多川歌麿については外すことができないのだが、こんかいのエントリでは男性の顔に主題を起きたい都合上、また別の機会にかかせてもらう。
続いては、やはり東洲斎写楽と歌川豊国について触れないわけにはいくまい。
先に写楽に触れよう。
東洲斎写楽、聞いたことはあってもなにがどう凄かったのかを説明できる人は少ないと思われる。
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Webで調べると、「強烈なデフォルメ」と表現されるが、簡素な線は実は正確に人の顔を捉えている。
小鼻の膨らみから、顎の厚みから、少し線を書き足すだけで全て補完可能で、輪郭線の修正は必要ない。
芝居小屋の闇を表現したかのような黒バック。この黒バックは光を当てるとキラキラと光る仕様になっていて、芝居小屋の闇の中で白塗りの人間にスポットライトがあたったような臨場感を醸し出している。
実際、写楽は売れなかったらしい。
なんの実績もないし素性がわからない新人が豪華なデビュー、しかも大コケしているにも関わらず次々と新作発表。
よくみると上手いのにぱっと見で下手、よくみると下手なのにぱっと見では上手い、正確なデッサンの部分があるのに、全体だと崩れた感じ、当時の常識ではありえない色彩感覚、いまだに正体は謎である。
ところで、写楽は商業的には失敗だったが、画家たちへの影響は確かにあった。
写実とデフォルメの高次元の融合、舞台化粧、舞台の緊迫感を受け継いだのは、たとえば
歌舞妓堂艶鏡
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歌川豊国の役者絵とは、ひらたく言えば二次元絵、アニメ漫画の絵の祖になる。
勝川派の始めた写実の路線から、再び二次元絵に舵を切ったとも言っていい。
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歌川派の役者絵は、わかりやすく言えば、たとえ横顔だろうと、正面から見た顔のパーツをつける。
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この流れは、幕末までずっと加速し、圧倒的な作画量を誇る国貞(実質の三代目豊国、自称二代目豊国)、幕末の豊原国周まで続く。
末期がどんなになったかといえばこんなだ
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さてさて、文明開化で圧倒的な強さを誇っていた浮世絵の様式、というより歌川派の様式の人気に陰りがでる。
人物画にふたたび写実との間でゆれうごく。
最後の浮世絵師と言われた彼の晩年は、西洋画の技法を消化し、浮世絵にした。
晩年ともなると、このような感じ。
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絵の上半分の人物の顔は、見えるであろうその通りに描かれている西洋式の絵。
下半分の人物の顔は、正面から見た目や口を横顔に貼り付ける歌川派の様式。
どちらかと言えば、下の絵のほうに力強さ、人間らしさを感じるならば、我々はなんだかんだいっても二次萌えの血が流れる日本人である。
劇画調の漫画は、写実から離れ、劇画という絵のジャンルが出来る。一見すると写実的なようだが、立体造形は不可能。
人物の描き分けも出来ているようで出来てない。あるいは意図的にしない。例を上げるとシティーハンター。
デフォルメしつつも、デッサンもしっかり、例を上げるとドラゴンボールか、であったが、デフォルメだけを受け継ぎ、骨格はデタラメOKになる。
人物はデフォルメでも、背景描写はパースを重視するのも浮世絵的。
っと、ここまで書いてみたものの、安保につなげられる気がしねぇのでここまで。
ちゃんとした美術史や絵の解説書から学ばずに、webの知識と年表と絵の印象だけで語ったんで、間違いもあると思うんで、指摘してくれると嬉しい。
「役不足」という言葉ほど誤って使用されやすい言葉も珍しい。ただ誤っているだけなら良いのだが、「役不足」の場合、正反対の意味に使われるから始末が悪いのだ。そして、その場合往々にして非常に失礼なことになりやすい。
