はてなキーワード: 役者とは
嫌なら嫌で問題ないし見なければいいよと思うが、何故キャストに直接攻撃いくのかわからない。
不満をぶつける先は公式ではないの?
勿論見た目が気に入らないとかその役者が好きじゃないとかはあるだろうけれど、それを本人に悪意を持って伝える必要ある?
その役者にもファンがいるのに、わざわざ見えるとこで落ち度もないのに叩く意味がわからない。
一部の過激派だけだろうけれど、目立つ位派手に攻撃したりするからこのジャンル民度低いって思われるんだよ。
あと、原作ファンが「役者ファンが舞台直前にちょっとそのジャンル調べて舞台見にくるの許せない。にわかが見にくるな」とか言ってるの笑える。
声優にやらせろ派も多いけど、見目は特に麗しくないキャラクターにも似てないおっさん達にやらせて何が面白いの?
声優にやらせる意味は?見た目に拘らないならそういう舞台でなく目をつぶって聞けばいい朗読劇とかでよくない?
好きじゃなければ気にいらなければ、ジャンル衰退防ぐためにもまあ頑張って新たなファン呼び込んで私はいかないけれど、って無視したらいいのに。
ファンてめんどくさい生き物だな。
どちらも癒し系が良い感じの声をしている。そこまでは他にもいろいろ声優がいるんだけど
勿論ヒット作の影響もあるんだろうけど「唯一無二」な感じがあるからじゃないかなあと思うのだ。
丹下桜って「しっかりハキハキ喋る声優」では絶対無いし(滑舌そこまで良くない)
「どんな役でもこなす声優」でも無い(あの声が地声という驚き)
これは「のん」にも当てはまる(ただ昔髪が長いときやってた親に殺されかけたクール少女はハマってたけど)
勿論方言の完成度具合を見ると流石女優であるしその技量はあるが、声優として技量がある方では無い。(経験ほぼ無いので)
多分これから声優「のん」を聞いても「あ~~すずさん~~」としか思わないだろうけど
この二人と同じ声を出せる、そして同じような演技が出来る人って居ないんじゃないかな?
だからハマり役に入った時の爆発力があるんだろうと感じた。
声で言うと「この世界の片隅に」の主題歌コトリンゴと能年は音響監督によると同じ声域らしい。
「替えがきかない」とはこういった人たちのことなのかもしれない。
のんも、結局は名前を奪われたところで、どこからどう見てもどう聞いてもあの能年であるし「役者」に「名前」なんて実は大したものではないのかもしれない。
今回は裏サンデー
後半の漆原と心葉のやり取りがディスコミニケーションのお手本みたいで、不覚にも笑った。
円滑なコミニケーションにおいて重要なのは、多義に渡りやすい言葉の解釈を当事者たちで同じにしたり、軌道修正を細かにすること。
やり取りをする人たちで個人の事情だとか価値観だとか、前提の共有が成されている必要があるんだけれども、それをすっ飛ばすとグダグダになりやすかったり不和を生じやすい。
大雑把に言えば、伝える努力と理解する努力の両立が大事なんだよね(もちろん当事者たちがコミニケーションを求めていなければ話にならないけれども)。
漆原と心葉は互いのバックボーンを知らない上、その状態で話を進めたもんだから、ああなるのは必然だった。
モデルの件で心象が悪くなっているから、解釈の軌道修正をする余裕が心葉にはなくなっているし、漆原は言葉足らずなせいもあって逆なでするような発言を繰り返すし。
ラブコメっぽい感じは出しつつ、妙な警戒心を抱く描写がちょいちょい入るのは、あくまでスカしだってスタンスで読んでいいのだろうか。
穿った見方をするなら、ラブコメの差別化を図った結果よく分かんないことになっているのかと邪推してしまう。
そのあたりの方向性が定まっていないせいなのか、テーマと構成は一貫しているのに、表現だとか演出に何だかチグハグさを感じる。
当然、意図してさせているってのは分かるんだけれども、そのキャラがなぜそういう喋り方かっていう説明がないから軽薄だと感じてしまう。
例えば、吹き替えとかで日本の地方の訛りで喋っている登場人物がいたら、その役者や登場人物の元の喋りが訛っているが故の意訳とか、そういう妥当性はともかくにしても何らかの理屈が欲しい。
最近、人気の声優さんだと私のような声おたくでなくともこの人だ!ってわかる方増えてきたそうですね。
正直元々男性声優声おたくの身としては、どの声やっても同じ声色に近い方とキャラによって声を変える方でも、誰かすぐわかってしまうので、なにも問題ないんですが(笑)
ただ知らない人にとっては、あのキャラクターだと一緒の声だと余計なノイズが入ることになりますし、役者さんにとってそれは結構な重荷ですよね。
役者さんにとってどうしても着いたイメージやカラーはいつだって戦わなければならないものかと思いますが、今の時代そのイメージやカラーがどっと増えてきたなぁと思います。
何をやっても一緒とは思う人もいるんじゃないかなとなかにはいらっしゃるのですが、逆に言うとその前にあったキャラクターを踏まえた上での演技として見ると、ポジティブに捉えられたりするのではないのかなぁと思います。
最近の声優さんはキャラクターだけじゃなく本人のパーソナルな部分や他の役者さんとの関係性を売り出してる方も多くそのイメージやギャップがより受け手への情報過多を産み出しています。
その情報過多の中戦う役者さん達はすごいなぁと思うのですが、これは役者さんそのものを知らないと追えないことなので、役者さんのファンではない方に「また○○」と言われるのはいい意味でも悪い意味でも裏方から人気職業への変化の象徴とも取れます。
今人気の若い人達はともかく、アラサー以上の声優さん達は元々入ろうとした頃の業界と今の現状に相当なギャップを感じられているのでしょう。
