はてなキーワード: フィフティ・フィフティとは
各記事のリンク張りたかったけど増田仕様?9個までしか張れない模様
祝 書籍化
※2020年上半期、cakesでもっとも読まれた記事 15位
ワイのマッマはなかなか電話に出てくれんからフィフティ・フィフティのほうがええやで
「『兄弟』ってさ、姉と弟とか、兄や妹でも『きょうだい』って読むじゃん?」
「そうだな」
「でも、『しまい』って読みは姉と妹だけだろ?」
「まあ、それぞれ一応は他にも読みがあるが」
「ほお」
「つまり、いずれかの組み合わせを『しまい』読みにすれば丁度よくなるんじゃないかな」
「へえ、例えば?」
「姉と弟の組み合わせを『しまい』読み」
「なぜその組み合わせを?」
「年功序列」
「あ、センセイ」
「そういうのはね、全部『しまい』読みにすればいいんですよ」
「ん? それでいいんですか」
「天びんによる調整が上手くいかないなら、二つある皿を一つの皿にしてしまえばよいのです」
「すげえ! さっすが先生」
「まあ、私みたいなのからすれば、そんなことをして誰が得をするかってことを真っ先に考えますけど」
「寂しいことを言いますね」
許容されるっていうか、お互い罵り合ってるなら、お互い様のフィフティ・フィフティなんじゃないの
よ、宝くじ、みんな買った?
三連休もクソもない割に今日は早起きしたから、算数の話するか。
そりゃそうさ。買おうぜ。
買い物に対価を払わないってのは、そりゃ業腹ってもんだ。
まあ、期待値の話をしようか。
四角い形したフツーのサイコロ振ると、期待値3.5とか言うな。
1x1/6 + 2x1/6 + 3x1/6 + 4x1/6 + 5x1/6 + 6x1/6 = 27/6 = 3.5
ってコトになってる。
これをひねると、例えばコインの表が出りゃ100円、裏ならゼロってゲームの期待値は、
さて、これをちょいとひねってな、裏が出たら終わりのゲームってのをしてみよう。
裏が出るまで、倍々で賞金が増えるとしてみようや。
○○○●なら、100円の倍の倍の倍で、800円。
100円x2の(表の出た回数)乗ってこったな。
さ、これの期待値っていくらになると思う?
10回連続表なら10万ぐらいだけど、11回なら20万、20回なら1億だ。
恐ろしく確率は低くても、バカみたいな金額になる。
つまり「期待値で判断するのが情強」って定義なら、このゲームにゃ全財産を賭けてもやるべきって結論になる。
こりゃあオカシイわな。
ちっと考えれば、50%で100円、25%で200円、0.1%で10万ってこた判るわけだ。
このゲームを数学屋はどう解決するかって言うと、実は解決できてねぇ。
例えば、100万が200万になる時と、1000万が1100万になる時の「嬉しさ」が違うって言ってみたりな。
詳細は省くが、対数的な値になるから発散せずに、まあ答えらしきものは出る。
ただなあ、定義する「嬉しさ」(ググるときは「効用」でググれ)を倍にするってゲームだと、結局解決はしねえ。
ま、結局のところ無限の資産を持つ胴元が、無限回数のコイン投げをするのがイカンとかなんとか言ってんだけどな、
さて、確率の話題をやると必ず出てくる、バラつきだ。
賢そうな中学生ぐらいだと「大数の法則ガー」とか言うんだけどな、ちっと待って欲しい。
まず、「コインの表が出る確率が1/2」ってのを「机上の確率」って言うな。
で、「オレが実際にコインを投げた時の、表が出た回数/投げた回数」を「やってみた結果」って言うな。
馬鹿みたいな回数コインを投げると「やってみた結果」が「机上の確率」に等しくなるってことは、無ぇ。
「やってみた結果」の数が増えれば増えるほど、「机上の確率」に対する乖離が小さくなる可能性が高いってダケだ。
判りにくいな。
逆向きに考えてみようか。
サイコロにオモリが仕込まれてなくて、1の目が1/6の確率で出るってのを判断するには、どうしたら良い?
