はてなキーワード: ありがちなとは
今回はとなりのヤングジャンプ
メンバーの中で特段目立ったことをしていなかったキャラを、ここにきて主体で喋らせるあたり、バランス感覚はあるなあと思った。
過不足の話をするなら、まあもっと語れることはあるんだろうなあと思いつつ、それなりにちゃんと畳んだあたり力量は感じる。
それにしても、『わびさびティールーム』のときも思ったけれども、このスッパリ終わらせる感じは、ジャンプよりもチャンピオンを髣髴とさせるなあと思ったり。
まあ、連載についての方針を知らないので、普通に完結しただけかもしれないけれども。
なにせ、如何にもな少女マンガっぽい作風で、となジャン目線で見た場合は浮いてたからなあ……。
もちろん細かい差異はあるから別にパクりだとか真似しているだとかそういうことを言いたいわけではないけれども、ガワが実質同じでその中身に特筆した魅力を感じられないと、凡庸だという印象がどうしても拭いきれないんだよね。
結局、漫画の供給が飽和している時代で評価されるものを出そうとするなら、既存の作品より優れているか、珍しいテーマやプロットで勝負するのが近道なわけで。
それを踏まえると、定番の話を割と高いクオリティで仕上げたエントリーNo.3『蒼の閃』のほうが、ド直球勝負な分印象が良いかもしれない。
ただこの手の読み切りのプロットにありがちな人間ドラマ、設定、起承転結きっちりできているのは地力を感じる。
メタ的にみればこじ付けもいいところだけれども、ちゃんとキャラの能力の設定や、話のテーマに繋がりを持たせているのも悪くない。
さて、第三回のシンマン総括。
とはいってもこれまでの感想で色々と語ったので、今さら語ることもあまりないんだけれども。
ヤンジャン本誌も読んでいるので、はがきは既に出している状態で感想書いているし。
インパクトなら『ヒトリアソビ』が突出しているが、いかんせん主体となるネタが下品なので特定の層からウケが悪そう。
『灰とリコピン』、『蒼の閃』、『シゴソウ』は特筆するものが少なくて個人的に微妙。
『蛉目奇譚』はかなり気合入っているしプロットも良いと思うんだけれども、情報量の多さと絵柄のクセに辟易する人もいそうな気がするので未知数。
『FLYend!』は前半の世界観の説明が、というか全体的に説明くさくて、ストーリー構成も読みきり的にいただけないんだけれども、逆にそこに将来の展望をする人は少なくなさそう。
プロットの、テーマと見せ方が最も好みなのは『ブルーフォビア』だけれども、他の優勝候補になるエントリー作と相対的にみてみると特筆するようなものが少なくて、影が薄い印象はある。
彼女の旦那はひどい男だった。まずその話をする。これが発端だからだ。
彼女とその旦那は学生時代に出会い、就職後に結婚した。結婚後も、二人は幸せだった。(この段階では俺は一切登場しない。登場したら不倫になってしまう)しばらくは子供を作らないと決め、多趣味な旦那にくっついていく形で彼女もいろんな経験をしたそうだ。文字通り地球の北から南まで、様々なところへ旅行へ行った。お金もあったし、旦那は大企業。現代において、最良の結婚といっていい。その頃の写真には、まさに人類の幸せというものを教えてもらった気がする。とにかく、素晴らしい夫婦だった。
だった、ということはつまり、どこかで亀裂が入ったということだ。ここで登場するのが俺…というわけじゃない。俺はもう少し後だ。
旦那は栄転した。そこに転勤するということが選ばれた幹部候補の証であり、旦那は意気揚々と赴任地へ向かった。週末は彼女のもとへ帰り、月曜朝一の新幹線で出勤する。まさにエリート。しかしやはり、そういう生活はきつい。幹部候補ともなれば、その業務は半端じゃない。
この辺、長々と書く意味はないので省略するが。つまり、旦那は現地で女を作った。週末になかなか帰らなくなり、帰ってきたら来たで服の趣味が彼女の知らないものになっていたり、スマホにロックがかかっていたり、まぁ、そういうありがちな話しが長らく続く。
俺はその頃に彼女と知り合った。SNS上で、共通の趣味を通じて。ありがちな展開だけど。
で、悩む彼女に俺はいろいろとアドバイスをした。最初は単なる悩み相談から、徐々にキナ臭い方向へ。旦那が寝てる間に指紋認証突破しては、とかね。
それで、旦那のスマホからは、まぁ、お察しの通りのモノが大変な量出てきた。すごかった。正直すごかった。圧倒的な幹部候補セックス。札束を丸めて突っ込んでるとか、Vシネかよ。見たことないし多分そんなシーンないと思うけど。童貞の俺には手に余るシロモノだった。そういうことで、落ち込む(というレベルじゃないけど)彼女を励まし、勇気づけ、興信所を手配したり法テラスの手続きしたり、抜け殻の彼女の身の回りの世話をしたりして、彼女は旦那と離婚した。まぁ、俺が彼女の周囲にいることは彼女に取ってめちゃくちゃ不利だったんだけど(旦那からもそう指摘された)、証拠の内容が内容だし、浮気相手の女性を二回妊娠させていたりと大変なことになっていたので、俺の件は相殺された。
実際のところ、俺は彼女とはセックスしていない。セックスしてなけりゃいいのかという問題ではあるけど、キスなんかも彼女が結婚してる間はしていない。
ここで、俺の話をする。
俺は長身で痩身の雰囲気イケメンの男。神木隆之介っぽいとはよくいわれる。我ながら結構、いや相当いけると思う。彼女と知り合ったとき25歳で、今は32。
ちんこ、これはとても重要だ。太っていたころは、「大丈夫、腹の肉に埋もれているだけだし」と言い訳もできた。しかし痩せて行くにつれ、現実が腹の下から現れだしたのである。
…ちんこが、小さい!
俺のちんこは…これが…これが俺の真のちんこだったというのか…!?
