はてなキーワード: 図書館とは
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230826/k10014174551000.html
金沢に島流しされたんだが、ほんと交通インフラ死んでるんです。車買った。
美術館とか図書館とか文化施設は御大層に立派なんだけど、城下町構造で根本的に住みにくい。
気持ちは分かるというか、CD所有派→音源データ所有派→サブスク派に流れてきたから全部分かる。
自分は最終的に「ずっと聴き続ける音楽はない」「何度も読み返し続ける本はない」という時間経過からの事実に直面して、音楽はサブスク、本は図書館と電子書籍で十分という結論になった。
最近物価高や将来の不安から節約を始めたのだが無理なくせず始めて半年足らずで今月の娯楽費を5000円以下に抑えられそうだから自慢兼報告させて欲しい。
今月の娯楽費内訳
アニメ 実家暮らしなので親の持っているHDDにテレビ放送されている物を録画し見たら消す。
最新機種は持たず安価で売られているレトロゲーム中心にプレイ。
現在はスーパーファミコンの第4次スーパーロボット大戦の3周目をプレイ中。
ハードオフで名作を100~500円で揃えられ長時間プレイできるレトロゲームは節約に最適の趣味。
オススメハードはスーパーファミコンとPS2、ニンテンドーDS。
長時間プレイできる名作が多くソフトが安くハードオフのジャンク箱によくあるのが魅力。
教養本は図書館に豊富に取り揃えてあるので図書館で借りれば全て0円。
図書館には大抵リクエスト機能があり注文すれば欲しい本を無料で購入してくれるので欲しい本は図書館に買って貰う。
ネット通販のセールの時の方が安いこともあるが送料無料にするために要らない物まで買うと本末転倒なので欲しい物が多いときだけ通販を利用。
飲食費
一番金をかけている部分。
毎週末徒歩でドラッグストアに行きドリンクやお菓子・時によっては半額の菓子パンかカップラーメン、レトルトカレーのいずれかも購入。
一見金がかかりそうに見えるが一度に一つを食べきる・飲みきる事無く複数回に分けることで健康と節約の両立が出来る。
Spotify等の有料アプリには入らずAmazonのセールで買ったファイアstickTVのSpotifyを流す。
Spotifyはブラウザなら無料で選曲可能なので十分楽しめる。
また図書館は場所によってはCDがあり借りてPCで取り込めば外出時も無料で音楽を聴くことが出来る。
いかがだったろうか?
以前は月15000~20000円ほど使っていたが節約を始めてから今までの自分は以下に無駄なお金を使っていたのか気が付けた。
最近ファンレ界隈が騒がしいらしいのでファンレ書くの大好きオタクがいつもファンレ書くとき気をつけていることを列挙しようと思う。
ファンレは作者のファンサなのでみんな勘違いせず楽しくウキウキファンレター書こうな!
いち
ファンレターってなによ?ってこれに尽きるよね。
そもそもファンレターってこっちが出したくて出してるものなので「書いてあげなきゃ!」とか思うくらいなら書かなくていいと思ってるまである。
だってファンレターって紙ならかさばるし量あったら読むのに時間も体力も使うし作者は絶対読まなきゃいけないものでもないんだよ。でも喜んで読んでくれるんだよ。好きなもの作ってくれる人に作ってくれてありがとうって伝えられて、それを喜んでこちらこそありがとうとか言ってくれるんだよ?ファンサだろ。
「ファンレターくれって言ってるじゃん」と思う人もいるんだろうか。まぁ大事なのは間違いないと思うよファンレのあるなしで人気具合が決まるとかあるみたいな話も聞くし。
でも正直書籍とか歌なら販売数のが重要じゃねとも思わんか。どんなに熱烈なファンレ届いたとしても一冊しか売れてなかったら打ち切りでしょ。
「書いてあげなきゃ」思考で書くと絶対に自己顕示欲が滲むと言うか、「このファンレターで作者に爪痕残してやろう」みたいな気持ちが入っちゃうんだよね。それいらないから。作者は作品の感想が聞きたいのであってファンレ執筆者の自己顕示欲には用がないから。中古で買いましたとか図書館で読みましたとかのこと書いちゃう例のアレも自己顕示欲の発露だよ。作者の精神に影響を与えようとするな。心に残ろうとするな。大体本が売れた売れなかったは作者の収入につながる超センシティブな話題なんだから気安く触れるもんでもねえ。
本当にめちゃめちゃ好きで堪らなくて言わないと爆発するという気持ちを込めるのがファンレターやぞ。
に
「結局引用が1番最強」
本なら「2巻の◯ページの☓☓ってセリフが刺さりました」音楽なら「△△って歌詞が心に響きました」「Aメロの頭のギターテク最強すぎて震えました」絵なら「髪の先の線のしゅぱって感じがめっちゃ好きです」などなど、引用ってめっちゃ簡単に好きなところをダイレクトに伝えられてとても良いです。
めちゃめちゃ好きなのは本当でファンレターも出したいけど何を書いて良いのかわからないし語彙力もないって悩む人いるじゃん。引用が最強やぞ。
読書感想文では引用を差し控えろって言われがちだけどファンレターにおいては作者側も読者にはここが刺さるんだな〜って分かって嬉しいんじゃないかな。どこがどう好きってのを言えたらより良いファンレになると思うけど言えなくても引用してあれば少なくとも好きって言ってもらえる場所はわかるし。とにかく好きです!だけより伝わりやすい。語彙は正直なくて良い。と思ってる。文章のプロじゃないんだから語彙力なんかあるわけねぇだろ。あったら良いかもだけど「あなたの作品は梅雨の朝の貴重な晴れ間に水の冷たさを残した空気を吸い込むときのような気持ちになります」とか書かれても嬉しいけど具体的にどんな気持ちで……?ってなりかねん。平易な言葉ってのは伝わりやすいという利点がある。「好きです!」は「好きです!」以上の意味にならないからダイレクトに好きが伝わるぞい。
さん
「赤の他人に書いてるってことを忘れない」