よくよく考えたら男性声優さんは今の声優雑誌の表紙と10年前の表紙と同じ人でも成り立つ業界なので、このどんどん人気職業への変貌という進化の過程を今も見ているに過ぎないのでしょう。
渦中にいるとよくわからないことが多いのが常ですが、いつの日か振り返ったときにあの時すごいものを見ていたんだなぁと穏やかに思う日が来ますように。
一旦投稿
毬が転がった後の暗転が、すごく暗闇。DVD撮影日、最前列、と見たので、今まで実はそんな暗くなかった。
ほぼ最後尾だったので、暗闇がすごかった。
その暗闇から「不幸という言葉が…」という一説(長い)(日本どうこうまで入るよ)が聞こえると、井戸の中で亡くなったものの嘆きに聞こえます。
場所は紀州の孤島。「ここが最後の場所」と言う。物語の最後の場所であるらしい。
ちなみに舞台では紀州の孤島の諸戸屋敷を改装しているとやはり最後に言っている。
亡くなられた方が、私たちのいる現代に帰ってこられて、語られているようす。
鬼のことは姿が見えないという。
どうにも諸戸の最後の手紙に苦しんだという旨かのような発言に聞こえる。暗記できない…
なんというか簑浦と諸戸やはりお亡くなりになっていて一緒にいる。
私は学生時代の簑浦が「あつい手だね」と言ったこと、~`,+@~若いから嫌悪感なかったということなど、『私』の簑浦は諸戸との恋愛にどうしても繋げてしまう。
というか、学生時代の終わった恋の簑浦、諸戸との友情の箕浦というのは、状況的にはスッキリする。いや心理的にもそうなのだけど、後半の解釈がうまくゆかぬのだ…
箕浦「ここからは僕の物語」が、おそらくセリフとして正しいはず。毎日稽古しているようだけどセリフ変わってたらどうしよう…見る回によって難易度違うのは勘弁してほしい…
よくよく聞いてないと本当に流してしまう…
諸戸との再会は初代さんちで深山木さんもいる時でしたね。
作中で声が重なるのは4回。
「早くないですか」は、もっと諸戸と話したかった(のに邪魔された)という意味?
ヒグチは初代と秀子…あ~
言葉に二重の意味がある時に同時に話すのか? いや、私は原作からも「あつい手」を二人が同時に感じる相思相愛エロチシズム表現だと解釈している。これはハッピーエンドを目指すときに絶対に揺るがせない。
私>箕浦って世界への権力差は確実にある。これがな~どこまでを私とし箕浦とするか、というのが厄介にさせている。
いや逆か。おそらくどこかに数式の解があって、それであるならすべて説明可能になるように設定の証拠が上演されているのだ。
『私』と諸戸だと共犯関係のような雰囲気を感じるけれど、箕浦と諸戸は親しく親密にしていてもどこか絶対の別個体感があったんだけどなぁ。う~ん…印象に補正かけている気もする。
諸戸と箕浦に萌えるのって、それこそ不倫の恋のように感じて抵抗がある。初代から秀ちゃんに心変わりすることを「恥はないのか」と責めることと、まったく同じ事象が「箕浦が諸戸に心変わりした」という場面でも発生すると思うのだ。
諸戸と箕浦の身長差であるとか、近い距離感であるとか、激情を秘めた哀しみのHSK×鈍感素直な陽属性ノンケという組合せだとか、萌えなくはないのだけど…ってあーーーー!
これが「諸戸と簑浦は何かへんだぞ」か! そして箕浦は完璧なノンケの態度しかとっておらず、盗み見たり接触しようとしたり近い距離にドキドキしていそうなのは、変なのは諸戸の方だ!
そうだ、二回聞いたなと思っていたのはここだ。学生時代の思い出語りで諸戸の友愛や親切に感謝していると『私』は言い募るのだ。セリフの仔細はちがうだろうけど、井戸で襲われかけている時も『私』はそう募る。
どうにも『私』は諸戸と恋愛できる可能性を抱えているように見えてしかたなく…やはり手を握り返さない箕浦に驚いて『私』を見るシーンの解釈が…
あれ?もしかして再会してから、諸戸が初めて『私』を見たのがあの時か!?
ねえそれなら、諸戸は「手を握り返されられない」ことに『私』=簑浦の中にある恋の種に気付いたのではないか?
だから諸戸に見られた『私』は顔を背けその瞬間箕浦は手を握るんじゃないか?
ああそうか、もし諸戸が自分の身を恋に燃えるイドと美しい友情の超自我に分けられたなら…
丈五郎に滞在していけと言われた時、諸戸は先に『私』を見て「だってさ。」と言い、それから箕浦を見ている。
秀ちゃんが吉ちゃんの手を自分の胸にやるシーン。あそこは死んでしまいたいというセリフだっけ? 井戸の中で諸戸と死ぬことを受け入れた箕浦は、抱き締める諸戸の手をどうした?
あの時は吉ちゃんは発情していなかった。だから胸に手をやるのは凌辱表現ではなく、秀ちゃんによる吉ちゃんの受容だったのでは。セリフはなんだったか?
《みのうら》している箕浦は、諸戸の回想とか見えていない。だから語っている諸戸を見ている。『私』には諸戸の回想が諸戸と同じように見えている。
そう、秀ちゃんに恋したところを見咎める諸戸、めっちゃ非難する諸戸、あれって諸戸よりももう一人の自分みたいだったんだ。ある意味箕浦に似ていた、諸戸とは少し違わなかった?
私、簑浦が同性愛を否定するようになったのはあの夜以降で、その倫理形成は諸戸だったのではと思うの。超自我は教育で培われるでしょ、簑浦の同性愛嫌悪はそのまま自己否定する諸戸のようだと思うの。
「君は嫉妬しているの?」ってセリフ、あれはああ言うしかない会話の流れででもそしたら嫉妬しているって答えるしかなくてじゃあ今こそ受け入れてくれるの?って流れになるに決まってて…って思うんだけど、そこでも簑浦は友情しか受け取らない…「うん秀ちゃんが無事で嬉しい」って言えばよかったの?