36回ふったときに、ぴったり6回でたやつだけ取り出しても、あんまり意味はない。
例えば、100回ふりゃあ、本来なら1/6*100だからまあざっくり17回ぐらいになるハズだあな。
続けて10回、100回サイコロふるってのをやってみたら、、13,17,17,15,12,22,6,11,19だった。平均は15.2な。
100回振ったのに6回しか出なけりゃ、なんか疑うだろうし、22回でもまあ微妙かね。
でもな、こいつのバラツキ、つまり標準偏差は4.8になる。これは回数を繰り返せば繰り返すほど小さくなってく。
詳しく知りたきゃ信頼区間とかシグマでググれば良いが、まー、何が言いたいかって言うとだ。
サイコロを100回ふったときに、1が6回出ることもありゃ、22回出ることもある。コレはずっと変わらない。
でも、真に1/6の確率のサイコロなら、バラツキは正規分布に従うから、乖離は徐々に小さくなるハズだ。
つまり、バラツキがどれぐらいにおさまったらサイコロが1/6で1を出すって信頼するかを、自分で決める必要がある。
そして、幾ら大量にデータを取ったところで、次の瞬間のサイコロが1/6でふられるかを保障するわけじゃねえ。
結局のところ、自分で決めたバラツキ以内におさまってるかどうかの「信頼」とか「信念」の問題になる。
確率は、結構ばらつきがあって、正に運で変わるって話はしたな。
つまりだ、オマエさんの手元にあるサイコロが次に振った時に1/6の確率で1を出すかは、判んねえ。
ただ、何回か振ってもらえれば、ズルしてねえ、出るか出ないかのフィフティ・フィフティじゃねえってのを、ある程度信頼できる。
んで、効用ってのは、「嬉しさ」のこった。
ざっくりいや、小学生の1万円と、億万長者の1万円は、嬉しさの価値が違う。
前後賞合わせての7億円ってのは、凡人にとってみりゃ「当たれば人生変わる」金額だな。
これはな、計算したい数学屋にはこういってもイイ。「効用が無限」だと。
つまり効用の期待値を計算すりゃ、「∞x1/1000万=∞」なワケだ。
さらに言えばだ、「机上の確率」と「やってみた結果」にはズレがあるから、
「∞x(1/1000万xバラつきの程度)=∞」になるワケだ。
宝くじを買わねえ自称情強は、このバラつきを無視できるほど小さいと信頼してる。
宝くじは正しく販売されて、ユニット毎完全に理想的に配分されて全国で販売されるし、
抽選もパーフェクトに数学的な確率でランダムに選ばれているし、
手元の一枚の宝くじは、今年発売された全ての宝くじと全く同じだと「信頼」している。
逆に言えば、宝くじを買う夢追い人ってのは、
良くわからないけど当たりやすい販売所があるだろうと思ってるし、
テレビの前で祈りながら見ていれば、自分の番号に当たるかもしれないと思ってるし、
手元の一枚の宝くじは、今年の運勢や日頃の行いで、他の宝くじよりも当たりやすいと「思っている」。
これは単に、信念の問題だ。
少なくともこれを否定するには、十分にウラドリされたデータで持って、反論する必要がある。
期待値だのなんだの言うんだったら、事前確率分布で信頼水準95%程度が言えるくらいに、データを示してもらわにゃ。
こういう言い方しても良いな。
「宝くじ10枚買っても期待値が1400円だ情弱、3000円で本でも買えよ」って笑うときにゃ、
3000円で本を買って期待値が1400円以上だってコトを示さにゃいかんよな。
まー1等が当たる確率は、だいたい1000万分の1ってのは、間違いないだろうよ。
サイコロってのは、だいたい1/6ぐらいなもんだよ。麻雀やるときでもなけりゃな。
同じ言い方で、効用ってのが(近代経済学でも使われるぐらい)ありそうなことっても判るだろうよ。
つまりよ「計り知れない効用」ってのを定義するならば、300円の掛け金は安すぎるわけだ。
ほいでな、「人生の中でそれだけの効用の賭け事をするチャンス」ってのは、こりゃ無いわけだ。
7億当たるかもしれないギャンブルに参加する事なんて、そうそう無いぜ?
