はてなキーワード: カリキュラムとは
私は、アラサーの社会人である。事務職である。総合職である。割とお堅い職業である。肩書はまだない。
中学高校と私立の中高一貫校に進み、偏差値で進学する大学を決めた。そんな「ゆとり世代」である。
近頃、周りでよく「セクハラ」「パワハラ」の話を聞くようになった。
いや、誤解しないでほしいのは、女性側がことさらにセクハラやパワハラを訴えているという話ではない。
男性側が「こんなことをセクハラって言われたけれど、これってセクハラじゃないよね?」と『赦し』を請うという話である。
さて、我々昭和から平成の世代にとって、これが同世代の一般的な考え方なのかは分からないが、生まれた時から世の中は男女平等社会だった。
大学までは「男性である」とか「女性である」ということを、正直そこまで意識をせずに過ごしてきた。過ごしてこれてしまったとも言える。
我々はいわゆる「ゆとり教育」世代であるが、これは単純に教育の質が落ちているということではない。国が主導した「ゆとり教育」の導入は、教育の選択を助長させた。
すなわち、金銭的に豊かな家庭は、「ゆとり教育」の公立高校か、それとも「独自のカリキュラム」を売りにした私立の中高一貫校かをこれまで以上に選び始めた。
しかし、「独自のカリキュラム」といっても、その中身を吟味し、選ぶことは容易ではない。
その結果、偏差値の高い中高一貫校に進むこと、大学は「早慶上智」あるいは「MARCH」に進むことが重視された。
だからこそ、社会に出てから「女性」というラベルに対して、「男性」というラベルとは別の意味付けがされることに慣れていない。
これまで男性と同じように偏差値の良い大学に入ること、さらに言えば一人で生活していくことのできる企業に入ることを目標として、男性と競ってきたはずなのに、社会に出たとたんにそれだけでは通用しなくなってしまう。
これまでのように、男性と同じ振る舞いをしていれば良いのかといえば、そうではない。
さらに「女性であること」「女性らしさ」を暗に求められる。そのことへの違和感である。
この違和感を通常はフェミニズムやジェンダー論の立場から語られることが多いが、私はどちらかというとこれは感情社会学の問題で、必要のない「感情労働」を強いられることに対する違和感だと思っている。
例えば、先日、上司から「これはセクハラじゃないよね?」と相談された事例を例に挙げよう。
飲み会のときにその場の空気で写真を撮ろうという話になったのだ。彼は、一緒に仕事をしている女性の部下を隣に呼び出して、一緒にピースサインをして写真を撮った。
彼は、部下の身体に接触したわけではないし、彼女は笑顔でピースサインをしていた。
だけど、「本当は嫌だった。あれはセクハラなんじゃないか」と同期と陰で話しているのを聞いてしまったそうだ。
「笑顔で写真に写っていたのに、セクハラだと言うのはおかしいんじゃないか」と上司は納得のいかない様子だった。
男性の上司は、男性の部下を隣に呼びだして、ピースサインをさせることはあるのだろうか。
逆に、自分が男性の上司から、隣に呼びだされて、ピースサインをさせられたら、自然と笑顔になるのだろうか。
おそらく、自然に笑顔にはなるまい。しかし、その場の状況から、自らの立場から、笑顔にならざるを得ない、と思うのではないか。
無理やり自分に「自分はこの状況を楽しいと感じている」と思い込ませるのではないか。
つまり、感情を無理に、自分の本来自然に感じる方向とは別の方向に動かして、その場を収めようとする。
言ってしまえば、上司と部下という関係性を円滑に進めるため、「感情労働」を強要されているわけである。
この件が「セクハラ」に該当するのかはさておき(そのためには、そもそも「セクハラ」の定義から語らなければならない。「セクハラ」は一般的に被害者が不快に感じた場合はすべてそれに該当すると言われているから、そういう意味では「セクハラ」と被害者が認識したものはすべて「セクハラ」になるが。)、
女性は、社会においてこうした「感情労働」を強要される場面が多いと感じる。
そこに身体的な接触があったかどうか、という問題ではなく、また、誰の目に見ても明らかに性的な要求をされているのか、というものでもない。
女性であることを理由として、自らの感情を、自らが本来素直に感じる方向性とは別の方向性に働かせなければならないこと、そのことに違和感を覚えるのだと思う。
パリピなやつはパリピしてて、オタクなやつはオタクで集まってていい感じにすみわけできてた気がする
科にもよるんだろうけどウチは半々くらいだったわ
実験や研究、勉強が大変だっていうけど過去問と友達使えばなんとか乗り切れたし
就職や進学には地元の進学校に比べてよかったらしい。これ聞いて高専よかったってちょっと思ったわ
というのもうちの地元一の進学校だと思ってた学校って実はネットでよく蔑まれている「自称進学校」ってやつだったらしい。
本当に地元一番で賢いんだぜ?○○高校いってるつったらまあ県内で一番っていかないまでもトップ3くらいには入ってて、「勉強頑張ったんだね」って言われるくらいには。
偏差値もうちと変わらないのに、カリキュラムゴミなんだってさ。特に先生がゴミらしい。まあこれは時代だったり運だったりもあるのかな?
