はてなキーワード: 支配階級とは
俺は笑わない。
これに対して最も多い反論は
たとえば君たちの大好きなアニメやゲームにだって『支配階級が科学技術の発展を監視しており、庶民には知らせていない最新技術が存在している』という設定が頻出ではなかろうか?
それが現実に起きていないと語るに足るだけの根拠を、所詮は一低級国民(上級国民ではない程度の意味)である我々に分かるのだろうか?
「分かる」
と言い張ってしまうのならば、それはもう次はお前がカルトにかかる番だぞとしか言えない。
その理由は、君たちの大好きなアニメやゲームから学びなおしてくれ
なんせ全世界規模だ。
これは非常に強烈だ。
謎の超巨大組織による支配や、それによる情報統制を論じるにあたって、相手の規模が出かければデカイほど「流石にそこまでやらねーだろ」という反論が虚しくかき消える。
全世界を相手取っていることに対してカルト制の強さを感じて本能的に拒絶反応が出るのも事実だが、だからこそそこから裏返ったときの「俺らDAKE真実」感は強烈になる。
これはカルトとして非常に有利だ。
語りだした奴らが上手い下手ではなく、単純に有利な状況から生まれつきスタートしていると言うだけの話なのだが、それこそが強いカルトの特徴でもある。
このスピード感はとても強い。
ノストラダムスとかが流行ったのだって「ちょっと待てよもうすぐ2000年じゃん!」という時間的な成約の接近があったからこそだ。
あらゆるカルトは必死になって「世界の破滅は迫っている!我々はその計画の全貌を!」みたいな事を口走るわけだが、そこでタイムリミットが迫っている理由がソイツらのでっち上げになりがちなのが脛に傷である。
これによって「急げ!判断しろ!」と相手を混乱させることが出来る。
判断を急かすというのは通常カルトにおいては「あっ、これアカン奴のテンプレといった逃げられ方もしかねない諸刃の刃であり、下準備を終わらせてからでないと出しにくいカードだ。
だが反コロナワクチンは全世界を同時に相手どれるため、とにかく既に一杯一杯の奴が大勢いる可能性にかけてこの荒療治をぶちかましても十分な釣果が得られるのだ。
圧倒的有利!
こんだけ恵まれたカルトであれば、運が悪ければ誰だって引っかかりうる……カルトについてまともに勉強しているならそう判断するのが普通だろう。
コレに対して「なんやコイツざっこwwww」と安易に笑って終わらせる人間こそが、次の陰謀論の餌食であり。
俺が騙す側ならソイツらの名簿だって反ワクチンの名簿の次ぐらいの評価として収集しているだろう。
もちろん、今反ワクチンに騙された人間のほうが名簿としての価値は高い。
身内にいるのならば、目先の反ワクチンについて必死になるばかりでなく次の詐欺に対しても警戒しておこう。
頭がマッハになると親戚の印鑑を勝手に借りて色んな書類に判子を押してきたりするから、雑に切り捨てりゃいいだろで終わらせるよりもちゃんと目を光らせていた方が安くつくもんやぞ
ツイッターには、男が女に説教したがるのには生物学的基盤があるからかもしれないと主張しただけで発狂して否定にかかるフェミニストがいるらしい。生物的基盤があるからこれは仕方がないとか許容されるべきとかは一切言っていないにも関わらず。
フェミニストはいつも、議論に社会的に構築された有害な男らしさを持ち出す。結婚したいと思うのも、競争して自分の地位を得たいと思うのも、有害な男らしさを社会から押し付けられたせいであり、降りれば楽になる。降りずに不幸になるのは馬鹿だからで、自己責任。降りるべきだと。いつだって悪いのは男なのだと。
一方でフェミニストは、女が出産とキャリアアップを両立できないのは制度が悪い!改善せよ!と叫ぶ。これは矛盾した態度ではないのか。
出産もキャリアアップも、べつに誰も誰にも強要していない。個人が社会的に押し付けられた偏見から来る欲望であって、それを無反省に受け入れているのは女であっても同じだろう。出産もキャリアアップもやめようと思えばやめられるし、なくても幸せになれるのだから、片方だけにせよ両立したいにせよ、やろうと思ってしまうのは自己責任であり、欲望を捨てられないお前が悪いと言うべきじゃないのか。降りて幸せになるべきじゃないのか。