作者って友達じゃないんだよね。いや同人とかで友達の作者にファンレ送ることもあるかもだけど(その場合は友達に許される距離感で好きにしてくれ)商業販売されてる作品とか舞台に立ってる役者とかYouTuberとか画家とかバンドとかまぁなんか色々あると思うけど大体は会ったこともない人だったり顔も知らなかったりすることのが多いわけじゃん。
「身内ヅラ」「タメ口」「アドバイス」が書き始めにハマりやすい三大危険思想だと思います。
身内ヅラってのは例えば好きな俳優さんとかアイドルとかバンドマンに「☓☓のママとしては〜」とか「お兄ちゃんは心配です」みたいなこと言っちゃったりするやつ。普通にこわい。誰だお前!みたいな奴から突然身内ヅラのファンレ届いたら引くだろ。後方腕組彼氏面はやってるだけならおもろいけど彼氏面で話しかけたら不審者やぞ。過度なイジりとかも控えよう。過度っていうかイジるな。そういうキャラだったとしてもイジらないほうが絶対平和。
笑ってくれる神のような御心の持ち主も稀にいるかもだけど何度もいうがファンレはファンサなので推しに1グラムの心理的重りも乗せないように気をつけようね。君から送られるのが1グラムだとしてもそれが何百何万の数になったら推しは潰れちゃうよ。
タメ口についてはこれ言う必要あるか?初対面でタメ口は相当思想強いぞ。敬語っていうのはあなたを他者として尊重する意思がありますという1番分かりやすい表現だから悪いこと言わないから使っとけ。あの人はノリ軽いしそんなん負担にならないもん!と思ったとしても使っとけ。推しが「敬語のファンレ受け取らねえから」って言ってたら使うな。そんぐらいのレベルの話です。
アドバイス。これが1番良くない。「△△の書き方はもっと♡♡にした方が良くなると思いました」「□□のときの言い方はもっと優しくしたほうが良いと思います」みたいなやつ。
良いか!!!アドバイスを!!!!するな!!!!アドバイス全部うるせえ!!!!!!!同業者でもしねえ!!!!!素人は黙っとれ!!!!!!!!!!
えー、アドバイスについて恨みがあるのでうるさくなりますが推しにアドバイス送って良いことはひとつもありません。アドバイスというのは無用なものです。そんなもん書くくらいならおすすめのラーメンのトッピング書くほうがよっぽどマシです。世に出ている作品は商業だろうが同人だろうが人の手と目を通って世に出ています。自分が読んですぐ思いつくようなこと作者も周りも一回は口に出してます。それを捨てて出来たのが作品です。どうしても気になる、ここの展開は絶対この方が良い!と思うなら自分で創作しようね。
誤字脱字報告とかも作者さんが「してね」って言ってないならファンレには書かないでください。十中八九萎えます。配信者の言動とかもそうだぞ。「もっとこうしたら〜」みたいなのは他人に言うことじゃないです。推しがアドバイスが欲しいと思うときは周囲の適切な人に相談しています。お前には聞いてねえです。夜露死苦。
よん
「じゃあ何書けば良いんだよの話する」
・好きなシーンの引用
・書けるならそれをより具体的に何故好きか
・もらった喜びや感動など
を書くのが1番分かりやすいです。
引用はさっき言ったやつ。具体的に何故好きかって言うのは、じゃあそのシーンを好きな理由ですね。
みんなカチカチ山って知ってる?知ってる前提で話すね。カチカチ山を例にしてファンレ文を2個作ったので読んでみて欲しいんだけど
例1
・兎がおじいさんのためにめちゃめちゃ頑張っててえらいと思いました。
↓
例2
・兎がおじいさんのために、憎いたぬきに友人のように話しかけたり、辛子味噌や泥舟の製作など一切手を抜かず復讐への手間を惜しまない姿勢に感動しました。
例2のがわかりやすくね?
これが具体的に書くの話ね。でも前者が悪いわけでは全くない。例1の方がパッション伝わることもあるので、例2の方がより良いわけでもないんだけど、具体的なシーンの伝わりやすさは2の方だと思うんだよね。
他にも作った。これはさらに何故好きなのかの説明を深堀りした例ね。
例3
・復讐劇としての完成度の高さと、主人公であるうさぎとたぬきのキャラが対照的で良かったです。
↓
例4
・おばあさんの慈悲の心を踏みにじった非道な行い、それを反省もせず人の誠意を足蹴にするたぬきの圧倒的な残虐性が、その後のうさぎの強い復讐心に対する説得力に繋がっていて作品の構成力に感動しました。たぬきの刹那主義・快楽主義な性格と、恩を重んじて誠意を大切にするうさぎの性格とが、対照的な二人のキャラクターを引き立てあっていて、ストーリーに深みを感じます。
めっちゃ書くこと多くなった。何を書いたら良いか?ってつまりこれを書くとめちゃめちゃ伝わりやすいよね。
これはカチカチ山ベースで書いたからこうだけど音楽でも配信でも演劇でも漫画でも同じことができます。
この書き方は「何故」を主軸にすることが多いです。
何故このストーリー展開なのか。何故このキャラはこんな動きをしたのか。何故私はこのシーンがこんなに好きなのか。そこを掘り下げると作者に伝えたい大好きなポイントや、それを具体的にどうやって自分が感じ取ったのかの言語化が出来るようになります。
でもめっちゃ練習がいるのと、私は声に出して「何故こうなんだろう」「どうしてこう書いたんだろう」と疑問文口に出してた。あと感想文上手い人の文章めちゃめちゃ読んだ。論文とかも読んだし書いた。そこまでやる必要はないと思うので、そんな手法もあるんだな〜くらいに見といてもらえると良いと思いました。
もらった喜びや感動についてはもう言葉のまま。
あなたのおかげで辛かった日も乗り越えられました。
そういうことを素直にそのまま書く。これが作者にとって嬉しいことなのかは正直わからん。拙者ファンレ書くの大好きオタクなだけでファンレもらうことねーもん。でもファンレを送るのってこれを言うためだよねって気もしている。
あなたのおかげでこんなに私は幸せですって伝えるものがファンレターなんじゃないでしょうか。技術のこととか書くなよ!ってこととかの話もしたけど、これが書いてあればファンレターはそれで良いんじゃないかな。
「お金がなくても作家を喜ばせる方法は図書館にリクエストすることだ」なるツイート(ポスト?)が伸びてたので https://twitter.com/jiro6663/status/1694628008366428193?t=3FxjKDajQYbjtPMwsgkrdw&s=19
