はてなキーワード: 投稿サイトとは
コロナ禍でオンライン授業サービスが普及し、あちこちの公共WiFiでリモートワークする人が増えた。
オンライン授業サービスは実質的なVPN環境として機能してしまうため、このサービスを通じた嫌がらせが激増しているのだ。そのためWikipediaなどの大手投稿サイトではオンライン授業サービス経由の投稿を禁止(IPアドレスの錬次ブロック)している。しかし全てのオンライン授業サービスをカバー出来てるわけではなく、もぐら叩き状態だ。
公共WiFiについても同様。接続者の情報が完全に隠蔽されてしまうため、これを通じた嫌がらせ投稿も激増している。つまり公共WiFiはサイト管理者から見たらプロキシやTorと変わらない。もちろん投稿サイト側は見つけしだい投稿禁止処理をしてるし、公共WiFiからの投稿を規約として禁止しているサイトも多いが、これももぐら叩きでしかない。
先日、R-18のSSネタがなんとなく思い浮かんだので書きあげてなろうの18禁女子部(適当)ことムーンライトノベルズに投稿した。
時々pixivで二次創作BL小説を投稿することがあるのだけど、その時は一、二時間くらい待てば幾つかはブクマがついたり、いいねされたりしていた。
元ジャンルブーストが掛かる二次と後ろ盾のない一次の壁、投稿サイトの違い、いろいろ理由はあるだろうけど、やはりちょっと堪える。
アクセス解析を見てみたら、PV自体はいくらかあるっぽいけど、チラ見ブラウザバック勢が多いのだろうか。
(一番楽観的な見方だと、未ログインで読んでる勢が多いと考えることもできなくはない)
一つでもいいから反応がほしい……
カナダ首相をヒトラーにたとえ テスラCEOマスク氏投稿、その後削除
米電気自動車(EV)大手テスラのイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)が短文投稿サイトのツイッターで、カナダのトルドー首相をナチス・ドイツのヒトラーにたとえる投稿をし、その後に削除したことが分かった。米メディアが17日報じた。
カナダ国内で拡大したトラック運転手らによる新型コロナウイルス対策規制への抗議デモをめぐり、デモ資金用に寄付を集めていたとされる暗号資産(仮想通貨)の口座をトルドー政権が制裁対象にしたとの報道に、仮想通貨の普及を支援してきたマスク氏が反応。ヒトラーが「私をトルドー氏と比べるのはやめろ」などと述べているように見せる画像を投稿した。
米国ユダヤ人委員会は声明で「大量虐殺した独裁者になぞらえることが、自分が同意しない政策を批判する適切な方法だと考えているかもしれないが、決してそうではない」とマスク氏を非難し謝罪を求めている。(共同)
https://www.sankei.com/article/20220218-OW3TWRHBKBJIJISDVIPWOJ6HYA/
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
エンパワメントとかシスターフッドという言葉が好まれるのもその一環と考えらえるし、そんな前向きな所まで至らない、まず苦しみや怒りを吐き出させてくれという層もいるだろう。
弱者にとって慰め合う場があるのは良いことなのだが、セラピーとしてのフェミニズムと、学問や言論としてのフェミニズムが分離されていないために、言論としての信頼度は弱まってしまう。
それが、フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていること自体を批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
冷静な研究者と、傷ついている当事者は、兼任しようとすると問題が生まれやすいのでどちらか片方だけの立場に立つべきなのだ。
〇 冷静なフェミニズム研究者が、「困った女性のための駆け込み寺やセラピーの場や、肯定しあえる関係は必要だよね」という学問的理論を組み立てるのはOK
〇 セラピーに集まる傷ついた人たちが、フェミニズムの用語で理論武装することも、武装しつつ過激な主張をするのもOK。(セラピー的な場の発言は、過激なことや邪悪なことも原則許されるべきである。その反面、そのまま社会への要求として世の中に伝えるべきではない)
× 自分に傷が深く残っていて冷静な振る舞いができない人間が、研究者としての発言力を得て、セラピーで患者としてするべきな過激主張を研究者の立場でしたり、他のセラピー患者の内面吐露をちゃんと検討せず世の中にぶつけたり、学者同士でも肯定しあう関係じゃないと耐えられなかったり、そういうのはNG
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、患者がセラピストもやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
全てのフェミニストが病んでいると言っているわけではない。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や臨床心理士といった専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者や研究分野の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が過激化するエコーチェンバーも防げる。外部の一般人が当事者の無茶な話を直に聞かされて、振り回されて悪感情を持つこともない。
これらの全てが完全に徹底されてはいないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、様々な弊害の抑制はできている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者、全てが一体になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、セラピー的な場と議論の場がごちゃまぜになっているせいだ。
私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシングするな、というなら真っ当である。