フェミニズムは自分が仏教徒やストア主義者であることを自覚すべきだ。人間の全ての活動はどこかから押し付けられた人工的な欲望であると考える限り、人工的ならば解体されるべきだという考えに必然的に陥る。役割規範に限らず欲望に拘束されるのが不幸を導くのならば全て捨てるべきであり、何もせずとも精神的に充足した状態である解脱やアクラシアやアタラクシアを目指すぺきだと言うべきだ。反出生主義にも賛同すべきだ。子供を持ちたいなどと欲望を持つから不幸になるのだ。何もこの世でなせなかった自分の代品として人間ペットを作り出し、搾取はダメだけど自分の子供はより低い立場である保育士に預け自分はホワイトカラー労働でさらなるキャリアアップを目指し、多様性は大事だけど自分の子供は塾に入れて私立の上流階級の上品な空間で育て、生産性差別はダメだけど自分の子供は社会で貢献できる素晴らしい人材になってほしいと考えるような、そんな思考は今すぐ捨てるべきだ。やめるべきだ。さっさと全ての欲望から自由になれ。捨てられるんだろ?降りられるんだろ?降りないのは有害な男らしさにとらわれてるからなんだろ?嫌だとは言わせないぞ。
大体、昨今の生産性がなくてもいい!みたいな議論にも無理がある。社会の中で何の役割も果たせなかったら無力感で強い苦痛を感じるに決まっている。生産性とは社会の中で役割を果たすことに他ならないのだから。そんな人たちに居場所を与えない社会が悪いと言うかもしれない。だが、そんな居場所でやるべきことが何もできないからこそ弱者なのだと言うこと、誰かがその負担を引き受ける必要があるということを忘れている。生産性がなくても肯定されるべきというのは、あなたがバリバリ働く横でとなりのおっさんがもたもたもたもた、機械は苦手、ミスも多発で全体にダメージ、それでもその男を会社に必要な存在として同じ給料で受け入れることを意味する。精神的に受け入れるなんて絵空事で、カネがなければ生きていけない以上カネを払わないなら受け入れないのと同じことだからだ。同じ給料なのは、競争志向は有害な男らしさである以上それを促進する効果を持つ社会制度は撤廃されるべきだからだ。能力に応じた地位配分であるメリトクラシ―は撤廃すべきだ。そもそも能力なんて、生まれと育ちに大部分決定されたものである以上、個人にその果実を与えるのはおかしいのだ。もしこれを拒否するなら、フェミニストはこれを利用して、自分たちはフェミニズムという学問を修めた以上それにふさわしい支配階級としての地位を求めるに決まっている。他の人に競争させたくないのは、自分達こそが高い地位を独占してカネを手にし支配力と欲望を思うままに発揮しホストを侍らせ酒池肉林をやりたいからではないのか。そうでないなら、全ての人は全ての欲望を捨てろと言うべきで、男は有害だとばかり言わず女にもカレシ作るな、競争志向やめろ、そんなものはいらないはずだと主張しゆるやかな社会の滅亡を目指すべきではないのか。女の欲望はこれまで優先されてこなかったのだから優先して叶えられるべきだなんて差別論理で女が全肯定されるとでも思っているのか。女批判は全部ミソジニ―でマンスプレイニングだと言えば聞く必要がなくなるのか。男批判も女批判も平等にツイッターで叫ばないのはなぜか。生産性がなくてもいいなら、出産と労働への欲望だけ特別の地位を与える必要はあるのか。わきまえていないのは社会に対してでなく、自分の叶いもしない無際限の欲望に対してではないのか。
フェミニズムは生産性を拒否した果てに、相互承認の相互ケア社会を夢見ているのかもしれない。そんなものは無理に決まっている。誰が、何日も風呂に入っていないホームレスの人間を受け入れ、肯定し、ひいては抱き締めるようなことができるのか。フェミニストはそれを積極的にやれているのか?誰も何の役割も求められない社会で、承認を得る手段として家族も労働も拒否するなら、相互ケアしか道がない。なら、キモくてカネのないおっさんおばさんクソガキ不良反社不潔人間障害者重病人外国人、ケアする能力を持たない不幸な孤独者を誰がケアするのか?女にだけ求められていると誤読される恐れがあるから、フェミニストも、男も、LGBTも、社会の全ての構成員が全ての構成員をケアする義務を持つ社会と化す、と強調する。解決策としてケア役割を職業にしようとするならば、結局自分はフェミニズムという上流学問を修めた以上上流階級がふさわしくそんな下品で誰もやりたくない仕事はフェミニストはやらなくていいはずだという傲慢ではないのか。社会から疎外された弱者がその役目を負うことになることに目を向けるべきだ。相互ケアなんてできるわけないのだ。誰もがケアされる側になりたいに決まっていて、他人のケアなんてまっぴらごめん、誰かに押し付けたいに決まっているからだ。念のため言うがカレシカノジョパートナーを作って承認を得るなんて可能性があるはずはない。好みの顔面や肉体による他者選別なんて、誰も配慮する必要のない社会的に構築された欲望でしかないからだ。欲望する存在としての人間は全て否定されるのだ。
