はてなキーワード: 何だかとは
丁寧語とは、眼前の相手への敬意を表す言葉であって、単なる「敬語」という意味ではない。言ってみれば、部下が上司にする言葉遣いである。一方「しゃーない」はどちらかと言えば上位者から下位者になげかけられる男性語における関西弁の俗流表現であり、軽い侮蔑語としての「アホか」に近いニュアンスすらある。「シャーナイヤン(1)」「シャーナイヤロ(2)」とか「シャーナイヤンケ(3)」「シャーナイチュートンノジャ(4)」など、「シャーナイ」のヴァリエーション(※1)を考えれば、ほとんど罵倒語ですらあるので、これを丁寧語にするというのがまず発想として奇妙である。
また、コレを無理に「仕方ない」の意の丁寧表現と取るとしても、一般に関西弁ネイティブの世界で、たとえば部下が上司に向かって”仕方ない”という自分の感想を直接的に述べるシーンというのがまず想定しにくい。関西弁は非常に日本そのものであるような文化体系に基づく言語なので、「仕方ない」出来事に遭遇したときには、出来事の「状態」を描写するよりも、古語のようにその状況に遭遇した「相手の心情」を慮って言葉が発せられ、これによって相手へのより強い敬意や遺憾の念を表現するのが普通だからである。従って、「しゃーありません」などという妙な言い方は、ネイティブからは出てこない。これは、表面だけ関西弁だがハートが関西弁ではない人間が想像で喋るエセ関西弁である。朝ドラなどで非常に頻繁に見られるが、イントネーションを似せれば似せるほど不気味の谷に近づいて違和感があるのでこういうのは本当に止めた方がいいと思う。(※2)
たとえば「上司が契約を取るため条件を下げるよう上にかけあってきたが、社の方針でダメだと言われる状況に遭遇したときの部下の一言」を想定するならば、「コレ、ホン↓トニナン↓トモナラナ↑イン↓デスカネー…」が正解だ。やや棒読みで最後を低く呟くように発音するのがコツである。「何ともならない」ことを分かった上で、敢えて相手の心の内を代理的に言語化する。一番「何ともならない」ことを分かっているのは上司だ、との了解の下で(棒読み口調によってこれは察せられる)敢えて一段自分を低め、道化となって「分からないフリ」をすることで、上司自身に「マアナラヘンナ/無理↑ヤ(=仕方ない)」と言わせるための一言である。これはかなり気を遣った「仕方ない」の関西弁による丁寧表現である。「仕方ない」とこちらから言うのではなく、相手に「仕方ない」と分からせるために相手の心情を思い諮り、同時に敬意を表現する。こういう柔らかな「寄り添う言語としての日本語」の特長を、日本の伝統を大事にされる方々には関東においてもぜひ日常的に取り入れてもらいたいと思うばかりである。
また、もう少しカジュアルに(カジュアルという概念自体が関西文化にはうまくそぐわないのだが)表現すると? たとえばちょっと丁寧に同格の同僚と喋るようなケースで「今後こういう傾向になっていくのはやっぱり『仕方ないですね』」という内容を言う場合どうなるか。その場合は、自立語ではなく付属語や補助動詞で表現することになるだろう。つまり、「ない」自体が敬語化されるのではなく、「仕方ナイ↑デスネー」みたいな感じだ。女性的表現としては、「仕方アリマセンネー」が考えられ、これは増田の想定に一番近いのだが、女性語の場合丁寧な社交の場では言葉が関東弁に近づくケースがあるので(これについては谷崎潤一郎の小説「細雪」の中でも少し触れられている(※3))このようになる。
以上、増田の初級関西弁講座である。ネタであることは言うまでもないので話半分に聞いておくように。ホナマタ。
https://anond.hatelabo.jp/20180113124118
※1 厳密に言えば、「シャーナイ」とほぼ同義で使いうるのは「アホクサ/アホカイナ」である。前者は事態を、後者は相手を軽くあしらい流すときに用いられる。ただ、このような間投詞的な「アホ」(詠嘆の「アホ」という)の用法は、シチュエーションにより様々な意味を含有するので、非ネイティブが使用するのに苦労する部分である。「アホ」は本来道化(クラウン)を意味する言葉だが、同質性の高い世界において道化役は時に非常に重要な役割を果たすものであり、それが関西文化圏では共通了解とされているため「あいつアホやな」という言葉は批判ではなく、時に非常な敬意や褒め言葉になりうるし、また若年女子が用いる「アホっ」は、おおむねソフトな「I like you.」の意味で了解されるのである。
なお、「ヤン(1)」~「チュートンノジャ(4)」に至る変化は、一見微妙に見えるがそれぞれ
「(1)仕方ないじゃないですか?(=だからあきらめて貰えませんか?(依願))」
「(2)仕方ないじゃないか?(=だからどうしようもないと考えなさい。(命令))」
「(3)仕方ないと私は言っているでしょう?(=ひょっとして言いがかりを付けて喧嘩したいのですか? 何ならお相手しますよ?(威嚇))」
「(4)仕方ないとこの私が言っているのだ。(殺すぞ(予告))」
…という意味となっており、特に(2)から(3)に変化したときは明らかに相手のモードが変化しているので注意が必要である。親切なネイティブならば、語尾に「ヨォ」という威嚇語を追加し「シャーナイヤンケヨォ!」とメンチ(接近して目を合わせる威嚇のポーズ)とともに発音してくれるので、こちらは非ネイティブにも分かりやすい表現となるが、できれば(3)を聞く前に第三者を介入させるか和解を申し出るのが望ましい。
※2 たとえば朝ドラなどで、番頭はんがお嬢さんに「仕方ナイデッシャロ」などという奇妙な関西弁を用いる「けったいな」シーンは容易に想像できる。このように関東人がエセ関西弁を振り回して「関東人の思う関西人」を演じているのは、実際典型的な「文化の盗用」であり、今後厳しく批判されていくことだろう。
※3 谷崎潤一郎「細雪(上)」より。(舞台は戦前なので、約80年前の話である。)
「彼女は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さん達の間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こう云う夫人の前へ出ると、何となく気が引けて、――と云うよりは、何か東京弁と云うものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差控えたくなり、却って土地の言葉を出すようにした。それに又、そう云えば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。成る程丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりとしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、何だか人柄がにわかに悪くなったように思えた。」