最大に、フルに、マキシマムにさせてもその全長は7cm・・・いや、正直に言うけど、5cmである。5cmである。5cmなのだ。5cmさ。握れない。つまむのがやっと。
AVを見ていて、ぶっかけ要因の汁男優が列をなす場面があるだろう。それを見てて、やっぱり中には、すごく小さい人もいる。俺はそういう男性がいるととても安心して、オナニーをすることができた。しかし、己のちんこに向き合ったとき、思い至った。ちんこが小さい汁男優は、その後の本番の場面には参加していないという事実。記憶の限り、脳内でわが友たちの姿を検索しても、やはり、ちんこが小さいフレンズは本番には存在していなかった。もちろん、汁男優はあくまで汁専門。その後の絡みに関係することはないが、汁男優が本番に参加する企画のAVでも、ちんこの小さい男性は姿を消している。俺の脳をちんこ差別の電撃が襲う。AV映えしないという理由なのか。そんなにも視聴者はマグナムを求めているのか。
いてもたってもいられなくなった俺は、スマホを手に取った。
ちんこの問題に関して、ネットは信用できない。どいつもこいつも、ちんこがそれなりにでかいことを当然のこととして話をしている。包茎に関しても、まるで仮性包茎がレアであるかのような物言いだ。これは欺瞞だ。男同士でも、ちんこの大小はアイデンティティにかかわる問題なので、通常話すことはしない。銭湯で確認しようにも、俺は生粋のメガネ民族。湯気たちこめる銭湯では、真のちんこを見極めることができない。
かのレオナルド・ダヴィンチが実践していたという、「その道のプロに尋ねる」という究極の人力検索を俺は敢行した。
祈るように俺はデリヘルを手配した。
プロを待つ間、俺は立ったり座ったり、掃除をしたり瞑想をしたり、1分が数時間にも感じた。これほどの焦りは「俺は糖尿病なんじゃないか」と病院の待合室で脂汗を流して以来だ。
プロが到着した。むっちりした女性だ。プロをもてなす。お茶を出したが、さすがはプロ。口を付けない。何か変なもの入ってたら困るしな、と俺は初めて思い至った。
「それじゃあ…」とプロが言いかけるのを「あ、いや」と制止し、悩みを打ち明けた。
俺のちんこのサイズは、一般的にどの程度なのか…本当のことを教えてほしい。
世のあらゆるちんこを、ペニスを、男根を見てきた彼女ならそれがわかるはず。呼吸を抑えてパンツを脱ぐ。「みんなこんなもんですよ」の声を期待しながら。
脱いだ時、空気が変わるのを感じた。俺は死んだ。
あー…みたいな彼女の表情にすべてをあきらめた俺は、「いかがですか…」とちんこをさらにちいさくして、聞いてみた。
プロはしばらく逡巡したのち、「あの…ちょっと…あのぉ…歴代最小っていうか…」と答えてくれた。
俺は彼女のお尻に顔をうずめながら泣いた。最高に気持ちよかった。
帰り際、プロは「大丈夫…大丈夫ですよ!」と励ましてくれた。それほどまでにちいさかったのかもしれないが、とても感謝している。
ちんこが小さいのはギリギリで挽回できるとしても、やはりネックはかつて死ぬほど太っていたことだ。
中学~大学まで、体重の増大に歯止めがかからず、一時は130kgを超えた。5分歩くだけで大量の汗をかく。そんなキモい身体だから当然友達も恋人もできない。コミュ障の出来上がりである。おまけに心臓と肝臓にダメージが残った。今も血圧の薬を毎日飲んでいる。心臓は細胞が入れ替わらないから、「治る」ということはないらしいな。この肥大した心臓と一生付き合っていかなくてはならない。最盛期は、うつぶせに寝ると心臓の鼓動で体が上下するくらい、肥大していたから。
就職後、さすがに死を感じてダイエットした。肉が落ちる快感とともにちんこが姿を現すという絶望も味わったが、やはり体が軽いのはいい。単純に服を着る楽しみができたし。ちんこがちいさいからスキニーパンツも全く、もう本当に全く問題なく着こなせる。ははは。ははははは。
同窓会に出席するのはもう本当に楽しみだった。上記のように、俺はなかなか顔もよかったし、背も高い。ちんこと脂肪を捧げてこれらを授かった俺は、同窓会でめちゃくちゃモテた。肥満による死の恐怖でブーストされた健康志向によって、ちんこ以外の体の部分もケアしていたから、同級生の男性たちより格段にかっこよかった。ちんこだけが問題だ。…いや、正確には、思春期を瀕死デブとして過ごしてしまった俺には、コミュ力が一切なかった。会話ができない。何を言えば面白いのかわからない。話題がない。結果、「それにしてもやせたね!」「かっこよくなったね!」以外の言葉はもらえず引き出せず。仕事に関しても、「何してるの?」「町工場的なところで働いてるよ」のやり取り一発で終わった。官僚になったN君の周りは最後まで人で群れていた。二次会は行かなかった。あの後きっと笑いものだったろうな。
プロによるちんこショックと、同窓会ショックで完全に男としての欠陥を認識した俺は、趣味の世界に走った。
とはいえ、町工場的なところで働く俺である。金はない。だからお金がかからない、かつ、健康的な趣味をやることにした。バードウォッチングと天体観測(どっちも双眼鏡で事足りるからお安い)、山歩きで見つけたハーブでハーブティ。ハーブティから発展して漢方やアロマ。
もうすっかり脱線したけど、冒頭の彼女とは、この趣味を通じて出会った。
彼女は素晴らしい女性だった。…もちろん、同情心が俺にそう感じさせたのかもしれないが。
離婚後、3年付き合った。彼女の両親にも会った。感謝もされた。この人を幸せにしたいと思った。俺はちんこ的には全く及ばないが、ちんこ的なものに忌避感が生じた彼女とならうまくやれるのかも、とか漠然と思った。キスはたくさんしたし、オーラルな行為もしたけど、童貞はそのままだった。それでもいいと思った。
この時が来たか、と、俺はロックを解除した。以前彼女にアドバイスしたとおりに。
いやぁ、ちんこのパワーってすごい。
ちんこにトラウマを抱えた彼女が、どういう経緯で自らちんこを求めるのか。しかも、元旦那である。よくわからないが、ただ一つ納得できることは、俺のちんこは小さく、元旦那のちんこはAV映えするモノであるということだ。これはまぁ、もうしょうがないな。無理だったな、俺のちんこ。すまなかったな。
しかし、いったいどういうことなんだろうな。あれほどの行為をした男の元に戻るというのは。要するに、あの写真のようなことを望んだというわけだ。すごいな。何を言わせてるんだろう。何を言ってるんだろう。あの写真のようなことを「私にしてほしかった」「お前にしたかった」とか、どうなればそうなるんだ。
ちんこには勝てなかった。俺と、俺のちんこでは太刀打ちできなかった。
先日、彼女が元さやに納まった。泣きながら俺に感謝の言葉を述べる彼女。しかし一方で元旦那にちんこを下品な言葉で切望する彼女。エロゲかよ。エロゲはどいつもこいつもちんこでかくて、やりきれないけど。そういうエロゲもあるはずだ。
なんかもう、俺にはよくわからないな。そもそも、いくら生物多様性とはいっても、これほどのちんこの存在は子孫を残せないだろう。ぶっちゃけると、5cmはもう限界いっぱいまでサバ読んで5cmなんだよ。定規を思い切り中のほうにまで埋めて、ちんこの根っこっぽいところまでをギリッギリで測ってそれだぜ。ドラゴンボールの初期の孫悟空のちんちんみたいな感じだ。タマのほうが圧倒的にでかい。タヌキかよ。
いくら配られたカードで勝負するしかないのが人生とはいってもさ、ここまでする必要があったか?