現役図書館司書の視点からこの件について図書館的にどうなのか、本当に作家の為になっているのかを考えてみた
念を押しておくと田舎の小さい図書館司書視点なので一般化できるかは怪しい
①リクエストした人が必ず借りてくれるのであれば図書館は嬉しい
の2点になる
まず①から
図書館の予算は大体どこもカツカツで満足に本買えてる図書館の方が少ない
限られた予算の中で利用者が喜ぶ本を選書し、満足度の高い図書館をいかにして作るかというのは司書の腕の見せ所である
大体は児童向けや小説のシリーズ物、健康や生活の知恵に役立つ400〜500番代の本を数冊買い、余ったお金で1〜2冊ほど「これは利用されそうだな」という本をジャンル問わず選定するが、この「利用されそう」というふわっとしたものが難しい
よく動く本の傾向を見たり新聞書評や今ならYouTubeやTikTokでバズったものを選定してみたりするが、それでも買ったのに全然貸出されない本は出てくる
こういう時、誰かがリクエストをかけた本であれば確実に一回の利用は見込めるので選書会議も通りやすいし助かったりする
しかし、リクエストかけた人に借りる意思がない場合はとても困る
実際、みんなに読んでほしいと言う理由でリクエストがかかり購入したが誰も読まず書架の肥やしになっている本はある
(これはその本が悪いのではなく利用者のニーズに合致しなかった、例えば世田谷や目黒といった一等地に農業指南の本を置いて借りる人がいるのか?という話)
実際そういうことが起きたのでうちの図書館ではリクエストした本を必ず借りてもらうルールが作られた
予算もスペースも限られているので、本人が借りる意思の無い布教の為の、最低一回の利用も見込めない本はリクエストされても正直困るな…というのが本音である
作家としても、折角書いた本が誰にも読まれず本棚から動かない状況は売れたとしてもあまり嬉しくはないんじゃないかと思う
②について
図書館の本は必ずしも購入した物ばかりではない
リクエストがかかった本で、どうしても予算が足りず購入が後回しになる本はどうしても出てくる
そういう時、どこからか現れた善意の市民がちょうどリクエストかかった本を寄贈してくれることがある
それを確かめる方法は図書館には無いのて、作者の利益に貢献しているかは不明だ
また、リクエストされたからといって必ず本を購入する訳では無い
相互貸借というサービスが存在し、その図書館に所蔵が無い本にリクエストがかかった時に所蔵のある別の図書館から取り寄せて貸出することもできる
リクエストがかかった本は原則自分の図書館で購入することが勧められている
それはそれとしてどこも予算は無いので出版から時間の経っている本は相互貸借で補い合うケースは多い
よって、図書館にリクエストをかけたからと言って、必ずしも作者への貢献に繋がるとは言えない
最後に
色々書いたが予算だのスペースだの利用率だのそういう小難しい事は司書が考える仕事なのであまり深く考えず読みたい本があれば気軽にリクエストしてみて欲しい
図書館はその街に住む市民の学習や読書環境を整えるのが第一の仕事だと考えているので要望があればやれる限りは応えたい
もちろん本を書いた作家や出版社があってこその図書館なのでそちらへの感謝や還元も適切に行っていく
ただ、やっぱり市民の為にあるのが図書館なので特定の個人が推し作家の応援する為に手当たり次第リクエストかけてまわるのはなんか違うのではと思う
https://twitter.com/jiro6663/status/1694628008366428193?t=6O3JNU8ygo95M3dbAC_bCg&s=19
謎マナーって言ってるよ……
想像力ないんじゃないのかな
そのへんの図書館に行って「刑法各論」というタイトルの本を読むのじゃ。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/08/post-102474_1.php
市民が恐怖に怯えるなか、韓国警察は日本の弁護士を名乗る爆破予告にも悩まされている。8月7日、ソウル市職員数人に爆破予告メールが送られた。「8月9日15時34分までに李在明民主党代表を殺害しなければソウル市内の図書館半径334メートルで爆弾が爆発する」というもので「ソウル地下鉄に爆弾を設置した」と書かれていた。
予告犯は日本の弁護士を名乗っており、弁護士が所属する法律事務所の電話番号とファクス番号が記載されていた。警察の特攻隊爆発物処理班が、国会図書館などを捜索したが、疑わしい物は見つからなかった。
この映画についての物議・炎上はいくつかあって個人的にも嫌な印象しかなかったんだけど、どうせ自分一人が見ても見なくても日本での売上は芳しくはないだろうと思って見に行ってきた。
そうしたら頭の片隅でずっと考えつづける映画になったので、思うところを吐き出しとこうと思う。
深夜の書きなぐりだから色々お粗末だろうが勘弁してほしい。
長いぞ!あと普段このサイトをそんなに見ないので空気感も分からない。
一番面白かったのは、ケンがバービーをやっと惚れさせることができた!!と確信して2時間か4時間かギターで弾き語りしてたあたり。
理由はざっくり後述するけど、男社会化したバービーランドで自信満々に振る舞っていたケンが、歌詞では『こんなダメな僕でも愛してくれるかい』みたいな弱気なことを言っていたのが毒っ気があってよかった。
それで、語るに外せないこの映画の社会的な側面についてだけど、当然かなり強いメッセージが感じられる映画ではある。
興味深いのはやっぱり、この映画がフェミニズム映画として評価されているのと同時に、アンチフェミニズム映画としても評価されているところだろう。
実際映画を見てみて自分も納得した。監督は女性で、女性についての映画を撮ることが多いそうだが、実はアンチフェミニズムの厭世観たっぷりなオジサンが撮ってますと言われてもまあ分かるような映画だと思った。
バービーが住んでるバービーランドは、完全な女社会だ。もっと言えば、現実の(従来の、あるいは誇張された形の)男性社会の反転だ。
