はてなキーワード: 添削とは
NHKのEテレで「夏井いつきのよみ旅!」という番組をやっている。これは、TVバラエティの口の悪い添削でおなじみ?の俳人夏井いつきと、元ホストのホストクラブ経営者・ローランドさんがあちこち旅をしながら俳句をなんか色々する番組らしい。番宣しか見てないから、どんな番組か説明しようとして急に文章がぼんやりしたが。
なぜ番組を見ないかといえば、どちらの出演者も好きじゃないからなのだが、特にローランドさんが本当にこう、TV出るのかーそれも公共放送の教育チャンネルに出すのかー、という思いだ。このいろんなことがあったご時世に。「俺の店では売掛やらないよ」とブログで宣言したことで男を上げたみたいに言う人もいたが、やらない宣言したということは、やってたんじゃん、って思う。まぁ過去のこと言ったところで詮無いんでしょうけど。
ローランドさん個人や彼のやっている店が「悪いホスト(クラブ)」かどうか、ということは私には知る由はないが、ある種の象徴として「TVに出ている元ホストの有名人」だ。
なんだかなー、「社会に許されてんなぁー!」って思う。
歌舞伎町やホスト界隈ではなぜか短歌や俳句を作る勢力があって、数年前にバズった「ホスト万葉集」や「アウトロー俳句」と、作品になっているものもあるのだが、ローランドさんは、なんか松本人志の痛いエッセイみたいな感じの本は出しているけど、詩(短歌や俳句)はしたためてはいない。のになぜか「俳人と旅する番組」の出演者に収まっている。
つまり「象徴としてのホスト」としてブッキングされてるんだろうと思うのだが、つまり「象徴としてのホスト」は、Eテレで番組持ってる程度には社会に許されてんのなぁ~~。
夏井いつきもせっかくホストを連れて旅に出たいっていうなら、「象徴としてのホストタレント」じゃなくて、アウトロー俳句まわりのホストの人とかを連れて旅をすればいいのに。アウトロー俳句相当いいものなのにな。まぁ夏井いつきがホストと旅したがっているわけじゃないとは思うが。
まぁ鮮度の高いホストだと、さすがにTVサイズじゃないんだろうけど、でもなーなんかなー。
頂き女子のマニュアルらしきものが流出して、ホストを頂点とした「水商売のタコ部屋構造・弱肉強食生態系モデル」みたいなものを多くの人が想像しながら、頂き女子を罵倒したり(まぁ仕方がない面はあるだって犯罪容疑者だもの)、頂き女子にカモられたおぢを馬鹿にしたり(かわいそう)、うっかりキャバクラ行って「頂きそうなキャバ嬢トーク」を目の当たりにしたうっかりしたおっさんを馬鹿にしたり(かわいそう)している。
なんていうか、ホストに貢いでた」キャバ嬢や、キャバ嬢に貢いでたおっさんたちは「社会に許されてない~~」という感じである。キャバ嬢は、そして頂かれたおぢたちは、Eテレでお金出してもらって旅とかしてない。
まぁ個別にいえばローランドさんは悪いことはしてない(表面上。でも売掛はやってただろう?とやっぱり思う)から当然、許される許されないということではない。
一方で頂き女子は容疑者だし、だまされたおぢ達は凄くかわいそうだけど根底には下心があるだろうから100%の同情は生まれにくいというのはあるだろう。でもローランドさんはたぶん売掛さんざんやってたんじゃねーの?と思うんだよな。
まぁ、そうはいいつつ、ローランドさんについてはあんまり知ってることがないから今検索してみたけど、別の源氏名だったけど女を金で見たくないから源氏名を変えたとあって、まぁそういうことなんだろう(売掛さんざんやってたんじゃねーか、というか)
でもその辺は明らかにせず、良い感じにウォッシュしてTV番組に出ていると、いつの間にか社会的に許されてるポジションにいたりする。なんだかね。なんだかなー。
全然話は変わるが、実は、キャバ嬢にハマったおぢを3人ほど知っていて、ハマるところから破滅するところまで身近で観察したことがある。昔の職場にいたのだ。辞めてよかったあの会社笑。
正確に言えば、ハマった3人のうち2人は社会的信用がかなり棄損され、1人はハマりかけてたが「はしかが治った」感じで収まった。
