はてなキーワード: 環論とは
男であることを証明したいと思う機会がなかったので考えたこともなかったが、
簡潔に証明するなら、配信するか増田編集画面にチンコと一緒に撮影するくらいしか有効な方法がないかもしれない。
どうも女性の生理レベルには個人差が激しいようで一般化しにくい。性欲、勃起力、夢精の話などなど。
また男は他者のチンコについて基本探りをいれない。他人のチンコに興味を示す素振りがあると、ホモかと馬鹿にされる土壌があるからだ。(そういう傾向があることは男性には共感してもらえると思う)
なのでチンコの話は意外とピンとこない。たぶんセックス経験多い女性の方がチンコには詳しい。俺も一度誰かの勃起チンポ触ってみたい(とかいうとホモ扱いされがち)。
ただブリーフとトランクス、ボクサーパンツの着衣感覚の差や、EDに関する悩みなど解像度上げて書けば説得力でるかも。
どうでもいいが、最近自慰するときに喉に少し違和感でるようになった。血圧上がる影響か?
トイレや温泉の話などは特に特徴的な話はあまりない気がする。トイレも温泉も掃除のおばちゃんがナチュラルに入ってる程度の話は有り触れているだろう。
温泉施設の移動時において男はチンコをタオルで隠す割合が高めの印象だが、男性間でも意見が割れそうなので微妙。
仮性包茎の人は温泉で剥くかどうか結構悩んでそうで、ナイーブな話題だ。このあたり詳細に書くと説得力出そう。
ボンボンでも良い。自分が少年期頃に接していた、その当時のみ流行した男児向けコンテンツについて語れるとそれっぽさでると思う。(女性も同様だろう)
これらのコンテンツは、大人になってから再履修する機会が極めて乏しい性質がある。故に誤魔化しが効きにくい。
自分の世代でいうなら、「学級王ヤマザキ」あたりになるか。「ミニ四駆(列・豪)」と「スーパービーダマン」は今読んでもメチャクチャ面白い。
とはいえ当然、男児が全員コロコロを読んでいるわけではなく、女児であっても読んでいる人間はいる。男兄弟がいればなおさら。
ちなみにオタク男はボンボンという単語に妙に反応してしまう性質を持つ。
恋愛含めた社会的非対称な経験の話まで拡げても、おま環論が拭えない気がする。証明って難しいね。
書いてて思ったがやっぱどうでもいいし、そう思えるのも、ネット空間における男性優位的な性質を無自覚に享受しているのが男であることを象徴しているかもしれない。
(ネット黎明期、いや今も匿名の場において、女性は女性であることを隠す文化があり、ネットは男性的なものというイメージは今も地続きかもという話)
足し算と足し算を足したらどうなるのかを研究してる子がいるそうだ。
その結果を数値で表してそれを逆写像で演算子に戻すことで研究してるんだってさ。
ぶっちゃけこんなの作用素環論で研究しつくされてるだろって思った。
だいたい最初に数値で表す意味がわからない。直接演算子を答えとすりゃいいじゃん。「なんか大がかりな研究したように見せる」はったりを利かせるために、手続きを無駄に複雑にしただけって見える。内申狙いでわかってやってるなら策士だがな。
なぜ教師もこんな車輪の再発明にしかならないことを止めなかったのか。高校生にすら小学生の自由研究と本質的には変わらない「もう人類が知ってる結果を研究させる」ことをさせてしまっているのか。
生物系の子はムラサキツユクサのおしべとめしべの間の毛で原形質流動が起こるのはなぜかの研究をしているらしく、こっちはまだわかってない可能性がありそうなので意味のある研究だと思う。
まあ小学生でも生物の新種発見することはあるし、高校生に研究者の真似事させるなら生物だけやらせときゃいいんじゃないかなって思う。数学とか物理じゃ絶対本職の研究者は出し抜けないものね。
dorawiiより
ここで冷静に考えてほしいんですけど、『水着撮影会に害があるかどうかを説明する』のってめちゃくちゃ難しいですよね。学術的に証明するためには莫大なコストが掛かるのはおいておくにしても、『害がある』という状態が定義されていないのでいくらでもゴールポストを動かせるし、
ゴールポストを無限に動かし続けて性的消費だの性のモノ化だの言ってくるんですよ。
あらゆる表現の自由が脅かされうる恐怖。ニーメラー先生も草葉の陰で泣いているよ。
仮にそれが説明できたとしても『でもこういったメリットもあるからそれを上回る害であることを説明してください』で相手の説明責任をおかわりできる。建設的な議論をする気がない、相手に勝つためだけの議論なんですよね。