ちんこのサイズを気にしない女性はいる。という声はある。しかし、その結果があの彼女だぞ。何も信じられないだろう。どうだよ。この有様は。
facebookで彼女の投稿を見てしまう俺も俺だが、なんというか、俺と歩いた山道で普通に元旦那にして現旦那と写真を撮っているのを投稿するなよ。そこで「私にしてほしかった」ことをしてもらったのか?
あーーー。
神よ、俺にあと2cm与えたまえ。
(入社時はベンチャーにありがちな成長や優秀な人と働けるというところに惹かれていた)
守安社長(以下、守安さん)が辞任しないことについて疑問の声がメディアであがっている。
DeNA内部でもそう思っている人は多そうだが、自分も守安さんは辞任したほうがいいと思う。
守安さんはまずは売り上げや時価総額などの数字を社員に提示する。
村マリ(実際A氏と記載されていたが)も数値目標だけが提示されてそれを達成するしかない状況に置かれたと語っていた。
DeNA内では守安さんの掲げた数値目標は絶対。それを達成できませんと言おうものなら、なぜ?なぜ?と猛烈に詰められる。
ユーザにとってどういう価値があるからやるべきという話はいっさい聞いたことがない。
彼が語るのはいつも時価総額や売り上げやMAUなど数値の話のみ。
聞いた話によるとwelqが問題になって以降もメディアをグロースさせたことを評価して、welqチームに社長賞を与えたらしい。
今となっては問題の大きさに気づいているみたいだが、本当に大問題になるまで影響がわかっていなかったようだ。
昨年末のキュレーションサイト停止の際もMeryだけは最後まで残していた。
会見でも永久閉鎖については明言しなかったので、Meryは収益化のためにどうやったら再開できるかを考えていると思う
会見でも見ることができた、あの棒読みは社内でもよく話題にあがる。
あの棒読みのプレゼンテーションを聞いているとモチベーションが下がる。
南場さんは守安さんは評価しているようだがあのプレゼン能力で会社のトップとして評価するのはよくわからない。
ただ、トップに立つ器ではない人だとは強く思う。
一般的に解釈すれば、この落ち込みようはひとえに私の恋愛経験の乏しさに尽きるのだが、すべてを失った私にはもう生きていく理由がないように思える。
世界各地で今この瞬間にもカップルは誕生し、また別の場所では破局している。
そんな卑近なはずの現象が、まさか自分たちの身に降りかかるなんて思ってもみなかった。
永遠なんてないとは言葉の上では理解していたつもりだったが、それでもこの関係が一生続くと思っていた。
「好きという感情がなくなった」
私にはまったく理解ができない。
彼女は普段からあまり不満を口にせず、悩みを溜め込む傾向にはあった。
しかし私は今回の件で、突然別れを告げられるような落ち度があったように思えないのだ。
愛が伝わっていなかった?
言葉が足りなかった?
そんな平凡なミスは侵していない。
今までも、そしてこれからも、二人で順調に楽しい思い出を作っていけるはずだった。
たしかにこの1ヶ月ほどのあいだは些細なことからギクシャクした雰囲気になることもあった。セックスもレスだった。
しかしこんな停滞期はなにも珍しいことではなく、3年という年月のあいだに何度かはあって、それも二人で一緒に解決してきたはずなのに。
会う頻度だって今までと変わらず、何気ない日常がずっと続いていたはずなのに。
なぜ今回に限って、突然の終わりを告げられたのだろう。
はじめは電話で話を切り出されたが、直接会って話し合う日を設けることにした。
彼女への変わらぬ思いを、こんなギクシャクした空気は過去に何度も一緒に乗り越えてきたことを、今回だって近いうちにまた元通りにできる希望が十分にあることを、突然すぎる提案を受け入れることは私には耐えられないことを...
後悔だけは残したくなくて、きっと彼女の気持ちを取り戻せると信じて、私は伝えたいことをしっかりと整理してから話し合いに臨んだ。
話し合いの当日、私は彼女にまず思いの丈を語った。後半、私は泣いていた。
男泣きのカッコ悪さなんて、彼女を失ってしまうリスクに比べれば塵みたいなものだ。
しかし話し始めてからしばらくもしないうちに、私の言葉が彼女の心にまったく響いていないことを悟る。
彼女は私の気持ちを聞いて泣いているけれど、私の愛はすでに十分伝わっているけれど、それでも彼女は私のことが好きでなくなってしまっているのだ。
そこに理屈はない。そして彼女のなかではすでに私たちは終わっているのだ。
口にしてくれなかっただけで、彼女は自分のなかですっかり整理がついている。もう何を言っても遅いのだ。
どうして彼女はその結論を出してしまうよりも前に、もっと話し合いの場を設けてくれなかったのか。
こちらは相も変わらず絶好調に愛していたのに、なぜ貴女は気持ちがゼロになってしまうまで黙っているのか。そんなのズルいじゃないか。
私の何がいけなかったのか。
そんなことを彼女から聞き出したところで、この破綻を修復することはできない。
私にはこれ以上、何も言うことができなかった。
フる側とフラれる側でこうも気持ちに差が生まれてしまうんだな。
涙が出過ぎて喉が乾く。
「今までありがとうね」
と言った。
そんなありがちな台詞が言えるほど、彼女のなかでは気持ちの整理がついているのだ。改めて実感する。
私は視線を落として、せめてそのふざけた空気感にだけでも抵抗しようと思った。
双方合意の穏便な別れ話を済ませたつもりなんだろうな。
私にとっては晴天の霹靂、これまで生きてきて一番残酷な時間だったのにもかかわらず。
信じがたいほどの気持ちの隔たりを感じてしまって、また涙が吹き出した。
私はこの先立ち直ることができるのだろうか。
彼女は私のすべてだった。
私は彼女に生かされていた。
友達が少ないのも、無趣味なのも、仕事が退屈なのも、彼女のくれた無償の愛のおかげで、自分はこれで大丈夫だと思えた。
友人に愚痴を聞いてもらっているはずが、気づけば在りし日々の彼女との惚気話を披露している始末。
思い出は美化されるから引きずってしまう、とはいうが、私にとって彼女と過ごした日々は、良いことも悪いこともすべてがすべて大切な宝物だった。
道を行き交うカップル、コンビニに流れるラブソング、ワイドショーの芸能ニュース...