「役不足」というのは、役者に対して役が不足であることを指す言葉である。つまり、与えられた役目が軽すぎることを表すのだ。あなたが上司に重要な任務を命ぜられたときに「役不足とは思いますが頑張ります」などとは決して言ってはならない。
それは謙遜どころではなく、任務が自分にとって不当に軽いものである不満を表していることになる。
もしあなたが「役不足」という言葉を間違って使っていたなら、今度からは「力不足」「経験不足」などの言葉に置き換えるべきだ。そして、「役不足」の正しい用法を知ったあなたは、明日からたびたび周りの人が誤った使い方をしているのを耳にするだろう。そんなとき、 面と向かって注意しては角が立つ。分別のある大人は言葉遣いの間違いなどいちいち指摘しないものだ。もしあなたにいくばくかの親切心があるなら、辞書の該当ページをコピーして赤線を引き、匿名で彼の家に送りつけてあげればよい。
がんばることは基本的に良いことだ。なにごとも頑張らなければ成功はない。
それはそれとして、本邦には誰かが頑張ったことを過剰に評価する風潮がある。
そりゃがんばったんなら成功しようがすまいが褒めてあげればいいんだろうけれど、一部の人たちは「◯◯ちゃんはすごくがんばった」ことを外部へ向けて印籠代わりに使いたがる。往々にして頑張った本人ではなく、頑張ってる◯◯ちゃんを応援する人びとが、だ。
「がんばること」は尊いので、成果物に対するあらゆる批判を封殺することができる。
関わったスタッフはみな血反吐を吐くような努力をして作品を作りました。
アイドルは下積み時代に地べたを這いずるみたいな大変な思いをしました。
うちの社員は毎日残業続きですが誰も弱音を吐いたりせず有給も会社です。
しかし、その結果として、クソみたいな映画やマンガや曲や小説やプロダクツが生産されてしまった場合はどうなのだろう。
Q1. 誰かのがんばりを知ってしまった、がんばってもない俺らはその腐った成果物を批判する権利はないのか。
Q2. 彼ら彼女らのがんばりは仕事をこなす上で当然の努力であり、趣味以下のレベルで消費する俺らにはそんながんばりなど関係なくはないのか。
Q3. いかなるプロセスを経ようはモノはモノであり、俺らは直接にモノそのものと向き合うべきではないのか。
問いに対する答えはこうである。
A2. もちろん関係ある。
神風特攻を思い出してみよう。甲子園の思い出ヘッスラを思い出してみよう。24時間テレビのマラソンを思い出してみよう。
人はなぜがんばるのか、努力するのか。それは「たとえ今は使えなくても、将来有用な経験となるから」ではない。
ジョージ・ミラーも言っている。「真の英雄とは、他人にために犠牲となれる人だ」と。たぶんこれはジョーゼフ・キャンベルからのパク、引用だと思う。
真の努力人とは、自分のためにがんばる人ではなく、他人のためにがんばれる人だ。
俺たちはもっとがんばりを評価すべきだ。むしろ、がんばりだけを評価すべきだ。
Aさんが2時間かけて作った最高品質のプロダクトより、Bさんが二十時間労働を百日つづけて作ったクソプロダクトのほうが価値は高い。その価値を市場価値や世間的な評価に反映させるべきだ。
なぜならがんばれるということはそれだけ真剣だということだからだ。思いがつまっているからだ。真剣な人は傍目からどれだけ滑稽におもえても、偉いのだ。
効率や品質などという上辺だけの評価軸に踊らされるべきではない。もっと人間を見よう。モノの内部に宿った魂を見よう。
がんばってできない人は、がんばらなくてもできる人より、時間や金をかけている。その見返りを与えてやってなにがいけない。
考えてもみろ、俺たちだって人のことを言えるか? がんばらなくてもできる人か? がんばってもダメだろ? いつも努力の方向を間違えてしまうだろ? おもいやりだよ。共感だよ。それ自体がドラマで、製品に組み込まれているんだよ。
だからがんばりへの評価と製品への評価を切り離すべきではない。
忘備録。だれかネタバレとか気にすると悪いのでタイトルは書かない。
・