藁人形論法。どうせこうされる、などと起こってもいない妄想で罵倒してる。
対人論証。水着撮影会の問題を議論するのでなく、極論野郎個人への対処を説いている。
詭弁法ラッシュでまともに耳を傾けるべき相手ではないですと積極的に自白していくスタイルは面白い。
でも、この部分は良いことを言ってると思うぞ。
> 数学の研究者になるような人はみんなフィールズ賞とか取れるチャンスはある。
そう言われると、そりゃ可能性って言えばゼロじゃないけど・・・くらいの受け止め方になってしまうな。
理Iに入れる人は頑張れば数学者になれる、っていうのは、まあ頑張れば数学の修士取るくらいは出来るよね、
というのと、ポスドク重ねつつもどこかでどこかで大学の教員になって研究職として生活していけるよね、
というのでは意味合いがかなり変わってくるというか、後者も確かに頑張れば可能かもしれないけど、
本当にそれ頑張っちゃう? 自分の適性はよく考えた方がいいよ? という感じ。
努力も才能のうちみたいな面もあるけど、数学に限らず研究職を続けていくには「情熱」が欠かせないというのと、
個人的な経験として東大理Iは受験数学としての一通りのことをミスの無いレベルで身に付ければいいだけで(二次試験で全問完答できる必要もない)、
そこから先の数学的な概念操作についていけるかは、かなり相性に左右されるところだと思う。
特に受験数学では置換群のさわり位しか出てこない代数学(群・環論)は、受験の微積や行列計算とはかなり異なる世界なので、
大学で解析と代数の両方を抵抗感無く楽しめるなら、その「楽しい」を伸ばしていって数学専攻するのも適性あるかもね。
苦手意識ありつつも努力してちゃんと克服できるなら、それはそれでタフネスとガッツがあって素晴らしいんだけど、
その強みは数学に限らず広く役に立つ武器なので研究職に思い入れが無ければ就職したら? と思ってしまう。
自分は理I入った時は数学好きだったけど、その後に東大数理(修士)まで行ったうえで、これ以上数学を専攻していくのはムリだな、
まず断っておくと、この投稿には望月教授およびその関係者を貶める意図は全くない。また、「IUT理論が間違っている」と言っているわけでもない。この投稿の主旨は「IUT理論ブーム」の現象の本質を明らかにすることである。
まずIUT理論は決して数学(特に整数論、数論幾何)の主要なブランチではない。「論文を読もう」というレベルの関心がある数学者でさえ全世界に数十人しかおらず、自称「理解している」のは望月氏とその一派だけ、そして理解した上でさらに理論を発展させようとしている研究者は恐らく数人しかいない。
もちろん、これは数学の研究分野として珍しいことではないし、研究者の数が少ないと研究の「格」が下がるなどということもない。しかし、abc予想を解決したというインパクトに比べれば、これはあまりにも小規模な影響でしかない。そういうものに、一般人も含めて熱狂しているのは、異常と言える。
繰り返しになるが、これはIUT理論そのもの、および望月氏とその関係者を貶める意図はない。
数学科の学部生や、数学の非専門家で「IUT理論を勉強したい」などと言っている人も多い。それは大いに結構なことである。どんどんチャレンジすればいいと思う。
しかし、専門的な数学を学ぶ際には、たとえば「可換代数と複素解析が好きなので代数幾何を研究したい」とか「関数解析が好きなので偏微分方程式や作用素環論を研究したい」というように、既存の知識や経験を手がかりにして専攻を決めるものではないだろうか。IUT理論に興味がある非専門家には、そういう具体的な動機があるのか。単に「話題のキーワード」に反応しているだけじゃないのか。
IUT理論の具体的な内容に関心を持つには、望月氏の過去の一連の研究に通じている必要がある。そうでない人がIUT理論の「解説」などを読んでも、得られる情報は
だけだろう。これに意味があるだろうか。そのような理解で「何か」が腑に落ちたとしても、それはその人にも、数学界にも何ら好影響を与えないだろう。
こんなことを言うと、「専門的な数学を学ぶには、その前提となる知識を完全に知っていなければいけないのか」と思われるかも知れないが、もちろんそんなことはない。時には思い切りも必要である。