私は10年ちょっとくらい男性声優のイベントをうろうろしているのですがトラウマがありました。
それは友達に誘われて行った本命も推してる人もいないけど、名前は知ってる人達だから行ったイベントでした。
当時は今みたいにイベントなかったし私の推してる人達は正直言って売れてなかったので、いつかのために慣れようと誘ってくれたのです。
イベントは2-3回くらい回しの公演で誘ってくれた友達は本命がいるからと全通していて、その日の最後の公演だけ私も入りました。
内容はちっとも覚えてません。
「複数公演来るのはやめてほしい」
と言っていたから。
シンと静まり返る会場にフォローに入る他の役者さんの真っ青な顔と友達が泣き崩れながら帰る姿しか覚えてません。
当時の私にはなんでそんなことを彼女が言われなきゃいけないのか理解できませんでした。
今の私なら多少わかります。
たくさんの人に見てほしい、入らなかった人もいる、一度見た人だとやはりリアクションが薄くなりがち…などなど。
その言った方は今も活躍されてる方なのでも今ならきっともっと上手に別な言葉で伝えてくれるだろうなとも。
(でも今思って見たら当時は本人確認もないし、余裕で協力でチケット取れたレベルなのになぁとも思う。
ついホームのお客さんだと思って甘えたのかな…?)
でも当時の私には単純な怒りとお金払って楽しみに来た客にそんなことを言えるなんてという気持ちと、今売れてない私の推し達もそういう風になっていくのかという勝手な不安。
別に自分からしたら、なんでもない人の言葉なのに結構長い間心に残りました。
そしてイベントに参加するってなんだろう、応援するってなんだろう、ファンってなんだろう。
最近最前同じ顔問題が取りざたされているのでこのことを思い出しました。
これのあと色々考えましたが、私の素晴らしい推しはいつも来てくれてありがとうとずっーと言ってくれるまま、素敵に年齢を重ねていったし、その友人の本命も年齢を重ねて今なら絶対にそんなこと言わない方になられて、苦手意識は消えはしないけど少しずつ薄くなりました。
その友達はもうこの界隈には戻らなくなりましたが。
最近声優さんが色々炎上しているのを見て、時代は変わったなぁと思いつつ。
最前同じ顔問題のニュースを見てこのことを久しぶりに思い出したのでメモを。
なにかあってファンをやめる人をたくさん見て来たけど、彼女のやめ方が一番苦しそうに見えた。
私がこの10年ちょっと好きな人達を応援してきて色々あったけど、同じやめ方になりそうには今の所ならず、ファンの年齢層を上げることに貢献し続けている。
「推理小説におけるロマンス描写」を、絶対真実な添え物とスルーするのではなく、本当の謎解きは情愛部分にあったのだとみなします。
随時更新
私の持論として。一番大事なことは『自分が作品をスッキリ楽しめたか』という部分であり、正解のない舞台作品の考察というものは『よりスッキリした心で作品を愛する』ために行うべきである、と考えている。
作者の真意とかメッセージとかは観客に都合のいい時にだけ引っ張り出せばよい駒であり、エンタメの世界に『解き明かすべき絶対の謎』なんて無いのである。
「楽しんだモン勝ちや!」である。
その観点で言えば、初見の私の感想は、もうグッドエンドとして十分だった。
http://anond.hatelabo.jp/20170206104211
作品構造を分解すると唸るほどしっかり構築されていることがわかり、「ただ自分が見たままを感じ、考察などせず楽しむべき」類いの舞台ということが浮き彫りになって仕方がない。
しかし私は、好奇心と言うか…感動を共有できない淋しさと言うか…出所のわからない衝動に駆られて、本作を『ミステリー』として推理することに踏み込んでしまった。
そしてこの目的で2回目観劇したことを多いに後悔していたのだけど、今わずかばかりの希望の光が見えてきた。
犯人やトリックを推理する殺人ミステリーではなく、二人の人間の有り様を推理する情愛ミステリー。
簑浦も諸戸も幸せになれる最適解。
ですので、自分でも自分なりのトゥルーエンドを目指しますが、時間にリミットがあるため、もし同じくこの迷宮にうっかり足を踏み入れてしまった探偵さんがいらっしゃれば、ご助言を賜れると幸いです。
目指すゴールは『スッキリ楽しめて、より作品を好きになる』こと。
本作は深い意味で「原作に忠実」だと感じるのだけど、原作をそのまま演じている訳ではない。
今のところ私にとっての最大の謎は、この世界の階層構造と登場人物である。
私に見えたキーパーツを挙げていく。
また、注釈の挿入タイミングを正確に記憶していないので、区別が間違っているかもしれない。
基本的に諸戸は今回の舞台上では同一存在だと考えていますが、そう見えるだけかもしれないため分けておきます。
随時更新
我々は『なぜ』錯覚していた?
前提として、本編はすべて「諸戸」と「簑浦」で代替できる隠喩要素のみで編纂されている。(秀ちゃんの手記、丈五郎の過去、など)
また、一般的に「嫌悪感」を感じるものを排除し、極限まで美しく描いている。(ビジュアルはもちろん、諸戸の性的侵略も)
→諸戸からの握手を握り返さない『箕浦』に諸戸は驚き『私』を見詰める。すると『箕浦』は諸戸の手を握り返した
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→本編は経験談の体なのに、諸戸のセリフにも括弧を入れて諸戸のモノローグが挿入されている。簑浦のモノローグはほぼ《私》であるのに、諸戸のモノローグはしっかり《僕》
観劇2回目の備忘録:http://anond.hatelabo.jp/20170208235429
(着眼項目リストと理由:http://anond.hatelabo.jp/20170207171941)
観劇2回目で受けた印象:http://anond.hatelabo.jp/20170209051208
初見感想を書いた後のメモ:http://anond.hatelabo.jp/20170207200710
http://anond.hatelabo.jp/20170208235429
率直に書く。総合的な感想や考察は落ち着いたら書くつもりだけど、壁打ち悲しいから書かないかも。(というか他作品観劇したらもう書けなくなるだろうから、勢いつかないと現実的に厳しそう)
トゥルーエンドではないけどグッドエンドはもう前回観れたから、推理の旅を終えていいようにも思っている。あとやはり証人が足りない。私の観たルートより先の話が展開されないと推理が苦しいし淋しい。
初見と印象が違いすぎる。
何が変わった? 私が変わった?
