はてなキーワード: 支配階級とは
安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。
統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。
困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。
2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
全候補は長くなるので一人ずつ書き起こしていきます。記者の質疑応答に関しては各自確認を。
https://cdp-japan.jp/leadership-election/2021/
https://anond.hatelabo.jp/20211120003323
今の政治いかがですか?この10年、極めて国家主義的で権威主義的な政策が押し通されてきました。これになす術がなかった。私は国家に従ってこその国民ではなく、国民の自由や人権、そして公平公正な社会、いわゆるリベラルな立ち位置を日本の政治の中で打ち立て直したいと思っています。
同時にこの10年、嘘や偽りや誤魔化しが平気で語られる国会。それに貢献した人たちが出世をし、正しいことをし、しようとした人たちが虐げられ、場合によっては自ら命を落とす。こんな政府を国民がどう思っているか?これは国会や政治の話に留まらず、日本社会の隅々まで末端までモラルを崩壊させ、倫理観や正義感を失わしめている。こうした状況に徹底して闘っていきたいと思っています。
極めつけはこの一年半、コロナで例外なく皆さんが大変な苦しみと悩み、困難な状況に置かれてきた。しかし、この国の政治はこれに十分寄り添う言葉と政策を持ち得なかった。これは一体どこからきているのか?いわゆる
特権的な支配階級と言われる人たちの政治が続いてきた。私はこの対極の庶民から根を生やすように生まれてきた政治をもう一回この国に作り直したいと思っています。従って私が目指す立憲民主党の姿は国家主義的な価値観と対峙をし、まさに国民主権、リベラルな気風を根本とした政党として再び立ち昇らせたい。誠実で実直な気風を旨とした政党にしたい。さらに国民生活の悩みや不安を共有し、これに寄り添う言葉と政策をもった政党に進化、昇華をさせていきたい。4年前、枝野さんがあの大混乱の中で打ち立てた立ち位置。これをしっかり受け継ぎつつも更に支持のウイングを広げ、野党第一党を政権の受け皿として認知して頂く政党に昇華させていきたいと思っております。
同時に今まで日本政治が放置をしてきた巨大な構造問題が相互に連関をしながら、いくつも同時多発的に国民の前に立ち憚っています。人口減・高齢化・社会保障の綻び、財政悪化、気候変動、どれ一つとっても本来私たちの世代で取り組みをなし、次世代に恥じぬ国と社会を受け継ぐ責任がある。しかし、長らく日本政治は真っ直ぐ視線を向けることを避け、国民に不都合や不便を正面から説明することを回避し、問題を先送り、ツケを大きく膨らましてきた。こういう政治とも徹底的に闘いたい。どれ一つとっても簡単ではない。しかし、国民の声を聞き、国民とともに悩み、考え、国民とともに解決策を見出し、国民とともに歩む。そういう対話型の政治こそがこれから先、求められて来ると思います。前例のない、どの時代どの国も経験したことがない巨大な構造問題が立ち憚っている。これは従来型の政治では乗り越えられない。
今の日本に相応しい対話型の新しい政治、それが先程申し上げた諸課題、あらゆる問題に本格的に取り組んでいく姿を、国民に見てほしいし、その先頭に立ちたいと思っています。最終的にそれが成し遂げられた暁には、この日本社会は持続可能性を取り戻すことになるでしょう。この社会はこのままでは続かない、続いていきようがない。それはみんな心の奥底でどこか分かっているが、それに正面に向き合おうとせず、先送りしてきました。しかし、それに本格的に取り組んだとき、やがてこの社会は持続可能性を回復することになる。私たち大人社会が胸を張って、やるべきことをやった、少なくともやろうとした、出来ないこともあるかもしれないが一生懸命取り組もうとした。そういう背中を姿を次の世代に見せることに繋がる。
誇り高い、温かい、温もりのある、しかし明確な理念と哲学・ビジョンをもった政治を立憲民主党を再建することによって作りたい。そう思っております。
http://tsigeto.info/2001/writing/aoyagi2.pdf
