はてなキーワード: 明治時代とは
「~であるのが普通!そうでないやつはトンデモ!」みたいに扱う人の多い社会だけど、
じゃあその「普通」の基準を義務教育で教えろよと。明治時代の大卒初任給を物価の比較のために社会や家庭科の時間で教えてる暇があったら、今の大卒初任給平均とかを教えるべきだろ。義務教育で教えられてる「普通」「平均」「正常」に当たるものなんてせいぜい法律違反しないようにぐらいのものだった気がするんだが。
こっちも遅くとも中学生までに、こういうふうに「普通」でないといけませんよ、と教えられてたらもっとそれに向かって努力してたと思うんだけどなあと。
あ、平均身長とかいう知っても努力のしようがない要素についてはなぜかかえって知ることができたけど。
あと、他の地域や社会階層じゃ普通のことを、この学校では異質だから、社会一般でも異常なんだみたいな風潮が学校にあったとしたら、それは教師が積極的に違うと生徒児童に諭すよう努力するべきだと思う。その風潮や教師の発言を真に受けて「普通」でない方向にわざわざ努力してしまった生徒が社会へ出てどれ位苦労するかって話か考えてくれよと。
連中がやってるのは自分が気に入らない表現をただ叩いているだけでそこに正義などありはしない。なのに社会一般から見てこれは公共の場で許されない表現! などと理屈として成立しないこじつけをしながら叩くから反発が大きくなる。
ただ単にお前が気に入らない表現というだけだろ。なぜ素直にそう言えない?
もちろん理由は単純。理屈をつけないと広く支持を集められないと思い込んでるからだ。ただのこじつけにすぎないから支持など元より集められないのに近視眼的になっているからそんなことも理解できず理屈にならない理屈をこねる。
萌え絵化された駅乃みちかを一般人が見てヨガり顔だと思うだろうか。ブレザーを着てるにもかかわらずおっぱいがデカいと思うだろうか。スカートが透けてると思うだろうか。
答えは何とも思わない。
そう読み解く目がないし、そもそもそんな細かいところまで見ていない。
なのに一部クレーマーがメトロに凸って表現を変えさせる。自分が気に入らないことを公共ふさわしくないと言い換えて。
1950年代には悪書追放運動が沸き起こり、マンガが叩かれた。
一部クレーマーは自分の理解できないもの、嫌いなものを社会のためと言いながら徹底的に攻撃する。そこにはあるのは自分が嫌悪するものを社会から消し去りたいという下卑た欲望だ。
叩くことそのものが目的だから「美おっぱいグランプリ」を擁護しながら駅乃みちかを叩くという無理筋なことさえしてしまう。
クレーマーは「美おっぱいグランプリ」が「女性目線」だからセーフという。おっぱい=エロへの批判だからセーフという。女体に関して、女が自ら主導権を握っていればセーフという。
ではなぜ主催者は新聞社を集めて撮影会などしたのか。写真が表に出れば男性視線を向けられることは避けられない。女性が女性のために自らのおっぱいを誇るだけであれば報道も写真もいらないだろう。むしろ報道によって写真が表に出ればそういったコンテクストは失われ、おっぱいは性消費物に堕する、と思うのだがそういった批判はフェミニストからなぜか聞こえてこない。むしろ駅乃みちかがダメな理由として引き合いに出される始末だ。
「美おっぱいグランプリ」をエロ目線で見る男が悪いということか?
「美おっぱいグランプリ」がニュースサイトで報じられることは男性に対するセクハラだと考えたことはないのか?
あるいは「Fカップにマギーが思わずおさわり 」という見出しになぜ怒らないのか。これは純然たるセクハラではないのか?
