はてなキーワード: タイムラインとは
SNS、インフルエンサー、Vtuberといったジャンルのフィクションが年々増えていると思う
ジャンルとしてでじゃなくとも、現代社会を舞台にした物語には欠かせない要素となっているだろう
登場人物がスマホにうつるタイムラインを見て「うぎゃー」と声をあげるようなシーンは実際ありふれたものである
一方で、インターネットの混沌とした側面やワールドワイドな影響力、そこに潜む多様な人々の心理・行動・日常、あるいは事件の数々
そういったものをリアルに、深く掘り下げて説得力を持ってに描かれたフィクションってのは存在するんだろうかね
個人的には、きわめて希少だと思うのよね
きっとネット社会のダイナミズムを物語に落とし込むこと自体が一つの技術的な課題で、多くの作者にとっての高い壁になってる気がする
フィクションにおいてインターネットが普遍的に存在する世界をどのように捉えどのように表現するかは、作者の感性だったり洞察だったりによって大きく変わるんだけど
なので大抵は特定のコミュニティで起こる小さな出来事にフォーカスを当てることになる
これらは往々にしてある種の非日常性を含んでいて、それがフィクションの核を形成する
例えばあるSNSが炎上して人生が一変する物語とか、VTuberがデビューして現実で言う宝鐘マリン並みに一躍売れっ子になる過程を描いた成功譚とか
きちんとしたノンフィクションが描かれないことには説得力のあるフィクションも成り立たないような気がする
要はインターネット社会に対する描写だけが大事なのではないよねということ
とりあえず議論の前提となっていると思われる部分に同意できないんだが、それぞれ例を示してくれませんか。
あ、「私のタイムラインの中」とか「私の友人」みたいなエコーチャンバーの話はいらないです。
ある程度権威付けされたきちんとしたものか、権威付けはされていないけれども、客観的に絶対数で多くの人がそのように考えていると見ることのできる方法でお願いします。
キャパ130人くらいの劇場で公演をしているような劇団の中堅の役者のファンだった。
結婚していることは非公開にしているくせに
奥さんは私によく「匂わせ」をしてきていた。
そんなとこもなんかずっと気持ち悪かった。
推し(便宜上そう呼ぶ)は、20年前はたっくさんのファンがいた。
人目につくような仕事をしていたから、仕事から流れてきたファンがたくさんいて、私もその1人だった。
でもその仕事がなくなり、人目につかなくなると、ファンはすぐに離れていった。
若かりし頃、被りなんてみんないなくなっちゃえばいいのに、と思ったこともあったが
実際に居なくなるとなんとまあやりがいのないことか。
ファン同士で「私の方がいい対応してもらってる!」「私の方が可愛い!」「私の方がたくさん金を落としている!」など内心バチバチやることが楽しかったのだ。
今は、客は客だしお行儀よく金落とせば好かれる。とわかるけど、そういうことがわからないファンが(私含め)いっぱいいたしそれで承認欲求が満たされることが楽しかった。
淡々とした日々が続いた。
頑張ろうが頑張らなかろうが私は「唯一のファンで絶対的な存在」だから、頑張る必要がなかった。
その頃気づいたが、推しには役者としての魅力がなかった。演技も上手くないし、顔もスタイルも貧相。20年前は若くて華があっただけだった。
あとびっくりするくらいコミュ障で、面会でも会話が成立しない。
だから、役者としても別に好きではないし、人としては苦手だった。唯一のファンである心地よさと、他の劇団員がいつも良くしてくれるから辞められなくて、ずっとファンを続けていた。
ファンになって19年が過ぎた頃、状況が変わった。
その頃の私は怠慢も怠慢で、推しが出演する舞台でも、その団体の作風が嫌いなら観に行かなかった。
役者のファンとして推しが出るなら観に行こう、という気持ちより、消費者として観たくないものは観なくていいだろ、と思っていた。今もそれは正しいと思っているけど、ファンならなにがなんでも追いかけるのもまた正解だったのだと思う。
