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はてなキーワード: 明治時代とは

2017-07-30

https://anond.hatelabo.jp/20170730075626

政府が優秀な女性白人WASP精子購入補助を出すべきなんだけどもな。

国民の質を高める政策明治時代から行われていた正しい行動。

太平洋戦争で序戦を戦えたのは、条約改正の為に外国人遺伝子を大量導入したおかげ

2017-07-22

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愛知県陶磁美術館の「今右衛門の色鍋島」展にいって参りましたわ。

明治時代の第十代今右衛門から磁器の一貫生産をはじめて、

史上最年少の51歳で人間国宝になられた十四代今右衛門に繋がっています

代々常に新しい手法を取り入れる姿勢が素敵ですわ。

「銀だと黒ずむのが気に入らないのでプラチナ釉」はどうかと思いましたけど

観る角度によって反射で表情の変わるところには悔しいっ、でもっ!ですわ。

十四代は雪の結晶モチーフに多用していることを覚えました。

全体的に大きな作品が多く、そこに丹念に絵付けをしているので見応えがあります

展示はなんとなく十二代の作品が少ない印象を受けました。

十三代、十四代多作すぎるのかもしれませんが。

ただし、十二代には窯の改良という大きな業績があるのですわ。

そのおかげで成功率があがったそうですの。

縁の下の力持ちですわね。

スタンプラリーで染め付けのカップとソーサーいただきました。

とても薄くてプラスチックのように軽いカップでしたわ。

つい、爪で弾いて磁器であることを確認してしまいました。

https://anond.hatelabo.jp/20160820201843

2017-06-24

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市之倉さかづき美術館に行ってまいりましたわ。

美濃焼は細かな地域ごとに得意な焼き物棲み分けをしていて、

市之倉は盃が特産品なのですわ。

幕末から明治時代にかけて極限に達した職人技で作られた杯が

多数展示されていますの。

重輔銘のアサガオ連想させる形と色合いの盃は注ぐ液体のpH

色が変わりそうな気がしました。

有田焼エビ柄の盃は、イカ娘さんにプレゼントしたいでゲソわ。

特別区画で紹介されている加藤五輔さまの(本名:五助)の説明文に

わたくし言葉がありませんでしたわ。

江戸時代まれの方ですし、たんなる表記のぶれではありませんの?

加藤五輔(本名:五助)さまの経歴が、銅賞や三等ばかり取られていて、

書かれているのは最高でも二等であることも印象的でした。

切ないですわ。

世界各地の酒器が展示されているコーナーもあります

イランの酒器が多いのは、イラン陶器復元研究されていた加藤卓男さまの縁でしょうね。

中国戦時代の鳥尊という酒器の表面にはびっしり文様が描かれていて、

よくみると「雷文」も確認できました。紀元前三世紀にはすでに雷文があったのですわね。

あと「可盃」は、はてなのみなさんに顰蹙を買いそうですわ。

これは器に最初から穴があいていて、指で穴を押さえてお酒を注いでもらい、

そのままでは机に置けないので必ず飲み干さなければいけないという

代物ですの。

まさに物質化したアルハラですわ。

それはともかく、小さな焼き物ですからこそ、職人技術の粋をこらした

姿に感心することができましたの。

ミュージアムショップがとても大きくて、ショッピングも楽しめましたわ。

2017-05-27

職業訓練大学の話を聞いていて、ふと工学部明治時代日本発祥という話を思い出した。

もともとヨーロッパでは工学学問の枠外、自然科学実践実用分野とみなされていたので、

純粋学問を修める場である大学でやることとは見なされなかったらしい。

しか科学技術が高度に発達した社会では、機械だけ、電気だけ、農業だけ、といった狭い領域でも、

派生、細分化、高度化、歴史の蓄積が進んだ知識の一部を修めるだけで、明治時代知識レベルを考えれば、相当に学問的な専門家を育成していたのだろう。

工学部が生まれた時にも、神の被造物である天文学を修めないで金を儲ける人工機械に関心を持つ技術者自然科学系の学位認定していいのか、という反対はあったのかもしれない。

