はてなキーワード: 図書館とは
何かを研究しようと思えば関連分野の本を最低100冊は読む必要がある。そうすると2000円*100冊で20万円の費用がかかる。図書館を利用すれば0円だ。節約した金でiPadとキーボードを買ってもお釣りが来る。唯一の欠点は不衛生なことだがこれは我慢するしかない。
面白いもののニュースを集めても、それに触れる時間は有限だからどこかで効率が悪化する。
勉強法について勉強してばかりいても成績は上がらなくなるってのとこれは似てる。
観測範囲を広げるほどにレーダーの維持に自分のエネルギーは奪われる。
じゃあ君ははてなでドヤ顔することが人生を豊かにすることとどれぐらい関係すると思っているんだ?
「俺の終わってる人生じゃ、もうネットでドヤることより大事なことはないんだ」
そんなことはないんじゃないのか、正直言ってネットでドヤってるぐらいならまだスマホゲーでもやってたほうがいいぞ
「スマホゲーがクソだと思ってるとか観測範囲狭すぎ。最近はスマホゲーもPS2の初期ぐらいのクオリティあって無料で遊べちゃいけないレベルだから」
「でもスマホゲーやるとガチャとかいうゴミみたいな売り方に加担することになってはてなで叩かれるじゃん?」
人生というロバの使い方を他人に決めさせるのいい加減に辞めたら?
「その喩えに載ってやるにしても、お前がまさに俺の人生の使い方を決めてるじゃん。はい論破」
お前がそれでいいならもういいよ
お前、それで本当に楽しいか?
今最高にクソって感じの人生だろ
それ、本当に楽しいか?
もし、君がここで「いや、楽しいから」と返せないのに毎日1時間以上ネットで雑談や他人の喧嘩鑑賞に明け暮れているなら、一度付き合い方を考えたほうがいいよ
休日の朝、いつも通りの時間にセットした目覚ましの音で起きる。
『PC』の電源を入れる。 (PC…5年周期で買い替え 12万ぐらい 120,000/12*5=2,000円)
『マイクを外したヘッドセット』を耳にかけて、『spotify』を立ち上げる。 (ヘッドセット……1年周期で買い換え 2400円 2,400/12=200円)spotify…無課金
スマホエミュレーターと自作のマクロを起動して、『スマホゲーム』のデイリー消化がバックグランドで始まる。 スマホゲーム…無課金
『インターネット』を巡回しながら、『アマプラ』で映画を見る。 (インターネット…月4000円)アマプラ…4,900/12≒400円
そのうち『スマホゲーム』のデイリー消化が終わるので、『PCゲーム』をやる。 PCゲーム…無課金
夕方になったら『筋トレ』をする。 (筋トレグッズ…マットとかボールとかで年300円ぐらい…3,000/12≒250円)
風呂に入ったら『マッサージ機』を起動する。 (マッサージ機…だいたい5年使えて全部足して7万ぐらい…70,000/12≒6,000円)
えっと……全部単純に足すと12,850円か。
たまにゲームとか本とかちょっとだけ買うけどそれも月2000円ぐらいだし、やっぱ月3000円切ってるじゃん?
なんで???
なんで俺はあんな「コイツ何言っとんのや……ィ●ァ ィ●ァ:」って顔されたの?
おかしいでしょ?
なんかストレス溜まる。
【世の中、政治と経済】・・・右翼っぽい何かと左翼っぽい何かと「女性はこんなに虐げられている!」エントリの数々。
【暮らし】・・・互助会とTogetter。「ここも女性らしさを強制するな」「女性はこんなに虐げられている」エントリで汚染されている。
【学び】・・・ナゾロジーと江戸文化以外大した学びない。ここも「性役割文化の歴史」とか「学術会議の任命拒否云々」とかそんなエントリが目立つ
本や図書館についてのエントリが異常に多い。美術やファッションについてのエントリがほぼない。
【テクノロジー】・・・といいながらソフトウェア開発のツール系のエントリばっかり。まあプログラマの方々には役に立つんだろうな。
【おもしろ】・・・ここもDPZとTogetterとちょっと増田。DPZは内容はまあ面白いけど、何か足りない。DPZ読者からの働きかけが足りない?
