はてなキーワード: 底なしとは
ミュージカルは帝国劇場で行われるものを中心に、1公演平均3回程度の「にわか」です。
ミュージカル女優を夢見て上京したのにコロナに巻き込まれ、機会を損失してしまった
いいえ、私はあなたではないので「あなたの」気持ちをあなた同様にわかろう筈もないのですけれど。
私はミュージカルが好きです。
「レ・ミゼラブル」が「ミス・サイゴン」が「キャッツ」が「ウエスト・サイド・ストーリー」が「コーラスライン」が好きです。
舞台にあがる役者さんが、役者さんを照らす照明が、舞台転換のたびに目まぐるしく変化する大道具が、舞台を飾るオーケストラの演奏が、劇場が、案内をする人が、お土産を売る人が、劇場をメンテナンスする人が大好きです。
様々な人が登場し、恋にときめき、人生を呪い、笑い、そして時には運命に翻弄され命を落とします。
何が運命を分け隔てるのでしょう。
皆必至に生きていると言うのに。
『コーラスライン』という「線」を越えることが出来る人と、越えることが出来ないのは一体何故なのでしょう。
みんながスポットライトを、称賛を、磨いた技術と共に浴びたいと願っているのに。
どんなに望んでも、手に入らないものがそこにある。
どんなに悲しんでも、手の中に「あった」筈のものが失われることもある。
離したくない手が振りほどかれ、愛しい人の命が奪われる。
ミュージカルは何度もそのことを伝え、それでも「生きてゆくこと」の大切さ「生きてゆくこと」の尊さを、ミュージカルは伝えてくれるのです。
人生は思い通りにはなりません。
あなたがミュージカル女優の道を目指しているのなら、この苦難を是非「糧」にしてください。
若干炎上するような書き方になるかもしれませんし、受け入れ難いかもしれませんけれど、あなたは今まさに人生という名の劇場で、ミュージカルの舞台で起きているような波乱をその身で体験しているのです。
いつの日か舞台でスポットを浴びたとき、今、あなたが体験している苦しみや悲しみ、底なしの絶望が、あなたの演技に「深み」を与えてくれますように。
そしてこの苦難が1日も早く過ぎ去りますように。
あなたの「機会」を少しでも損失させないよう、私もまた協力します。
”
悔やまない 選んだ道が どんなにつらく
この日々が 報われず過ぎ去ろうと
泣かないわ 好きだからこそ 命燃やした
この日々に口づけして別れよう
ああ この愛を胸にいだき
明日を生きよう
躊躇わず思いのままに
すべてを捨てて
生きた日々に悔いはない
この道をひたすら
ああ この想い胸にいだき
別れ告げよう
(悔やまない)好きだからこそ
(命燃やし)すべてを捨てて
生きた日々に悔いはない
ひたすらに この道を
”
つまり、人間を性別で二分化した時、本来は「女性側」に属する存在でありながら「男性側」の立場に付いて男性を守り女性を攻撃する裏切り者の女性なので、名誉男性と言うのだろう。
小学生の頃、クラスで男子と女子が喧嘩した時に女子の側に付いた男子を「お前それでも男かよー!本当は女子なんじゃねーのー?」と男子が揶揄うのと似たような物だと考えて良いと思う。
名誉〇〇はアウシュビッツでユダヤ人に看守をやらせたり、日帝軍で半島出身者に捕虜収容所の看守を押し付けていたようなものだ
マジョリティによって分断のために作られたものでないなら名誉〇〇とは言わない
それこそ名誉白人を思い出せばわかることだ
暑いとか寒いとか退屈だとか、部屋が汚くて不愉快だとか、お腹が空いたとか、そういう原始的な欲求。
そういう欲求を抱いていることに気づいて、自分で満たすのが苦手なのだと気づいた。
自分の機嫌を取って、常にご機嫌でいること。
重要だと聞いていたけど、話半分に聞いていた。
不快な環境に置かれていることが自分のデフォルトであるべきだと思い込んでいる。
うちは貧乏で、両親は共働きで、父は単身赴任だったので家には母と私だけだった。
母は朝から晩まで働いていたから、怠惰とか怠慢ではなく、単に子供に割けるリソースがなかったのだと思う。
それでも私の置かれた環境は、客観的に見てネグレクトだったと思う。
なので保育園のない日は、床も見えないほどゴミの散乱した部屋で遊び道具を探しながら、ひたすら母の帰宅を待った。
暑いのも寒いのもお腹が空くのも、部屋が汚いのも、退屈なのも、全部母に解決してもらうしかない。
私は母に依存して生きていた。
私の最古の記憶は5歳で、5歳の私は必死に母に縋って生きている。
母は応えられる限りの要望に応えている。
でもあの時、母は私に生きるための細々とした知識を教えてくれなかった。
私は母にエアコン付けてとねだる。母はエアコンのリモコンの黄色いボタンを押しながら、「これくらい自分でやりなさいよ」と言う。
一度、留守番の時にそうしてみたら、部屋が気持ちよくなるはずが逆に息苦しくなった。帰宅した母は驚いてリモコンを見、ダンボウになっていると言った。
ダンボウの何が悪いか分からなかったが、見よう見まねではリモコンは操作できないようだった。黄色いボタンの他に、様々な大きさのボタンがあったが、意味は分からずじまい。
母は簡単にそのリモコンを操作する。だからきっと操作は簡単なんだろう。でも私は理解できなかったし、母が察して教えてくれることもなかった。
そういうものだと思った。母は面倒くさそうに「こんなの自分でできるでしょ」と言うけど、私には何故かできない。でも成長したらできるようになるのかもしれないと思って、ひとまず自分の成長を待つことにした。
それからゴミの分別も分からなかった。生活で出たゴミを母に渡すと、三つ並んだゴミ箱のどれかに放り込んでくれる。何か規則があるらしいけれど、どんな規則か分からなかった。
規則を知るために質問したかもしれない。しかしおそらく、まだ早いからといった感じではぐらかされたのだと思う。教わった記憶がない。