でも今は化学科の人にも生物学科の人にも天文学は分からないし、自分古典語とか音楽とか良いものを何一つ学べなかった。

本当にそれで大学を修めたと言えるのか、と前近代の人に問われたら、かつてと同じ大学ではないと言うしかないと思う。

専門知識の水準が大きく上がったのだから大学レベル知識価値相対的に下がる。

かつての大学総合的な目的を維持する場所が今の大学である必要は全くないと思う。

大学毀損だとか怒ってる人は、大学がもう発達した学問を受け入れる場として限界が来てることについて考えて、次の場所を見つけたほうがいいのでは。

化学の専門領域である清掃学科に賛成。

観光だって歴史とか文化保全とか人文学系の知識が要るんじゃないの、僕は人文系領域に何一つ想像が働かないか適当言うしかないけど。

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豊田市民芸館・民芸の森」と「豊田市近代産業とくらし発見館」に行ってまいりましたわ。

豊田市民芸館・民芸の森」はたくさんの建物があって、それぞれで展示がされていました。

いえ、建物のものも展示物ですわね。

民芸の森では明日イベントがあるらしく、たくさんの人が作業をされていて、

通りかかると快く挨拶をしてくださいました。

このあたりでは民芸と陶磁に造詣が深い本多静雄という方が活動していらして、

彼に招かれるようにして加藤唐九郎氏ら、著名な陶芸家があつまって

コミュニティを作っていらしたそうですの。

民芸館のひとつでは陶芸家河村氏三代の作品企画展で展示されていました。

ひとかかえあるラスター彩壷が綺麗だったのですわ。

棚に並べて置かれていて三百六十度から観察できなかった点は残念でした。

建物では旧井上西洋館という建物が興味深いです。

二階建てで三つの部屋があるのですが、机と椅子ばかりで生活感が

まったくありません。

明治時代西洋館は打ち合わせ用で、生活の場は和風屋敷だったという

本で得た知識確認できましたわ。

陶芸などの教室では多くの人が活動されていて、活気がありました。

豊田市近代産業とくらし発見館」は豊田市生産されていた生糸関係の展示をメインにしています

ちょうど実習室で生きたお蚕さんの展示がされていて、

いきおいよく桑の葉をはむ白い芋虫の姿が観察できました。

バリバリバリとはっきり音が聞こえることに、とっても驚きましたわ。

昔の養蚕農家はこの音と一緒に生活していらしたのですね。

2017-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20170523170855

足立区ではコンクリ殺人があったが、世田谷区でも一家惨殺事件があったのであった。

まぁ犯罪率の差は確かだけどね。

調べてみたら、どっちも特別区になったのは同じ時期なんだな。

面白いのが、鉄道が敷設された時期が足立区東武)のがずっと早い。

明治時代から市街地化されてたのは足立区で、世田谷あたりに東急電車を通すのは昭和になってから

開発が昭和の時期だったことが、逆に世田谷には幸いしたのかも。

東京上京してきた上流の会社員たちのための「郊外都市」を必要としたことと、

そのニーズ沿線開発という形で東急が答えた、タイミングが合ったんだろう。

まぁどっちにしても、たかが100年ちょっと昔の話でしかない。

そういえば関西圏私鉄も、古い方が何となく残念なエリアを通っているね

昔は繁華街下町だったからかねぇ。

2017-05-19

壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山寺院である本尊地蔵菩薩、開基は園城寺三井寺)の僧快賢である中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。

目次 [非表示]

1 歴史

2 境内

3 文化財

3.1 重要文化財

3.2 焼失した重要文化財

3.3 重要無形民俗文化財

4 行事

5 関連項目

6 アクセス

7 脚注

8 外部リンク

歴史[編集]

園城寺三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗総本山奈良唐招提寺寺院である

中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。

江戸時代後期の幕末には京都治安維持目的活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠壬生村の八木家に置かれた。当寺境内新選組兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市三鷹市などに存在する)。

当寺旧本尊地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年昭和37年7月25日放火により本堂とともに焼失した。現在本尊地蔵菩薩立像は、火災後に本山唐招提寺から移されたものである

境内[編集]

現在の本堂は1970年昭和45年)の再建である境内には他に大念仏堂狂言舞台重要文化財)、近藤勇銅像壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

木造地蔵菩薩立像唐招提寺旧蔵、平安時代

錫杖(しゃくじょう)

紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)

壬生寺念仏堂狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)

典拠2000年平成12年)までに指定国宝重要文化財については、『国宝重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録名称索引統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

焼失した重要文化財[編集]

木造地蔵菩薩半跏像 旧本尊鎌倉時代

木造四天王立像 鎌倉時代

金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと

以上3件は1962年火災で焼失した。[3]

重要無形民俗文化財[編集]

