はてなキーワード: ソーシャリズムとは
でも男女の賃金格差が縮んでも女が下方婚してないのは事実だし、
本文中に書いた通り。女が下方婚をしない? それの何が問題なんだ、男が若い女を好むのと同じだ。統計的に見ると男が年上というカップルの方が多いが、何も問題ない。個人の自由だからだ。給料が安いがゆえにモテないのは女の責任ではない。原因は薄給なことにあるんだから政府や企業を殴るべきなんだよ。
いきづらいと感じている男性がいる というのが弱者男性論の主題なんだが。
そこは否定できないだろ。
そこは否定しないが、だったら何? とも思う。俺の人生も発達のせいでたいがい生きづらいが、それは俺の問題だ。あるいは俺の家族や俺の主治医や俺の上司の問題にはなるかもしれないが、社会の問題じゃない。
本文中でほのめかしたが、伝わらなかっただろうか。「フェミが憎いのはわかる(俺も献血よく行くマンなのであいつらは大嫌いだ)」と書いたはずだが。キズナアイにイチャモンをつけ献血ルームのポスターを指さして暴れ高海千歌ちゃんの宣伝を撤去させるようなクソフェミどもは俺にとっても不倶戴天の敵だ。そいつらに立ち向かうというなら連帯する。
それはフェミニズムのスローガンだろう。俺は本文中でちゃんと「フェミが大嫌い」と書いたはずなのだが……
“女性が上昇婚するのはどう考えても個人の自由” こと女性に関しては「こういう〇〇が社会に影響を与えてルッキズムが〜女性のモノ化が〜性的消費が〜」って散々言ってる口で、これだから二枚舌だと言われるのよ
マジで日本語読めないんだ。すげーな。俺はああいうイチャモンフェミも嫌いだけどお前みたいな日本語読解力皆無のやつも嫌いだよ。
上昇婚については「自由」だとは思うけど、それを謳歌することのジェンダー性から目を背けてジェンダーフリーが実現できると思ってるなら正直「女性の足を引っ張ってる」というお話で、弱者男性関係ねぇよなと
俺はリベラリズムとは「個人に可能な限り多様な選択肢を与える」ことを目指すべきだと思っている。そのうえで言うと、ジェンダーフリーとは「選択肢に色をつけない」ことだと考える。
どういうことか。男の子のランドセルは黒、女の子は赤、これが「規定」として決められてしまっていたら、赤いランドセルを背負いたい男の子や、黒いランドセルが好きな女の子が自分の望む色を実現できない。だが、多くのカラバリの中から女の子が赤やピンクを選ぶぶんには自由ではないだろうか。結果として男の子が全員黒いランドセルを使って女の子が全員ピンクのランドセルを背負っていても、仮にそれが個々のご家庭の自由な選択の結果であるならば尊重し、肯定するべきだ。重要なのはそれを自分で選んだということであり、選ぶことができたということなのだから。
なので、女性の自由な行動の結果としてお金持ちの男性に養われる専業主婦が生まれたとしても、俺はそれを非難しようとは思わない。当人の自由だ。大事なのは、もしも彼女がなろうと思えば医者や銀行員や代議士になれたか? ということであって、実際に彼女がそうなるかどうかはあまり問題ではない。
勘違いをしているようだが、リベラリズムは自由の実現を重んじる主義であって弱者の救済は必要条件ではない。自由な競争の結果ある程度の格差が生まれることは容認する。弱者の救済を必要条件に掲げるのはソーシャリズムとかコミュニズムとかそういうやつだ。ここテストに出るので憶えておくように。
現代のリベラル派が弱者を救う福祉国家を支持するのは、まず物質的な基盤がなければそもそも自由を実現することができないからだ。職業選択の自由があっても、手元に紙とペンすらなければ最底辺の職しか選べない。そんなのは自由な選択とはいえない、というのが現代のリベラル派が弱者救済を訴える際の基盤となる論理構成である。弱者救済はあくまで自由の実現のための手段に過ぎない。
え? 知り合いのリベラル派が自由よりも弱者救済が大事なんだよって言ってた? そんな子はウチの子じゃありません! そんなにソーシャリズムが好きならソーシャリストになっちゃいなさい!(一応言っておくと、社会自由主義という立場はある。俺はどちらかというとこの立場。それでも軸足をどっちに置いているかといえば「自由」の方だからリベラル派って名乗ってるけど)
自由の拡大を支持しているから。具体的には、選択的夫婦別姓の導入、大麻と同性婚と安楽死の合法化、わいせつ物頒布罪・単純賭博罪・常習賭博罪の廃止、賭博開帳図利罪の改正(民営賭博の合法化)、公衆浴場での入れ墨の容認、動物愛護法の改正(虐待罪の廃止)あたり。これらは人間の自由を合理的理由なく制約している。不当に自由を脅かす制度はなくなるべきだ。
虐待罪の廃止と書いたんだから、普通に読めばわかるだろうと思うのだが……俺個人としては可愛い犬ちゃん猫ちゃんをいじめる奴らはサイテーだと思うが、しかし他人の動物ではなく自分で買ってきたりした自分の動物をいじめる分には個人の自由だ。彼らが道徳的非難を浴びるのは仕方ないとしても、他の人間の権利を何ら脅かしてはいないのだから刑罰を受けるべきではない(他人のペットを蹴り殺すような奴は他人の財産を脅かしているので動物愛護法がなくても処罰できる)。
お前が認めたくないことはわかったが、それは他人に刑罰を科す理由にはなりません、って話だよ。俺も個人的には動物をいじめるような連中はサイテーだと思うし、友達だったら縁を切ると思うけど、そいつらが刑務所に入れられたり罰金を取られたりすることには反対するよ。だって、そいつらがいったい他の人間にどんな危害を加えたというんだ?