だから正しいゴミの捨て方が分からず、いつまでも母を呼びつけてゴミを預けた。これも「いい加減自分でやりなさいよ」と言われた。「でも、どうやって捨てればいいか分からない」とある時私は言った(と思う)。すると母は、「そんなの簡単じゃん、こういう燃えないゴミはこの箱!」と言って、三つのゴミ箱のどれかにゴミを放り込んだ。
悲しいことに、どのゴミ箱が燃えないゴミの箱だったか、一瞬では覚えられなかった。しかも、「燃えないゴミ」と「燃えるゴミ」の区別も分からなかった。でも多分幼い私はそういう新たな疑問を咄嗟に言葉にできなかったし、母は苛立っていたから、質問をやめた、ような気がする。
とにかく耐えれば済む話だった。不快さに耐えて、母に依存し、時に嫌味を言われながらも、「いつか規則が理解できる日」が来れば、自分で何でも解決できるようになるはずだった。
しかし、そんな日は来なかった。規則や常識は生きていれば自然と肌を通じて浸透するものではなく、どこかでルールとして誰かに教わらなければならないらしかった。
ところが、私の周りにはそうしたルールを親身に教えてくれる人はいなかったので、私はずっとルールを知らず、知らないのを誤魔化しながら生きていたのだった。
なぜこんな話を書いたのか。それはたぶん、ついにその生き方に限界を感じ始めたからだ。
今まで人に質問する習慣がなかった私は、大抵の疑問をネットで検索して解決してきた。
空っぽの鍋の底をお玉で何度も引っ掻くように、全く手応えのない脳内に答えを求め続けた。
そうして前のゼミから全く進捗のない週を何度も経験し、自分が情けなくて何度もゼミを欠席した。
すると教授や院生さんが私の異変に気づいたのか、どんな些細なことでも質問してくれていいと言ってくださったり、私がやるべきことについて詳しく説明してくださるようになった。
正直、手取り足取り教わるというのは初めてだった。
しかしちゃんと手順を教わると、あれ程上手く進められなかった作業がちゃんと進むのだ。
この世はそんなに簡単でいいのか、と思った。
でも、家に帰って一人になると途端にやる気が出なくなる。
私が私のためにできることなんてないような気がする。
お腹が空いても、部屋が寒くても、部屋が汚くても、私にはどうすることもできないから耐えるしかない。
そういうどうしようもない気持ちになって、どうしようもない現実を耐えて過ごすだけの人間になる。
正直この状態になると全くダメで、特に卒論の作業が上手くいった日ほど大きなギャップを感じ、次の日以降の作業に身が入らなくなる。
さすがにこのままではまずいので、家にいる時の底なしの無力感について考えたところ、幼少期の経験に行き当たった。
質問してもちゃんと答えてもらえなかったり、理解できるようには教えてもらえなかったこと。
教わらなくても理解しているのが当たり前で、理解していない自分は人一倍出来が悪いと思ってしまったこと。
自分のやることは間違いだらけなので、自分で考えて行動するなど以ての外だと思っていたこと。
自分で自分の欲求を満たすような行動を勝手に起こしてはいけないと思ってしまっていたこと。
幼少期の経験から、おそらくこうした思い込みが私の中に芽生え、私をずっと規定し続けてきた。
母と私の関係も、悪くいえば母が私を依存させるよう仕向けるようなものだったと思う。
卒論によって、私は生まれて初めて誰かに質問したり、頼ったりしなければいけない状況に追い込まれた。
でもそれが結果として、私に質問する習慣を与えてくれた。
人に分からないことを聞き、相手の時間をいただいて教えてもらうというのは、こんなに有意義で価値あるものかと知ることができた。
本当はくだらない人生だと思ってたし、自殺するために飛行機の距離ほど離れた大学に進学したけれど、卒論を書くほどまで生きていたのは結果的に良かったのかもしれない。
結局とりとめのない文になった。
でも、私と似た境遇の人に読んでもらえれば嬉しい。
ほとんど同時期に入って、入社直後は二人でいることが多くランチとかも普通に二人きりで行ってた女子社員がいた。(以下、Aとする)
背が高くて、顔は池田エライザに似てると言えなくもない感じ。イケメンが出てくるソシャゲや乙女ゲー、2.5次元舞台にはまってると笑って言っていた。
研修が終わってからは部署が離れて、お互いに同性社員とつるむようになって、二人きりで話すことは自然と減っていった。
ある時、ツイッターでAの下の名前と同じアカウント名で、いやらしい写真や動画をあげている裏垢を見つけた。
まさかな、と思いつつなんとなく過去のツイートを見てみると、やっているソシャゲが同じで、身体的な特徴も一致していた。
なにより、先日ゲリラ豪雨に見舞われて職場からでれなくなったというツイートが完全に同時刻にあり、これは本人に間違い無いと特定できてしまった。
それは10年前に作られたアカウントで、かなり遡ってツイートを見ることができた。
AはAではなく、ネット上で別の人格を生きていた。(以下、Bとする)
いやらしい裸体が拝める優越感もさることながら、彼女が過去にいじめを受けていたこと、自分を殴るような男ばかり好きになってしまうことなど、
普段のAからは想像もできない闇を垣間見れる快感で、やみつきになっていった。
いよいよツイッターの日付指定の検索コマンドを使って過去の画像やツイートを遡っていくようになった。
Bは10年前から裸体を世界中に晒していたから、少女だった身体が徐々に大人びていく様を時系列で見ることができた。
これまで女性と交際したことは何度かあったが、ここまで異性の心と体の深い部分を垣間見たことはなかった気がした。
ふだんは職場で頼られ、どんな時も明るく振舞っているAだったが、ある日、上司に叱られた際に感情を抑え切れずに泣きながら反論したことがあった。