組織の親分は高齢で体を病んでいるが、まだ闊達で、麻薬などを取り扱わず、逆に中毒患者を諫める等の姿勢から構成員や住民達からカリスマ視され強固な組織を築いていた。
そんなある日、組織の幹部が親分の女と情を通じ、女を連れて逃亡。
怒り狂った親分は実子を含めた子分達に幹部と女を引き戻すように厳命する。
次々と襲いかかる組織の鉄砲玉に、逃げた幹部は次第に疲弊していく。
さらには、暖簾分けされて周辺の街を縄張りにする親分の舎弟たちも部下を引き連れて追跡に加わる。
二人は当初こそ反目し合い、銃を向け合うが、組織の追っての前でなし崩しに協力し合った事をきっかけにお互いを認め合い、協力し合うことになる。
力を合わせた二人は、逃走しながらも組織の主立った面々を返り討ちにし、最後には自ら出てきた親分も幹部の手によって殺害される。
親殺しの直前、親分と幹部は二言ほど会話するだけのあっさりした終わりだ。
かくして、幹部は自らより上位の者が死に絶えた組織へと帰還し、自ら組織の長の座につく。
対して、警官崩れのチンピラはそれを見届けると次の街へと旅立っていき、エンドロールが流れる。
・
声優ラジオで台本に「以下10分フリートーク」って事例沢山あるのかなあ。まあいま殆ど無いとしても『それが声優!』であったからという理由で多発するようになっちゃうんだろうな。それが許されることとして描くとそうなっていきやすくなるんだよね
そういう台本は実際になくはないんだが、だとしてもそれがすなわち悪である、許されてはいけないというわけではないんだよ。
様々なパターンがある。
そもそもの話台本ってのは成果物じゃないんだよ。成果物ってのは音声であってこれをラジオとして放送するわけでしょう。その放送音声すらも収録したものを編集して効果音をつけて流すのが前提であって、台本っていうのはその過程で一時的に必要とされる介助でしかないし、そこに絶対のルールはないんだよ。
例えば、台本には「以下10分フリートーク」と書いてあったとしても、別紙で「想定される話題」などが用意されてる場合すらある。台本ってのは現場の構成要素の一部なんだよ。
もちろんただのぶん投げで声優さんに一方的に負担を強いるような現場ってのは存在する。でも、かといって、「以下10分フリートーク」って書いてある台本がそのままぶん投げの証明とはならない。
声優さんはある意味声を売る仕事だけど、だからといってスポンサーなり脚本の意向で何喋らせてもいいとは思ってなくて、そんな事をやっていれば最終的な成果物(この場合ラジオの音声)もそのラジオを含むプロジェクト全体のクオリティも下がると、普通の放送作家なり脚本なりPは考えてるよ。
声優さんがプライベートでも嫌いなものや興味のないものを指定して、それを台本の指示に従ってフリートークしろってかいたとしたって、その番組は面白くならないのは想像がつく。
台本に「以下10分フリートーク」と書いてあったとしても、普通の放送作家なら、収録前の打合せで「最近何して遊んでますか?」から始まって「今日はどんなフリートークしましょうか」「そのネタ面白いですね、拾っていきましょう」「じゃあ、そこでBさんのモンハンの話につなげて」みたいな打合せをやってるんだよ。まずは、それが基本の姿だって認識はあってほしい。声優さんは台本のぺらの「フリートーク」の部分に話題として使えそうなネタのメモをして収録に挑む。
(余談だけど、この打ち合わせが盛り上がりすぎて、本収録よりそっちの方が面白かったなもう少し打ち合わせは抑えていくべきだったなあ。とかもある。声優さん役者さんによっては、打合せで綿密に話題確認をしておいた方が本番でイイ人もいるし、逆に打ち合わせでしゃべりすぎて本番が二週目になると輝きが減る人もいる。プライベートについて絡んだ話題のほうが面白い人もいるし、あくまで仕事の範囲内で話題をあつめててプライベートの話は嫌な人もいるし、それぞれNGな話題もある。その辺の声優さんの都合、相性の問題、スポンサー(プロジェクト)の意向、全部ひっくるめて番組の打合せをするのが放送作家の本来の仕事で、台本はその準備のひと手順なんだよ。関連会社の事前チェックをとるために大事な儀式ではあるんだけど。)