高専の感想を伝えるブログを書きたかったけど、自分の何もしてなさに絶望したのでここに投下させていただきます。うんち
なんか反応くれ
もともと日本企業で働いていたけど、家族の関係でEUに来ました。
MScは日本で取っているけど、働いている中でもっと学びたいことができたので、冬学期からまずはnon-degree studentとして通っています。
こっちの人は大学の授業料が無料なのが羨ましいけど、EU外の人にとっても日本の大学に比べて格安の授業料なのがありがたいですね。
私はオーストリアにいるので基本ドイツ語の授業が多いけれど、ERASMUSで他の国からの学生も多いからか、英語の授業も多く、学生も先生も英語が通じるので助かっています。
私が日本で通っていた大学にはこんなにも多くの英語の講義がなかったので、日本に来る留学生はとても大変だったんだなぁと思います。
中国の自然科学系については詳しくわかりませんが、調査対象地域として中国をやられている方は、現地調査や収集データの取扱について中国政府から色々言われることが大変だと言っていました。
生物・化学の実験系の分野だけかもしれませんが、オーストリアの大学院生と日本の大学院生を比べると、日本の大学院のほうが、修論・実験に対して重きをおいたカリキュラムになっているように感じます。オーストリアの場合は、大学院に入っても研究室にいるより授業に出ている方が長いように見受けられます。前述の通り、講義といっても学生に対してプレゼンや何かプロダクトを作ったりレポーティングにより評価することが多いので、こちらの学生の方が自分の成果を表現する能力が高くなるように感じます。一方、日本の大学院ではゼミや実験が重視されているため、実験操作や実務能力に重きをおいているように感じます。
私としては、今の時点でどちらが大学院のあり方として優れているかはよくわかりません。
日本から出たことのない学生は、研究に対して保守的になりがちなので、あなたが日本で学生生活を過ごしたことがない場合、戸惑いがあるかもしれません。
私が学部生で研究室を決める際、先輩から、「いくら有名な先生や研究室でも、実態は違うかもしれないから、研究室訪問をして、本当に自分がそこで一緒に研究したい人たちがいるかを基準にしたほうがいい」と言われました。
https://togetter.com/li/1274838
社会学のスタートって「物理学」や「生物学」の「科学的手法」を手本にして、社会を科学的に考えようって話だったと思う。
それが今では社会学者の論文は客観性が担保されてない、お気持ち学問で査読論文なんてありませんし、ありえませんってことに。
社会学で学部レベルでもカリキュラムで一番大事にされるのが「統計学」。
社会を客観的に調べましょう、知りましょうってのが、社会学の基本なので調査のない社会学なんてない。
でも、統計学って数学使うでしょ。数学の基礎の基礎だけど。でもド文系の社会学徒は理解できないんですよ。
そーするとカルチュラル・スタディーズとか「質的な調査」に逃げるんですよ。誰でもそれっぽい話が書けるんで。お金もかからないし。
それで書けて「なんか上手いこと書けた」とか思ったアホが修士行ってゴミを量産するんです。そしてそのまま就職できずに博論も出せずに置物になるんです。
運良く博論が出せて人づきあいが良かったりボスが良い人だったり上がいきなり人生ドロップアウトしたりすると大学教授になれたりします。
社会学系のキャリアは、研究内容が奇抜で変だからこそのおもしろ枠もあるし、地域枠で地域密着研究者ってのもあるし、単純な学問的な業績よりは「社会的な業績」が加味されます。
だから、まぁ、社会学の教授に査読付き英語論文が必要かと言えば、別にいらないかな。
社会学は基本的に手続きの学問で、ちゃんと調査しましょう、ちゃんと開かれた議論が出来るように論文を書きましょうっていう学問です。
自分の研究フィールドがしっかりしていて、調査・研究も継続して予算もしっかり取れて横着せずに最新の理論と研究内容をフォローしてるなら大学教授やってて問題なしでしょ。
大学でリテラシ実習とか検索演習などパソコンを使った演習を担当しているが,授業の事前アンケートで大体数人は「コンピュータは苦手ですが頑張ります」とか書いてくる学生がいる.時期的に2000年以降生まれで,たとえ家にパソコンが無かったとしてもこれまでの教育で少なからず扱ってきた世代のはずなので,かなり変なことを言っているように思えるのだがどうだろうか?
もちろんネオ・デジタルネイティブ世代だったとしても家庭環境その他さまざまな事情でコンピュータに全く触れる機会がなかった人なのかもしれないが,その世代が「コンピュータは苦手」と言ってしまうのは「日本語全くわかりません」と発言する並みの違和感を覚える.一種の謙遜なのかもしれないが,あらぬ誤解を与えかねないので控えるべきだと思う.