社会的信用の棄損、というのは要するに「妻と別居」「離婚」「左遷」「弁済」である。まぁ今でも元気に暮らしているような話は風の噂で入ってくるが、別居の人は、別居したまま10数年、なぜか離婚せず結構な金額の妻子の生活費を振り込みされられ続けているらしい。自業自得とはいえお気の毒である。
さて、ハマったおぢ3人に共通しているのは…、と考えて特に外的には大きな共通点がないのだった。
お金はそれなりに(キャバクラ通えるぐらいには)あり、3人とも結婚して子供もいた。未婚だからカモられおぢということではないように思う(まぁ結婚してたって孤独ってこともあるからねぇ)。あと「断れないタイプ」のような弱者男性らしさもなかったと思う。3人のうちの一人は私が別の会社のオッサンからセクハラターゲットにされたときに助けてくれた人だったし、別の人は会社の宴会や懇親会でも人気のムードメーカーのような明るい人だった。見た目も別にごく普通。
色々ほんと色々あって左遷されることが決まった人に、何でハマっちゃったんですか?と聞いたら「だってあんなきれいな子が俺の話で笑ってくれるんだよ!」と言われて、あーダメだこれは…と思った思い出。強いてあげれば3人の共通点は「若くてかわいい女の子がとにかく大好き」なところだったかも。
ハマりかけてたけど治った人は、その職場において三人目だったわけだが、周囲が全力でもう、止めたよね。
「医学部に行くお金をキャバで稼いでると言っていた、いい子なんだまじめな子なんだよ、親御さんが女が医者になるなんて生意気だと反対していて学費出してくれないって言うんだ」と、割と目が据わった表情で会社の忘年会で言われて、同じ卓に座っていた全員が目を合わせて「…第三の被害者が」という感じになった。それはキャバ嬢や風俗嬢の常套句だよと第二の犠牲者の人が言って、私たちもスマホで色々検索したりして「ほら手口なんだよ」とかさんざん皆で説得したけど駄目で、結局2次会の後に、第二の犠牲者の人とそのキャバクラに行ってた。
そして第二の犠牲者の人(離婚済)がそのキャバ嬢にハマって、第三の人は「まんまとハマった第二の人の様子」を見て己を客観視できたらしく、その日でキャバクラ通いをすっぱりやめたみたいだった。
要するに、別に「かわいそうな弱者男性」だけがターゲットなわけでもなく、そして「下心はいろんな危機管理レーダーを簡単に狂わせる」んだよね。まぁ気持ちの暴走はどうしようもないのかもしれないけどさ。
まぁ、貢ぐおぢは社会的弱者のGiverだ、というのは、当てはまってない被害者も結構多いんじゃねーかなとは思うんですよね、だって下心があるからお金を貢ぐわけで、別に純粋な気持ちでお金出してないわけじゃん。ヤラセてもらえるかも、俺は彼女にとって特別だから、と思うから貢ぐわけでしょうし。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
「まじでなんでなくせないの」は
現状、被害者の取りうるオプションは限られており、過重な自助が要求されていることについて「改善の方途はないか?」という問いであることは常識的な読解力があればわかる。
う~ん、苦しい。
「犯罪撲滅はゼロにするの意味だからそんなの無理だー」ってただのかわいそうな子じゃんw
言葉尻に拘って他人の主張を極論として解釈し、わざとらしく呆れてみせるメソッドに端的な名前はないのかな?
「まじでなんでなくせないの」は
現状、被害者の取りうるオプションは限られており、過重な自助が要求されていることについて「改善の方途はないか?」という問いであることは常識的な読解力があればわかる。
もちろんより厳密な至適な表現はあり得るがそんな辛口添削()にはこうした場でなんの意味もない。
また「まじで〜」の書きなぐりにすぐさま実施すべき水準の具体策が盛られていたらそっちのほうが驚く。
「“インセンティブがない”は、口は悪いけどコストのことを言ってるだけだよ」みたいなこまっしゃくれた講釈もあったが、笑わせる。現状払ってる治安コストの使途内訳に興味持ったことあるのか?
