暑いとか寒いとか退屈だとか、部屋が汚くて不愉快だとか、お腹が空いたとか、そういう原始的な欲求。
そういう欲求を抱いていることに気づいて、自分で満たすのが苦手なのだと気づいた。
自分の機嫌を取って、常にご機嫌でいること。
重要だと聞いていたけど、話半分に聞いていた。
不快な環境に置かれていることが自分のデフォルトであるべきだと思い込んでいる。
うちは貧乏で、両親は共働きで、父は単身赴任だったので家には母と私だけだった。
母は朝から晩まで働いていたから、怠惰とか怠慢ではなく、単に子供に割けるリソースがなかったのだと思う。
それでも私の置かれた環境は、客観的に見てネグレクトだったと思う。
なので保育園のない日は、床も見えないほどゴミの散乱した部屋で遊び道具を探しながら、ひたすら母の帰宅を待った。
暑いのも寒いのもお腹が空くのも、部屋が汚いのも、退屈なのも、全部母に解決してもらうしかない。
私は母に依存して生きていた。
私の最古の記憶は5歳で、5歳の私は必死に母に縋って生きている。
母は応えられる限りの要望に応えている。
でもあの時、母は私に生きるための細々とした知識を教えてくれなかった。
私は母にエアコン付けてとねだる。母はエアコンのリモコンの黄色いボタンを押しながら、「これくらい自分でやりなさいよ」と言う。
一度、留守番の時にそうしてみたら、部屋が気持ちよくなるはずが逆に息苦しくなった。帰宅した母は驚いてリモコンを見、ダンボウになっていると言った。
ダンボウの何が悪いか分からなかったが、見よう見まねではリモコンは操作できないようだった。黄色いボタンの他に、様々な大きさのボタンがあったが、意味は分からずじまい。
母は簡単にそのリモコンを操作する。だからきっと操作は簡単なんだろう。でも私は理解できなかったし、母が察して教えてくれることもなかった。
そういうものだと思った。母は面倒くさそうに「こんなの自分でできるでしょ」と言うけど、私には何故かできない。でも成長したらできるようになるのかもしれないと思って、ひとまず自分の成長を待つことにした。
それからゴミの分別も分からなかった。生活で出たゴミを母に渡すと、三つ並んだゴミ箱のどれかに放り込んでくれる。何か規則があるらしいけれど、どんな規則か分からなかった。
規則を知るために質問したかもしれない。しかしおそらく、まだ早いからといった感じではぐらかされたのだと思う。教わった記憶がない。
だから正しいゴミの捨て方が分からず、いつまでも母を呼びつけてゴミを預けた。これも「いい加減自分でやりなさいよ」と言われた。「でも、どうやって捨てればいいか分からない」とある時私は言った(と思う)。すると母は、「そんなの簡単じゃん、こういう燃えないゴミはこの箱!」と言って、三つのゴミ箱のどれかにゴミを放り込んだ。
悲しいことに、どのゴミ箱が燃えないゴミの箱だったか、一瞬では覚えられなかった。しかも、「燃えないゴミ」と「燃えるゴミ」の区別も分からなかった。でも多分幼い私はそういう新たな疑問を咄嗟に言葉にできなかったし、母は苛立っていたから、質問をやめた、ような気がする。
とにかく耐えれば済む話だった。不快さに耐えて、母に依存し、時に嫌味を言われながらも、「いつか規則が理解できる日」が来れば、自分で何でも解決できるようになるはずだった。
しかし、そんな日は来なかった。規則や常識は生きていれば自然と肌を通じて浸透するものではなく、どこかでルールとして誰かに教わらなければならないらしかった。
ところが、私の周りにはそうしたルールを親身に教えてくれる人はいなかったので、私はずっとルールを知らず、知らないのを誤魔化しながら生きていたのだった。
なぜこんな話を書いたのか。それはたぶん、ついにその生き方に限界を感じ始めたからだ。
今まで人に質問する習慣がなかった私は、大抵の疑問をネットで検索して解決してきた。
空っぽの鍋の底をお玉で何度も引っ掻くように、全く手応えのない脳内に答えを求め続けた。
そうして前のゼミから全く進捗のない週を何度も経験し、自分が情けなくて何度もゼミを欠席した。
すると教授や院生さんが私の異変に気づいたのか、どんな些細なことでも質問してくれていいと言ってくださったり、私がやるべきことについて詳しく説明してくださるようになった。
正直、手取り足取り教わるというのは初めてだった。
しかしちゃんと手順を教わると、あれ程上手く進められなかった作業がちゃんと進むのだ。
この世はそんなに簡単でいいのか、と思った。
でも、家に帰って一人になると途端にやる気が出なくなる。
私が私のためにできることなんてないような気がする。
お腹が空いても、部屋が寒くても、部屋が汚くても、私にはどうすることもできないから耐えるしかない。
そういうどうしようもない気持ちになって、どうしようもない現実を耐えて過ごすだけの人間になる。
正直この状態になると全くダメで、特に卒論の作業が上手くいった日ほど大きなギャップを感じ、次の日以降の作業に身が入らなくなる。
さすがにこのままではまずいので、家にいる時の底なしの無力感について考えたところ、幼少期の経験に行き当たった。
質問してもちゃんと答えてもらえなかったり、理解できるようには教えてもらえなかったこと。
教わらなくても理解しているのが当たり前で、理解していない自分は人一倍出来が悪いと思ってしまったこと。
自分のやることは間違いだらけなので、自分で考えて行動するなど以ての外だと思っていたこと。
自分で自分の欲求を満たすような行動を勝手に起こしてはいけないと思ってしまっていたこと。
幼少期の経験から、おそらくこうした思い込みが私の中に芽生え、私をずっと規定し続けてきた。
母と私の関係も、悪くいえば母が私を依存させるよう仕向けるようなものだったと思う。
卒論によって、私は生まれて初めて誰かに質問したり、頼ったりしなければいけない状況に追い込まれた。
でもそれが結果として、私に質問する習慣を与えてくれた。
人に分からないことを聞き、相手の時間をいただいて教えてもらうというのは、こんなに有意義で価値あるものかと知ることができた。
本当はくだらない人生だと思ってたし、自殺するために飛行機の距離ほど離れた大学に進学したけれど、卒論を書くほどまで生きていたのは結果的に良かったのかもしれない。
結局とりとめのない文になった。
でも、私と似た境遇の人に読んでもらえれば嬉しい。
大変だったね。おつかれさま。増田はがんばってると思うぞ。 あなたが少しずつでも「自分のための行動」を増やしていけるのをインターネットの片隅で祈ってるよ。
大変だったね。 ちょっと似た話、私も、生活に「湿気」があるって知らなかった。「快・不快」は全部我慢して考えないようにしてたから。 頭の良い人たちはどこかで気がつくのかもし...
なんかわかる 多分お母さん自他の境界が曖昧な人だったのかも 自分が知ってることと相手が知ってることの境界が曖昧だから 相手が知ってないと無性にイライラしてなじってしまう