もしかすると,英語も義務教育+αで5年以上学んだとしても「英語は苦手です」と宣言する人と同じ構造かもしれない.あっちはカリキュラムが悪くてリスニングとスピーキング能力が育たなかったことや謙遜の精神が原因かもしれないけれど.
ちなみに,私が「コンピュータは苦手」と認定するのはキーボード操作の知識が欠けている人,具体的には「+を入力するにはShiftキーを押しながら;が印字されたキーを押す」ということを知らないレベル.単に授業を分かりやすく展開しろという要求なら,当然そのような努力はしているわけで,むしろ分かりにくかったときに改善の依頼を出してほしい.
高IQを自称する人の大半は教育大附属や国公立の小学校や幼児学習塾でのカリキュラムの一環として測定した結果を元にしているが、IQは成長に従い大きく変動する物なのであまり参考にならない。
他人の幼児期の成功体験なんて誰も興味がないが、それをわざわざ語りたがる人は自尊感情がどこか歪んでいて、故に認知バイアスもちょっとおかしいのではないか。
器用に生きてきたせいで「そんな虚栄心を誇示するのはやめなさい」と咎められることがなかったのか、アダルトチルドレン特有の自己否定感の裏返しなのか、はたまたその両方なのか。
ハイティーン以降の測定結果は信頼性が高いものの、大人になってからIQを測定する機会なんて心療内科の診察か少年院の鑑別くらいなもんだから、自らのIQを把握している時点でちょっと社会からあぶれた人である可能性が高い。
メンサ会員なんかは流石に堅気の人ばかりだろうが、メンサに憧れ入りたがる心理は常人には理解しがたい。がとてつもない自信家でそれを保証するだけの成功体験を積み重ねてきたことは確かだろう。
よって高IQ自称者は変人が多いし、アウトローか自分を天才と信じて疑わない社会的成功者のどちらかなので大衆に併合する意義を感じていない。高IQだと話が通じないのではなくて、相手と意を通じ合わせる努力を放棄しているのである。
同程度のIQ記録者間でも意見の照らし合わせを怠れば話は噛み合わない。とどのつまり高IQになればなるほどコミュ障が多いというだけではないだろうか。
は意味がある気がするが
って言うからそれを高校時代、しかも高3で学ぶ事にどういう特別な意味があるんですか?とお尋ねしたんです。
などのような全く極端な話じゃないんです。あなたも現に
と仰っているではありませんか。
余談ですが、高校時代にゲーム作るならカリキュラムに入れずとも実践を通じて自習される(しかもそれで受賞までされる)でしょうから、
やはり数学の単元として入れるにはいささか弱いのではないかなあと思います。
それと、今回の指導要領の変更に伴って行列は完全に排除されるわけではなさそうですね。縮小はしてそうですが。元増田やリンク先のまとめはちょっと勇み足気味に見えます。
それどころか、理系科目で見るとより一層の詰め込みが進んだという塾講師の発言もあるようです。
何にせよ、騒ぐほどのものではないです。
私は20代半ば手前の者です。
昨年仕事(第一次産業)を辞めてしまい、学歴もスキルもないのに何やってんだろ...と引きこもりかけたところ、
ハローワークで長期の職業訓練を見つけたので応募してみました。
それは専門学校に委託される2年間の訓練でした。その間失業保険の支給は、期限が過ぎても延長してもらえます。
要するに入学料・授業料タダ、お金をもらいながら勉強でき、専門卒になれるチャンスというわけです。
(本当に有難い制度です。就職したら、きちん税金を納めて世の中にお返しするつもりです)
どうやら希望者は少なかったようで、筆記(中学レベルの知識で大丈夫でした)と面接はすんなり通りました。
同じ訓練生は1割程度です。(30~40代の方が2人おられます)
ワイワイやる人が3割、静かな人が7割ぐらい? といった印象です。
男子100%ですが、ホームルームだけは女子100%のコースと一緒にやります。
悪い人はいない感じで、授業が荒れて成り立たないとか、そういうのはなくてよかったです。
ただ、バイトが忙しいのか授業中イビキかいて寝ちゃう人や、全然授業について行けなくて辞めちゃう人はいます。
○Office(前期のみ)
word,excel,powerpointを一通りやりました。PC操作に慣れていない人も多いので、
手取り足取りゆっくりやる感じでした。自分は仕事で使ったことがあったので、課題を早く終わらせて
○C言語
terapadとコマンドプロンプトを使っての授業です。(コンパイラはborlandです)
元SEの先生(本人曰くCOBOLer)の説明聞いてから、課題をこなしていく感じです。
入学前に、RubyやらJavaの参考書を一周してみたり、ドットインストールでC言語の動画を見たりしていたので、
授業にはついていけています。
ただ授業だけだと完全に足りなさそうなので自学を頑張ってます。
分野ごとに授業があります。教科書を読んで先生が板書・たまに問題集やプリントを生徒にやらせるといったスタイルです。
ただ試験対策なので、問題演習を重視した方が良いと思いました。
授業を聴きながら(たまに当てられるので)、ひたすら過去問をやっています。
ちなみに学校は12月の修了試験(合格すると本試験の午前問題免除)→来年4月の本試験 を前提にカリキュラムを組んでいますが、
私は年も食っているし、合格が就職活動に間に合わないので、来月受験します。
就職指導の先生は応用情報技術者も取っておけ、と言われましたが、必要ですかね...?