言い方や内容にしっかり気を使うから議論として発言を真面目に聞いてくれ、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやらせてくれ、自分はセラピー的にぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれというのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーになりたがる若者はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はないが実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛後派の過激な主張の角を取って一般社会的に妥当で持続性のある動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた患者や当事者と近かったり同一人物だったりして、監督者のいないまま野良セラピー的な語り合いをし続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるが社会的妥当性の薄い発言みたいなものが研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われるのはそのせいだ。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その発言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の発言として生暖かく見られている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ発言をそのまま重用したり、著名な研究者が自分の当事者性を切り離して冷静さを保つ努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
私がフェミニズムやジェンダー学のセラピー的機能と、学問・言論的機能の混在の弊害をわかりやすく感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けているサイトだ。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割に回数は少ない気がする。特にはてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の方に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のスラックか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そう言う人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
編集長の伊藤あかりさんのツイッターbioには"「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」という感じ。"と書かれているのだから。
この世に、傷ついた若い女性のための当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で文章が発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者も、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
コンテストに出場した清居だったが、一位にはなれず。コンテスト終了後に一人きりで悔しがる清居を追いかけ、声を掛ける平良だったが、拒絶されてしまう。夏休みが終わると、教室のヒエラルキーが一変。清居はコンテストで入賞を逃した。たったそれだけの事で城田達、元清居のグループが清居外しを始め、それはやがて露骨なイジメへと進展してしまう。城田達による清居への悪辣な嫌がらせに遂にキレた平良は……。
これまで、原作に比べると純朴で可愛い印象だった平良が、ここへ来て原作通りの根暗アグレッシブ俺様ぶりを発動! マシンガンを構える平良の闇の深すぎる目線にシビれた。てか、「マシンガンがあればいいのに」って独白をバッチリとマシンガンをぶっ放すシーンで表現してしまうの面白いw なのに平良が城田に殴りかかってボコボコにするシーンは写さないし、平良の顔や身体に跳ね返ってるのは血糊ではなくトマトジュース(城田が清居にぶっかけたやつ)にしてしまうという、謎の表現規制w
平良役に萩原利久を当てたことに当初は批判の声もなくはなかったんだけれども、萩原利久で本当に良かったとしみじみ思った第3話だった。あの平良の目つきを再現出来る役者は他にいないのではないかと思った。あと、跪いて清居の手の甲にキスするシーン、腐女子の夢がめっちゃ詰まってた!
城田が平良に八つ当たりした理由がわかりにくいような。といって私も原作の部分を正確には覚えていないけど……二学期初日に城田と二人で自撮りしてた元清居ファンのロリ顔巨乳ちゃんが清純そうな顔して二股かけたせいで別れた、というやり場のない怒りを通りすがりの平良にぶつけたとか、そんな感じだったような気がした。そんなドロついた背景のある城田とロリ顔巨乳ちゃんが、卒業式には何事もなかったかのように和解しているのには笑った。平良と清居の同級生達は小学生かよってくらい幼い。城田があまりにもアホな言動をする子にされているせいで、やること最悪なのにいい子っぽく見える。そもそも高校三年生なのにクラスで亀を飼っていたりとか、夏休みの宿題を写し合いしてるとか、謎にリアリティの無い高校生活描写なのは一体何故なんだ。
清居がハブられたせいで思いがけずに訪れた平良と清居の二人だけの時間が、萌え萌えしくてよかった。お家で一緒に宿題したりとか、自転車二人乗りで帰ったりとか。
さて、残りあと2話。次回にはあのビーバー小山が登場する訳だが、陰のあるイケメン平良&清居とは真逆の陽キャ爽やか系イケメンな高野洸が小山役を担当しており、半端ないラスボス感が! しかも爽やか良い人そうな役作りでありつつ、なんだか「お前自分がイケメンだってこと良く分かってるだろ」って感じさせる、うっすらとした嫌味のある演技。ビーバー小山感ハンパない。予告では平良と小山の前に立ちはだかる清居……これまたキングのオーラを放っており、来週も見逃せないな。
平良役の萩原利久、清居役の八木勇征、小山役の高野洸は将来ビッグな役者になりそう。今もう既にすごいし。
正直読んでもあらすじが今ひとつ分からなかったのだが、エジプト神話の話。
1話全部と2話の殆どが神話パートで、2話の終わり辺りでアヌビスが父のセトに歯向かい、そこにホルスがやって来て、ボコられた。3話でイシスがセトに殺されかけて、ホルスがセトを刺す。
シーモアで3話無料だったので読んだのだが、3話までではさっぱりストーリーがわからない。分からなさ過ぎるよ!