壬生狂言

壬生六斎念仏踊り(指定名称は「京都の六斎念仏」)

行事[編集]

壬生狂言

毎年節分春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財指定されている。公開は2月節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照

壬生六斎念仏踊り

年中行事として、かつては毎年8月9日精霊迎え火、16日の精霊送り火23日の地蔵盆壬生寺で上演されていたが、現在は9日にの実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照

地蔵盆時の出開帳

壬生寺は、地蔵菩薩本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵石仏を貸し出す、俗称レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。

京都でも新興住宅地などでは地域地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである

鎌倉時代僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派

一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。

以後、同寺を本山として東北関東尾張近江に一向の法流と伝える寺院分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係宗派として存在している事が記録されている。

一向と一遍智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己教義確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏のもの特別宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。

浄土真宗本願寺八世の蓮如北陸地方活動の場を求めた時に、布教対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗時宗支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗民衆蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺門徒一向宗名前を使ったもの破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派混同されている。

江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺総本山とする単一宗派時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗から独立を求めたが実らなかった。

明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]

大半の寺院時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。

ゆかり寺院[編集]

番場蓮華寺滋賀県米原市

佛向寺(山形県天童市):現在でも踊躍念仏を伝える。

浄土真宗の「一向宗」[編集]

浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である

「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏名号を称えることと解釈され、親鸞宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。

したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗門徒一向宗自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。

こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。

江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

目次 [非表示]

1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

島村しまむら ひさし

デジタル日本人名大辞典+Plusの解説

島村しまむら-ひさし

1850-1918 明治時代外交官

嘉永(かえい)3年2月18日まれ。外務書記官となり,ニューヨーク,メキシコ勤務をへて,明治28ホノルル総領事となる。退官後,大阪鴻池(こうのいけ)家の財政整理にあたる。鎌倉能楽堂をたて,みずから演じた。大正7年1月13日死去。69歳。備前(岡山県)出身

2017-05-18

補足解説 ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。

ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。

http://anond.hatelabo.jp/20170516141639

↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。

ついでに、最近話題ポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。

文章はいい加減だし、今日日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである

  

  

"自由"の抑圧こそが必要

たとえば、労働問題について考えてみよう。

過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?

私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。

  

過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。

人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しか労働問題においては、そういう権利適用するべきではない。

  

長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合ブラック労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである

女性労働するときハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。

  

「上から改革」が必要

明治時代日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化過程では必ず「上から改革」がある。

旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊排除することで、国民はようやく新時代適応できる。

  

たとえば女性差別がひどい国では、政府女子教育権利提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。

権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層田舎にまで女子教育を普及させるには、政府国民権利を与えるだけでは不十分であって、その権利行使することを国民義務付けなければならない。

  

重要なのは政府国民全員に強制することである

「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。

そして女子児童は、当人まだ子であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。

ここにおいて「多様な価値観尊重せよ」などという主張は有害だ。政府旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。

  

当然ながら現代日本で、後進国近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。

たとえば就活会社説明会服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令必要だ。

から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的手段なのだ

  

ポリティカル・コレクトネス必要

私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである

前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベート時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)

  

私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。

もし本物の極左ファシストであれば、プライベート時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である

  

近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。

そのときリベラル側の主張は、「女性蔑視表現政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレ配慮せよ」というものであった。

私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視であるからだ。

  

もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。

女性主体性尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ

しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性ハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別肯定するという現象からである

被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。

(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)

  

ミソジニー必要

私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。

そしてこれはあまり知られていないことだが、お上纏足強制していたわけではない。とりわけ清朝漢民族のこのバカらしい習俗忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。

女真族満州族)の建てた清朝纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命反革命行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。

Wikipedia纏足

孫引きになってしまうが、以下のような話もある。

当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑言葉を口にする。母親なかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間非難あびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである

ユン=チアン(張戒)/土屋京子訳『ワイルド・スワン』上 1993 講談社刊 p.19-20

http://www.y-history.net/appendix/wh1303-082.html

この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。

そして子供とき纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。

  

さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。

纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」

http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html

西洋女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。

これはまさしく、現代日本女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしま自家撞着するのと同じ心理だ。

ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性主体性尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。

無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足コルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別過酷ものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。

から我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしま女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである

なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。

この理論適用すれば、女がオシャレをする自由是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。

  

