はてなキーワード: 利敵行為とは
増田のテーマが深く、ブコメ100文字では返答しきれないと思ったのでこちらに書く
基本的に自分の意見を垂れ流すのだが、増田の苦悩を解消する一助になれば幸いだ。
まず一見して気になった部分がここ
「人をカテゴリで捉えるな」というコメントも多かった。それから、「リベラル派じゃなくてリベラリズムに従えよ」という文章を書いてくれた増田もあった。
正しいとは思う。ただ、実際に遣るとなると、難しい、というか、無理な気がしている。
社会問題を考える上でよく知らない人間について考える必要があるのはわかる。
ただ、それは情報の質と量にどうしても限界があるからそうなってるんであって、
人をカテゴリで捉えることは偏見・差別に繋がるためあるべき姿ではない
例えば入れ墨入れてる人間を銭湯に入れないのは入れ墨がヤクザのマークなので安心して入浴できないからだがこれは差別だ
しかし普段の生活でそこまで吟味する時間もないので、あるべき姿ではないものの一律風呂出入り禁止にしてる
これが「入れ墨の人」ではなく「俺の良く知ってる山田」が「俺と山田以外いない野湯」に入るなら問題ないはずだ
こういう高い解像度の情報が手に入る状況で人をカテゴリで捉えるのはよくない
そういう前提の中で増田は社会問題を前に自分を内省しているわけだが、増田自身については増田が一番解像度が高いのに
なぜか増田は「男」「リベラル」「ミソジニー」など見知らぬ他人を探るための仮面を被って喋るのだ。そこが一番の違和感だ
ゾーニング、しかし「公」とはどこまで?ネットも?民間の組織である赤十字も?コンビニも?どこまでがアウトなのか基準は?私刑では?BLは免罪されるのか、男性を消費する場合は、3次元は?ジャニーズは?objectificationをモノ化と訳すのは誤解を生まないか?元の論文ではobjectificationが全て悪いという話では無かったはずだが、では悪さの基準は?本当に巨乳の女性を叩いていないのか、実際に居ると本人がスクショを上げていたが、ルッキズムはアニメだけじゃなくジャニーズやBLやドラマや俳優やほぼ全てのテレビ番組や女性の好きなかなり色んなモノが該当するのでは?
こうした論点が思いつくにもかかわらずそこから考えないのは増田が「男」というカテゴリに入ってしまっているからだろうか
もし増田が女であればこれらの問題の議論に参加できるというのなら、内省の間だけでもそのカテゴリは外した方がいい。そこは誰もいない野湯なんだし
「もし増田が女であれば」の仮定を考える上で補助線となる別の増田が、最近ホッテントリに上ってきた
https://anond.hatelabo.jp/20151204005556
こっちの増田(以降女増田)ははてブに出会うまでなぜか女叩きのまとめサイトを自傷行為のように読みあさっていた
自分からするとなぜわざわざ自ら選んでそんなところを見に行く?と疑問に思うだろうけど、俺から見ると増田も同じに見える
理屈としてわかるのは内面を吐露して反省するといいフィードバックを得るなどの経験を積んだのだろうと思う。
増田のブコメにも増田の苦悩した状態を好意的に見る者も散見された
ところでこれを女増田に置きかえて見てほしいのだが、
女叩きに苦しみ、自分は叩かれるような対象なのだろうかと苦悩する姿を誠実な態度だと賞賛する人間をどう思うか
人だから悩む時期もあるだろうが、それが正しい状態だと言う意見は残酷だと俺は思う
脱するヒントも女増田の方に書いてある。はてブでバランスを取ったそうだ。
はてブもいい加減治安の悪い場所だが、マサカリが飛び交う分偏った意見に固まらないっていういい特性は持ってると思う。
ネトウヨやミソジニーに偏らず、増田が言うところのリベラルやフェミニズムの間違った部分に異を唱えるようなアカウントもいっぱいある
俺は知らないけど他のサービスにもそういうクラスタはあるんだろう。探してみてくれ
「リベラルならラディカルフェミニズムじゃなくリベラルフェミニズムの方に向くべきでは?」というコメントに対する返答も先程とほぼ同様、
このコメントを書いたのは俺だからこのブコメで言いたかったことを補足させてほしい
増田は「現実」というキーワードを用いて「表現の自由 vs 弱者の保護」のような対立構造を肯定してるけど
でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
実際にはそれらは対立構造になく、ちゃんと自由主義を標榜しながら女性や弱者の保護を訴える思想もあるということを示したかった。
こうした男性の悩みにも射程範囲を広げるフェミニズムは、よく「男性も男性の役割を降りて自由になるべき」という意見を出す
役割から降りた後の責任を取らない意見だと否定されがちだけど、俺はこの意見は好きだ。自由主義の精神をよく現わしていると思う
性役割は結局男性も女性も幸せにしないという思想から発生してるのだけど、この思想は増田も共有できるはずだ
ところで増田を見ると、「男」の役割に完全に嵌りこんでいるように見える。
それは結局のところ増田が初心に思っていた男女の平等の精神に反しているのではないだろうか
「リベラリズムに従えよ」増田だけど、俺の本意は「自分の主義主張と合わない界隈からは離れれば? 派閥じゃなくて自分の主義主張に忠実になろう?」って話だったんだよね。語り口で誤解させちゃったら申し訳ないけど。
で、もしリベラル増田が本心から“リベラル”やフェミニズムを支持しているならそのまま派閥に所属してればいいと思うんだけど、この返答を読む限りだとやっぱり派閥に属するのやめた方がよくない? とは思うよ。
また、現実の話もある。例えばある女性やフェミニストの方の主張に疑問を感じたり、リベラリズムに反すると思った場合、それを男性の私が指摘したり疑問を言葉にするのは、正直言って、難しい。
この雰囲気をどう伝えれば良いのか分からない、兎に角、難しい。それによって私がセクシストであり、差別主義者だと言われてしまうのでは無いかという恐れが常に有る。
増田が「社会的強者である自分が口を挟むのは差別主義だ」と本心で思っているから口を挟まない……のではなくて、差別主義者だと思われるのは怖いから口を挟まないって話なんだよね? 派閥抜けた方がよくない?