昔、ちょっと病院関係の仕事をしたことがあったので、「日赤 月200時間残業協定」と新聞で報道されているのを見て、「ま、そんなもんだろうな」と思った。医者は儲かる仕事の代名詞のように言われているけど、勤務医なんて時給にしたら相当安く使われていると思う。特に医者が少なくて激務の診療科は当直してからそのまま翌日の日勤に入るみたいな働き方をしているのがしょっちゅうだった。よくもまぁ倒れないなぁとか、ろくに眠ってない状態で診療して医療ミスを起こさないのかと心配になる医者がいっぱいいた。
そういう医療現場の状況を知らない友達で、医者と結婚すればセレブになって優雅な生活ができると思って憧れているのがいて、正直バカにしていた。まぁ給料はそれなりにもらえるとしても、デートしてても急に職場から呼び出しが来たりして不自由なことこのうえないと思うんだけど。結婚しても何だかんだいって家庭よりも仕事を優先せざるを得ないだろうから家事や育児をはじめとする家庭の雑事はすべて自分が背負う覚悟をしないといけないと思うし。
だいたい医者の周りには看護師とか薬剤師とか診療検査技師とか医療系の専門職がいっぱいいて、そっちの方が一般事務とかやってる女より話が合うに決まっているのだ。仮に自分が一般事務の仕事をしていて、理系のエンジニアとかで思考回路が全然違う話の合わない人とお見合いとかしたらどうなるか想像すればいいと思うんだけど、医療系と非医療系では思考回路が全然違うぞ。そもそも理系と文系の違いによるところが大きいかも知れないけど。
私の見ている限りでは、やっぱり医者は看護師とか医療関係の人とくっつくことが多かった。5月に病院に来たかと思えば12月には同じ病棟の看護師妊娠させて結婚した研修医もいた。私より病院関係の仕事が長い事務系の先輩は、「医者はさんざん看護師と遊んで、結局いい家に生まれたお嬢様と結婚するんだ」と言っていたけど、私が見る限りでは医者と結婚するのは医療系の専門職ばかりで、事務系の女と結婚する医者はほとんどいなかった。(一口に事務といっても診療報酬のこととか健康保険制度のことをよく分かっているいわゆる医療事務をやっている人は除く。)
医者と結婚したい人って何を期待してるんだろう?単にお金持ちと結婚していっぱいお金が出てくるATMがほしいのか、それともちやほやされてお姫様みたいな生活をしたいのか。ATMとしてなら優秀かも知れないけど、ただ収入ばっかりをあてにされて自分の仕事の苦労をさっぱり分かってくれない女と結婚するような人ってあまりいないんじゃないかと思う。そして妻をお姫様のようにちやほやしていい気分にさせるようなヒマはないと思う。どっちかということ「家のことは全部やるからあなたは安心して仕事してね。」って言えないと無理じゃないかな。…以上、病院関係の仕事をしたときに思ったことをつらつらと書いてみた。
https://anond.hatelabo.jp/20180113204136
『時計じかけのオレンジ』は凄いけど、聖書を読まない日本人にとってはピンとこないテーマを扱ってるので、「何が凄いの?」という疑問が生じるのももっともだ。という話を書く。
『時計じかけのオレンジ』のテーマは、キューブリック監督曰く、以下の通り。
本作のテーマは、自由意志の問題と関係がある。もし善悪の選択ができなくなれば、私たちは人間性を失うのではないか?タイトルが示すように、時計じかけのオレンジになってしまうのではないか?
この説明を読んだとき、多くの人はもっともらしい顔をして「ふんふんなるほどね」と思うのだけど、その実ぜんぜん分かっていない。何故かと言えば、説明中の「自由意志」という言葉の意味が分かっていないからだ。
「自由意志」というのは実はキリスト教の専門用語だ。それなのに「自由」と「意志」は何となく分かるから、キリスト教が分からない日本人も分かったような気分になってしまう、困った術語だ。
じゃあキリスト教における自由意志って何よ?という話になるが、これはその定義自体がもうメチャクチャ議論になる。
だがここでそんなところに深入りはできないので、ここでは簡単に”①神が、②人間に、③その運命を左右する選択をする機会を、④与えたこと”と定義する。
この定義をふつうの日本人が見たとき、「①神が」というところを置いておけば「はあ?そんなの当たり前じゃん」と思うだろう。だがキリスト教徒にとってこの定義はひじょーに座りが悪い。
原因は大きく2つある。
1. 1つは、上の意味で人間に自由意志が認められるとしたら、神さまは人間に悪を行う選択肢をも与えたということになってしまうからだ。
これはもう一見してヤバい。この世に悪(犯罪行為、ブラック企業、利権の独占等々)がはびこっている根本原因は神さまにあることになる。
すると、全知全能の神さまが何でそんなことをしたの?という疑問が生まれ、最終的にはホントは神さまなんて居ないんじゃないの?/そんな神さまなら要らないよ、という疑問に行き着いてしまう。これはヤバい。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ書第8章30節)
これはどういうことかというと、神さまは、人間のうち誰が救われるかを、前もって決められているということだ(いわゆる予定説)。
これは上述した意味での自由意志と相性が悪い。なぜかというと、人間がその自由意志に基づいて信仰を持ち、(悪事を働かず)善行を積み続けたとしても、神さまの救済リストに入っていなければ救済されないということになるからだ。これでは何のために自由意志が認められたのかが分からない。
さらに、この予定説を推し進めると、ある人が信仰を持つか否か/悪事を働くかどうかも、神さまの救済ノートにあらかじめ全て書いてあるということになる。ここまで行くと、人間の自由意志は全面的に否定される(!)という説まで成り立つことになる。
以上の点を踏まえて、最初に引用したキューブリック監督の言葉を再読すると、以前より意味が分かるようになっているのではないだろうか。
本作のテーマは、自由意志の問題と関係がある。もし善悪の選択ができなくなれば、私たちは人間性を失うのではないか?タイトルが示すように、時計じかけのオレンジになってしまうのではないか?