しかし、望月氏本人が述べているように、IUT理論を既存の数学知識の類推で理解できる数学者は、自身を除いてこの世にいない。これは数論幾何の専門家を含めての話である。数論幾何の専門家は、一般人から見れば雲の上の存在である。そういう人たちでもゼロから勉強し直さなければ読めないのである。一般人がIUT理論の分かりやすい解説を求めるのは、1桁の数の足し算が分からない幼稚園児が微分積分の分かりやすい解説を求めるのの1000倍くらいのギャップがあると言っても誇張ではない。要するに、難しすぎるのである。
一方、数学界には既存の数学の伝統を多く汲んでいて、最新の数学にも大きな影響を及ぼしているような理論は数多くある。それらは、学部4年生や大学院生のセミナーで扱われたり、全学部向けの開講科目で解説されたりしている。数学を知りたい、または普及させたいと思うならば、そういうものを扱う方が適切ではないだろうか。
「IUT理論ブーム」が示すのは要するに、ほとんどの人間はある事実を説明した文章なり理論なりの本質的な内容に興味がない、ということだ。
彼らは、書いてある事実関係を論理的に読み解くよりも、抽象的な内容を脳内で自由に解釈することを好む。むしろ、理解できないからこそ、何か高尚なことが書いてあると思って有難がったり、満足感を得たりする。
この構造は疑似科学や新興宗教と同じなのである(IUT理論が疑似科学だと言っているのではない)。彼らはあくまでも自分の中で腑に落ちる雑学知識を求めているだけであって、数学を理解したいわけではない。そして、こういう人向けに数学や科学の知識を「布教」しても、社会への貢献にはならないと思う。
「生きてりゃ嫌なことあるわけだよ、誰でも。だから、おれにもあるわけね。そういうのは誰かに聞いてもらいたい」
「そうだよね」
「で、おれがそう思うんだから、たぶん『みんなも誰かに聞いてもらいたい』と推測できるよな」
「うん、まあ」
「ん?うん」
「天国でも地獄でもご飯食べるときに長~い箸を使うのね。テーブルの反対側に届くくらいの」
「うん」
「そんで地獄では箸が長すぎて自分の口に入れられないの。だから誰も食べられない。でも天国では長い箸を使って向かい側の人に食べてもらうの。だからみんな食べられるってお話」
「ほう」
「でさ、みんなが自分の話してたら、誰も他人の話を聞かないし、聞いてもらえない世界になるじゃん。地獄とおんなじ」
「うん」
「逆に、聞いてあげようって人ばかりの世界だったら?」
「そりゃあその方がいいけど、実際にはそうじゃないじゃん」
「そうでもない」
「えー、そうかなあ」
「そうでもないって言ったのは、全世界じゃなくておれの周り」
「じゃあ参考にならないじゃん」
「なんでだよwww」
「だってそんな人ばっかりいないよ」
「そりゃそうだ」
「じゃあ無理じゃん」
「いやいや、方法はあるよ。即効性はないけどね」
「ふーん…、どんな方法?」
「んーとね…、確認なんだけど、お前はおれの愚痴を聞いてくれる気あったりする?」
「え、そりゃあるよ、わたしも聞いてもらってるし、むしろ聞いてあげたいくらい」
「そういうこと」
「え?」
「聞いてくれる人ばっかりはいない、でもおれの周りには今いた、だろ?」
「ああ…そうか」
「わかってきた?」
「うん、なんとなく。でもわたし、お母さんが話を聞いてくれても聞いてあげたいとは思えない」
「そりゃ、いつもうんこぶつけられてるしな」
「どういうこと?」
「お前のお母さんな、いつもお前の都合とか意見とか聞いてくれる?」
「ううん、一緒にいたらお母さんがずっと話す」
「それ、うれしい?」
「ううん、しんどい」
「だよな」
「うん」
「それが『ぶつける』ってこと。片方は言い続けて、もう片方は黙って聞くの。しんどいだろ?」
「なるほど」
「お前さっき『むしろ聞いてあげたいくらい』って言ったじゃん」
「うん」
「そりゃそうでしょ」
「じゃ、おれの話をガマンして聞くよってことかな?」
「いや、役に立ちたいって思う」
「じゃ、お母さんの役に立ちたいとは?」
「思わない」
「なんで?」
「きっとわたしじゃなくてもいいし、会話したいわけじゃないって感じるし」
「なるほど、何かにぶつけたいだけってことね」
「うん。前は楽にさせてあげたいって思ってたけど、もう疲れちゃった」
「でもおれには楽になって欲しいの?」
「うん」
「なんで?」
「うーん…いつも気持ちを聞いてくれるじゃん?」
「うん、まあね」
「話すと楽になるのね。わたしもそうしてあげたいって感じかな」
「うん」
「さっき天国と地獄の長い箸の話したじゃん?」
「うん…あ!そうか」