全体に2ちゃん時代の「ナマポ叩き」の精神と言うか行論の型を見る。つくづくはてな部落民は背伸びがしたいだけのインテリワナビだなと思いつつそこの詳論は面倒になった。
確かにAIによる文章生成技術は目覚ましく進歩していますが、人間の書いた文章には独特の温かみや味わいがあります。言葉の選び方、文章の構成、経験に基づく感想など、人間ならではの表現があると思います。
一方で、AIによる校正や推敲は便利に使えます。誤字脱字のチェック、表記の統一、文章の推敲など、AIの助けを借りることで文章の質を高められるでしょう。
ただし、AIによる添削はあくまでも提案であり、最終的な判断は人間が下す必要があります。AIに頼りすぎず、自分の感性を大切にしながら、適度にAIも活用するバランスが大切だと考えます。
これからもAIの性能は上がり続けると思いますが、人間の言葉と感性はAIでは代替できない価値があるはずです。だからこそ、人間らしい表現や思考を大切にしながら、AIの恩恵も活かしていくことが求められるのだと思います。
一文を長くするな、頭痛が痛いみたいな表現を使うなと頷くところもあった。
その一方、「命令を出す→命令をする」というように、「〜する」で表せる表現は全部そうしろという奇妙なものもあった。
こういう指導を見るとイライラしてしまう。実際それやってない奴が100%落ちたのか、ABテストでどっちが印象良いか確かめたのか、といったように、エビデンスを要求したくなる。
唐突だが、子どもの頃、ポケモンで連打すると捕まえやすくなるとかいうエセテクニックが流行ったことがあっただろう。今思えば馬鹿馬鹿しい。
しかし、そんなエセテクニックで話しあえるくらい余裕があったとも言えるのではないか。
なんか今は、著名ストリーマーの正確な分析情報を元にゲームをプレイしてて、身内で曖昧なテクニックを開発する経験が無くなってた。
昔は、正確なもの:経験談レベル:根拠不明の情報がそれぞれ丁度いい割合で入っていて、後者2つにもある程度乗っかってあげることによって緩い空間が成り立っていた気がする。
こうして考えると、あの講師は「俺だけが知ってる(と思いこんでいる)情報」を使ってコミュニケーションを取りたかっただけなのかもしれない。
講師はちょっとおじいちゃんみたいな人で、今のコンプラに反した発言もあった。
直感だが、あの人は時代に淘汰され、コミュニケーション不足に陥る可能性がそこそこある気がする。
せめて、かつて私たちがポケモンの連打でコミュニケーションをしていたように、その人に文章を添削してもらう時くらいはそれに乗ってあげるのも悪くない気がしてきた。
私には妹がいる。妹とは話が通じないなと思うことが幾度となくあり、毎回ではないが苛立ちが募ることもある。話の通じなさとはレスポンスの遅さや文脈から少しはずれた返答のことだ。
そして、自分自身が友達と話しているときにふと我に返り今の返答は正しいそれではないような違和感を覚えることがある。
その違和感は主観の域を出ないが、自分がそういった返答をしてしまうことによって私が妹に感じる不快感を友達にも感じさせていないのか不安で仕方がないのである。
なにかをきっかけにしてすごい勢いで話すよね、と、ある友達は良い面だと捉えている旨を伝えてくれたが、今になって思えば躁状態になっているとも云えるだろう。
別の友達からは病気になってから脳の回転が悪くなったと思うか聞かれて、今のレスポンスの遅さは昔からそうなのかと言われているように感じた。
その人と話すときは常に緊張しているため懸念事項がより顕著に表れているのだろうか。
こうして少しずつ違和感や、以前からある"他人と関わった後に己の行動を見直す癖"が合わさり確信に近づき、
口数を増やすことによって失言が生まれるなら失言しないように何も話さなければいい、そして話すときは頭の中でつながりを意識して文章を組み立ててから話すように、
といったことばかり考えているとレスポンスは遅くなり、砕けた場面でも文語調でしか話せないようになった。
誰と話すときでも自分から話すことはほぼなく、人の話に相槌を打つ以上のことができないようになった。
恐らく慎重に言葉を引き出すようになったことでアウトプットまでの時差が広がっているんだろう。
発話までの時間が長くなり相手がいい気分にはなるわけはないが、すぐに返答を返すことで話の粗が増え批判や注意される点は増える。ここでデッドロックに陥っている。
注意されることを恐れすぎている。
この増田を書いている時ですら昔ならアウトラインをざっと書いてあとから添削していただろうが、今は、というかここまで書くのに一発で納得できる一文を探し続けて足踏みしていた。
増田なんだから言葉遣いなんてそこまで気にしなくていいのに堅苦しい言い回しをわざと選んだり重文にずっと手間取ったりしていた。