今回はまったくもやもやしなかった。ただあるがまま受け止めてほんと苦しい。
今作はもうずっと『諸戸と簑浦』の話しかしていない。だからもうつらい。世界に二人しか居ない。つらい。
時系列順に。
ちなみに『私』と『箕浦』と《わたし》と《みのうら》と簑浦が出てきます。
手記の内容は、すべて完全に諸戸についての内容。つらすぎ。
『私』は諸戸を「哀れ」と評す。まじかよ。
奥さんがお茶を入れてくれてそれを飲んだはずなのに、誰かいませんか?的なことを言う。え、やっぱこの『私』お亡くなりになってない?
そして諸戸登場。語り部の『私』と会話する。おかしくない?
だから最初は『私』も諸戸も亡くなってて、死後の世界に見えてならなかった。
てゆか、今日見た諸戸がこわくてこわくて、ずっとすごいこわくて。諸戸の亡霊みがやばかった。成仏してない霊感。
初見は王子様のような諸戸だったのに、何が変わった? 私が変わった?
『私』と諸戸は二人で一緒に過去を振り返る。
諸戸との最初の決別、夜の告白の時、聞いてる時の『私』はものすごく悲しそうな切なく美しい顔をする。嫌悪の色ではない。
『私』は諸戸に「性愛には応えられないけれど一緒に遊んだりした友情には感謝しているし君もそれを喜んでいるように見えた」的なことを言うのだけど、これ少なくとも2回目撃している。隠喩だったかそのままだったか…どこだっけ思い出せない丈五郎と道雄だっけ…? すごいつらい。
あのね『私』と『箕浦』が互いに演じた《わたし》と《みのうら》、《わたし》は未来をすべて知っているようで(諸戸の死を含む)、《みのうら》は生きてるからすごく生命力のある反応をする。『私』が《みのうら》になって井戸出たときなんて、それまでとのギャップにちょっとびっくりした。
ここで振り返ったのは過去だから未来ではないけれど、どうにも諸戸からも時間を感じない。(ミスリーみあるけど)
似てきたなと私が感じたのは、この冒頭の『私』と諸戸、諸戸親子、諸戸と吉ちゃん。親子はアフタートークでも言われていたけど…というかあの世界は「諸戸と簑浦に関すること以外すべてカット」されているので、全部が諸戸であり簑浦であってくるしくて無理。常にライフ削ってくる。
大人になってから。『箕浦』は「ここからは僕が」と言って登場する。おかしい。どうして語り部の語る内容にキャラクターが介入できる?
だから私は、ああこれは『演劇』なのだな、と気付く。原作では簑浦が口頭でこの物語を語ってくれるのだっけ?それとも小説? ここではその語り口が『演劇』なのだと。
『箕浦』は『私』が初代に渡そうとした指輪も意気揚々と奪ってくる。《みのうら》演じている『箕浦』は本当に生命力に溢れてる。
嗚呼だめだ寝落ちたらもう思い出せない…『箕浦』だけは「諸戸と簑浦に関すること」が何もない存在だったようにも思えてくるけど、もう私の記憶は証人として使えなくなってしまった。
『私』は決して初代を「美しい」と言わなかった。まわりくどく魅力を説明する。その形容自体に違和感は無いが、乱歩が連載初期から意図的に言語を使っていたのなら、初代を「美しい」と表現しないのは変だ。簑浦にとっての初代の価値が軽すぎる。
『箕浦』は何についても「美しい」と言わなかった。やはり簑浦は矛盾や歪さを抱えていないか? それを『私』と『箕浦』で同時成立させていないか。『私』と『箕浦』は別々の役割をもった役者。
初代は証言する。正面を向いて淡々と切々と語る。あれは諸戸のことではなかったかしら。初代だけに存在する追加情報の時だけ『箕浦』を見て『箕浦』に話しかけてやいなかったか?
『私』のかんばせが本当に何の欠点も無いようなほど美しく、そしてとても表情豊かで観客をガンガン見てくる。目が合うとかじゃなくて、観客の目を見てくる。後方でも目を見てくる。つまり語りかけ度がぱない。あいつはメッセージを発している。
対して『箕浦』からはそんな様子を受けない。《わたし》を演じる時間が短いからかもしれないし、セリフが少ないせいかもしれないし、ずっと座っているから私の座席位置がかすらずそう見えなかっただけかもしれない。
いや、ほかの『役者』もそうだった。わざわざ観客の目を見てきたりしない。あれは『私』だけだ。
(正確な表現を思い出せない…2時間以上の空間を丸暗記してそれを体験した自分の心理思考も記憶して寝落ちリセット回避はこのセリフ量だと流石に無理ゲー過ぎ…でも記録に残すならちゃんとしたい…)
初代が亡くなった時に現場での出来事にしっかり対応していたのは『私』。泣き崩れてずっと耐えているのが『箕浦』。
深山木を訪ねてからは、未来を知っている《わたし》役の『私』は度々悔しそう・つらそう・悲しそうな表情をする。
『私』には彼を救えないから? ねぇ、これ『私』にもそういった感情がちゃんとある描写だよ。
初代と深山木さんを亡くしてから場面転換の際にオープニング曲としか聞こえない音楽が入る。唸りをあげて悶絶する『箕浦』。あ、ここ襲いかかる諸戸の唸りと重なる。
諸戸に関係ないところでも、疑心暗鬼なセリフはすべて『私』が言っていたように思ったけど…いやこれは断言して大丈夫では。
しかし確実に《みのうら》の口から「諸戸を疑っている」主旨の言葉が出たときは『箕浦』が発言するし、
諸戸から「君は疑っているんじゃないのかい」といった疑心暗鬼を抱いている主旨の言葉が出たときに対面しているのは『私』と、徹底していた。
諸戸と『箕浦』が家で初めて会話している時、諸戸を見つめる『私』がくそやばい。愛憎ぶちこんだ流し目の破壊力。軽蔑の目線でもあっただろうか?嗚呼ほんと駄目だ脳がリセットされて正確に思い出せない!