ここでまた、「またカテゴリで考えている」と言われるだろう、でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
内部批判を利敵行為とみなすの率直に言って末期症状だから早めに派閥抜けた方がよくない?
リベラルやフェミニズムに疑問を感じた事を表に出すことは出来ないし、だから、なるべく考えない様にする。納得してなくても、納得してるふりをする、でも、リベラルである事は続ける。
なんで納得できないのに納得してるふりをしなきゃいけないの? そんなことを強いられる派閥なんてさっさと抜けた方がよくない?
別に、増田に“リベラル”な思想を捨てろとは言わんよ。弱者の保護は尊い思想だと思うから増田がそれを掲げるのはけっこうなことだよ。
でも、その思想を抱えたまま、変な派閥的思考を捨てることはできるんじゃない? 同じ思想のやつからネトウヨと罵られようが、うるせえこれが俺の信じる“リベラル”だ、って自分の信じる道を貫き通す道もあるんじゃない?
で、こっから先は、増田の“リベラル”に対する俺からの疑問ね。主義主張の違いだから別に読む必要はないよ。
それに開き直るつもりは無い、「弱者を守る事を優先する」という事は、他の何かと衝突した時、そちらの優先度を下げるという事に成る。それは時には不当な加害になる事も、暴力性を持つ事も、自由の制限に繋がる事も、他者を抑圧する事も傷付ける事も、どれもあり得る。それに、そもそも自分の中の「弱者」の基準が正しい保証は無い。「弱者を守っている」つもりで、別の弱者を気付かずに足蹴にしている事も当然あり得る。
もちろん増田もわかった上で書いてるんだろうけど、強い弱いというのはあくまで相対的なものだからね。たとえば左利きのシスジェンダーの在日同性愛者男性は、左利きと在日と同性愛者という属性では弱者で、シスジェンダーの男性という点では強者だよね。女性差別やトランス差別の問題ではその人は強者側だけど、民族差別やホモフォビアや右利き中心主義の問題では弱者側で、そのときの話題によってポジションが変わってくるわけじゃん。まあ右利きシスジェンダー日本人ヘテロセクシュアル男性である俺みたいなのがいるんだから、当然左利きトランスジェンダー在日レズビアン女性みたいな弱者要素の詰め合わせみたいな人もいるんだろうけど、多くの場合は特定の要素において弱者なのであって全方位に弱者な人なんてそうそういないよね。
だとすると、基準は「弱者の保護」じゃなくて、やっぱり自由と公正に置かれるべきじゃない? どのような属性の持ち主であっても公正に扱われ、それぞれの自由を最大限に謳歌できる社会が目指されるべきじゃない? リベラリズムの信奉者としてはそう思うけど。
リベラルフェミニズムは前者のリベラル(つまり自由を優先する方)と相性が良く、後者のリベラル(弱者を優先する方)はラディカルフェミニズムと相性が良い(相性がと言うより、仲が良い、と言った方が正確かもしれない)
自分は後者が主軸なので、ラディカルフェミニズムと協調する事に成る、そうすると必然的に表現の自由等より、弱者を守る事を優先する事に成り、女性を消費するようなコンテンツを肯定できない→オタクである自分自身と不調をきたす、という事に成る。
でもあいつら弱者の保護とかいいつつトランスジェンダーを差別してるじゃん。
もちろんTERFはあくまでも一部の連中がやってることだからその罪を全体に敷衍するのはよくないんだけどさ、弱者の保護というお題目が自由とかよりも優先されるみたいな話をしてるから「女性は弱者なので保護されるべき! 女性専用スペースに男体持ちは入ってくるな!」みたいな論理に飛びついちゃうんじゃないの?
当たり前だけど、自由を重視する俺も、構造的弱者が存在するってことは公正な自由競争を行う条件が整ってないってことなんだから弱者救済には賛成だよ。でもそれは自由で公正な社会のための地ならしであって、弱者の救済そのものが目的じゃない。あくまでそれは手段で、最終的な目標は自由な社会の実現(この手段としての弱者救済を否定するリバタリアニズムには明確に反対)。だから弱者側の要求が自由や公正を脅かすのならそれに反対する。
自由を優先しない、というのは別にいいんだけど、だったらリベラルって名乗るのやめたらいいんじゃない? リベラリズムは読んで字のごとく自由の実現を重視する主張だよ。自由よりも社会的弱者の救済に重きを置くならソーシャリズムとか名乗れば?