そんなこと気にしなくていいのにな。
途中めちゃくちゃしんどくなって気まぐれに他の記事を読んでみて少し救われたと思う。
とにかく、こんなことを友人知人に話したとして何を言われるのかはわからないが気を使わせてしまうのではないかと思ってならない。
友達もかなり繊細なタイプが多くて、まあ少し不健全な悩みを持たせてしまうのではないかと不安になる。
カウンセリングも考えたが、おそらく予約が取れて実際に話を聞いてもらえるまでに私は干からびてしまうだろう。
だって「私と話していて不快に感じてる?」って自分の精神の弱さで返答に耐えられる自信がない。他責をさせてほしかった。
依然受けた心理検査の結果を見返してみたら「人懐っこく振る舞う一方で、人と関わることが不安だったり怖かったりすることがある」と書かれていて、後半の部分でこの先が更に不安になった。
署名活動がされているAI法、中に書かれている法案がアホすぎる。
著作権法とは別に、新たにAI法を作り、AIから著作権利者の権利を守る法整備を望みます。
・AI学習を拒否している著作者の権利がきちんと守られ、無断使用する違反者は罰せられる法律
・AI学習の許可を取ることが必須となり無許可でのAI学習は罰せられる法律
・無許可のAI学習の生成物に関しては有料で販売・転売等してはいけない法律
・無許可のAI学習の生成物に関してはAI画像作成ソフトのメーカー各社、またはAI生成者にAI生成物と分かるように明示、クレジット挿入を義務付けする法律
・AI生成物に関してのみ、親告罪ではなく非親告罪とする法律。
・生成物とユーザーを紐付ける仕組みをAI画像作成ソフトのメーカー各社義務付け
・著作権者人格権、同一性保持権例外その3、"プログラムの著作物"の部分の変更(LoRAi2i等の無断学習禁止のため)、等
そして二次創作した作家のPCが押収されると、EdgeにImage Creatorが付いてるし、Windows11を使っていたらペイントに生成AIが付いている。
誰がこれを使っていないことを証明できるのか。
なんで違法にアップロードされた動画のストリーミング再生が違法となっていないのか考えたことは無いのだろうか。
上記の非親告罪はこれに対して行おうとしているのだろうが、生成AIに限定していないのがヤバい。
例えば児童ポルノを検出して非公開にするAIの学習をするためには児童ポルノを学習していなければならない。
また情報がすべて開示されるので医療AIとか学習に使われた患者のプライバシーが守られなくなる。
影響が大きすぎる。
アホが作ったか、賛同するアホをあぶり出すために作られた署名としか思えない。
せめて弁護士とかまともな人に添削してもらえなかったのだろうか。
書いてないだけで全て生成AIについてで、他のAIについては別だという反論もありそうだがそうではない。
なので著作物を学習した生成AI以外に対しても法律の対象にしようとしている……またはそういうつもりでなくてもそうなってしまっている。
しかもこんな無茶苦茶な内容を「罰せられる法律」と書いてあるので刑法にしようとしている。
学習された著作者の救済が目的であれば民法にして「賠償を求めることができる」にすると思うのだが。
著作権法を改正して無断で学習できないように求める署名であれば、著作物でないデータなどは含まれないのでまだ賛同の余地がある。
しかし求めているのが著作権法とは別である以上、全てのAIの学習に対して規制できる法律となってしまう。
この署名を元に左翼政党が本気でこれを実現させるために動き出したらどうしてくれるんだろう。
はてなーは「電子書籍が出れば紙書籍が売れなくなるのは当然の流れ」というノリで生成AIとイラストレーターのことを語ってるけど、実際のところは「漫画村で読めるから単行本は買わない」というノリに近いのが今の生成AIの現状なんですよ。
ここら辺は漫画家の中でも理解できていない人がいて、森川ジョージさんが正にそれで同業者からフルボッコにされている真っ最中なんだけどね。
還暦近い方なので仕方ないところではあるんだけど、漫画家協会の理事やってるから面倒なんだよなぁ、マジで。
それはともかく、画像生成AIは数億のイラストを元にして絵を生み出してるんだけど、その元となったイラストはほぼ全部無断転載で、中には児童ポルノ画像まで入ってるのまで有って問題になっているんですよ。
なので欧米では法で規制しようかという話も当然のように出ているわけです。
将棋AIはAI同士で対局を繰り返してその棋譜を元に強くなるんだけど、画像生成AIは現状はどうしても人間が描いたイラストを元にせざるを得ないので問題を孕みまくっているんですよね。
クリーンなデータセットを元に学習すれば良いんだけど、そのようなイラストは現状だと著作権切れの古いイラストしかないんじゃないかな?