ああ、でもここで諸戸を見つめる『私』は、『私』を見つめる諸戸に似ている。それは性愛を込めた時じゃなくて島で秀ちゃんに夢中になってる『私』を見ている時のそれ。
「子どもは残酷」って諸戸が説明したとき、めちゃくちゃ学生時代の簑浦思い出した。
しかし諸戸の話題が《みのうら》への愛についてから事件の推理パートに移ってからはクソつまんなそうに家ん中ブラブラして諸戸の推理聞き流してる風に壺にしなだれかかってる『私』だるえろかわい過ぎだった。「ねぇ~まだぁ~?」してる子猫ちゃんかよ。たぶん唯一私が萌えれて心を緩められたシーン。
ずっと『私』は推理パートつまんなそうにしていたのかなと思いきや、だるえろかわいいのあそこだけで、曲技団に刑事と行った時とか身を乗り出して聞いていた。
いや、あれは『箕浦』の代わりに演じていたのか?
あそこ本当に諸戸が『箕浦』のことを狙っていた。すごくこわい。じわじわ距離詰めてくる。こわい。あれなんであそこにそんな描写入れたんだろう。あの時の話題は何だっけ…おとっつぁんについて?
秀ちゃんの手記。まじつらい。ぜんぶ諸戸と簑浦の話でつらい。
ぜんぶ諸戸と簑浦の話であるから、『手記の秀ちゃん』に母親が居ないから、この舞台での諸戸にも母親が居なかった。(正確に言うと丈五郎が母親の話をするが、諸戸は母親の話を一切しない)
原作未読であるので自分で確認できないのだが、諸戸が母親について告白する場面はそんなにカットが必要な位置にあるのだろうか?
諸戸が母親から性的虐待を受け、それによって女性に嫌悪感を持ち女性は愛せなくなったこと。親からの愛情が与えられず性行為でだけ情を向けられたから、諸戸が簑浦へ向ける愛情も性愛以外の多様さをみせられないこと。これらは諸戸の歪な愛を単なる超自我とイドのせめぎあいにさせず、諸戸が『かたわ』と比喩できる大きな理由となっていると思う。
手記の後に諸戸がどちらと会話をしていたか覚えていない…記憶の砂が零れ落ちていくの恐ろしい…
おそらく『箕浦』と話している? 系図帳から暗号見つけるのはここか?
島へ行く途中の列車?船?の中、諸戸が「疑っている?」と問いただすのは『私』で、その話題が終わるとすぐに『箕浦』に入れ替わる。
だめだここですべきは事実の羅列ではなく印象という目撃証言を残すことだ。
島に着いた夜。寝ていた『私』と『箕浦』。『私』だけが起き上がり、秀ちゃんと出会う。
そこに現れる諸戸。
私はここにめっちゃ違和感感じて、それまでの流れでやっぱり諸戸も登場人物なのかな…って思ってた気持ちが吹っ飛んだ。なんでここに諸戸が居るの?って思った。『私』と同じ次元の存在だから?
で、原作既読の友人に確認してもらったら、原作ではここに諸戸は居ないししばらく諸戸と合流しないって……
それから呑気に毬遊びをする『私』と『箕浦』を見て、ここでも彼らは『役者』として並列であるとめっちゃ感じた。対話をすることはあっても、物理的に直接交流するシーンはここが…あ、いや初代の指輪を奪ったね。そことここだけのはず。二人存在しないとできない行為だから。
まだ全然考察とか感想にまで至れていないけど、直感だけの変な話しだけど、
諸戸と『私』が同列であることと、『私』と『箕浦』が並列であることは、次元が違っているのですよ。だから諸戸と『箕浦』は同列ではない。
あ、それが《わたし》と『私』か。
丈五郎に帰れと言われてから、諸戸を助ける決心をして、諸戸からメッセージを受け取っているところも、井戸の中も、『箕浦』はずーっと冒険譚の主人公だった。キラキラワクワク輝いていた。秀ちゃんへの恋とか初代の復讐とか諸戸への心配とかじゃなくて、冒険に夢中だった。
諸戸からのメッセージを読むのは『私』で、あいつまた俺に変な気を起こしそうでいやだわ~的な愚痴をこぼし、『箕浦』もそれに乗っかる。「同性愛理解できない」ってまた言う。「頭では理解してるけど全然わかんねー」って言うのはどこだっけ。いやほんとに『箕浦』には友情以外まったく無い。微塵もない。清々しいほどに無い。脈ナシにも程がある。
前述した「諸戸も登場人物なのかな…って」考えに変化しかけたのは、同じく前述の事情聴取のシーンで《みのうら》を演じる『箕浦』をそれこそ蛇のような視線で諸戸が見つめていたから。スポットライトの当たらないところで。その時『私』はスポットライトの中で刑事の事情聴取を聞き入っている。(時系列ぐちゃってごめん。でも記憶が蘇ったものをとにかく書いて残す)
ひえええあんな完全無欠の究極ノンケみたいな『箕浦』に言い寄っても絶対無理だよ諸戸なんで気付かないんだよ異常だろ…ってぐらい怖かった。対してワンチャンありそうに見えるのは『私』。否定してるんだけどなんか匂ってならない。なんか否定だけを信じられない。
あれか? 「『好き』の反対は『嫌い』じゃなくて『無関心』」ってやつか?