↑を書いた後、予想以上の量のコメントを貰ってびっくりした。量も驚いたが、内容も、人によって結構違う内容や態度だったりで、何故か、その事に少し救われた(妙な話だが、敵対的な態度の人も居る事が、むしろ嬉しかった)
で、増田でたまに見るブコメ等への返事の追記をやるべきかどうか悩んでいる内に日が過ぎてしまった、ひとまずここに書いておこうと思う。
まず、「SNSをやめたほうがいい」「フェミニズムから一旦離れた方が良い」という意見が有ったが、離れるつもりは無い。
何故なのか?と言うのは自分でも良く分からない。単純に意地になって居るのかもしれない。
ただ、一つ思うのは、「終わったものボックス」に入れられるのは嫌だな、という事だ。
私が例えばSNSから離れたり、カウンセリングを受けたりしたら、私の懊悩は「じゃあ解決したね、よかったよかった」になってしまう、そうはなりたくない。(そもそも、カウンセリングはそんなに万能ではないとも思う。どちらかと言うと、他人の問題を「お終い」にしてしまう為の道具として、便利に使われている印象がある)
それに、基本的に私はリベラルもフェミニズムも正しいと思っている。
いくつか疑問に思う部分が有ったとしても、やはり離れる訳にはいかない。
また、離れても無駄だとも思う。既に私はフェミニズム的な視点や捉え方や規範を他者から学び、内面化している。
SNSから離れようが、既にそのコピーのフェミニストは自分の中にいて、その声からは逃れることは出来ないし、すべきでも無い。
「人をカテゴリで捉えるな」というコメントも多かった。それから、「リベラル派じゃなくてリベラリズムに従えよ」という文章を書いてくれた増田もあった。
正しいとは思う。ただ、実際に遣るとなると、難しい、というか、無理な気がしている。
社会問題を扱う限り、会った事も無い人の被害や加害を考えなければならない(そうでなければ、それは「社会」に対する思考ではない)、会った事の無い人について考える時に、「女性」や「男性」や「フェミニスト」や「リベラル」のようなカテゴリは非常に有用だし、それ無しで考えるのは不可能じゃないかと思う。
また、現実の話もある。例えばある女性やフェミニストの方の主張に疑問を感じたり、リベラリズムに反すると思った場合、それを男性の私が指摘したり疑問を言葉にするのは、正直言って、難しい。
この雰囲気をどう伝えれば良いのか分からない、兎に角、難しい。それによって私がセクシストであり、差別主義者だと言われてしまうのでは無いかという恐れが常に有る。
これは私に限った事ではなく、私の周囲の人も、女性に限らず、社会的弱者や当事者の方の言う事に疑問を呈す場合は、かなり慎重に行う。社会の非対称性を考えれば当然の事だとも思う。例え多少おかしな部分があったとしても、それを強者である男性が、当事者の口を塞ぐというのは、有ってはならない、と思う。
それから、リベラリズムについては、説明がし辛い。昔は自分も所謂「自由を貴ぶ」という意味でのリベラリストのつもりだったが、今は、(大雑把な表現だが)「弱者を守る」という意味でのリベラルである。今の日本でリベラルと名乗る人の大半は後者だと思う。
ただ、彼の言う事は本質を突いている気がする。恐らく、自分は今後者のつもりだが、後者に成り切れておらず、前者の部分が残ってしまっているのだ。
前者の意味でのリベラルは、現在の日本ではむしろ所謂「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」(と、後者のリベラルが見做している人達)と相性が良い。
気付いた人は多分居ると思うが、前回の増田で私が書いたフェミニズムへの疑問(ゾーニングの公の範囲や、BL等の免罪等)は、上記の様な、リベラル、フェミニズムの敵対者が良く主張している事に非常に似ている。そのもののものもある。
恐らく、つまり、私はリベラルを自認しているが、私の中にはネトウヨ的な部分や、ミソジニーも有るのだと思う。
だから私は、恐らく正確には、前者と後者、両方のリベラルであり、だから、その矛盾に引き裂かれているんだと思う。
「ネトウヨ」や「ミソジニー男性」といった言葉の選択には怒る人も居るかもしれない、ただ、これは便宜的な呼称だと思って欲しい。
少なくとも現在の日本では、後者の意味でのリベラルやフェミニズムの問題点を指摘できるのは、彼らだけだろう、といより、問題点を指摘すれば「ネトウヨ」「ミソジニー」と呼ばれる事に成る。
だから、私のフェミニズムへの疑問は、「ネトウヨ」「ミソジニー」という事に成らざるを得ない。
ここでまた、「またカテゴリで考えている」と言われるだろう、でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
リベラルやフェミニズムへの疑問や矛盾に悩む私に「SNSから離れた方が良い」と言葉を掛けてくれる人は一杯居た。けれども、「そのような矛盾をこれから解消しよう」と言ってくれる人は一人も居なかった。
(いや、こう言う言い方は不当かもしれない。そもそも、リベラル側の人は、そのような矛盾が有るとは思っていないのだろう。だからその解消を求める事自体がお門違いなのだ)
これまで書いた事について、正直な所、後ろめたさというか、これでいいのだろうか、という迷いが有る。
リベラルやフェミニズムに矛盾や問題点がある、なんて事を書いて、いいのか・・・分からない、それ自体間違っている気もするし、「間違っている」と言われる気もする。
ただ、まぁいい、もうこうなったらいっそ、(滅茶苦茶長くなるだろうが)思った事全部書いてしまおう。
「リベラルならラディカルフェミニズムじゃなくリベラルフェミニズムの方に向くべきでは?」というコメントに対する返答も先程とほぼ同様、
リベラルフェミニズムは前者のリベラル(つまり自由を優先する方)と相性が良く、後者のリベラル(弱者を優先する方)はラディカルフェミニズムと相性が良い(相性がと言うより、仲が良い、と言った方が正確かもしれない)
自分は後者が主軸なので、ラディカルフェミニズムと協調する事に成る、そうすると必然的に表現の自由等より、弱者を守る事を優先する事に成り、女性を消費するようなコンテンツを肯定できない→オタクである自分自身と不調をきたす、という事に成る。
まぁ、日本ではラディカルフェミニズムが支配的で、リベラルフェミニズムはあまり広まっていないという事情も有るとは思う。(アカデミズムでリベラルフェミニストの有名な人って例えば誰が居るんだろうか)
訂正と謝罪をするべき事が有る。
増田で↓のように書いた。
学生時代の苦しみは、一体何だったんだろうか?あの時の加害者の中には女性もいる。彼女は弱者で、自分は強者である。
キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人がフェミニストとして、男性を糾弾する。
俺は一体何なんだろうか?