【エンタメ】・・・ひっかけてバズらせたいマスメディア連動の断片を拾い集めてきた記事ばかりなのでそもそもつまらない。
【アニメとゲーム】・・・全然アニメ情報ない。ゲーム情報もない。役にたたない。
そもそもエントリの分類がいい加減すぎる。もう少しAI技術でもなんでも投入してエントリ同士の関連を整理して提示したらどうか。
今日の帰り道、長い塀とその中にある高い木々に囲まれた屋敷を見かけました。随分昔からあるような雰囲気でした。大きな門のところにはぴかぴかの監視カメラがあって、そこだけちぐはぐな感じがしました。
私は散歩が好きで、気がつくと三時間くらい歩いていたりします。この街はくまなく歩き回ったと思っていたのですが、まだ知らない場所があったみたいです。こういうことがあると、物語の中に入ったようで少し楽しい気分になります。ここはそんなに大きな街ではないので、もう何ヶ月かしたらきっと、本当に行ったことがない場所などなくなってしまうでしょう。そう思うと少し残念でした。その時が訪れたら、人に迷惑にならない程度に少しばかり酒に酔って散歩するのも良いなと思いました。そうして、意識がはっきりしていない状態で歩き回ると、「猫町」に出てくるような遊びができるかもしれないと考えました。
小説といえば、昔に村上春樹の小説を夢中になって読んでいたことがありました。近頃はあまり読まなくなってしまったのだけど、日常から非日常へとシームレスに暗転していく感じが好きで、今でも地下鉄に乗っている時や、古いホテルの長い廊下を歩いている時などに小説の情景を思い出します。
どうして村上春樹のことが頭に浮かんだかというと、今横を歩いているこの立派な屋敷は「1Q84」に出てくる篤志家の老婦人が住む家の描写に似ていたからだと思います。塀の中にはほうれん草が好きなドーベルマンや、隙なく鍛え上げられた肉体を持つガードマン・タマル氏がいそうでした。思わず空を見上げましたが、月は一つしかありませんでした。
小説の内容は断片的にしか思い出せませんでした。ただ、タマル氏が語った木彫りのネズミを作る少年の話ははっきりと記憶しています。その少年はタマル氏が育った児童養護施設にいて、ネズミを彫ることの他に何もしませんでした。少年がネズミを彫る情景は、何故かわからないが心に残っていて、それは自分にとって大切なもののように思える、というようなことをタマル氏は言っていました。それが彼の心象風景なのだと。
1Q84を初めて読んだときのことはよく覚えています。お金がなかったので本は買えず、図書館はずっと予約待ちでいつ読めるかわからず、でもどうしても読みたかったので、きっと責められるのでしょうが、隣町の図書館に行った帰りに本屋で立ち読みをして少しずつ読み進めたものでした。
その当時の私は、失意のどん底にいました。大学受験に2回も失敗したのです。高校を卒業して就職し、少し経って色々なことが見えてきて、大学に行きたくなって、仕事をしながら受験勉強をしました。そして失敗しました。頑張って溜めたお金もどんどんなくなって、やっぱり自分は馬鹿なんだ、甘かった、叶わない夢を見ていたのだと思い知らされて、本当に惨めでした。それでも諦められなくて、図書館の自習室に通って勉強を続けていました。
そんな折にウッカリ病気になり、入院して手術を受けなくてはならなくなりました。高額医療なんとかという制度でかなりの額が戻ってきたのですが、それでもやはりお金は減るし、大部屋だったので周りの病人になんやかんや干渉されるし、古い病院なので暑くて臭いし、とにかく最悪でした。
その日も最悪な気分でした。手術で受けた傷が痛みました。術後から数日間しか経っておらず、しばらくは風呂に入れないでいたので、自分が臭いのがわかって辛かったものです。
気分転換でもと思って院内を散歩しているうちに、見知らぬ病棟に入り込んでしまったようでした。エレベーターで一番上まで上がると、屋上に続くドアを見つけました。
屋上には誰もいませんでした。洗濯されたシーツがはためく耳障りな音と、やかましい蝉の声だけが聴こえました。季節は夏で、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストが憎たらしいと思いました。しかしながら病院の屋上というのはなかなか絵になるもので、まるで自分が小説の中に入り込んだような心持ちがして少し気が晴れました。ですが、そんな雰囲気で柵に凭れたら、熱された金属が肌を焼いて飛び上がり、格好が付きませんでした。ため息をついてふと見下ろすと、ある病棟の窓から内部が見えて、目をこらすと病室から廊下に棺が運び出されているのが目に飛び込んできました。
私はますます憂鬱になりました。それで、とぼとぼと病室に戻ると、点滴を引きずりながら歩いたせいで血が逆流してしまったらしく、看護師さんに怒られました。
落ち込みながら、歩き回って汗をかいたので着替えて、脱いだTシャツを流しで洗濯していると、明らかに大掛かりな手術をしたと思われる包帯ぐるぐる巻きの人がやって来ました。その人は壺のようなものを重たそうに持ってよろよろと歩いていて、とても怪しい人物のように見えました。それを流し台に置いて居なくなったかと思うと、しばらくして綺麗な花束を持って戻ってきました。壺ではなく花瓶だったのかと私は思いました。