要するに監督は、「(上述したような)観念的な議論から視点を変えて、もし仮に人間に自由意志がなかったら実際のところどうなるの?」と問題提起しているのだ。
本作において主人公アレックスは、ルドヴィコ療法(目を強制的に開かさせれて残虐映像を見せ続けられる)を受けて、あらゆる「悪」が行えない身体となる。つまり、自由意志が奪われる。
ルドヴィコ療法を受けたのち、アレックスは出所する。悪事が行えなくなった以上、彼は「善良」そのものだ。
善良な彼を見て、映画の観客は安堵しても良さそうなものだが、実際にそうはならない。生気を失い、最終的には自殺にまで追い込まれる彼の姿を見て、観客は不安を感じるのだ。
そしてラストシーンで、アレックスはルドヴィコ療法を解除する治療を受け、再び悪を行える身体に「回復」する(=自由意志を取り戻す)。
他方、邪悪な男に戻ったアレックスを見て観客は、「ああよかったよかった」と安堵する。
しかし映画が終わって映画館を出てみると、更生した犯罪者が再び犯罪者に戻るさまを見て安堵するというのは一体どういうことなのだろう?という疑問が湧いてくる。これでは何が何だか分からない。
ここで観客は、(悪を選択することも含む)自由意志がなければ、人は人間性を失ってしまう、ということに気付かされるのだ。
・キリスト教徒が1千年以上も議論してきた自由意志の問題について、これまでに無かった視点から議論を展開したのが凄い。
・それなのに衒学的な映画に堕することなく、上質なエンターテインメントに仕上げ、興行収入2600万ドル以上も稼いだのが凄い。
・タイトルがかっこいいのが凄い。
・この映画がよく分かんなかった人も凄いと言ってるのが凄い。
・キューブリックの顔が凄い。
・ここまで書いてきて実は俺はそんなに『時計じかけのオレンジ』が好きじゃないのが凄い。
ひさかたのおとを読んだ。こういう物語大好き。ゆるーいアニミズムというか、超自然的な非日常と日々の暮らしが隣り合っている物語は、読んでいてわくわくするし何だか安心してしまう。
今のところ一話完結の連作ものでまとめてあるのも読みやすくて素敵。精緻な描画に宿っている力と効果的なオノマトペがどんどん世界観を広げていく漫画になっていると思った。
内容としては、都会で学芸員をしていた主人公が、靑島という架空の島の学校に赴任してくるところから始まるんだけど、あんまり学校生活に傾倒していないのが珍しかった。
かといって島の暮らしを詳しく描く漫画でもないし、とにもかくにも神宿る自然とのファンタジックな触れ合いに重点を置いている漫画だと思う。
雰囲気漫画って言ってしまえばその通りなのかもしれないけど、独特な雰囲気に溶けてみたい人やじっくりと浸かってみたい人にはおすすめしたい。
透明感のある漫画だったので今後が楽しみ。
コーヒーはコーヒーだとしか思えず、美味いとか不味いとかいう感情が出てこないのだ。
そんな俺でも、たまにカフェを利用したい気分に駆られることがある。
そういうとき利用するのは、近所の『タコトバッキョウシ』という店だった。
少し前までは客引きのために色々なサービスを実地していたが、紆余曲折あって今はこじんまりとしたブックカフェに落ち着いている。
メニューも取り立てて特別なものはないが、地元の常連客に親しまれ、俺もその店に漂っている独特な空気感が嫌いではない。
「おや、いらっしゃいマスダくん。久しぶりだね」
店内を見渡す。
以前と、まるで変わっていないことに安堵感を覚える。
多少の違和感もあるが。
「やあ、マスダ」
「おっす」
店にいたタケモトさんと、センセイが吸っていたタバコの匂いが、その違和感の正体だ。
「バス以外でセンセイと会うのは珍しいですね。しかもこのカフェにいるなんて」
「好きな銘柄が売ってるタバコ屋がこの近くにあったんだ。で、すぐ吸いたいときは、このカフェにいるって感じ」
「二人ともタバコ吸うんですね」
「オレは厳密にはパイプでアロマやってるだけなんだが、まあ広義的にはタバコっちゃあタバコか」
匂いを気にしていたのが顔に出ていたのか、気づいたマスターが換気扇のスイッチをパチパチといじる。
「一応、換気扇はフル回転させるけど、それでも気になるなら我慢してね。うちは禁煙席とかそういうのないから」
俺は軽く会釈すると、センセイたちのいる場所から離れた席に座った。
まあ、それがこの店の方針なら従うが。
「パイプで色々と試してみたけどさ。何だかんだでバニラに行き着いたな。燻製でいうサクラと一緒だ」
「私は別にこだわりはないですが、初めて吸った銘柄が『シーネー・ジパング』だったので、以降はずっとこれですね。愛煙家で好きな人は少ないですが」
「ワシはあくまで香りを楽しむ派ですな。吸いはしませんが、葉巻だと『ヲッチャ・コッカイ』あたりを……」
俺は話の輪に入れないというか入る気もないが、タバコの近年の状況を顧みると、ああやって朗らかでいられるこのカフェはタケモトさんたちにとって特別な場所なんだな。
だが、その時である。
新たな来客がドアを勢いよく開けて入ってきた。
店内に静寂が漂う。
その来客からみれば俺たちは見知った相手ではなかったが、俺たちからすれば知っている人間だった。
「ふう~、まいった。いきなり降り出してきた……」
この町の市長だ。
まだ何も起きていないが、これから何かが起きる。
そしてそれは絶対にロクなことじゃない。
そんな予感がした。
私は先天性の色覚異常である(wiki先生によると色覚多様性という言い方もあるらしい)。
もっとも、「最後の赤と緑、赤い方を切れ!そうすれば爆発を回避できる!」……みたいな経験もないので、仕事や日常生活にはさほど困ってはいない。
ただ、興味本位と日常の些細な問題(靴下の色を取り違える、焼けてない肉を食べそうになる etc.)から、先日、色覚補正用レンズを購入した。
色覚異常を持つ人は男性で約5%の割合でいるそうだ。強弱はともあれ、佐藤・鈴木・高橋姓を足した人数くらい、先天的にその特性を持っているはずである。
まぁ、日常生活で気付くことはまず無理だし、赤の他人から指摘するのも(たぶん)躊躇われるし、で同様に困ってる人にはまだリアルで遭遇していない。
自身の場合は母方祖父がそうだったため、家族からの指摘で比較的早い段階で気付くことが出来た。
早い段階で気付けたことと、見分けのつきにくい色もバンバン他人に聞くことができるので、生活のしづらさはない。
ユニバーサルデザインというのもだいぶ浸透していて、色だけで何かを区別しなければ行けない状況もほぼない。
職業により多少の制限はあるものの、この制限自体は絶対的に必要だと思うから、あとは世間の理解さえ追いついてもらえれば楽かなぁと思う。
ただ、世間に対して偉そうに言ったものの、自分自身もよくわかっていない。
色認識のズレがどの程度のあるかなどは、結局は自身の経験則でしか語れず、
しかもその経験則でさえ「この色とこの色は見分けづらい」と言うと、一般人でも見分けづらいと言われてしまうこともあり、いまいち説明しづらい。
webにも幾つか判定ツールが転がっているが、画面の発色とかの環境依存によるところもあると思っていて、あまりあてにしていない。
ということで、自身の色覚異常の検査とともに、結果次第では補正用レンズの購入をしようかなと思った次第である。
お世話になったのはここ↓(というかそういうレンズをちゃんとした所から買うなら、現状ここ一択にならざるをえないと思う)
聞いたこともない会社に電話するのも勇気がいったのだが、思っていた以上にあっさり予約できた。
予約の際に年齢・職業も聞かれて、ちょっと怪しいなぁ……とその時は思ってしまったが、
検査で低年齢の人には遺伝の話は嫌がられるからしないだとか、職によっては制限があるとかの理由を聞けて一安心。
一日の対応件数も限られているらしいので、あっさり予約できたのはラッキーだったとのこと。
検査を終えて、自分はここ(http://www.neo-dalton.com/side/check/)でいうA7(中程度)だった。
強い異常でもなければ弱い異常でもないとのこと。
そのままレンズ購入を勧められ、まぁ何だかんだで買ってしまった……。
補正レンズで幾つかの風景や静物の写真を見たが、少し色が鮮明になったかなくらいの認識で、正直、財布から失われたレンズ代(70,000円)の衝撃の方が大きかった。
私は近眼用のメガネを常用しているので、そこの近所のメガネ店で売っている跳ね上げ式のメガネフレームとかも紹介されたが、
流石にこれはないだろう……と思って、フレームは自分で探すことにした。
フレーム探しは思っていた以上に大変だった。
受取のことも考えて、まずはHPにも載ってるレンズで業務提携している大手のメガネ屋さんを当たってみた。
「これくらいしかありません」と、定員さんに言われて見せられたのが、
種類は金属フレームのみでそこそこのお値段、出来上がりも10日程と、非常に考えさせられるような内容だった。
(ここまで不遇なのか……)
その後、色々お店を回った結果、普段からお世話になっているお店の別店舗で何とかフレームを見つけ、1時間程度で仕上げてもらった。
これも運が良かったと思う。メガネフレームの流行り廃り次第では、ジジババがかけているようなメガネしか見つからないかもしれない。
出来上がったメガネを装着し、周囲を見渡したが、それほど変化もなく、こんなもんかと思った。
(まぁ、せっかく買ったし、これを付けて外に出てみるか……)
(ん……!!)