他の同僚が「Aさん、かなりストレス溜まってたのかなぁ」などと言っているなか、自分だけが誰にも言えない彼女のBとしてのもろさ、弱さを知っているんだ、と思った。
Bはツイッター上でレトロゲーのイラストを描いて誕生日のフォロワーに配るなどもしており、叱られた日はイラストの量も増えたりしていた。
Bなりに自我のバランスをとって、Aとしての社会生活をなんとか維持しているのだな、と冷静に分析しつつ、同時に上げられる自慰動画で抜いたりもしていた。
Bは吸盤で床に備え付けた太いディルドの上で、激しい騎乗位を繰り返していた。それが昼間の泣いているAとリンクし、なんとも言えない興奮があった。
そのうち自然とAのことが頭から離れなくなり、恋しているとはっきり自覚するまでになった。
次第に裏垢でBとしてのみだらな姿が世界中にさらされていることに我慢できなくなってきもした。
そこで自分はAを食事に誘って交際を持ちかけようと考えた。頼れる男がいれば裏垢の更新も止まり、Bは消失する(自分が独占できる)だろうと思えた。
どうやって食事に誘えばいいかについて考えたが。ツイッター上にありとあらゆる彼女の嗜好についての情報が詰まっているので、それをネタにしようと思った。
ジョジョ5部のアバッキオが推しであるとのことで、これで行こうと決めた。
ある日、Aと二人きりになれるチャンスがあり、それとなくジョジョネタを振ってみた。だがAは全くそれに食いつかなかった。
一瞬、ジョジョ好きを隠しているのかと思ったが、なんとなくそれとは違う、全くジョジョに触れたことがない感じの返答だった。
もともと乙女ゲーをやってることを公言しているくらいだったから、ジョジョ好きを隠すことはないはずだ。
その夜、家に帰ってBのツイートを眺めているうちに、BのアカウントはAとはまったくの別人が運用しているのだとやっと気づいた。
自分でも違和感を持つことがなんどもあったのだが、無意識に考えから排除していた。
「Aは現実では嘘をついており、このBのアカウントにだけ真実が書かれている」という強い思い込みがあり、
現実とズレている点があっても、身バレを避けるためにあえてやっているんだろう、などと考えていた。
ーーー
だが、Aを食事に誘ったりしようとは思わないし、Bにコンタクトを取ろうとも思わない。
なぜなら、自分の中にAでもBでもない、別の人格が完成しており(以下、ABとする)、ABのことが頭から離れなくなってしまっているからだ。
ABは自分が求める完全な異性だ。社会生活を毅然と守り皆に頼られながら、あまりにも淫靡で幼い一面を併せ持っている。
そのいびつな不完全性が自分にとっての究極の理想で、ABのことを思うと胸が焼けるような気持ちになるし、痛いくらいの勃起が止まらなくなる。
こんな状態は不健全だとわかっているが、どうすることもできない。
俺は今日も昼間のAと夜のBをかけあわせたABの人格をもてあそんで、いじきたない自慰行為を繰り返している。
自分はどうしたらいいんだ?
こんにちは、大学で政治学を学んでいる学生です。白井聡氏の論考が、鋭い指摘をしていると一部で話題になっているそうです。無料公開分を読んでみたものの、私にはどこが鋭いのか全くわからなかったので、疑問に感じた点をまとめました。
以下の引用は、論座に掲載されている『【1】安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である』(白井聡)に基づきます。
本稿で私は、第二次安倍政権が2012年12月に発足し現在に至るまで続いたその間にずっと感じ続けてきた、自分の足許が崩れ落ちるような感覚、深い喪失感とその理由について書きたいと思う。
タイトルには「日本史上の汚点である」とあり、これまでの政権と比較した上で安倍政権が汚点であるとの主張がなされている。しかし冒頭の段落で「深い喪失感とその理由について書きたい」とあり、タイトルと内容が乖離しているように読める。
「[多くの日本人が安倍政権を支持してきたという]事実は、私にとって耐え難い苦痛であった」とあるように、記事の1ページ目全てを使って、白井氏は己の「知性と倫理の基準」を満たさない政治家が支持されている現状に対する深い失望感を述べている。
しかし、白井氏が評価に用いた「基準」が明らかにされることはない。これは学術論文ではないことは重々承知だが、仮にも学者を名乗りメディアに寄稿する者が、印象論を展開すべきだと私は考えない。
無論、あちこちで指摘されてきたように、どの領域においても安倍政権は長期安定政権にもかかわらずロクな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。
私の知る限りでは、安倍政権の政策には賛否両論あった。例えば、政権の代表的政策であるアベノミクスは、株価の上昇をもたらした一方で、日本経済の実力を示すとされる潜在成長率は低水準に留まっているし、デフレの脱却も達成されていない(「アベノミクスの8年とはいったい何だったのか」東洋経済オンライン)。外交についても、日米同盟を強化し安定的なものにしたという側面もある一方、拉致問題は進展を見せなかった("The Abe Era Ends, Cheering China, Concerning Washington", Foreign Policy)。これは評価の問題であるから、「ほとんどの政策が失敗に終わった」と結論づけるならば、その理由を示すべきではなかろうか。少なくとも、「あちこちで指摘」されているのなら、それらを引用すべきである。
こうして腐敗は底なしになった。森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題などはその典型であるが、安倍政権は己の腐りきった本質をさらけ出した。