以上見たように、「社会的に構築された欲望」理論からは、全ての人間は全ての役割規範と欲望を放棄し、全ての承認の根源を失い、静かに死んでいき社会を滅亡させるのが善だという結論以外はあり得ない。東京スカイツリーの展望台から、一人一人丁寧に飛び降りるのだ。環境問題も少子化問題も解決され、最高の未来が約束されている。死は救済だ。
場所はとある元被差別部落、昔から治安が悪いことで有名だった。そこでチンピラが偽札を使ったという通報があり、警察が駆けつけた。警察官は4人で容疑者の男を押さえつけた。
警察官が抑えているとその男はだんだんと息が細くなってきた。「息ができないよぉ...」男の悲痛な叫び、あたり一面に散らばる男の尿。どう見ても異様な光景を周囲の人々は警察官に叫びながらスマホで録画していた。
男はついに死んでしまった。
この一連の光景がSNSで瞬く間に拡散された。またこの男が旧被差別部落の出身であることも併記されていた。人々は警察官を非難し、容疑者の男は同情を集めた。
警察の容疑者に対する横暴な対応、また死に至らしめたという衝撃から、全国で一斉に被差別部落民の命を大事にせよというデモが巻き怒った。
警察組織の解体を迫る声が大きくなり、一部の地域では警察を追い出し自警団による治安維持が始まった。
話はいつしか警察暴力から構造的差別の啓蒙と廃止に移っていった。
かつて部落地名総鑑を利用したとされる企業には暴徒が押し寄せ、店舗は焼き払われた。これに危機感を持った企業はロゴを変えたり声明を出すことで自分たちは反差別派にいることを強調した。
首相は被差別部落出身者を政府の重役に付けたことをアピールした。
化学系の企業が差別の助長につながるとしてエタノールの名称変更を推進することをアピールした。
差別に繋がる身分制度を確立したとして、全国で徳川家の銅像が取り壊される動きが激化した。お笑い芸人や人気アーティストがしきりにこの動きを称賛していった。
穢多・非人の支配階級であった武士を称賛するものはことごとく排除する動きが激化していった。
野球界ではサムライ・ジャパンという呼び方が差別に繋がるとして、名称の変更の議論が沸き起こった。
時代劇では被差別部落民の役は被差別部落の子孫が演じることがトレンドとなった。
これらの運動に少しでも疑問を呈する者は差別主義者であるとラベル付けされ、攻撃された。SNSでの発言が雇い主に通報され、解雇された者も多数現れた。
表現の自由は大切、というのはまあ大雑把な話としてはほぼ頷く人が多いだろう。
だが多少細かく考えると、表現の自由が強く保護されている方が嬉しい層と、制限されている方が嬉しい層がある。
これはまあ言うまでもなくて、国民全体の自由は縛られてる方が自分たちへの批判も潰せて、支配を盤石にできる。
制限のルール決め事態に、この層にとって都合のいい意図が入れられるし。
おおむね一般の人。
この人たちは、表現の自由があったほうが支配階級からのコントロールに抵抗できるし、娯楽なども自由にあった方が楽しめる。
一応社会に参加はできているが、苦しみや悩みが多い層。
経済的にはひとつ上の強者と重なっている部分があるが、抱えているストレスなどが強く、心身が弱っている。
世の中の表現の自由度が上がれば、猥雑、暴力的、悪意的な表現も増える。
一般庶民は、そこから受ける刺激を受け流す余裕があり、その上で自由のメリットを享受できるが、この層は刺激に耐えられず苦しむ。
管理された安全さがほしい、という感じで、ある程度まで表現の制限があった方が嬉しい。
社会にほぼ参加できていない層。
存在に気づかれていなかったり、タブーになっていたりするアウトサイダー。
声を上げなければ存在や要求を理解してもらえないが、その声はしばしば社会内部の人間にとって不快で強く刺激的な内容になる。
表現の管理ルールが作られる時も、NG側、危険側に入れられやすい。
よって自由を求める。
ツッコミどころ満載すぎて、草生えるし、草むらでウンコしたくなるわ
「この社会のあまりに沢山のものが、『平均的な健常者男性』に合わせて作られていることにようやく気づいた。」
気づいた?