起業して成功して、身ぎれいなまま上場して売り抜けてやっと作れる資産が5億ってところだろ。
もちろん、そうやって人生を賭ける起業家はスゲエとは思うけどな、
ソコまでやんなくてもさ、当たりが出やすいっていう売り場に寒い中1時間並ぶだけで、
オンナジぐらいの金額手にするチャンスがあるんだぜ?
(あまりにも小さい確率を無いのと同じとみなすのであれば、この2つを同列にしても構うまい)
ただ、カネの代わりに効用って「嬉しさ」で計算する方法もある。
宝くじの1等が当たったときの「嬉しさ」は、「人生を変える無限の効用」と感じるヤツも居る。
それで計算すりゃ、宝くじの効用の期待値ってのは無限になる。情強的にいや、手持ちのカネを全部賭けてもイイ。
そして、確率推定の計算ってのは、どんなモデルをどれだけ「信頼」しているかに寄る。
ま、情強の言う「期待値140円」つってもよ、つまりは「対価は160円」という言い方も出来るわけだ。
10枚買っても期待値からすりゃ、夢を楽しむ対価が1600円なワケだ。
今の世の中で、なかなかないぜ?
人生を変えるかもしれないって夢を楽しむのに1600円でイイなんて。映画より安い。
都内じゃ昼寝するのに金払うヤツすら居るんだろ?
師走で忙しく、寒さも厳しくなってきたこの時期、
あんまイイこと無かった一年かもしんねえけどよ、
ちょっとした夢を楽しむのに最後に多少散財したって、まあバチは当たらねえよ。
あ、宝くじの方は当たると良いな。
ベーシック・インカムの精神そのものには、私は反対の立場じゃないんだけど、どうしようもなく疑問なんで答えて欲しい。
BIの導入に伴う問題点として、税収の絶対量についてはこの際論じない。それ言えばキリがないので。「国債の自己引き受けで余裕さ、地球の自転が止まらないように輪転機も永劫を輪廻するのさ」という前提を置いておく。お予算の問題は、無いものとしての議論。
その上で、まぁBIを導入したとする。日本の人口一億2000万人×10万(仮にね)×12ヶ月のカネがマーケットに流れていく。すると、まぁ需要は喚起されるよね、間違いなく。みんながどんどんお金を使い、市場はマネーで潤いこの世の楽園となる・・・んだろうか?
疑問は二点ある。
一点目は「喚起された需要が果たして国内に向かうのか?」ということ。我々の消費生活は、多くの場合輸入に依存している。中国産製品、例えば100均ショップにある小物類のお値段は、つめ切り一つにしても国内生産のものの四分の一とかそんなものだ。現時点でも、高品質・高価格帯を除けば国内生産品はほとんど壊滅に近い惨状にあると言っていいと思う。これは、皆さんが周囲を見渡せば容易に理解されることだ。メイドイン・ジャパンのチェアで増田を嗜むブルジョワ御仁がどれだけいるか?
すると、国内のマーケットに供給されたマネーは個人の消費性向の問題として、国内を潤わせることなく海外へと流出していくのではないか?インドの綿製品が流れ込んだイギリス状態になる気がするのは私だけかな。
例えば、日本銀行は最近になって通称「成長基盤オペ」と呼ばれる金融政策を打ち出している。これは、銀行にどれだけカネを供給してもマーケットに出て行かないことに業を煮やした白川さんが、「じゃあピンポイントでヒモつきのカネをブチこんでやるよ!」という、局所療法に出たわけだ。これは、理解しやすい。しかし、それに対して全く逆の効果を持つのがBIではないか。
確かに、総量緩和による政策は果てしないマネーを預金に積もらせただけで、観念的バベルの塔を築く以外にはほとんどなんの効力ももたらさなかった。しかしまた、同様にグローバル化の世界において民衆にカネをばらまくことは、海に向かって魚を放流すること以上の意味を持ちえるのだろうか。もちろん、マグロが近海を泳ぐようになるならいい。しかし、そのイワシは大方が真っ直ぐ中国に向かってしまうのではないか?