白井氏は腐敗の例として、伊藤詩織氏に対する性的暴行事件、森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題を挙げている。これらに関しては、新しい政権の下で調査を行うことが必要だろう。流行語にもなった「忖度」であるが、私には構造的な問題に思えた。というのも、忖度があるのならば、それは官邸の強い人事権、また中央省庁を頂点とするピラミッド型の組織を背景とするはずだからである。官僚組織が官邸から独立しているのであれば、何も官邸の顔色を伺う必要はない、また強い分権型の組織であれば、中央省庁の忖度を汲む可能性も減る。つまり、忖度は組織構造がもたらすものであり、政権担当者に関係なく起こりうるものではないか。腐敗が疑われる事例があったことは間違いないが、それを政権固有の問題として片付けるのは、政治学者としてあまりに稚拙であると考える。
例えば、新元号の発表と改元の時の政権の振る舞いを思い出してみれば、それは明白だ。先の天皇(現上皇)の譲位の意思に対しては執拗な抵抗を試みたくせに、新元号の発表となれば、安倍は前面にしゃしゃり出て、「令和」に込めた自分の「思い」を滔々と語った。
私は年代的に平成の改元のときの事情を知らないが、これは比較することが必要ではないか。小渕元首相は「平成おじさん」と呼ばれていたと聞くが、それは白井氏のいう「抑制的」な振る舞いだったのだろうか。パフォーマンスとしての側面があったとするならば、今回は譲位という形をとり、準備に時間があったことも理由としてあるだろう。
十分に機能してきた制度(センター試験)をわざわざ潰して民間業者を導入する主たる動機は、安倍の忠実な従僕たちの利権漁りである。安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした。
「十分に機能してきた制度」、「安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした」という主張には根拠が必要であると考える。両者ともに白井氏の印象ではないか。特に、センター試験については、教育学等の知見があるのではないか。
3ページ目に入る。この引用では、安倍政権下で公正と正義をめぐる議論が失われたとあるが、果たしてそれはそもそも存在していたのだろうか?卑近な例を挙げるならば、雇用環境や性差別をめぐる問題は、安倍政権以前からあったと記憶している。
私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ず、その復活のためには、総理自身の違法・脱法行為の究明が絶対的に必須である。
この箇所には同意しかねる。(4)でも述べたように、不正は為政者一個人の問題ではなく、構造的な側面を持つものだと私は考えるからだ。政府という巨大な組織を、その頂点にいる者が意のままに動かしていると考えるのは、あまりにも非現実的ではなかろうか。総理個人だけを追求するのは、非本質的な結論しか導かない。
引用文を含む前後の段落の意図が掴みかねる。政治家はスケールの大きな不正をする方が大物だと言いたいのだろうか。
政治には腐敗がつきものであり、安倍政権もその例外ではないはずであるから、政権の終わりを調査の終わりとしてはいけないという意見には納得できる。しかし、政治と腐敗を特定の政権と過度に結びつける白井氏の論調は、腐敗・不正を許しうる構造への追求を妨げるものだ。
また、この文章を「学者」として公開することの意義は何なのだろうか。少なくとも私は「学者」という職業に就く方には、その他大勢の「評論家」とは一線を画する議論を求めたい。
「評論家」ならば、印象論で語ることも、明確な根拠を示さず何らかの主張を行うことも大目に見られるであろう。しかし、専門家としての訓練を経たはずの「学者」は「評論家」とは異なる論理展開をすべきである。主張には適切な引用があるべきだし、用いる言葉の定義を明確にすべきである。
もしも、本来ならば専門家たるべき「学者」が、都合よく「評論家」の顔を使うのであれば、それこそ知性の劣化ではないか。
本記事には直接関係ないが、白井氏はFacebook上で人の生き死に関する発言を軽々しく行なったと聞く。白井氏には、そして日本の大学の全ての大学人の皆様には、是非とも学者としての矜持を持った発信をしていただきたい。印象に基づく議論は、分断と対立を深めるだけである。
防衛能力がなかったら輸入品が何も買えなくなって交渉国の面倒な仕事を全部させられるだけになるから最低限国際間で死ぬ人の準備が必要
殺されたら被害を届けて国の集まりで多いほうが交渉を有利に進めようと判断してもらえるので軍隊は必要
日本が独自の文化と日本人の安全を願うのだったら団結して国防を含めた国益に貢献すべき
外国ではみんなやってる自民族の確立のための努力をしてないのは南国パラダイスの古民族と日本人くらいなもの
日本は何度か受けた空襲で民間人の死者被害を戦争法違反で訴えるべきだったが戦争で勝とうとして被害届をださずに腕に覚えのある知人をたよってみんな負けたので結果負けた
第二次世界大戦はアメリカが警察を押さえてた 日本を降伏させたのは「UN」アメリカではなく国際連合 国際間組織が実質降伏させたので悪いのは日本という事
(いまは国際連合を中国が抑えているので数年来抑圧してるチベットとかウイグルとか最近の香港などは中国の正義がまかり通ってる)
戦争で死ぬ役割がでると意見として死なせるなという風潮がおきて国民の何割くらいまで被害がでると戦意が喪失されるという結果に至るのであらかじめ死んでもよいまたは死ぬため死なないようにする訓練を受けたものが必要になるので死なない国民をつくるために兵隊を組織する
人間が人間を殺すという行為自体は効率が非常に悪く一人が一人ないしは三人程度を相手にすることくらいが限度 そのため数千の大軍に数百の軍勢が勝利したり中央突破できたりする