(空が青い)
(深みが増したというか分かんないけど、明らかに青い!)
補正レンズの原理の詳細はここ(http://www.neo-dalton.com/genri/)に記されているが、要はRGB(赤緑青)のバランスを矯正するためのレンズで、
自分の場合は緑の感度を大幅に弱め、青の感度を少し弱めることでバランスをとっている。
ということは、今まで大して緑っぽく見えてなかった色や青っぽく見えていなかった色が突然鮮明な緑や青として見えるようになった、みたいな話らしい。
Chromeのアイコンの中央の青と左下の緑がくっきり見えるし、LINEのアイコンもあんなに緑々しい色をしているとは夢にも思わなかった。
当初は赤緑の区別ができれば、まぁいいかなくらいに思っていた補正レンズだったが、まさかこういう派生効果が生じるとは。
押し切られて買ってしまったときは、流石にどうなることかと思ったけれど、いい買い物をしたなぁと思った。
同時に、世間一般にありふれてる配色の妙を少しでも感じ取ることが出来てよかったなぁと思う。
企業のロゴ、街中の看板、周りの人の服装、……多くのことで、実はこんな色だったんだな、こっちの配色の方がしっくりくるなと感じる。
俺の解釈なんで合ってるかわかんないけど、要はアレは孤独でも何だかんだ生きていけるよね、って話だと思うんよ。
プライドは虎のように猛々しくても、実際の自分は弱っちいカメレオンでしかない。
カメレオンは最終的に動物園という「あるべき所」に収まって、主人公もあれこれ考えながらも元の生活を続けている。
>「人間の生活といふものは、苦しみで一杯でございます。その不幸には休みといふものがございません。しかし、若し人間のこの生活よりもつと快いものが假りにあるとしても、闇がそれを取圍み、我々の眼から隱して了つてゐます。それに此の地上の存在といふものは燦かしいやうに見えますので、私共は狂人のやうにそれに執着するのでございます。何故と申しまして、私共は他の生活を存じませんし、地下で行はれてゐることに就いては何も知る所がございませんから。」
孤独で地味な生活もそんなに悪くないものだよ、ってことですな。
っていうか薦めてみたもののマジで読んでくれるとは思わなかった。
ありがとね。
ただ飽きっぽいだけか。
これからどうして行こうか。
他の人は何を目標に行きているのだろうか?
この閉塞感を打破したいと思って、去年は色々と挑戦してみた。
→海で開放感を味わって満足
・水泳
→泳げなかったけど、クロールが出来るようになって満足
→色んな温泉に入れて満足
・彼女を作る
→イチャイチャ出来て満足
・筋トレ
→良い体になって満足
・仕事
・投資
→そこそこ順調で満足
・サウナ
・ひげのレーザー脱毛
→朝めっちゃ楽になって満足
・整体
→猫背が治って満足
・Netflix、Amazon、dアニメでドラマ、映画、アニメを一杯見る
→ばらかもん、ブレーキングバッド、ネイキッド、白夜行など良い作品を見れて満足
・部屋の壁の種類を変えた
振り返って見ると充実した1年を送ってきたと思えるが、マンネリ感がある。
これからどうすれば良いだろうか?
ペットを飼う?
結婚とか?
自分の進んで行く方向を定められず、現状の気持ちを吐き出すために増田に投稿してみた。
書いていて気付いたけど、自分は何かをずっと大切にするということが出来ない人間なのかもしれない。
何か手に入れたら欲しかったものの輝きが色あせて、すぐに次のものに向かってしまう。
手に入らないものが大切で、手の中にあるものは大切でなくなってしまう。
目標を叶えなければ良かったのかな。
「別にコイツに対して何か感じたり、返答したりする必要は一切ないんだよな」と初手で考えられるようになった。
正解だ。
正解をいきなり一発で出せるようになった。
20回中19回は一発目でここまで考えられるし、失敗しても10回中9回は二手目でここにたどり着く。
インターネットユーザーとしても1人の人間としても成長しているんだろうとは思うが、何だかあまりにもあっさり昔は上手く出来なかったことが出来るようになってしまっている自分がたまに怖くなる。
そのうち、出来なかった頃の自分とは完全に他人になってしまうんじゃないだろうかと。
赤子笑うな来た道だとは言うが、多くの人間は赤ん坊の気持ちなんて考えずに電車で泣いてたらうっせーうぜーと思ってしまうだろう。
それと同じように、自分がネット初心者だった頃の事なんて、完全に分からなくなってしまうんじゃなかろうか。
そうして、そうなってしまったら自分の認識にある種の死角が生まれてしまい、いつかその死角が原因で何か失敗するんじゃなかろうかと。
そんな事を考えてしまう。
いや戦うっていうとなんか闘争! 自由のための戦士! みたいでイタいからあれだけど、ポリコレ的な主張を一歩引いて見るようにするとかそういうので。
大体の人は自分が好きなものに規制や非難が迫ってきたと実感しないと、「道徳的」な圧力のことを何だかんだで良いものと認識してしまう。
だからこういう「自分の好きが排斥されるのでは」ってなった時が数少ない意見を変えるきっかけだと思う。
まーこれまでポリコレ大賛成って感じだったら、手のひら返しと見られるのが気になるし過去の自分を裏切るようだし、あと自分の中でもポリコレを好ましく思い続ける部分は残って躊躇うとこだろうけど。
私もしばらく前までポリコレとかジェンフリとかめっちゃ推してたのが、自分の隙だったジャンルがジワジワ絞められ始めたことで手のひらを返した……。
でもポリコレによって私の尊厳が守られてる、アンチポリコレの言説が私を傷つけてると思う場面もそれなりにあるから、迷いは常にあるけども。
ガイドブックでは伝えきれない町の魅力を、住人との交流を経てお伝えして参ります。
今回の町はここ『アノニ町』。
そんなアノニ町の魅力とは?
早速、覗いてみましょう。
どうやら石切りで遊んでいるようです
ーーこんにちは
少年:まあ数回 観たい番組が放送されない時があって 消去法で観たことはある
ーー今 何をやっているのですか?