もちろん、魚を囲う「網」になり得る可能性は存在する。マネー総量の爆発的な増加による円安傾向、並びに通貨価値の下落(これを、通貨信認の毀損と呼ぶことも出来るが、それはめんどくさい議論になるので後述。また、「バーナンキの背理法は間違っている」という可能性も排除する。)これが天然の関税として作用する可能性はないか?
円の価値が思いっきり落ちて1ドル150円になったとする。確かに輸出産業は活況を呈するだろう。しかしその一方、我々の消費傾向が国内回帰する可能性はあるか?私は難しいと思う。仮に、中国産製品の値段が二倍になったところで、それでも我々はメイドイン・チャイナの椅子に座り、メイドイン・チャイナのつめ切りを使うのではないか。
この段階で、議論はフィフティ・フィフティだ。どっちに転がる可能性もある。輸出と輸入は美しいバランスを保ち、冷戦構造のような調和ある対立を得るかもしれない。しかし、BIの性質そのものがメイドイン・チャイナを強力に後押しする可能性を考慮して欲しい。というのも、こういうことだ。労働価値というのは、A・スミスの慧眼が予見したとおり通常市場における神の見えざる手で決定付けられている。それに対して、半ばマルクス的な色合いを持つ「最低賃金」や「基本的人権」の観念、ひいては労働法規がその下限を決定付ける。翻ってこのBIの制度、これはかなり強力に労働単価を引き上げる効果を持つのではないか。
平たく言えばこういうことだ。働かなくても食える世界で、時給640円で働く労働者は存在し得るか?ということ。これは、人間の性質に関わる議論なので、ソヴィエト連邦の国家運営がうまくいくかどうかと同じくらい「やってみないとわからない」。しかし、偉大なるレーニンやサン・シモンに敬意を払った上のこととしても、私は多分ダメだろうと思う。いや、ダメだろ?BIには、鎖国、ないしは強力な関税政策が必要になる。
そして、更なる恐怖がBIには待っている。これが疑問の二点目だ。それは、わが国の根本的性質に深く関わっている。
それは、わが国は「カロリーベースですら食料が自給出来るか微妙」ということ。そして、更に絶望的なるもう一点。「資源がありません」ということ。円高になればなっただけ、輸入コストは増大する。これに更に追い討ちをかけたのが先日の震災だ。原子力抜きで、エネルギーの自給が果たして出来るのか?1ドル150円になれば単純計算でガソリン1リットル300円くらいだろうか。さて、果たしてこれはどうなる?