これを全否定するのが核兵器 つづいて大量殺りく兵器 人を殺すのが戦争なのになぜ効率化がよくないのか 暴力の勝ち負けが戦力の維持が不能になることだから 第二次大戦では戦力自体は日本は底なしだった(一億総何々)
日本は何割まで死ねば戦意を喪失するかという基準がアメリカの想定をはるかに超えていたため脅威とされそれを人道的と称して講和にもちこんだ(原子爆弾による民間人の大量殺戮で上層部の情に訴えた)
戦争のルールを覆すので日本は降伏後そういうのはダメと教育に盛り込まされた ベトナムでは軍備量だけでは勝ててない ベトナムは民間人を含めてやたらと殺しても許されない程度に世情がうごく情報網の発達があった 中国は情報統制がうまくいってる(と思ってる)のでこそっと民族殲滅をしてる(ばれても国連に食い込んでるので黙殺)
軍備合戦になると天井知らずになるという危惧について、軍備合戦の天井は相手が戦力の維持が難しいと思わせるところまででよい
国際協力や単体の戦力などで、もし状況が悪化した場合安全維持の名目で他国が護衛に入ってくるとそれに見合った戦力を維持することが難しいとなるところで十分
また軍事目的の産業で国内生産があがる 国力の増加で内需を軍需にまわせる この循環のための一次産業は金属と油でよいため生産性が高い
生産性の低い弱小食物輸出国が植民地支配を免れているのは国際的な連携において面倒な生産部分を担っているため 近代化するといやがらせをうける
軍備の生産をつづけると償却材がでてくるので紛争地帯が必要になる 金属と油のあるところには軍事介入が容赦なくされる
日本語がわからない人に簡単に説明すると、防衛目的で人の壁を築ける人がいないと被害届を出せる状況にもっていけないので、敵がきたら前にたって死なないように抗う人が必要なだけ それが防衛の人の仕事
境界線に敵が軍事力をもってきたとき、アルバイト募集で「最前線で生活する人募集」でも軍隊と同じ役割ができる(国際組織が正常に機能していたら、国際法違反とかで訴える)がそんなのだれもこないのであらかじめ死ぬように(死なないように)訓練されて、死んでほしくない人のかわりになる仕事がいる(兵力)
毎回殺されてから被害届をだすのもなんなのであきらかに国際的に定められてる蛮族がくると攻撃してもよいため攻撃手段はほしいところ
人が人をころさないという事が絶対的に保障されたら、被害が発生しないので、補償の必要はないので、補償を履行させるための力が必要なくなる 人が人をころさないとはいえないから力が必要でそれが殺される局面において抵抗するだけの軍備
欧州の国みたいに国単体では軍事力はないがほかの国から出してもらってるところもある
永久に戦争しないって宣言してる国が軍隊をもっているのは攻め込んで戦争する、悪い奴は積極的にやるとかのためにあるわけではなく、攻撃されてもみんなの役に立っている事は自力で防衛するのでわたしの国をいろんな国むけに使ってほしいという事のため
永久に戦争しない宣言の国の銀行員が不正な行動をしたとき軍隊がないので国際的な介入がされたとき実質支配権が安全確保のためという名目の上でその軍事力の国がもつことになる(その時々の違反を正しい「保安部隊」が維持するため)
巨大な兵器や新しい武装や洗練された技術者(兵員)が必要なのは その場所まで移動する手段が必要なため巨大な引っ越し業者(生活もできる)という隊が必要なだけ(兵隊)
最新設備や強い武力は相手が攻撃してきた場合それに耐えかつ攻撃者を撃退することが可能であるようにするため(できるだけ自軍は死んでほしくない相手は正当防衛で事の次第による)
海や陸や空においてそこで人が活動しなおかつ問題に対処する能力が必要な人にそこにいてもらうための能力が軍事力
日本はそんなに気にしなくていいよアメリカがそれ出してあげるから(問題があった場合は正義と平和のために「アメリカのルール(アメリカ軍)が動くけどね)というのを国際間協力という名目で沖縄とか全国に基地(被害者となってくれる率先して前線に引っ越してくれる役の拠点)を設けてる
もちろん日本に問題があった場合は、国際協力として「アメリカ軍が日本の拠点を制圧する」ってことがあってもしょうがないよね(しょうがなくないので自衛は必要だと思われる)
巨大な軍備があれば国は守れる それはたしかに守れる それは人が人を殺すのは効率が非常に悪いという点から人が多く兵器の数があれば強いわけではない
現に核兵器がそれを示して結果を出している しかたなく民間人を殺すけどというのを武力というなら兵力としてそれを備えないのが核非武装 防衛はあくまで自衛の手段で攻撃をしてくる民間人ではない敵対者(時に人間という前提でほぼ人間)
どの戦争でも核保有すればいいだけ ただ核兵器の使用目的が破壊と殺戮のみなのでこれほど純粋に目的を完遂するものはないので保有国はほかに保有国がふえることを厳しく制限している
内戦や移民のつづく国は軍備を高めて核を保有すれば近隣国との交渉もしやすく豊かになっていくが一般的な兵器が余る国はそれを消化したいしその的を国際協力という名の元に他国から募りたい
中国が国連でアメリカソ連の兵器の消化を紛争地帯でしないよう根本的な解決を試みたら具体的な中国の問題に実力を行使するかもしれないが国防費の循環とGDP成長を握られているのでおおよそ悪いとは言えない
そう言われて、友達が文字通り一人もいない私の前に連れて来られた彼女。
一体これはどういう事なんだと驚く私のところに、彼女は来てくれるようになった。
しかし、そこは友達ゼロの私。悲しいかな、彼女に差し出せるものは、苦痛の他に何一つ無かった。
だが、「お友達」になる役目を果たそうと彼女は努力を続けた。毎週毎週、何年も。
一方で私は、会えば必ず、抱える苦痛をボトボトとこぼして広げる他には何も脳が無い。