少年:兄貴に石切り教えてもらってる おーい兄貴! テレビ! テレビ!
少年の兄:分かってる! あまり映りたくないから あえて避けてんだよ
ーー少しの間 様子を撮らせて貰っても?
少年の兄:構いませんけど……いま苦戦していて進展がないので 面白い画は撮れないと思いますよ
少年:よーし! そら!
弟くんは水面に向かって、叩き落すように投げます!
「ドボンっ」
予想通り、一回も跳ねることなく失敗。
少年:ああ~! 一回も跳ねない
少年の兄:いや 今の投げ方ではダメ 現に一回も跳ねてないんだから 俺がもう一回やってやるから ちゃんと見とけよ
そう言ってお兄さんがゴツゴツとした石を拾う。
すると弟くんとほぼ同じ独特なフォームで投げる!
1回、2回、3回…………
少年の兄:テレビだからってオーバーすぎでしょ そんな大した回数じゃない
ーーいや 回数とか以前に投げ方が……
少年:俺と兄貴で何が違うんだろうなあ 同じように見えるんだけど
少年の兄:俺が言語化できる範囲内の説明はし尽くした 後は習うより慣れろだ それとも今から別のコーチを呼んでくるか?
ーーあの……その投げ方で(石を)跳ねさせようとするのは難しいと思いますよ
兄弟:え?
同じ反応、さすが兄弟といったところでしょうか。
兄:いや 確かに一般的な投げ方ではないけどさ ちゃんと跳ねてるし
ーー恐らく その投げ方で数回跳ねさせるのと 普通の投げ方で跳ねさせるんだったら 普通の投げ方のほうが断然……
少年:ああ もう これでよく分かった! 兄貴がコーチに向いていなかったのが原因だ!
少年の兄:違うな お前の物覚えが悪いのが原因だ
お兄さんに一般的な投げ方を学んでもらい、それを弟くんに教えてあげてはと提案します。
少年の兄:この石切り自体 弟にどうしてもと頼まれて渋々やってるだけなんで俺はどうでもいいんですよ あいつ(弟)が友達相手に見栄張りたいって言うから仕方なく……あ これ言っちゃマズいか
何とかお兄さんを説得し、スタッフが水の石切りの普通の投げ方を見せます。
それを見たお兄さんはすぐにコツを覚え、いつものやり方と同じくらい跳ねるように。
あんな投げ方で跳ねさせられるのだから、もとから才能はあったのでしょうね。
こうして満を持して、弟くんに教えます。
少年の兄:あの投げ方をしていて気づいたんだが まず軽い石のほうが良いな あと力任せに投げるんじゃなくスナップを利かせて 回転をかけて投げることが重要だ
さっきまでのグダグダが嘘のように、スムーズに練習は進みます。
少年:よーし、それ!
改善後なんと十数分で、弟くんは安定して10回以上跳ねさせられるように!
少年の兄:ありがとうございました 今回のことは弟にとっても俺にとっても良い勉強になりました 学ぶこと 教えること それぞれの難しさが分かりましたよ
ーー最後にちょっとしたお願いなのですが さっきのあの“独特な投げ方”でもう一度やってもらってもよろしいでしょうか?
少年の兄:ええ? “あの投げ方”そんなに面白いです? 構いませんが 今になって改めてやるとなると何だか気恥ずかしいな……
お兄さんがゴツゴツとした石を広い、あの独特なフォームで渾身の一投!
「ボッチャーン!」
水しぶきがこちらに盛大にかかるほどの見事な着水。
先ほどのが嘘のように跳ねてくれません。
少年の兄:あれ なんで跳ねないんだ?
ーーいや こちらに聞かれても……
それよりも気になったのが
ベッキーとかアパ不倫の人とかを禊と称してタイキックや芸人まがいのことをさせていたこと。
勿論強制ではないのだろうけど
何裁く側に立ってんの?とモヤモヤっとした。
スタッフの皆さんが考えているのであって
ダウンタウンが作った笑いではない。
だから笑ってはいけないが余り好きではないので次第に見なくなった。
ダウンタウンを見る機会も減っていった。
ダウンタウンが笑いを堪えたり、リアクションが面白かったりするのは
それはそれで笑えたりはするが
私はダウンタウンの作った笑いがみたい。
ドキュメンタルも笑わせようとしているのは参加している芸人であって松っちゃんではない。
しかも、地上波ではなくネット配信で何でもありの状態にも関わらず
笑わなかった勝者が出たことに松っちゃんは何も感じないのだろうか。
俺が笑わせてやると思わないのだろうか。
笑わなかった人を勝者として賞金を渡す松っちゃんに幻滅してしまった。
笑わした人が勝者ではないんかい!
何で笑わなかったやつが勝者やねん!
もちろん金持ちも脱税や不正といった犯罪は起こすけど隠すことを覚える
馬鹿で不適合者は隠せないし直接的な犯罪ばかりなので検挙される
ニートは何だかんだいって働かずに飯を食える状態は社会人よりも上位存在なのでよっぽど馬鹿じゃない限りは犯罪を起こそうとは思わない
基本毎日遊んで暮らせるし遊ばないで何もしないという選択もできるのはニートだけに許された特権
お正月
親戚からの
それなりの相手が見つるだろうと
適当に考えていた。
でも誰にも相手にされなかった。
もうアラフォーのおじさんだ。
自分ってこんなもんなんだなぁという感じ。
会社とかだと
積み上げてきた関係もあるので
様々な要素を含めて
自分のことを分かってもらえるけれど
あばたもえくぼと言うけれど
あばたはあばただ。
でも、悲しさより
やっぱりなという思いの方が強かった。
やっていけるだろうかという不安があった。
思春期に異性に興味を持つと
「お前みたいなのがレイプ犯になる」
と言われていた。
勿論それを真に受けてはいなかったが
当時はネットなどないし
18で田舎を出るまでは
言ってくれる人が1人もいなかった。
数年前姉にその事を話したら
因果関係はまったくない。
根拠なく親のせいにするなと言われた。
性欲は勿論ある。
二十歳の頃とかは本当に性欲が強かった。
しかしその頃は
お泊りせず、家まで送ってから
ということをしていた。
当時は勿論犯罪とは思っていないけれど
思い込みが拭えなかった。
心のどこかで性を肯定できなかった。
女性に対して悪いこととは
一切考えていなかった。
寧ろ嫌がることをしない自分は
誠実な付き合いをしているつもりだった。
ドラマみたいだなぁとか思ってた。
心の中で、女なのにセックス好きなんて
結局心置きなく性を解放出来るのは
風俗だけになった。
「風俗で働くような女」という
「そんな女に嫌がることをしても構うもんか」という気持ちになれた。
髪を切った?と聞くと
うん、分かる?と無邪気に笑う。
ぞんざいに扱うのは失礼ではないか。
そんなことを考えていると
次第に立たなくなる。
次はSMへと通うようになった。
自分の性の汚らわしさを罵られる。
性に対する汚らわしいという認識は同じ。
そこで初めて解放されるような気になった。
でも、やはり、
ニコニコして食べている。
そんな思いに駆られた。
またもや立たなくなった。
この性との長い戦いは
誰にも話したことがない。
男友達にも言わない。
性欲はありつつも
性は汚らわしいと思ってはいるので
だからそういう話が嫌いな人と思われている。
しかし、
早く帰ってお前をおかずにオナニーがしたい。
とか考えている。
早く帰って続きを書きたくなる。
こんな事に消費されている。
汚らわしいからだ。
ここまで書いてみて、
こんなことしてたら結婚とか無理だなあと思った。
自覚していないだけで
話を最初に戻すと
結婚しないのか?という話は
「あいつには負けるな」とか
何かとバカにして勝ち負けばかり気にしていた。
数年前に両親に会った時も
今思えば、お前は結婚しないのか?と
遠回しに言っていたんだろうなと後から気付いた。
それ一回だけだった。
それから数年、もう40になる。
でも、そんなことより