おまえは、何を学んできたんだ。
ようやく?
日本は敗戦国。わずか50年で戦勝国アメリカのGDPを抜いた最大の要因は「効率」。
当時は、人はそれに合わせれば良いという社会。
と言ったら、様々な方面から罵声と金切り声があがりそうだから先に言っておく。
そして、そうした社会の基盤のうえに、バリアフリー化への道筋が見えてくるわけで。
みんなが死ぬか生きるかってときに、同性婚だとか、学習障害だとか、トランスジェンダーだとか、いくら叫んでも誰も聞きやしない。
安定的な社会が作られてこそ、徐々に、障害や病気や高齢者などに優しい社会をつくろうとなるわけで。
「良いことは亀の歩みのように進む」だったかな?
まさにガンジーの言ったとおり漸進的に進むことが大切。
( 2019年冬アニメ1話ほぼ全部観たから感想書く その1 からの続き )
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鬼ごっこ。Clover works(旧A-1 Picturesのスタジオ)によるサスペンス作品。原作は週刊少年ジャンプ連載の漫画。神戸守とA-1によるノイタミナ枠といえば「すべてがFになる」だけど、本作もほぼ同じスタッフ(まだ観てない)。
日常→非日常までの流れがすごい綺麗。1話はちゃんと2回観てね。無邪気な子どもたちの会話シーンに流れる、流麗だけど緊張感のある音楽(音楽:小畑貴裕)と、音楽のないシーンを織り交ぜて不穏な感じを徐々に演出していく。
そして例のシーンにおける容赦のない作画。特にCloverWorks作品は表情のアニメーション作画が強烈(スロスタ、ダリフラ、青ブタとか)で、本作も非常にエモい。特に人外の表情もいけるクチだったのね。その後の、諸星すみれの絶叫がこわかった。そのあと力強くて優しい曲が流れる演出好き。
作画で言うと、細かい仕草の作画が丁寧。5~12才の子どもたちが甘える仕草。甘えん坊~自立した子まで丁寧に書き分けてる。あとメイン2人の恐怖を、全身使って描くシーン。
そして2話以降、遠くの物陰から二人をこっそり覗き見ているようなカットが急に増える。これが非常に強烈な緊張感を醸し出しててキツイ。
そういえば、カメラをフィックスしたカット演出って神戸守監督結構好きなんだっけ。神戸守が絵コンテを担当した「宇宙よりも遠い場所」の7話、8話でもちょくちょく使ってて好きな演出。
よりもい8話で「ついに流氷を見た4人が順番に短いセリフを言っていく際、喋るキャラに一人ずつピントを合わせる」という超エモい演出があったけど、ああいう被写界深度を駆使した演出が本作でも見られるのが嬉しい。
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半世紀前に連載された手塚治虫のマンガを再アニメ化。制作はMAPPAと手塚プロ。ゲゲゲの鬼太郎よりもグロくてシリアスな時代劇。犬夜叉からギャグを引いた感じ。割と長編の作品ゆえ、シナリオはある程度改変しているみたい。魔物の数が48から12体に減ってる所とか。1話につき1妖怪なのかな。
時代劇専門チャンネルで放送されている本作は全体的な作りも時代劇っぽい。キャラ原案が浅田弘幸(最近だと「あかねさす少女」のキャラ原案)で、あの濃いキャラデザが時代劇っぽさによく合っている。手塚治虫っぽさは感じにくいんだけど、OPのどろろの顔とか急に手塚治虫っぽくなる感じは狙ってやってるよね。OPED両方凄く良いのでぜひ観てね。特にワンマン作画のED。浅田弘幸の挿絵すっげえ綺麗。