勿論取らないに越したことはありませんが、Railsチュートリアルとか他の技術書に時間をさいたほうがいいかな、と思いました。
○アルゴリズム(前期のみ)
フローチャートや疑似言語を使って、バブルソートや基本選択法など初歩的なアルゴリズムの勉強です。
実際のプログラムのコードの方がわかりやすい気がしますが、基本情報技術者試験対策なので仕方ないですね。
今も現場ではフローチャートや疑似言語は使われているのですかね?
そんなの古い現場でしか使ってないよ、という意見はよく聞きますが...
先生の意向でなぜかメモ帳推奨。(他のエディタを使っていたら嫌な顔をされた)
素人がいうのも何ですけど、ミスに気づきにくいし、使いづらくないですかね...
案の定何でもないところでハマる人がいて、授業はよく止まってしまいます。
ブラウザの開発者ツールの使い方を隣の子に教えてあげたら、喜んで使ってくれていましたが、
やっぱり変なもん教えるなという目を先生から向けられちゃいました...
○データベース実習(後期〜)
Accessを使った授業です。テキスト通りにやっていきます。
Accessは初めて使いましたが、Mysqlをちょこっと触ったことがあるので、要領はなんとなく掴めました。
これも授業は遅いので、先に教科書の内容は家で一通りやってしまいました。
グループワークとかやめてください死んでしまいます、と思ったけど、意外と楽しめました。
ただ、喋らない人たちしか居ないグループだと、何を話しかけても反応が薄かったので、ちょっと辛かったです。
・授業で使うPCはメモリ4GBでもうちょっと欲しいなあと思いました。
エディタはAtomをUSBに入れて使っていましたが、カクカクでよくフリーズしました...
モニタも19インチの正方形で、ウィンドウをたくさん出したい時は不便ですね。
どんな職場に行ってもどんな環境でも何とかやれ、という訓練ということなんでしょうかね。
1年生後半にRubyの基礎、インターンシップ(強制)、就職活動の開始
2年生からは、Java,Rails,サーバ構築, データベース構築あたりの授業、という流れで進んでいきます。
年齢が20後半になるので、周りの若い人たちと何かしら差をつけないといけないので大変ですが、
地元企業のSE(Web系を希望しています)で採ってもらえるよう頑張ります。
アドバイスがありましたら、いただけると嬉しいです。
拙い感想文にいろいろと反応いただきありがとうございます。
ごもっともです。私は皆様の雇用保険から学校に通わさせていただいているので、文句言う立場じゃないですね...
ただ、年100万近く払っている一般生徒の方は、不満に思っているかもしれませんね。
>>田舎で数年間無職してるけどIT系の就職訓練無くて最悪 羨ましい 田舎はゴミ
そうですか... 私の住んでいるところも地方都市ではない田舎なのですが、
近隣にIT企業が進出してきていることもあってか、今年からIT系が訓練の対象となりました。
都市部ではない地域も、もっとIT系の訓練が拡充されると良いですね。
>>otihateten3510 基本情報さえ取ればどっかに潜り込めるだろうから、そこで3年くらい真面目にやれば結構いけるとおもう。
>>コード書けると良い。/授業はまあそんなもんだよね。現役の人に聞いたほうが正しい。/東京のほうがイージー
ちょっと精神的に病んで前の仕事をやめてしまったので、家族のサポートを得て、地元に就職しようという情けない有様でございます。
数学専門の修士1年です。整数論を学ぶものの端くれとして助言させていただきます。とりあえず以下の分野について勉強なさることを薦めます。
微積分なら杉浦「解析入門」がおすすめ。線形代数なら佐武「線型代数学」か斎藤「線形代数の世界」がおすすめです。
Atiyah MacDonald「可換代数入門」、雪江「代数学1・2・3」あたりがよい。辞書として松村「可換環論」を買うといいかも。
Serre「A Course in Arithmetic」とか、斎藤・黒川・加藤「数論」の6章あたりまでとか。
これらは数学科学部3〜4年のカリキュラムに含まれる基本的な知識です。先の内容を学びたい気持ちもあると思いますが、まずこれらの分野を「十分」学んでください。各分野についてどれぐらい学ぶ必要があるかというと、買った本の各章の内容について、証明の内容も含め、何も見ずにだいたい説明できるぐらい読んでください。あともちろん演習問題は全部解いてください。詳しい数学の勉強の方法は東京大学河東先生のこのページを参考にしてください。
http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~yasuyuki/sem.htm
ここまで勉強なさると、宇宙際タイヒミュラー理論を学ぶハードルがどれだけか、少しイメージが湧くようになると思います。もっと勉強したいと思ったら、また増田に来てください。期待しております。
宇宙際タイヒミュラー理論(IUTeich)を理解したいんだけど、どこから手を付けてよいのかさっぱりわからんのです。