そんな間に、私が観に行かなかった舞台を「推しを目当てに見に行った人」をXで見つけた。
推しはXで、劇団のファンの中で唯一私だけをフォローしていた。
ごくたまに、酔った勢いで推しが芝居のことや仕事のことでDMをしてくることがとても嬉しく、私の中の自信となっていた。
別に全然いいしファンが出来て良かったねと思っていた。本当に。
でも、気づいたら、「新規」のツイートばかりいいねやリツイートしているな。とか
面会の際も「新規」とは長々話しているな、とか勝手に卑屈に感じるようになっていった。
今まで待ち望んでいた被りなのに、
「別に私じゃなくても誰でもいい」みたいな扱いを受けると
虚無感に襲われた。
推しにとっては、チケットが売れて席が埋まれば、誰が座っても変わらないことは頭では理解しているのだけど、ヲタクとしては感情が追い付かない。
「新規」は0:00に主語もなく「おめでとう」とだけXにポストしていた。
私も数時間後に同様につぶやいた。
その日の夕方になり、「新規」のつぶやきにだけいいね がついていた。
私の気持ちが折れた。
こんなに長文を書いて。
いいねがつかなかったって。
しょうもな
でも、でも、タイムラインを見ていたら、「新規」のポストが目にはいったなら、私のポストも目に入ったんじゃないの?とか
いつも劇団に関するポストをすると即座にいいねしてくるんだから私のポストも絶対に見ているはずなのに、とか。
まあこれはきっかけに過ぎないのだけど
誕生日おめでとうのつぶやきに、被りはいいねされて私はいいねされなかったので、私は20年続けた推しのファンを辞めます
推しがXの使い方が上手ければこんなことにはならなかったのかも、と思うと悔しい。
客のポストをバカみたいに全部リポストするから、本当に見たい劇団員のポストが埋もれるし全員がリポストするから同じ客のポストが何度も流れてきて不快。
複数回観劇するヲタクがここぞとばかりに考察したり「今日はこうだった」とポストするのに嬉々として反応するので、ライトヲタは肩身が狭くなり行きにくくなる。
まじで頼むから当日券情報とか楽屋での様子だけポストしててくれ。
いまだにヘッダーを私が撮った写真にしてくれていることだけが唯一の私の自信です。
バイバイ元気でね。
これはあくまでも私の愚痴であって、特定の人に対してのヘイトではありません。
この事をTwitter(現X)などで呟いた瞬間、HSPへのバッシングとみなされ、袋叩きに合うのは分かっているが、どうしても繊細で感受性が強いから私はこうなんです!と押し付けてくるフォロワーに対して何とも言えない感情と限界を感じただけだ。
私自身、メンタルがそこまで強いわけではなく、仕事などで色々あったりし、限界値を越えてしまうと、ちょっとした事で「ああ、何をやってもダメだし、こんな世界とはお別れしたい」とかなりのネガティヴ思考に落ちる時もあれば
「人生たーのしー!世界は私のために回っている!」となるほどハイテンションな時もあるので、上がったり下がったりするのは誰しも同じと思っている。
ただ、冒頭にも書いた通り、相互フォロワーの中にこんな私とは正反対な自称HSPで感受性も強く、ニュースで芸能人などの訃報を見るだけで気分が落ち込んで辛くて泣いてしまう人が居る。
それも個人の性格だし大変そうだなと感じる事はあれど、そこまでは気にしてなかったが、最近になり?となる事が増えてきた。
私が訃報ツイートなどのニュースをRTしたあと、必ずといっていいほど「亡くなったニュースを見て辛い。しんどい。」と呟き、そのあとすぐHSPさんはこんなに大変!だから配慮して。といったような内容が書かれたツイートをRTしてくる。
1度なら分かる。
だが、毎回である。
なぜ壁打ちをしている内容をそのフォロワーに配慮しないといけないのか?繊細だからって押し付けてくるのはおかしいのじゃないか?