しかしフェミニストは駅乃みちかを叩いて「美おっぱいグランプリ」にまつわるエトセトラは叩かない。
そこにあるのはけっきょく女性の尊厳を守りたいといったことではなくただの萌えフォビアである。
となどと
3次元の水着女性のグラビアに欲情するのは、普通のスケべな性欲だと思うけど、
萌え絵はオタクの欲望に応じて、オタクの理想通りに作り上げられた、非現実の女性だから。
オタク差別ではありません。
国語という科目がよくわかってない。
「国語」の授業は単純に「日本語」の授業だけではないことは明らかだし、「国学」とも違う。
内田樹のいう国語力とは、ethicsなのか、japaneseなのか、rhetoricなのか。
明治時代に国語という科目を作ったとき、なにを目的にどういう設計をして作ったカリキュラムなのか気になる。
推論だけど、自由七学芸のうちの修辞学、論理学、文法を輸入して、まとめて1つの科目にしたんじゃないなかと思う。
修辞学のうち、弁論術が大きく省かれて、文章においての修辞だけに特化したのは、それまでの儒学教育からの流れか。
(引用)
崩御、即、改元ではないとしたら、象徴天皇制であっても明治時代以来の転換となりますので、これまでのあり方が大きく変わることになります。政府にも国民にもそれなりの自覚が求められますが、果たしてどこまで考察が深まるだろうか。
追記 拙著「東条英機処刑の日」(文春文庫版)の宣伝と思われるのがいやだったので書きませんでしたが、皇太子時代の、15歳の誕生日に戦犯が処刑されたのはGHQが仕組んだ導火線でした。天皇誕生日ごとに休日となりあの戦争を思い出す仕掛けです。しかし昭和天皇が長寿ですっかり忘れられてしまいましたが、今上天皇陛下はひとときも忘れずアジアや沖縄など戦争の被災地を訪問し続けたのです。
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明治以降の転換なのでこれまでのあり方と大きく変わる
6200形は、1897年(明治30年)および1900年(明治33年)に、イギリスのニールソン(ネルソン)社
(Neilson & Co., Hyde Park Locomotive Works) で製造され、官設鉄道が輸入したテンダー式蒸気機関車である。
他社製の同形機をあわせて1909年(明治42年)までに135両が輸入された、明治時代後期を代表する旅客列車用テンダー機関車の
江戸時代の日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府と諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。
などといった問題に対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度は
というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で
といった状態で、日本は近代的金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本は国立銀行への転換が進んでいった。
しかし殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題に対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。
結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式の中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。
このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦→関東大震災 に突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後の景気後退に震災によって銀行には不良債権が蓄積された。
上記のように各地に雑多に存在する金融資本は江戸時代のそれを引きずっていたため近代的銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。
その状態でさらに 1929 年 10 月 24 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。
かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場は大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義は継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。
こうした集権的かつ計画的な経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉は吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想と国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後の日本の内政を主導した。
全然関係ない話だが、社会主義、国家主義、反自由主義という思想セットは革新官僚のリーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。
戦後岸が政界に進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義は廃止され、戦後の資金流通の円滑化のために戦後地銀がいくらか設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。
このような情勢のなかで、戦後日本の金融当局==大蔵省は銀行に対して
を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。
これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合と兵庫銀行が倒産するに至った。
また長らくの護送船団によって日本の金融システムの陳腐化は著しく国際社会において東京が金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。
これらの問題に対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由なサービスや投資を行えるようになった。
ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣はバブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。
そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化、金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行、山一證券が破綻、翌 98 年には橋本内閣は総辞職、現在まで続く長い長い不景気が始まった。
しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行の経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行は合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。
結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的な理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己の立場の防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか。
そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer や技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。
僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほの現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。
学校でインフレとかデフレとか習う。ちょっとそれと同じように考えていいのかわからないので教えてほしい。
明治時代から「円」って使用されているけど、段々貨幣価値が下がっていっているよね。
昔は1円って大金だった(明治時代のある時期で、今の2万円とか3万円したという)けど、今は1円はまさに1円の価値だ。ほとんど何も買えない。
ほかにも昭和の時代から自動販売機のジュースやコーヒーの値段が上昇し続けている。銭湯の値段もそうだしカレーライス一杯の値段もそう。
なんでも値段が上昇し続けている。これは貨幣の価値が下がっているってことでいいよね?
金本位制から管理通貨制度にシフトし、さらにヴァーチャルな貨幣が用いられていく中で貨幣の価値が相対的に下がっていくって話はわかるんだが、そういう大きなシステムの変動がない時代もじわりじわりと貨幣価値が下がって(モノの値段があがって)いっていないか?