自分は工学系の修士卒。学生の頃、数学はあんまり得意じゃなかったです。
なんでIUTeich理解したいと思ったかっていうと、ABC予想の話を読んで興味を持ったからです。
ただ数学科卒でもない自分にはどの分野からどうやって勉強したら良いのか見当もつかないのです。
最終目標はIUTeichの理解、サブ目標はABC予想の証明の理解ですが、お手軽にできるとは全く思っていません。
何年も勉強が必要なのは覚悟しています。IUTeichに向かう道中で数学の世界の奥行とか広がりを経験したいなと思っています。
[201809030125 追記]
わー、たくさんの反応ありがとうございます。
まさかこんなにコメントもらえるとは。頂いたブコメ、トラバは全部読んでます。ありがてえ、ありがてえ。
自分の現在の数学知識ですが、工学部の初歩的な数学しか知りません。
解析学、線形代数、複素解析、確率統計、微分方程式くらいです。
あとは物理系、機械系、電機系、情報系のカリキュラムをほどほどに勉強しました。(大学院の専攻は情報系です。)
一応サーベイは読んだんですよ、それで「やべえ、全然わからねえ……」状態になって増田に投稿したのです。
私がIUTeichを完全に理解できるなんて思っていませんが、科学の女王である数学の世界を深く知りたいなと思っていますし、
私が当初思っていたよりもずっと長い道のりみたいなので、暫定目標として5年後までにIUTeichの論旨くらいは理解できるようになっていたいです。(これでもハードル高いかな?)
(京大、数理解析研究所に入るのは素敵なアイデアですが、いろいろな現実の壁があり難しいですね。ただ、アカデミアの世界にはいつか戻りたいと思っています。)
言葉足らずな文章に丁寧な返答をくださった方々には感謝しかありません。
特に以下のお三方にはスペシャルサンクスとして私のハグを送ります。(私をガッキー似のJKだと思ってください。)
https://anond.hatelabo.jp/20180902154717
https://anond.hatelabo.jp/20180902175737
https://anond.hatelabo.jp/20180902232707
見かけたら生暖かい目で見守ってやってください。
俺の通っている学校は、特に公民のカリキュラムに力を入れている、らしい。
その公民とやらは更に学部とか科目が分かれていて、選択制となっている。
だけど、そもそも「公民」というものを漠然としか在学生は理解していないので、この選択に大して意味はない。
俺はというと意識が低いので、入っているのは……えーと……うんちゃら部の、メディアかんちゃら文化のなんちゃら項……
ドキュメント番組や映画を観たり、漫画や小説を読んだりして、それのテキトーな感想を書けばいいだけ。
だが、半端に真面目な奴や、要領が悪い奴は苦戦するらしい。
そいつらに何度かコツを尋ねられたが、俺が言えることはいつも一つ。
正解のない事柄で正解するには、自分の正解を押し付けることだ。
もちろん「正解でしょ?」という顔をしながらな。
まあ、そんなわけでユルい選択科目なんだが、あくまで“基本的に楽”なんだ。
たまに面倒くさいことをやらされることがある。
しかも面倒くさいだけじゃないってのが、尚更ゲンナリするというか……。
ちょっと愚痴っぽくなるかもしれないが、今回はその時の話をしよう。
「みんな、おはよう!」
そんな室内の冷え込みを中和するかのように、担任は暑苦しい挨拶を響き渡らせた。
「で、今日の授業だが、別のことをやりたいと思う」
続けて飛び出た不穏当な言葉に、室内が冷え込むのを感じた。
その冷え込みのせいなのか、クラスメートのカジマが震えながら担任に尋ねた。
「せ、先生。“別のこと”ってのは何スか?」
まだ概要すらロクに分からない状態だったが、俺たちはこの時点で嫌な気配を感じ取っていた。
国公立大に行きたい。特に理系。偏差値50を切っているし普通科のカリキュラムとは全く違う商業高校なのだから可能性は限りなくゼロに近い。高校の進路は就職もあるし進学もある、どのくらいの比率が忘れたけど。進学は推薦でGMARCHだとかの私立なら簡単に行けるがあいにく家庭に金が無いし行ける学部は全て文系だ。私立文系はなんだかなぁという気もする。そんななら何故商業高校に入ったか聞かれそうだが当時の俺にはこの選択がベストだと信じて疑わなかったらしい。高校に入ってからやりたいことが出来た。勉強ができると自分に酔い始めたからでもあり、勉強以外に出来る事がないと気付いてしまったからだ。そのくせこの夏休みにまったく勉強していない。このままだと死ぬほど後悔する。いまだって後悔しているのに。予備校に入るべきだがそのお金だって親に負担させてしまう。そもそもできるはずのバイトだって時間がないからとか担任と会話したくないからとかの理由でしていないのは逃げ。
・女性差別を推奨しようという投稿ではなく、女性医師を増やせば医療が崩壊するシステムを批判するものです。