以上が「本来の現場の姿」であって、でもしかし、声優のラジオは増えた。FM深夜番組だけじゃなく今主流はWebラジオだし、アニメや映画なんかのプロモーションとして番組も爆発的に増加した。メディアミックスにおいて多数の入り口を作るのは戦略の基本だし、声優のラジオは(コミカライズやノベライズにくらべれば)短時間に作れて、予算や手間もさほどかからない(ということになっている)。
経験の浅いスタッフも増えたし、声優さん側に分投げになっている現場も、悲しいけれどないわけじゃない。たぶん増えてる。それは確かにブラックだ。
(また昨今、声優さんというものの立ち位置も「ただ声を当てる職人」ではなくて「あるプロジェクト(主にアニメ番組)の代弁者、広報役」として期待されるようになってきた。期待されてるっていうのはそういう声優さんの方が仕事取り易いし重用されるし出世するということで、はっきり言っちゃうとへぼな放送作家が声優負担の高いへぼ台本を書いてきても、それでも面白いフリートークで番組を作れる声優さんのほうが需要がある。)
でもだからと言って「以下10分フリートーク」という台本の存在=声優ぶん投げではない、というのがこの記事の趣旨だ。声優さんの選定やスタッフの相性まで考え、一番重要な打合せを含んだ総合的な現場構築が面白い番組のバックグラウンドであって、台本というのは皮相な一部なんだ。
願わくば、面白い番組が一個あった時、その背景に思いをはせて評価してあげてほしい。評価の中に「あれは多分現場の雰囲気がよかったんだな」とか「番組の企画が毎回よかったな」(企画によっては普段口数の少ない声優さんが楽しくしゃべってくれるとかもある)みたいな価値観が全くないとすれば、放送作家なり現場のPなりはいてもいなくても一緒の存在だということだ。結果、そちらには予算も評価もながれず押し付けられた素人だけが素人仕事をすることになってしまうだろう。そして声優さんに負担を全部押し付けることになり、誰も得をしないギスギス現場だけになってしまう。
アニプレックスとかの社員が、こういう仕掛けがあるんですとかを
ガンストの時なんて誰も気付かなかった仕掛けを凄く嬉しそうに話すもんだから
凄くどうでもいいけど、何か新しい発見があるかなと思いつつ結局何の新しさも発見できなかったから
〇〇のプロデューサーって要するに芸能人でも何でもなくて、声優さんなら声の役者さんだから見られるけど
プロデューサーは何をしてる人なの?っていうのが大きくて、〇〇のプロデューサーとして登場されても
そんなわけで、アニメの公式発表で製作の中の人がドヤ顔で登場するのは見てて不快感しかないから、
本当は出て来て欲しくない。
てか、その薄ら笑いでアニメを穢すなよな。
感想なら、クソを素晴らしい香りと言おうが白地図に対して白い!と文句をつけようが自由だ。
だが、「進撃の巨人」と「Mad Max: Fury Road」を並べて批評するのは、適切だろうか?
クソリプ、という言葉がある。便利かつ端的だ。
例えば、最近の映画だと『ドラゴンボールZ 復活の「F」』がある。
「フリーザの進化形でゴールデンフリーザってダセえ!子供か!」と言うのはクソリプだろう。
作品の質を「進撃の巨人」と比較するなら、「スポンジ・ボブ 海のみんなが世界を救Woo!」とかのハズだ。
「フィニアスとファーブ ザ・ムービー」と「映画けいおん!」を比較してはいけないのだ。
どちらが偉いとか、どちらの方が優れていると言う意味では無く、分類が違うのだ。
同じ図鑑に載っていない。動物園なら違うコーナーに展示されているのだ。
似ていても「パシフィック・リム」と「巨神兵東京に現わる」を比較するのは違うというのは判るだろう。
同じように「Mad Max: Fury Road」と「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の比較もナンセンスだ。
羽生善治と町内一将棋に強い八百屋の親父の打ち筋を比べるような、傲慢でかつ無意味な比較だ。
なぜ、「ローレライ」や「日本沈没」での実績がある樋口真嗣監督を、
音痴だがタップダンスの上手いペンギンがタップでペンギンの世界を救うという