終わりに

twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。

リベラリズム本質的価値-自由平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。

スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より

https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995

前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。

しかし私は、どちらかと言えば多分「ラディカルな左派」寄りの立場から、まじめに女性差別撤廃せよと主張したつもりである

ジジェク言葉どおり、リベラルはここからの援護を受けなければ、その遺産を存続させることさえできないであろう。

2017-05-14

[] 博多とおりもん

博多通りもん(はかたとおりもん)は、福岡県福岡市博多区所在する株式会社明月堂製造している土産菓子である

1993年平成5年3月8日から販売されており、福岡県代表名菓である

  

白餡の中に練乳・バター使用した、和洋折衷饅頭ミルク香りが優しい皮に白餡が包まれている。

  

毎年5月3日・4日に行われる福岡博多名物お祭り博多どんたく」。明治時代流行語でもあったオランダ語休日

ゾンターク[Zondag]」がなまって「どんたく」という博多弁になりました。どんたくは”西洋休日”として親しまれ、

面白楽しく練り歩く人々で博多の街は大にぎわい! このどんたくをしている姿、すなわちどんたく衣装に身を包み、三味線を弾き、

笛や太鼓を鳴らして練り歩く姿・形を博多弁で「通りもん(とおりもん)」と言います

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%82%82%E3%82%93

http://www.meigetsudo.co.jp/menubook/menubooks/view/1

2017-05-06

[] 打吹公園だんご

打吹公園だんご(うつぶきこうえんだんご)は鳥取県銘菓

白餡、小豆餡、抹茶餡の三種の餡で包まれた餅を串に刺したものである一見、「坊っちゃん団子」に似ているが味は全く違う。

明治時代より作られている餅菓子で、倉吉市幸町本店を構える石谷精華堂(いしたにせいかどう)が製造販売している。

地元では「公園だんご」の名で親しまれている。

また、石谷精華堂のウェブサイトには倉吉出身の元横綱琴櫻もその味を故郷の味として好んでいたことが掲載されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%90%B9%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%A0%E3%82%93%E3%81%94

憲法改正賛成

9条2項を削除すべき

日本軍隊を持ちアメリカには引っ込んでもらう

中国北朝鮮の脅しにも屈しない

強い国にならないと話し合いもできない

明治時代富国強兵をしたのはアメリカとの不平等条約をやめさせるためだったことは歴史の授業でならったろ?

綺麗事では行きていけないか憲法改正して軍隊を持つ

 

21条2項の通信の秘密日本国内にいる外国スパイを守るための条項だ。

反対する連中はスパイとつるんで甘い汁を吸っている奴らだ。21条2項改正に反対するかどうかで正体がわかる。

 

http://anond.hatelabo.jp/20170505212612

2017-04-26

http://anond.hatelabo.jp/20170426120155

カンヅメについては明治時代に作られたやつをこの間開けて食べたみたいな話があったか大丈夫

2017-03-16

薩長土肥の落ちぶれっぷり

有能な人材東京に流れた薩長土肥の落ちぶれっぷりは異常。鹿児島を除けば県庁所在地でさえ寂れてて悲しくなる。

明治時代の初期から東京一極集中はすでに始まっていたのだなあ

2017-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20170313092932

ほんとこれなんだよね。

関西に住んでいた人に、「埼玉古墳あるから」といっても響くわけがない

奈良は「なんかしらんけど、裏山が古墳です」みたいな土地だし

石舞台古墳百舌鳥古墳群あたりの有名どころが日常にあった人に対して、

関東古墳提案されても「へーじゃあ足を延ばして見に行こうか」なんて思う人は

よほどの古墳好きだし、そういう人はすでに行ってるだろう。

美術館博物館薦める人も多いけど、

確かに価値ある展覧会東京しか見れないものも多いので、私も上京した当初は楽しみにしていたが、

人気館は、土日は死ぬほど並んで、やっと入れたら大混雑、立ち止まってじっくり見ることすら許されない。

ベルトコンベア状態の観覧なんか落着けないので行かなくなった。

増田が言いたいのは本人も書いているけど、「特別凄いものがあるわけでもないところに人だけが凄い」ところで

場所にしてもイベントにしてもお店にしても食べ物にしても、実は大したことがないものを「これは凄い!」と煽って大行列になるのって

東京あるある」なんじゃないかと思う。

じゃあ何がおすすめできるかというと、

もし増田寺社仏像が好きなんだったら、関東では期待に応えられないから諦めろ。と言うしかない。

興福寺阿修羅像程度であんなに行列ができるのが東京なのだ

ただ、東京のお神輿が出てくるお祭りは、江戸っ子って感じで関西では味わえない魅力があるし

伯爵侯爵が住んでいた西洋建築物赤坂迎賓館(事前申込制だが)などの明治時代建築物庭園お勧めできる。

西洋建築物はかつて神戸にも多くあったが、阪神大震災で壊れたものが多いので、

日本橋三越でも私は充分わくわくできる。

2017-03-11

http://anond.hatelabo.jp/20170310114512

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170310114512ブコメが地味に誤解が混ざってるので細かく正していこう