・今回の東京医大の件は、男女比の調整を行うと示していなかったという点から、肯定しかねます。
・女性医師の能力は男性医師と同等であり、一般に期待できる高い共感力から、むしろ臨床的能力に優れているケースが少なからず有ります。
・実際には妊娠・出産・育児を行わない女性医師が存在することは承知の上で、男性医師と比較した場合、そういったイベントが起こる可能性が高い、という観点から「女性医師」とひとくくりに記述していることをご容赦ください。
医師の仕事のひとつに、「当直」(=夜中に病院に泊まり込むこと)があります。皆さんが深夜に救急外来を訪れたり、あるいは救急車で搬送されても、適切な処置が受けられるのは、この「当直医」がいるからです。
よくかん違いされることですが、この当直は、いわゆる「夜勤」ではありません。
「当直」とは、
という一連の流れを指します。普通の業種であれば三交代にあたるところを、一人で行っているのです。
このようなクレイジーな働き方がまかり通っているのは、「人手不足」だからに他なりません。
結論から言うと、加速します。妊娠・出産・育児を、「今までと同じ仕事量を」こなしながら行うのは、難しいです。これは、上に書いた医師の業務のハードさから理解していただけると思います。
産後、女性医師が仕事に復帰できる環境を整えるのは非常に大切ですが、男性医師と全く同じ労働時間は期待できず、医師の絶対的な供給が不足することは避けられません。
パートナーの協力があれば良いのでは?と思われる方も多いと思いますが、女性医師の結婚相手の半数は男性医師です。つまり、どちらが携わっても医療におけるマンパワーが減ることは避けられません。
ここが非常に難しい問題です。というのも、一言で言ってしまえば「医者は一定以上の"頭脳"がないと務まらないから」です。
(裏口で入学した学生などは、いわゆる「外れ値」で、彼らが医学生の本流ではありません。また、彼らは医学の勉強をする際にも、塾に通ったり個別指導をつけたりすることで、財力で地頭の悪さを補っていますので、医学において"頭脳"がないと断じることは難しいのです。また、今回の女子学生のような「本当は優秀だったのに入学できなかった」ケースは本当に気の毒ですが、しかしながら多少の増枠を行ったところで、入試担当者は男子学生を採ったことでしょう。差別を生じさせないほどに枠を増やすことのデメリットは、以下に記します。)
現代の医療は非常に高度で、その知識・技術もまさに日進月歩です。医師国家試験の難易度のインフレは顕著であり、カリキュラムは常にギチギチ、テスト期間が始まれば一ヶ月間毎日試験、医学部においては「春休みは一週間だけ」というのも当たり前です。医学部に入ったからには常に学び続けることが求められます。
ここで単純に医師の数を増やしたからといって、同じレベルの人材が確保できるかは疑問です。仮にも人の命を預かる職業ですから、この点を妥協するのは危険です。
また、医学部の定員は増加傾向にあり、さらに現在日本の人口は減少していますので、どこかの段階(厚労省の見通しでは2028年)で需要と供給が釣り合います。つまり、今人数不足で困っているからといってやたらと医師を増やしすぎると、今度は医師が溢れすぎる、ということです。
歯科医師が人数を増やしすぎた結果、「食っていけない」歯科医師が増え、その結果として患者に本来不要な治療を勧め、保険点数を稼ぐケースが多くなったことは、広く知られている通りです。
医師になることを希望する女性を「女性だから」という理由で拒むことは、断固許されません。しかしながら、上記のような問題が存在することも、確かです。
では、どのようにして「女性医師が増えても医療の供給が保たれ」「今の医師の絶対数を急激に増加させることなく」すればよいのか。
それは、「医師の仕事の絶対量を減らす」ことに尽きると思います。まずは、「医師免許がなくてもできる仕事」を医師がしなくてもいいようにすること。医療秘書、医療クラークの増員が求められます。また、AIによる画像診断の積極的な導入で、画像診断の労力を減らすことも期待できます。
元生徒です。
クラスに不登校の友人がいたとき担任の教師は「家に引きこもらないで外にでろ」「もっと前向きに生きないと将来大変だろ」と友人に言っていた。私は外に出ることを勧めることは納得できたけどなんで考え方まで教師に指導されなきゃいけないのだろうと思った。
友人はフリースクールに行けるようになった。今では立派な社会人だ。確かにネガティブな思考になってしまうのはあるけどだからといって無理にポジティブになる必要なんてないと思った。私はその友人の思慮深いところが好きだしやはりあの担任の教師の声かけは違うんじゃないかと考えていた。
同級生で教師として働いてる人もちらほらいるが、生徒の性格や思想までを教師が指導するものだと考えている人達の多さに驚く。性格や思想なんてのは学校外も含めた生活の全てから本人が悩み苦しみときに喜び獲得していく尊いものだ。それを偶然であっただけの教師というだけの一個人がなんとかできると思っていることに恐ろしさを感じる。「この教師に教わりたい」と自ら志願する生徒がどれだけいるだろう。