ENNAD(エネアド。ヘリオポリス九柱神)の一人セトが暴虐の限りを尽くし、ホルスがそれを止めようとセトと王座を巡って闘うわけなのだが、Pixiv百科によれば、どうやらセト←ホルスのBLであるっぽい。なるほどわからん。面白そうではある。買って読むかというと……保留かな。
なんか……たまに韓国BLを試し読みしてみると、ストーリーがかなり殺伐としているので驚く。海を超えてまで人気が出るような作品だからこそ過激な作風なのかもしれないけど、愛憎の憎の部分がめちゃ強いのはなんなの……。
とあるBL書きのコミュニティで、BLと非BLの違いってなんなの? と聞かれた。
アマチュア字書きの書くBLの場合は単に男同士が愛し合ってるかセックスしてるかというだけで他に確たる決まりはなさそうだよ、でも商業BLはそれだけでなく他に守らなきゃいけない掟があるようだよ、と私は答えた。
そしたら質問者が「じゃあ私の作品はBLではないってことですか。私はBLだと思うんですけど、BLというジャンル設定で小説投稿サイトに投稿したらダメなんですか」と食ってかかって来たので相手をしたんだけど、どうも要領を得ないというか……。そもそも最初にアマチュアの字書きの書くBLは男同士が愛し合ってるかセックスしてるかというだけで他に確たる決まりはないって言ったじゃん! アマチュアなんだから好きに投稿すりゃええがな。誰も文句なんか言わぁしねえよ! と思ったけどそんなこと言ったら怒りそうだから丁寧にリプライした……。
質問者は自分の作品なんかクソクソのクソだからプロになるなんて夢もまた夢だと言いつつ、BLってなんですか? 女性向けってなんですか? ライトノベルってなんですか? 等、アマチュアがWeb上で投稿する限りにおいては別にそこまで厳密に考えんでもいいことを、あくまで商業作品の定義としてどうなのか? っていう意味で聞いて来るので困った。一体、この人は何なの? 死ぬほど自信が無いと言いながら実はプロ目指していたりするの?
段々相手するのが馬鹿らしくなってきたけど、真面目に対応しないとキレ散らかしてコミュニティーを荒らしに荒らしてから垢消して去る系かなと思ったので、「ggrks」と言いたいのを抑えて分かる範囲で答えた。
最終的に、
「ジャンル分けを気にするのはプロになろうと思ってコンテストに応募する時だけで、ただ投稿サイトに投稿するだけなら、自分がBLと思ったらBLで投稿すればいいってことですね」
と分かって貰えた……。と思ったら、
と、話が振り出しに戻った。
BLなのに「非BL」とは。
作者自ら本作を「BL」と明言しており、編集部もBLとして売り出したようなのだが、本作は某BLレビューサイトには「非BL」作品に分類されている。何故なのかというと、単にBLレーベルの作品ではないからだと思う。だが、レビューを見てみると、本作が「非BL」に分類される理由はレーベルの問題以外にもあると思う読者もいるのがわかる。
男×男=BL ではない。
実は商業BLにはけっこう厳しめのルールがあって、それを満たさないものをBLとは見なさないようなのだ。私の知っている限りでは、以下のルールがあるっぽい。
何よりもボーイズがラブすることが最優先であること。(話の面白さは二の次である)
主な読者である女性を不快にさせることを書いてはならない(例:攻めの浮気描写。女性とのセックス描写。そもそも無駄に女性キャラを出すとかあり得ない。など。)
そんな感じなので、セックスどころかキスもハグもしない『日々、君』はBLではないと言われてしまう訳だ。けれども、恋愛になりそうでならない感じでもだもだしつつ、着実に互いの距離感を縮めていく描写は、恋愛ものの基本かつ根幹って感じがするよなぁ。
なお、上記で紹介した『左近の桜』もレーベルの問題で非BLなんだけど、亡霊達×桜蔵という、桜蔵総受けBL状態でありながら本命のカプと見なされる柾×桜蔵はずっとノータッチ状態なのがまた非BLとされる一要素かもしれない。
はぁ……、商業BL(とそのファン)って面倒臭いな。以下、BL雑記。
BLというジャンルが確立されたせいで行き場を無くす表現もある。
商業BLにはルールがあるが、個人で書いているぶんにはそこまで厳格にこれはBLだがあれはBLではないとかやらなくていいはずだ。
ところが、Web投稿サイトに投稿するとなれば話が微妙になってくる。中にはBLガチ勢字書きや商業で食っていきたいセミプロBL書きとかも混ざっている。読み手にしても、漠然とBLっていうのは男同士でヤってればいいんでしょと思ってるだけの人から、商業BL同等の物を読みたい人もいる。