私は今年で30歳になるけど、私の子供のころから比べてもモノの値段はあがっている。デフレだとかなんだとか騒いでいた時代をまたいだにも拘わらずだ。
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kaiken-genjitsu
壇上のいちばん右に「日本の歴史・文化・伝統の香り高い憲法をつくろう」と書かれていることで、もうお里が知れているようなものだ。彼らが言う「日本の伝統」とは、たかだか100年ちょっと前の明治時代を指しているにすぎない。
実際、渡部昇一は「基本は明治憲法にかえること」と言って、その意図を隠していない。しかしそんな短期間(それも欧米列強に追いつこうと蒼白になっていた一時代)を取り戻そうなんて、イヤなこったというしかない。
彼らにとって明治時代が「日本」であって欲しい理由は、それがオッサンたちが大いばりできた時代であったからであり、さらに言えばお国のために有用な人材になれと励ましてくれた母親へのノスタルジーだ(偉大なるマザコン評論家・江藤淳のイデオロギーを信じ込んでいる人もいる)。
自民党の改憲PR誌に「この70年で女性の地位は向上した。でも個人の自由が強調されすぎて…」と書かれているように、改憲=オッサンの権力闘争という側面は否定できないだろう。
本当に「日本の歴史・文化・伝統」を学んだうえで言うのであれば、周りを海に囲まれた地理的条件を踏まえ、海外からの「舶来物」を換骨奪胎して取り込む融通無碍な日本を、その本来的な姿と考えるべきではないのか。
そういう節操のなさを日本の本質だと考えれば、アメリカから押し付けられた憲法をいつの間にか自分の都合のいいように玉虫色に解釈して使っている現状こそ、日本のお家芸を披露しているようなものだろう。
もしこの部分の矛盾を放置するのが難しいとしても、基本コンセプトとして「明治にかえれ」は戦略的にもお粗末だ。明治とはモーレツ社員以外を排除して成立したブラック企業であり、社畜の天国である。それは現代日本にも脈々と引き継がれているが、いずれ超克すべきものだ。
江戸以前に遡れば、混浴だの男色だのが謳歌されていた伝統が日本にはあり、LGBTどころの騒ぎではない多様なアジア的世界が展開されていた。そういう歴史や文化を学んだ上で、「伝統」という言葉を使ってもらいたいものだ。
草で腐すことを覚えたのがいつだったかは覚えてないが、それでも草を生やさずにいられなかった。
ソメイヨシノの季節が一週間経たずに終わって、まだ里桜や八重桜が残っていたけれど、なんか物足りないなぁとググること五分、サクラソウの存在を知ったのが一週間前。
震災を機に、俺のような底辺でも移り住めるほど家賃がだだ下がりしたTDLのお膝元の浦安からサクラソウの自生地がある荒川の辺りまで40km、行けるじゃん、行こうぜと脳内麻薬をドバドバ出しながら歩ききったのが二時過ぎ。待ち受けていたのは草っ原だった。
欄干から下を見下ろした時、何となく爽やかな緑色だなぁという予感はあった。荒川が日本に誇るスーパー堤防は、それが守る川からして明治時代に作られた放水路という徹底管理された人工緑地だが、遠目には美しい。だが、近寄ってみれば羽虫が湧き湧きしているやはり近寄りたくない所だ。足立区付近だとブルーシートも点々と湧き湧きしていて、北区との格差を考えてしまう。