総理大臣、一番偉い検事、ノーベル賞受賞者、マスコミ、工事現場で働く人、幸せで自由な住民。そのすべてが女性、つまりいろんなタイプのバービー人形である。
バービーランドには男性もいる。いろんなタイプの、と言ってもバリエーションは限られ、全員若い男だけだが、ケン達も住んでいる。
しかし彼らはバービーのおまけだ。バービーににこやかに挨拶して、バービーにかっこいいところを見せて、バービーがいなくては生きていけないと言うためだけに存在している。
夜になって、メインのバービー(以後マーゴット)に、メインのケン(以後ライアン)がキス待ち顔をしてみたり一緒に過ごさないかと提案してみるけど、ライアンはマーゴットに気まずそうに追い払われる。ライアンはもちろん深追いしたりせず笑顔で去る。全く彼を顧みず女子会に赴くマーゴットにいい感情は抱いていないのだろうけど、その国ではそうするしかない。
そう。この映画はバービーの付属品のケンたるライアンの、口に出せない苦しみからはじまっている。
そしてその直後に描かれるのが、バービーであるマーゴットの、バービー社会での初めての違和感だ。
バービーが『死について考えたことは?』と口にした途端、鳴り響いていたEDMが止まりパーティーが凍りつく。バービーランドでは多分、深く暗く考えることは好かれることではない。ライアンも後々深く考えるマーゴットは好きじゃないなどと言う。
ギャグの文脈でもあるだろうが、ちらほら映っていた重役のバービー達の仕事っぷりもそんなに思慮深そうではなかったし。
そんなマーゴットが抱えた違和感を出発点にして、マーゴットは、勝手についてきたライアンと一緒に、バービーランドを出て現実へ旅立つことになる。現実とはそのまま、人間が暮らす現代の社会──もちろんアメリカだ。(この旅の最中も、例えばライアンが料理か何かをしている最中にマーゴットはのんびりコーヒーを飲んでいたり、ちょっとした違和感が散りばめられていた。それともこれを違和感と思う自分の認識の歪みに気付かされるギミックなのかもしれないが)
そこからはかなり端折って説明する。マーゴットが旅に出たのは自分に起こった変化を治すためだったが、マーゴットは事態を解決する人間を見つけてバービーランドへ戻る。ところがそこは、現実の『男が尊敬される』男社会に感銘を受け、一足先に舞い戻っていたライアンによってケンダム(ケンの王国)に作り変えられてしまっていたのだ。
バービーたちは軒並み『洗脳』されており、大統領がメイド服でビールを運んだり検事がケンにマッサージをしてたりなどなど、変わり果てた有様にマーゴットは絶望するが──『変化』が嫌だと泣きわめいて──しかし、連れ戻った人間がバービー達をその洗脳から解き放つのだ。
バービー達はケンたちによる憲法の改正を食い止め、バービーランドに平和が戻る。
これが大筋だ。
この洗脳の下りは紛れもなく『woke』の比喩。しかも2重に交錯させた比喩のはず。
wokeとはググっていただきたいが、ざっくり説明すれば、直訳で目覚めた人々を意味し、フェミニズムなどの活動家を指している。侮蔑の意味合いで使われることもあるようだ。
表層を見れば、ここで描かれるwokeはバービーたちの方だ。
人間は、ケンダムと化したバービーランドの『おかしさ』をバービーたちにぶちまけて洗脳から解き放つのだが、やってることはひたすら説得である。人間はひたすら女性の生きづらさ──家事や子育てを押し付けられながらも綺麗でいなくてはならないとか、そういう愚痴をバービー達に語りかける。それで、バービー達は突然ハッと目を見開く。まるで今ようやく目が覚めたかのように。それで洗脳はとけ、社会を変革しようと活動し始める。
でも、作品の中で一番最初に『目覚めていた』のは、きっとライアンだ。
ライアンは男が立派な仕事をし、女性に必死にならず、振り回されず、通行人が丁寧に時間を聞いてくる現代社会に感動して、現代社会を作っていると図書館の本に書いてあったらしい、『男社会』の概念をバービーランドに持ち帰った。それは日本で言うところの『海外を見て日本の異常さに気づいた女性フェミニスト』の反転ではないだろうか?
バービーランドで無価値だった自分に気付かされた、ライアンもまたwokeだったのだ。
ライアンが短時間に実際どうやって、ケンたちはともかく、バービーまで男社会に染め上げることができたのか映画の中ではハッキリとは描かれていなかった。(とあるバービーが、バービー達は耐性が無かったのでケンに洗脳されたとは言っていたが、曖昧だ)
正直なところ、ここの急展開は若干違和感だった。まるでこの映画を、フェミニズム映画に仕立てるために無理やり男社会と女の生きづらさのエッセンスを詰め込んだシーンのようにも見えて、見ている間はずっと、制作陣はこれを皮肉のつもりで撮っているのだろうか?と勘ぐっていた。
それに、その違和感は多分全く見当違いなものでもなかったと思う。
結局ケンダムの夢は崩れさったわけだが、マーゴット(それか人間だったかも)は今までのバービーランドに戻るのではいけないと他のバービーたちを諭す。
その中で初めてバービーたちは、ケンたちがどこに住んでいるのか自分たちは知らないという事実に気づく。まあ多分、バービーシリーズの商品展開について詳しくないけど、ケンの家は存在しないんだろう。
その結果、バービーたちはケンたちの人権を認めると言う。ケンたちは大喜びだ。ある一人のケンがバービーに言う。『おれも最高検事になってもいい?』バービーは真顔で即答する。『それはだめ。でも下級検事ならいいよ』ケンはそれに喜び、ナレーションが入る。『ケンたちはまだまだこれからのようです…』
かなりの皮肉だよね?
口では権利を認めながら、実際は希望の職につけるかどうかは既得権益者の許可制なわけだ。明示的なwokeとして描かれた、女性の象徴であるバービーたちがその矛盾、つまり性差別をやらかしてる様をバッチリ描いている。結局変わらない憲法も、制限された自由に気づかず喜ぶ被支配者たちも、いびつだ。
これは、目覚めた過激なフェミニストたちがこのまま突き進んだって女尊男卑が訪れるだけですよ、なんてメッセージなのだろうか?