そんな面倒なことをせず、Pixivというジャップが大量に良いイラストを纏めてくれてるからクロールしてぶっこ抜いて使おうぜ、というのが今の画像生成AIの現状だと思う。
それでも身内だけで使ったり、自分の画力向上のための添削ツールとして使ったりするくらいならまだ理解できるんだけど…
現状だと「才能ないし努力もしたくないけど、SNSで漫画やイラストでチヤホヤされてるインフルエンサーが羨ましくて仕方が無い! でも自分では努力したくないでござる!」というクズが画像生成AIで勝ち誇ったり、勝手に嫉んだ漫画家やイラストレーターに似た画風の画像を出力して誹謗中傷に使ってるから問題になっているんだよ。
先月までアニメやってた「即死チートが最強すぎて、異世界のやつらがまるで相手にならないんですが。」の主人公のクラスメイトが他人から貰ったチートでイキってたけど、正にあんな感じのクズが量産されてるんだよね。(「即死チート」の作者は人間の愚かさというものがよくわかってらっしゃる。)
そして最近だと更に先鋭化してAIを使ってるに違いない、とAI警察化して勝手に認定して冤罪発生させまくりなんだよなぁ。
イラストレーターが潔白証明しても耳を貸さないし、懲りないし、本当にクズなんだわ…
とにかく、功罪のうち、罪の方が大きすぎるのでイラストレーターや漫画家はピリピリしてるんですよ。
はてなーの中には「Winny本体が悪いんじゃなくて、悪用するユーザーが悪いんだ!」という人が居るかもしれないけど、今の画像生成AIは「違法画像を大量に同梱したWinnyを配布している」状態なんですよ。
さっさと法規制して欲しいものだけど、日本でそれ関係の国会議員である赤松健氏はこの件に関しては動くことは期待できないと思うんだ…
AIが擬人化して開発者である主人公とラブコメする作品を描いた人なんだよ?
最新作の「UQ HOLDER!」では人類の進歩を全肯定し、そのために血を流しながら前に進むような漫画を描いた人だよ?
・入学後すぐに行われる考査の範囲として、新高1生には入学前に「黄色チャート1+A」を購入するよう指示されます。
・授業では黄色チャートで解法を暗記した上で、教科書と傍用問題集「オリジナル」を用いて学習を進めます。
・オリジナルは略解しかないため、授業では同時に5~7人の生徒が黒板の前で解かされ、それを教員が添削・解説を行います。
・そのため、黄色チャートで予習していないと、黒板の前で何も書くことができず恥をかくシステムです。
・黄色チャートでの解法暗記は予習として必要であり、入学後も義務自習で積極的に行うことが推奨されます。
・また、寮には「義務自習」勉強時間が19時~22時(23時まで延長可)があり、義務自習では黄色チャートや1対1の解法暗記を行います。
・いずれも、考査や週テストの範囲として指定されているため、義務自習では解法の暗記をメインに行います。
・ラ・サールのカリキュラムは30年以上変わっておらず、考査・週テストでは問題の数字を変えて出題されます。
・黄色チャート→教科書・オリジナル→1対1対応の演習→重要問題集(数研出版)が教材の軸で、全ての考査・週テで繰り返し数字を変えた問題が出題されます。
・考査・週テストにあたっては、黄色チャートや1対1の解法パターンをしっかり覚えることが重要で、義務自習の時間では主に解法の暗記を行っています。
高校生活の流れ
・高校2年からは理系と文系にクラス分けがあり、高3ではクラスの変更が可能です。
・理系と文系のクラスに分かれる高2から、数学の教師も変わり、進度も変わります。
・学習の進行は高1と同様です。高2では黄色チャートの数学2Bが配布され、教科書・オリジナルを解かされ、1対1対応の演習を暗記します。
・高3では模試が組み込まれ、考査・週テ・模試を通じて知識をアウトプットする期間となります。
・「オリジナル」は高2までで終わるため、その後は数研出版の「重要問題集」をオリジナルと同様、授業で同時に5~7人の生徒が黒板の前で解かされ、それを教員が添削・解説を行います。