動物愛護法が守ろうとしているものについてはこちらを。端的に言えば、「身近な動物が合理的な理由なく虐待されているのを知ると苦痛を感じる人が多いから」https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/arikata/h16_02/mat02.pdf
それ、言ってることが「普通の日本人は天皇陛下の写真が焼かれていると苦痛を感じるんです」っていうあいトリ批判派の連中とまるっきり一緒じゃん。虐待の場面を無理やり見せたとかならともかく、そんな不快感程度のものに基づいて人間の自由や財産を奪おうとするのは間違ってる。やっぱ人間の自由を奪う悪法だな。改正すべき。
「リベラリズムに従えよ」増田だけど、俺の本意は「自分の主義主張と合わない界隈からは離れれば? 派閥じゃなくて自分の主義主張に忠実になろう?」って話だったんだよね。語り口で誤解させちゃったら申し訳ないけど。
で、もしリベラル増田が本心から“リベラル”やフェミニズムを支持しているならそのまま派閥に所属してればいいと思うんだけど、この返答を読む限りだとやっぱり派閥に属するのやめた方がよくない? とは思うよ。
また、現実の話もある。例えばある女性やフェミニストの方の主張に疑問を感じたり、リベラリズムに反すると思った場合、それを男性の私が指摘したり疑問を言葉にするのは、正直言って、難しい。
この雰囲気をどう伝えれば良いのか分からない、兎に角、難しい。それによって私がセクシストであり、差別主義者だと言われてしまうのでは無いかという恐れが常に有る。
増田が「社会的強者である自分が口を挟むのは差別主義だ」と本心で思っているから口を挟まない……のではなくて、差別主義者だと思われるのは怖いから口を挟まないって話なんだよね? 派閥抜けた方がよくない?
ここでまた、「またカテゴリで考えている」と言われるだろう、でも、現実にそうなのだ。そりゃ、リベラル自身がリベラルの問題点に言及できるようになればいい、それが理想だ、でも現実は違う、そんな事は出来ない、そんな事をすれば利敵行為すなわち「ネトウヨ」と言う事に成るからだ。
内部批判を利敵行為とみなすの率直に言って末期症状だから早めに派閥抜けた方がよくない?
リベラルやフェミニズムに疑問を感じた事を表に出すことは出来ないし、だから、なるべく考えない様にする。納得してなくても、納得してるふりをする、でも、リベラルである事は続ける。
なんで納得できないのに納得してるふりをしなきゃいけないの? そんなことを強いられる派閥なんてさっさと抜けた方がよくない?
別に、増田に“リベラル”な思想を捨てろとは言わんよ。弱者の保護は尊い思想だと思うから増田がそれを掲げるのはけっこうなことだよ。
でも、その思想を抱えたまま、変な派閥的思考を捨てることはできるんじゃない? 同じ思想のやつからネトウヨと罵られようが、うるせえこれが俺の信じる“リベラル”だ、って自分の信じる道を貫き通す道もあるんじゃない?