大好きな人と巡り合って
心置きなくセックスがしたい。
個人的に考えたことをつらつらと。誰かに熱く語るのもなんなのでここで。
随分黒人差別でネットが盛り上がってるな〜と思ってツイッターとかで色んな人の意見を見た。差別だ、いや過剰だ、ってのはもうその人の感性とか育ち、環境によって違うものだから分かり合えないと思った。特に日本は移民を受け入れていないし、海外にでようと思わないと出る必要もない。1度も日本を出たことない人にとったら、黒人差別問題を日本に持ってこられても確かにピンとこないよなと思う。
そんな私は少し海外で暮らしたこともあって、アジア人差別もされたことあるし、黒人の差別だって肌で感じることがあった。そこで今回の問題から日本社会に感じたことは、日本が世界から置いてかれるんじゃないかなって。そんなのどうでもいいという意見は置いておいて。日本の中流家庭の多さは本当にすごいと思う。多くの人が衣食住の最低限はあるし今のところ格差と言ってもアメリカ程酷くない。でも、これからは少子化で世界を相手にしていかなくては日本が衰退するのは明らか。違う文化や考えを持つ相手を理解して尊重しなきゃ会社として残っていけない。
私だって色んな差別的な考えを持っているし、世の中男女差別、年齢差別持ってる人が沢山いると思うけど、それをテレビで放送するのとスタバで友達と話すのじゃあ雲泥の差だと思うから。テレビを見なくなったとはいえ、やっぱり影響力があるもので、何だか今回は差別問題というよりもテレビのモラルにがっかりかな。色んな日本の会社がグローバリゼーションって頑張ってる中流れに逆らうよね。
少なくとも私は日本が好きだし日本人だし、豊かな生活を続けたいからこんなことを思う。実際白人黒人色んな人種の中で暮らせば本当に人種で人を判断するのはくだらないと実感するし、そんなの無くなれと思いながら目の当たりにすると解決策が浮かばないんだよね…。
ハサミの使い方を忘れました。
■ちゃんとハサミを使えたボクの話。
それまでのボクは、ケータイサイトを作るベンチャー会社でちゃんと働いていました。
2000年に誕生し、2007年には株式上場。最初は4人だった社員も今では150人強に。そんな中でちゃんとした給料をもらい、取締役という役職ももらい、ちゃんと仕事をしていました。
確かに、朝9時30分に出勤し家に帰るのは午前1時とか2時とかだったり、土日も出勤してたりもしましたが、「ベンチャー企業なんてそんなもんだよね。」と人からも言われ自分にもそう言い聞かせて働いてました。普通に。
逆にそんな風に頑張っている自分が誇りだったし、「最近寝る暇も無い位忙しい」ってことが自分にとっては「美談」でした。
そうボクがちゃんと普通に「ハサミ」を使えてた頃の話。
ここで一度考えてみてください。
■ハサミの使い方を忘れました。
「ボクってカッコいいのかなぁ?」とか「ワタシってかわいいのかなぁ?」ってのは、「誰か」と自分を見比べて、鏡の前で悩めばわかるかもしれません。
「自分って健康なのかな?」ってのは、健康診断を受ければ解決します。
ただ、「もしかして、ボクって精神的におかしくなってきたのかも?」っていうのは案外自分では気づかないものかもしれません。
幸いにも(?)ボクには兆候がありました。
ある日突然「ハサミの使い方」を忘れたんです。
ハサミを見て「あ、これはハサミだ。」ってことはわかるんです。でも「何に使うものなのか?」ってことが分からないんです・・・。
でも、「何のための道具なのか?」って事が思い出せないんです。
他にも「会社の資料を作っているときに誤字脱字が増えてきた」「会社の会議などスケジュールを覚えていなかった」「机の上に置いてあるお茶が、いつ注いだものかわからなかった」など、いろんな兆候がありました。
でも、なにより会社に行きたくなかった。社長に会いたくもなかった。
部下にも会いたくなかった。
この時期、会社でボクの身に何があったのかというと上司の取締役が変わったことくらい・・・。
その方は他社から転職してきた方で、もともとは凄くボクとも仲良くしてくれていました。
ところが、直属の仲間になった途端そんな関係は造り物だったことに気付きます。
喫煙室で顔を合わせると、不機嫌な顔をされ一言も口を聞くことはありませんでした。仕事で相談すると「今忙しい。それくらい自分で考えろ。」と一蹴され、取引先に向かう電車の中で「あんたってこの会社に8 年間もいて今までどんな実績上げてきたの?何も無いんじゃない?あったら私の耳にも入ってくるけど。本当は社長もあなたの事なんて要らないと思ってるんじゃない?」なんて事も言われました。
なんとなくですが、「社長が僕自身を鍛え上げるために、この取締役にそう言ってあるのかな?」なんてポジティブに思ってた事もあって。
今までの同僚としての距離感ではなく、取締役としての距離感で接してくれているから、こんな冷たい態度なのかな?って思ったから・・・。
その数日後。その人に会議室に呼び出されました。
その一言で目の前が真っ暗になりました。
信じていたAさんBさんもボクの味方では無かったんだ・・・。
「そんな事くらいで他人に相談するし、仕事もできないし、あんたなんて生きてる価値ないんじゃない?」
『もうこの会社に居たくない。』
そんな気持ちがボクの心のすべてを満たしていきました。
でもそれは、自分の兆候(症状)を相談し解決してもらう為じゃなく、会社に行かなくてよくなるように「診断書」を書いてもらうためでした。
そう。ハサミの使い方を忘れてしまったボクは、もう一度ハサミを使えるなるようになることよりも、いまの現状(会社)から逃げ出したかったんです。
もう一度ハサミを使えるようになりたいなんて気持ちはこれっぽっちもありませんでした。
■ハサミの使い方を思い出した今のボク。
1年2ヶ月という長い休職期間を経て、この度元の会社に復職いたしました。
精神的にも安定しています。まだまだ薬は飲み続けていますが・・・。
でも、逆に薬さえ飲んでいれば普通に生活できるわけで、何てことはありません。
うつ病になる前の自分や生活には、絶対戻りたくないと思っています。
あんなに仕事人間だったボクが、会社と上手く距離をおいて物事を考えています。
今でも人混みは苦手です。
でも、そんな所に行かなくても生きていけるので不自由はありません。
そう。
特に趣味もなく、会社で評価されること・会社の仕事をこなすことだけが、ボクの生きがいであり、ボクの存在を必要としてくれる居場所だったんです。
そりゃぁ、その会社から「あんたなんて必要ない。」って言われれば、自分の居場所が無くなるんだから、うつ病にもなりますよ。
今のボクは、趣味であったり、美味しい食事であったり、大好きな自然だったり、友達だったり、ブログだったり、いろんなところに居場所があります。
御飯食べるための仕事。要するに飯の種って事です。
それくらいに割り切ったお付き合いを会社や人間関係に置いてみると、多少嫌なことも我慢できるのかもしれません。上司にガミガミ言われても、新しいカメラのレンズを買うためなら・・・って。
では、ボクがここまで変わることが出来た経緯をご紹介します。
■休職できた。
「休職」ってボクの中では重病(骨折とか入院とか)の方しかできないと思っていました。
よく勘違いする人が多いのですが「うつ病は心の風邪」って言う人がいます。
うちの会社の総務の人も「うつ病は心の風邪だからちょっと休めば治りますよ。」なんて、気休めを言ってくれました。
しかも外傷も見当たらない「脳の重病」だと。
だって、食欲もない・眠れない・何もする気が起きない・・・これって心(気持ち)でどうにかなるものでしょうか?