これについて、「キラキラしてない、パッとしない女性もいると思い出してほしい」「美人の苦しみを矮小化している」という批判があった。宇野ゆうか氏の下記のページもそれに当たるだろう。
https://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2020/06/28/134939
これについては謝罪すべきだと思うのだが、うまく出来る自信が無い、何故かと言うと、↑の部分は指摘された様な意図で書いた訳ではないのだが、
「そういうつもりでは無かった」「誤解を与えてしまった」という謝罪は、正しい謝罪では無い、と言うのは常識になっている。では、他のどのような謝り方が正しいのか、考えてみたが、上手く答えが出なかった。
ただ、それも難しい。この部分は、正直に言うと、自分でも何が言いたいのか分からない、「俺は一体何なんだろうか?」という漠然とした疑問が主題だからだ。
ただ、いくつか明言できることは有る。まず一つは、「キラキラしてない、パッとしない女性もいる」という事は、自分も勿論分かっている。この文は「女性やフェミニストはみんな、キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人である」という意味では無いし、そう意図しても居ない(ただ、そう読み取れる余地を残してしまった事はやはり自分の落ち度だと思う)
女性の中に、「キラキラした人、美しい女性、充実した人生を送ってそうな人」が居る、と言う事を念頭に置いて書いていた。(「女性はみんな~である」と「女性の中に~な人も居る」の違い)
また、「キラキラした人、美しい女性はみんな、充実した人生を送っている」という意味でも書いていない。キラキラした、美しい人にもそれぞれ固有の苦しみは有るし、そもそも女性差別は制度的な差別を含むから、社会的な美醜に関わらず多くの場合被害は受ける。外見からその人の人生を推し量ることはできない(だから、宇野ゆうか氏の書いた事は正しいと思う(正しいとか、何目線で言ってるんだという話だけど・・・・))
従って、「キラキラした、美しい、充実した人生を送る人が男性を糾弾するのは間違っている」と言いたい訳でも無い。そういった人も女性差別には遭うのだから、糾弾するのは正当な権利だ。
ただ、分からない、この感じをどう表現すれば良いのか、この「何なんだろうか?」と言う、分からない感じ、分からないと言う事を、どういう言葉で表現すれば伝わるのか。
ミクロに、カテゴリに頼らず個人個人で幸福度を比べれば、私より幸福な人生を送っている女性は居る、それは確かだと思う、けれど、それで女性差別の糾弾をしなくていい事には当然ならないし、私は糾弾を続ける。ただ・・・ダメだ、分からない、どう言えば良いのか、つまり、名前が無い、と言えば良いのだろうか、女性が人生で被る苦しみの一部は女性差別に起因する、では、私の苦しみは?男性差別?それも違う、分からない、どう言えば良いのか、言葉にできない・・・・・
ただ、そんな私の言語化能力の拙さとは関係無く、訂正と謝罪はするべきだろう。
件の文章は「キラキラしていない、パッとしない女性は居ない」と言う意味や、「キラキラした人、美しい女性は苦しみを抱えていない」という意味では無く、書いた時の事を思い出す限り、「キラキラした、美しい女性」の中でも特に幸せな人を念頭に置いて書いた(だから、美人であり、かつ苦しんでいる人はここでは対象に含めて居ないので、安心して欲しい(安心して欲しい、というのも変か・・・・・))、しかし、にも拘らず、そのような解釈の余地を残してしまう拙い書き方でした。申し訳ございません。
これで上手く出来ているのか、分からない。もっと適切な謝り方が有るんだと思う。
色々書いたけど、(まだ、思っている事は全然書き切れて居ない気がするけど)改めて言っておく、疑問を感じることはあるけど、それでも、自分は「リベラル男性」を続ける。
リベラルやフェミニズムに疑問を感じた事を表に出すことは出来ないし、だから、なるべく考えない様にする。納得してなくても、納得してるふりをする、でも、リベラルである事は続ける。
自由を何より優先するという意味では無く、弱者を守る事を優先するという意味で、リベラルである事を続ける。
それに開き直るつもりは無い、「弱者を守る事を優先する」という事は、他の何かと衝突した時、そちらの優先度を下げるという事に成る。それは時には不当な加害になる事も、暴力性を持つ事も、自由の制限に繋がる事も、他者を抑圧する事も傷付ける事も、どれもあり得る。それに、そもそも自分の中の「弱者」の基準が正しい保証は無い。「弱者を守っている」つもりで、別の弱者を気付かずに足蹴にしている事も当然あり得る。
だから、私は、正しいとはとても言えない。むしろ、客観的に見れば悪である可能性も有る。
でも、兎も角、自分の見える範囲を見て、考えられる範囲を考えた結果、やっぱり自分はリベラルである事を選ぶ。ただ、それが正しいと盲信する事だけは絶対にしない様にしたい。
長く書いた。流石にこれは読まれないと思うけど、まぁ、構わない、謝罪部分だけは然るべき人に届けばと思うが、それも望む事しか出来ない。
最後に、この文章を前回の増田と分けた理由は、単純に馬鹿な程長くなってしまったと言うのも有るけど、それだけじゃなく、「本当に元の増田が書いたか分からない」ようにするのも良いのではないか、と思ったからだ。
この文章はもしかしたら、元の増田とは別人が、彼を装って書いただけかもしれない、そうだった場合、読んだ人の感想は変わるだろうか?