私個人の感覚では、BLを書いて投稿サイトに投稿し、多くの人に読まれたいと思ったら、商業BLのルールに則った物を書くのが無難なのかなって感じる。人類の半分が女だからって登場人物の半数が女だったりとか、攻めが浮気しまくりとか、カプ離別バッドエンドとかは書かない方がいいんじゃないかと……。ただ無視されるだけならまだしも、「それはBLではないです」って苦情が来たらつらいし。
じゃあ、そんなBLルールは窮屈だからってBLタグを外して「ヒューマンドラマ」だの「サスペンス」「学園ドラマ」etcのタグだけ着けて投稿すれば、後から親切な読者に「BL」タグを追加されるとか、「腐媚びキメェ」と苦情が来るかもしれない……。なまじっか面白い物を書いてしまった場合、BLと明記しなければ人はそれを一般向けとして読む……ばかりか、何となく「男性向け」に近いものと読んでしまい、後から「なんだよ女向けじゃねえかよ」とか「もっと男が喜ぶようなこと書けよ」って苦情も来るかもしれない。
……とかいう話を、最近、とあるBL字書きコミュニティで話し合ったのだった。BLというジャンルがあるせいで、BLではない男×男の作品って行き場がなくない? と。
で、どうする? って話で。対話の相手は、そんなら仕方ないから腐女子から顰蹙買ってもいいからBLと言い張って書くよ、とのこと。一般向けと見られて、もっと人気を出すために男向けの表現……たとえば従順で可愛い巨乳の女を書くくらいなら、生意気で男の言うことをきかない女の登場する「BL」を書きたい、と。なるほど。
プロの世界なら、純文学とかエンタメ系という性別どっち向けとかないジャンルで書いていけるけど、Webの素人小説書きはどっち着かずではやっていけないんだよね……という話。
それとは別に、私が思うBLの不自由で厄介だと思う点は、BLは男同士の関係が恋愛に帰結するということ。虐待も執念も「愛ゆえ」ということになってしまうので、へたに男→男の性犯罪からの復讐譚みたいなものを書いてしまって、それをBLとしてWebに投稿しちゃったりすると、暴力描写が「癖」とみなされ一部の読者がたいそう喜ぶ……かもしれない。というのは、よろしくないよなぁと思う。たとえば殺意は殺意なのだが、BLマジックがかかると恋情や愛情になってしまう。という歪さかげんにむずむずする時がある。
少ないお小遣いで何買って読もうかなってしばらく考えた。来月の二日に『その花の名を知らず』(長野まゆみ)が発売されるというので、もう何も買わずに来月末まで待って、またお給料が出たら我慢して貯めた千円に新たなお小遣いの千円をプラスして買おうかなと思ったけど、やっぱり後回しにすることにした。なお、『その花の名を知らず』は『左近の桜』シリーズの第四弾である。二年くらい連載されていたらしいので、1冊で二巻ぶんあるはず。
ついでだから、最近読んだ訳ではないが『左近の桜』を紹介しておこう。
左近桜蔵(さこん さくら)は、武蔵野のとある旅館の女将の息子である。彼の家の生業は、実は男性専用の連れ込み宿だ。
ある日の夕方、桜蔵は番頭の代わりに客を迎えに出て、間違えてこの世ならざる者を拾って来てしまった。その一件以来、桜蔵はしばしば謎の引寄せ体質により、亡霊を拾って来るようになる。そんな桜蔵のことを父の柾(まさき)はそれはお前が「女」だからだと言うのだが……。
舞台は現代の東京ながら、江戸情緒の僅かに残る世界観。主人公の桜蔵が己の変わった体質により事件に巻き込まれ、毎度「アッー!」なことになる、短編連作集。また、桜蔵の出生の秘密を解くミステリー要素ありいの、桜蔵と父柾とのBL要素ありいの、読み応えがあるシリーズ作品だ。
個人的に気になるのは柾×桜蔵あるいは柾←桜蔵のほんのりBLがこれからどうなっていくかだなぁ。柾に対する桜蔵の思いはうっすら恋情もありつつ父への慕情とか憧れ。作中時間が経つごとに着々と老いていく柾と成長していく桜蔵。いずれ桜蔵が父を超えていく父子相剋物語になるのか、それとも桜蔵が成熟した「女」となって柾に抱かれるかなんかするのかっていう。
柾と桜蔵の本当の父親がどういう関係だったのか、過去の話もいつか明かされるのか、たのしみ。
さて、結局『その花の名を知らず』を買うのを見送って買ったBL……というか、非BLはこれ↓
脚本家の蓮野は仕事が忙しくなり、ただでさえ苦手な家事が回らなくなってしまった。そこで、前からちょっと気になっていた後輩の日暮を呼び出し、家事手伝いのバイトを頼むことにした。
苦もなく家事をこなし、頼めば一緒にご飯も食べてくれる日暮に対し、蓮野は感謝以上のなんとも形容しがたい思いをつのらせていき、やがて日々を日暮のことばかり考えてしまうようになる。