フィリピン悪口はやめなさい。

フィリピン資源もの凄く豊かだよ!かつては東南アジア最大の鉱産国だったほどだよ!

今は政情不安のために産出量がガタ落ちだけどね

イギリスの例もあるよ

イギリスという、いろんな意味でとんでもねー国

イギリス産業革命を牽引したのは自国で獲れる石炭である鉄鉱石もボチボチとれていた(質はよくない)

ブコメ日本結構資源はとれていたよという例があがってるが、銅も輸出していたことがあるのがあがってないな。江戸時代オランダ相手の輸出品は最初は銀でしばらくすると銀の輸出はされなくなったというあたりは皆歴史で習うだろうが、その後に輸出されるようになったのは銅であった。

足尾銅山鉱毒事件で有名だが、その生産規模まではあまり教えられていないようだ。

いい資料があるので転載する

http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_244/yj24428.pdf

明治 10 年(1877 年)の年間生産量 はわずかに 47 トンだったが、10 年後には3千ト ンを超え、その5年後にはさらに倍増する勢いで あった。 生産した銅はほとんどが輸出に回された。

そのため明治時代の日 本は、現在のような「資源小国」ではなく、銅の 世界市場で5%を占める「資源大国」だったのだ。

銅は生糸絹製品に次ぐ第二の輸出品の位置を 占めていた。日清戦争(1894 年8月〜 1895 年3 月)、日露戦争(1904 年2月〜 1905 年9月)の 装備は、銅輸出の収入によって整えたという。

足尾の他には別子、日立などの大銅山があった。

正直おじさんぐらいの年の人間にとっては「○○鉱山が閉山しました」というニュースをしばしば聞いていたものから日本資源がないというのが非常に違和感があるのである

日本にない資源といったらボーキサイトぐらいである。

アメリカボーキサイトもとれる(※今はとってない)し石油天然ガスもとれるんだよ。ズルいよな!

2017-02-04

心の底から本当におすすめしない3DS微妙ゲーム

ホットエントリを見てると「本当にオススメする3DSゲーム10選」みたいなタイトル記事をよく見る。見始めの方は楽しく読んでたけど、オススメできる良作なんて有名どころしかないし、そもそも絶対数も少ないから、どうしてもマンネリ感がある。そして、ちょっと前に増田記事であったけど、あの手のランキング記事ゲームを紹介して、アフィでそのゲームを買ってもらうことを目的としている場合が多いから、どうしても買ってもらうために面白いゲームしか紹介しない。

でもね、ゲームって、良作ばかりじゃないし、かと言ってクソゲーばかりでもない。

どうにもこうにも、多少は面白いけど、う~ん……と思ってしまうような微妙ゲームのほうが圧倒的に多いハズ。そして、微妙さ故に話題にもならないし、クソゲーみたいに突き抜けてもいないかネタにもされない。紹介したって、買って貰えるはずもないから、前述のアフィ目的記事で紹介されるわけない。

前置きが長くなったが、ないなら書いてしまえ、というわけで、この増田が今まで遊んだ3DSゲームの中で、微妙ゲームを紹介する。

あくまでも、良作でもないし、クソゲーでもない、そんな語るに困る微妙ポジションゲームについて、さあ語ろう。




超速変形ジャイロゼッター アルバロスの翼

2012~13年にスクエニメディアミックスを仕掛けていたコンテンツ超速変形ジャイロゼッター』の3DS版。同名のアーケードゲームもあるけど、そちらとはロボットに変形した車で戦うという内容は同じだけど、こっちはRPGアニメの40年後の世界舞台になっている。

車が題材のゲームなので移動は全て車になっているという変わり種で、ポケモンのノリでジャイロゼッターを集めながら、世界を滅ぼそうとする敵を倒すというまあそんな感じ。アニメの40年後が舞台なので、アニメを知っていると色々感慨深いシーンも多い。とくにエンディングアニメと同じ内容かつ、アニメ第一話につながる内容になっているので、アニメを知ってれば、「おっ!」となる。