・授業で同時に5~7人の生徒が黒板の前で解かされ、それを教員が添削・解説を行うという授業スタイルは、数学のほか、現代文や物理などでも行います。
・高3では模試が増え、インプットよりもアウトプットが重視されます。
・義務自習で十分なインプットを行うことで、河野玄斗氏の提唱する黄色チャートのスケジューリング(数1A 1冊を1か月で回す)が可能となっています。
元増田です。気付くのが遅くなってごめんなさい。
添削&注意を頂き、ありがとうございます。
あのあとジムで計測したら、BMI18%の体脂肪率28.1%と
筋力をつけることです。
アルコール依存症と言われるとも思っていなかったです。
改めてありがとうございます! 頂いたアドバイスを指標に、がんばります。
添削してってわざわざ書いてるのにろくに返事もしないのな
反応が多かったので長くなるけど追記してみる。
そうなので、メンタルを維持して他責にならないためにも理論と戦略が必要になる。
IBJが出している成婚白書に実際の数字が載っているので見てほしいけど…
という、お見合いを何十回もしている婚活難民からすると信じられないような数字が載っているので、実際にA子のようなタイプは多いのだろう。
これを「自分は残飯だから結婚できないんだ」と見るのではなくて「ガチャでA子のような人を引き当てれば成婚できる」と見るべき。
もう少し細かく見ると、A子の婚活は次のような流れを辿ると思われるので…
活動期間は5ヶ月あっても、男性側からA子を観測可能なのは真剣交際前の2ヶ月だけで(真剣交際以降はプロフィールが見えなくなる)、申し込みが成立する可能性のあるウィンドウはさらに狭い1週間しかない、ということになる。(なので、申し込みを断られても気にしないこと)
(男性の場合)相手が身長が高くてもOK、(女性の場合)相手の身長が低くてもOK
自分の場合、過去に背の高い人と付き合ったことがあったので「相手の身長は気にしていない」旨を書いて、実際に背の高い人ともお見合いをしていた。
女性の場合、160cm台だったらプロフィールには書かなくて検索条件で工夫すればいいと思うけど、180cmくらいあったら「背は高いですがお相手の身長は気にされていません」と仲人PRで書いてもらうのはアリじゃないかな。
女性が姓を変えるのが当然ってこと?って思われる可能性があるから。
かといって「姓を変えたいです!」はポジティブな印象抱かれない。
女性研究者のように姓を変えることに切実なデメリットがある相手だと刺さるんじゃないかな?
これも、女性が「なるべく姓を変えたくない」とはプロフィールに書きにくいので、男性が「姓を替えることを気にしていない・事実婚もあり」と書く方がマッチしやすいと思う。書き方の問題だと思うけど、仲人Tさんだったらどうするかな?
・短いプロフィール
結婚相談所の場合、プロフィールをちゃんと添削しない仲人の問題であって、本人は天然でいい人だったりするので(実際にそうだった)、そういう人を逃すのはもったいないし、お見合いの日程調整でグダったりするのも結婚相談所が原因の場合もあるので、会う前にダメだと判断するのは早計。
婚活バトルフィールドに慣れすぎると、婚活バトルフィールドに最適化された行動をとっていない相手を「やる気がない」とか判断しがちなので注意しよう。
お見合いして仮交際をしている相手=好きになれそうな人、なので嬉しい。
たとえ婚活テクであっても、お金や手間をかけて好意を示してくれていることが嬉しい。
自分は気にならないけど、一般的にはそうらしい。↓ここらへんを見て。
そのせいで、海外旅行が好きだったり、海外駐在経験のある人でも(おそらく仲人の添削で)プロフィールには書いていないこともあり、逆に男性側から海外旅行好きを見つけるのが難しかった。
人にもよると思うけどウケは悪いらしい。↓ここらへんを見て。
こんなとこで結婚相手探すより普通に恋愛結婚した方が早いと思うんだけど‥何でワザワザみんなエクストリームモードでプレイしたがるのかな?