前におすすめされてpixivで読めるぶんだけ読んだんだけど、一巻まとめて読んで、すごいなと思った。
何がすごいって、四コマ形式のコマ割で描かれていること。一ページ8コマの配分なんだけれども、ちゃんと四コマごとに軽くオチのようなものがついているというか、そこで一区切りがついているということ。四コマをはみ出して半端なコマ数で一旦途切れるということがない。そして、8コマぶんで一回り大きな一区切りだし、数ページで「1話」として綺麗に完結している。そして1冊の漫画として綺麗に終わっている。(全2巻らしいんだけどね。)
す、すごい……作者は四コマを描くために生まれた、四コマの神なのか? BLとしてどうこうという以前に漫画が上手すぎてこわい。絵も可愛いしなぁ……あぁ、すごい……。
作者自ら本作を「BL」と明言しており、編集部もBLとして売り出したようなのだが、本作は某BLレビューサイトには「非BL」作品に分類されている。何故なのかというと、単にBLレーベルの作品ではないからだと思う。だが、レビューを見てみると、本作が「非BL」に分類される理由はレーベルの問題以外にもあると思う読者もいるのがわかる。
実は商業BLにはけっこう厳しめのルールがあって、それを満たさないものをBLとは見なさないようなのだ。私の知っている限りでは、以下のルールがあるっぽい。
そんな感じなので、セックスどころかキスもハグもしない『日々、君』はBLではないと言われてしまう訳だ。けれども、恋愛になりそうでならない感じでもだもだしつつ、着実に互いの距離感を縮めていく描写は、恋愛ものの基本かつ根幹って感じがするよなぁ。
なお、上記で紹介した『左近の桜』もレーベルの問題で非BLなんだけど、亡霊達×桜蔵という、桜蔵総受けBL状態でありながら本命のカプと見なされる柾×桜蔵はずっとノータッチ状態なのがまた非BLとされる一要素かもしれない。
はぁ……、商業BL(とそのファン)って面倒臭いな。以下、BL雑記。
商業BLにはルールがあるが、個人で書いているぶんにはそこまで厳格にこれはBLだがあれはBLではないとかやらなくていいはずだ。
ところが、Web投稿サイトに投稿するとなれば話が微妙になってくる。中にはBLガチ勢字書きや商業で食っていきたいセミプロBL書きとかも混ざっている。読み手にしても、漠然とBLっていうのは男同士でヤってればいいんでしょと思ってるだけの人から、商業BL同等の物を読みたい人もいる。
私個人の感覚では、BLを書いて投稿サイトに投稿し、多くの人に読まれたいと思ったら、商業BLのルールに則った物を書くのが無難なのかなって感じる。人類の半分が女だからって登場人物の半数が女だったりとか、攻めが浮気しまくりとか、カプ離別バッドエンドとかは書かない方がいいんじゃないかと……。ただ無視されるだけならまだしも、「それはBLではないです」って苦情が来たらつらいし。
じゃあ、そんなBLルールは窮屈だからってBLタグを外して「ヒューマンドラマ」だの「サスペンス」「学園ドラマ」etcのタグだけ着けて投稿すれば、後から親切な読者に「BL」タグを追加されるとか、「腐媚びキメェ」と苦情が来るかもしれない……。なまじっか面白い物を書いてしまった場合、BLと明記しなければ人はそれを一般向けとして読む……ばかりか、何となく「男性向け」に近いものと読んでしまい、後から「なんだよ女向けじゃねえかよ」とか「もっと男が喜ぶようなこと書けよ」って苦情も来るかもしれない。
……とかいう話を、最近、とあるBL字書きコミュニティで話し合ったのだった。BLというジャンルがあるせいで、BLではない男×男の作品って行き場がなくない? と。
で、どうする? って話で。対話の相手は、そんなら仕方ないから腐女子から顰蹙買ってもいいからBLと言い張って書くよ、とのこと。一般向けと見られて、もっと人気を出すために男向けの表現……たとえば従順で可愛い巨乳の女を書くくらいなら、生意気で男の言うことをきかない女の登場する「BL」を書きたい、と。なるほど。
プロの世界なら、純文学とかエンタメ系という性別どっち向けとかないジャンルで書いていけるけど、Webの素人小説書きはどっち着かずではやっていけないんだよね……という話。
それとは別に、私が思うBLの不自由で厄介だと思う点は、BLは男同士の関係が恋愛に帰結するということ。虐待も執念も「愛ゆえ」ということになってしまうので、へたに男→男の性犯罪からの復讐譚みたいなものを書いてしまって、それをBLとしてWebに投稿しちゃったりすると、暴力描写が「癖」とみなされ一部の読者がたいそう喜ぶ……かもしれない。というのは、よろしくないよなぁと思う。たとえば殺意は殺意なのだが、BLマジックがかかると恋情や愛情になってしまう。という歪さかげんにむずむずする時がある。