で、こっから先は、増田の“リベラル”に対する俺からの疑問ね。主義主張の違いだから別に読む必要はないよ。
それに開き直るつもりは無い、「弱者を守る事を優先する」という事は、他の何かと衝突した時、そちらの優先度を下げるという事に成る。それは時には不当な加害になる事も、暴力性を持つ事も、自由の制限に繋がる事も、他者を抑圧する事も傷付ける事も、どれもあり得る。それに、そもそも自分の中の「弱者」の基準が正しい保証は無い。「弱者を守っている」つもりで、別の弱者を気付かずに足蹴にしている事も当然あり得る。
もちろん増田もわかった上で書いてるんだろうけど、強い弱いというのはあくまで相対的なものだからね。たとえば左利きのシスジェンダーの在日同性愛者男性は、左利きと在日と同性愛者という属性では弱者で、シスジェンダーの男性という点では強者だよね。女性差別やトランス差別の問題ではその人は強者側だけど、民族差別やホモフォビアや右利き中心主義の問題では弱者側で、そのときの話題によってポジションが変わってくるわけじゃん。まあ右利きシスジェンダー日本人ヘテロセクシュアル男性である俺みたいなのがいるんだから、当然左利きトランスジェンダー在日レズビアン女性みたいな弱者要素の詰め合わせみたいな人もいるんだろうけど、多くの場合は特定の要素において弱者なのであって全方位に弱者な人なんてそうそういないよね。
だとすると、基準は「弱者の保護」じゃなくて、やっぱり自由と公正に置かれるべきじゃない? どのような属性の持ち主であっても公正に扱われ、それぞれの自由を最大限に謳歌できる社会が目指されるべきじゃない? リベラリズムの信奉者としてはそう思うけど。
リベラルフェミニズムは前者のリベラル(つまり自由を優先する方)と相性が良く、後者のリベラル(弱者を優先する方)はラディカルフェミニズムと相性が良い(相性がと言うより、仲が良い、と言った方が正確かもしれない)
自分は後者が主軸なので、ラディカルフェミニズムと協調する事に成る、そうすると必然的に表現の自由等より、弱者を守る事を優先する事に成り、女性を消費するようなコンテンツを肯定できない→オタクである自分自身と不調をきたす、という事に成る。
でもあいつら弱者の保護とかいいつつトランスジェンダーを差別してるじゃん。
もちろんTERFはあくまでも一部の連中がやってることだからその罪を全体に敷衍するのはよくないんだけどさ、弱者の保護というお題目が自由とかよりも優先されるみたいな話をしてるから「女性は弱者なので保護されるべき! 女性専用スペースに男体持ちは入ってくるな!」みたいな論理に飛びついちゃうんじゃないの?
当たり前だけど、自由を重視する俺も、構造的弱者が存在するってことは公正な自由競争を行う条件が整ってないってことなんだから弱者救済には賛成だよ。でもそれは自由で公正な社会のための地ならしであって、弱者の救済そのものが目的じゃない。あくまでそれは手段で、最終的な目標は自由な社会の実現(この手段としての弱者救済を否定するリバタリアニズムには明確に反対)。だから弱者側の要求が自由や公正を脅かすのならそれに反対する。
自由を優先しない、というのは別にいいんだけど、だったらリベラルって名乗るのやめたらいいんじゃない? リベラリズムは読んで字のごとく自由の実現を重視する主張だよ。自由よりも社会的弱者の救済に重きを置くならソーシャリズムとか名乗れば?
まだうまく言えないのだけど、WIRED休刊に寄せる編集長の自作自演インタビューについて、やはりどうしても我慢ならないというか、こういう口ぶりがジャーナリズムとか言論の世界をここ30年間停滞させ、オーディエンスをうんざりさせてきたとしか思えず、2017年も末になりまだこんな口調を読まされるなんてとモヤモヤしている。
「機能するということは時代遅れであるということ」とインタビュー中にあるが、本人は雑誌という旧来の言論メディアを重視してた人。だからいきなり紙面だけなくなる訳で。
つまり随分前から自分自身時代遅れになっていたのでは?それに気づいてないのによくこんな長い捨て台詞を吐いて自分未来志向!とか言外にも思ってられるよなあ。
ここは80年代か?と。溢れるホモソーシャリズム感やポストモダン感に吐きそう。
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結局こういう社会学ぽい未来の話は最後はいつも「マクルーハンのいい言葉いくつ知ってるかな大会」みたいになる。それが本当嫌だ。
毎回飽きもせずこの現象もマクルーハンのアレだよね、あの現象もマクルーハンのアレだよねに集約されて終わるし、その言葉知ってる人たちしか巻き込めないというか、結局狭い小部屋のやりとりでしかないというのが伝わるというか。
一度でいいから偉人の言葉を引き合いに出さずに話終わらせてみてほしい。自分の言葉で話してないし、自分の癇癪で定期購読していた読者をいきなり切るみたいになってるのもわけわからない。わかりやすい話し口だと思うしその方が仕事にしやすい(何故なら前にも誰かが考えたことあるから。本当の本当に考え方が新しかったらそもそも旧来メディアでは予算がつかない。)考え方だから口調が古臭いのは仕方ないと思うけど、こういう人って仁義の薄さだけはいまふうなんだよな…。執筆陣にちゃんと仁義切ってるの?大丈夫?