本当に、何がいけなかったんだろう。
あのときああしておけばよかった、そんな後悔はまるで思い浮かばない。
少なくとも1か月前には百点満点の幸せな関係がそこにあったはずで。
心臓の半分を抉り取られたような、この喪失感は何に代えても埋められない。
何も手元になかった3年前の状態に戻っただけ、そんな風にはとてもじゃないが割り切れない。
今は思い出の品を段ボールに詰めてはまた開封し、彼女のLINEをブロックしてはまた解除し、「失恋 立ち直り方」でググって質問サイトの経験談を読み漁ってはまた号泣している。
島尾敏雄の「死の棘」という小説を読んだ。浪人時代に予備校講師に勧められて買ったものの文庫で600ページと長く、ずっと読めずにいたが、春休みを使って読破することができた。簡単に紹介するなら、「死の棘」は作者の代表的私小説で、夫の浮気の発覚から始まる妻の不調と家族の崩壊を記録した作品である。
読み進めていくと、妻の精神異常を和らげるためにと、「私」はこんなようなことを考える。
『相馬に帰ろう』
紹介され偶然手に取ったこの本のこの文章を読んだ時、私は名状し難い不思議な感じに襲われた。
私は、相馬地区で生まれ育った。島尾敏雄も相馬地区がふるさとだったのだ。
正直言って、私はふるさとがあまり好きではなかった。自然はたくさんあって、野馬追という伝統も素晴らしいが、若者が志を高く持つには小さすぎる街だと思った。私はどうしたらなんとも言えない閉塞感を打破できるかを考えては、多分無理だろうなと半ば諦めの感情を胸に秘めていた。
東日本大震災が起きた。
私は生き残った。住んでいる地域は原発避難指示区域には入らなかったものの、鉄道などインフラは寸断され、私たちは転居した。都会に。
それからの私の生活は非常に充実したものとなった。幸い、福島出身と明かしても白い目で見られることはなく、田舎にありがちなデキる人の足を引っ張る風潮もなかった。意欲ある人が存分に学び体験できる施設があり、尊敬できる人がいた。若者がより広い世界へ飛び立とうとする意欲を持つには充分だった。
東日本大震災が起こって6年になる今、私は東京で高いレベルの教育を受けられている。あの地震でおぞましい数の人が亡くなり、今も苦しんでいる人が大勢いるが、私にとって6年前の地震は人生を大きく変えた分岐点であったように思える。あの地震がなければ、私はここにはいない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。嫌だったふるさとから、私は逃げるようにしていなくなってしまった。どうすればいいかわからなかった。何か違うのではないか、という気持ちが渦を巻いていたが、田舎を離れられる開放感でそれを押さえつけてしまった。大震災を美化してしまった私の思考が正常なものなのか、若さゆえの過ちなのかは未だにわからない。
小説の中で島尾敏雄が相馬に帰ったのは、崩壊してゆく家族とのギリギリの人生をやり直す力を、故郷に感じたからだと思う。多くの人が、故郷を自分の人生の原点にして、そこの原風景を大事にしているように。私が捨てた故郷のそばには、未だに立ち入りが禁じられ、人々が帰ることすらできない場所がある。彼の郷里も最近、立ち入りが許可されたばかりで、復旧・復興とは程遠い。故郷に帰ることさえ一生叶わない忸怩たる思い、悩み苦しんだ時に自分が生まれ育った場所が変わり果ててしまった悲しみ、いわれのない差別に苦しみ、福島出身ということに引け目を感じている子どもたちの心情にどうやって接したらいいか分からない。故郷を追われ苦しんでいる人に少しでも助けになるように日々研鑽を積んで、その人たちを助ける力、次に世界を揺るがす大事件が起きた時に多くの人を助けられるような力を養うことが、震災をチャンスと捉え故郷を捨て去った自分の贖罪だ。
自戒として、ここに記しておく。
恋の力は凄いとよく言われるが俺も恋の力で人生がすごく変わったなと思う。
俺は自分で言うのもあれだがまあまあのイケメンだと思う。少なくとも女性10人中7人位はイケメンと言ってくれるかな?でも高校時代はメガネを掛けてたので痩せたオタクよりの顔だった。
高校は地元の偏差値53程度の普通の普通科高校になんとか入ったものの中3の受験勉強の反動なのか高校1年の秋までは全く家では勉強しなかった。特に数学と英語が大の苦手で毎回赤点を取っていた。部活はテニスをやっていた、だが部活仲間と仲が悪くなり部に居づらくなったので高1の12月には辞めてしまった。
まあ部活をやめた後もとくに勉強することもなく、むしろ部活やめれてラッキーだし大好きなゲームができる!ということで学校から帰ったら即PS3の電源をつけてゲームばかりやってた。その当時やってたのはCODMW2だったな。あとBF3とか。
そんなこんなで見事帰宅部根暗ゲーヲタになった俺、数学や英語で毎回赤点取りまくり、親を学校に召喚させられクソ教師と特別3者面談もしたこともあった。
しかしそこで人生の転機が訪れる、隣のクラスにめちゃくちゃ可愛い女の子がいた、とても自分の好みだった、名前は(Rちゃん)にしておこうか。髪の毛もサラサラでツヤツヤ、芸能事務所前を歩かせれば即スカウトされるレベルの女子がいた。定期テストではいつもトップ5に入る、まさに才色兼備であった。「恋人になりたい…!」そう思っていたが頭の悪い俺では釣り合わないだろうし、そもそもこんなにかわいければ彼氏なんてとっくにいるだろうと諦めていた。しかし周囲の話をよく聞いてみると彼氏はいないっぽい、じゃあ後は何をするべきか、才色兼備な彼女と釣り合うために勉強するしかないと思った。そう決意したのは高1の3月であった。
高2になりクラス替えが行われたが、なんとRちゃんと同じクラスになった、もうその時は心の中では雄叫びを上げてガッツポーズでしたよ。