まぁ、そもそも、こんな長い文章読む人は居ないと思うけど、もし居たら、なるべくどちらとも決め付けずに読んで欲しい。本物か、偽物か、平等に考えてどちらか判断できる根拠をあなたは持っていないはずだ、だから本物でも、偽物でも、どちらでもあり得るように読み、考えて欲しい。
(最後に、前回の増田の様に沢山のコメントを貰えたのは初めてだったので、痛々しいと思いつつ、ブコメを見るだけじゃなく、ツイッターでも検索してしまった。
そしたら(もしかしたら検索の仕方とか過去ログの有効期限のせいかもしれないけど)最初にこの増田の事をツイートしたのが、おねロリキメセク天皇で笑った。ちょっと、嬉しかった)
「ドラえもん、のび太の小宇宙戦争」(以下リトルスターウォーズと呼ぶ)は大長編作品の中でも屈指の名作だと思っていた(旧鉄人兵団には劣るが)。軍事独裁政権に立ち向かうというテーマがまず良いし、何より主題歌「少年期」は名曲中の名曲だ。雲の王国もそうだが、主題歌が良いと名作に思えてくる。
今でも好きか嫌いかで言えば好きなのだが、ただ真面目に観てみると突っ込みどころが多すぎてイライラするのである。
ピリカ星人より地球人のほうが圧倒的に強いのだからパピくんはもっとのび太たちを頼ればよかったし、ドラコルルがまったく地球人に対し慎重にならずスネ夫たちを襲撃するのも不自然だ。あの襲撃の流れで出来杉くんがフェードアウトするのも不自然だし、何より体のサイズというメリットを自分から手放す意味が分からない。ピシアの探査球への警戒も足りないし、わざわざ挑発するのも相手を嘗めすぎている。いや嘗め切っても全く構わない相手ではあるが、そのせいで殺される寸前にまで行ったのだから弁護の余地はない。
スモールライト奪われた段階ですぐドラミちゃんに連絡しろよとか、ビッグライトなり使えよとか利用すべきカードを切らないのはドラえもんだから仕方ないとしても、あまりにも墓穴を掘りすぎている。
自由同盟の地下組織に行く際が最たるもので、まずのび太のような足手まといを連れていくのが失敗の元だし、ロコロコ以外にもっとマシな案内役いないのかとも思うし、のび太を見捨てなかったせいでアジトを突き止められたうえ、見られた可能性があるのにそれを組織の人々に告げずピシアに急襲されるにいたっては戦犯以外の何物でもない。
使うべき道具を使わないのは大長編では仕方ないとしてもそれ以前の利敵行為ばかりやっているので見ていてイライラする。それでもストーリー展開とテーマ性と主題歌が良いから名作には変わりないが、これほどドラえもんたちが失点ばかり積み重ねた作品も無い。
「すでに自分は(元気で無症状の)病原体保有者かもしれない」と考えようキャンペーンを、世界中で始める影響力の高い人は出てこないだろうか。
昨今、世界中で罹患者、医療従事者、そして人種への差別が横行し始めている。
SARS-COV-2との戦いにおいて、罹患者、寛解者、医療従事者そして人種への差別行為は、利敵行為となる。
SARS-COV-2の思う壺となってしまう。なぜなら、差別行為が、感染疑い者の申し出を妨げ、潜航させてしまうから。そして医療従事者の離職を招くため。
「うつされたくない、怖い」という恐怖感が差別を生んでいるのはよく分かる。自分の中にもそうした感覚はある。
そこで、世界中で標題のキャンペーンをはる人は出てこないだろうか(インフルエンサーで)。
「すでに自分は(元気で無症状の)病原体保有者かもしれない」という思いを共有するキャンペーン。
そうした認識が広く共有されれば「うつされたくない」という恐怖から、「人にうつしてしまうかもしれない」という心配に気持ちが変わる。
他人からの感染より、自分の内なる敵の動きを探る方に気持ちが集中し、怪しい状況となれば、積極的に休む。マスクは人にうつさないためにする。手洗いも人のため。
「今まさに自分が病原体保有者」と考えれば、恐怖からそうした思考に変わらないだろうか。
甘いかな。
■男女平等で男女仲良くが真のフェミとか言うクソオス、お前の様なオスを排除して女性独裁するのが真のフェミだよ
男の語るフェミニズムは「男のオレが不快にならない程度のフェミニズム」でしかない
「真の男女平等」とか「エセフェミ」も男に都合が良いものでしかない
そういう考えがすでに女性蔑視に染まってるクソオスでしかないし排除するしかないつってんだよ
そして女性を加害して今の地位にいるくせに、笑顔で仲良くしようとかサイコパスですか??
まずはその踏んでる足をのけろよ
男もフェミニズムを学ぼうとか男にとってもフェミニズムは救済とかそうやって男に媚び売って改善してもらおうとしても全く意味ない
そもそもオスが勝手に互いに殴り合ってるだけだから自分らでやってればいいのに、それでフェミニズムに頼って相手にされなかったら噛み付いてくるから本当に救いようがない
フェミニズムは女性のための女権拡張運動であってお前みたいな被害者意識だけ強いくせに女には加害してくる雑魚オスのママじゃねぇ
実際町山みたいなリベチンや「娘や嫁を守るためにフェミ」とか言ってる家父長制オスしか生まれてないじゃん
これが政治も何もかもおっさんが決める地位にいる間はいくら媚び売っても「男のペットとしての権利」程度しか認められない証拠だよ
結局金持ちが貧乏人と仲良く一つになってがんばろうとかいう階級協調主義=国家社会主義はごまかしでしかないのと同じ、金持ちは貧乏人を搾取することで利益を得るし、それを払いのけるためには金持ちを階級闘争で倒すしかないのと同じで、男は結局今の支配構造を維持して利益を得続けたいし、女性蔑視的価値観に完全に染まりきってる。男女闘争で男を倒して女性だけで社会のことを決めれるようにして一度この構造や価値観を根絶しなきゃいつまで立っても「男女平等」なんかにはなりはしない
男やそれのご機嫌取りで利益を得てる名誉男性は、男女の矛盾や対立、支配構造を覆い隠して男女仲良くしてもらわないと困るだろうけど、逆にフェミニストはその男女の矛盾や対立、支配構造を徹底的に暴露して煽ることで「男女を仲良く」なんていう策略を打ち砕く
一時的にプロレタリアート独裁があるように、まず男性を今まで女性に加害することで得たあらゆる地位から排除して、女性独裁の間にフェミニズムに基づいた女性のための社会を作る必要がある
教育や旧来の家父長制的価値観やセクハラ思考を与える習慣、表現を排除してまともなオスの子供が育ったあとなら、「男女平等で仲良く」やれるかもしれないけどな
労働者と資本家だったら数の多い労働者が勝つかもしれんけど男女で争ったら負けるわけないし
後々反フェミ認定されて粛清や強制収容所で再教育とかされるぐらいなら確かに男女仲良くとか生ぬるいこと言ってないでさっさと争って終わらせたほうがいいな
また一人が自殺という傷ましい結果に向かう出来事があった。その発端に「いじめ」があったことは、おおむね事実と考えたい。その上で、各社が見出しにしているこの文言、そして取扱方は全くフェアではなく、ハッキリ言って問題解決には何の役にも立たないどころか有害であると私は思う。