あと背景が良い。「かぐや姫の物語」ほどではないけど、おとぎ話の世界にいるような雰囲気がある。世界観的にも「蟲師」に似てる(2話の「妖怪よりも人間のほうが…」っていう古典的モチーフとか蟲師っぽい)。どろろの背景を担当したスタジオPabloの、筆っぽさが残ってる背景いいよね。最近だと「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」とか。
池頼広による劇伴は和楽器を使った曲がメインだけど、それでいてすごくJazzyでおしゃれだったり、重厚な戦闘BGMだったり。同氏が劇伴を担当してるTVドラマ「相棒」シリーズっぽさを感じる。
国家間戦争を描くタツノコプロのロボアニメ。スタジオ設立55周年記念となるオリジナル作品。
キービジュアルとかキャラデザ的が可愛いのと裏腹に、タツノコらしい硬派なシナリオ。ガンダム作品くらいキッツい話なので注意。
王国のお飾り首長こと主人公が自国の将来をどうするのかっていう視点とは別に、自国の兵士視点、敵国の兵士視点でそれぞれ戦争を描いていく。群像劇→戦闘→群像劇→…。3話では王国の戦争孤児と帝国軍の兵士が仲良くしてたり。戦争モノの作品は個人的に兵士たちの何気ない会話が好きで、本作で言えば主人公は側近と、王国軍の兵士は戦闘前にワイワイと、帝国軍の兵士は偵察で王国内をウィンドウショッピングしてるシーン。ああいうシーンが、彼らに感情移入するキッカケになるよね。特に本作の登場人物はみんな割といい人として描かれてるのが印象的。「こんな戦争、いつまで続くんだかなぁ…」とは帝国軍兵士のセリフ。
その戦争は基本的に人型巨大機動兵器を使う。基本的に3DCGで描かれるんだけど、デザインや挙動、戦い方がすごい。1話ではVR模擬戦、2話では中隊~大隊による大規模戦闘。量産機による小隊を最小単位とする戦闘がメインで描かれてる。1話の模擬戦では5vs5で、近距離:中距離:遠距離=1:3:1。武装も近接用の打撃武器、サブマシンガン、ライフル等バリエーションがあって、威力もそれぞれ描き分けてる。機体はホバリングで高速移動が可能なんだけど、姿勢制御用の羽根みたいなスラスターが機体の前後に展開されてて、停止する時ちゃんと慣性制御してる。すごい格好良かったのが狙撃機で、移動時は狙撃銃を縦に持ってたり、攻撃時頭部が変形したり、放った弾丸が緩やかな放物線を描いて着弾したり。めっちゃかっこいい。かといって狙撃機=強いでもなく、それぞれのバランスを考えた戦闘演出になってる。2話以降もエース機による無双(なんだ!あの機体の動きは!?)ではなく戦術的な展開にフォーカスしてる(敵も戦術を練ってくる)のが面白い。あれだけの機体数を画面内で動かしまくるシーンは壮観。
OPを観ての通り、「王女の笑顔」と「一兵卒の笑顔」という対比構造が物語の中心に据えられている。王女の笑顔…周りの人間が、彼女の笑顔を守ろうと尽力している。そういった努力の象徴。お花みたい。そういえばニコニコの生放送特番で「タイトルが敢えてカタカナになっているのは意味がある」的な発言してたけど、花の名前だったりして。対して一兵卒ちゃんの笑顔...何もかも失った彼女の、悲しみや虚無感の象徴。持つ者と持たざる者。支配階級と労働階級的な?