その人にとって、かがみこんで花を花瓶に入れることも、蛇口をひねることも、そしてその後に運ぶことも難しい状態に思えました。普段は、困っている人に親切な行為をするのに随分勇気が要るのですが、その時は反射的に声をかけることができました。
病室のテーブルに花瓶を置くと、その人は小さな板(何回でも書いて消すことができる子供用のお絵かきボードがありますが、それに似ているものです)のようなものを取り出し「ありがとう、とても助かりました」と書きました。そして、手術をしてもう喋ることができないのだと続けました。私はその時初めて、その人が今まで一言も発していなかったことに気が付きました。
私は何故かその瞬間、自分を恥じました。しかし、そう思ったこと自体もその人に失礼で、恥ずかしく思いました。
視線を落とすと美しい紫色の花が目に飛び込んできて、見たことがない花でした。とても綺麗な花ですねと私は言いました。
その人は花の名前を教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、こういう見た目の花ということは知りませんでした。
そう言うと、好きな花なんです。母が持ってきてくれた。と答えました。
それからもう10年が経ちました。あの夏を過ごした翌年に、私は何とか滑り止めの大学に合格しました。その後、機会にめぐまれて、大学院にまで進学することもできました。いわゆるロンダリングです。恥を忍んで正直に言うと、大学に入るまで大学院を存在することを知らなかったので、それを初めて知った時はなんだか謎めいた機関のように思えました。周りに院を出ている人などいなかったし、そもそも大学を出ている人も多くはありませんでした。今では、本の奥付に書かれた著者のプロフィールにX大学大学院X課程修了などと書いているのが目に入るようになりました。昔から色々な本をたくさん読んでいたはずなのに、きっと見えていなかったのでしょう。
20代前半で初めて東京に出てきて、育った環境の違いに打ちのめされたものでした。中高一貫の学校出身の人々に囲まれて、私が初めからこういう場所で育ったならどうなっていたかなと考えましたし、今でも考えます。奨学金の残りの返済額に憂鬱になることもしょっちゅうで、そういう心配がない人はいいなと思います。進学してから変な経歴を笑われたこともありましたし、ロンダだと陰口を言われたこともあって、そうした時は悲しくなりました。
でも、いつからか、自分で自分の人生をある程度コントロールできているのだという充足感があって、これは昔にはなかったものでした。ただ、これは、大学受験を乗り越えて「分断」を渡った(かもしれない)ことだけが原因ではないように思えます。
何かがあって落ち込んだり、何かなくてもふと悲しくなったとき、あるいはただ呆けているだけのときに、あの夏の病院で出会った包帯の人との出来事が、鮮やかな紫色の美しい花のイメージとともに浮かび上がることがあります。普段は忘れていて、そのとき見たものや匂いや状況などがトリガーになって出てくるのでしょう。この情景はとても印象的ではあるのですが、別に感動的ではないし、大きく感情を動かされることもなく、さして貴重な体験だったという訳でもないように思えます。
ただ、思い出したときに何となく心が凪いで、これは私だけが持っているものだと言う気持ちになります。多分ですが、自分にとって大事なものであるような気がするのです。そう思うと、タマル氏が言っていたことが理解できるような気がしました。
「俺が言いたいことのひとつは、今でもよくそいつのことを思い出すってことだよ」とタマルは言った。「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。べつに会いたくなんかないさ。今さら会っても話すことなんてないしな。ただね、そいつが脇目わきめもふらずネズミを木の塊の中から『取り出している』光景は、俺の頭の中にまだとても鮮やかに残っていて、それは俺にとっての大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。俺はそう考える」
しばらくは密、もしくは密回避のための制限入場だろうから、行かない。けど、タウン誌の取材記事を読んだら不安になってきた。新しい図書館、とても楽しみにしていたから、実際に行ってがっかりするのも悲しい。
まず運営はかのCCC、ではない。でも、バリバリ意識している。「人と人が出会う場としての図書館」「暮らしのなかの図書館」、うんぬん、かんぬん。蔦屋は嫌いじゃないけど、この町はおしゃれをいつも間違える。この数年、税金を投入してつくられる建物、行うイベント、すべてどこかで見たようなものばかりだ。マルシェを併設した健康増進施設、オーガニックな入院食が売りの産婦人科、マグロもりもり乗っけ放題の丼が目玉の道の駅。このの漁港でマグロなんて獲れたことないでしょうよ…