でもアニメを知らなきゃ、移動が全て車の変なRPGだし、中盤以降のゲームバランスも何かおかしいし、そのくせガイドが妙に丁寧だったり……。ジャイロゼッターに関心のある人なら、とっくに購入済みだろうし、そうでない人なら何とも微妙に反応に困るRPGパッケージの時点でアニメイラストなので、知らない人ならまず買わないだろうけどね。


大逆転裁判 成歩堂龍之介冒険

逆転裁判シリーズの番外編。明治時代日本イギリス舞台で、時代故に指紋判定などの科学捜査ができない状態での裁判となっていて、メインシリーズとは趣がぜんぜん違う。とはいえ、基本的犯人扱いされてピンチ状態の依頼人を逆転につぐ逆転で、勝利をもぎ取るという基本スタンスは全く同じ。

で、ここで紹介しているということは、このゲーム、つまらんとは言わんけど、面白くない。

捜査パート裁判パートにおいてメリハリがなく、終始グダグダした進行が進み、とにかく長い。そのくせ話の核心にはあまり触れられずに、話が終わるエピソードが2本もある。続編が発表されたとは言え、ラストのぶん投げた感じの締め方は本当に酷い。続編が出たら、評価は多少は変わるかもしれないけど、それでも終始グダグダした空気が流れてる裁判ちょっとね。もうちょっと何とかならんのか。

逆転裁判の番外編では、レイトン教授とのコラボもあるけど、そっちは本編ほどではないけど、結構面白いよ。


【Farming Simulator 3D ポケット農園

Farming Simulatorシリーズ3DS版。VITA版やPS4版もある。

農場運営するゲームだけど、うん、地味。淡々トラクターで畑を耕し、淡々と種を巻き、淡々と刈り取って収穫し……を淡々と続けるゲームシリーズが何本も出てるし、ハマる人にはハマるゲームなんだろう。

でもあまりにも淡々とした内容には結構面食らった。一昔前の洋ゲーみたいに、説明が乏しくやたらと不親切だったり、挙動が妙にリアル(だそうだけど、実際のトラクターに乗ったことはないかわからん)だったり。そのおかげで慣れるまで操作しづらい。

こんな淡々としたゲームからか、公式サイトはやたらハッチャケた内容になっているから、そっちはオススメサイトを見て、どんなものかこのゲームを買ったんだけど、本当に地味で淡々としたゲームでねえ。どうせならグラのいい、PS4版の方が良かったかも。


鉄道にっぽん!路線たび 叡山電鉄編】

細々とリリースされているトレインシュミレーターの1本。

いたこともないような地方ローカル鉄道ばっかりで、どこに需要があるのかサッパリからなく、そういう意味でも微妙ソフト自分の中ではまだ知名度のある「叡山電鉄」がテーマになっているソフトがあったので、とりあえず購入。

基本的には『電車でGO!』とほぼ同じ。ただ、予算がそれほどないのか、それとも時代の流れからなのか、運転から見える風景実写映像が流れる。そして、車内放送が妙のリアルというか、たぶんこれ実際の音声をそのまま流しているような気がする。

まあ興味のある鉄道舞台なら、買ってもいいんじゃないの。現在出てるのは、叡山電鉄の他に長良川鉄道鹿島臨海鉄道近江鉄道ゆいレール上方電気鉄道会津鉄道大井川鐵道の7本。


アイカツ! 2人のMy Princess!】

アイカツ人気絶頂時に発売された3DSアイカツ

アイカツっぽい何かだった前作とは違い、アーケード版を一応再現したようになっているけど、キャラが無表情、リズムゲームの判定がやたら厳しい、キーの割り当てがおかしい、という中々頭を抱える出来。遊べる曲を増やすには特定のコーデは必要だけど、そのコーデを作るためにはミニゲームを延々とやって材料を集める必要があるってのも、けっこう面倒な感じだった。

はいえ、アーケード版っぽいアイカツが家で遊べるのは良かった。人気絶頂時に頑張って出してきたのは良かったと思う。

最終作の『My No.1 Stage!』はアーケード版をほぼ完全に再現した内容になっているから、今『2人のMy Princess!』をわざわざ遊ぶ理由はとくにないかな。でも人気絶頂時に発売されたこれと、最終作では売上が1/5くらいにまで激減しているのは物凄く悲しい。