こんなことを考えてしまう自分の性格はかなり捻くれて思いやりが無いのでは?と考えてしまい、そんな自分が嫌になり、ツイートの内容も当たり障りがない内容ばかりを書いてしまう。
最近では自衛のため、HSPや繊細さんと書かれたツイートが表示されないようミュート設定をし、快適なタイムラインになるように努力はしているが、小蠅の如くどこからともなくすり抜け流れてくるHSPツイートにイライラしてしまうし、イーロン仕事しろ!と謎の八つ当たりをしてしまっている。
ここで、そのフォロワーをブロックかミュートにしてしまえば解決するのでは?と思われそうだが、HSP関連の事さえ無ければ、趣味も合い、気も合うフォロワーなのでなかなか切るという決断が出来ないでいる。
そうして今日も自己嫌悪を感じながら、小蠅のように流れてくるHSP関連のアカウントをひたすらブロックする作業を繰り返している。
・オタク加齢あるある(生活が忙しくて没入できないとか「物語」の主人公の少年少女青年の年齢から外れて刺さりにくくなってる)もあるんだけど
それに加えて
・原作でクソデカ感情や深い関係がある以外の組合せ以外にハマれない(=顔カプ・捏造カプにハマれない) しかし腐った層にあからさまに媚びてるのが感じられるのは全然惹かれないという心がふたつある
なおかつクソデカ感情深い関係がありつつ腐媚臭くなかったとてキャラにハマれるかも微妙な確率
捜索範囲が狭いだけでドラマとか映画とか小説とか探せば多いのだろうが時間気力がない
Twitterのセンスが信用できる腐った奴らのタイムラインがざわつくまで待つ
今後無くはないんだろうが
枯渇がすごい
柔らかな日差しに誘われて、国道沿いのホームセンターにカチコチに乾燥した水苔を買いに園芸趣味者たちが群がる季節。
大小さまざまな植物の即売イベントがいたる場所で開催されて、奇妙な蘭に、雄々しいユーフォルビアに、グルメな食虫植物に、大いなる眠りから目覚めた塊根植物に、それから…なんだかよくわからない多肉植物にも、冬の間に貯めこんだ札束が飛び交う季節。
園芸趣味者のXを見れば氷漬けだった2月の頃が嘘のような狂乱騒ぎが繰り広げられている。
だがタイムラインの百花繚乱をよそに、ザコ園芸趣味者はボサッとしていた。ザコ園芸趣味者だからだ。
起きたらベランダの窓を開け、曇天の続く空をギラリと睨みつけ、空気の匂いを疑わし気に嗅いだあと「まだ寒い」と一言つぶやいて窓から顔を引っ込め、布団に再び潜り込む。
たしかに、背後ではいよいよ植え替えせねばならないアンスリウムが列をなしている。だが!まだ今日はその日ではない。
植え替えは根に負担が掛かる。そこにこの3月の花冷えが悪さをしたら…考えただけでも恐ろしい!春はともあれ、慎重が一番なのだ。
じっさい、ザコ園芸趣味者の「庭」はこのapple社製の数インチのスマホの中にあるといっていい。
立ち並ぶサムネイルは確かに春が到来していることを告げている。
同じころに園芸を始めたはずのあの人はいつの間にかマダガスカルから輸入されたベアルートの発根に取り組んでいるし、別の園芸素人を自称するあのひとは自宅で細胞培養するための無菌培地づくりに悪戦苦闘しているらしい。
多肉植物のために家の隣の空き地を買って温室を建てたり、熱帯植物のために加湿器を鉢の数ほど並べてフル稼働させていたり、YouTubeを始めたり、3Dプリンターでオリジナルの鉢を印刷していたり。
しかしザコ園芸者は焦らない。どうせまだ―何らかの不思議な力によって―私の家まで春は来ていないのだから。
そうは言ってもせっかくの休みなので何か園芸趣味者らしいことをしたい。
そうそう植え替えの準備をしなければ。赤玉土はまだあったはず…あれ、なんでパーライトが二袋もあるんだ?いやこりゃゼオライトじゃないか。鹿沼土は中粒はあるが、小粒が無いな。しまったまた買ってこなくては。
ザコ園芸趣味者は去年の今頃の記憶を掘り返して何を揃えなければならないかリストを作る。自分の頭はどれほど掘り返しても「水はけがよく、水持ちがよい用土」にはなってくれない。
コストコのレシートのように長いリストが出来たら、せっかくだから車で1時間くらいの大型園芸品店まで繰り出そう。
細君が椿を育てたいというから助手席に乗せて、行く途中でスタバによって、春限定のなんか良くわからない甘いやつをドライブスルーで買ってもいい。たいていピンク色をしている。
ところで、園芸趣味者はたいていのものが罹患している病気がある。うどん粉病と、この世のすべてのものが園芸用品に見える病である。
セリアのメッシュのキッチンツールスタンドを見ては「こういう鉢なら根腐れ防止にいいかもしれん」と唸り、アウトドアショップの合わせ焼き網を見ると「間に水苔を挟んだら立派な着生材だ!」と喜び、食器を見ると「味のある素晴らしい器だが…残念なことに底に穴が開いていないな」と心底悔しそうにする。
一切万事がそんな具合だから、ほんものの園芸店に入るとしばらくは感動で身震いが止まらない。