「わかる?」
「うん、まだなんとなくだけど」
「さっき『実際にはそうじゃない』って言ってたけど、今もそう思う?」
「いや…うーん…、でもやっぱりお母さんには思えない」
「そりゃそうだろ」
「え、なんで?わかんない」
「おれとお前って何?どんな関係?」
「ん?友達でしょ?」
「そう。で、おれ、友達は大切にするの」
「うん」
「逆を言うと、大切にするのは友達だけ」
「う、うん」
「大切は、特別扱いって言い換えてもいいかな。友達じゃない人は特別扱いしない」
「うん」
「つまり、相手かまわずうんこを拾わないんだよ。おれが仮設トイレになるのは、お前がおれの友達だからだ。友達じゃないやつのために、仮設トイレ役を引き受けたりしないわけよ」
「うん」
「人を大切にするってさ、簡単にできたらいいけど難しいんだわ。全員を大切にするなんてほとんど無理なの」
「うん」
「うん」
「なるほど」
「友達に限らずみんなを大切にできる方がいいことのように思うだろ?違うんだよ」
「え、そうなの?」
「うん、違う。何かを大切にするってのは、他の何かを大切にしないこととセットなんだ」
「えー、納得しにくい」
「そうだろうな。でも、無理は続かないじゃん。大切にできたはずの人まで大切にできなくなるよ」
「そうかもしれないけど…」
「お前さ、音楽聞きながら本読める?」
「うん」
「そのとき、音楽も大切に聞いて、本も大切に読めてるって思う?」
「…」
「大切にしようと思ったらどっちかしかできなくない?」
「…うん」
「大切にしないって言ってもひどく扱うってことじゃないよ。特別扱いしないだけ」
「…」
「本当に大切にしたい人のために、あっちにもこっちにもいい顔しないってことだ」
「うん」
「友達じゃないやつを特別扱いしない分だけ、友達を特別扱いする余裕があるんだよ」
「なんかわかってきた気がする」
「お前、あっちにもこっちにもいい顔しようとしてるもんな」
「うん」
「それうんこ拾ってんだって。だからうんこぶつけたくなるんだよ」
「ああ、そっか」
「まじで?」
「疑えってwww」
「www」
「でも、大切にしたい友達がいると、すこし余裕が持てるんだ。それはお前もそうだろ」
「え、そうかな」
「あれ?お前、おれのこと大切にしたくないの?」
「大切にしたいって思う。大切にできてるかはわからないけど、いなくなったら困る」
「うん、うれしい」
「おれは友達じゃない人のうんこは受け取らない。その分それなりに耐えられるし、おれの話を聞いてくれる友達もいる。『おれは処理できる』ってそういうこと」
「そっか…うらやましいな」
「お前もそうなれるよ」
「え、それは無理だと思う」
「いやいや、おれが特別恵まれてるんじゃないよ。友達になるって決めたら大切にするだけだよ」
「そうなの?」
「うんこにたとえてるけど、要するにストレスなの。独りで発散する方法があっても、誰かに聞いて欲しいときもあるじゃん。そういうときは友達を頼っていいの」
「うん」
「誰だって愚痴なんか聞きたくないよ。でも大切な人は癒やしたい、役に立ちたいって思うじゃん。でも常設トイレってわけでもない。あくまで仮設トイレなの。いつでもうんこウェルカムってわけじゃないの。だからぶつけちゃだめで、相手の気分とか都合とかも気にして聞いてもらったらありがとうとかね。トイレはキレイに使わないと。そういうのが大切にするってことだ」
「うん」
「余裕がないとぶつけたくなっちゃうから、友達じゃない人を特別扱いしない。仮設トイレ役にもならない」
「うん」
「だから、お母さんもうんこぶつけてくるだけなら特別扱いしない」
「絶対、嫌味言われる」
「それでもいい顔しちゃだめなんだ。そんなの、うんこウェルカムって言ってるようなもんだ。拾わず、流して、相手しない」
「そういうことか」
「そう。だから自分が大切にしたいと思う人に集中する。そうしたら自分が大切にしたものだけが残っていくよ、当たり前だろ?」
「ああ、なんかわかった気がする」
「絶対やだ」
ところで取り返しのつかないことをしてしまった、と思うことはよくある。
思い出せばそういう体験は今まで幾度となく体験してきたように思える。
でもそれが過ぎてしまえばそこで何があってもどうにかなる、正確にはそれらがその後の人生に対して何ら影響しないということを感じてしまう。
なんだか最近、自分の考えていることが大そうに幼稚になってしまったような気がしている。
しかし幼稚とは何だろう。そう言えるのだろうか?