愛らしくもマッドさとは無縁な「ハッピー フィート」でアカデミーまで取ったジョージ・ミラーと比べるのだ。
(ペンギンで稼いで世紀末映画撮れるって小躍りするジョージもジョージだが)
「パシフィック・リム」は、全世界でこそ400億だが、日本に限ればわずかに15億の興行収入だった。
つまり、広報宣伝にテレビが大きく絡むキャスティングや出資者の納得するシナリオ必須など、
魑魅魍魎の跋扈する邦画界において稼げる稀有な監督が、樋口真嗣なのだ。
その意味で、「みんなの感想は面白いけど批評としてはなんか違う」というのを言語化するきっかけになった
壁から出ることを拒んだ制作者たち 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN - 小覇王の徒然はてな別館が「ハンガー・ゲーム」や「メイズ・ランナー」をあげているのは、実に慧眼だと思う。
内気な女子高生とイケメン・バンパイヤが恋をする少女漫画のような「トワイライト」とか
高校生になると性格診断で中二病な名前のグループに振り分けられて争う「ダイバージェント」とか
様々な欲望をストレートに発散できなかった鬱屈を青臭さでコーティングしたようなヤングアダルト映画と比較すべきなのだ。
これを外すと、クソリプになってしまう。
大金庫の奥に女性たちを大事に保護し、同時にモノとして扱っていると端的に示すシーンや、
急な方向転換にもボスの意向を確認してから迅速に隊列を組み直すウォーボーイズや
轢くまいと同乗者を無視して咄嗟にハンドルを切るイモータン・ジョーの姿など、
アレだけ判りやすく演出しながら終始ハイテンションなマッドマックスとは違うジャンルの映画なのだ。
主要なキャスティングで、手堅くまとめている。
所属事務所の調整がエクストリームなのに、比較的演技派で固められている。
演技や配役に関しては、さほど文句は出ない(観た人が納得する)キャスティングと言える。
かつ、きちんとバラエティー出演やワイドショーで取り上げられやすい人を入れていて、広報的にも万全。
日本の映画は(洋画も邦画も)「テレビで宣伝→一斉に人が来て儲かる」という流れなので、
たまに演技の素人さんが入るのもご愛嬌なんだけど、そんなことはない手堅い布陣。
はてブは、ワリと「要旨全無視で1行だけにツッコム」という日本人(主語)の減点指向を振り返る場所だが、
「面白かったね!じゃ、ご飯食べてラブホ行こっか」みたいなカップルとか、
「カッコ良かったな!キモかったし!カラオケ行こうぜ!」みたいな高校生とか
「あのシーン泣ける~とツイートしたしファミレスにお茶行こ」みたいなグループとか、
ターゲットとなる観客たちにとって、本作は微妙なラインではある。
要らないエロがある。エロならエロ、重いシーンなら重いシーンと、きちんと分けないと観客が戸惑う。
また、主役級のキャラクターの動機がフラフラすると理解できずに置いてけぼりになる観客が多くなるので、
その意味で単純に「必要のないシーンが有る」「描きたいシーンを繋ぐシナリオが甘い」という残念な出来ではある。
矛盾するようだが、シーン優先、つまり場面やある瞬間の一連のお芝居だけを覚えて帰る観客は意外に多い。
機関銃ぶっ放して快感言っとけば客が喜ぶ時代から、人間さほど進歩してないとも言える。
特撮は流石に良い出来で、その点を見に行くのであれば問題はない。
ただし、ドラマパートは監督と脚本の思想によるものか、全体を通して複数人のレビューを受けてないお芝居に見える。
動機付け、感情の流れ、イベントと対応、演出、全てがパッチワークというよりは、ツギハギになっている。
クソリプ良くない。
例えばオーストラリアのゴア映画と、ハリウッドのマイケル・ベイ映画を比較しても意味は無い。
同じように「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」と「Mad Max: Fury Road」との比較もナンセンスだ。
キチンと適切な比較対象を持ってきた上で、クソな部分をクソだと言うのが、批評だ。
儲かる、だがしかし面白くはない。ハリウッド映画とは方向性が違う。
そういう実に邦画らしい邦画で、ちゃんと儲けて実績も残ると思う。