そして怒涛の地元押し。行政が要望しているのかもしれないけれど(だとしたら市民ニーズに鈍感)、もしくはコンペに通りやすいよう運営受託者が提案したのかもしれないけれど(ありがち)、地元出身作家の作品に登場するモチーフが館内各所にちりばめられ、豊富な地元関連資料、地元商店街店主による講演会を企画、うんぬん、かんぬん。それ、本当に市民興味ある??住んでて、そんなに地元のこと知りたい?新しい恐竜は最近どんなの発見されたのかとか、キム・ジヨンを入り口に韓国文学読んでみたいとか、認知症介護で医者の言うこと理解するために信頼できる医療書読みたいとか、中学受験の経験談を読んで塾選びしたいとか、話題の独学大全ってどんな本?とかそういうのじゃない?暮らしに密着した図書館に求められる本って。誰のために企画して選書しているんだろう。建前のため?地元の資料、古くからの図書館にもメチャクチャ置いてあるじゃん。。地元商店街店主の講演、この先長く続けられる?集客にバラツキが出て市役所から動員する羽目になったりしない?地元作家の本だからこの絵本を読み聞かせしてあげよう!なんてならないよ…。サクっとノンタン探しちゃうよ。
私が図書館にお願いしたいのは、まず快適で集中できる空間。照明・温度・湿度。静かに歩ける床。ユニバーサルな動線。バギーや車いすを置けるスペース。それから質問しやすい司書さんたち。○○な本はありますか?って聞いたときに、こういう探し方もあるかもって打てば響くように返してくれるプロの司書さん。混まない程度に配置された検索端末。ギチギチに詰め込まれていない取り出しやすい棚。ボロボロになる前に交換される世代を超える名著たち。時代に合わせてどんどん新陳代謝する情報技術や医療・家庭・歴史などの実用本。ベストセラーや寄贈書籍などもありつつ、万人が借りるわけではないが痒いところに手が届く本をバランスよく蔵書する姿勢。市内各所の図書館との融通の利く取り寄せサービス。学生が勉強しやすい豊富な学習コーナー。PCOK、電源ありの現実的な作業コーナー。その先に、地域の人との交流とか、活動発表とか、地元で愛されるモチーフ(見たことないけど)がちりばめられているとか、そういうのをやってほしい。
何か私と似てるなぁ…と思って読んでいたけど、途中から私より重症かもと思い始めた。
好きなことでもやる気がしない、面白そうだと思って図書館で借りた本も読まずに返す…というのは日常茶飯事だけど、ほとんど水も食べ物も受け入れない…ということは絶対にない。
どっちかといえばスーパーに行くと食べられる以上のお菓子とかまで買い込んで、お腹が空いてもいないのに食べてしまって自己嫌悪に陥ること多数。お腹いっぱいになると眠くなって一眠りすると夜中になり、それからお風呂に入って寝る。髪の毛を洗うのが面倒で、後で自分の髪の汗の匂いがイヤになる。
それなのに最近なぜか仕事の〆切は守れるようになった。たぶん成果物のクオリティを無視しているから。上司は書類を回すとメクラ判を押してくれるので、それをとにかくそれらしい体裁で出す。意外とダメ出しが少ないので向こうもちゃんと見ていないんじゃないかと思う。
首都圏の『意識高い人々』が地方を『可哀そうだ』と見下しているようにしか見えない。
地方の僻みだと思ってくれても構わない。
特に表現に関して『今は価値観がアップデートされたんだからこの表現は許されない』という意見をよく見る。
それは都会にいるからアップデートされたつもりになっているだけだ。
これはそういう地方のある地域の話の一例として、頭の隅にとどめてほしい。
「カ〇ワ」「メ〇ラ」「ツ〇ボ」このあたりの表現が当たり前のように口から飛び出してくる。
言っちゃダメなのはわかってるが、代替用語がすんなり出てこないのである。
それを学がないだけで切り捨てていいのか?
〇〇当番などの雑務は女性がやって当然(女性から出てくる意見)。
首都圏の意識高い皆さん、自分たちだけ価値観がアップデートされたのを勘違いしてないか?
私の知る彼らは兼業農家が多く、生活に手いっぱいで、政治にリソースを割く余裕がない。
それを考えるリソースの余りある首都圏の意識高い層は知らないだろう。
おれはある地方政令指定都市で生まれた。コンビニも電車も走ってるし本屋も図書館も徒歩圏にある恵まれた土地だ。おれの両親は両方とも同じ国立大出身だし父親の方は首席だった。それにも関わらずおれはとんでもない阿呆として生まれた。
おれがどれくらい阿呆であるかというと、知性以前に人として当たり前のことができない。例えばコミュニケーションだ。コミュニケーションというものは大まかな枠組みとして通信の確立、通信本文、通信終了の三つに分けることができ、それぞれで発信者が発信した後に受信者が返信を行なうことでその部分が終わることになる。このプロトコルは不足ないように簡潔にまとめたものであるため、三つすべてを含まないコミュニケーションというものもある。(例:広告。広告は"広告を打つ"という段階で通信が確立していることは前提と扱われるし通信終了は広告枠の制限で示されるのでそこについても返信は必要ない。)こうしたことは人間として生まれたならだれでもできることだ。人の話は人の目を見て聞く(通信の確立)、話を聞いているなら相槌を打つ(通信本文を受信していることの確認)。けれどもおれはそれができないままずっと育ってきたしこれからもできないであろう。
あるいは他に、おれはマルチタスクができない。よく「女性はマルチタスクができるが男性はシングルタスク向きだ」などという与太を吐くやつがいるがあれは嘘っぱちだ。水を飲むときのことを考えてほしい。口に含んだ水を飲むためにはまず鼻への侵入を防ぐために口蓋帆を上げて鼻への通り道をふさぐ必要があり、それと同時に喉頭蓋を裏返らせて気道を塞ぎかつ呼吸自体も水が通り抜けるまで止めなければならない。都合3種類ものタスクをこなさなければ水を飲むという行動はできず、おれはしょっちゅう一つ抜かしてえらい目に合っている。しかしよほどのバカか力の衰えた老人でもない限り水を飲むということはむずかしいことではないだろう。