(初見感想で書いた「《みのうら》も実は諸戸を愛していたのではないか?という容疑が浮かんでならない」のは、完全に『私』のせい。これは初見からそう。私はこれを初見で「諸戸カンチガイ乙‼」みたいに感じていたから、こいつは諸戸の疑心暗鬼が見せる簑浦だなと思っていた。)
諸戸は『私』を探しさまようラブファントムなのかと思っていたけど、全然《みのうら》演じてる『箕浦』も狙ってくる。
『私』と『箕浦』はだいたい一緒に舞台上に居るんだけど、諸戸が《みのうら》よりも『私』を優先して見つめたのは、
諸戸は簑浦を探しさまようラブファントムという印象に落ち着く。
水責めから『私』はもがき出す。水喰らって噎せるし《みのうら》と諸戸に水ぶっかける。
序章でも鬼との出会いを思い出してる時に喉を掻くから、原作にも白髪化がいつか描写されてないそうだし諸戸生理的に拒否られてない可能性ワンチャン…!?って一瞬思った。違った。
『箕浦』ずっと脅えていて本当にかわいそう。諸戸に抱き締められてもノンケ過ぎて嫌悪感すら無い様でだだ死の恐怖に脅えている。…って、そうだ。『箕浦』は諸戸の性愛に嫌悪感すら返していないわ。性愛なんてもの存在しないようにしか見えない。
「ホモフォビア過ぎて逆に男性とキャッキャする現象」が何か科学的に存在しているのですか?(そんな感想を見かけた。)気になるので詳しい方に教えていただきたい。
それまで『箕浦』を抱きしめて必死に告白していた諸戸(この時の諸戸何故か記憶してない。零れ落ちた感覚もない)が、『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた瞬間、逆鱗に触れられたように(地雷ぶち抜かれたみたいに)目を見開いて、そのまま『箕浦』から手を離し、表情も目線も変えず亡霊というか亡者みたいにゆらぁりと『私』の方に移動していき、「ああ、嫉妬している」と答える。
これほんとめっちゃこわい。ラブファントムこわい。ホラーフィクションでよくある悪霊に追いかけられていたのが御札を持った瞬間にこちらが相手から見えなくなってあっさり追いかけられなくなる・あるいは逆に結界が崩壊してそれまで見向きもしなかった悪魔が突然こちらに向かってくる、あれ。完全にあれでこわい。ほんとこわい。
諸戸を否定して死んでたまるかと逃げ出す『私』。諸戸は唸り雄叫びを上げてから『私』を追いかけたっけ?
確かここ最前列目の前に諸戸が来たのに私は目をそらしてしまった。それまでずっと三人の内をを覗きこんでいたけど、目の合うところに居る諸戸の瞳を覗きこむことはできなかった。
そして遂に『私』を捕まえた諸戸。手を掴み上げ触る。
なんというかね、性的な意図をもって犯そうとする時って、例えば、頬を触る(唇を奪おうとする脅迫)、腿を撫で上げる(局部に侵入しようとする脅迫)、みたいな仕草がイメージしやすいんだけど。諸戸は手なんだよね。いや、手を撫でられるのも十分性的な接触になりえるし、手を撫でてくる痴漢とかクソ質悪いと思うんだけど(あれって痴漢に該当するの?冤罪増えそうだから流石に法的には該当しなさそうだよね?まじきもい腹立つ)、もっと分かりやすくセクシャルな表現にしても良かっただろうに、なぜしなかったのか。手なのか。
同じ手でも手を舐めるとか頬擦りするとか自分の身体に触れさせるとか、方法はいろいろあるのに。
あ、そうだ。秀ちゃんは吉ちゃんの手を取って自分の胸に触れさせていた。超嫌がってたけどあれは同じ手の使用でも犯されている感がわかりやすい。
井戸の中での死についてのくだりも、秀ちゃんの手記で隠喩されたまんまでほんとつらい。もう死んでしまいたいという諸戸の叫び。
そうだここ『箕浦』も死んでしまいたいと絶望して挫折して復唱していたのに、『私』が水を挿したんだよね…亡霊を呼び起こしてしまった。
諸戸が嫉妬していることを認めたのが、《みのうら》と秀ちゃんが結ばれてしまうかもしれないことについてなのか。(そう明言してた気もするけど)
それとも「本当はかたわものではなく、簡単な手術で醜い自分を切り離すことができること」なのか。
醜い自分を殺したいけど、殺したらきっと自分も死んでしまうと思ってる諸戸…まじ…
助六さんに「生きたくなかったの?」って聞かれた時に、「世間に顔向けできない」と言った諸戸まじ魂抜けてた。心ここに在らず。ライフが0。助六さんに心の内を回答する必要ないから大正解。しかしイドの超自我破壊と自我乗っ取りを止められなかったことは、この時の諸戸の回答もあながち嘘じゃないなと。
あれ?と言うか水嵩が増さなくなったって表現、昨日あったっけ?
私は水嵩が増さなくなったことを知ってるから、初見ではセリフがあったはず。
『私』と襲いかかる諸戸の図を見ている『箕浦』の表情は、「死者を冒涜せぬよう省略」と『箕浦』が言った場面しか見えなかった。
と言うかこのセリフ初見では聞き逃してたからテラびっくりしたんだけど!
【今】はいつだよ!?って疑問が再浮上した。
初見のとき、序章で『私』が「なお、現在では差別用語となる言葉が登場するが、当時のなんちゃらを変えないためそのまま使用します」云々言ってて、「えっ!?『現在』っていつ!?『当時』っていつ!? 『私』が執筆したとき? 乱歩が執筆した時? 私が観劇している今? ねえあなたは『いつの人』なの!?」って、超混乱した。
まだ決めていない。
少なくとも、丈五郎を目にした諸戸や、井戸を出た時の諸戸は、『登場人物の諸戸』だったから。
それにしても《みのうら》になった『私』の生命力。
佐藤さんの『私』は表情がくるくる変わるしよく動くし観客の目をガン見してきて語りかけ度がぱないけど、アクティブなのにどうにも《わたし》の時は幽霊っぽかったの間違いじゃなかったんだな。ってめちゃ思うぐらい「生きてるかどうか」がなんか明確に違うんだけど。演技力?すごない?やばない?