どこの投稿サイトでも、
・直接自演
・間接自演
・直接互助会
お互いにポイント入れ合おうぜー
・間接互助会
などの不正行為はずっと起きてる。
運営が排除できるのは、複垢とかでのポイント稼ぎとあからさまな互助会ぐらい。(互助会も手入れを行うと潜るので対応しにくくなる)
たまに、同じマンションとかで偶然IP一緒で自演じゃないなのに……みたいな事故も起きてた。(作者の言葉を信じるのであれば)
あと、お気に入りユーザーの件数を絞ったり、むやみなフォローやコメントを制限するみたいなこと。某はてなが関わった投稿サイトでも初期は酷かった。
ランキングが荒らされて、結果良作が駄作に埋もれるみたいになって終焉に近づく。
けど、小説家になろうとかぐらいになれば、そもそものランキングに放り込むのにめちゃくちゃ労力が必要なぐらいのポイントが必要になってるし、初動で多少稼げても、内容が良くないとそこからどんどん落ちて行く。
連載続けていれば面白い作品になったのに運悪く見つからなくて心折れて筆も折る作者が一定数は居てそこはどうにもならないけど、ある程度は信用に足るランキングが出来ているような気もする。
自分的には全然好みでもない作品がバンバン人気出てくとか、個人の志向のほうが気になるぐらいで。
やってますよ、感を出すために、色んな制限かけたりとかたまに抜き打ちで(とか、有志の通報で)banしたりはあるけど、結局安定するためには、工作に負けない多数読者の存在に頼るのが一番な気がする。
アニメ化していない、二次創作界隈があまり盛り上がっていない、現在購入可能な公式グッズが一切ない、自分の好きなキャラが超メインキャラにも関わらず終盤あまり活躍せずに連載が終了した作品を好きになってしまい
モヤモヤや飢えのあまり初めて二次創作を書き始め、SS投稿サイトに3~4回ほど投稿をしたけどそれからぱったり書けなくなってしまった
書きたいネタはたくさんある、中途半端に書きためているSSもたくさんある
でも「ここの表現がなんかくどいな……」「こっちは逆に淡々として説明的すぎるな……」など細かい部分が気になったり、
ここでこういう情報を出したいんだけどどう表現したらいいんだろう?とりあえずいったん箇条書きにしとくか、など後回しにして全然完成しない
ツイッターには絵描きのためのライフハックが山ほど流れてくるのに字書きのための便利サイトやテクニック、おすすめの指南書などの情報はあまり見かけない
検索すれば小説の書き方についてのサイトは出てくるが、ブクマも全然ついてないし、どれくらいの人がこのサイトが参考になったと思って実践しているのか分からない
みんなどうやって上手くなってるんだろう?ここの表現明らかに変だなーと思っても直し方が分からなければそのままにしてとりあえず完成としてどんどん投稿してるんだろうか
ここまで「ない」が10回ほど出てくる
あ~~~~難しい~~~~~~~~
「イラストコミュニケーションサイト」を名乗るPixivというサイトがある。東京都渋谷区千駄ヶ谷にある企業が正々堂々と運営している(資本金1250万円)。主にプロ・ハイアマチュアのイラストレーターが集まっており、高品質な自作のイラストが無数に投稿されている。ユーザーは日本語話者が主だが、少数の簡体字および繁体字中国語話者がいる。国内のイラスト投稿サイトとしては最大手であると同時に、ニコニコ静画など他の国内の極少数のサイトともに、ユーザー流出のない閉鎖された文化圏を形成している。利用形態は:
・(人により)Twitterに上げた絵置き場として使う
これくらいだ。以下の行為は出来ない:
・他人の絵を投稿する(掲示板で拾った絵、作者不明の画像、面白スクショやコラなど)
さて、このPixivだが、何故か英語圏に「アングラ・違法系の犯罪サイト」だと主張する一部の層がおり、確たる証拠はないもののPixiv狩りがしばしば行われている。英語圏でオタクと会話している際に、Pixivの名前が出るとたんに、いわく、Pixivは「違法な児童ポルノや獣姦画像が集まっている」「テロ行為を共謀する連中が集まっている」「ダークウェブのアングラサイトである」等、言いたいことは分からないでもないがどうしてその結論に至ったのかさっぱり分からない言説が突如飛び出て、Pixivはインターネットの汚点である、なんとかして排除しなければならないという方向に話が向かうことすらある。なかなかに事実無根である。