そんなわけでおれはどうしようもない愚か者でありおそらく軽度の知的障害を患っているのだが、しかし両親はそんなことを疑わなかった。これはおれが一人っ子であったが故の不幸である。そしておれは適切なケアを受けることなく地元の公立小学校に通い、当然のように勉強についていけず落ちこぼれていた。テストで満点を取ったことなど小学校でさえ一度もなかった。どうやらクラスメートにもいじめられていたらしく、このままでは地元の公立中学校に通わせると深刻なダメージを負うと判断した両親は何を勘違いしたかおれを地元の学習塾に入塾させた。もっとも小学校の授業にさえついていけなかったおれであるから当然箸にも棒にもかからなかったのだが、入学試験ができなかったにもかかわらず県下二番目の中高一貫校に入学することとなった。確認はしてないがおそらく裏口入学という奴だろう。
中学校に入ったおれはますます授業についていけなくなり、ノートをとる習慣さえ失った。受けるテストはすべて赤点スレスレであったが中学校は義務教育であるからたとえどんな阿呆でもエスカレーター式に高校に進学した。今までの人生が万事こんな調子であるからそのころのおれはたいそう人生をナメており、高校一発目の進路指導で「両親の母校の医学部へ行きたい」などと大言壮語し担任に切々と諭されたのであった。当然である。2ケタのかけ算さえ間違え英単語の綴りさえ危ういような奴が高校(しかも進学校)へ進学しているのが間違いであろう。もっともおれ自身は阿呆であるから本一冊まともに通読できないままのほほんと高校へ通い、教師陣のお情けによって卒業した。両親の母校の医学部は最高でもC判定のまま受験をし、お話にならない点数で不合格と相成った。(センター試験は9割を下回っていた。)
どうにもならなかったので予備校へ入学した。予備校は商機を見つけるのがうまいので「医系への進学を目指すボンクラどもを自習室に縛り付け無理やりにでも勉強させるコース」というおれにうってつけのコースが存在し、わけがわからぬまま通学を続けた。2ケタのかけ算もままならぬままなぜか成績は上がっていたが、今から思えばあんなものはあてになるまい。というのも予備校としては「ボンクラが惜しいところまで伸びてもう1年通う」というシナリオが一番稼げるであろうから、ボンクラであるおれの成績が粉飾されていることは間違いなかろう。予備校の誤算としてはおれの志望校は両親の出身大学であることだった。ボンクラがボンクラなまま入試の日を迎え、愚にもつかぬ答案を根拠なき自信に満ち溢れたまま提出し、なぜか合格してしまった。すくなくとも自己採点では0点だった。(センター試験は結局歴史も数学も理科も満点を取れずじまいであった。)おそらく裏口入学というものだろう。
猫のほうがなんぼか賢かろうという馬鹿が大学に入ったが当然授業にはついて行けなかった。勉強する習慣さえないのだから当たり前である。教養課程は何らかの圧力ですり抜けたが専門科目は全くどうにもならず、2年生と3年生を2回繰り返している。そもそもこの学部に来たのだって父方の親戚がみな医師か医学者で母方の親戚はごたごたして面識がないのだから医師しか職業を知らぬせいであった。モチベーションなどあるはずもなく、解剖は2度やってかろうじて覚えたがそれ以外はどうにもならず教授に土下座してお情けで可をもらった始末である。現在は大学のカリキュラムの都合で研究室に遊びに行って研究ごっこをして遊んでいるが、自分が何をしているか微塵も把握していない。ただ聞こえてくる単語が授業で聞いた覚えのあるものだからわかったようにうなずいているのだが、先方もおれの阿呆具合など百も承知だから深くは追及されない。おれの阿呆を何とかしようと息巻いているのは父親だけで、母など最初からあきらめて「せめて清潔感を身に着けてヒモにでもなっていなさい」と言う次第だ。大学も3年生まで進級したもののここから先どうにかできるとは思えない、ましてどこかの病院で勤務するなど不可能としか言いようがない。かといって阿呆が研究者になれるほど世の中甘くない。おれの前に道はない。おれは何一つできないままここまで来てしまった。どうすればいいんだろう。
財政の話をしていい?
ノック知事の時代から府の財政はこのままではマズイってことはいっていて手を付けてたのだけど肝心なノック知事がセクハラの問題でノック知事ノックアウト→太田府政になったんだけど非共産以外の各党相乗りで知事になった人だから各会派にいい顔をしたいので財政問題に切り込めないままになる。別の基金から資金を借用して予算を組んだりしてて、その基金が目的のための事業にお金を使えない、ってのがあった→そのあと橋下知事登場。他基金からの流用を止めワッハ上方や図書館などを含め、空気を読まずに当座の止血を行うけど、財政問題の抜本的改革はできず→松井知事、他党とケンカ売りながら泉北高速鉄道ほか売って過去の投資した資金の現金化を図るけど、財政の抜本的改革はできず→吉村知事も松井知事と同じくもがきつつ、府財政の抜本的改革はできず。