村上( 1987:III117-120)は、例としてヨーロッパの支配階級における服装の変遷を挙げ
ている。男性の装飾は上半身、女性の装飾は下半身に集中するという対照的な歴史的傾向
が見られるのだ。男性は上半身は着膨れしても、足はぴったりした股引で活動性を保った。
女性の場合は、男性の欲望を満たすため飾るのだから、細いウエストと大きなスカートと
いう非常に動きにくい服であっても受け入れざるをえなかった。村上は明示していないが、
小川(1981:243-244)によれば、この対照的な服装の傾向は西欧中世後半(15 世紀)か
ら近世(19 世紀中期)にかけて顕著だったという。
一方、駒尺(1985:198-206)は現代のスカートの特徴を通して男性優位社会を分析し
ている。第一にスカートは無防備で動きにくい。これは服従の表示であり、媚態・誘いの
表示でもある。第二にロングスカート以外は露出性が高い。「女の足=見せ物」という(男
性の)意識が社会一般に広がっているためである。つまり、女性はスカートを通して貞節
と煽情性という相反するものを男性から求められているという。ヨーロッパにおいて男性
つまり、「スカートを好んで穿く女性」というのは男性の都合の良い妄想でしかなく、それを主張する女性は名誉男性だけ。
https://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/11/post-223.php
世界には多くの異なった価値観があって、強めの価値観から見ると日本では「当たり前」のことが全く別の評価になる、そのことに気づいていないというのも問題です。例えば、女性が動きづらい「十二単」は、現代の価値観からは「コルセットや纏足」と同列の女性蔑視に見えてしまいます。
これは私の中学時代の恩師(女性)から教わったことなのでソースはないが、「十二単」や、「髪の長い女性が美しい」という価値観は、「コルセットや纏足」と同様に女性を支配する構造であったとの見方があるらしい。
つまり、「好んで髪を伸ばす女性」というのは男性の都合の良い妄想でしかなく、それを主張する女性は名誉男性だけ。
あーバカバカしい。
あ、「そういう見方がある」ことそれ自体は興味深いと思うので、その辺の議論すら否定したがる一部反フェミの反知性的な側面に味方する気はないので悪しからず。
俺は笑わない。
これに対して最も多い反論は
たとえば君たちの大好きなアニメやゲームにだって『支配階級が科学技術の発展を監視しており、庶民には知らせていない最新技術が存在している』という設定が頻出ではなかろうか?
それが現実に起きていないと語るに足るだけの根拠を、所詮は一低級国民(上級国民ではない程度の意味)である我々に分かるのだろうか?
「分かる」
と言い張ってしまうのならば、それはもう次はお前がカルトにかかる番だぞとしか言えない。
その理由は、君たちの大好きなアニメやゲームから学びなおしてくれ
なんせ全世界規模だ。
これは非常に強烈だ。
謎の超巨大組織による支配や、それによる情報統制を論じるにあたって、相手の規模が出かければデカイほど「流石にそこまでやらねーだろ」という反論が虚しくかき消える。
全世界を相手取っていることに対してカルト制の強さを感じて本能的に拒絶反応が出るのも事実だが、だからこそそこから裏返ったときの「俺らDAKE真実」感は強烈になる。
これはカルトとして非常に有利だ。
語りだした奴らが上手い下手ではなく、単純に有利な状況から生まれつきスタートしていると言うだけの話なのだが、それこそが強いカルトの特徴でもある。
このスピード感はとても強い。
ノストラダムスとかが流行ったのだって「ちょっと待てよもうすぐ2000年じゃん!」という時間的な成約の接近があったからこそだ。
あらゆるカルトは必死になって「世界の破滅は迫っている!我々はその計画の全貌を!」みたいな事を口走るわけだが、そこでタイムリミットが迫っている理由がソイツらのでっち上げになりがちなのが脛に傷である。
これによって「急げ!判断しろ!」と相手を混乱させることが出来る。
判断を急かすというのは通常カルトにおいては「あっ、これアカン奴のテンプレといった逃げられ方もしかねない諸刃の刃であり、下準備を終わらせてからでないと出しにくいカードだ。
だが反コロナワクチンは全世界を同時に相手どれるため、とにかく既に一杯一杯の奴が大勢いる可能性にかけてこの荒療治をぶちかましても十分な釣果が得られるのだ。
圧倒的有利!