平成ゴジラとハリウッド2回めGODZILLAの中間みたいな。
個人的には、町山智浩が文句つけながら諫山創とヘッドギアに脚本書いてもらえば良かったと思う。もう遅いけど。
総評としては、「良いキャスティング」「演技は良い」「特撮は良い」「シナリオは悪い」「演出は悪い」。
演技が良い分、邦画の特撮映画としてはマシな方だと言える。まあ夏休みの中高生~若者向けだろう。
映画には様々な見方が存在するので、ハリウッド映画やフランス映画が優れているというわけではない。
映画館内で飲み食いして踊る社交場になっているインド事情的には、フルコーラスで踊りが入っている映画が良い映画だ。
(インドも南の方は保守的なのでそこまで騒ぐわけではないみたいだけど)
話題性をテレビで宣伝して人に来てもらって稼ぐ邦画が悪いとは言わないし、そういう方向性もあると思う。
ドニー・イェン仕込みのアクションを和風に落としこんで撮り切った谷垣健治だって、ワーナーからカネ引っ張る理由に「るろうに剣心」を使ったわけで。
好きな映画は見に行く、嫌いな映画は積極的に見に行かないを徹底しないと、いつまでたっても方向性変わらないぞ。
世の中カネ稼いだものが偉い。勝てば官軍負ければ賊軍。
進撃の巨人の特に立体起動とかのシーンって、カメラワークがどうしようもなく酷かったんだけど、なんなんあれ。
進撃の巨人よりお金をかけたスパイダーマンのビルの間を飛ぶシーンのカメラワークが良いのはお金がかかっているからなのか。
アニメの立体起動のシーンのほうがカメラワークが良い、、というか実写映画より数倍いいのは何でだ。この映画の数%の予算だろうに。
なんか、スタッフが色々騒いで記事になってるけどさ、お前その映画黒澤明に見せられるのか?恥ずかしくてフィルムもったまま崖に飛び降りるレベルだぞ。
まあ、特撮の部分は良かったな。脚本も役者の演技もCGも他全部酷かったけどな。
おい、町山!!大学時代に女を寝取られたからって脚本にそれを入れなくていいんだぞ?どうせなら、大学時代のその女を役者に使ってくれたら満点あげたぞ。
サイコキラーの心理分析チーム(FBIの行動分析課)を扱った題材だから、
そういうのが嫌いな人は無理だけど、毎回毎回こうきたかっていう事件の幅があってあんま飽きない。
キャラクターが魅力的だから、暗い題材だけど、なんか見てられる。
こいつの前にギデオンっていう超しぶいやつがいたんだけど、こんな殺人ドラマにもう出とうない!
ってギデオンの役者がやめちゃった後は、こいつがチームの長老ポジション。
アラブ系の顔してるのが踊りだしそうですごく最初は戸惑ったけど、こいつと殺人犯の心理戦は手に汗握る。
・デレクモーガン(男)
ただの脳筋野郎かと思いきや、意外と空気読めるし頭の回転も速いし情に熱い奴。
・アーロンホッチナー(男)
チームリーダー。いつもしぶい顔をしてるので、眉毛と目の間がすごく狭い。
途中の展開がヘビーすぎて、こいつ絶対立ち直れんでしょって思ったら
不死鳥の如くチームリーダーに舞い戻ってきた。ある意味一番タフガイ
イケメンで天才という高スペック。このチームはこいつの頭脳に大分依存してるんじゃねえのかって
くらいの知識の量や記憶力分析力を持っているが、一番の若手で若干空気が読めないので、扱いが雑。
頭のおかしい犯罪者から慕われたり、監禁されて薬中になりかけるという危険な目に合う不運な奴
・エミリープレンティス
前任者も好きだったけど、こいつは性格がさっぱりしてて個人的に好き。
凄惨な現場にいるのに「あらあら」ってな感じだ。基本的に感情がこもってない
喋り方だが、意外と冷静に周囲に気を配れる縁の下の力持ち。
・ジェニフアージャロウ
とにかく可愛い。美人。チームの花。気配りに長けているし可愛いし仕事ができる。
出産をしてから子どもの事件にさらに敏感になり冷静な判断ができてない感は否めない。
ちょい役だったはずなのにその可愛さにあまりに人気がでてチームに加わったラッキーガール。
元天才ハッカー。リード同様、チームはかなり彼女の情報処理能力に依存してる。
大阪のおばちゃん並にド派手でよく喋る明るい彼女だが、犯罪被害者のためのボランティアをこっそり