あくまで道徳や倫理であれば教えてほしい。カリキュラムに入ってるし。でも生徒の人生の価値まで貴方に評価できるのか、責任が持てるといえる教師がどれだけいるのか。教師による生徒への思想教育ができるだなんて思わないでほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20180709055614
の続き
ダニエル F.チャンブリス著、浅野祐子訳「ケアの向こう側 看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾」
この本は、病院でフィールドワークを行い患者や医療者に起こっていることを目の当たりにしたことをもとに書かれています。目的は「ナースが日常業務の中で倫理的問題をどのように捉え、対処しているかを、詳細に、かつ弁護できる程度の一般化をもって記述すること」です。
第1章は、「ナースの世界、すなわち病院は、一般社会とは全く異なる道徳システムを持っている。病院では悪人でなく善良な人がナイフを持ち、人を切り裂いている。そこでは善人が、人に針を刺し、肛門や膣に指を入れ、尿道に管を入れ、赤ん坊の頭皮に針を刺す。また、善人が泣き叫ぶ熱傷者の死んだ皮膚をはがし、初対面の人に服を脱ぐよう命令する」といった衝撃的な言葉で始まり、「一般人にとって身の毛のよだつ残酷物語もここでは専門家の商売なのだ」と続いています。
確かに病院は一般の生活とは異なる独特の世界があります。しかし次第にそれが普通のこととして「日常化」され、業務は「ルーチン化」されていきます。チャンブリスはこの「ルーチン化」とともにナースの感情は平坦化し、そこで生じる出来事に対する感受性も失われていくと述べています。患者さえもそのルーチン化に含まれていきます。患者は人としてではなく、一つのケースとしてしか認識されないようになるのです。その結果、ナースは患者に生じる多くの倫理的問題、道徳的問題を認知しなくなっていくのだと分析します。
しかし、倫理的問題こそナースが積極的に関っていくべき必要があるはずです。なぜなら、ナースは患者を擁護する立場にあるからです。アメリカでも、アメリカ看護師協会(American Nurses Association )による「看護師の倫理綱領( Code of Ethics for Nurses)」にそのことが明記されています。
こういった事実を知っているかどうかで、未来は大きく違ってくるはずです。まずは、女性だから、看護師だから、そういった犯行は起きない、という偏見・先入観を捨てる必要があります。
それどころか、むしろ看護師という職にある限り、必然的にモラル・倫理的に気が付けば滅茶苦茶な様態になる職だと認識し強く自覚し、教育をしていくことが必要です。
根源的には人類共通の「死と病への畏れ」があり、日本においても仏教思想的な浄・不浄・穢れの概念から、科学が発達していない時代に、やはり皮膚・血や体液・死を取り扱う医師、助産師、看護師、洗濯、理髪は賤業と見なされていた。(ヨーロッパでも同様に血を扱う理髪師兼外科医)
それゆえ、日本の近代的な専門職としての看護の始まりにおいては、やはりナイチンゲールの「白衣の天使」というイメージを輸入し、キリスト教徒の信心深い修道女の禁欲規律使命献身と清純のイメージを全面に打ち出し、「聖**看護学校」「聖**病院」「**マリア病院」、はたまた教会の修道女の誓い(神との結婚つまり禁欲貞操の誓い)を真似た宣誓と戴帽式といった、実際には看護師はキリスト教徒でもなく修道女でもないのにも関わらずそのイメージを一般大衆に植えつけ印象付けてきた。
中身と行動が伴っていない虚飾はまったくの茶番。
問題なのは、日本の看護はその上っ面のイメージと形式だけを輸入し、本質的な使命と人間性の道徳教育や倫理観を輸入し損ねたことだ。欧米文化圏では文化的に刷り込まれているキリスト教的道徳価値観倫理観すらも持ち合わせていない日本で。。。
そもそも現代日本の看護教育は、戦時中の軍隊式日本赤十字の従軍看護婦養成の伝統をそのまま引き継いできてしまったものだ。
日本では戦後長らく,看護学研究に関する倫理の問題はおろか,「看護倫理」一般についての空白期が1980年代初頭まで続いた.かつて日本の看護師には,清楚さ,奉仕的精神,医師への従順さ,組織への忠誠,規律と秩序の維持等の,専ら内面的な美徳を備えた者であることが期待され,それに応答することが看護倫理であった.しかし,戦後民主主義が浸透し,経済的に豊かになる中で,過去の看護師像に対する強い反発と反動が日本の看護界に広まり,抑圧された過去の看護師像を想起させる「看護倫理」そのものが敬遠されたことが,この空白の背景にあるといわれる.その結果,米国では1960年代からすでに看護学研究に伴う倫理的課題に対する積極的応答が看護界全体においてみられたのに比して,日本の看護界における対応は1980年代中頃になるまでほとんど皆無であった.