「心」なんて自分の体のどの臓器かもわからないのに、「心の病気」とか「心の風邪」って言われることが本当に怖かったんです。
心療内科の先生やカウンセリングの先生から「うつ病は脳の病気です。」って聞いて、本当に安心しました。自分がおかしくなっちゃったのは「心(気持ち)」がおかしくなったんじゃなくて、脳がちょっと壊れちゃったんだなと。
しかも、ちゃんと薬があるのであれば、怖くもなんともない。何となく「心の病気」って言われると、自分自身がおかしくなったように思っちゃって怖かったんです。もう元に戻らないような気がして。
当然の権利だと思いました。会社のストレスで脳に病気を持ったわけですから。だから休職することに何の抵抗もありませんし、恥ずかしくもありませんでした。
最初の診断書で「3ヶ月の休職期間を必要とする。」と記載してあったので、会社からは3ヶ月の休職期間をいただきました。
3ヶ月で治るんだと思っていましたが、治りませんでした。
そして、会社の休職期間の限度である「6ヶ月間」に休職期間を延長してもらいました。
多分、6ヶ月で治ります。うつ病になる前の仕事人間の自分には。
ちょうど休職期間が終わる6ヶ月後の頃、会社と面談を行ないました。
その時の総務の方の対応に疑問を覚えました。
毎回「調子はどうですか?」と聞かれ、ボクは「たまに、メマイとかします。人の多いところとかだと。」と答えます。事実、今でもそうですが・・・。
それを「明確な復帰の意思、どこに復帰したいかの意思表示がありません。」と言うふうに社長や他の取締役に報告していたようなのです。
人混みでメマイやパニック障害を起こしている状況で「はい!もう大丈夫です!元の取締役として働かせてください!」なんて言える人はいないと思います。
もう、休職期間も終り自然退職(自己退社)になるんだから、言いたいことは全部言ってやれ!って気持ちでした。
休職期間に入るときに社長からの伝言で「休職は認めるけど、戻ってきたら取締役解任ね。」って言葉を頂戴してました。
それ以外他にも例の人から言われたことの全てを総務の人に報告し、「パワハラではないか?」と詰め寄りました。
そもそも、総務の人は現場で何が起こっているのかを知りません。
噂レベルで「こんな事いわれたらしい。」と言うことは聞いていても、他の取締役本人の口から伝えなきゃわかってくれません。
だから言いました。
本当に。
今までのストレスを全部吐き出したんです。
抗うつ剤の服用者が暴れたり言動が荒くなったりってニュースを見たことがありました。
今思えば、この頃のボクはそんな状態だったのかもしれません。
でも、今のボクは当時のボクを責めたりはしません。
自己嫌悪もしていません。
薬の力を借りていたとしても、自分の気持を汚い言葉や罵声であれ会社に伝えられた自分を褒めてあげたいと思っています。
だって、それだけストレス溜まってたんですもん。たまったストレスを吐き出させてくださいよ・・・。
今思えば、休職してすぐにストレートに会社に気持ちをぶつければよかったなぁとも思います。でも、そんな気力も余裕もなかったんですよ。
自分の気持を整理して、相手の言うことを理解し、自分の気持と照らし合わせ、思いを伝える気力と余裕を持つまでに半年掛かったってことです。
その半年間のことは正直よく覚えていません。
ひたすら寝て、きちんと薬を飲み、食べられるものを食べる。
人間として何とか生きている感じ。
でもきっと、気力を貯めこむ期間として必要な半年間だったんだと思います。
おかげで気持ちが会社へ伝わり、会社の規程が「病気の場合での休職は1年間とする」と変更されました。
ただこれに素直に感謝できるまであと半年かかりました。当時は当たり前だろって位に思ってました。
一気にストレスを吐き出したボクは、やっと何かを吸収する余裕ができました。
人からのアドバイス聞いたり、本を読んでみたり、ちょっと難しいテレビを見てみたり、Twitterを始めてみたり・・・。
やっぱり自分の気持ち(想い)が自分の中に溜まっていると、人から何を言われても「そうは言うけど、ボクはうつ病だし・・・。」みたいな感じで聞く耳を持てなかったりします。
想いを全て会社に吐き出して、やっと「何か」をしてみようという気持ちになれました。
この想いの吐き出し方や吐き出し先は人それぞれだと思います。
ボクの場合は「会社のせいだ」と思ってしまっていたから、会社にぶつけたまでで。
まずは何故自分がうつ病になったのかをきちんと主治医やカウンセラーと相談し、答えを見つけることが必要なのかもしれません。
余裕が出てきたところでやっと気付きます。
「うちの会社でうつ病でこれだけ長く苦しんでいるのは自分が初めてだ。」と。そして、相手を思う余裕も出てきます。
「もしかしたら、会社の総務人事の人達や社長は『うつ病』について何も知らないんじゃないだろうか?だから、ああ言う対応しかできなかった。」と。
「だとしたら、そりゃぁ、仕方ないよね。」と。
簡単に言っちゃいましたが、「そりゃぁ、仕方ないよね。」って考え方は、ボクの中に初めて生まれた考え方でした。
仕事人間だったボクは「何にでも白黒付ける」事を求められ、必ず答えを出さなければいけなかった。「仕方ないよね。」とか「どうしようもないよね。」で片付けることなんて出来なかった。
全てにおいて私生活でも白黒付けて生きてきました。
「この世にはどうしようもないことがある。」
それに気付き納得できたことは、これからのボクの闘病生活を大きく左右する出来事でした。
「会社の人達や社長は『うつ病』について何も知らないんじゃないだろうか?」から「だとしたら、そりゃぁ、仕方ないよね。」と思ったボクは、「うつ病」について知ってもらおうと思いました。
せっかくなので会社の人だけでなく、全国の人にも。
■うつ病を楽しんでみる。
まずはブログやTwitterで「自分がうつ病であること」「うつ病の人ってこんな人」ってことをセキララに語ってしまおうと思いました。
当然、ブログで「ボクはうつ病です。こんな生活を送ってます。」なんて記事を書こうと思ったら、自分の生活で「あれ?」と思ったことを記録しなきゃいけません。
・ あれ?ボクは何でこんな事してるんだろう。
・ あれ?ボクは何でこんな事を考えたんだろう。
・ あれ?ボクは何でこんな事が出来ないんだろう。
・ あれ?ボクは何でこんな事が出来なくなったんだろう。
例えば、ある日「冷蔵庫にサランラップを仕舞っている」事がありました。
朝、冷蔵庫を開けたら冷蔵庫にサランラップが入っていたんです。
・・・あれ?ボクはなんで冷蔵庫にサランラップ入れたんだろう?って思いました。
「サランラップが冷蔵庫に入っていました・・・。うつ病って凄い。」って。
「疲れてるだけだよ!」
「冷たいサランラップって気持よさそう!」
などなど。
あれ?と思いました。
ちょっとでも人を笑わせる事ができるってことは、凄いことなんじゃないか?