キャラパスワード解禁だったから、新主人公「大空あかり」が早々にネタバレされていたりする。

2017-01-31

「昔の日本人は…」っていう奴見ると同情してしまうよな

ネットコメントでも普通に会話しててもそうなんだけどさ。

「昔の日本人」って言う奴、本当に無知なんだなって、可哀そうになるよな。

いや、軽い意味でつかってんならいいんだ。

問題は、「昔の日本人は~だったのに今は…」って、昔の日本は偉大だったんだぞ!って言う奴。

「昔」っていつのこと?明治江戸時代戦国時代?それに、その「昔の日本人」って誰のこと?武士?僧?紫式部

記録に残ってたり教科書に載ってる人物なんてその時代でも珍しいくらい偉大だったり上流階級だったりするから俺らと比べたら失礼じゃね。

教科書庶民の考え方とか生き方とか載ることってめったにないべ。俺は飢饉で人喰ってる庶民しか思いつかねえぞ。あと、米くれーって言ってるのとか。

そもそも、明治時代より前って「日本人」って言う考え方って国内にはわずかだったし。庶民長州人とか、陸奥の者とか、それくらいの認識だったし。

から「昔の日本人は…」っていう奴見ると、「ばーかばーか!何も知らねえでんの~wwww」ってのと「ああ、本当に何も知らないんだべな」って可哀そうだ。

本人は本気で言ってるんだろうなあ。「昔の日本人は思いやりがあった」「昔の日本人美人だった」って。

きっとそういう風に現実逃避しなきゃいけないくらいつらい毎日を送ってるんだろうなあ。可哀そうになあ。

2017-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20170111154019

男色って江戸時代もなかったっけ?

というか明治時代も(武士じゃないけど)あったわけだが…

2016-12-12

http://anond.hatelabo.jp/20161212104657

wikiより

明治時代に入り、1885年明治18年)に当時の文部森有礼によって儒教的道徳教育規制する命令が出された。だが、元田永孚宮中保守的漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励された。

こいつらだわ、諸悪の権現

森有礼英語国語政策も出してたし、こいつが生きてたらいろいろ変わってただろうな。

2016-12-10

[]僕の考えた雑誌の連載陣

永野護「肉肉野菜のローテーション」

川村万梨阿の作った夕飯のメニュークタクタ文句をつけるエッセイ漫画

富野ホームパーティーに呼ぶなどの著名人が出るときカラー

小林立「おもちをおもちかえり」

一話完結百合

決まったキャラクタは登場しないものの、最終的に女の子女の子のおもちをお持ち帰りするオチが恒例。

葦原大介今日の一戦」

最近遊んだ対人戦ゲームで印象的だった試合漫画レポートする、実録系漫画

全員へちゃ顔で描かれる可愛い感じの絵柄。

オーバーウォッチの回は読者人気が高い。

木多康昭るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」

明治時代初期の日本舞台ストーリー自体オリジナルのものだが、赤報隊新選組明治11年(1878年5月14日に起きた大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)など、史実実在人物物語に絡ませている。

長谷川裕一アイドルマスターシンデレラガール『御伽公演ふれあい狼と小さな赤ずきんちゃん』」

よしのんが積極的に愛海に迫るアレンジがされます

城平京暁月あきら「たがめボール

最初から最後まで主人公が台所で作業しながら何かを考えるだけの哲学的漫画

台所で作業しつつ、何か思いに耽るシーンがよくある、と勝手に思い込んでたけど、よくよく考えるとそうでもない気がしてきた。

玄鉄絢ポケットモンスター サン・ムーン

レズセックスする類のエッチ漫画

安達洋介「遊戯王GX2」

遊戯王GXの続編。

M・HERO新規がたくさん出る。

具体的に言うと、水属性次元障壁内蔵M・HEROとか、風属性デッキから好きなHEROSSして墓地からチェンジを回収するM・HEROとかが出る。

いやうん、先行制圧はいいんだよぶっちゃけ、ダークロウいるし、盤面を返したいよねえ、こう、下級でドランシアの効果が効かなくて殴れて、相手の伏せを割って、ダークロウチェンジできる、便利な下級が欲しいなあ。

祥人/入間人間安達としまむら

原作無視して性器をいじり合ったりします。

戸ヶ崎葎「カープ観戦記

広島東洋カープ観戦記

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