が必要になって時間と手間もかかるし、同じコミュニティで複数の人に声をかけるのは難しいので、短期間で恋愛対象にしてよい相手にたくさん出会える、という点で結婚相談所のタイパは良かったよ。
なんだかすごい辛くて、これを言葉にしたくなった。 読みにくいだろうけど吐き出させてほしい。
俺は去年あたりから絵を描き始めて、就活とか単位とか、やらなくちゃいけないことが一杯あるんだけど、いままでゲームばっかりだった人生のなかではじめて熱中できるものを見つけた気がして頑張ってる。
そんで絵がうまくなりたくていろいろ本を探すわけなんだけれども、どれも値段が1冊2000円超えててほしいやつ全部買うなんて夢のまた夢だった
まあ内容的に2000円は安いんだろうけど、バイトもそこそこしかしてない大学生で、ちょっと買うのは難しかった。
でもいろいろ見てたら100円で表紙の絵が可愛い教本があって、どんなもんだと思って試し読みしてみたらさ、平成のサイトみたいな雰囲気を纏ってて、MSゴシック(多分)で400ページ以上書かれてて
今の時代絵で食っていける人たちはyoutubeに進出したり、添削プラン的な感じでオンラインサロンでの収入を得てる人も結構いるなか(もちろんそれが悪いわけではない、金がないので見るだけだが参考にしている)本当に熱意と善意で共有してくれてるんだな、って感じがしてさ、すごい報われて欲しいなって思ったらどんどん心が辛くなっちゃった。
結局何をするにもお金が必要な世界だから、せめて本業が順調とか、もうFIREしてるとかだったらいくらか心休まるんだけど、本当に、本当に報われて欲しい。こう思うことってなんか名前ついてたりするんだろうか?
哀れみとか、そういうのじゃないといいけど。 俺ってなんか誇大妄想する癖があるから、就活で絵と全然関係ない道に進んでも絵を頑張って、いつか恩返しできたらなとか考えてる。
なんかよくわかんない文になっちゃったな、どうでもいいけどAIの0円グラビアみたいなの引っかかってめちゃくちゃめんどくさい。 まあこの本と出会えたのでよしとしよう
フラゲした。
内容について書くとキモいのが寄って来そうなので、以下は文章力についてのみの感想と個人的な雑感。
全体的に良くも悪くも平易な口語体で書かれており、自伝・エッセイの文章としては平凡というか平均レベル。
少なくとも「他人に読ませる」事を意識した文章ではあったので、読んでいて文字で目が滑るとかげんなりする、等といった事は無かった。
素人エッセイだと、数ページ読んだだけで頭痛くなる悪文な本も珍しくは無いので、この点は素直に感心した。
さて、著者の文章力について何かと批判するアンチ側の人間は少なく無いが、所謂「文章力」「読ませる文章」というものは
決して難しい単語や専門用語、小難しい言い回しや難解なレトリックを使えば良いというものでは無い。
簡素な事柄を専門用語やレトリックを駆使して400字~800字長の文章にする事は可能ではあるが、それは「読ませる文章」では無い。
記述者の言いたい事を相手に伝える事が出来れば良いだけで、洒落た私小説やラノベじゃあるまいし、細部に拘っても意味が無い。
やたら難しい言い回しをした長い「だけ」の文章は、増田や仕事でもたまーに見かける。
ネット小説だと割と見かけるのでげんなりする。
下手に単語や言い回しだけを覚えた、自称文章力が高い人間が陥りがちな罠。
新人や若手がそういった文章をお客さんの前に出したり、プレゼンで使おうとしては、注意して改善して貰っている。
優秀な人間だと大学等で文章添削されて鍛えられているのか、こちらが一々教え無くても「読ませる文章」を書いてくれる。
いわゆる文章力が低い文章というのは、なにも「てにをは」が破綻している・時系列や起承転結が滅茶苦茶などの乱文だけでは無い。
基本的に「他者に読ませる」という事をまるで意識していない文章は、いわゆる文章力が低い文章にあたる。
自分の言いたい事をバーッと垂れ流しているだけの文章は、読んでいる方としては興味がある題材でも無い限り、文字通り「目が滑る」。
専門用語や小難し言い回しを多用した、難解な「だけ」の文章、只管悪意を羅列したネット荒らしの書き込み等が
目が滑って読む気がしないのは、「文章力」の低さを理論的で無くとも感覚的に理解するからである。
恐らく仕事先でも「こいつの文章読みづらいな…言いたい事は何なの?」などと思われており、
そういった人間に限って「文章を読む」力も無いので、他者の文章に的外れなケチをつける「ウザくてキモい人」になっている事だろう。
そういった意味でも「ネトゲ戦記」は、少なくとも人に「読ませる文章」というのを意識していた、と読んで感じた。
家族が読みたがっているので、一通り回し読みした後はメル◯リに回すとするかな。
※基本的に買った紙の本はよっぽどの名著で無い限り、読了した後はメル◯リかブ◯クオフに売っています
<追記>