《わたし》になった『箕浦』と、《みのうら》になった『私』も言葉を交わす。「語り忘れたことあるかな?」
ラストは『箕浦』が読んで、『私』が諸戸の訃報を初めて知ったような顔をしている。井戸で《わたし》役になってからの『箕浦』は、諸戸が鬼籍であることを既に知っていた。
『箕浦』はあまり『私』も諸戸も見ない。助六さんと井戸を脱出しようとした時から、『箕浦』は正面向いてどっしり座って痛ましそうな顔をしている。あれ…顔背けてるのかな…
座ってラストを読んだあと、やって来て『私』に手を伸ばす諸戸の手を宥めるように下ろさせる。
ああそうだ、『箕浦』に向き直った諸戸の表情は見えなかった。
そしてこの物語の語り部は諸戸を憐れにも思っていると序章で明言している。
諸戸の訃報を握り潰すところ。あれね《みのうら》の憎悪というよりも、醜い半身へのやりきれない憎しみに見えた。悔し泣きみたいに表情を潰すところは正直感情が読めなかったよ。ある意味復讐に燃えていた『箕浦』の様子にも近かった。
今回は推理するために三人をずっとガン見するつもりでいたけど最前列譲っていただけたのでピクセルに余裕できて他の演者さんもかなりしっかり拝見できた。
http://anond.hatelabo.jp/20170207171941
8日ソワレ。情報量が多いので走り書きのみ。感想なし。考察なし。
なお、私は2回目の観劇を謎解きとして挑んだことを大変後悔している。
よほど命知らずの探偵さんでない限り、以下の内容に目を通すことはおすすめしない。
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
これ読んでて面白かったんだけど、悠木碧が演技派だと思っている悠木碧推しの一人としては
あ、典型的な悠木碧推しであるかどうかは一切保証しないので、みなこうだとは思わないでね。
声質声優か声色声優かという点では、前者だというのは完全同意。
でも幼女戦記とワルブレについては好きな演技だ。合ってないとも思わない。
そもそも、合ってる合ってないは好みの問題だから、見解が異なるのは当たり前とも言える。
参考までにわたしが好きな最近の碧ちゃんの演技を挙げておくと、ユリ熊嵐の百合園蜜子、
僕だけがいない街の雛月加代、聲の形の西宮結絃、アンジュ・ヴィエルジュのレミエル、
クオリディア・コードの天河舞姫、田中くんのいつもけだるげの莉乃、幼女戦記のターニャ・デグレチャフなどだ。
いい加減にしておかないと全作品挙げかねないので柄にもなく厳選した。
わたしが思うに、彼女は声質タイプなんだけど、自分の声を端から端まで使うことに躊躇がない。
http://www.nicovideo.jp/watch/1484102729
のモーガンの演技で
同作では少ししか出番がなく、もう一つの出番38話でも奇声しか出していないので
普段のモーガンてどんな声なのか聴いててまったく判らず、でも面白い。
碧ちゃんの演技はめっちゃ特徴あるので、ここ数年わからないと思ったことが殆どないが、
聲の形の結絃の声は判別に時間がかかった。事前にキャスティングを知ってたにも関わらず。
彼女はイベントとかで演技論を少し語ってくれることがあるんだけど、その内容からも
明らかにカメレオン声優的立ち位置は目指していないことが判る。
でも先述のように、どんな声を使うことにも躊躇がないので、結果的に表現に幅ができ、
現場で適切な声を適切な解像度で選択することができれば、演出家の求める音を出すことが
出来る、ということなんだろう。
演技力については本人がどう思っているかはよく判らないが、わたしが聞いた範囲では
本人はネガティブな評価しか言っていなかった気がする。でもそれもだいぶ前の話だし
演技プランがどれも同じ、というのは4年くらい前には感じたことあるな。
それはある種の運動神経みたいなもので、現場の状況に合わせて素早く声でリアクションする
ことを優先した結果、それがOKテイクになったのかなと思っていた。
収録を短時間で終わらせることを考えると、早くフィックスすることは必要だろう。
今は出番の数も違い、主役か脇かというと後者のほうが多いので、そうすると似たような
結果として別々の演技プランに沿ってやっていることが、かえってよく判るようになった。
君の名は。の名取紗耶香の演技については、もっと新海監督を評価してやってほしい。
あの映画は他の役者もそうだけど、声の出演者の立ち位置が細かく決められていて、
誰がやってもそこにハマる演技しか許されなかったんだろうと見えるから。
合ってると思うのなら、それは合わせた人の手柄だよ。
3月で25歳だし、それはそれでいいんじゃねと。
そんなわたしにとって推しとはどういうことかというと、例えば2chなどでどんなに口汚く
日本の映画って申し訳ないけど駄作としか思えない映画が多くて。主観だからしゃーないですけど。
何が駄作かって言うと、やっぱり基本的に儲からないからか、ホント申し訳ないけど優秀な映画人が集まらないってことなんじゃないかなと思う。
全体的に雑と言うか、緻密に作られてないって言うか、もちろん予算も少ないんだろうけど、見てて楽しむより疲れることのほうが多い。
どうしても役者の台詞・演技に頼り過ぎのところがあって、絵で見せようとしない。
じゃぁハリウッドならいいかって言うとそうでもないんですけど、期待値としては海外作品のほうが高くなります。
昨年は『シン・ゴジラ』や『この世界の片隅に』などはありましたが。
で、『凶悪』。
ノンフィクション小説が元の映画で、実際に起きた事件に基づく映画なんですけど、酷い凶悪事件は日本でも結構あって有名どころでは「北九州一家監禁殺人事件」(※こいつはあまりに酷すぎて流石に映像化は無理だろう。読んでないけど「闇金ウシジマくん」で書かれたようですがかなり評判が悪かったらしいですね)、『冷たい熱帯魚』の元になった「埼玉愛犬家連続殺人事件」、えーっとあんまり詳しくないので他はググって貰うとしても、とにかく昔からこうした胸糞悪くなるような凶悪事件ってけっこうあります。
古くは『復讐するは我にあり』など、凶悪事件を映画の題材にするって言うのは一つの定番みたいなもので、ショッキングだから映画会社もそこそこ売れると思ったりするからなんでしょうかね。
でも、映画はやっぱり映画なんですよ。リリー・フランキーさんやピエール瀧さんの演技は、まぁそれはそれで特に悪くはない。ピエール瀧さんは相変わらずちょっと滑舌がよくないけど雰囲気は悪くないし、リリー・フランキーさんのへらへらした薄気味悪さみたいなのもそれはそれでいい。山田孝之さんは・・・普通かな。
それはそれとしても、見ててイライラしてきます。脚本なのか演出なのか、作り方に日本映画の下手さがあちこちに見られるので。
例えば、記者の山田孝之が現地取材に行って地元の人に取材するシーンがありますが、どうしてあんなに地元の人がすぐにすんなり喋るんだ?とかね。
あまり意味のない撮影・編集部分もいっぱいあります。全体を通してきちっと組み立てられてない感満載なんですよ。て言うかなんかやっぱり下手だな、と。
正直、だらだらと長すぎて、途中で何度か見るの止めようと思いました。動画の時間を示すバーを見て「え~?まだ半分しか終わってないの?」みたいな。
以前にホッテントリ入りしたブログで『凶悪』が取り上げられてて結構いい評価されてましたが、ブログだから広告クリック狙いもあったのかもしれませんけど、とてもじゃないがいい評価は上げられないな、と。
見ないで日本映画を批判する、ってのも良くないのかなぁと思ってたまに確認の意味で見てみようって気になるんですが、やっぱ駄目ですね。もうちょっと色々見てみようと思ってますけど。
お題1が凄く失礼なことになりそうなんだけどどうなの?生放送出来るの?これ。
これをお題として出すということは、
番組的にはゆとり世代はイジってもいい、笑いものにしてもいいと考えてるんだよね?