“教育委員会は大ウソつき” 15歳男子生徒が自殺 埼玉 川口(2019年9月9日 18時16分:NHKニュース)
埼玉県川口市の中学校に通っていた当時いじめを受けたとして、自殺未遂を繰り返していた15歳の男子生徒が、8日、自殺したことが分かりました。いじめについては、市の教育委員会が調査を進めていましたが、生徒の部屋には、「教育委員会は大ウソつき」などと書かれたノートが残されていたということです。
関係者によりますと、8日の未明、埼玉県川口市の小松田辰乃輔さん(15)が市内のマンションの敷地内で死亡しているのが見つかり、屋上から飛び降りたとみられるということです。
小松田さんは中学1年生だった3年前、部活動の先輩や同級生から悪口や仲間はずれなどのいじめを受けたと訴えましたが、学校の対応に失望し、自殺未遂を3回繰り返したということです。
その後、おととし11月になって、市の教育委員会は第三者委員会を設置し、いじめの調査を進めていました。
中学校を卒業した小松田さんは別の学校に通っていたということです。
自殺したあと、小松田さんの部屋から見つかったノートには、「教育委員会は大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる」と、教育委員会の対応を批判する内容が書かれていたということです。
川口市教育委員会指導課の三浦伸之課長は、「本人への聞き取りを要望していたが、話せる状況にないということで実現していませんでした。教育委員会への不信感を訴えて自殺したことを重く受け止め、対応に問題がなかったか確認したい」と話しています。
小松田辰乃輔さん(15)の自宅の部屋には、市の教育委員会の対応への批判が書かれたノートが残されていました。
ノートには、「教育委員会は、大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる。いじめられたぼくがなぜこんなにもくるしまなきゃいけない。ぼくは、なんのためにいきているのか分らなくなった。ぼくをいじめた人は、守ってていじめられたぼくは、誰にも守ってくれない。くるしいくるしいくるしいくるしいつらいつらい。ぼくの味方は、家ぞくだけ。くるしいつらい」と書かれていました。
そう考える理由。
どんないじめ事件であっても、片側の言い分だけで解決することは難しい。周囲からの意見も、バイアスがかかるので参考程度にしかならない。あくまで「本人」からの聞き取りは必須の要素である。もちろん、保護者はしばしばそう考えない。それは「ウチの子が嘘を言うわけはない。それはずっと育ててきた私たちには分かる。この子には問題などない。実際いままでは問題なかった。なのに今この子がこんなに苦しんでいるからには、周囲に問題があるはずだ。」と、そう考えるからだ。
だが、教職員、あるいは教職員出身の教育委員会事務局関係者はそうは考えない。どんな子も状況次第で嘘をつく可能性はある。その子をずっと育ててきてはいないとしても、何十年にわたって同年代の子供を千人以上見てきた経験からそれは言える。問題の無い子などいないし我が子を過信しない親というのもまずいない。これまで他との関係性の中では起きなかった本人自身の問題が、別な関係性の中で発現することも充分あり得る。場合によっては、そのことを直視し自己の問題(それは保護者との関係性の問題である場合もある)に気づくことが本人の成長に必要なことさえある。だから、苦しんでいること自体はその子の非責任性(その子に責任がないこと)の証明にはならないし、いずれにせよ、周囲に問題があるかないかも含めて本人への聞き取りは必須だ、と考える。教育職のプロフェッショナルなら、誰しもそう考える。
そして、それを阻害していたのがおそらく保護者だ。
本人「ぼくの味方は、家ぞくだけ。」
この家族は、生徒本人に「味方」と認識されていたとのことだ。それ自体は間違っていない。結果として防げなかったとしても、味方がいると信じさせることが命を救うこともある。だが、「生徒から味方と認識されること」は重要だが、それは「自分たち以外の全てが敵だと認識させること」とイコールであってはならない。家族は、問題を適切に解決に導けるよう、教育委員会と協力して問題にあたることが必要であり、可能なら、自分たちの利益に沿って動いてくれると信じられる適切な第三者(たとえば代理人としての弁護士)をたてて交渉した方がよかった。教育委員会が立場上、加害者とされる生徒も含めて「両者の利益を最大化するように」動くのは当然であって、何ら問題ではない。教育委員会が、真理を解き明かす(捜査能力のある)機関でもなければ、罰を下す(司法)機関でもなく、教育を通して社会全体の益を最大化するための機関である以上、それは当然のことだ。そのためには、当然「いじめた側」の話を聞き取る必要もある。当然ながら、それはあくまで「片側」の聞き取りに過ぎないから、話半分にしか聞かないし、「いじめられた側」に「~と言っているがどうですか」と聞くのは、単に双方に対する事実確認以上のなにものでもない。にも関わらず、
というような受け取り方をされるのはどういうことか。生徒本人と会えていない以上、これは、保護者がそういう伝え方をしたと考えるしかないわけだが、「いじめた側」の言い分を聞くことが「相手に味方することであり利敵行為だ」と捉えるような見方を保護者がしていたのでは、事態解決に向けた健全な協力関係を作っていくこと自体が難しい。
そのような状況で、教育委員会への不信を連ねた(極めて一方的な言い分を)書き連ねた遺書を見出しに掲げることに、一体どのような意味があるだろうか? 上記を踏まえれば、教育委員会が「嘘をつかせた」というのは明らかにおかしい上に、教育委員会はそんな嘘をそもそも「信じていない」可能性の方が高いだろう。問題は、あくまでそのような状況における教育委員会と家族の協力を台無しにさせたそのような敵対的関係であり、ではそのような敵対的関係を作り上げたのは何かと言えば、このように不安を煽るマスコミのセンセーショナリズムがその一因ではないのか。
もちろん、教育委員会の極めて「お役所的対応」が保護者の不信感を買うことも、事態の一つの側面ではあろう。その点については、できることは重々反省した方がいい。しかし、この件で教育委員会の対応に特段の問題があったようには自分は感じない。強いて言えば、なんとか家族を説得して、生徒本人と経験豊富な指導主事なりが対話できればよかったが…という位だ(それができなかったからこうなったのだが)。それができたら生徒は死ななかったのか、と言われれば、私は「おそらく死ななかった」と答えよう。直接会えば、生徒も「教育委員会の人も敵ではない」ということを理解できた可能性はあるからだ。教育委員会の人も「僕を守る人」だということを理解できたかもしれないからだ。これは、家族を批判しているのではない(そんな死体蹴りがしたいのではない)。家族(と本人?)をここまで頑なにさせてしまったのは何か、という話だ。
そう思わせたのは何なのか? 学校と教育委員会が100%悪? それでいいのか?