「フルーツバスケット」でおなじみ大地丙太郎監督によるタイムスリップラブコメ。原作はブロッコリーの恋愛ADV。タイムスリップ先は明治時代の日本で、攻略対象は歴史の偉人(イケメン)。森鴎外や泉鏡花等文化人が多い。
転移タイプの導入が流行っているのだろうか。去年の作品だと夢100は夢の中の世界に飛ばされた主人公が世界を救う旅に出る話で、BAKUMATSUは(主人公が不在だったけど)別の世界線に存在する日本を救う話。で、これはもうちょっと規模の小さいお話。今期で言えば「不機嫌なモノノケ庵」みたいな感じ。モノノケが見える能力を活かして、身の回りに起こる出来事を解決しながらみんなと仲良くなっていく。
お正月にフルバ一気見してたんだけど、大地丙太郎監督のアニメはほんとテンポ感が気持ちいい。基本的にラブコメなんだけど、話の縦軸は多少シリアス。でも「あ、結構シリアスになりそう」っていう絶妙なタイミングでガスを抜くっていうか、緊張と緩和の波が穏やかになっていて、最後までほっこりした雰囲気で終わる作品になっている。そういえば今年放送されるフルバのリメイクも、本作と同じトムス・エンタテインメント制作なのね。
背景も含めて、全体的にコスト抑えめな作品。この時代を描いた作品は去年いくつかあったけど、背景の緻密さでいうと これ(明治)<ニル・アドミラリの天秤(大正)<天狼(大正?)という感じ。また、多用されるデフォルメ顔は引きの画になった際キャラの顔が崩れるのを防ぐため積極的に使ってるのかもしれないけど、文脈が破綻しないくらい表情が豊かでかわいい。
現代→明治のタイムスリップなので文化の違いに主人公が驚くシーンがちょくちょくあるんだけど、一瞬で順応する適応力の高さ。そんな物怖じしない主人公が周りをを引っ張って行く感じが好きだし、なんやかんや付いていく菱田くんや、付かず離れず二人を見守る森さんも好き。
現代版「徒然草」。東京都練馬区の江古田駅ら辺に住んでいるフリーターの女性視点で描くルポルタージュ。
1話ごとに監督、キャラクターデザイン、声優、アニメスタジオなどすべてが変わるオムニバス形式のショートアニメ。構想12年らしい。d'アニメストアでは、各話を担当した監督x江古田ちゃん役の声優による対談を加えたロングバージョンが配信されている。1話は大地丙太郎監督。江古田ちゃんが送る日々から切り取られたワンシーンがテンポよく描かれていく様はまさに「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」みたいな感じ。いやぁ、あるあるだわー。そしてきっつい。なお1話の対談で大地監督が言ってたけど、「ショートアニメ、しかも1話だけで表現できることなんかねえよ!」とのこと。今の所2話の人間味溢れる江古田ちゃんがめっちゃ好き。2話…監督:杉井ギサブロー 江古田ちゃん:朴璐美 脚本:岡田麿里。既に各回の監督やキャストは発表されているので、興味がある人はチェックしておこう。一番楽しみなのは高橋丈夫x小清水亜美の回。
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たつき監督率いるirodoriの新作。ニコニコ動画等で配信されている自主制作アニメのリメイク。けもフレみのある低コスト志向な作品。けもフレ同様ポストアポカリプスな世界感なので、少女終末旅行みたいな灰色の廃墟が背景として登場する(軍艦島っぽい)。好き。
エンドロールがたつきから始まりたつきで終わるあたり、「たつきの、たつきによる~」って感じが伝わってくる。
まず説明的なセリフを極限まで削って伏線を散りばめるシナリオうまい。良く分からないようで要所はちゃんと理解できるし、後のシーンを理解するのに必要な因子を事前に描いておく手法も、絵の中に必要以上な情報が含まれていないからこそって感じがある。
また島を離れる準備をするシーンを見ると、一連の動作を短いカットに分け、的確につなげて描く演出になっていて、けもフレでいえばジャングル回で橋を作るシーンみたいなテンポ感のある、分かりやすくて間延びしない絵になってる。結果として「はじめこそよくわかんないけど、すんなり観ていられる上に話の輪郭が分かりやすい」という印象に。
手さぐれ!でも思ってたけど、キャラの芝居が細かくてかわいい。1話2:00頃「階段登ってて振り返るリナコの仕草」とか、2話14:30頃「リンの帰還をリツが耳で察知する仕草」とか。
作品の世界観こそシリアスだけど、割とゆるいパートから戦闘パートまで振れ幅が大きい。そしてそれらを彩る音楽がかなり良くて、特にシリアスパートの曲がエモい(音楽:高橋哲也)。
アメリカの刑事ドラマ。スタジオぴえろ制作のオリジナルアニメ。アメリカの警察組織と凶悪犯罪者の戦いを描くサスペンス?ミステリー?ハードなストーリー。
制作こそ日本だけど展開やセリフ回し、登場人物等アメリカの刑事ドラマっぽい。作品の雰囲気を印象づける背景も、遠景に映る建物デザインや道幅、街路樹の種類や植えられている間隔等すべてが新鮮に感じる(聖地巡礼という文化は海外にもあるんだろうか)。葬式の後3人で歩くシーンなんか、街路樹の枝の描き方がヤバイ。あんなに主張の強い街路樹あんまり見ないよね。色味もキャラのデザインに対して全体的に淡いし(各キャラのビビットな差し色がめっちゃ目立つ)。
キャラクターのお芝居も全然違くて、例えば泣きの演技も「伏し目→手で顔を隠す→天を仰ぐ→涙をこぼす」みたいな、日本のアニメでは中々見ないような「あ、ここ海外ドラマでやったやつだ!」という印象が強かった。
そしてかなりアクションシーンがかっこいい。刑事ドラマのアクションということで、1話は激しいカーチェイス。激しい動きなのにまさかの手描き。手描きの車によるアクションシーンを観たのは「ルパン三世 Part5」以来かも。アニメ映えするアクションというより、「カーアクション映画らしさ」にこだわったアクションになっていたのが印象的。カメラの使い方とかカットの割り方とか、ぶつかってスピンする車の動きとか。先のアニメ「SSSS.GRIDMAN」が「特撮らしさ」を追求したアクションだったように、本作もそういう趣向を強く感じた。
「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!
ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。
いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である。文系の研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。
(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様の勅令だったりお役所の行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である。公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)