この時期(1951-1966 年)の看護倫理に関する教育内容は、「ナイチンゲール誓詞」などの倫理規定のほか、看護師にとっての礼儀・作法、心構え、守秘義務、対人関係など、戦前の流れを引き継ぎ美徳中心であったとされる。
1967 年の指定規則の改正では、看護学が基礎科目と専門科目に分けられて体系化がはかられる一方で、「看護倫理」という独立した科目は削除された・・・
この時期(1967-1988 年)には、1967 年のカリキュラム改正前の看護倫理は、看護婦としての心構えや人類愛、使命感、奉仕などの精神性で貫かれており・・・
1989 年に指定規則が改正されたが、このとき看護倫理を「看護概論」の中に含むという「注」も削除された。これによって、看護倫理に関する記述は指定規則から全く無くなり・・・
1996 年の指定規則の改正でも、看護倫理に関して独立した科目は設けられていない・・・
2002 年に出された文科省看護基礎教育の在り方に関する検討会報告「大学における看護実践能力の育成の充実に向けて」(文部科学省, 2002)の中では、人間尊重・擁護の方法について「看護職者は、対象者が治療及びケアを受ける過程で遭遇する具体的な場面で、常に、その人の尊厳と権利を擁護する立場で行動できることが不可欠である」と述べられている。また、その教育方法についても「学生自身がその意味に深い関心を持ち、看護職者が対象者の権利擁護者として機能することの意義を追求できるよう、具体的な看護事象を用いた演習を組むなど、学生同士の討論や患者などの対象者などから学ぶ方法を採用することが大切である」とされている。さらに、人間尊重について「対象者の立場に立つこと、個人の文化背景・価値・信条の理解、意思決定に必要な情報の提供、自己決定権、人間としての尊厳・人権尊重、インフォームド・コンセントの実践と支援、プライバシーの保護と個人情報の取り扱い、セカンドオピニオンの意義などについて」と具体的に言及し(た)
プライバシー尊重とか超超基本的な倫理についてやっとここ数年になって看護教育の課程に組み込まれただけ、以前は全くありませんでしたとか、冗談かよ、な状態。
恐ろしいことに、本来あったり前の守秘義務でさえ、看護師においてはほんの10数年前まで存在してなかったというお粗末さ。
秘密の保持に関する保助看法上の条文は法 制定当時にはなかったが、平成 13 年(2001) の法律第 87 号で第 42 条の 2 として新たに追加されたものである。
今の30代以上の看護婦世代…そしてそういう世代から教わる今の看護師達。
ところが,我が国には,このような基本的人権である患者の権利を定めた法律がない。
そのような中で,今日,我が国の医療は様々な場面において多くの重大な課題を抱え,患者の権利が十分に保障されていない状況にある。
...
ところが,いまだ,患者の権利に関する法律は制定されていない。
...
日本医師会生命倫理懇談会による1990 年の「説明と同意」についての報告も,こうした流れを受けたものではあるが,「説明と同意」という訳語は,インフォームド・コンセントの理念を正しく伝えず,むしろ従来型のパターナリズムを温存させるものであるとの批判を受けた。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/jfba_info/organization/data/54th_keynote_report3_1.pdf
「看護師=モラル高い人達」という幼稚な幻想や、看護師が何か問題を起こせば「環境による被害者」という風潮を、周囲やメディアも含めて、煽り過ぎている現状があります。
今日の日本では、医療現場のみならず、世間一般の中にも無知が蔓延し、患者の当然の権利を「モンスター患者」の一言で黙殺しようとする風潮がある、とまで言える。
続く
氷河期より後、ゆとり世代の先生予備軍なんだけど、労働不適な人間を大量に輩出するようなカリキュラムだったと思う。お前らはみなトップ管理職の卵だ、労働者をアゴで使うしか能のない屑どもだ。お前らには振り返り学習以外は期待しない、みたいな。真に社会資本のある子はプロパガンダだと思って聞き流してて、真面目に飲み込むほど先生化して詰む感じだった。
ゆとり路線が切り戻されたのも、上流工程志向が問題視されたのや文系が劣るとされたのも、この中間管理職養成偏重が問題視されたんであって、知識がないとか下積みを嫌がるとか頭が悪いとかはそこから一段具体よりの話なんじゃないかなって思う。「ボクは正解のポジションに最終的には戻るんですよね?」って発想が共通してあると思う。
先生は特別に異常だったというより、この世代としては普通で、ただ少し疑いなく粉ジュースを飲みすぎてしまったんじゃないかな。