というわけで高2の最初の定期テストで1位を取るという目標を掲げ、ほとんどしなかった勉強(宿題すら解答丸写しで提出してるレベル)を家でもしたがやっぱり今までサボって多分、特に数学はどこから手を付けて良いのかすらわからなかった。まあとりあえず数学の教師に数学苦手だからどうすればいいですかと聞いたら俺のために特別なプリントをくれた。毎日学校がある日は数学のプリントを解き教師に丸付けをして間違ったところを徹底的に復習したりした。
授業も次の授業で習うところを予想して予習した(まあ教科によっては予想が結構はずれた…)その日に習ったことはその日のうちに大学ノートに自分なりにまとめ復習をした。定期テスト前なんか家に帰ったら5時間は勉強した。これで定期テスト対策は万全、最初の定期テストでは320人中17番を取った、けどこれだけ勉強してもトップ3に入れなかったのかよ…と思ったが、けど自分もやればできるじゃないかと自信もついた。一方Rちゃんは学年1位だった。
んでその後は席替えでRちゃんと隣ではないにしろ近くになり結構話すようになった、といってもRちゃんと俺2人ではなく、俺の男友達1人とRちゃんと彼女の友達2人というなんとも漫画やアニメででありがちな男2女3の群れ?が出来てしまった。Rちゃんは政治経済が多少苦手だったので俺によく質問してくれたおかげで仲良くなった。
5人でテスト期間中は勉強を良くし合うようになった。おかげで切磋琢磨でき成績も順調に伸びた、定期テストも模試も学年10位以内はキープできるようになった。
Rちゃんと俺2人だけのときはプライベートな事もよく話すようになるくらい仲良くなった。そして高2の10月にRちゃんに想いを伝えた。「前からRちゃんのことが好きでした!」それ以上の言葉はでなかった。彼女はいきなりの告白に驚いていたが俺の気持ちを受け入れてくれて晴れて恋人となった。
それから休みの日は近くのイオン(地方都市だしもうそこしかデートスポットないよ…)なんかでデートした。Rちゃんの家にも遊びに行った、初キスは彼女の家でした。なんやかんやで彼女の家でセックスもした。
その後はどうなったかというと高3の3月に別れた。理由はお互い別々の大学に行くことになったしRちゃんのほうから別れよっかってなった。意外とあっさりだった。悲しかったがオレと彼女は互いに目指しているものは違うし仕方ないと思った。
んで俺は九州大学に進学し順調に勝ち組人生への道に向かって歩いているところだ。でも彼女ともし出会わなければ?高卒フリーターで一生底辺貧乏生活だったかもしれないと思うとゾッとする。
人生における「勝ち組」とは人によって捉え方は違うだろう。俺にとって「勝ち組」のボーダーラインとはどこかの旧帝大には入り大企業社員か公務員になり、かわいい女性と結婚して子供は2人くらい、そして子供2人とも奨学金を借りさせることなく満足して大学に入れさせるくらいの経済力があることだと思う。批判を承知で言うと世帯年収800万以下で子供を作るのは児童虐待だと思う。子供がかわいそうだ。大学すら満足に通わせることが出来ないのはかわいそうだ。子供に借金を背負わせないと大学に行かせられないのは恥を知れと言いたい。貧乏人は子供を産むな!まあ公務員で2馬力でもなかなか世帯年収800万って難しいだろうしやっぱり大企業を目指すべきなのかな。
次。幸せのマチを読んだ。岩岡ヒサエの漫画はほっこりするし全般的にあたたかな内容なんだけれど、ところどころにひりひりする内容を忍ばせてくれるのがいい味出していると思う。
一冊で簡潔なので気軽に手に取ってもらいたい。ひなびかけた商店街を舞台にした若者たちの奮闘と恋愛に主題を置いているんだけれど、それを見守るとあるキャラクターたちの眼差しが素敵な作品だった。
次。春と盆暗を読んだ。なんかよくわからないけれど、とても魅力に満ち溢れている漫画だった。
一応は恋愛漫画に分類されると思う。でも、全体的に妙に掴みどころがないというか、登場人物たちがありがちなキャラクターからずれているので、不思議な読書感を味わえる漫画になっていると思う。
ふわふわとしていて、でも何かしら本質を捉えていそうな物語が好きならあり。もちろん、読み取れていないだけで相応なメタファーが隠されているのかもしれないけれど。
次。おんさのひびきの新装版を読んだ。銃座のウルナの三巻が見つからなかったんだよ。でも、これはこれで素晴らしい作品だった。
内容としては文学小説を読んでいるような感じがちょっとした。登場人物それぞれに懊悩があり苦悩があり煩悶がある。それでも生きていかなければならない子供たちの姿を、精緻に切り取っているなあって思った。
エトもマコも順基も、きっと大人になったらそれぞれの内面で、それぞれの関係性で、何かが変わってしまうのだろう。それでも彼らの十年後ないし二十年後が読んでみたくなる漫画になっていた。
「没入すること」は「感情移入」だが「「劇中で一貫性だったり背景を上手く描写させていて、見ている側に「このキャラクターはどうなるのだろう」と興味を持たせる」」はやはり別の概念なのでは。
興味を持たせるようなキャラ作りができたとしても、すべての人にフックをかけられるわけじゃないでしょ。
感情移入という結果に至る原因のひとつにすぎないのでは、という。
共感という言葉に対してはhttps://kotobank.jp/word/%E5%85%B1%E6%84%9F-477908#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29
共感はまず他人の感情体験が前提であるのに対して、感情移入はまず自分の現在における感情体験が前提になっているなど、両者を区別して定義づけようとしているものの、実際には混同して用いられることも多い。
という点では正しいけど
ある人とともに悲しむためには、自分もその人と同じような悲しい体験をしていることが必要ともいえる。親を失った人の悲しみは、自分も親を失って悲しい体験をしたという人によって初めて共感できるというように、ある感情への共感は、その感情についての先行体験が必要条件ということができる。
という点で間違ってるよね。
混同して使われる可能性が高いのであれば、やはり「キャラに読者が引っ張られる」的な概念が必要だろうね。
この表現も引っ張られるについての知識がないと誤解を招きそうなので。
例として挙げられてるキャラでも感情移入しにくいだけであって、感情移入する人はいるんじゃないの。
「人物描写がめちゃくちゃでキャラもブレブレで行動原理が理解できないし矛盾があるみたいなキャラクター」
だけど人間としてはまぁいるよね、という形で理解・没入できる可能性は十分にある。
むしろこういうキャラクターの存在に否定的ということが元増田の主張なのだとしたら、
小学校の高学年のとき、ネットのとあるサイトで知り合った友達がいる。私よりひとつ年上で、都会にいて、いろんな知識や能力があり、なにより容姿がとてもかわいくて憧れだった。尊敬していた。趣味が合うということもあって仲良くさせてもらっていたが、ネットを使い始めて間もなかったわたしはありがちなトラブルを多発させ(いわゆる黒歴史)、その子と直接的に何かがあったわけではないもののコミニュケーションが取りづらくなりそのサイトを去った。その子とは他のサイトでも繋がっていたが、そのアカウントも全て消した。
だが彼女との関係をどうしてもやり直したい、コンタクトを取りたいと思った私は、また別の名前で彼女に近づいた。私は別人として彼女とまた友達になり、彼女はツイッターのリア垢で、私はサブ垢で交流していた。そうやって名前を変えては彼女の前に姿を表すことを3回はしたと思う。ツイッターに上がってくる写真やプリクラの彼女は本当に本当にかわいくて、異常なこととわかっていながら私はその全てをスクショし保存した。少しでも彼女に近づくためにいろんな努力もしたと思うが、何もかもが自分と違った。苦しかった。だけどそれ以上に大好きだったと思う。最近は写真を保存するまではないにしても、ふと思い出したかのように彼女のツイッターをチェックしたと思えばそれから毎日見てしまうときもある。そして落ち込む。だけど話しかけられると嬉しくて、それと同時に彼女が私の全てを見抜いてるのではないかという得体の知れない不安や恐怖も浮かぶ。そんなことあるはずがないのに。この春からめでたく大学生になるそうだ。卒業ツイートの写真を見て、頭のよかった彼女のことだから名の知れた大学に行くに違いないと瞬時に思ったとき、どうしようもない虚無感に襲われた。
こんな自己嫌悪馬鹿らしいことだともうずっと前から分かっていた。だけど地方でくすぶりしなくてもいい比較で、会ったこともないような人との比較でもがき苦しんだこの何年かがせめて報われますように、今度の春は私も笑えますように、この一年は彼女と繋がるすべてのSNSをやめようと思う。きちんとまっとうに第一志望を目指して頑張ろうと思う。それが達成できれば見えてくるものがきっとあるはず。絶対に絶対に諦めないといま自分に言い聞かせ、とにかく頑張る。
という、最高学年を迎えるにあたっての決意。
反出生主義の話題のときに、「産んだら(子供が)不幸になる確率が高いので産まない」という主張に対して
「産まれてこなかった子供は産まれたかったかもしれない」という謎理論を持ち出してくる人がいて驚いた
産まれてない子供はこの世に現前すらしていないので(個体として発生すらしていない)
「産まれてない子供の意志」なる概念が発生するのはオカルトの中でもトンデモ領域
産んだら不幸になる確率が高くても「私は産みたかったから産んだ!」という人はそれはそれでひとつの価値観だと思うが、
そういう自分を防衛するために「産まれてない子供の意志」なる概念を持ち出されるとキチガイを疑わざるをえなくなる
ikanosuke この辺りの概念は、不妊や流産を経験する身にとっては、とても辛いものになる。(別に否定してるわけではない)
anigoka パラレルワールドで大成してるであろう俺’に申し訳ない
死んだ子を出産した場合、体内にいる場合は少なくとも現前はしてるよね?
現前すらしてない、個体として発生してないのに個体としての意志があるというトンデモ主張
ngsw 反出生主義という概念を初めて知ったのだが、たぶん「産んだら不幸になる」を「産んだ本人が」でなく「産まれた子供が」と捉えて、その反駁として「産まれたかったはずだ!」と件の人は言っているのではなかろうか。
mustelidae たとえば意思能力のない植物人間の権利を語ることはキチか、みたいな。(「意思能力のない人間に意思はない」というなら字面上は当たり前だが、実質上は意思ではなく権利について語っているのだと思うので。)
この違いわかります?
個体として発生している、死んだ子供の意志ならともかく、個体として発生してさえいない存在に意志があるというのはキチガイの領域でしょ。
妥当とキチガイを同じ意味の文と捉えられるなら立派なキチガイですね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/325510872/comment/type-100
greenT 快不快の総量みたいな不毛な概念で語っていいんなら人間子作りの瞬間の快がすげぇから総体として人間は子作りすべきであるという結論になるので他行こうぜ
http://anond.hatelabo.jp/20170305213540
出産した快よりも不幸な子供を作る方が社会全体の満足度は下がる。
産まれなかった子供はそもそも存在しないので意志なるものはありえないでしょう。
この区別がつかない人ってキチガイ認定されてもおかしくないよ?
pikopikopan 手厚いサポートがあるなら生んでもいいけど、そんなものはないんだよな。反出生主義って他人にも強要するの?私は他人がどう選択しようがかまわないし、同じ発達障害持っている人が子供産んでも、止めないよ?