爽やかな風に運ばれる虫にいい加減に疲れていた俺は緑と青以外の色に焦がれていたわけだが、サクラソウ自生地は近寄ってみてもやっぱり一面の草だった。いや、よくよく見れば雑草の影になってピンク色の可憐な花が顔をのぞかせている。これがサクラソウか。だが、如何せん草だらけだ。
見学路に面して奥ゆかしく白い看板が所々に立っていた。サクラソウ、うむ。カントウタンポポ、西洋タンポポじゃないんだ。アリアケスミレ、咲いてないのが残念。ノウルシ、さっきからサクラソウを邪魔しているのはこいつかー。
よくよく見れば埼玉で絶滅第二種、国内で準絶滅種と書いてある。サクラソウも絶滅しかけている貴重な花とのことだったが、この目を凝らせないと分からないような黄色い花弁をつけたノウルシも貴重だった。さっき、疲れて自制心が落ちかけて手で退けようとしたのをすんでで止めて良かった。手が被れるところだった。
サクラソウの説明によれば、夏場は背の高いヨシがサクラソウを守るとのことだったが、つまり背の高いヨシが(光を防いで他の草の植生を妨げることで結果として)サクラソウを守るということだろう。違ってたらすまぬ。
要するに、いつもなら周りの草が生え揃う前にサクラソウが可憐な花を咲かせて、その後育成の遅いヨシが生えてきて日陰ネラーのサクラソウを守る、みたいなサイクルだったのが、暖冬だった今年、サクラソウより早く雑草っぽい貴重種が花と一緒に生い茂ってしまったわけだ。絶滅危惧種という植生ピラミッドの底辺がさらに底辺を虐げる。サクラソウ自生地という、定期的に通る武蔵野線と車道が雰囲気をぶち壊しにしていく都会だか田舎だか分からないような微妙さの中で行われる生存競争に、俺は日本社会の行く先を思わずにいられなかった。
サクラソウが虫媒花がどうか知らんが、俺が虫だったらよっぽど目立っていたタンポポに集まっていたと思う。実際綿帽子だらけだった。サクラソウを圧倒していたと思う。縁が白いシロバナタンポポにも久しぶりに出会えて、サクラソウより写真撮った。さすがタンポポ、美人より万人に受ける可愛さを選択した植生界の子持ちDQN。サクラソウ自生地をサクラソウ自治区だと思い込んで手を打たなかったら三十年後はタンポポしか生えてないんじゃないの?
こんなことなら、赤羽近くの土手に植えられた芝桜を麓からもっとちゃんと見ていたほうが良かったな。ニッコウキスゲを初めて見た時はカタログ詐欺じゃなかったんだが、つくづく難しい。
・旧石器~飛鳥時代
「とほほ」などを見てscriptタグにjsを直書きしている。ライブラリは使えない。全体の10%ぐらい。
( ´∀`) < ボタンをクリックしたらテキストの色が変わるようにしたwww。
ライブラリを使ってやりたいことがやれれば満足。プログラムはよくわからない。全体の50%ぐらい。
(,,゚Д゚) < jQueryが使えればそれでよくね?
>> プラグラマとデザイナの壁 <<
はやりのツールを使うことに優越感を感じている。プログラムをどう書くかにまで頭がまわらない。全体の30%ぐらい
( ・∀・)< React + Redux + react-router …
プログラミングそのものが好き。実務には興味がない(できない)。全体の9%ぐらい。
< `∀´> < async…いいよね…
・平成
仕様を決めている。ブラウザを実装している。頭おかしい。残りの1%。
(*゚ー゚) < 1010101011101101001110010101
JK1ですが愚痴っていいですか?
いやあ本当愚痴ですよ。
まずな、俺は処女だけどさ、
高校生がセックスしたら「おめでとう」ではなく「何だこのクソビッチ」とか「高校生の癖にふしだらだ」とか言うの止めていただけませんか。
こんな世の中で「若者さんよバンバン子供作ってね!(後は勝手にしろ)」とかよく言えるな。
まずはそこからだ。10代の出産に対しての風当たりが強すぎる。
最悪相手捕まるとかどういうこと。
あと児童ポルノ規制やめろ。高校生でも自分の意思でグラビア出たりとかしたいよ。俺がそう。
https://www.npa.go.jp/safetylife/syonen/no_cp/
>児童は、性的虐待や性的犯罪の被害を受けただけでなく、その姿が記録され、形として残されてしまいます。
>一旦流出すると、インターネットを通じて世界中に広がり、完全に消し去ることは困難となり、児童に消えることのない苦しみを与えます。
成人女性のAV女優とかでもこういう事例あるのに、児童を異常に特別扱いはおかしい。
>児童を性欲の対象としてとらえる風潮が助長され、児童一般を他の様々な犯罪に巻き込む危険性を高めます。
>児童ポルノは、幼児から中・高校生等の青少年まで幅広い年代が被害者となっていますが、特に、抵抗するすべを持たない小学生・未就学の低年齢児童の児童ポルノ、約5割が強姦・強制わいせつの手段によって製造されており、絶対に許されません。
性的虐待に限らず虐待するような親をただ糾弾するんじゃなくて受け皿作れって。
名付けについて、もう何度目かっていう議論が巻き起こっている。
いわゆる諱だったら大抵二文字で、家ごとに通字がある。源氏のある種の家系や松浦党は諱一文字で特例だ。通字は一種類のこともあれば、たまに二種類のこともある。三条家とかは二種類通字がある。諱が二文字になる以前の古代の話は省略するぞ。すまんな佐伯今毛人。
通名もある程度ルールが決まっている。江戸時代の百官名や東百官など。東百官って実はルールの逸脱なんだけど、それがルール化してしまっている。
要するに昔は名前の付き方にかなり厳格なルールがあったということ。
言い方は悪いが、キラキラネームを付ける人は教養がない人が多い(書いてて思うが、こんなこと増田じゃねーと書けないな)。
江戸時代の農民はまぁ教養はそんなにないだろう。キラキラネーム付けちゃうことはなかったのだろうか。
個人的には農民であってもある程度名前にルールがあったように思う。すなわちキラキラネームは付かない。なぜか。
彼らはほとんど名前について考える知識も素養も機会もなかったから、そこらにある名前をあまり考えずに適宜つけていたか、教養のあるお坊さんなんかに頼んだのではなかろうか。
明治時代になっても、何らかのルールはあったはずだ。次第に通名と諱の区別が無くなる。私の曽祖父の祖父は明治期茂三郎と名乗っており子孫も茂三郎じいさんと呼んでいたようだが、天保期の文書には茂三郎直俊とある。明治時代に諱を使用しなくなった世代なのだろう。あるいはこの世代の中には諱の方を名乗りに採用した人もあるだろう。とにかく、何となくルールは存続する。「~子」という、伝統的に見えてその歴史が結構浅い女子への名付けも、元は公家社会の女子名にルーツがある。要するにルールがある。
さていよいよ戦後だ。戦後の民主化。これが実はキラキラネームの直接的な引き金になっている。またその基礎部分には西洋文化の流入がある。この流入は明治維新前後から連続しているが、本格的に高度経済成長を迎えるところに画期があるように思う。服装に和服が消えるころ。このころに、名付けというか、名付け方への変化が起こる。
要するに民主化なのだ。個人個人が投票権を持つようになったのと同様に、個人個人が考えて名前を付けるようになったのだ。だからキラキラネームが続出する。とくにルールが意識されていた世代が亡くなったのち。江戸時代の農民と今のキラキラネームを付ける層(雑駁な分類だとはわかっているがあえてこうするぞ)。両者の違いは何か? それは「自分で考え行動する度合い」だ。選挙が本当にわかりやすい。江戸時代の人間は為政者を決めることはできないし決める必要もない。個人に人権が与えられ個人の権利がなんと国の根本法典にまで認められた現代では、個々人が自由に選択し思考することを全く妨げない。ここに両者の違いがある。知識のない人が自由に考えた結果どうなるか? 光宙が生まれるのだ。
これは必ずしも悪いものではない。知識や故実に詳しい人、少しでも馴染んでいる人はキラキラネームに顔をしかめることもあるだろう。しかしルールなき名付けこそが民主化の成熟とも言いうるのだ。だがここに民主化の問題点も浮き彫りになる。教養がなくてもやっていけるのだ。教養批判なんてそこらへんで見かける。確かに教養ってのは鼻につく存在で、自分がそれを知らないとバカにされたような気になって教養批判に走りがちだ。しかし、なんと、これが現代では許される。何故か。自由が憲法で保障されているから。江戸時代じゃ無理。武家社会でやってけない。今なら別に教養無くてもいい。あってもいいけど。ということで名づけのルールの消失は現代社会を占う一つの要素だ。私としてはこういう自分で考えなければならない時代だからこそ個人で努力し、考える力をこそもっとも重視して培わなければと思う。