問題なのは、どうもこれを真に受けているのか逆恨みが酷いのか何なのか、Twitter上において「Pixiv狩り」が度々行われていると見えることだ。すなわち:
・Twitterにおいて、
・プロフィールにPixivへのリンク(http:// pixiv. net ...)を含むイラストレーターが、
・違法な画像や著作権を侵害する画像をアップロードしたと言われ、
・アカウントを凍結(停止)される
ケースが、定期的に大量発生する。
聞くにプロフィールページのリンクを使って「外部サイトから転載している証拠だ」と主張すると通っていた時期があるとか、起きたら日本時間の早朝に警告が三通来ていて三回連続の違反として凍結されていたとか、ロシア国内法に違反するという理由を使ってくるとか、肌色の面積が大きいとまずいからモノクロの方がいいとか、逸話は色々とあるらしい。ただし「プロフィールにPixivへのリンクを貼っていた」点はほとんどのケースに共通している。一昨年頃の波でこの話が古参兵の暗黙知として広まり、Pixivのアカウントへのリンクを消したり、Pixivアカウントを消したり、リンクにワンクッションを置いたりする作者が増えているようだ。Pixiv運営もそれとなく手は講じており、イラストレーターを支援できるパトロンサービスを立ち上げるなどしているが、戦況は必ずしも芳しくない。
このPixiv狩りを仕掛けている犯人集団のプロファイルははっきりとはしない。プロテスタント系原理主義者かもしれないし、4chan辺りから流れているかもしれないが、個人的にはその二つの集団から凍結されて逆恨みしている利用者(Pixiv運営は「できない」行為をするアカウントを凍結する。Twitter運営の「Twitter統治に干犯するため凍結しました」式の振る舞いはしていない)と、単にイラストの好みが合わない外部者が混ざって結合しているのではないかと思っている。あるいは地理的には中央アジア系かもしれないと思う。先にPixivには高品質の自作イラストが無数に集まっていると書いたが、これは世界的に見れば極めて特異で、まず自作イラストを描ける利用者はおらず、高品質という条件が付けば数えるほどになる。一般的にはPixivと同類のUGCサイトならば悪質なコラや転載画像が多数を占め、それらの盗難画像に対して投稿者へ承認が与えられることが当たり前で、転載するなら元画像へのリンクを張れ、元サイトの作品ページへのリンクで出せというルールですら敷けているところは少ない。つまり、世界で戦えている転載厨は、Pixivで承認欲求を充足しようと思っても、一切その術を持たない。Pixiv運営に対してこれを真面目に受け入れてやれというつもりはないが、長期的な課題としてこの文化の擦り合わせや挙動の管理は必要なのではないかと思う。
読者には、このPixiv狩りによって、日本のイラストレーターや日本の漫画文化が直接的に圧力を受け、作風を変えたりイラスト制作をやめる人を出す、発注が流れるなど委縮していることを知って理解してほしい。企業がイラストレーターに作業を発注する際に、Pixivはポートフォリオ、その人の作風を知る資料集として使われる。TwitterだけでPixivリンクがない作者には発注できないという書き込みも見かける。リンクがない理由は上記の通りで、彼らが表で理由を言えない理由は明らかである。日本においてPixiv以外の選択肢(省く)はなく、Pixivの運営形態以外の選択肢(転載を許すなど)もない。
本当につらすぎてかいた
私の好きな推しカプはそこそこ大手ジャンルの、いわゆる覇権ではないがそこそこの人口のカプだ。多分。
多分というのも私はこのジャンルが一番旬だったときより少し後にハマったため、一番界隈が賑わっていただろう当時のことは推し測ることしかできないからだ。
後からハマって二次創作作品を漁るくらい推しカプが好きになってしまうと辛いことも多い。
好きだと思った書き手は軒並み他ジャンルに移っており、続きものは未完のまま。かろうじて完売はしてないと思われる本について問い合わせてみても何ヵ月遅れの返事があればいいほうだ。作品に感動しても移動したジャンルの作品に感想を送るのは迷惑でないかとも考えてしまう。きっともうこの書き手はこのジャンルのこと、カプのことなんか忘れているのかもしれない。
私は推しカプも他人の推しカプ二次創作を読むのも異常に好きなタイプなのでよくあるこういった出来事が余計に辛く感じるのかもしれない。つかこんなに苦しんでるオタク他にもいてほしい。それくらい推しカプと推しカプ作品が好きだ。