反出生主義っていうのはひとつの価値観でしょう。産みたいから産む~もひとつの価値観。
別に産みたい人を否定するつもりはない。ただこちらを否定するなら戦争だっていうだけだ。
他の反出生主義者がどうかは知らん。
t-tanaka 反出生主義が批判されるはそんな理由じゃない。少子化の不利益は,その世代自体を最初に直撃する。同世代人が少ないほど子供達は不幸になる。自分の意志で「子供を産まなかった人」は「生まれた子供」への加害者だ。
少子化だーってみんなが騒いでるから思考停止して勝手に喚いているアレな人だ。
君の言ってることの一例を挙げると、民主主義で票が取れないからその世代の主張が通らないとかそういうことでしょ?
産まない人に責任押し付けて思考停止してるアレな人だなぁっていう話にしかならないよね。
少子化の問題じゃなくてそれ以外の問題や欠陥が少子化によって露呈されるだけ。
いまげんざい発達障害者は健常者に迷惑をかけて生きてるのを自覚しろ!と喚いている人がたくさんいるよね。
これって、要は産んだ人が産まれた子供自身とそれ以外の産まれた子供に対して加害してるのと一緒だよね。
じゃあ産まれた子供自身がいない方が不幸は少なくて済むね~^^
mur2 日本には江戸時代から水子塚や水子地蔵があるんだが…(追記)「産まれてない子供の意志」なる概念もそれはそれでひとつの価値観だろう。議論する気があるのならキチガイとかオカルトとか言い出すのはやめよう。
つまりオカルトのトンデモじゃん。現代において、しかも議論の最中に水子が~とか言い出したらあっキチガイだなぁと思われるのは仕方ないよね。
追記←はい?そもそも精子と卵子が出会ってすらいないのに水子がーってまだ言い張るの?
現前すらしてないものをあると思いこんでるアレな人でーすって自己紹介し続けるのか笑
一つの価値観を提示するのと、根拠や常識のない価値観で説得しようとするのは全く別の話だぞ。
俺の話をまともに受け入れてくれ!オカルトやキチガイと呼ばないでくれ!と叫ばれても、
議論を成立させる気ねぇのおまえだし、まず自分の思考を直してこいよって話だよね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/325510872/comment/murishinai
「もし産まれたら子供が不幸になる」は産まれた子供が判断するという事象があるので想定できるけど、
「産まれなかった子供(この世に存在していない)が産まれたいという意志を持つ」は一般ピープルが抱く仮定としてはキチガイじみてるなぁと思うわ
http://b.hatena.ne.jp/entry/325510872/comment/tonton-jiji
http://www.weblio.jp/content/%E5%8F%8D%E5%87%BA%E7%94%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://b.hatena.ne.jp/entry/325510872/comment/nenesan0102
http://b.hatena.ne.jp/entry/325510872/comment/kaz_the_scum
産みたいから産んだでも別に悪くはないと思う。ただし不幸になる確率が高い親がいるという現実は見ないといけないと思う。
midastouch つまり、不慮の事故とか自殺で死んだ友人親族がいたとして、生きられなかった彼の分も生きよう、今を生きれなかった彼の意志を受け継ごう、とか考えて踏ん張って生きている人もキチガイか?大層傲慢な考えだな
頭が悪い人が現前していた人の未来を想像するのは悪いのか!とか言い出してワロタ。
現前すらしていない人の話の最中になんでこんな頭悪い発言できるのか不思議で仕方ないわ笑
fraction 1+1=2って叫ぶのになんだってこの人こんなに文字数とってるの、低能?(まあ、本当は別問題とわかってるから文字数とってんだろうけど)
前提や保留を示唆した文章を長いとか言い出すドアホな低能に呆れるわー
読書経験のなさそうなアホが伝達不可能性が高い文章を書いてる自覚もなしに他人を低能呼ばわりできるの不思議で仕方ない笑
iteau 「産んだら不幸になる」の主語が無いのはなぜ? 自分? それとも子供? もし「子供」なら「不幸になる」と言っているのも勝手な推測だと思うけど。いずれにせよ論ずる前に日本語勉強しろよ。
一般的な日本語は主語が省略されても文脈で理解できることがほとんどですよ。
現におまえ以外ほぼみんなちゃんと理解してついてきてるじゃん。
遺伝や生理学や社会学で不幸になる確率が高い親の存在はきちんと示唆されてるよね笑
まったくおなじこと言ってるアホがトラバにいるのでそこを追ってくださいね。
おまえのようなアホが言い出しそうな、努力や認識次第でどうにかなる~みたいなのは感動ポルノだから。
miz999 匿名なうえに相手に届かない手法を選んだ反論は、生まれてきた意味があるのだろうか
似た思考を持つキチガイに見事にフックかかってるし意味があったね^^
possesioncdp 別に子供の意思とやらに賛成するわけではないが、初めて知ったのにオカルト概念なんだがって断定してて???となる
初めて知ったかどうかとオカルト概念判定の関連性に???となる
tune2011 命や意志の仕組みを根本的に説明できる人は居ないんだから、「私は自分の意志で自由にしていいんだ」も「まだ産まれてない子供の意志を尊重すべきだろう」も価値に優劣はないと思う1
えーと。この世に存在してもいない人間の意志が将来的には科学的に証明できるっていうトンデモ話っすか?笑
http://b.hatena.ne.jp/entry/325510872/comment/deztecjp
そういう主張じゃなくてガチで産まれなかった子供の意志が~とか言ってたのでちょっとしたキチガイだと思う
takehiko-i-hayashi ああ、これは私はよくこういうことを考える。我々が「生まれていない人間の権利」について全く考えなさすぎるから、子供が減りすぎたり将来世代の資産を先食いしすぎたり環境悪化させすぎたりしてる側面はあると思う
おまえが想定してるのは「将来存在する子供がどうなるか」って話だろ。
今話してるのは「現前しない個体としてすら存在しない子供に意志はある」というトンデモ論だから。
gazi4 件の主張は相手によってはパワハラ、であってブコメに対する増田の「現前」という返しは問題の本質を理解していないどころか立場が違えば同じ事をしているのが良く分かる
ブクマカにありがちな匂わせ文。具体的または根拠ある指摘をなにひとつできないくせに決めつけや空想で相手を勝手に規定する。
morita_non 内容はどうでもいいけど、そもそも「生れたら不幸になる」とかいう言説に何の説得力があんのかよく分からん。じゃあ不幸な人をかたっぱしから殺してんの?