支障がなければいろんな人にこのシーンを見てほしい。これは、おそらく確実に、どちらとも取れるシーンだ。そしてその違いはきっと、その人が、今世間にあるフェミニズムをどう捉えているのかにかかってくる。
このシーンは現実の『行き過ぎた』フェミニズムの本末転倒差を指摘するものであるとするものと、あくまで現実の女性の苦しみのメタファーであるとするものだ。
前者は先程書いた通り。こういう見方をする人は、きっと『何でもかんでも男女差別だという今のエセフェミニストどもにほとほと嫌気が差している』という昨今なのではないだろうか。正義棒を片手に暴れ回る人々の脅威を感じているので、このメタファーが真に迫って見える。
後者は、きっと現実にはこんな女性優位の場所は存在していない(あるいはひょっとして存在し得ない?)と思っている人だろうか。だからこのメタファーがフィクションとして見れる。現実の女性と男性をただ反転させて描いただけだと読み取れる。性別を反転させて世の歪さを描こうとした作品はそう少なくはないだろうし、その系列だとも十分読み取れると考えられる。
結局変わらないルール。相変わらず性別の偏った管理職の面々。覚えのある話だろう。
はっきり言って、まるで分からない。そして(驕りかもしれないが)分からないのはきっと自分だけではないと思った。現に全く真反対の2つの陣営で評価されているのだし。
映画『バービー』は絡み合った皮肉だ。ただのフェミニズム、もしくはアンチフェミニズム映画だったとして、ここまで現実と比喩とを交錯させる必要はないんじゃないか?制作陣が描きたかったのは果たしてそのどちらかの主張なのか?
多分違うんじゃないかというのが、前置きが随分長くなったが、自分の考えだ。
映画バービーの締めくくりは、なんとマーゴットが人間になるというものだった。
変化の兆しを見せつつあるバービーランドに、マーゴットは上の空だった。あれだけ戻りたがっていた、バービーらしい日常に帰れることへの喜びは見えない。そこへ(詳しくはかかないけど色々あって現実で出会っていた)バービー人形の生みの親、ルースが現れ、マーゴットに手を差し出すのだ。
変化するのが嫌だ!と泣いて嫌がっていたマーゴットが──今思えばこの変化を拒む仕草も既得権益者側の改革を拒む姿勢のメタファーかも──考えが刻々と変わり、喜び、悲しみ、老い、変化していく『生き物』である人間になることを考える。
マーゴットは人間社会に飛び込んだとき、トレーラーにあるとおり警察に捕まったり、男にセクハラされたり、バービーランドとはまるで違う現実の荒波に揉まれるわけだが、その後、座ったベンチから、人間の生活のさまを広く見渡して涙を流すシーンがある。
公園の遊具で遊ぶ子供たち。親子。親密そうに語り合う若い男性二人。老人も。
マーゴットはそこで初めて、人間というものの理解の第一歩を踏み出したのだ。
そしてふと目を開けて、隣に座っていた老女と見つめ合うと、『あなたはきれいだ』と言って涙ながらに笑ったのだった。
流し見たインタビュー記事によれば、ここは監督が決して譲らなかったシーンなのだという。少なくとも監督のコンセプトにおいてかなり重要なウェイトを占める場面のはずで、実際演出も印象的だった。
映画のラスト、マーゴットはルースとの対話の末、人間になることを選ぶわけだが、その決断のときにも、人生というものがとても美しく描かれた。
笑顔の子どもたちが映るホームビデオ風の映像がいっぱい流れたのだが、最近こういうの全般に弱くて泣きかけた。
人生に起こるいろいろな問題に苦悩しながらも、人生の素晴らしさについて描く映画は一種のジャンルだろう。この映画はきっとそれに位置する。
男女差別についてかかれていたのは、勿論テーマ自体は主役扱いで、不誠実な描かれ方はされていなかったが、他の映画における、例えば叶わない夢の話や、恋、はたまた自然環境、仕事、社会問題など、『現代社会に生きる人々において共感を得る悩みごと』としてのテーマでもあったのではないか。
だってそうじゃないと、マーゴットは、他のバービーたちに背を向けて、バービーランドを抜け出さない。理想郷に永遠に住み続けていればよくて、いずれ死を迎える人間になんてならない。この映画が、女性は女性の理想郷で生きる権利がある、なんて事だけを説く映画なら、そんなエンディングにはしないはずだ。
いま分断社会に生きる我々は日々大いにストレスに晒されている。その中でも、人生が素晴らしいのだと思えるようであってほしいと伝える映画だというのが自分の所見だ。
少し話は戻るが、最後のマーゴットのルースとの対話の中で、細かい流れはうろ覚えだけど、特に印象に残った言葉があった。
人間になりたい気持ちの間で揺れるマーゴットが、バービーとして生まれた自分が人間になっていいのか、と産みの親に訪ねる。それに、答えるルースの言葉が、
さっきこれは単なるフェミニズム映画というわけではないとか力説したばっかりだが、テストで作者が考えるフェミニズムとは何ですかなどという設問があったら、自分はこれを抜き出して回答する。
男女差別と、人間賛歌という2つのテーマを包括する答えでもあるだろう。
フェミニズムが女性のためのものか、男性含む人間のためのものなのか。どちらと答えても炎上する今の世の中で、論争を煙に巻いて、たった一つの単純明快なフレーズを残したようなコメディ映画だった。
直接口に出されこそしない「使えねーな」「もうちょい急げよオラ」を毎日浴びせられて過ごしている。
毎日のように削り取られていく自尊心を癒やすために『いつか凄い人として羽ばたくサナギとしての自分』をいつも空想している。
両親から運動音痴と自閉症スペクトラムを引き継いだ所に早生まれが重なったせいで生まれついての引きこもり気質。
保育所の広場で遊ぼうとすれば「お前がいると負けるから来るな」と追いやられ、一人でブランコをしようとすれば体格のいい子に追い出され、仕方がないからいつも絵本を隅っこで読んでいた。
小学校に入ってからはせめて勉強ぐらいは頑張ろうとしたが、運動も会話もまともに出来ないくせに勉強だけは頑張っていたのをメガネザル系のキャラとして扱われ、頑張って勉強していい高校に入ったら周りは運動も勉強もできる人ばかりで何も持ってない底辺として暮らす日々。