維新だかニシンだかカプトサイシンだか名前が良くわかるので党の名前は忘れたけど、良いかどうかはともかく、橋下知事以降、府の財政をどうするかということを考えて動いてるのは確か。
ここから先は邪推だけど、二重行政を止めようという名目で大阪市を解体して大阪都にしつつ府の財政をなんとかしようとしてるんじゃないかな、と。
45分集中して15分休憩を大体2セット。
合間にお米といで、お昼ご飯の下ごしらえ。
納豆と豆腐は必ずどちらかが(セットの時もある)一品料理として登場。
そのまま出せば副菜になるのでとても便利。
ご飯は少なく、その分、野菜とキノコは大量に味噌汁などに入れて
バランスよく。
今日はかぼちゃが安かったので、かぼちゃの煮付けも作った。夜ご飯に。
大根と人参が余ったので、紅白なますにしたけど、ニンジンを多過ぎてほぼ
いってq録画見ながらご飯食べながら洗濯機を回して、食べ終わったら干して。
シャツ類は洗濯ネットに入れてドライ洗濯の短い脱水時間が済んだらすぐに取り出して
干せば、シワにならずに便利。
小物類も洗濯ネットに入れて洗って、干物干しネットの上にばらまき干し。
いちいち洗濯バサミで使うのがめんどくさかったんだよね。これでかなり時短になった。
昼の仕事は終わったので、タンブラーに紅茶入れて近所のショッピングモールの
暇だとなんとなく喫茶店に入ってたけど、特に飲みたくないのに毎回4 、500円払うの
今思えば大損だよね。
最初はフードコートで何も食べないのは気まずかったけど、平日の昼間が持ち込んだお弁当とか
食べながら勉強するや読書、スマホゲームする人たちが結構いて、やってみたら意外に快適で
土日は混んでうるさいけど平日は静かで落ち着く。
カフェだとテラス席はいつもいっぱいだけど、フードコートは大きいから座れるのが嬉しい。
運動不足になりがちだから、ジムに通うのでなく、ショッピングモール内を
お金って使わなければ使わないんだな、と思う。
今の仕事をしながら独立して稼ぐ人もいるけど、そのための集客を考えるとげんなり。
今は稼ぐことよりも、最低限自分と動物たちが暮らせるだけの給与と
給与今とそんなに変わらないのに、1日10時間とか毎日働いてたことを思うと
二度と戻りたくない。
身も心もボロボロになってまで働いて、何が残ったと言うのだ。
同僚で個人での仕事もどんどん広げている人を見ると、すげえなぁと思う。
ただ私にもぐいぐい営業かけてくるので鬱陶しいけど。
私とは違うのでそっとしといてください。
稼ぐことよりも、心の安定を求めたいんです
最近の伊集院はテクテクライフやドラクエウォークのために色んな所に旅をしている。彼は本質的には一人で静かに家にいるタイプで、何もすることがなければ永久にそうしていられるタイプ。だけどそれだと色々と駄目だから、あえて外に出る目的を作っている。位置情報ゲームやスタンプラリーはその一環。だけど彼自身は、観光名所とか道程そのものとか電車とか飛行機とかには一切興味がない。
例えばドラクエウォークのために城に行っても、その城自体には全然興味がないのでお土産がもらえる地点に行ければそこにはもう用事がない。スタンプラリーだって、自分が好きなキャラや作品があるからではなく、単に移動して集めることがだけが目的だったりする。その反面、彼は普通ではしないような道程を果敢に挑むし、何よりそれを面白く話せるという最高のセンスと環境を持っている。
ようは旅自体に明確な目的や関心がなくても、意外となんとなるってこと。
だから増田の言う通り、宿と移動だけをしていても全然いいんじゃない?
増田は、図書館に行ったのに膨大な書籍の中で雑誌1冊しか読まないことをどう思う?毎日のように通い詰めて図書館を全制覇するっていう意気込みはすごいかもだけど、そんなことが図書館の目的じゃないよね。
自分が図書館の雑誌一冊だけ読むことを、「おれは図書館になんの目的に来ているんだ?」って否定する必要はない。
増田はそこにもうスグたどり着けるんじゃないかな。旅も似たようなものだよ。
俺も位置情報ゲームのIngressを通じて色々と見聞したけど、実際に観光らしいことをしたのはほぼない。基本的にスマホを見て歩いたり、自転車で市街地を爆走したり、仲間と食事したり、体感速度160kmのクルマで房総半島に拉致されたり。どれも別に観光とか史跡巡りとかを目的にしていないけど、それでも楽しかった記憶はいまでもありありと思い浮かべられるよ。アノマリーに参戦しても、宿に泊まってただ移動するだけの日々だけど、それでもその土地独特のものを味わえたと思う。
受験勉強はもっぱら学校の学習室か図書館だったし、大学のレポートも家で書くことはほとんどなかった。
誰かの目がないと集中できないのだ。
監視がない空間だと睡魔におそわれるか、本来の目的そっちのけで別の調べ物したりネットショッピングに没頭する。
そんな折にこのコロナ禍。
弊社は4月より在宅勤務を余儀なくされ、今でも週に1−2度は在宅せざるを得ない。
ちなみに今日は在宅勤務だったが実質作業時間は30分ぐらいだ。
圧倒的給料泥棒。途中で2時間寝て、家の掃除したり丁寧にハーブティ淹れたり、新しいサブスクサービス調べたり、ロボット掃除機追いかけ回して話しかけたり、まあ仕事以外はそれなりに忙しかった。