そもそも「自殺した」ことをもって、その人を全肯定する理由とはならない。たとえばマスコミは、この生徒の「いじめられた」という主張が実はいくらか大げさであり、周囲の生徒からの困惑のコメントに対して「あいつらは嘘をついている」と意地を張りたい生徒があてつけで自殺未遂を繰り返した、みたいなケースについては想定したのか。そのような場合であっても、同じような見出しを付けて教育委員会の問題を指摘するのが適切な報道と考えるのか。いずれにせよ私は、このような形で自殺した生徒について大げさな報道を繰り返すのは、そしてその後についてはまともな調査も報道もしないというのは、ただのセンセーショナリズムでありゴシップ誌の発想でしかなく間違ってもジャーナリズムではないと考える。
事実というのは、そんな単純に善悪を切り分けで説明できるものではない。少なくとも、このような事件に絡んで「教育委員会が悪いから生徒が死んだ」という極めて単純なストーリーしか描けないとしたら(言い換えれば「教育委員会を罰すれば問題は解決する!」とか思うのは)、それは単純な正義感を振りかざす危険な人物であり報道だと思う。
>ところで山田太郎、もうオタクコンテンツを表現規制から守るのにも殆ど役に立たないだろうことを、前もって記しておく。
>今回完全に腰抜けで、気持ち的なものだけ書いて逃げたことは自民党議員は見ている。今回できないことは次回もできない。
>53万の戦闘力(票)は見事、表現規制側のパワーに変わった。
https://twitter.com/micha_soso/status/1158117265558011904
すげーな。
津田大介氏の安い挑発に乗って、それこそ山田太郎氏に愛国だのと難癖をつけて、各地を炎上させつつ、例の市長と一緒にイベントを中止させて、津田大介氏やブサヨが利する、ある種の利敵行為を行ったネトウヨもネトウヨだけど、ブサヨもブサヨで狂っているのはこのツイートをみていたら良く判るわ。
どうやら津田大介氏の表現の自由の自爆テロ行為としか思えない、イベントに対して、何もしなかった事が余程気に食わなかったみたいだ。
山田太郎氏から下手な言質が取れなかった事に対しても余程悔しかったのもあるのかもしれない。
そもそも山田太郎氏が支持されたのは児童ポルノ禁止法や都条例、著作権問題やTPP等の問題で実際動いた実績が評価されての事なんだけどね。
それと主に漫画アニメ好きのオタクや同人界隈の人間からの支持であって、今回騒いでいるような人間の支持ではないんだよ。
ようは当時、票にならないと切り捨てられていたオタクの皆様って言う意味ね。
それにどうみても今回の津田大介氏の表現の自由の自爆テロとも言える行為は下手に動いたら、それこそ火の粉が規制反対界隈自体に飛んできて、余計に状況を不味くする危険に晒す事に繋がるのは目に見えていたし、津田大介氏は山田太郎氏みたいな表現の自由を守る人間は中止にさせる事をしてはならないと言うしかない事を判っていて、あのようなイベントをこのタイミングで悪意をもってやらかしたのは津田大介氏の今回の声明をみたら判る事だしな。
津田大介氏に関しては今回余りにも手口が悪質すぎるよ。
そもそもこの件、山田太郎氏はコメをしただけで直接かかわってすらいないのにな。
本当こいつらブサヨの狂いっぷりが良く判る。
不注意に安い挑発に乗って、イベントを中止させたネトウヨはそりゃ悪いけど、一番悪いのはリスクを判った上でこんなトンでもないイベントをやらかした津田大介氏及びブサヨだよ。
ネトウヨも中止なんかさせずにどうせならこの後、ポリコレに消された表現の自由展とか言うカウンターでも仕掛ければよかったのにと思う。
それとこいつの垢見ていたら、ゲイとか山本太郎とかれいわとか書いているし、どうせこいつも普段ポリコレ棒振り回す様な人間なんだろうなあと思う。
どうせこんなのが、普段彼等はエロコンテンツしか動かないだのどうのこうの言っているdisキャン張っている様な人間なんだろうなと思う。
この手の奴らが早速調子乗りだしたので頭が痛くなるね。
しかしこう言うのを見ると野党から表現規制に反対する人間が離れて、山田太郎についたのも逆に判る様な気もするよ。
当時、オタクは票にならないと言われていたし、今回は票になったのもあるから、それが余程悔しいのもあるのかもしれないね。
ネトウヨもネトウヨならブサヨもブサヨだわと心の底から思わされる。
流石に今回の騒動はこんなキチガイとしか言い様がないネトウヨやブサヨから粘着された山田太郎氏には同情するよ。
山田太郎氏自体、政策は個人的には合わない点もあるけど、この一連の騒動を見ていて、こいつらにどうこう言われる筋合いはないと思うからな。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
~かしらとつける男性の名前だけを見て、最近ここ三か月くらい遊んでるチャットベースの人狼ゲームで演じている
リリアンという紫髪のオネェっぽいキャラを思い出したので知見を書いておく。
