はてなキーワード: 逃避行とは
後半の合唱が、美少女の声でもなく、デスメタ風のオッサン達の声でもなく、普通の人たちの声なんだよ……
なぜならエロゲは現実から逃避する手段として当時の人々が必死に作ったエスケープゾーンだから
そんな作品のオオトリでいきなり現実に引き戻すような合唱なんてありえない
でも天気の子は一般商業作品で大衆向けで作られてるからこういったガヤガヤとした歌でも違和感がない
エロゲという空の上に浮かぶ不思議な世界に囚われていた文化が地上へと帰還する物語なんだ
それでも個々人の心のなかにある大切な何かは生きていく
あれはね……エロゲがなければ首をつっていたかも知れないヲタク達に向けた卒業式だったんだよ
現実へと帰っていくヲタクを送り出す歌がグランド(雄大なる)エスケープ(放免)だったんだ
終わったんだぞって
COC7で現状ある程度読み込んでいて、回せるものになります。初回しまだなのもあるよ。
COC6のシナリオもいくつかありますが、こちらはminataによって7版へコンバートしてあります。
基本的にはステータス面と戦闘面あたりを弄っているくらいです。
ソロ・タイマンシナリオ→https://anond.hatelabo.jp/20201125114727
2人以上→https://anond.hatelabo.jp/20201125023249
探索者は夢を見る。どういった夢だったのかも思い出せず。
何かから追われ続け、やがて走り出す。
プレイ人数 | 2人固定 |
想定プレイ時間 | 2~3時間 |
形式 | クローズド |
ロスト率 | 高。 |
推奨技能 | なし |
舞台 | 宇宙 |
探索者について | 継続・新規問わず。 仲の良い二人であること。ロスト探索者もロスト経緯によっては特殊救済可能なので要相談。 |
生きる苦しみは、この世に生を受けると同時に背負うものである。
そしてこの苦しみは”死”以外で逃れることはできない。
もし、生きている内にこの苦しみから逃れることが出来たのであれば---
プレイ人数 | 2人固定 |
想定プレイ時間 | 1~2時間 |
形式 | 半シティ |
ロスト率 | 高。(理不尽ロスト有) |
推奨技能 | 目星、図書館 |
舞台 | 現代日本 |
探索者について | 高SAN値推奨。新規継続は問わないが、探索者同士は必ず初対面であること。 |
先日離婚してその機会を失ったんだが(厳密に言えば失ってはいないけど、一応両親が揃っていること前提に妊娠したいので)、離婚そのものに対してのダメージは全くないが、妊娠出産のいい機会を失ったことに対するショックと悲しみがとても大きい。
どれぐらい大きいかというと、嗚咽して吐いて不眠症になって自暴自棄になるぐらいでかい。
私は家庭を作ることに何か強い執着があるらしい。いたって普通の家庭に生まれて、地方だとやや裕福で、家族含め五体満足で、そりゃ嫁姑が仲悪いとかはあるけど概ね家族仲は良好。
比較的仲はいい方だと思うし、かと言って異常な仲の良さみたいなのもない。
だから、私個人が熱烈に自分の家庭を欲しているみたいで、兄弟はいるけど私ほど執着があるようには感じられない。
20歳を過ぎた頃から伴侶が欲しかった。20代半ば以降は子供が欲しくて仕方なくなった。
故意の避妊失敗をしようかと思った回数は1度や2度じゃない。(でも子供は極力望まれた状態で産まれてきて欲しいのでしなかった)
SNSで流れてくる、友人知人の子供達の写真を見ると、涙が出るぐらい愛おしいと思うと同時に、自分が妊娠出産して家族を作れないことが心臓が潰れそうなぐらい苦しい。
きっと幸せなことばかりじゃないなんてことはわかっているけど、もう自分ひとりのために生きていくのはうんざりだし、誰かのこと手放しで愛したい。自分だけの家庭が欲しい。
愛する伴侶と、そのひととの間にできた子供=家族がいたら、きっと生きるのも辛くないと思う。
(実際結婚してしばらくは、とても幸せだった。愛する伴侶のいる家庭は何ものにも変えがたい)
そういう意味だと、本来タイトルは「自分だけの家庭が欲しくてたまらない」なのだろうけど、生理的な願望として「妊娠出産したい」の方が強いし、もう自分の中では納税・勤労・教育・妊娠出産ぐらいの義務感まである。
もしかしたら逃避行動の一種なのかもしれないと書いてて思ってきた。
自分の人生から逃げたいから、家庭という新しい人生でリセットしたいのだろうか。
でももともと愛情深いほうだとは思うが、それも精神の弱さや依存心の現れなのだろうか。
若い時分はそんな傾向もあったけれど、最近は愛することに何か見返りを求めることはしなくなった。
勿論タイトルは釣りで、カフカは全世界に影響を与えたユダヤ人かつオーストリア(チェコ)人なわけですけど。
独文学というとカフカ、カフカというと独文学。そんな感じですよね、実際のところ独(語)文学においてはトーマス・マンとかゲーテとか他にも様々な著名な作家がいるわけですけれど、カフカはその研究テーマとしては比較的ポピュラーな御仁であります。ユダヤ人の家庭に生まれ、生地である現在のチェコ=プラハの言語に依らずドイツ語にて創作を目指したカフカの、ミステリアスな人間性はその作品群に対しても同様に、謎めいたベールを投げ掛けています。
カフカの文学をお読みになられたことはございますでしょうか。まあ僕もそれほど熱心な読者とは言えないかもしれないのですが、とりあえず『変身』・『城』・『審判』のほか幾つか著名な短編を読ませて頂きました。まあカフカの作品の特徴は、感情的な部分を敢えて抑制するところにあります。勿論十分に感傷的な部分を持った短編とかも散見されるのですが、基本的に、感情の伝達、あるいはその伝達の手段としての文学というものをカフカはあまり信頼していなかったのではないかとも思われるのです。というのは、基本的に作中人物達は様々な問題に取り囲まれていることが多いのですが、弱音を吐くことがあまりなく、ついでに言えば仮にその感情というものが滲み出るにしても、基本的にそれはレトリックや暗喩といった形によって示されるので、はっきりとした感情というものが作中に表れるということは稀なんですね。この辺に、カフカの抑制的な人格と、コミュニケーションそれ自体に対するカフカの立場というものが表れているように思われます。カフカは基本的にコミュニケーションというものを信用しておらず、また、コミュニケーションを通して自分自身の人生をくつろげるものに変える努力に関しても、冷ややかな見方をしてきたように思われるのです。
コミュニケーションという営みは人間と基本的に切り離せないもので、人間はそれを用いて自分の人生や他人の人生をコントロールしようとします。しかし、そのような一般的なコミュニケーションの立場と、カフカのコミュニケーションに対する立場は明らかに違うように思われます。とはいえ、カフカの立たされていた環境を考えれば、我々が用いるようなコミュニケーションのあり方と、カフカにおけるコミュニケーションのあり方との乖離は、さして驚くべきものではないでしょう。
つまり、カフカはユダヤ人でありかつオーストリア人でありかつチェコ人と呼べる極めて国家や国民性というアイデンティティが複雑に錯綜した人物であったからです。これはカフカ研究においては極めて一般的な基礎知識ですが、カフカは現在のチェコに当たる地域で生まれたにも関わらず、その日常においてはチェコの土着言語を用いずにドイツ語を用いました。また、当然のことながら創作においてもドイツ語を用いておりました。チェコで生まれながらにしてチェコ語を使うことを許されない――つまり、カフカは自身の持つ言語によってさえ一種の疎外を受けていたと言えるわけです。超基本です。
カフカにとってコミュニケーションとは――なかんづく、コミュニケーションを根本的に支える言語というものは――自身の人生をリラックスさせ、他者との間に健全なコミュニケーションを成立させる、我々における言語のあり方とは少しばかり違うものだったということです。カフカは生まれながらにして一種の異邦人であった、ということですね。この「異邦人」という記述はもはや陳腐な言い方なのでしょうが、しかしやはりこの視点はカフカを理解する上では切っても切れない重要な点となります。カフカはそのアイデンティティの複雑さ故に、生粋の異邦人でありましたし、そして彼が用いる言語やレトリックは基本的に、一種の生存戦略だったのです。要は、植民地支配を受けた国家の国民が土着言語を用いず宗主国の言語を用いるのに近い、生存戦略の一環として言語を用いる生活を送ることが、彼の人生においては定められていたのです。我々にとって言語と人格は複雑に結びつき、そして、自身の人格や感情を表す際に、極めて重要な役割を演じます。恐らく、この世界におけるほぼ100%近い人類が、言語に対してそれと同じ感覚を抱いていることでしょう。しかしカフカにおいてはそれは事実ではありません。
カフカの作品群において、カフカは言葉によって感情を語ることはありません。カフカが語る感情は、物語の構成に依存しているか、ないしは物語中における舞台装置によって、つまりは暗喩によってのみ語られることとなります。その、感情表現の大いなる欠落が、カフカの文章における特徴ですらあるのです。あるいは、それは仏教における「見立て」の感覚に近いかもしれません。つまりは、一種の擬似的な曼荼羅と言いましょうか、物事や物質をある特定の配置に並べ変えることで、何らかの物質を超えたメッセージを贈ろうとする試み。枯山水が現実の自然を表すように、カフカはある種の機械や道具立てによってのみ自身の感情を説明しようとし、翻って言うならば、カフカは直接的な表現によって感情を説明しようとなどしなかったのです。感情の欠落。
この「感情の欠落」が文学の特徴であることは明らかにカフカが作り上げた文学の一潮流と言えると思います。後年の作家であるトーマス・マンの文学においても、感情や内省と言うべき人間の心のあり方が、敢えて描かれない抑制的な文体の影を見ることができるように思われます。感情とはなんなのでしょうか? コミュニケーションや言語は、我々にとって慰めと言えるものなのでしょうか? カフカはそれに対して否と答えます。言語は、必ずしも我々に結びついていない。同時に、言語を基底として成り立っているコミュニケーションもまた、我々に属していない。我々は、根本的に言語によってコミュニケーションを取ることができない。
しかしそのコミュニケーションへの失望が結論ではないのです。何故ならカフカは、コミュニケーションに失望をしていてさえなお、小説をものしたのですから。
何故カフカは文学を書いたのでしょうか? 文学は自己表現である、という一般的な見方と、カフカの文学的なあり方には乖離があるように思えてなりません。カフカにおいては寧ろ、文学は自己から自己への感情の乖離です。いわば自己の自己に対する乖離そのものです。
そのような営みは、恐らくカフカの人間性に淀みを与えているようにさえ思えます。自己の自己に対する分離、乖離を通して、恐らく彼の感情も一部彼から乖離し、分離していたからです。そのような営みが、彼にとって一体何だったのか? それは我々には想像するほかありません。短絡的に考えれば、その営みは、その乖離と分離の営みは、単純な自己破壊的行為であったと断じれるかもしれません。自己から自己を分離し、乖離させることは、明らかに自己にとって好影響を及ぼす行為ではないからです。とは言え、彼の行為は本当にその自己破壊を目的にしていたのでしょうか? あるいは、世の人々が芸術家や小説家に対してしばしば言うように、彼は文学というものを用いて、彼の生命と生活の痕跡を世界に残そうとしたのでしょうか? それも、疑わしいと僕には思われます。つまり、カフカの文学はコミュニケーションに対する諦観なのですから。そこには、コミュニケーションや言語に対する深い諦めの影の姿を見て取るほかないのです。
結論から言えば、カフカが文章を書いていたのは、恐らく乖離を目的とした、逃避行動だったと言えるでしょう。そして同時に、彼は自己から自己を乖離させることによって、一般論的に自己省察を深めようとしたのでしょう。敢えて、自己から自己を分離させることによって、自己を省察可能な対象として対置する行為が、彼の文学の目的の一部だったと言えるでしょう。
このような記述は文学における一般論の範疇を出たものではなく、彼の人生や文学の目的は未だもって謎に包まれています。カフカに限らず、一部の文学者は、そして小説家は、コミュニケーションの媒体である文字や言語を用いながらに、コミュニケーションを諦めているのであり、つまりは何かを伝えようとしながらに、我々に対して何も伝えようとなどしていないのです。あるいは、最終的には彼らのような小説家の目的は、一言によって表せられるのかもしれません。
40になった.積み上がったタスクの山に気が遠くなり,何も結局手をつけられない,と言う日々が続いている.
何度目かの一念発起をして,ToDo リストを作り,ガントチャートを作って,やるべきタスクを整理して見たけど,1週間したら追いつかなくなった.
今,積み上がっているタスクを処理できれば,次のステージにいける,そうわかってはいるのだけど,どうしようもない.
ここに書いているのも愚痴を吐き出して楽になりたい,と言う逃避行動でもある.
自分に期待してくれた人もだいぶ離れていっているのを感じる.今の仕事が向いていないのだろうか,と思うことも多い.
いくつか,最低限守っていることはあるのだけど,それが守れなくなったら,心も折れてしまうのだろうなぁ.
https://anond.hatelabo.jp/20200715133957
最近、商業BLの良さっていうのは手短に完結することなんじゃないかという気がしてきた。基本的に続刊は出ない前提なのか、単行本一冊で終わるように全力で話を畳みにかかる。
私は漫画といえば終わりの一向に見えてこない連載漫画ばっかり読んできたので、ちゃんとオチがついて終わる漫画というだけで尊いと思ってしまう。えっ、もしかして、私の意識低すぎ?
とある地方の男子高校生カップルの一年間を1話につき大体4コマで描いた漫画。前回紹介した『オールドファッションカップケーキ』の作者のデビュー作。
4コマ漫画かぁ……萌えられるのかそれ? とちょっと不安だったんだが、読んでみたらとても良かった。シマもなつおも可愛い可愛い。何周も読めてしまう。なんなら一周目よりも二周目以降の方が萌えるかも。正月太りでもっちもちになってしまうなつおがことのほか可愛い。
高校受験と大学受験の間のちょうどいい時期をのびのびと過ごしながらも、将来のことを考えると辛くなってしまうシマが切ない。
ヤクザBL。ヘマをしてほとぼりの冷めるまで逃避行生活をすることになった若頭の片岡に、運転手として同行する小田島には片岡暗殺のミッションが課せられていた、という話。海沿いを町から町へと車で逃避行するロードムービーのような感じ。
ヤクザものといってもそんなに殺伐とはしていない。ヘマをやらかして逃亡生活中なのもあって、ヤクザらしいことはあんまりしないのである。行く先々での人情エピソード中心。
片岡が魅力的でいい男なのである。魅力的でいい男なのに、冒頭で唐突に小田島をレイプするのが物凄い謎行動だけど……。女には優しいのに何でだ。
江戸時代BL。確か時代は江戸後期で陰間茶屋ブームがとっくに去ってしまったくらいの頃の話。陰間上がりの百樹と元火消で笛吹きの卍が下町の長屋でイチャイチャな日常を送るさまを描いた漫画。主人公達が普通に月代・ちょんまげで果たして萌えられるのかと不安に思いつつ読んだら、とても良かった。
絵がすごくいい。1ページ1ページがアート。江戸時代の風俗をかなりマニアックに描いている。
お百と卍の仲睦まじさは見ていてほっこりする。あと卍のビジュアルがすごくいい……めちゃカッコいい……。
本作は三巻まで出版されている。
これまた江戸時代BL。こちらは寛永年間が舞台。リアル指向の『百と卍』とは逆に、本作は時代劇! って感じの時代劇。なのでメインカプは都合よく月代を回避しているのである。少年漫画と青年漫画の中間くらいやや少年漫画寄りの作風かな。
かつて凄腕の暗殺者として恐れられていた、現・剣術指南役の間宮刀爾郎の元に訪れた青年一馬。一馬は間宮に弟子入りを志願するが、間宮は弟子を取らない主義だと拒絶する。散々食い下がって下郎として間宮の元に置いてもらうことになった一馬だが、実はかつて間宮に殺された男の息子だった。父の仇討ちと家の名誉挽回の為に挑む一馬を間宮は受けて立つことに……。
ストーリー重視でしかも絵がすごく良い。背景もよく描き込まれていて凄い。非常によく出来た少年漫画といった趣きなのだが、BLなので普通に18禁ガチムチぶつかり稽古シーンは入ってくる。
こういうまとまりの良い少年漫画のようなものってそれ自体が希少だと思うので、腐女子でなくとも男同士の18禁ぶつかり稽古シーン平気な人は読んでみると良いかもしれない。
今日はサービス内容を全然理解していないまま、説明していたことに気づきました。
どういう場合に安くなるのか、どういう場合だと安くならないのかということに気づきました。
〇〇プランと〇〇プランだと容量が大きくなるがお得にならない場合があるとか、
インターネットと一緒だと必ずお得になるだとか、もっとサービスについて知りたいなと思わせてくれました。
今日は、サービスの内容についてとても細かく聞かれたので、サービスの内容を以前よりも覚えられたました。
消費税込みなのか云々も覚えられました。
やっぱり営業が向いているのかもしれません。
ただ、僕は1週間ちょっと逃避行します。ついでに実家に帰ります。
働けるって幸せですね。生きている、この体に魂が宿って動いているだけで、幸せなんだぞって言われている気がします。
統合失調症のせいで神の声や先祖の声が聞こえるようになってしまったので。
あまりにだらしない堕落した人間は、矯正、調教するために、その人間が救われるために、幻覚を見せてくれるみたいです。
薬物をやらずに薬物で薬物を押さえ込むという方法で幻覚を見えないようにします。
ただ生きている時で幸せなときはどういう時か考えると、仕事や勉強で疲れて眠っている時と、人とくだらない時間を喋っている時が一番幸せですね。
ただ、確認作業があまりにも苦手なので向いていない気がします。
僕は確認作業が向いていない分、嘘か真かをぺらぺらと際限なくしゃべれてしまう癖があるので、営業が向いていて、
だから、自分のお客さんは、人力大好きおじいちゃんおばあちゃんが向いているのかもしれません。
あと、人に与えたものって帰ってくるんですね。
神様はそういうシステムを構築した。僕はあまりに救えそうで救えない魂だったようです。
あとあまりにも人間的な原点からズレすぎると、おかしなものを見せてくれるみたいです。
今日のまとめですが、
〇〇プランと〇〇プランだと容量が大きくなるがお得にならない場合があるとか、
消費税込みなのか云々も覚えられました。
先日書いた記事に色々とコメント(トラバいうんか?)がついていてなかなか楽しかった。
娘のうんちパンツがキツイとかこんなに赤裸々と「イヤでたまらない」気分を吐露するのは新鮮だった。夫を憎むネット垢の人達の気持ちが何となく分かった。
「ガイの子供はガイ」という「普通」ではちょっと考えられない無神経炸裂なご指摘もあれば、「病院及び児相を試してみたら?」という建設的なご意見も頂いた。
精神医療にはもう既に7歳の息子を除き家族皆でお世話になっている。
私は昔から考えすぎる性分だったので子供の頃は人生に絶望していたし今でもちょっとしたことでイライラが昂じるので「うつ」だという自覚はある。薬は嫌いなので飲んではいないが、俗に言う心理療法に通っている。
娘は8歳から児童精神科のお世話になっている。投薬なしの遊戯セラピーでどんぐりの孤児院を作っているらしい。
旦那と二人でカップルセラピーも試した。「合う」人に中々巡り会えなくてセラピー難民になったが。
病院に行けば即問題解決するものではなく、行くことで問題と取り組む機会が与えられるくらいなので色々と試行錯誤している。
別に増田で問題解決を求めていたわけではなかったが、コメントで「とりま病院へ。。。」とか「どこかに預けてみたら。。。」というご意見がちらほらあったのは興味深い。
助けになりたい。
と思って頂けることはウザいと同時に有り難いものだ。
「思春期女児を理解できない未熟な親」みたいなコメントもあったが、思春期もクソもない。娘のことは生まれた時から理解不可能だった。
「おっぱいがなければ生きていけない」オーラを出す孫娘を見て、私の母は羨ましそうに言った。「貴女はおっぱいが嫌いで口に含ませてもペッと吐き出されてがっかりした。」グラマラスな母や祖母とは違い、父の家系の女性に似て胸も尻もペラペラな私は「おっぱいでなかったらどうしよう。。。」と不安だったが、授乳は大きな問題もなくすんなりできたし、離乳も3歳を過ぎた頃には、「吸っても吸っても何もない。。。ぺっ」って感じで自主的に止めてくれた。徳川家康みたいに6歳まで吸われたらどうしよう。。。と思っていたのでホッとした。
おっぱいが嫌いな赤ん坊だったことは流石に覚えていないが、子供の頃から「生きるのだるすぎ。。。死んでみたい」くらいに思っていた私には、3歳くらいから夜になると死ぬのがコワイとシクシク泣く娘が理解できなかった。喘息がちで息をするのが「痛い」思いをした私は、6−7歳位から「いきすることがこんなにキツイなら死んだ方がラクだろう」と思い始めていた。
暗くなると心細くなるのか、「眠ったら死んでしまうかもしれない」とか「寝てる間に何か楽しいことを逃してしまうかもしれない」とゴネる娘は、とにかく風呂に入りたがらず、歯ブラシもパジャマもちゃっちゃとしてくれず、おねんねタイムがバトルだった。寝付きも悪かった。学校も小学校中学年くらいまでは朝ごはん、お着替えのバトルを繰り広げた挙げ句、家をでる直前になって「行きたくない」と玄関先ですったもんだすることもあって「詰んだな。。。」となることもしばしばあった。
学校で先生に死ぬのがコワイと言って、カウンセリングを推められたこともあり、児童精神科に相談した。良い先生にあたったので遊戯療法を始めてかれこれ4年目になる。友達と遊びたくても「行きたくない」とは言わないのでかなり楽しいのだろう。
パンツにうんすじも困ったが、幼い頃から家具に性器をこすりつける癖があった。3−4歳の頃、お泊りに行くほど仲良いお友達の家でもやっていたそうだ。一番最初に気づいたのは生後1年目くらいだったと思う。授乳が終わって娘を膝にのせてうとうとしてたら脚にまたがって「これは。。。?交尾されてるのか?」と思ったことがあった。
またまた比較してしまうが。。。息子は「泣くな」と言ったこともないのに、2−3歳くらいから歯ぎしりをして涙を堪えたり、爪を噛んだりもしていたし、お風呂の時にちんをいじることはあっても「交尾されてる?」と感じたことはない。
娘が2−3歳くらいから爪を噛み始めた時は、こんな赤子でも爪かむのか。。。?!とびっくりした。育ってからは貧乏ゆすりや爪を噛むところは見なくなったが、娘の足の爪は伸びても手の爪は切る必要がないくらい短かったのでああ、噛んでるんだろうな。と思った。学齢期には家で宿題をしてると椅子と交尾することが目立つようになったが、そのことで娘に嫌悪感を抱いたことはない。
というのも、私も物心ついた頃から保育園のお昼寝が苦手で、退屈を紛らわせる為にすまた方式の自慰行為をしていたからかもしれない。小学校に上がってからは家の外で自慰をしたことはないが、先生にヒステリックに怒鳴られた時には自慰衝動を感じた。真面目で気弱で優しそうな若い先生で第一印象は好きだったのでショックだった。
自分にそういう経験があったので、娘の自慰行為に対してもああ『こんなことやってられない』と絶望感を感じてるのだろうな。と思っていた。
幼い頃は旦那も私も何も言わなかったが、友達の家でやっていた、と聞いてからは椅子と交尾している時は「椅子がダメになるから止めて。」と言って止めるようにした。注意するようになってからも長いこと続いていたけどいつの間にか見ないようになった。
前記事の整体の先生の話は興味深い。というだけでだからどうだ。という話でもない。人恋しい気持ち、不安、絶望、憤りを自分で慰めるとという「自慰」という言葉はよくできてると思う。
自分が経験したことは「理解」可能なので「何でやねん」と嫌悪感や批判的な感情も抱かないですむので気分がラクだし、寄り添うこともできる。保育園のお昼寝は大嫌いだったが、夜は早く寝たかったし、思春期以降は寝るのが大好きで授業中でも机につっぷして寝てた。6時間睡眠な娘は理解できない。
娘は今でも寝付き悪いし寝言が多い。数日前には夜中に「足が痛い。」と叫んでいた。
学校の成績は中の中くらいで先生や友達とも問題なくやっている。コロナの遠隔授業も課題も自分一人でちゃんと予定表を作って頑張ってこなしていた。
コロナで友達に会えないことや、先が見えないことがキツいと愚痴をこぼすこともあるが、ラインやインスタでなりに楽しくやってるようだ。
ここ2−3年「全て面倒みてあげなければならない」切迫感がないのはラクだが、喧嘩ばかりしていることがキツい。
前の記事でも書いたが息子に意地悪な気持ちになるのは予測できた。男の子のことは理解できない。と思っていたからだ。女同士分かりあえるはずの娘に対してこんなに嫌悪感を感じるとは意外で「自分はこんなはずではなかったのに」感がキツイ。事更にうんちパンツがキツイと書いたが、うんちの扱いは布おむつで慣れているハズだ。前回の記事に汚くて不愉快だ。という感想を頂いたので尾籠な話が嫌いな人はここで止めて欲しいのだが、私は生理用ナプキンが苦手で布を使っている。どんなにサラサラを謳われてもカユイ感じがして嫌いだ。あんなものでお尻を包まれるのはイヤだと思って布にした。おむつの洗濯は苦ではなかった。
娘がパンツについたうんちをまるで存在しない物であるかのように「パンツを変える必要はない」と頑なに抵抗することや、臭いを指摘する私に怒りを顕にすることがキツかった。憎悪すべきはパンツについた臭いうんちなので、ちゃっちゃとうんちを排除できたら良いのだが。。。メッセンジャーの私が憎悪されるのは余りにも理不尽だ。
初潮がきたらどんなことになるのだろう。お赤飯なんて炊いたらめちゃくちゃ怒られそうだ。
私は娘に自分の体や体から出る汗や臭いを嫌悪するような女性になってほしくない。
だから胸がふくらんできた彼女に「ママも大きなおっぱいがよかった」と言ってる。
12歳にもなったのだから自分が汚したものは自分で洗って欲しいのだが、彼女にしてみたら「私はまだ子供なのに何故全部自分でやらなければならないのか」と絶望的になり憤りを感じるらしい。
コメントで娘に無力感が伺われる。と言った人が居た。どこの誰か知らないが、娘のことをよく分かっておられると感じた。
「ママと仲良くできないのが悲しい。」発言はどこから出たのか。。。とつらつら考えていたらその晩の、直前の出来事を思い出した。
弟が「ママとお姉ちゃんが一緒じゃないとしっこに行かない」と言うので何があったのか聞いたら姉ちゃんと二人でコワイ動画を観た。という。
「そんなもん観てコワくなるならネットを使うな」みたいなことをイラ立った声で言ったら
娘が明らかにムスっとして何も言わず、息子に携帯で動画を見せ始めた。
「なるほど。そうやってカワイイ動画観たらコワい気持ちもどっかに行っちゃうね。流石はお姉ちゃん、いい考え」
と褒めたら彼女はびっくりしていた。
「ネットを使うな」という私への反抗心丸出しの行動だったので、私が怒らなかったのが意外だったのだろう。
私としては「コワくてトイレに行けなくなるようなもんは見るな。」という意図での発言だったのだが「いらんでモノをまた見せてくれて。。。」とイラついていたし、娘はむっとしてたし「キーキー煩いぞ。」と、戦闘態勢に入りかけていた。息子が一人でトイレに行けるなら万々歳なので苛立ちがどっかに行った。問題解決できるカシコイ娘は嫌いじゃない。
そんなこともあったからか、今朝、開口一番娘が
「ママ変わったね。今週まだ一回も喧嘩してない。まだ水曜日だから先が長いけど。意地悪なことを言いたい気持ちを頑張って我慢してる。」
と言ってきた。黙って弟に動画を見せてた時、むすっとしていたけど何も言わなかったのは頑張ったってことだろうな。と思った。
私が変わったのではなく、変わったのは娘の方だと思うのだが。。。
そういえば旦那も先ごろ似たようなことを言っていた。
と言われた。
「私が変わったのではなく君が『メガネがない。家が汚いから何がどこにあるか分からない』と他責口調で怒鳴ることがなくなったから私も下らないことでイライラしないだけだ。」
と言ったら「僕は今までそんなに怒鳴ってばかりいたのか。。。」と悲しそうだった。
旦那が「怒鳴ってばかりいるので私もイライラする」と言っても「僕は怒鳴ってなんかない」という不毛な会話を繰り返し、私達の話を聞いてた子供に「パパ、いつも怒鳴ってるよ」と横入りされても「そうかなあ。そんなつもりはないのに。おかしいな。」とトボケたことを言っている人だったのに。
娘にも
「娘やパパがきーきー怒鳴らないからママもイライラしないだけ。」
と言いたかったけど、それでは角が立つと思って
とだけ言っておいた。
けど、今から考えるとご指摘にもあったように自分が無力であるという重さに耐えられず逃避行動に耽り、イライラや不安が昂じて感情的に爆発し他責する傾向を示す娘や旦那には
「君が私にムッとしても怒鳴らないで我慢したら私も意地悪な気持ちになっても怒鳴る様なことはしないよ。私が変わったのは、君が変わったからだよ。」
と言えばよかった。と思ってる。
既に見えてる風景でも他者の視線が入ることで見え方が変わった気がする。どこの誰かは知らないが、増田さん、ありがとう。
あと、ネットは好き勝手に何でも言える自由な場所ではあるが見ず知らずの相手に「気持ち悪い」とか「頭も心も悪い」とか「飯も時間通りに食わせられない母親に子供を育てる資格はない」とかいう無神経な暴言を吐くのは止めておけ。リアルでもどんどん自己規制心が緩んでキレ散らかす困った老人になって孤独な最期を迎える可能性を大きくするだけだと思うよ。
不躾な増田達には、どうしても暴言を吐きたいのならせめて何故自分がそう感じるに至ったのか自省し、言語化する努力を見せろ。と言いたい。
ということで、長々と書き綴ったが、気持ちの整理がとりあえずついたのでおしまい。
見ず知らずの増田達よ。私の気分悪いお話にお付き合い下さり、コメント書く時間も費やしてくれて、ありがとう。
またどこかで会う日まで。
就活生だったとき、急に思い立って高崎まで行ったことがあった。
どうしても胸の辺りがもやもやしていて、何かを頭で考える気にもなれなかった。高崎線の車内でひたすらぼーっと過ごしていたのだけは覚えている。駅についてからも特に観光名所に行くわけでもなく、売店で釜めしを買ってかきこんだ。
けれども、私にとっては、自分のことを知らない人ばかりの車内で体をシートに預けていたあの時間こそ、現実からの逃避行であった。
もし私が飛び込んだのが車内ではなく、線路だったら。そんなこともたまに考えたりする。
記憶とは厄介なもので、吸い込まれそうになる体をぐっと堪えたときの変な力の入れ方は、いまだに感触として覚えている。
勇気が持てなかっただけ。まあ、それでいい。
僕は逃げる人間だ。この話を綴るためには、まず懺悔しなければならない。僕は逃げる人間だ。卑怯者だ。その上で聞いて欲しい。
皆さんには、座右の銘ってありますか?僕はあんまりそういうの考えてこなかったし、なにぶんフラフラして生きてきたもんだから、座右の銘を考えようとしても、どれもいまいちしっくり来なかった。でもある時、ひとつ自分の中で、これはぴったりだってものが出てきた。「袖振り合うも多生の縁」。本来、どんな出会いも必ず意味があるのだから大切にしなくてはいけない、という意味だ。だが、僕の中ではそれを広げ、仮に不運なことがあっても、それにも必ず意味があるのだから、ポジディブになって、その場でできる限りのパフォーマンスをしよう、という別の意味も持っている。
この言葉は、少しずつ自分の考えを矯正していった。どうしてもネガティブになりがちな人間だから、何か悪いことがあったり、嫌なことがあっても、これにも必ず意味があるんだ、と思わせてくれる。先に進む勇気を与えてくれる。そういう道標だった。
だが、ふとある日気づいた。これって、自分の嫌なことから目を背けるための呪いの言葉なんじゃないか?失敗したことに背を向け、努力不足を正当化する。こんなに恐ろしい免罪符はあるだろうか。だが、それに気づいた僕は、その現実からすらも逃げた。いや、到底直視できなかった。僕の全てが瓦解してしまうような気がして。
今でも、僕はこの言葉を思い返すことがある。何なら、未だにこの言葉に縋っている事すらある。心の中では自分を責められるが、それを行動に移すことが怖すぎるのだ。そしてやがて、自分はどこまで逃げればいいんだろうかという別の恐怖が生まれてきた。この逃避行はどこまで続いているのだろうか。もう戻れない所まで来てしまった。一方通行の闇を走り抜けるしかない。
に陥っている。
推しが推しカプの受けになってしまったのは推しにガチ恋してしまった現実からの逃避行動だと思う。でも推しカプは尊い。奇跡の存在だと思う。幸せになって欲しい。心から願っている。
でも私は推しにガチ恋している。当たり前に同担拒否である。推しのオタクは全員消えればいいと思う。
ここで問題になってくる。
自ジャンルはあまり支部に載せる文化がないから必然的に活動場所はtwitterになる。twitterを追って、日々のオタクたちの妄想で心を潤し、新刊情報を得て、イベントに行って薄い本を買ったり、通販で薄い本を買ったりする。
そうすると、腐女子の絵描きさん文字書きさんのtwitterをどうしてもフォローすることになる。
ただ、私は同担拒否である。腐女子の7割くらいは多分受けのオタクである。知らんけど。まあ普通に受けのオタクが多い。
辛い。嫌だ。推しカプではなく推し単体に言及する神絵師たちを見たくない。反吐が出る。グッズ集めないでほしいし、推しに沸かないで欲しい。君たちは推しカプの妄想だけに励んでいただきたい。実際それでフォローしたのにミュートするとかいう訳分からん行動もしている。
私の存在が迷惑だから消えたい。でも嫌だ。今私の心を癒してくれるのは推しカプしかいない。悪循環の堂々巡り。
ところで、こうした2次元キャラにガチ恋するのが初めてなんだが、一体どうしたらいいんだろう。今まで私は所謂活動者を推していた。ガチ恋ではない。
活動者を推すというと、だいたい活動場所は現場、配信。そんなもんである。現場は全ステして祝い花を出しておけばいいし、配信も投げ銭があればそこそこしてたらまあ向こうから反応があったりして自尊心は満たされるし、ある程度有名オタになれる。
じゃあ2次元はどうしたらいいのか。2次元ってグッズ厨が偉いみたいな風潮ないですか?アレなんなんだろう。有名オタはグッズ集めてるし痛バ作ったり祭壇作ったりしてる。
私にはあれが理解できない。グッズは1つでいい。そこの価値観がどうにも合わなくて、私には有名オタを目指すことが出来ない。これがまたすごくキツイ。
大河、SFロマン系でよくある「戦火の中、疎開した(または死んだと思われていた)姫が妊娠しており、逃亡先で極秘に出産した隠し子」みたいなやつ。
主役はそのカップルで、戦禍がおさまって子が小さいうちに無事再会~HappyEnd~だとなおよい。
主人公がそのカップルの従者(侍女)で、極秘出産を助けるため一緒に逃避行するパターンもあるがそれもよい。
子のほうが主役で、大きくなってから実は出生は…と明かされるのもいいんだけど、これは貴種流離譚の一類かなーと思うので
秘された恋、許されざる恋、引き裂かれる恋ドラマ好きの一面かなと思ってたんだけど
最近は拗らせすぎて、原作時間軸のスキマに逢瀬~逃亡~極秘出産を捻じ込んでくる二次創作に出会うとめちゃめちゃ嬉しい。
でも単純に二次創作の妊娠モノで探すと特殊性癖エロになるんだよな~~ぜんぜん違うんだよな~~~~
普通の小説・映画で探すとなると、後半のイベントなことが多くてネタバレになるし、探しづらいなーと思ってたんだけど
二次創作の場合「このキャラクターが実は女だったら…系」IFが合わさるとヒット率高いことに気づいて最近ちょっと嬉しいっていう日記
ある姫の71話まで読み終えたこのしんどい心のうちを吐き出させてくれ
まだクロードは治らない。。。というかどんどん話が悪いほうに向かっていてもうしんどいつらい悲しい のさなかに挟まれる尊さ。。アーティがルーカスに。。ふたりともかわいいねえ!!
アーティもそろそろ高校生くらいの年になるのにまだちっちゃい子のような感覚で見ちゃう
ジェニットも自己中心的なところは目立つけど、それはきっと周りが大人びてるせいだったり、幼少期の寂しさからくるものだったりするだろうからしょうがない。。。あと無垢すぎて心配
それでもアーティをかくまってくれてた時とか、アーティのために何でもするって意気込んでた姿はけなげでかわいい
というか幼少期から主人公の成長を追っていく物語の進み方的に、こっちも親目線になっちゃってアーティとかルーカスがかわいくってかわいくって仕方ない。。。
もしパパの記憶が戻らなくてもアーティとルーカスで幸せになってくれ。。。
あ、でもそれだとパパはジェニットと一緒にいることになって死ぬんだっけ?それは嫌だなあ
そういえばアーティの魔法の開花はすごすぎる 今まで自主的に勉強してたぶん魔法の知識とかの飲み込みも早かったのかな、えらいよアーティ。。
瞬間移動ができるなら、最悪殺されそうなときには逃げられるし、そもそも今の登場人物の中でチート枠っぽいルーカスが完全にアーティにホの字なので、アーティとルーカスで逃避行の旅もありかもね 今のところアーティにその気はなさそうだけど。。。
そして毎回こんなにも胸が締め付けられるのは、SPOON先生の描く登場人物の表情が絶妙だからなんだろうな
クロードパパが「ジェニットを呼んで来い」って言った時のアーティの表情は見てられなかった。。。悲しすぎて
最初は生き残るためのラスボス的存在だったパパに、アーティもあれだけの愛情を感じてたみたいなのが余計につらくなります。
72話まで私がしんどすぎて生きていけない可能性は ある。
一通り最終回も終わり今年度の感想は今年度のうちにということで、面白かった順で感想メモ。
皆さまあけましておめでとうございます。
今年の売れる新人若手芸人が出てくるおもしろ荘で話題になった駆け抜けて軽トラの奇跡のぽっちゃりこと餅田コシヒカリさんの体型その他が好みだったので詳しく調べました。なおこれは年末からの家事に疲れた逃避行動として始めたので力尽きたらやめます。あと私は今レバノンにいるので同窓会には出られません
■生年月日
■身長
149cm
■体重
73kg
■3サイズ
B:101 W:93 H:113
という恵まれた体型。ちっちゃくて巨●という希少価値が高い体型なのは3サイズだけでもわかりますね。
肥満度数測定にはあまり意味がないと言われるBMIだと32.88。これは2度の肥満扱いです。WHO基準だと1度の肥満なのであの体型でも実は世界的にはぽっちゃりレベルなのかもしれません。
女性を例える時にはとりあえずアイマスのキャラクターで例えるとレポートに信頼のある高●ソー●ランド先生に習って、149cmのキャラクターを調べると城ヶ崎莉嘉さんがちょうど149cmでした。
気になる体重はというと「36kg」餅田コシヒカリさんの半分です。
一般的にアニメのキャラクターはオタクの願望が含まれるため質量が少なめになる傾向があるため比較することが難しいような気がしました。
それはさておきインターネット上にはアニメキャラクターの身長ごとに情報がまとまっているサイトがあります。妄想が捗りますね。
新弟子検査とは大相撲力士を希望するものが受けるための検査のことです。餅田コシヒカリさんと新弟子検査を連想するのは非常に失礼なことかもしれませんが、頭に浮かんでしまったからには仕方がありません
新弟子検査にはエコーやらで健康面をチェックする検査と、身長体重をチェックする検査があります。身長が足りず頭部にしりこんを埋めた朝日山親方のエピソードは有名ですね。
さて、そんな新弟子検査ですが体格検査は次のように定められています
・身長167cm以上
・体重67kg以上
餅田コシヒカリさんは身長の面で新弟子検査を突破することが出来ないことがわかりました。残念ですね。
本当はやりたかったのはこれなのですが、あからさまにこれから書き始めると新年そうそうこいつは何をやっているんだということになってしまいますので、そのような事情がありまして概ね無駄なテキストを前文として用意いたしました。
さて、インターネット上にはプロフィールから検索できる便利なサイトがあり日常的にあまりその手のヴィデオを嗜まない私ではございますが、脳の片隅に記憶していたので調べてみたいなと思いました。
登録されている女優は5万人以上いらっしゃるわけでこちらのサイトを使うことでどれだけの希少価値かわかるのではないかと思いました。
身長149cmだけを条件にした所結果は…77人
思ったより減りました。「0.15%」という希少価値が高い結果がわかります。
餅田コシヒカリさんの魅力といえばあのお腹です。149cmの身長で93cm以上のウェストを持つ方は残念ながらいらっしゃいませんでした。
一般的に細いウェストが需要があるため、納得のいくスコアではあります。
この上位30人を順に当たれば好みの人が見つかるのではないかとは思うのですが、この辺りで流石に人前で詳しい調査をするのが憚られてきたのと若干飽きてきたので筆を置きたいと思います。