大学でも同じような現象が起き、周りは自分と同じ程度の学力だけどソレ以外の能力では圧勝されているので自分に自信を持つことは全く無い。
学歴を印籠みたいにかざして無理やり通り抜けようとした就職活動はボロボロになり、自棄糞になって受けた公務員試験でもペーパーで取った有利を集団面接で全部吐き出し切って完敗に終わる。
やりたい仕事もやるべきだと思う仕事も稼げる仕事も遠ざかり、とにかく数を集めて谷底に突き落とすタイプの会社に入って、適性もないままに椅子にしがみつくことでなんとか生き延びてきた。
自分が仕事の中で相性が良いと感じることを上から上げていくと「分析」「整理」「定型化」だと思うのだが、自分が主にやらされているのは「営業」「懐柔」「折衝」で、正直この辺は死ぬほど苦手でせめて電話・口頭中心じゃなくてメール・チャットでやらせて欲しくてたまらない。
企業風土が自分とあっていると思えないのだが、この仕事を通して積み上げてきたものが自分と相性が悪すぎるからそれを売り込んで入れるような転職先は結局同じような所だろうという蟻地獄に人生が囚われてしまった。
無能扱いされてもいいからせめて平穏に暮らせたら良いのに、毎日のようにせっつかれるしなんだか分からない責任問題に次々巻き込まれている。
本心から望んでいるのは「貧乏でもつまらなくてもいいから平和に暮らすこと」だ。
でもその競争倍率がクソほど高くなってどこも高値で売りつけられていると聞いてもう怖くなって完全に動けなくなってしまった。
毎日この人生からまるごと降りたさに包まれながら職場に向かっていて、そうして一日かけて傷つけられた心を風呂場やベッドに入って「でも僕は近いウチになんか良く分からんがビッグになって大逆転するんだ」という中身のない妄想に浸ることで癒やしていく。
なんなんだろうこの人生は。
最底辺の人間が敷き詰められた狭いアパートで寝起きして、最低限の味と栄養しか無い配給食を食べるために並んで、残った時間は図書館で老人と本や新聞を奪い合いながら暇つぶしをするだけの人生でもう十分なんだ。
どっかの金持ちが無駄な背伸びを繰り返し使い切られてしまったこの世界の余裕を補充し直すために、自分の心を砕きながら社会のひび割れを埋めさせられるのにいい加減うんざりする。
なんでただ生きるためだけに毎日こんなつらい思いをする必要があるんだろう。
最低限度の生活の値段が高すぎる。
生活の値段が高いと言うより、あらゆる労働の性質が非人道的すぎる。
人道的な労働環境に生きたい。
俺の本当の願いはそれだけだ。
でも叶うとは思えないから「ある日凄い人になった自分が凄くチヤホヤされるから、今の苦しみはその時に全部相殺されて「生きててよかった」と思えるはずだ」を毎日妄想するんだ。
辛い……そうして「いつか自分は凄くなるんだ」を握りしめてるせいでかえって人生が苦しくなっている面もあるんだろうな。
これはもう麻薬みたいなもんだ。
どいつもこいつも平然とした顔で「いつかビッグになるよ。良く分からないけど。だから今は頑張ろうね」と麻薬を高値で売りつけてきやがる。
教師も親も誰も彼もが平然とお互いの口に麻薬を詰め込んで適当に酔っ払ってるすきに自分の好きなように操れないかと画策してる。
なんなんだろうなこの世界は。
俺は本当にもう疲れた。
いつ死んでもおかしくない。
一部の編集者が、自分の担当が売れない理由を図書館に押し付けるために、変な印象操作してるだけのように私には見える。
本を出している知り合いとこの話題になったときも、「兎に角自分の本読んでくれて面白いと言ってくれるならそれでもう大満足だろ。印税のためだけに本書いてるなんてのは歪んだ形で才能持ってる一握りの作家だけだと思うわ」で結論出てる。
金が欲しいだけで本なんて書いてないんだよね。
自分のミームをばら撒きたいって衝動が先にあって、それをやって金がもらえることに対しては「他の仕事する必要が減った分ミームを撒くことにもっと注力できてありがてえや」って感じ。
不器用な人間だからあんま他の仕事上手くできないというかストレスが強くかかりすぎるから本書いてる面は確かにある。でも、そんなことよりも「とにかく俺の話を聞けよ!」って感情の方がずっと大きい。
図書館やブックオフでぐるぐる自分の本が読まれるならそれは普通に嬉しいよ。
「金出すほどじゃないけど興味はある」って層にアプローチする手段が無料で生えてきているんだから感謝だね。
自分みたいな人間のところには「書店に頼んでPOPとかサイン会とか見本本とかやって裾野を広げましょう」みたいな話は来ないけど、図書館に本が置かれるのってそういうのと同じ効果が期待できると思うんだよな。
コレはマジで羨ましてく嫉妬しか無いんだが「映像化作品コーナー」みたいのとかに置いて貰えて、そこで借りられてたりしたら「じゃあ本屋で買うか」ってなる人も結構いるんだろうなと。
そういう時に「無料で読みました!面白かったです!」っていうのは「あっ、面白いんだ」って宣伝効果がただで得られるんちゃうかなと。
んで、この機会に言うんだけど「買って読みました!クソっすね!」はマジでクソなので、「買た/買ってない」なんてのはクソリプかどうかの判断基準としては「面白かった/ゴミだった」に比べれば誤差でしか無いんだなあ。
「わざわざ言いに来ないで下さい」は「つまらなかったです」から始まる編集気取りのクソリプだったり、自分語りのために他人の作品利用しつつコッチをボコボコ殴ってくるサイコだったりだよ。
「図書館で読みました」なんてのはどうでもいい枕詞でしかないからさ。
「つまらなかったです」をわざわざ作者に言いに来るやつをドンドン逮捕してくれよな。
マジでよ。
頼むよ。
夫の弟の妻になる人と全く気が合わない。どうにかして角がたたない方法で結婚式を欠席したい。
義理の弟とは時々ご飯を食べに行ったりする。美容師の専門学校卒でヘッドスパや簡単なカットができるので、家で前髪だけカットをお願いしたりする時もあり(お金はちゃんと払う)、仲良くしている。