彼女は、私の代わりに私の苦痛を背負っていった。ただただ頷いて微笑んで、時に、控えめな慰めの言葉で。
代わりに背負っても背負っても、次々に私から溢れる苦痛はよくもまあ、底なしに尽きなかった。
ちなみに、内容は物凄く下らなくてどうしようも無い。みんなご存知ですけどね。
当然、これが「お友達」になれるとは到底思えなかった。彼女だけが自己犠牲を強いられているから。
「お友達」になるための努力を重ね続ける彼女に引け目を感じて、私は自分の中に苦痛を更に生み出していた。
螺旋を辿る繰り返しの年月。
気づいたら、私も、別の女性が背負う苦痛に肩を貸すようになっていた。
彼女がどうやって、私の肩を軽くしてくれてきたのか、記憶と感情を辿りながら。
相手を思いやり、観察して察して、その荷を軽くしてあげたりは出来ない。
私がやってるのは、ただ、目の前に降ろされた重荷だけを一緒に背負って行く真似だけ。
お友達の真似事に一歩近づけただろうか。彼女が何年も見せてくれたお手本を思い出しながら。
彼女と私のゴミ箱修行。しかし、メンタルは全く違っていて、それは真似られない。
もう恐れる必要も無い。抱える苦痛に打ちのめされる必要もない。
苦痛に苦しむのなら、私も慰めて背負える気がする。
自分はとても臆病で死ぬのが怖い。今でも時々死ぬのが怖くなり眠れなくなることがある。
死が怖いのに、うつ病になると、ふとした瞬間に「死ぬ」という選択肢が浮かぶようになった。
ベランダに近づけなくなった。電車のホームや踏切から距離を取るようになった。油断したらふらふらと飛び降りてしまいそうで怖い。
ゲームで言うなら、「戦う」「魔法」「道具」「逃げる」の中に急に「死ぬ」という選択肢が表示されているような感じだ。強烈な存在感で常に表示され続ける。
「死ぬのは怖い」「死ぬのは嫌だ」と思っているのに、「今一歩踏み出せば死ねる」「ここで死んだら苦しみから解放される」という思考回路に何故かなってしまう。
うつ病中は全てが辛いので、解放されるという選択肢は妙に魅力的に見えてしまう。それを思考で違うだろうと否定して何とか回避した。
運よく数ヶ月でうつ病は治ったが、もし希望の見えない底なし沼の状態が何年も続いていたら……。
うつ病の再発率は高いらしい。治ってから、再発が怖くてストレスのかかることから逃げるようになった。他者からは甘えに見えると思う。たまに自分でも甘えなんじゃないかと思うこともある。
一度膝を痛めたら、常に膝のことを気を使って生活するようになると聞くが、それに近いと思う。
コロナでぶくぶく太り、運動嫌いの自分もさすがにヤバいと思い、5月頃から週に2-3回、15分のウォーキング+15分のランニング(5-6km)を始めた。
運動の中でも取り分け走ることが嫌いで、ほぼ学生時代のマラソン大会以来の試みだった。
目標は、3ヶ月以内に5kmを走れるようになること。
2ヶ月経ったが、10分のウォーキング+20分のランニングがやっとだった。翌日、翌々日まで筋肉痛が残るし、膝も痛くなるし、何より息が続かない。
加えて生来のだらしなさから、天気や筋肉痛を言い訳にサボることもあった。
あと1ヶ月じゃ到底目標達成は無理だな、と思った。
ぱっと出演作を列挙出来るわけでもなく、特別ファンでもないが、見ていて不快になることなんて無かったし、きちんと演技してる印象があったので寝耳に水だった。
今まで顔と名前は一致する、程度の認識だった同じ世代の、一見順風満帆の彼の訃報は悲しみというよりもショックだった。
故人を惜しむ声は真面目さ、誠実さ、優しさ、ストイックさで溢れ、自粛期間をいいことに、呑気に鼻をほじりながらゲームや漫画に明け暮れていた自分を恥じた。
久しぶりに晴れたので外に出た。
いつも「早く終われ、早く終われ」と願いながら走っているが、今回は件の俳優さんを頭の片隅に、「もっと頑張れ、彼はもっと頑張ってたんだ」と言い聞かせた。
嘘のように呆気なく、歩くことなく5kmを完走できた。
たかが5kmされど5km。自分にとっては到底なしえないと思っていたことがいとも簡単にできた。
嬉しさと同時にどれほど甘ったれた考えでいたのか思い知らされ、また自分を恥じた。
走り切った後、縁もゆかりもないけど、彼の分も頑張って生きていかないとならないと勝手に思った。
心よりご冥福をお祈りします。
心のバケツにずっと穴が空いてる。
たくさん承認されているはずなのに、バケツに穴があいてるせいで、いつまでたっても満たされない。
毒親育ち+陰キャ+腐女子っていう生き辛さ三連コンボみたいな人間なんだけど、私みたいな人は少なくないと思う。
自分の親が毒親なんだっていうのは、大人になってから気付いた。
殴ったり暴言を吐いたり、気分によって態度をかえたり。普通の親はそういうことをしないんだ、と教えてくれたのはツイッターのフォロワーで、闇落ちしそうになってるところを助けてくれたのもツイッターのフォロワーだった。
毒親だって気付いてから数年は、それでも親からの承認がほしくてあがいた。
私が欲しい親からの承認は、この先で一生もらえることがないんだ、と気付いてからはどうしたら強烈な承認欲求が少しでも満たされるかを考えた。
「お前は何も続けてこなかった!お前には何もない!」(引越しが多かったせいもあり習い事があまり続かなかった)
そう親から言われて育ったので、同人誌を作ることができて、それを続けていることはたとえ社会では役にたたなくても「できることがある」「できたことが可視化される」というのは達成感もあった。
同人誌を作るようになったら、イベントで手にとって貰うことができた。
私みたいなやつが作った本を、お金を出して買ってくれる人がいる。
それだけでまた一つ承認欲求が満たされた。
ジャンル移動は何度かしたけれど、同人は続けた。手っ取り早く承認欲求を満たせたし、何よりも同人活動は楽しかった。