リリアンに出会う前にショーン、エリック、ミカミカ(いずれもキャラクターの名前)と渡り歩き、
時にはリア狂(リアル狂人=利敵行為を働いたり部屋のメンバ多数派の総意に従わない人間)と叩かれていたあたし。
しかし、リリアンになりきることで勝率も上がり、GoodGameが増えたなと思うことが増えた。
■語尾に♡(ハートマーク)をつける
⇒リリアンがリリアンな最たる理由はこれ。ほかのキャラが使ってもいいですが、一番似合っているのはリリアンです。
3行跨げば長いと大体言われるゲームにあって♡は一つだけで返信にもログ稼ぎにも使える優れもの。
感極まったら村ナイスね♡♡♡♡♡‼‼とハートを連打しましょう。
♡が文字化けする(iPhoneユーザ、Androidが混ざっていると起きる)、♡がしつこいというユーザがいたら
「ハートを盗られたリリィはただのオカマよぉぉぉ!!...でもごめんね」と断って使用を控えましょう。
♡がめんどいというリリアンにも会ったことがありますが、そんなあなたはゲイル(映画ハンクに似た感じの化物風キャラ)を使えばいいじゃない♡
⇒あなたは墓Barの店主です。なりがちです。だから常連客になりそうな村皆様には感謝と親しみを込めて普段から愛称で呼びましょう。
一例) ジェシカ⇒ジェシー♡, ミカ⇒ミカミカ♡ ショーン⇒ショーンたん♡
...距離をつめる材料は大きな力になります。野郎はわからないわ ♡
⇒進行が村目で疑われていたり、逆に独善的でやりづらさを感じたときはこの手で撹乱しましょう。
グレーの村にキッズがいれば、リリアン彼氏いるの?と勝手に食いついてきます。
イケメン芸能人の名前をリアタイで五人くらい追っておくと墓場でのピロートークも盛り上がります。
ゲームの主年齢層が自分と一回り離れているので、話題作りにもなります。
ただし、あたしのようにガチムチ系がほんとは好みでも出すのは止めましょう。
...でもあなたの考える等身大のリリアンと女の子が考えるリリアンが重なることは決してないから注意するのよ ♡
比較的女の子が多いゲームなので部屋によっては問題なくプレーできますが、LGBTの世相を反映するように男性のリリアンに対する当たりは個人差が非常に激しいです。
したがって、このオカマとヘイトを向けてくるキャラがいたら、吊るないし嚙みにより居心地のいい環境を作るのは非常に重要です。
逆に、ローラやジェシーの中の人が女性だったの時の、初期好感度ステータスは、平均して80%を超えています。いまだに理由がわかりません。
リリアンだー♡と言ってきた彼女たちの言動に注意しましょう。うまくいけば無条件にあなたの味方になってくれるでしょう。
進行で吊る人を決めたときに、「遺言聞くけど、ラーメンって何味が好きかしらん?♡」みたいな雑談が許される雰囲気もリリアンの強みです。
吊る人が付き合ってくれると、その人の色が白でも黒でも次の日に非常に良い雰囲気にもっていきやすいです。
でも、明らかに自分の存在が利敵行為だから、黙ってる。内心だけは自由だしな。リアルの実名の空間では絶対に言わない。
俺の主張は、ゾーニングしてはいけない、見たくない権利というのを許してはいけないというものである。
なにか存在するものを見たくない、都合の良いものごとだけ見ていたいという考え方が、大日本帝国を戦争に走らせ、多数の働き手を戦争で、戦闘ですらない餓死で失うことになった。
大本営発表で都合の良いことだけ景気よく流すようになったのも、もとはといえば純潔教育やらの言論規制から矯風会あたりへ行きつく。
まあそんなわけで(飛躍)街頭にホモビデオやらレズビデオやらアダルトビデオやらをモザイクなしで流し放題できるよう法改正すべき。
と思ってるから、じっと黙ってる。
やっぱ、後世の歴史家()から悪者扱いされることはしたくないよね。
まあ、パールハーバー、パールハーバーってしつこく言われてトラウマになってる分、ナーバス過ぎる部分はあると思うけどさ。
でも過去の歴史(特にWW2以降)を見ると、大体の場合において、戦争の正当性()を主張できるのって「先に殺してない」側だと思うんだよね。
イラクやアフガニスタンを見ても、アメリカが悪者っぽく見えるのは、やっぱり客観的に見て9.11との因果関係が弱いせいでしょ。
戦争する以上、口実が大事ってのは大昔からの常識で、そこで失敗すると勝っても後ろ指さされることになるのは歴史が証明してるはず。
「勝てば官軍」は嘘じゃないけれど、正確には「負ければ賊軍」であって、勝っても非難を浴びることは往々にしてある。
この辺を失敗すると、例えば盧溝橋のように延々と禍根を引きずることになる訳だ。
つまり何を言いたいかというと、どうしても攻撃なり暗殺なりをしたいなら、相手を罠にハメてでも、向こうが先に殺したという確たる証拠を作る以外にないよね、ということだ。
挑発合戦を繰り返しているのもそういう背景があってのことだし、その辺も理解せずに先制攻撃を煽るのは明らかな利敵行為なんだけど、本当に愛国心()があるのかねーと思う次第でございます。