感じるそのままを受け取るのか、そうではなく一定以上(どのぐらい?)複雑な概念を通して「理解」をするのか。
人間があらゆる概念に縛られてしまうことを承知の上で戦略的な「理解」を形成していくのがプラグマティズムだと思っている。ところでこの考え方の延長上には芸術や言語の世界から派生したポストモダニズムがあったりするが、これは時代遅れすぎるという話がある。
とはいえ最近、得た面白い考え方がここ数年の悩みを解決しそうである。それは循環参照や循環論理をその内部で分類するというやり方である。この考え方は思いつかなかった。ある概念や事象群の諸関係が総体として「循環」しているという状態を外部から解決することばかり考えていたが、そのあらゆる「循環」をひとつに一般化せずに個別循環同士を比較していくつかの共通項(ひとつではだめ!)を探ってみる。そうしたときにAとBという「循環」では共通していたものがCでは共通しないという項目があればこれは「循環」内部で分類可能だ。そうなると「循環」を解決するひとつの緒になるかもしれない。
数学専門の修士1年です。整数論を学ぶものの端くれとして助言させていただきます。とりあえず以下の分野について勉強なさることを薦めます。
微積分なら杉浦「解析入門」がおすすめ。線形代数なら佐武「線型代数学」か斎藤「線形代数の世界」がおすすめです。
Atiyah MacDonald「可換代数入門」、雪江「代数学1・2・3」あたりがよい。辞書として松村「可換環論」を買うといいかも。
Serre「A Course in Arithmetic」とか、斎藤・黒川・加藤「数論」の6章あたりまでとか。
これらは数学科学部3〜4年のカリキュラムに含まれる基本的な知識です。先の内容を学びたい気持ちもあると思いますが、まずこれらの分野を「十分」学んでください。各分野についてどれぐらい学ぶ必要があるかというと、買った本の各章の内容について、証明の内容も含め、何も見ずにだいたい説明できるぐらい読んでください。あともちろん演習問題は全部解いてください。詳しい数学の勉強の方法は東京大学河東先生のこのページを参考にしてください。
http://www.ms.u-tokyo.ac.jp/~yasuyuki/sem.htm
ここまで勉強なさると、宇宙際タイヒミュラー理論を学ぶハードルがどれだけか、少しイメージが湧くようになると思います。もっと勉強したいと思ったら、また増田に来てください。期待しております。
この惑星のある広い一圏域で信じられていることである。だれもこの起源を知らぬ。だが何千年の時を経た今でも信ぜられている。
これらを循環させ、そして、組み合わせ、12×10÷2で一巡させる。
10のエレメンツはあるときはまた異なる5のエレメンツの兄弟としても捉えられ(5×2)、あるいは方角を示す要素としても用いる。
十方位から吹きこむ風と考えることができる。
いくら科学文明が発展しようとも、こうした循環論理を人々は大切にして、例えば1年ごとに来年の神獣をうらなう。
誰がいつ定めたのかも知らぬこの神獣を、人々はこころから信じている。
どれだけ社会科学が発展し、貧困からの格差が次第に減少し、男女の社会性の差違が次第に解消され、科学に対するリテラシーが発達する時代になっても、
例えば年始の賀状にその次の年の神獣を書いては顰蹙を買うし、例えば旧年の神獣をデザインしても笑われる。
実はこれは、神獣とエレメンツとが循環しているのではもちろんなく、人々の認識が過去から未来へと連続している証左だ。
いつか、私たちが石器時代の精神性を忘却してしまったのと同じく、これの意味を忘れるときが来るかもしれない。だがそれまで、60年120年180年300年720年1200年36000年と続いて行くし、そう続くと今の私たちは想像できるのだ。