確かに投稿者の中には名前でゆとり世代を自称している人もいるけどさ、
仮にもお題を出す側がこの姿勢ってどうなん。
つうかそもそもお題としても成立してないし。
例えるなら「6歳の子が小学校に入学!何が起こった?」というお題を出すようなもんだよ。
声優の演技について
http://anond.hatelabo.jp/20170109224100
すみません、単純な役の幅とか声質の話をされてる方が多くて恐縮ですがちょっと違いました、、
例えば玄田哲章はオカマの声とかも幅広くあてますが、同じようなゴリゴリ肉体派のおっさんだけやってたとしても自分の感じ方は変わらないと思います。野沢那智とか演技と声質も変える人も苦手な例に出したので、ニュアンスは伝わるかと思ったんですが、、良い言い方かはわかりませんが、深み?とかそういうものです。
俺が言いたかったのはこれに近いです
>> 小山力也は台詞の内容はわかるけど意味というか背景というか込められてるものがつかめない時がある <<
小山力也が24などで焦りながら指示を出してる場面でも、何に対してどれくらいあせってるのか声が曖昧に聴こえるんです。どの状況だろうと焦っていれば毎回この演技だよなっていう、、
単純な声質とか喋り方の差ではなく、ニュアンスの演技?とかそういう微妙な感情の部分?のことなんです。
山ちゃんの七色の声なんかがいい例で、七色と言いつつ声質や喋り方はそこまで違わないのに(もちろん全然変えたりもしますが)、背後の感情や含みが違うから別人に聴こえるんだと思います!うしとらの小山力也は、声質違うのもありますがその辺りもちゃんとうまかったと思います。
>> 元舞台役者の自論で悪いのだが、演技力は演技幅(同じ内容、感情を多彩な表現での演じ分け)と役幅(色んなキャラクターの演じ分け)と演出力(真に迫る、自然体である等上手い下手)の総合力であると思うの。 <<
自分の感じてるポイントってどのへんなのか教えてもらえたら有難いです、、演技幅のことでしょうかね、、
ただ、こちらを読んで、やはり結局はその感じ方も自分の好き嫌いに過ぎないんだろうなとは思いました
>> わかる!と思いつつ読んだら、自分がそう感じる声優が増田の好きな声優リストに入ってた <<
>> 演技の上手さは100点満点中90点ぐらいまでは正解(に近い物)があるが、それより上は人によって採点基準が違うので万人が納得する正解はないって『大塚明夫の声優塾』に書いてあった <<
>> 野沢那智は台詞回しが舞台っぽいところがある。というか、そういう演技を求められていたんじゃないかと思うので、成果物(作品)では声優の実力なんてわからないというのが私の意見です。 <<
やはり成果物に対しては結局は個人の好き嫌いで、演出によって声優さんの成果も変わるでしょうね。クリーンな声の野沢那智は繊細さがあって好きな吹替もあります。
あと声優について舞台の話ってよく出ますが、一概に舞台出身だからとは言えない気がします。舞台?というか役者出身でも山路和弘、樋浦勉、磯部勉など大好きな人もいますし、本当に苦手な方もいますし。
坂本真綾は見てないドラマも多いですが、実写吹替でも個人的に違和感ありますねグリーとか、、
あと流行り?の男性声優まで入れたら収集がつかなくなる感じがしてたんですが、この際言ってしまうと浪川大輔ってどんどん下手になってませんか?上の結論から言えば好き嫌いの話なんですけど、、ドラマのハンニバルを見て愕然としました。フジ版T2とか大好きだったのに、回り回ってポケ戦に戻ったような、、口調だけで感情表現をしようとするので台詞が聞き取り辛くて仕方ないし、T2と同じ玄田哲章とのコンビなのにこんなになってしまうとは、、ハイキュー!などを見ても演技が定型化してる気がするのですが、これも演出とか求められるキャラのせいなんでしょうか、、
ハンニバルの場合、女性記者とか検死官とかゲストキャラとか、声優の演技がかなり不味い作品ではありますが、、
どうでもいいんですが、三船は医者とか眼鏡とか社長とかインテリ役も演じて評価もされてます!もちろん三船パワーがバリバリだけど、、ていうか上に挙げたの全部黒澤映画なんだから知ったかぶるならせめて主演作の検索くらいはしてください!