この弟は今美容師とは全然関係ない普通の会社員をしているのだが、美容師時代に知り合ったアナウンサーの女性(出会った当時はアナウンサー志望の大学生だった)と、この度結婚することになった。
新婦は普通に会う分にはいい人なのだが、若いのにTVに毒されているおばさんのような価値観をしており、根本的なところでわたしと絶対に性格が合わない。
TVが大好きでワイドショーやバラエティ、日本のドラマ(高校生が見てるようなやつ)を一日中見ている
TV以外の文化的な活動に一切興味がない。映画館にも美術館にも図書館にも書店にも行かないし、旅行も嫌い
地方局のアナウンサーで契約社員なので週に3日くらいしか働いておらず、残りの日は家でTVを見ている
文化的な活動に興味がなく常に家にいるのに、自然豊かな田舎(義理の弟の出身地)は嫌がっており、子供が生まれたらときの教育環境のためと言って県庁所在地に家を建てたがっている
全くご飯をつくらないので、菓子パンばかり食べてぽっちゃりしている時期と、痩せるために変なサプリしか飲まずガリガリになっている時期を交互に繰り返している
この人が結婚式を取り仕切っており、たびたび義理の弟からその内容を漏れ聞くのだが、聞くたびに行きたくなさが募っている。
2人の馴れ初め話や子供の頃の話をたくさん流す予定で、絶対に見て欲しいので、参列者は席を立ったり周りの人と喋れないように進行してもらう予定
↑はアナウンサーの友人によるTVのワイドショーを再現したような構成にする予定
結婚式の資金はコンテンツに全振りしたので料理は一番簡単なプラン
新婦は「父が歌が上手いので絶対に長渕剛の乾杯を歌ってもらう」と言って聞かず、新婦父が流石にそれは...と10回以上断ったのに、無理やりコンテンツに組み込まれた
他にも新婦兄を巻き込んだTVのバラエティを再現した余興がある予定
わたしはもともと結婚式があまり好きではなく、特に「自分が人生の主役になれるのはここしかないから!」とばかりに参列者よりも自分たちのために余興を考えたんだな、という式は特に苦手だ。
義理の弟の結婚式なので、そもそも関係的には絶対に出なければいけないものではないのだが、なまじ普段仲良くしているのと近くに住んでいるのとで、「仕事だから」などと言って簡単に欠席することは許されない。
いままたコロナの波がきているし、いっそコロナに罹患したことにして欠席できないだろうか。
嘘はつきたくないが、明らかに苦痛だとわかっているものに出席するのは苦しい。
自分がこんな昭和の冗談みたいなイベントに巻き込まれる日が来るとは思っても見なかった。本当に辛くて胃腸炎になったりしているので、励ましやアドバイスをください。
https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:https://anond.hatelabo.jp:443/20230822095700
こいつさあ。
余計なお世話だそんなもん。
TVが大好きでワイドショーやバラエティ、日本のドラマ(高校生が見てるようなやつ)を一日中見ている
TV以外の文化的な活動に一切興味がない。映画館にも美術館にも図書館にも書店にも行かないし、旅行も嫌い
地方局のアナウンサーで契約社員なので週に3日くらいしか働いておらず、残りの日は家でTVを見ている
文化的な活動に興味がなく常に家にいるのに、自然豊かな田舎(義理の弟の出身地)は嫌がっており、子供が生まれたらときの教育環境のためと言って県庁所在地に家を建てたがっている
全くご飯をつくらないので、菓子パンばかり食べてぽっちゃりしている時期と、痩せるために変なサプリしか飲まずガリガリになっている時期を交互に繰り返している
だからなんなの?
ていうかなんでそんなことをそんなに詳しく知ってるの?
俺はそこまで細かく生活を把握してる親戚一人もいないぜ?
お前親戚づきあいしたいのかしたくないのかどっちだよ
この人が結婚式を取り仕切っており、たびたび義理の弟からその内容を漏れ聞くのだが、聞くたびに行きたくなさが募っている。
わたしはもともと結婚式があまり好きではなく、特に「自分が人生の主役になれるのはここしかないから!」とばかりに参列者よりも自分たちのために余興を考えたんだな、という式は特に苦手だ。
お前が好きかどうかなんかどうでもいいんだよ。
お前の式じゃねーんだから。
お前が苦手かどうかなんかどうでもいんだよ。
好きだから・楽しいから行くアーティストのライブじゃねーんだから。
逆に聞きてえけど、慶弔ってものは好きだから・楽しいから行くものなのか?
お通夜に出席する人間もあれが楽しいからワクワクしながら現れてるのか?
お前の結婚式の出席者も余興が面白いからって理由で出席したのか?
ちゃんと付き合いを保ちますとか、あんたに義理を通しますとか、そういうことを示すために行ってるの。
余興の内容が自分の趣味に合うか合わないか、好みか好みじゃないか、そんなことで出席を決めるものじゃないの。
俺もその弟嫁は嫌いだしその余興はウザそーだなーって思うよ。
でもお前の出ない理由って「性格が合わない」「余興がキツい」なんてことじゃん?
それで出ないっていうのはちげーだろ。
立派な大人を伴侶に選んだはずなのに、こういう全く道理を解さない子供みたいなことを言われたらキツい。
お前の旦那は好きなことだけやってるのか?
親族の一生一度の式典すら我慢して出席せずに自由気ままに生きてるスナフキンなのか?
ちげーだろ、みんなちゃんと自分の好き嫌いの外で責任ある行動してるだろ。
お前の義父だってイタい嫁の一生一度のお願いだからと歌いたくもねえ歌を歌う決心したんだろ?
なのにお前は「私があの女と性格合わないから出たくない、凄いストレスー、励まして―」ってか。
励まされたいのはこんなガキ女を嫁にもらった旦那の方だよ。
あとそうやって人のキモさをネチネチあげつらうならおめーの義弟との距離感も結構キモいからな?
お前の義弟嫁へのあたりの強さはけっこう義弟への変な感情に見えるってことを理解しとけよ?
一方的に悪口ばっかり言われてるけど、自分の夫への義姉のキモい感情や距離感を容認してるアナウンサー女はむしろ結構度量が広いんじゃないのか?