やることがないかと言われると全くそんなことはなく、出社していたら10−12時間労働コースをキメるぐらいがタスクが溜まっている。
しかしなんともまあ、集中できない。
嫌なんですよ。嫌なものは嫌なんですよ。
別にマスク自体は嫌じゃないですよ。去年までは花粉で鼻がムズムズしてるときとか普通につけてましたよ。マスクつけてかぶれるとかも特にありませんよ。
春先、ちょっとメンタルが弱ってたんですよ。でもそんなの、適度に遊びに行って人と交流して図書館に入り浸ってイベントに通ってとかやってれば自然と治まるくらいのメンタルの落ち込み具合だったわけですよ。
なのにそれを全部奪われた。
狭い部屋に閉じ込められた。ギスギスした環境で暮らすことを強いられた。テレワークの普及でただでさえ遅かった通信回線が激重になって、ネットすらできずそんな場所に軟禁された。死んだメンタルのままで何ヶ月も過ごすことになった。ぶっちゃけ軽く病んでましたよあのとき。
だから、もう、これ以上何かを奪われたり何かを強制されたりするのは嫌なんですよ。
私をあんなふうに閉じ込めた連中の言うことなんて絶対聞きたくないんですよ。
マスクをつけろという圧力がはびこっているのなら私はマスクを外しますよ。マスクが嫌だからじゃない、マスクが強制されているから外すんです。
これが仮に帽子をかぶれという圧力だったら私は髪をむき出しにして往来を歩きますよ。眼鏡をかけろという圧力なら裸眼で街に出ますよ。視力クッソ悪いけど。
私は去年通りの生活を続けますよ。鼻がムズムズしているわけでも咳やくしゃみがすごい出てるとかでもないのなら別にマスクはつけないっていう生活を続けますよ。
それが抵抗ですよ。私のメンタルをボロボロにした連中へのせめてもの抵抗ですよ。私を軟禁したやつらへのささやかな叛逆ですよ。
もちろんわかってますよ、あのひとたちも善意でやってたんだってことは。あのひとたちはあのひとたちなりに必死だったんだろうなってことは。
でもそんなのボロボロになったメンタルとズタズタになった人間関係とポシャった仕事の前では何になるっていうんですか。
許せない。私をあんなふうに閉じ込めたやつらのことは許せない。いや許してもいいけど、あいつらの言いなりになって行動に制限を受けるのだけは我慢ならない。
だからマスクは基本的につけてませんし、接触確認アプリも入れてません。嫌なものは嫌なので。
自分がコロナにかかったらこれまでの判断を後悔する日がひょっとしたら来るのかもしれないけれど、少なくとも今の私は、圧力に屈さずノーマスクを貫くことで自分を支えてる今の私は、熱もなければ咳もしてないのにマスクをつけようという気にはなれない。
数年後くらいにはマスクと和解できる気分になっているのかもしれないけど、残念ながら今の私のメンタルはまだマスクを許せていないので。
っていうか、繰り返しになるけど、許せないのはマスクじゃなくて、マスクが象徴している監禁の記憶なんですよね。あの閉じ込められた悪夢の日々の記憶が薄れない限りユニバーサルマスキングには協力できないなぁ。
こういうふうに言われることがめちゃくちゃ多くてだんだん反・反・反ワクチンくらいの立ち位置になってきましたね(基本的なワクチンは打ってるはずだし、仮に子供ができたらワクチンを打ってもらうけど、今の過剰な反ワクチン叩きはおかしいという立場)。
そもそも自分の身体に何を入れるか決める権利があるのは自分だけなのに何でワクチンは強制してもいいと思えるんですか? いや、効果の有無とかそういう話は聞き飽きました。なんびとも身体に針を刺して不愉快な物質を注入されなければならない義務はないし、むしろそれから逃れる権利を有する、っていうごくごく当たり前の自由と人権の話をしましょう。
後段、問題はそこなんですよね……義務教育の時代から「みんなで一丸になって頑張ろう!」みたいなのが嫌いで体育祭とかではなるべく手を抜いてた人間なので、おんなじ圧力かけられたらおんなじ反応しちゃいますわ……なるべく手を抜くしむしろ抜け道をどんどん探してやるぜ的な……
強制されるのは嫌と言うのは分からないではないが、わざわざ逆を行こうとする必要はないのでは。マスクをつけるのが嫌なのはよく分かる。
別にわざわざ特別な行為をしているわけではないですし……去年と同程度のマスク消費量で暮らしてるだけです。つまりごくごく普通の、当たり前の日常生活を送っているだけ。わざわざ能動的な行為なんてしてないっすよ。
マスク着用のところを非着用で入ろうとして揉めるとか
個人営業のお店とかはね……仕方ないというか、元々「客を理不尽に選別する自由」を持ってる人たちっすよね。極端な話、阪神ファンの店主が巨人ファンの入店お断りってやるのも自由でしょ。だからマスク強要が理不尽だなと思ってもそこは尊重すべき点かなと思います。お店の自由なので。
でも、そういう理不尽な選別が許されない公共交通機関とかでの理不尽な強要にはNOと言っていきたいっすね。
まあ都心部でマスク無しで地下鉄乗りまくってるけど咎められたことなんて一度もないですけどね。地下鉄以外でも知らん人から物言いつけられたことはない。映画館でマスク外して知人と会話したときも別になんも起きなかったっすよ。仮にそういうのに遭遇したら都知事選では平塚に入れてやろうと思ってたけど特に何もなかったんで宇都宮に入れました、はい。
飛行機で降ろされた人?