企業家にとっては恐ろしい未来が待っている。労働単価は高止まりし、原料費は高騰する。こうなると、「円建てで取引するのがそもそも間違ってんじゃないか」という思考に陥る可能性すらある。折角需要が喚起され、天然の関税障壁に守られたかに思えた国内生産品も価格競争力を持つことが全く出来ない。
そして追加的な怖さはこれだ。確かに、私もバーナンキの背理法は間違っていないだろう、と思う。確かに、マネーの総量が経済に影響を「与えない」と仮定するなら、世界はすぐに楽園になるだろう。なるほど、どこかで必ず飽和点は訪れ、円高は終わりを告げる。問題は、緩やかに落ちるかキリモミ落下して地面に突き刺さるか、だ。確かに円は高い、しかしわが国の財務状況は決して明るい未来を指し示してるとは言えない。つまるところ、通貨バブル、国債バブル(私は現在の状況をそう認識しているが、これには異論があるかもしれない。むしろ、通貨の絶対価値とはスイスフランによって計測されるべきである、という考え方に対しては一理を認めるしかない)が大爆発するリスクはどうだろうか。BI,とはベーシックなインカムである。それは、やはりベーシックなインカムと呼びえるだけのキャッシュフローでなければいけない。しかし、それだけのマネーを市場に放った結果について、我々は誰も知りえない。バーナンキの背理法は「リフレ政策の効力を約束した」わけではない。むしろ、「長期的に人は必ず死ぬ」といったニュアンスに近い。老衰で死ぬか、腹下しで死ぬか、爆散して骨も残らないか、誰にもわからない。
しかし、これは端的に私の知識不足、ないしは知能・理性の絶望的不足に根ざしている可能性も否定できない。
私は、BIの精神性を否定しない。むしろ高く評価するし、すばらしいと思う。ここがウクライナだったり、あるいはアルゼンチンであるなら、是非にもやるべきだと思う。また、日本が産油国であればもっといい。しかし、そうではない。
ベーシックインカム論者の反論を求む。
あ、ごめん。労働単価の高止まりの根拠として、「BIは高税率が回避できない」ってのがあった。多少働いても、まぁかなり少なめに見積もっても半分は税金で持ってかれる。厳密に計算したわけじゃないけど、「どんなに少なくても」それくらいは要る。労働意欲の喚起はかなり難しいだろうと思うよ。
おまえも代表すんなよ。おまえさんが「病気」だと思い俺は「個性」と呼べるとこまでコントロールしてこうぜ!と言う。
こりゃどう見てもフィフティ・フィフティじゃないかね。
器質性・遺伝性の障害は「病気」と「特性」の線引きが医学的に非常に難しくて、
例えば例に出したチンコが二本あるのは病気か?障害か?個性か?みたいな話になるんだけれども。
それはつまるところ、個人が社会とどの程度折り合えているか、どう捉えているかってことでしかない。
精神病の定義も「社会性」を抜きにしては語れない。つまり、躁鬱だろうが鬱だろーがなんだろうが、
社会生活を営む上で問題が発生していないならば、それは「病気」じゃないんだよな。定義の仕方次第だけど、現在は。
だから俺は苦しいのなんだの言わないで、社会に適応してけよ。と言ってるわけでして。
そこまでやってやっと「個性」じゃね?俺だって個性と呼べることまで達してるか自信ないよ。
ただ、治らない病気を抱えた上でそれを病気として認識して生きるのはしんどいっつー話。
そーうつは上手いことコントロールすれば社会とてきとうにやってけることが多い病気なので、
じゃあ、そこまで頑張って「個性(キリィ!」と言い張ってこうぜ、みたいな話。
少なくとも、あんたみたいにグチャグチャやるよかよっぽど前向きで、社会にメーワクもかけない。
基本、躁鬱に限らず精神がアレな人なんてフツーに生きてりゃ社会のゴミ虫なわけですよ。
なんとか折りあって世間様に迷惑をかけないよう、健常者に迷惑をかけないようやってかなきゃならん。
そうやって上手いことやった上で、「個性」と言い張ってみようぜ!と俺は思うね。
だって、病気だって言ったって誰も理解なんかしてくれないよ。だーれも俺らに興味なんかないし、救いの手もこないからね。
自分で生きるしかないんだから、病気だのなんだの言ったって仕方ないでしょ。お金が下りるわけでもなし。
「病人」から「そういう人」レベルまで頑張ってたどり着こうぜ、みたいな。
チンコが二本あろうが腕が6本あろうが、その人が社会から見てふつーに生きてればそれは「そーいう人」。躁鬱もそうだと俺は思うよ。だから、手を尽くしてわりと社会からふつーに見えるように生きようぜ、個性と言い張れるとこまで叩き上げようぜ、と思う。苦しいの辛いの連呼するメンヘラは、同じメンヘラの俺から見てもどーしようもない。
そういう状況で生まれついてしまったり、なってしまったりしたんだから。それはもー、なんとかするしかないんですよ。
わけもなく辛く苦しく泣いてる病人のまま生きるのかと。アホかと。