ほんとにガキみたいな世界で生きてんな。
ド田舎でフルテンでギターかき鳴らしてたら「答え」はここにあったんじゃないかって思った。
田舎は給料安いらしいけど、欲しいもののために金が必要なんであって金そのものが必要な訳じゃないしな。
西東京の郊外には絶叫できる道だってありゃしないね。家ばっか建ちやがってよ。
図書館も美術館も興味ない。ライブとかも行かない。欲しいものはネットで買える。どうしても現物見たきゃその時だけちょっと足を伸ばせばいい。
でもちょいと電車に揺られて都心をフラフラ歩き回るのは楽しいんだよなあ。神保町界隈やアキバから上野にかけてをフラフラ歩き回ってると、くるりやフジファブリックが歌ってる「東京」ってこういう事なんかなあって思う。
夜通しフラフラして始発で帰る時、早くから出勤の会社員もいれば学生だかフリーターだか分からんおれみたいなのもいる。疎外感だったり、寝ぼけてるのと浮かれてるので薄まった焦燥感だったりはあるけど、ウチん中で一晩中悶々としてる時よりは心地良い。
ネットの皆様が大好きな文化がどうのとかはどうだっていい。おれが歩き回ってて楽しいかどうかが全て。
現実逃避にとりとめもない事考えたりボーっと音楽聴いたりしながらフラフラ歩き回ってる時が後になって案外強く思い出に残るんだよなあ。
旅行先にてレンタサイクルで人をひきかけてからはや10年、平地に引越したのがきっかけで自転車を買った。
自転車屋で買ってから家に帰るときに乗ったら、腕にガンガン力入るわ曲がり角うまく曲がれないわ、もう恐怖しかない。
これはやばいと思って、ちっちゃい子向けの自転車乗り方動画めっちゃ見た。
曲がるときは身体傾け気味がいいんか、曲がる意識だけでけっこう曲がるのか…とか知れて面白かった。
さっき2回目練習で乗ってきたら、普通に漕げるようになった!めっちゃ嬉しい!
カーブはまだ若干力入るけど!
あと歩行者とか車とか来るとびびる。
周りの様子伺うの神経使う。
けどこれで色んなとこいけるなー立地がいまいちで行けてなかった図書館も行ってみよう。
久しぶりにわくわくする。
何者病は、自分は他の誰かしらが知ってることしかしらないことに対する不安や不満に通じるものがあるように感じる。
図書館にある本は一番高度なものでも学部生の教材扱いされるレベルのものしかない。図書館にいくら通い詰めてもせいぜい博士課程終了直後のひよっこ研究者レベルの知見かそれすら得られない。かと言ってネットも、ネットで真実といわれるように図書館以下の情報しかないだろう。
そんな中で大学や機関の研究者以外の人間はどうやって他人の誰もが知らない知識に到達すればいいのか。
もちろんここでいう知識というのは小学生でもできるような新種を発見したとか、どっかの誰かの下着の色みたいな一問一答的な知識事項を言っているのではない。
既存の理論や定理を駆使して相当の知性をもってしなければ発見あるいは証明できないようなことを言っている。
しかし研究者以外の人間がいくら頑張ってあることを新たに示した気になってもすぐ車輪の再発明ではないかと不安に駆られることになるだろう。
学ぶモチベーションとは何かと言えば、誰も知らないかつ半端な知性では辿り着けないような科学的事実に到達することだと思う。そんでもって知ったことを他の研究者のように論文に発表するということはしないことで、知見を独占している優越感、それがアイデンティティにもつながって動機になっていると思う。
どんなに学んでも誰かが知ってることしか知ることしか知らずどまりになるなら、学ぶ意味なんて見出せないのだ。一番とれなきゃアスリートになる意味ないってのと同じ思考と言えばわかりやすいか。学問においてもそうでないと時間を無駄にしてるだけのようで虚しくしか感じない
地下格闘技とか言ってステロイドでただでさえ保険証もなくて不摂生な生活して、あんな無駄なことしてるくらいなら
海外の狩猟動画とかアフリカとかミャンマーの暴動映像とか見てたら
アメリカのちゃんとした狩猟で自分で作った丸木弓でイノシシやクマ一撃で射殺す映像とかいっぱいあるし
手作りの火縄銃や弓矢でミャンマー国軍の兵士や平和維持軍の兵士闇討ちして武器奪ったりしてるニュースや写真いっぱいあるじゃん
あんだけ金や女を犯罪で手に入れたいからって反社やってる連中のくせに
だってあんな中学校の社会や高校の日本史Bの教科書に作り方や使い方や図書館行けばアーチェリーや弓道や射撃の教科書いっぱいあって稽古から維持管理の方法まで書いてるの載ってるようなもんでそれほどのパワーが手に入るなら、もう無敵じゃん
頭が悪いから海外ソースの映像とか資料とか調べる知能がないとかかなって思ったけど
昔っからヤクザの顧問弁護士とか、自衛隊崩れとか警官崩れとか、一流商社や省庁崩れのインテリ型や技能型反社いっぱいいるのにあんまりないよねそういうの
女って、日々の生活自体にそれなりの楽しさを見いだせるからじゃないかな
非正規月収15万とかでも、安い団地に住んで図書館で本借りて休みの日は散歩してスイーツ買ってコーヒー淹れて幸せーとかそういう感じで生きられるし。男でもそういうのはいるよ。
蔦屋と蔦屋図書館が町の本屋を駆逐して書店文化が消え去るみたいな言われかたをしてるように感じるんだけど、わが町の本屋が町の文化を担ってなんかなかったと思う。
そもそも狭くて、大した本は置いてなかった。1番売れるところにあるのは、週刊少年漫画と、子供向けの雑誌。小学6年生とか、テレビくんとか、そういうやつ。過疎の町だったけど、それでも子供の方が本屋にお金を落としてたんだと思う。逆に言えば、大人は新聞以外の活字を読まなかった。
そんなわけで新刊は少しだけ。新聞広告に載ってる本が1冊ずつ棚に平置きなんかない。文庫も小中学生向けの文庫が多かった。青い鳥文庫や岩波少年文庫みたいなの。漫画の単行本もろくになかった。ジャンプ全盛だったので、ジャンプコミックスはまあまああったけど、それだけだった。
あとなにがおいてあったろうか。小学生中学生向けの学習ドリルとか、実用書がそれぞれ棚一面。実用書ってのは、冠婚葬祭の挨拶マニュアルとか、その程度。それが、我が故郷の本屋。