元々海外にはよく行くのとメーデー民なので飛行機で基本的な自由が制限されることは諦めてますね。空港と機内ではおとなしくマスクつけます。
でも飛行機でマスク拒否して降ろされたマンのニュースには同じマスク拒否マンとして同情と連帯の気持ちが湧いてきて市中では積極的にマスクを拒否していこうなというお気持ちが高まるというか……
所属する共同体への貢献とか、チームプレイみたいな行為のことを、この手の人たちは「同町圧力が」「強制が」「全体主義の足音が」とか言う。
そもそも論として私は去年までと同じ暮らしを送ってるだけですが。
去年まではなにも後ろ指を指されることのなかった当たり前の社会生活をしてるだけで社会不適合者扱いされる風潮、端的に言って狂ってるので積極的に抗っていきたいっすね。
映画館でマスクせずに会話するのなんて去年までは当たり前だったでしょ。その程度のことでガイジ呼ばわりしてくる人の方がどうかしてますよ。まあこっちに関わってこないのならどう思ってようがその人の自由ですけど。私も別に積極的にあんたらに話しかけたりはしないので。
んじゃあ「生きろ」って強制されたら死ぬんですかね、的な極端なことを言いたくなる程度には「ああただの我儘か」で斬って捨てたい案件/自分が感染するのは勝手だけど「他人に感染させる」リスクは考えてくれ。
じゃあ私がメンタル病みそうになったのもただのワガママってことですか。あまりにもクソ野郎の言い分すぎて「マスク拒否に正当性を与えてくれてありがとう」としか言えないっすね。
っていうか、私が風邪をひいたときもインフルエンザにかかったときも水ぼうそうになったときもおたふく風邪をもらってきたときも水虫を発症したときもなんかのウイルスで死ぬ寸前の状態になって病院に担ぎ込まれたときも、誰も私に感染させた人を責めなかったし、病気にかかってそれを他人にうつしてしまった人もあくまで被害者であってなんら責められるべきではないというのが良識的な態度だったはずなのに、なんで私が自分のメンタルを守るために普通の暮らしを送ろうとしたら「他人に感染させるのか!」って責められなきゃいけないんですか? 理不尽 of 理不尽。こういう犠牲者非難には絶対に屈しない。人権を守るために徹底的に闘いぬいてやる。
大口叩いてる割には本気の怒られが発生する場所(飛行機、個人店)ではマスクするとか日和ってるな。大丈夫そうな所でだけマスクしないマンやって勝った気になってるとかダサすぎるわ。
いや、個人店ではしてませんけど。よく行く個人店でマスクしてなくて怒られが発生したことはないし今後もなさそうなんで安心してノーマスクで通ってますね。あくまで民間のお店には巨人ファンを断ったりピアスしてるやつを退店させる自由はあるよね、という原理原則を確認してるだけです。
たっくさん書いた後に「空港と機内ではおとなしくマスクつけます」って書いててズコッとなった。わがまま通せそうなところでは通そうとし、絶対無理なところでは長いものに巻かれとるやん。
上で書いたけど、コロナ前には旅行やら何やらで年に何度か飛行機乗る生活してたんですよね。で、もともと飛行機っていうのはコロナ以前から
という2つの条件があるから、別に1つや2つ制約が増えたところで気にならないわけですよ。っていうか諦めモード。年に数回の非日常経験のために自分の自由やプライバシーが制約されるのはある程度仕方ない、嫌なら船なり列車なりそんな偏執的に身体検査とかされない乗り物に乗ればいいんだし、という話で。
それに対して1年で300日以上過ごし日常的に使う街や施設でこれまで享受できていた自由が享受できなくなるのは受け入れられない、という話です。そんなにわかりづらい?
長期間マスクすると呼吸に支障あるので、それが必要な所にはもう行かなくなった自分には、メンタルが耐えられないと言いつつ何時間もマスクして飛行機に乗れるというのは嘘八百にしか見えない
たまにしか乗らない飛行機の中や空港で当たり前の自由が制限された非人道的な扱いを受けるのは慣れてるしそんなもんかと耐えられるけど日常的に使う地下鉄や商業施設でそんな扱いを受けるのは慣れてないし耐えられないし慣れるつもりも耐えるつもりもないという話なので……
監禁とかよくわかんないんだけど、強制が気に入らないというのなら卒業式の起立斉唱やら戦争中の飼い犬供出にも抵抗するんだろうか。だったら応援します。
卒業式の国歌斉唱を強制するのは明確に反対で、戦時中に非国民呼ばわりされてでも全体主義に反対した人たちのことは尊敬してますね。まさかたかだかマスクをつけずに電車に乗る程度のことで先人の衣鉢を継げることになるとは思いもしませんでしたが……
献血には定期的に行ってますけど、もしも仮に赤十字が「来てくれた人ありがとう! 献血できる人は献血してくれると嬉しいな!」じゃなくて「来て当然。来ないやつは社会不適合者」みたいな態度を取り始めたとしたら献血行くのやめますわ。当たり前でしょ?
こういうのはレアな難病でマスクがつけられない人みたいなものだと思えばいいのでは。徒党組んでマスク反対集会をするわけでもなさそうだし。
クラスターデモに参加しなかった最大の理由は「デモとかするときは顔バレとか嫌だからなるべくマスクを着けたい」というコロナ以前からの考えと完璧に衝突するデモだからですね。どんなに良い目的であっても素顔をさらしてデモ行進とかするのは抵抗がある。でもまさかマスク反対デモにマスク着けていくわけにはいかないので……
勝手に放っておけばWebで調べて勝手に学んでくれるのが、全員であれば苦労はしない。
最近の若者はパソコンが使えないという話も、そりゃ使えるに越したことはない。
気になっているのはWebが集団での知力向上に役立っているか、貧困から抜け出す手段を獲得できているかだ。
知力向上に役立っているのであれば、既にWebに何年も親しんできている人達は抜け出せているはずではないのか?
Webは多くの人の時間を奪うことをしなければ持続しなかったり、積極的に個人の思想や信条といった情報を集めているわけだが、
Webはもう複雑な事情を考慮するとか、大量の資料を整理するといったのを放棄してしまっているのも気になっている。