買わなければならない諸々のリストをほっぽり出して店内の隅から隅まで踏破しなければ気が済まない。
ついてきた細君は腕組みの位置がどんどん高くなる、が、あの高さならまだ大丈夫。先週はフランフランで同じように待たされたのだから、気にすることはない。
散々待たせた挙句、買ったのは近所のホームセンターでも買える用土の類ばかりだ。
あきれて無口になってる細君に向ってザコ園芸趣味者は満足げに言う「立派な亀甲竜があったね!うちのほどじゃないけど」
家に帰るとザコ園芸趣味者は買った椿に水をやる細君に講釈を垂れるのを忘れない。
「おやおや水をやるときはちょろっとじゃいけないよ。鉢底から水がしっかりあふれるまでじゃないと。そしてよく乾くまで水をやるのは辛抱すること。今日買ったのは花芽のついた枝差しだから今年は開花するだろうけど来年からは…」
すべての講釈を聞き流した妻が適当に世話をした椿がつぼみを綻ばせるころになっても、ザコ園芸趣味者が丹精込めて世話をするオペルクリカリア・パキプスは休眠からなかなか目覚めてくれない。
というより、音楽は聴くのに時間かかるけど、絵は一瞬で見れるっていう時間的な違い大きい。
たぶんその構造的な制約ゆえに反発が少なくなってると思う。
どういうことかというと、一言で言えば、絵は0.1秒で鑑賞できるけど音楽を聴くには少なくとも数十秒から数分間の時間を要する。
さらにいえば絵は一度に大量に見ることすらできるが、音楽は一度に1曲のみだ。
このことがどう影響するかというと、絵の場合、見たくもないのに目に入るという事態が起こりうる。しかも大量に。
XのタイムラインやYoutubeのサムネイル、webページのバナーがAIイラストで埋め尽くされる。
これは恐怖だ。見たくもないものが洪水のように迫ってくるのだから。
情緒が不安定になりヒステリックな反応を引き起こすのも無理はない。
一方でAI音楽の場合、再生ボタンを押さなければ再生されることはない。
動画などの素材で使われていたとしてもフリー音源との違いがわからないので違和感を抱かない。
ゆえに脅威を感じづらい。
これが両者の反応の違いとなっているのだと思う。
別の論点でいうと、絵と音楽は制作スタイルが大きく異なるので、その成果物に対して個人が抱く感情にも隔たりがあるのではないかという話がある。
絵は多くの場合一人で完結できるので作品に対する作家性(簡単に言うと「自分のモノ感」)が強い。
逆に音楽はほとんど分業制で作られていて、「個人のモノ感」が低い。作曲者と演奏者(歌手含む)が違うのは当たり前で、そこに作詞者や編曲者が加わることもよくある。
絵に例えるなら、ラフと線画と着色、仕上げを別人が担当するようなものだ。
1つの素晴らしい音楽作品があったとして、それが名作たり得るのが誰のおかげなのかを明言するのは難しい。
つまり絵の一次創作者が「すべてを統べる者」であるのに対して、音楽の一次創作者(作曲家)は、「作品の一部を作り出すもの」でしかなく、ゆえに「自分のモノ感」が低く、それが仮にAIに置き換わったとしてもダメージが少ないのではないか。隣接する他の仕事がいくらでもあるし。
その時はあまりなにも感じなかったけど食べ放題だけど空気を読んである程度で控える派と食べ放題なんだから在庫がなくなるまで食べていいだろ派がこんなに対立するとは思わなかった
50人前はさすがにやりすぎ派からZ世代を感じてなんとなく世代間対立という感じもしてる
なんていうかZ世代に限らずある程度若い人ってそういう潤滑油的な空気の読み方する人が多い気がして、おじさん・年寄りだってそうしてるんだけど年寄りからすると過剰に潤滑油的な動きを若い世代は求めらてるような、実際そうしてるような気がする
バリアフリーは何言ってんだこいつということで炎上というより一方的に叩いで遊んでるイメージあるな
全部そう感じるだけってことだけど
いつも競馬かアイドルやめてる子…同上。渋谷凛の友達。日曜の午後の競馬タイムラインにいつもいる。
確か3人組だったよね…思い出せない。
武内P…当時はアイドル達より人気があった。武内ってのが担当声優の名字であることを知ったのは最近。
緑の悪魔…Pが貧乏なのは大体この人のせい。ウマ娘にも緑の悪魔がいる。サイゲは緑に恨みあるのか?
社長…シルエットで出てくるのは知ってる。
にょほー…身長が高い。
夢見りあむ…公式いじられネタ枠。園児服も着る。おっぱいが大きい。
ものすごくおっぱいが大きい子…牛ビキニを着(させられ)ているFAをよく見た。
安部菜々…うわきつ。
樋口円香…ツンツンしてるけど実はPにチン負けしてる。湿度が高い。嫉妬の鬼。独占欲の塊。メス猫。都内のめっちゃいい家に住んでる親ガチャ勝ち組。
森久保…無理。
幸子…大体凹まされている。
高槻やよい…名前繋がりで誕生日に高槻市の弥生軒が聖地化する。見た目はよく覚えてない。
思いつく限り書いてみたけど、見返してみるとひどいな、これ。