急に目の前が明るくなった感じがしました。
そこであることに気付きました。
自分の中で「変な行動や変な考えを全てうつ病のせい」にするのって意外と楽だって事に。
だって、病気がボクをそうさせてるだけで、ボク自身がおかしいわけではないんじゃないか?きちんと病気と向き合って対処すればいいだけじゃないか?
これに気づいたときに本当に楽になりました。
今まで無かった「目標」ができたんです。
そして、このメモは主治医やカウンセラーに相談するときにも役立つんです。
それからのボクは、「うつ病を楽しむ」生活に切り替わりました。
■「ありがとう」って言われたくなる。
そんな日々を繰り返していると、Twitterでメッセージを貰いました。
「ブログを拝見しました。ご想像の通り、ボクも若干うつなのです。薬も服用しています。でも、まだ公表できていません。ブログを読んで気持ちが楽になりました。ありがとうございました。ただ、それがいいたくて。」
別に誰かを幸せにしたいとか何も考えずに書いているブログに、「気持ちが楽になりました」って言ってもらえるなんて思ってもいませんでした。本当に嬉しかった。
こんなボクに「ありがとう」って言ってくれる人がいるんだ。
「生きてて良かった。」って泣きながら母親に話をしたことを今でも覚えています。
それから他人から「ありがとう」って言われることをすれば、自分の存在理由を見つけることができるのかもしれないと思うようになりました。
同時に、きちんと自分からも「ありがとう」と言える人になりたいと思いました。例え、コンビニの店員さんであっても「ありがとう」って言うようになりました。外食したときはお金を払って店を出る前に「ごちそうさまでした」って言って帰るようになりました。
もしかすると、その事自体が別に褒められることではないのかもしれません。
人間として当たり前のこと。
だとすると、なおさら「今までやってこなかった自分」を恥じるようになってきました。
そう「仕事人間で余裕が無く他人に『ありがとう』とも言えなかった自分」が恥ずかしくてしょうがなかったんです。
普段探してみると「ありがとう」って言う機会は思った以上に転がっています。
それに気づかなかった過去の自分がおかしいんじゃないか?って思ったんです。
それが自信から確信に変わったときにハッキリと目が覚めました。
そして「うつ病になる以前の仕事人間の自分になんて戻りたくない。」と。
とはいえ、自分って何故こうなんだろうって、自信を無くす時はあります。
そんな時ボクは、あまり褒められる事ではないのですが、見知らぬ誰かと自分を比べるということをしています。
例えば、街でタバコをポイ捨てしている人を見かけたら、「自分はポイ捨てしないなぁ。」って思えれば、その人よりも自分のほうが生きてる価値があるのかもしれません。
知りたい、女は何でシコるのか。
まず最初に、私は何処にでもいる普通の腐った女である。インスタグラムよりツイッター、美味しいパンケーキより推しのパイパンを愛する彼氏居ない歴=年齢を更新している成人クソ女である。
そんなツイッターに掃いて捨てるほど居る様な女だが、最近ふと気付いた事がある。
「世の女性って、どんな事をしてシコってるの…?」
という事だ。
私の性欲の発端は小学生の時うっかり父親がレンタルしていたAVのパッケージを見てしまった事にある。その時私は別の探し物をしていたのだろう、本棚の上にあるケースに巨乳人妻単体ものが7本くらい入っていたのだ(次の日にはもう隠されていて私は父親の性癖を知ることはなくなったが)その日の夜私は何だかムラムラして股間を机の角に押し付けていた記憶がある。よくエロ同人で「なんだかっ❤︎おまたがっ❤︎むずむずしゅるう❤︎」みたいな導入があるが、まさしくアレである。
後思い出せる次の性欲の開花は、中学生の時に見た某アキバ系ブログの存在である。エロ同人誌やエロゲーをモザイクありで躊躇なく紹介するサイト。今にして思えば彼処からもう私のオナは拗れてしまったと思う。
そう、私は「女性」でありながら「女性」のエロい姿で普段シコッているのである。
普段のシコりかたは割と色々である。ツイッターの2次エロでシコり、支部のエロ絵でシコり、後DMMR-18のAVサンプルでも抜いた。(レンタルは暖簾潜るのが怖くて借りれていない)
私が好きなのは専ら巨乳のお姉さん。絵からいい体臭がして、おっぱいが少し弛んでいるくらいがいい。支部では"背後から胸揉み"辺りのタグを漁り毎晩のオカズを探している。
ここで思うのは私はこういうイラストを見て「犯されている」側に興奮しているのか「犯す」側に興奮しているのかという事である。男が女のエロに興奮するのはなんか分かる。だって男は女を犯す竿役にトリップしてシコる訳だし、男が男の娘ものを見る場合もまあ…同様だろう。違ったらごめんなさい。
けれど私は何でシコっているのか?
私はノンケでありレズではない。後売れ残りの新品である。だから最初は男に犯されている女に自分を重ねているのか…?とも考えた。けれど必ずしもそうとは言い切れないのである。
男が男でシコる時、女が女でシコる時…この場合って何だ(スペースキャット顔)
私もレディコミで抜ける女ならこうもならなかったのに。一体女は何でシコるのか?ツイッターで大っぴらに聞けないからこそ、私は考えるのである。