昔より上手くなった。本の部数はジャンルやカップリングによるけれど、感想をくれる人もいた。
嬉しくて今までのものは、全部大切に保存してる。元気がなくなったら読み返すこともある。
同人を通していい友人もできた。
ジャンルに関係なく繋がれて、仕事の悩みを話したり、ちょっとした愚痴をきいたり。
私は一人だから聞くばかりだけど、彼氏や旦那ののろけみたいな話を聞くこともある。
友人にはすごく恵まれたと思う。
私が親のことで悩むたびに、闇落ちしないようにそっと隣にいてくれる。
フィクションのヒーローみたいに、しんどい環境から助けてくれる、なんてことはないけども、適度な距離で寄り添ってくれるような友人ばかりだ。
人に優しくされたり、優しくしたりすることでちょっとずつ心のバケツに空いた穴を埋めた。
自分にもできることがあるんだって、認めることでまた穴を埋めた。
そうやって何度も何度も心のバケツの修理ををしながら生きているけれど、時々どうしようもなく満たされない日がくる。
何年もかけて環境も、心もちょっとずつ変わったはずなのに、満たされない承認欲求に死にたくなるときがある。
昔よりもずっと満たされているはずなのに、何故か足りなくて、もっと承認されたくて、暴れたくなる。
心に刺さった釘がいつまでたっても抜けない。
バケツの穴がふさがらない。
つらい。承認されたい。
インターネットを巡回していていると、下のような個人間融資を促すようなサイトに容易にたどり着ける。
https://twitter.com/hashtag/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E9%96%93%E8%9E%8D%E8%B3%87
これは、ネットと携帯が普及してから底なしの馬鹿が量産されたのと、(コロナを含めて)金に困っている学生・フリーターが安易な気持ちから、あとは消費者金融を踏み倒しているような玄人層がこういうところから借りている。
それで、(個人間融資から借りて)踏み倒す連中が現われるわけで、そういう連中の個人情報が下のリンク先のようにネットに晒されている。
※借りパク情報掲示板@JW3rs3tvsXwTTKk(Twitter)
https://twitter.com/JW3rs3tvsXwTTKk
※借りパク掲示板@nvK9xRxIsEz9F7P(Twitter)
https://twitter.com/nvk9xrxisez9f7p
※「https://twitter.com/JW3rs3tvsXwTTKk」の検索結果 - Yahoo!検索(画像)
一方、返済できないで「素直にギブアップする連中」は商品として売却されるわけで、強制的にタコ部屋に送られたり、売春をさせられたり、風俗に沈められたり、素人物AVに出演させられている、(あるいは、受け子にさせられたり、内臓でも売らされている)ことは容易に想像できる。
下の東京モーションのようなエロ動画共有サイトに登場する素人女性も、かなりの割合がそういう女性で占められていると考えると、今までとは違ったモノの見方が出来るかも知れない。
金融庁は個人間融資の利用に警鐘を鳴らし、NHKや時事通信でも報道されている。
※SNS等を利用した「個人間融資」にご注意ください!(金融庁)
https://www.fsa.go.jp/ordinary/chuui/kinyu_chuui.html
※News Up 利息は性行為で… 個人間融資の闇 (NHKニュース)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191107/k10012167441000.html
※【図解・社会】SNSを使った新型コロナ向け個人間融資の手口例(2020年3月)(時事ドットコム)
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_medical20200314j-03-w440
「個人間金融」もそうだけど、「個人間金融で借りパクした人間の個人情報を晒す行為」も「個人間金融で借りた若い女性が商品化されるスキーム」も、今は野ざらしになっている状態。
なんだよこれは。
https://note.com/saveourspace/n/n096202187edb
https://www.j-cast.com/2020/04/21384706.html
普段、「アベ死ね」とかTwitterで一日中発狂してるくせに、肝心な時には国に乞食かよ。ダサすぎんだろ。
必死こいて「欧米はー」とかいつもの調子でふかしてるけど、政治家のジャップと白人様の差より、お前ら自称アーティストと欧米の天才アーティストとの差の方が1那由多光年位離れてるわ。そこにまず気づけよ。
だから、そもそも社会に必要なかったんだよ。お前らみたいな才能のない世渡りだけうまかった腐れ芸者共は。
BADHOPって子たちは、中止になったコンサートの負債全部自分で食らうって言ってんだろ。なんであの子たちは負債丸抱えでお前らは真逆に他人巻き込んでの乞食なんだよ。生い立ちや境遇は明らかにあの子たちの方が断然不利だろ。
大丈夫、心配すんな。お前らがいなくなっても、誰も困んないから。みんな、海外の音楽とか映画とかで全然楽しめるから。むしろそっちに若い頃から触れた方が人生豊かになるから。心配しないで第二の人生考えろ。才能が通用しないなら野垂れ死ぬしかないのが芸術家ってもんだろ。
だいたい、こういう事が起こりうるからそこらへんのやつより収入が多い仕組みになってただろ。一般人はひもじい思いしながら毎朝早く起きてすし詰めの電車で会社に通って、なけなしの金をあんたらになぜか貢いでたんだよ。こういう時にはそんな優しいお客様たちに逆に還元するくらいが人間として正しい感覚じゃねえのか?