こんだけ恵まれたカルトであれば、運が悪ければ誰だって引っかかりうる……カルトについてまともに勉強しているならそう判断するのが普通だろう。
コレに対して「なんやコイツざっこwwww」と安易に笑って終わらせる人間こそが、次の陰謀論の餌食であり。
俺が騙す側ならソイツらの名簿だって反ワクチンの名簿の次ぐらいの評価として収集しているだろう。
もちろん、今反ワクチンに騙された人間のほうが名簿としての価値は高い。
身内にいるのならば、目先の反ワクチンについて必死になるばかりでなく次の詐欺に対しても警戒しておこう。
頭がマッハになると親戚の印鑑を勝手に借りて色んな書類に判子を押してきたりするから、雑に切り捨てりゃいいだろで終わらせるよりもちゃんと目を光らせていた方が安くつくもんやぞ
ツイッターには、男が女に説教したがるのには生物学的基盤があるからかもしれないと主張しただけで発狂して否定にかかるフェミニストがいるらしい。生物的基盤があるからこれは仕方がないとか許容されるべきとかは一切言っていないにも関わらず。
フェミニストはいつも、議論に社会的に構築された有害な男らしさを持ち出す。結婚したいと思うのも、競争して自分の地位を得たいと思うのも、有害な男らしさを社会から押し付けられたせいであり、降りれば楽になる。降りずに不幸になるのは馬鹿だからで、自己責任。降りるべきだと。いつだって悪いのは男なのだと。
一方でフェミニストは、女が出産とキャリアアップを両立できないのは制度が悪い!改善せよ!と叫ぶ。これは矛盾した態度ではないのか。
出産もキャリアアップも、べつに誰も誰にも強要していない。個人が社会的に押し付けられた偏見から来る欲望であって、それを無反省に受け入れているのは女であっても同じだろう。出産もキャリアアップもやめようと思えばやめられるし、なくても幸せになれるのだから、片方だけにせよ両立したいにせよ、やろうと思ってしまうのは自己責任であり、欲望を捨てられないお前が悪いと言うべきじゃないのか。降りて幸せになるべきじゃないのか。
フェミニズムは自分が仏教徒やストア主義者であることを自覚すべきだ。人間の全ての活動はどこかから押し付けられた人工的な欲望であると考える限り、人工的ならば解体されるべきだという考えに必然的に陥る。役割規範に限らず欲望に拘束されるのが不幸を導くのならば全て捨てるべきであり、何もせずとも精神的に充足した状態である解脱やアクラシアやアタラクシアを目指すぺきだと言うべきだ。反出生主義にも賛同すべきだ。子供を持ちたいなどと欲望を持つから不幸になるのだ。何もこの世でなせなかった自分の代品として人間ペットを作り出し、搾取はダメだけど自分の子供はより低い立場である保育士に預け自分はホワイトカラー労働でさらなるキャリアアップを目指し、多様性は大事だけど自分の子供は塾に入れて私立の上流階級の上品な空間で育て、生産性差別はダメだけど自分の子供は社会で貢献できる素晴らしい人材になってほしいと考えるような、そんな思考は今すぐ捨てるべきだ。やめるべきだ。さっさと全ての欲望から自由になれ。捨てられるんだろ?降りられるんだろ?降りないのは有害な男らしさにとらわれてるからなんだろ?嫌だとは言わせないぞ。