今回はとなりのヤングジャンプで読めるシンマンGP2017エントリー作品No.2~No.4
うーん、作者の画風や物語作りから考えても、方向性は間違っていないとは思うんだけれども。
読み終わったときの第一印象としては、「弱い、薄い」って思った。
画風だとか静的プロットはまあ置いておくにしても、それでも演出だとか表現力が……。
コマ割りや構図がイマイチなのも、そう思う要因になっているかなあ。
食をテーマにしているのに食べ物やそれを食べるシーンがそそらないと感じたのも、個人的には特によろしくない点。
テーマがありふれてて、プロットもありふれているというかシンプルすぎる。
身長差というハンデ、嫌な性格をしていて不当な扱いをする敵役、それを主人公が情熱と努力で乗り越える。
テーマがありふれていること自体は必ずしもマイナスではないんだけれども、そのテーマをどんな構成で、どんな言葉で表現するかってのは大事。
画力は割とある方だとは思うけれども、テーマもプロットもセリフも凡庸では、票を得るのは厳しそうだなあ。
同じことはやればやるほどつまらなくなるし、比較対象が多ければなおさら。
もちろん細部を挙げていけば全く同じ作品というものはないけれども、同じ食材をメインに取り扱った料理を1週間出し続ければ、よほど工夫しない限りは途中で飽きると思う。
その点では、食漫画が跋扈している現代で食をテーマにした上述の『灰とリコピン』も厳しい目で評価されやすいと思う。
おー、気合入っている。
構成が纏まってて、コマ割りだとか絵で魅せようという意識も窺える。
ただ、屋敷で巻き起こる事件に加え、登場人物の設定やら人間ドラマと、読みきりにしては色々と詰め込み気味な印象。
それで尚、構成自体は纏っているのは評価したいけれども、それぞれの要素がやや希薄になって、クオリティの割には全体的にこじんまりとしている側面はあるかもしれない。
まあ、粗探しするならいくらでも言えるのは他のエントリー作品も同様なので、総合的には中々いいと思う。個人的には高く評価したい。
このシンマンGPという企画は優勝した人が連載権を得るわけで、その点では連載に適した能力があるかってことも考慮すべき点だと思うんだよね。
連載漫画は、作家の100%が常に発揮できるよう待ってくれる環境ではないので、仮に70%程度でも作家の実力を示せる漫画を描けるかってのは大事なんじゃないかなあ。
まあ、投票している大半の人は単純に面白い漫画に投票していると思うので、そこらへんを考えるべきなのは編集側の方なんだけれども。
ただ、まあ今回の『蒼の閃』や『蛉目奇譚』などを100%に近い状態とした場合に、70%だとどうなのかって視点で評価してみるのも一興かもしれない。
ほとんどの人間は「男らしさ」「女らしさ」というフォーマットに沿わないと恋愛ができないんだと思う。
大昔の時代は「男らしさ」「女らしさ」の価値観が強固だったんじゃないですか。
「相手は男だから強さ逞しさを求めていい」「相手は女だからお淑やかさを求めていい」…的に
相手に「男女像」というもの求めてることが、まあ、許されていたんじゃないですか。(そりゃパーペキに許されたとは言わないけどさ)
「男だから~」「女だから~」と価値観を押し付けることができた。
しかし現代はどうだ?ジェンダーフリー、男女平等、反セクシズム。
…基本的に相手に「男らしさ」「女らしさ」を求めるのはアウトな価値観の時代です。政治的に正しくないです。ポリでコレじゃないです。
「相手が男だからって強さ逞しさを求めてはいけない」「相手が女だからってお淑やかさを求めてはいけない」
…これを破る者は基本的にモラハラセクシズムハラスメンターです。
要するに『相手に「男らしさ」「女らしさ」とかカンケイなく一個人として見るべし』…というのが現代における恋愛の規範と言えましょう。
が、これこそがまさに、恋愛の難易度を爆上げさせてしまった要因なのではないか、と思う。
上記の通り大昔は「男らしさ」「女らしさ」というごく単純なコードにより、ある程度は相手のことが『分かりやすかった』(そりゃパーペキに単純化されてたとは言わないけどさ)
だが「らしさ」というものが忌避される現代では、「相手を読み解くコード」が非常に複雑難解と化しているのだ。
「相手が○○だからって××と思ってはいけない」「△△と決めつけてはいけない」「■■と扱うな」
あぁ^~コードが分かりづら杉るんじゃぁ^~…トライアンエラートライアンエラーはトライアンエラーブライアンエラー
…って感じが昨今のありがちな恋愛離れ像だと思うのですよ(←すげえ単純化してんな)
結局ね、逆説的に言って大昔は「男らしさ」「女らしさ」というものの保証があったからこそ、
万人にとって恋愛はある程度単純化されていて、参入障壁が低い文化であった…と思うんですよね。
いや、上記を読んでムカムカする人がいるのは分かりますよ。おまんら「男らしさ」「女らしさ」に頼らんと恋愛もできんのかいシバくぞワレ!?と
でもね、でもね…そういう「男らしさ」「女らしさ」に頼らなくても恋愛できるあなた方は「恋愛強者」なんですよ。
でもその「恋愛強者」は、正直すっげぇ少ないと思うのですよ。残念ながら。
人間というものはほとんどが「恋愛弱者」で、「男らしさ」「女らしさ」に頼らないと恋愛できない。
しかし「男らしさ」「女らしさ」に頼ってはいけないとなったら、「恋愛離れ」に至るしかないのですよ。
悲しいけどこれ現代ナノヨネ(チュドーン スレッガーサーン!!!
いやいや、誤解せんでほしいんスけど、このエントリの主張は
「大昔の男女差別社会に戻るべきなんじゃ~~~!」とかそんな極端な保守主義者みたいなことを言いたいわけではないデスよ。
あと、「なんでそんな恋愛離れを嘆くのだ。恋愛しなくても別にいいじゃん」と意見する人もいるだろうが、それはとりあえず後のお話。
ただ、言いたいのは、「男女平等を推し進めたから恋愛する人が減ったんじゃね?」
「男女平等な恋愛ができるのは少数の恋愛強者のみ。大多数の恋愛弱者は「男らしさ」「女らしさ」に縋らざるを得ない」というだけの話。
「男女平等を推し進めよう!その上でみんな恋愛しまくろう!」なんて無理無理カタツムリ。