そうして稼いだ金は急に消えちゃったの?大麻買う金はあんのに、生活する金はないの???
金ないならドカティやって、とり急ぎ明日の夜から道に穴掘ってこい。みんなそうやって必死に生きてんだよ。
言っとくけどパンドラの匣を開けたのはお前ら自身だからな。こんなダサいあがき見せられてそれでもこれからの集金イベント(ライブとも言う)に参加したいと思うやつは、よっぽどのお人好しか、底なしのバカだよ。
大丈夫、心配すんな。こういうタイミングで全員消えてもらった方が清々するよ。そして、こんなクソダサさを見た若い子たちが代わりに新しいカルチャーを作っていくから。だから心配すんなって。
お前らに金使うくらいなら、その金でペットショップで売れ残って処分間近の猫ちゃんたち救った方がよっぽど価値あるよ。マジで。そのレベルの優先順位だよ。
そもそも、自称なんだから実際はアーティストにもなれてねーよ。お前らにある才能は、一日中Twitterにはりついて発狂し続けられる能力だよ。だからまず、プロツイッタラーって名乗れよ。それから戻ってこい。
増田です。かなりの数のブクマが付いててびっくりしました、みなさまコメントありがとうございます。
妻とは昨日無事に仲直りしました。(丸一日self-isolationした結果、状況は改善)
実はこの記事はイギリスから書いております。これを書くと欧州の特殊な状況と捉えられて共感を得られないのではないかと思い、あえて書きませんでした。ただコメントを見る限り普遍的な問題になってきていると感じますし、外出禁止令から3週間が経過した後に起きたということも踏まえて、これから日本でも私と同じような状況が出てくるのではないかと考え、ここに追記します。
・トップブコメの人が書いている通り、そもそも指輪と時計を着けないというのが正解だったのだと思います。つまり初手から間違っていた、と。30分程度の買い物に指輪も時計も必要ないはずなのに普段通りの行動をしてしまったというのは迂闊でした。
・コロナのせいにしてはいけないというコメントをコロナがしていましたが、それもその通りですね。夫婦生活はコロナと同じくらい不条理の連続、ワクチンも特効薬もない、悪化したら隔離して経過観察あるのみ。
・「話し合え」とか「価値観の食い違いを擦り合わせろ」というコメントもありましたが、それは結婚生活の本質を知らないんじゃないかと推測します。妻帯者の男性の方は理解してくれると思いますが、そもそも夫婦間で何かを議論するということは底なし沼に足を突っ込むようなものだと思ってます、もちろん夫の側が足の役目を負うわけですが。(これについては別の機会に書きたいと思う)
【追記ここまで】
題名の通りなのだが、新型コロナウイルスのせいで夫婦の危機に陥っている。
妻はこの騒動が起きてから、絶対にウイルスに感染しないよう予防を徹底している。
それは大変結構なことなのだが、先日アパートの正面ドアから出入りすることを禁じられた。
妻曰く、アパートの共有部分である正面ドアで咳をしている人を見たそうだ。
(その人が感染しているかどうかはもちろん分からないが、激しくせき込んでいたそうだ)
この話を聞いたとき、正直神経質過ぎるなと思わなくもなかったがこの時は素直に従った。
我が家はアパートの1階部分に住んでいて、裏庭側から外に出ることはさほどおっくうではなかったからだ。
次に、外出するときは手すりや金具の部分、信号のボタンに触るなという指示が出た。
万が一触ってしまったら、絶対に顔や髪を触れてはいけず帰宅直後にすぐに手を洗え、とも。
確かに誰が触れたか分からない部分を触ってしまったら、そしてそれで目や鼻を触ってしまったら感染のリスクは高まる。
この時も私は素直に従った。(ただ限度はある、手で顔を触るのはほとんど無意識にやってしまうことはあった)
そして昨日、事件は起こった。
夫婦で食料の買い出しに行った帰り、家に着いた私は指輪と時計を外して手洗い、そして居間に帰ってくると妻はなぜか不機嫌だった。
なぜ?と聞くと手洗いの順番がおかしいのだそうだ。妻曰く、帰宅したら指輪や時計も着けたまま手を洗い、そのあと外せとのこと。
この時私は初めて妻に反駁した。いや、嘘です、「おっしゃる通りですね」みたいなことを言った。ただ態度は顔に出ていたと思う。
私ははっきりとやり過ぎだと思った。除菌のため何度も手洗いをすることは重要だと理解するが、指輪や時計も外出から戻ってきたら毎回石鹸で洗わないといけないのか?うんざりした、正直そこまでやらないといけないなら感染して免疫を持った方が手っ取り早いとさえ思った。