あと編集長としてキャリアの区切りにこの文章が残っていくのって、アリなんですかね?
(↑いま「アリだ、むしろカッコイイ」って思えちゃうセンスのない人達が支配している社会だってわかってて言ったけど…)
そう思うと、結局毎回、言葉をオタクのおもちゃにしてるのが腹立ってる。これは活字ではない。言葉が死んでるよ。
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でもいま恐る恐るネットでの反応を調べたら、ネットではこういう言い方に「キモっ!」て言ってる人も多くてほんとホッとした。
そのことが、まさにこの文中にあるように「読者を侮ってはいけない」ということを皮肉にも証明してると思う。その微妙な差異はマクルーハン様ソクラテス様カント様スティーブ・ジョブズ様孔子様の言葉なんかでは捉え切れない。でもそれでいいんだ。
「生」は生物という意味もあれば、生き方という意味もある。「金」はゴールドという金属も指し示せば貨幣一般も指し示す。漢字は連想性を高め、発想力や想像力を強化する。
「停留所」ならたった3文字で「乗り物の乗降車する場所」を表現可能。表音文字なら「ていりゅうじょ」で7文字もかかる。
【可視性の大幅な向上】
漢字なしでずっとひらがなやローマ字が続く文章を読むことは苦痛である。漢字、ひらがな、カタカナの融合は可視性を大幅に高める。
【未知の概念に対する強さ】
表音文字のみで「ていりゅうじょ」と書いた場合、その単語の知識がないと音や語感、表音記号だけではさっぱり分からない。まるで暗号のようにしか見えない問題がある。
しかし、「停留所」なら「停まる」「留まる」「所」という漢字1文字1文字が持つ意味から類推が容易である。
これは新しい単語を理解する、記憶する際に大きなアドバンテージになる。
日常ではそんなに新しい概念と出会うことがないが、学問をする場合は常に新しい概念や知らない概念だらけである。
これが意味のない音の連なりばかり(外国語直輸入のまま)であれば理解や記憶が苦痛になる。
「パーソナルコンピュータ」や「ソーシャリズム」、「ニューロン」が分かりにくく覚えにくいのに対し、「電脳」や「社会主義」や「神経細胞」が理解も記憶もしやすいのは当然である。これは漢字という過去の財産から知識データベースを引っ張り援用できているということである。
これだけではまだ常識が邪魔をするので、「ハニベニ」という単語で考えてみよう。前後の文から想像するにしてもチンプンカンプンな単語だ(いま私が適当に考えたので当然だが)。
でもこれが「埴紅」ならある程度想像もつくのではないだろうか。埴輪に塗られた紅色とか、類推しやすくそう大きく間違っていない場合が多いはずだ。
(そもそも漢字には部首があるのでそれだけで大まかな属性の判断が容易だ。「さんずい」なら液体などに関連した漢字だと即わかる)。
さらに停留所のような具体的物質の場合はまだマシだが、表音記号だけだと抽象的言葉の場合の説明がこれがまた非常に困難だ。
「ソーシャリズム」を説明するために「生産手段の共有化や社会福祉制度でもって平等な社会を実現しようと言う思想、体制」と漢字のように簡単に解説しにくいからである。
表音記号だけだと「タイセイ」とはなんぞや? 「フクシ」とは? 知らない言葉だ、とまた解説が必要になってしまう(知らない難しい単語が現れると類推もできないのでまたそこでつまづく)。
漢字だと「社会主義」と言うだけでも社会に関する約束事の考え方なんだなとある程度、理解できる。
しかし表音記号の場合、子供でも知っているような簡単でなるべく具体的、物質的で同音異義語の少ない言葉でないと、複数回の解説が必要になってしまうのだ。
具体例として言うと、「みんなでたべものや、せいひんをうみだし、みんなのもちものにするかんがえかた、みんなでこまったひとを、たすけあうやりかた」といった、幼稚な表現が必要になってきてしまう。そしてもちろん、これでは社会主義を上手く表現できたとは言い難い。