大体、昨今の生産性がなくてもいい!みたいな議論にも無理がある。社会の中で何の役割も果たせなかったら無力感で強い苦痛を感じるに決まっている。生産性とは社会の中で役割を果たすことに他ならないのだから。そんな人たちに居場所を与えない社会が悪いと言うかもしれない。だが、そんな居場所でやるべきことが何もできないからこそ弱者なのだと言うこと、誰かがその負担を引き受ける必要があるということを忘れている。生産性がなくても肯定されるべきというのは、あなたがバリバリ働く横でとなりのおっさんがもたもたもたもた、機械は苦手、ミスも多発で全体にダメージ、それでもその男を会社に必要な存在として同じ給料で受け入れることを意味する。精神的に受け入れるなんて絵空事で、カネがなければ生きていけない以上カネを払わないなら受け入れないのと同じことだからだ。同じ給料なのは、競争志向は有害な男らしさである以上それを促進する効果を持つ社会制度は撤廃されるべきだからだ。能力に応じた地位配分であるメリトクラシ―は撤廃すべきだ。そもそも能力なんて、生まれと育ちに大部分決定されたものである以上、個人にその果実を与えるのはおかしいのだ。もしこれを拒否するなら、フェミニストはこれを利用して、自分たちはフェミニズムという学問を修めた以上それにふさわしい支配階級としての地位を求めるに決まっている。他の人に競争させたくないのは、自分達こそが高い地位を独占してカネを手にし支配力と欲望を思うままに発揮しホストを侍らせ酒池肉林をやりたいからではないのか。そうでないなら、全ての人は全ての欲望を捨てろと言うべきで、男は有害だとばかり言わず女にもカレシ作るな、競争志向やめろ、そんなものはいらないはずだと主張しゆるやかな社会の滅亡を目指すべきではないのか。女の欲望はこれまで優先されてこなかったのだから優先して叶えられるべきだなんて差別論理で女が全肯定されるとでも思っているのか。女批判は全部ミソジニ―でマンスプレイニングだと言えば聞く必要がなくなるのか。男批判も女批判も平等にツイッターで叫ばないのはなぜか。生産性がなくてもいいなら、出産と労働への欲望だけ特別の地位を与える必要はあるのか。わきまえていないのは社会に対してでなく、自分の叶いもしない無際限の欲望に対してではないのか。
フェミニズムは生産性を拒否した果てに、相互承認の相互ケア社会を夢見ているのかもしれない。そんなものは無理に決まっている。誰が、何日も風呂に入っていないホームレスの人間を受け入れ、肯定し、ひいては抱き締めるようなことができるのか。フェミニストはそれを積極的にやれているのか?誰も何の役割も求められない社会で、承認を得る手段として家族も労働も拒否するなら、相互ケアしか道がない。なら、キモくてカネのないおっさんおばさんクソガキ不良反社不潔人間障害者重病人外国人、ケアする能力を持たない不幸な孤独者を誰がケアするのか?女にだけ求められていると誤読される恐れがあるから、フェミニストも、男も、LGBTも、社会の全ての構成員が全ての構成員をケアする義務を持つ社会と化す、と強調する。解決策としてケア役割を職業にしようとするならば、結局自分はフェミニズムという上流学問を修めた以上上流階級がふさわしくそんな下品で誰もやりたくない仕事はフェミニストはやらなくていいはずだという傲慢ではないのか。社会から疎外された弱者がその役目を負うことになることに目を向けるべきだ。相互ケアなんてできるわけないのだ。誰もがケアされる側になりたいに決まっていて、他人のケアなんてまっぴらごめん、誰かに押し付けたいに決まっているからだ。念のため言うがカレシカノジョパートナーを作って承認を得るなんて可能性があるはずはない。好みの顔面や肉体による他者選別なんて、誰も配慮する必要のない社会的に構築された欲望でしかないからだ。欲望する存在としての人間は全て否定されるのだ。
以上見たように、「社会的に構築された欲望」理論からは、全ての人間は全ての役割規範と欲望を放棄し、全ての承認の根源を失い、静かに死んでいき社会を滅亡させるのが善だという結論以外はあり得ない。東京スカイツリーの展望台から、一人一人丁寧に飛び降りるのだ。環境問題も少子化問題も解決され、最高の未来が約束されている。死は救済だ。