作品投稿サイトでは私の推しカプの作品数は、二次創作をよく閲覧するオタクならすぐ一周できてしまうような数だ。誰かにとっての過去ジャンルの遺物のようなそれらを、紙の本だったなら擦りきれてしまうくらい何度も何度も読み返していた。その時間はささやかだけど本当に幸せだ。
ブクマ欄に空白が空いているのを見つけたときや、ブクマしたはずの作品がどうしても見つからない悲しさを体験したことがあるオタクは多いのではないだろうか。
なぜか私の推しカプはだんだんと作品が消されていく。自分でも投稿しているのに作品数が増えない。どんどん消えていく。書き手に作品を消したいタイプの人が多いのかもしれない。毎秒のように作品数が増える旬ジャンル覇権カプとは違い、減れば減るだけだ。毎日のようにその推しカプの検索欄にアクセスしているため消されればすぐ分かる。分かってしまう。気付かなければ悲しむこともないのに。
最初は投稿者にも何か事情があると考え堪えていた。自分の作品を消さずにはいられない、作品を残しておくことで苦しい思いをする書き手の人がいるということも十分理解しているつもりだった。
それでもその作品がもう閲覧できなくなってしまうという私の悲しみはどうにもならない。もう二度と閲覧できないということには変わりないのだ。だんだんと作品を消す書き手が憎くなるほどに悲しみは溜まっていった。
消されても見れるように絵でも小説でもローカルに保存すればいいのだがそれにも限界がある。ローカルに保存されるのを嫌がって右クリック禁止のサービスを使う人もプロフに禁止と書く人もいる。
そもそもローカルで私一人だけが見れるのと、いつでも誰でも検索すればアクセスできるのとは訳が違う。私はこのカプが増えてほしいと自分でも投稿してきた。増えろというならまず自分から、枯れ木も山の賑わいのつもりだった。今から私と同じように遅れてハマった人がじゃあ私もと投稿してくれるかもしれない。
でも私は私の作品で検索欄を埋めたいがために投稿している訳じゃない。投稿もしていないのに私の投稿作品の割合がどんどん増えていく検索欄がとてつもなく悲しかった。推しカプの書き手が作品どころかアカウントごと消していたときには本当に作品を投稿していた人間がいたことすら葬りさられてしまったのだと軽く絶望して、本当に限界だと思いこれを書き始めた。
消さずにはいられないとか残しておくのが辛いとかそんな書き手の気持ちなんかもうどうでもいい。私が好きな作品を消された悲しみには関係ない。書き手の消したい気持ちを慮ることで仕方ないと悲しみをごまかすのはもう無理だ。こんなに私は悲しいのに何が仕方ないというのか。今では推しカプ関係なく作品を消す全ての書き手に軽い憎悪すら芽生える。
ジャンルを去った癖になぜ作品を消す。本当に理解が出来なかった。もうこのジャンルのことなんか、カプのことなんかどうでもいいと思ってるなら私から推しカプがずっとここで読めるという安寧を、幸福を奪わないでほしい。
いるかも分からない読み手の気持ちなんて知るかと思うかもしれないがこっちだって書き手の消したい気持ちなんか知ったことではない。書き手の消したい気持ちなんか関係なく作品を消された悲しみは襲ってくるのだ。
もう逆になんでこんなに他人の、素人の小説やら絵やらにこんなに振り回されてるのかが分からない。毎回消される度に泣いてる。いっそ解放してほしい。推しカプに関する記憶を失いたい。
私が悪いのだろうか。ブクマも必ずしてる。感想がほしかったならいくらでも何度でも送る。つか送ってる。土下座して頭を地面に擦り付けてお願いしたい。作品を消さないでほしい。データがあるなら今からでもいいからもう一度投稿してほしい。
最後に。
自分の作品にはそんな熱心な読み手はいないから、と他人事だと思わないでほしい。
貴方に読み手のことを考える余裕があるなら、推しカプのことが好きなら。本当に作品を消さないでください。
以前、某投稿サイトに無料で作品を公開していた人が引退されていたのだが、この頃、別サイトに作品を投稿し始めた。
ものすごく残念だ。
無料で公開されていたからこそ、作品やその人を知ることが出来た。かなりマイナーな分野故、その分野の投稿する人自体が少なく、大変ありがたかった。この人のおかげで、同分野で作品を投稿する人も増えたかもしれない。
一方で、マイナー分野の作品が有料化されれば、余計マイナーになっていくだけではないか。
もちろん、自分の作った作品をどのように売るかはその人自身の自由である。しかし、今まで無料であったものが、有料化されるとなると、「金払えない奴はファンじゃない」と言われている気分になる。