おすすめがありましたら教えていただけると嬉しいです。
『ザ・インターセクションズ』はどうだろう。
酔ってチンピラに義父殺しを依頼しちゃった学生が、そいつに付いてって義父を殺しにいくストーリーと付いていかなかったストーリーが同時に展開するちょっと変わった映画。
徐々にチンピラから逃げようとする展開になる。ネタバレは調べないで見たほうがいいけど、結構好き嫌いは別れるかも。
アクションコメディだと意外と「逃げ切れちゃった」みたいな作品でスッキリする映画が多いのかも。
少し違うかもだけど、結構オススメなのがロバートデニーロの『ミッドナイトラン』。
ギャングの金を横領した会計士を賞金稼ぎのデニーロが護送するんだけど、いろんな奴に終われてアメリカを横断する羽目になる映画。
『ノッキンオンヘヴンズドア』は男二人が海を見に行くためにギャングの車を盗んで逃げ続けるアクションコメディ映画だけど、追う側の敵が確信的にゆるい作風だし、主人公達は不治の病で死ぬことが決まってるから、また少し違うのかなー。
ちなみにドイツの映画ね。恐ろしい事に、長瀬主演の日本リメイクがある。
他には、
ヒッチハイクしてきた宇宙人を乗せて政府組織に追われる『宇宙人ポール』、
実在の詐欺師と刑事を主人公にした、長年にわたる追いかけっこのスピルバーグ『キャッチミーイフユーキャン』、
あと『なんちゃって家族』も麻薬を輸送するコメディで、タイトルの割りに普通に面白い。
古いけど『お熱いのがお好き』は女装して逃げる映画で、流石に名作なだけあって今見ても楽しめる。
『ザ・チェイス』っていうチャーリー・シ-ンのコメディ映画もあったな。人質とって逃げるだけの映画。そこまで面白いかは微妙。
「逃げる」とは少し違うかも知れないけど、『ミッドナイトラン』みたいに護送中に敵に追われるアクション映画は面白いのが多い。
強盗のボスを護送する主人公たちとそれを追う銀行強盗を描いた西部劇の『3時10分、決断の時』や、
ブルースウィリスの『16ブロック』。これは結構『ダイハード』の続編っぽくてそっちのファンにもおすすめ。
詐欺師とか犯罪者が主役だと、デカイ事件に巻き込まれながらどう逃げるか?という話は多いかも。
『グランドイリュージョン』『マッチスティックメン』『コンフィデンス』とか。
大泉洋の『アフタースクール』は、逆に逃げた友人を追う内に色々ややこしい事情が明らかになっていく。
『バニシングin60』とかそのリメイクの『60セカンズ』は車がメインだし、爽快感あるかも。
シリーズ見てないなら、5作目の『ワイルドスピード MEGA MAX』くらいから見始めてもいいかも。ドウェインジョンソン出るし。
シリーズ的には4作目の『ワイルドスピード MAX』あたりからレースよりも追われて逃げるカーチェイスがメインの映画になってる。
『ボーンアイデンティティー』シリーズは国自体が相手だから、アクション映画ながら結構逃げ続けるだけかも。逃げるテクニックに爽快感あるし。
『逃亡者』『エネミーオブアメリカ』『イーグルアイ』も近い感じはあるけど、どっちかというと戦って勝つことがメインのストーリーか。
逃げつつ一矢報いる系だと『ランナウェイ/逃亡者』やスピルバーグの『激突』どうなんだろう。
「え、おまえが逃げるの?」みたいな変則的な逃げの映画だと『ノーカントリー』とか。でもこれはスッキリしないしやっぱり多分違いそう。
ゆっくり歩いて追いかけてくるからスリリングな展開ではなくて、じんわり追い詰められる系だし、ホラーだからやっぱり後味はそんなによくないんだけど。
『ファイナルデスティネーション シリーズ』も一応逃げ続けるだけかな、でも逃げ切れなかったみたいなパターンも多い。
『リング』なんかは逃げ切るパターンか。これも続編がアレだけど。
ホラーは基本的に敵わない相手に追い詰められるのでそういう作風になるけど、でも最終的には戦っちゃう作品が多いしなあ。
『エイリアン』『ターミネーター』がそういう作風で、『ターミネーター2』も割ときっちり最後まで逃げ続けるけど、最後は戦うし。
ストーカーものも逃げる系か。ジェニロペの『戦慄の誘惑』とか『ケープフィアー』
ゾンビものにも逃げる作品はあるけど、どちらかというとそこからどうやって生活していくかというポストアポカリプス的な作風も多い。
ロメロの『ゾンビ』『死霊のえじき』『ランドオブザデッド』はそういう作風で、逃げたり隠れたりするのは一作目の『ナイトオブザリビングデッド』とそのリメイクの『死霊創世記』、あとゾンビのリメイクの『ドーンオブザデッド』か。
『28日後...』は割と逃げる系?
ゾンビじゃないけどロメロの『ザ・クレイジーズ』とそのリメイクも逃げる系かな。
逆に閉じ込められた状況から「逃げようとする」ことがメインの映画はどうなんだろう。ソリッドシチュエーションとかいうやつ。
『キューブ』『ミザリー』『フォーンブース』とか、変り種だと『私が、生きる肌』。
『ソウ』は違うか。
これまた逆に、冤罪とか脱獄とか、刑務所にいる状況から逃れようとする話も違うのかな。
『ショーシャンクの空に』とか『真実の行方』とか、古くは『大脱走』とか『パピヨン』とか。