何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念・方法論レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキルが全然違うので。江戸時代の歴史なら江戸時代の古文書、明治期の歴史なら明治期の文書、中国史なら漢文、イギリス史なら当然英語の古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生が日本の古文書の読み解き方を勉強しても時間の無駄だろう。逆もまた然り。
慌てて言えば分野による。
社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナルな史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。
ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合、史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのものを要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生は修士論文で初めて学会誌に投稿できるレベルのものを要求されることになる。
何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語は大学で第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史やドイツ史やフランス史の場合、韓国語やドイツ語やフランス語は文系の学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツ語フランス語の論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃんと漢文の史料は読めるよね? 現代中国語の論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語やアラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語が必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本でアイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。
なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語で韓国語を選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語はフランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得を義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域に対応できるね! 史学は語学と言われる所以だ。
あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国に植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語やフランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国の言語が使われていたり宗主国のお役所に植民地統治を担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国の言語で書かれている)。さらに前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである。現代日本語の論文はスラスラ読めても古典日本語はチンプンカンプンという人も多かろう。前近代非西洋の征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級の言語+植民地支配してたヨーロッパの言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語+オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーがいるから勉強も簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語を習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまいウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国の外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生の卒論レベルなら日本語+英語or中国語でじゅうぶん、という運用の大学がほとんどだと思う。
(ヨーロッパの植民地についてしか述べていないのは、日本の植民地の場合宗主国の言語を習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本は植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国や台湾の学生あるいはそれらの国からの留学生は植民地時代の自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)
でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家に指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論や博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。
これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国や台湾、フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学のゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家に指導を受けたり、あるいは分野によっては語学の勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガルに留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。
上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系の大学院なんて資産家の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがきに奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋な感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さんの実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか。