はてなキーワード: 学校現場とは
誤字ではない。
昨年末に緊急経済対策補正予算で出てきたGIGAスクール構想。
全国の小中学生に一人一台パソコンを持たせようという大事業で、国内文教市場の趨勢が大きく変わりかねない一大事だ。
https://www.mext.go.jp/a_menu/other/index_00001.htm
文科省の示す標準仕様ではWindows10、iPadOS、ChromeOSの中からどれかを選べとされていて、Microsoft、Apple、Googleによる激しいシェア争いが繰り広げられる見通しとなっている。
そして、身バレするとたぶん叱られるので、増田でやることにした。
日本マイクロソフト、学校向けに低価格な「GIGAスクールパッケージ」を提供
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/biz/1233155.html
これを受けて、巷では「文科省とMicrosoftがつるんでいる」という見方もされているが、これは正しくない。
確かに、現時点で文教市場において圧倒的に高いシェアを獲得しているのはWindowsであり、文科省からは当然事前に打診はあっただろう。
だが、現在出ている標準仕様はWindowsにとって有利とは言えないものになっており、文科省から便宜が図られているとは考えられない。
3つのOSの中で、最もマシンパワーを要求するのがWindowsであり、シェアが高いからこそ、低スペックWindowsの使いにくさも広く知られている。
標準仕様に対するスペック面での批判が多いことからもそれは明らかだ。
さらに、Windowsを快適に管理するには高価な管理ツールを利用する必要があることも、ユーザーは体験として知っている。
それでも、文科省からは他の陣営と同価格帯での勝負を求められており、条件としてはかなり苦しいところからのスタートとなってしまっている。
そんな逆風の中で「シェアを守る戦い」を展開するMicrosoftとしては、他社より先んじて不安やネガティブな印象を払拭しておく必要があった。だからこそ、最初に動いたのだ。
そこにあるのは強い危機感であり、下のリンク先の記事のように野望などではない。
「教育5万円PC」に秘めたマイクロソフトの野望。強み捨ててまで教育界を変革できるか
https://www.businessinsider.jp/post-207254
また、この記事ではオンプレからクラウドへの移行が思い切った挑戦のように書かれているが、周知のとおりナデラのMicrosoftはAzureの会社であり、何年も前から総務省と組んで自治体や学校のサーバをAzureでクラウド化させているし、文教向けには積極的にMicrosoft365を売り込んでおり、前からクラウドには積極的だった。
ただ、この記事が全くのでたらめかというと、そうでもない。
強い危機感をもったMicrosoftが切り捨てる決断をしたものがある。
藤原竜也がCMをしているSKY SEAは有名な商品で、ご存知の方も多いと思う。
そのSKYが、学校向けに提供しているのがSKY Menuという授業支援ソフトで、優れた操作性でWindowsの管理負担軽減に役立つので、全国で広く使われている。
一方で、かなり高額なソフトでもあり、学校のパソコン導入費が高止まりする要因の一つとなっており、今回はそこに目をつけられたのだと思われる。
また、機能的にも古き良き一斉授業において先生が子供たちを管理統制するためのものであり、文科省が今後進めたい方向性と合致しないことも大きかったのだろう。
これらはあくまで推測にすぎないが、結果として標準仕様は明確なSKY外しになっている。
SKYも文科省には積極的にロビー活動を行ってきただろうが、どうもこの事態を事前に把握できていなかったようで、大型事業から一方的に排除されて戸惑っているようだ。これまた推測だが、文科省ではなく総務省や経産省の意向が強く反映された結果かもしれない。
MicrosoftとSKYは非常に良好な関係を続けてきたが、そのパートナーを切り捨てる決断をせざるを得ないほど、今回、Microsoftは追い込まれている。
問題は、SKYの日本人向けの使いやすいインターフェースに慣れた学校現場が、どうしたってバタ臭い、Intuneの操作を受け入れられるかどうかだ。
周知の事実だが、現場にはシステム管理をできる人間など存在しない。
人に金をかけなかった分のコストがSKY Menuのコストだったのだが、そこをいきなり切り捨てて問題はないのだろうか。
iPadはタブレットPCの開拓者であり、幼児でも扱える抜群の操作性、軽快な動作、シングルタスクゆえの安全性、AirPlayによる快適な画面転送、豊富なアプリなど、学校現場に適した特性を持っており、かなりのスピードで教育分野に広がっていった。
個人的に使っている先生も多いし、子どもの家庭に転がっている割合も高い。
シェアは2位だが、パソコン教室を除いて一般教室での利用で考えた場合、ほぼ差はないか、上回っているかもしれない。利用される時間で考えらたら、おそらく上回っている。
ただ、今回のGIGAスクールでは、すでにiPadをかなりの数導入している学校以外で、新規にiPadを導入するところは少ないと考えられる。
その理由は、標準仕様が明らかにiPadOSを想定していないからだ。
一応選択肢には入れてあるが、標準仕様の構成ではBluetooth接続ではない物理キーボードを必須としており、4万5千円には到底収まらない。
これでは、すでにこれまで導入してきた財政力に余裕のある自治体以外は手が出しにくい。
これは、おそらく文科省がAppleを好ましく思っていないことによる意図的な仕様だろう。
Appleは文教向けの製品を提供しているわけではなく、あくまで個人向けの商品を使っているにすぎず、クラウドサービスもGoogleやMicrosoftのように文教向けに力を入れているわけではない。一社独占で選択肢もない。文科省の意向にも、全く協力的でない。
こうした背景から、文科省はAppleに有利とは言えない仕様を作ったのだと思われる。
すでにiPadで教育をはじめているところは、そのまま進めるだろうし、一定のシェアは確保するだろう。ただ、新規のシェア拡大は難しく、Appleがどこまで本気で取り組むのも見えてこない。
Chromebookの日本におけるシェアは低い。ここ1~2年でようやく少し広がり始めた程度だ。だが、世界では高いシェアを誇り、特に北米では文教向けパソコンの主流となっている。
世界から大きく乖離していることを気にしている文科省は、ここ最近Chromebookを強く推してきた。
今回の標準仕様に最も適合しているのは、誰の目にもChromebookであり、Googleのために仕様を作ったと言われても全く違和感がない。あの3種類の仕様の中で、4万5千円できっちり使える状態になるのは、Chromebook+G suiteしかない。
癒着を疑うなら、MicrosoftではなくGoogleだろう。
それがわかっているからMicrosoftは危機感を強めているのであり、また、その反応を引き出すために文科省は不自然なまでにGoogleを優遇したのだと思う。
とにかく、これから新規に導入する場合、自治体の費用負担が最も少ないChromebookが第一の選択肢になるだろう。
Google自身も、ここ最近は日本の文教市場を本気で取りに来ていて、下の記事にあるように EDIXでは凄い人だかりで熱気に満ちていた。
教育現場はChromebookが本命? 主体的な学びを実現するために、クラウドが欠かせない理由とは
https://www.watch.impress.co.jp/kodomo_it/news/1197938.html
まだ目立った動きは見せていないが、どこまで本気の野心を抱いているのか、それによって信じられないほどにシェアを拡大させる可能性がある。その場合に食われるのは、AppleではなくMicrosoftだ。
GIGAスクールの台風の目になるのは、間違いなくGoogleだろう。
ここまで書いてきたとおり、シェアを守ろうと必死なMicrosoftと、シェア拡大を狙うGoogleの構図が中心で、Appleは、少し離れたところで現在のシェアを維持する形になるだろう。
かなり不利な情勢からスタートしたMicrosoftだが、いち早く動いたことで印象は上向いた。
あとは、低スペックWindows10への不安、SKY抜きになる管理面での不安、最終的な費用面での不安、といった知っているからこその不安をどこまで払拭できるかが重要であり、継続した情報発信が求められる。
一方のGoogleは、知名度の低さや、知らないことによる不安を解消するために、何がどこまでできるかを広く知ってもらう必要がある。
また、Googleのサービスは、わかりやすいUIで一見親しみやすいが、サポートは充実しておらず、必要な情報が得にくい。
Office365とG suiteの両方を管理したことがある人間ならわかってくれると思うが、初見でとっつきやすいのはG suiteだが、情報収集含めて最終的に管理しやすいのはOffice365の方だ。
すでに書いたが、学校現場にはシステムを管理できるような人間がいない。
それを踏まえたサポートが提供できるのかどうか、学校や自治体は価格だけを見て飛びつく前に見極めないといけない。
Chromebookに以前から力を入れてきたチエルのような企業が、そこを補えるようになると面白い。
チエル、GIGAスクール構想の1人1台環境に最適なChromebook活用パックを発売
https://ict-enews.net/2020/02/07chieru-2/
最終的には、Microsoftが50%くらいに落ち着き、Apple30%、Googleは20%くらいまで伸びるのではないかと見ているが、さてどうなるか。
私はとある自治体の教育委員会で教育情報化の担当をしています。
GIGAスクールって何?って人は文科省のサイト見てください。
https://www.mext.go.jp/a_menu/other/index_00001.htm
補正予算の締め切りまで残り一週間を切る中で、文科省からはまだ要綱も示されていません。こんなもん、間に合わないのではないかと、どこの自治体も強い危機感を持って、焦っています。
一方で、今回の事業が持つ意味やその先のことについては、ほぼ考えられていないのが現実です。
担当部署でこうなのだから、一般の人はもちろん学校現場でもまるで理解されていないことは容易に想像できます。
以前から教育情報化を積極的に推進する立場にある人たちは、大変盛り上がっていますが、地に足がついていないというか、勇み足になっているというか、前提が共有されていないのに難しいことを言い過ぎていて、その世界の外側との溝が深まっている気がします。
なので、当事者のひとりとして、一般の人や学校現場に伝えたいことをここに書いてみたいと思います。
まず、今回のGIGAスクール事業において注目されている一人一台端末ですが、騒ぐようなことじゃないと個人的には思ってます。
「何の役に立つのか」とか、「何に使うのか」とか、そういった面倒な議論になりがちですが、とても便利なものなんだから、「とりあえず役に立つに決まってるだろ」というのが本音です。
みんなスマホを一人一台持ってますよね?オフィスのパソコンが共用しかないとか無いですよね?
同じことです。
さらに、みんなが一人一台持ってるのが当たり前になったら、それを前提としたサービスがどんどん生まれてきます。
家庭に一台だとLINEはここまで普及していません。
一人一台だから変わることがあって、全国でインフラ整備されると学校向けのサービス設計が根本的に変わります。
今回の事業における国の狙いとしては、今後のためのインフラ整備という面が一番大きいと思われるので、現場が必要以上にどういう教育に使おうかと頭を抱える必要はありません。
どう使えば便利か、先生自身が楽になるか、効率的に授業できるか、現場レベルではそういう発想で十分です。難しく考えて逃げられるのがいちばん困ります。
従来の3クラスに1クラス分だと、どう使わせるべきか、こっちもかなり頭を悩ませてたんですが、一人一台だと気軽に使ってもらえばそれでいいので、ずいぶん楽です。
一斉授業からの脱却とか個別最適化された学習なんかは、仕組みを考える人の仕事です。
そのうちサービスが出揃って嫌でも巻き込まれるので、それを待ってりゃ良いです。
本当は各家庭で端末買って持ち込むBYODができれば良かったんですが、こういうサービスが出揃って常識が変わってからでないとそれは難しいから、順番としては今回のやり方が正しいのでしょう。
多分、あと5年もすれば世の中の常識が大きく変わっているはずで、それができなければ文科省の大失態だと言うしかないです。
導入の担当者として、一人一台になるにあたり現場にやって欲しいこと、考えて欲しいこと、気をつけて欲しいことというのは他にありまして、それは、授業以外の場面で、可能な限り子どもたちの自由に使わせてあげて欲しいということです。
OECDの学習到達度調査(PISA)で衝撃的な結果が出ました。
日本の子どもたちは加盟国中で一番チャットやゲームにICTを活用するのに、学習に使うのは最も少ないという結果です。
ゲーム&チャットは1位で学習は最下位…日本の15歳のICT活用の実態
https://www.google.co.jp/amp/s/s.resemom.jp/article/2020/01/09/54151.amp.html
これは間違いなく、学校教育が意図的にICT活用を避けてきた結果です。
プライベートだけで、誰から教えられるでもなく、何の導きもなくICT使ってたら、ゲームとLINEとYouTubeだけになるのは、当然のことでしょう。
遊び以外にICTを使う目的やヒントを与え、見守り、助言する役割を担う大人が必要です。
ゲームが好きなら、ただ消費するんじゃなくて自分で作る楽しみを教えてみるとか、YouTuberになりたいんならとりあえず動画作らせてみるとか、きっかけを作ってあげることはとても大切だと思います。
それを親に期待できない場合は、誰ができるんでしょうか。
また、インターネットは昔の子どもたちが生きてきた世界(学校や地域社会)とは違って、子どもを子ども扱いしてくれません。
ひとりの消費者として、賢い大人たちが用意する色んなサービスや商品と向き合わないといけないです。
そこで生きていく術を、大人の目が届いて、ある程度の安全が確保されている範囲内で学ばせることが必要です。
ヒントを与えて見守るというのは制限するより負担が大きいので、現場に嫌がられることは理解していますが、必要なことです。
個人的には、ICTを活用した授業研究より、はるかに大切だと思ってます。
なので、私はこれから一人一台端末を導入する際に、子どもたちに出来るだけ自由に触らせてあげて欲しいと、繰り返し現場にお願いし続けようと思ってます。
もし、これを同業者や学校現場の方が読まれたなら、今回整備される端末の用途を授業に限定して過度な制限をかけることはやめて欲しいと思います。
職員室のパソコンが一人一台になって悪くなったことなんて何一つないのと同じように、子どもたち一人一台端末で悪くなることなんてないです。
手書きの良さがとか言う人がいますが、パソコン入っても手書きは無くなりません。もちろん習字の授業も無くなりません。
冗談だと思いますが、目が悪くなると言う人もいます。視力に影響するほど授業に使ってもらえるなんて、考えられません。
単純に、今より少し便利になるだけで、そんな大袈裟に考える必要はありません。
教育を変革するような大きな話は、制度を考える人やサービスを提供する人の仕事です。
私たち現場に近い人間は、子どもたちが遊び以外に上手くICTを活用できるように、見守り、サポートすることを大切にしましょう。
萩生田光一文科相は11月28日までに、世界水準のアスリートが引退後に体育などの教員として、学校現場で活躍できる環境を整備する考えを明らかにした。アスリート向けの教員特別免許を導入し、教員資格を取得しやすくする構想
これについてのはてブでの反応。
「アスリートだけに特別な免許を与えるなんて!」って論調が目立つけど、ちょっと違う。教員の特別免許というのは今もある制度なので、そこに誤解があるように思える。
教員の免許というのは3種類。教職課程に通って取得する普通免許。中学校の免許しか持っていない人が小学校で教える、なんてときに教育委員会が発行する臨時免許。そして、第三の免許が特別免許。
特別免許というのは、学識経験があるけれど教員免許は持っていない、という人に対して免許を発行して、それで最先端の知識を子どもたちに教えてもらおう、という制度のこと。
例えば、博士号を持っているエンジニアが理科や工業の教員として採用される、などと言うことを想定している。現在でも、この制度の活用を前提に「教員免許を持っていなくても博士なら教員として採用します!」というような都道府県もある。
https://resemom.jp/article/2018/05/15/44538.html
ということで、文章のリード文だけを見ると「アスリートのために特別免許という新制度を作る」というように見えるが、そうではない。
何回も増田に書いてるからそろそろ身バレするかもしれないけどいいや
クビにするならしてくれ
手取り10万、勤務時間29時間、契約は5年で切れる(なんか来年度から制度が変わって2年で切れるようになるかもって噂がある)、昇給なし、残業代一切出ない
そういう立場
そりゃ担任持ってるような先生たちは授業のある日は夜の9時とか10時まで学校残ったり家でも持ち帰り仕事したり休日も学校出て行ったり急に子どもや保護者から呼び出されたり呼び出したりで超忙しくて残業代が出るって言っても微々たるものだっていうのは分かってるよ
不安定な職の非正規職員にとても勤務時間内に終わらないような大量の仕事を振るってやっぱりおかしいんじゃないかと思う
先生たちからしてみれば一日たった1、2時間のサビ残でメンタル崩壊しかけてるとかざっこw日が暮れるまでに帰れるのに文句言うのは甘えwって感じなんだろうけど
やっぱり嫌なものは嫌だ
明らかに連日勤務超過してるのに「やばい、仕事振りすぎた!?勤務時間と見合ってなかったかな、非正規さんにこんなにサビ残させるなんて悪いことしちゃったなあ」ともなんとも思わずに「おっ順調に進んでるね!」って
なんなんだろうこれ
どうしても生徒の相手をしなきゃいけなくて、とかそういうのじゃなくて夏休みで誰もいないのに
非正規が2時間サビ残してる 非正規に2時間サビ残させている それについてなんっっっっっっにも思わないくらい学校現場でのサビ残って当然のことなのか
夏休みでこれって
もう完全に「これくらいの仕事量ならサビ残してでもやってもらえる」認定を受けてるような感じがするので
夏休み開けても同じように毎日2時間のサビ残を強要されるような仕事を振られるんだろうか
生徒が来たらなんやかんやで相手しなきゃいけないから2時間で済まなくなるだろうし
辞めたい
まだなにも決まってないけど辞めると宣言することで自分を追い込んでいきたい
辞めたい
せめて3月いっぱいじゃなくて2月くらいに辞めるとか……
辞めてぇ~~~~~~~~~~~~~
ジャンプ掲載、って言うからぎょっとして「ワンピースが好きなちびっ子が間違って本屋さんで手に取ったらどうするの!」と思うかもしれないけどあれはジャンププラスというウェブ漫画サイトだから安心してほしい
近いのはヤングジャンプか?サブカル色だったらヤンジャンより強いんじゃないだろうか
「剥き出しの白鳥」「青のフラッグ」「ヘタリア」なんかも連載してたわけで
漫画の内容についてだけど
高橋留美子の「境界のりんね」という漫画で、ヒロインの通う学校の生徒が悪い死神にさらわれて数十人が行方不明になる、という話があった
しかしそれで警察が学校に来るとかSNSで騒ぎになるとかニュースとして取り上げられるとかいうこともなく
「なんだか行方不明の生徒がいるらしいよ」と、まるで「最近校内で風邪が流行ってるみたいだね」程度で済まされて
主人公が異空間にさらわれていた生徒たちを解放することに成功しても生徒たちはのほほんと「なんだかよく分かんないけど助かったー」程度で各々が解散して学校に戻っていく
舞台は現代の日本だがこれは漫画でありノンフィクション作品でないのであくまで漫画的世界、ファンタジー世界に過ぎないので現実の価値観をあてはめてはいけないのである
読者は「ノリ軽っ!」「ありえねーw」「それでいいのかよ!」とツッコミを入れるが
この世界の、留美子ワールドの住人は人が行方不明になっても別に大ごとにしない
この漫画は「そんなもの」「そういうもの」だと受け入れて読者はそれ以上何も感じないのだ
誰も「警察が来ないのはおかしい、警察を無能に描いている、作者は公務員に差別的な感情があるに違いない、警察が来る描写を入れるべきだった」「どうして誰もSNSで情報募集しようとしないのか?ヒロインもあまりにも危機感がない。作者が女性だからか?男任せにして思考停止する最近の若い女性を連想してイライラする」「クラスメイトが行方不明になっているのに冷たすぎる、作者の倫理観の欠如の表れだ」などと憤ることはない
「妹の姉」だって同じはずだ
ヌードデッサンが頻繁に行われる美大でもないのに女子高生の裸の巨大な絵が生徒玄関に堂々と飾られるのがまずありえない(美大でも女子高生の裸はアウトだろう)
そのモデルが現役でその学校に通う女子生徒なのに堂々と飾られているのもありえない
モデルになった本人に許可を取っていない、本人が嫌がっているというのに飾り続けているのもありえない
嫌がる女子高生の気持ちを父親や教師といった中年のおじさんたちがノンビリした感じで無視しているのもありえない
姉への憧憬が行き過ぎて想像で姉の裸を描きコンクールに応募する妹もありえない
学校や妹や親に働きかけて絵を取り下げることをやめて自分の裸の絵が飾られている学校に通い続けながら意趣返しに専念して結局自分の裸の絵をもう一枚この世に生み出すことを選ぶ姉もありえない
全部ありえない尽くしで作者は「これはありえないこと」「現実では倫理的によくないこと」とすべて分かった上で「漫画的ファンタジー世界」を描いているのだ
いやもしかしたら自分の裸の絵が飾られるなんて嫌ですという女子高生を「伝統だから」で一蹴する教師は昔はいたのかもしれないが今はいない、いるわけがない
はてなーもねらーも今はどこも高齢化が激しいと言うからとうの昔に学校から離れた人たちはピンと来ないかもしれないが
今の学校現場は昔のような絶対的な権力を持っていないし逆に生徒(とその保護者)の発言力、情報発信能力はかなり大きくなったので
挿入5秒前な姿の女子高生の裸の絵が飾られているなんて異常な状況が何日も野放しにされるわけがない
現実に起こったことのように憤っている読者、あれはフィクションでありえないことなので心配しないで欲しい
作者はありえない世界を描いている
現実ではありえないけど僕の漫画はこうです、という世界観を構築できている
作者はリアリティのレベルを低く設定しているのに「現代の日本の学校が舞台になっている」「女性が嫌がっている描写がある」というだけで日頃から被差別意識の強い高齢女性が勝手にリアリティレベルを高いものと勘違いして噴き上がってファンタジー漫画にマジレスしてるだけ
あれを読んで百合をまったく感じることなく読み終わってまずすることがドキュメンタリー漫画だと錯覚しているかのような振る舞いで倫理や法律を持ち出して女子高生をよしよしして男性を犯罪者と糾弾するって
こういう人らって漫画読んでて楽しいんだろうか?他の漫画にもそうやって「現実では~」「法律では~」と持ち出してファンタジーを楽しんでいる人に水を差しているのだろうか
人生損してるよなあ
自分のみならず人の人生にも損をさせようとしているのでああいう手合いは漫画を読まないで欲しいしドラマや映画も見ないで欲しい、これに尽きる
教採に落ちた。8回目だ。
30代後半。倍率の低い小学校。
もうどうしたらいいのか分からない。
講師として働いている。
周りの講師仲間の後輩はみんな受かっている。
自分は間違っている。
自分は向いていない。
いろいろなことを思う。
ここまで、やってきた、自分の考えなんてすべていらないものだったんだ。
そんな風に思えてくる。
受かったら結婚しようという人も多い。
本当は初任になって、研修を受けて、もっと学校で働けるようになりたい。
でも、全部これまでの自分が悪いんだと思う。
そういう考えになる。
性格も悪いんだと思う。
自信もないんだと思う。
もう情熱が消えていっている。
こんな自分が「やりたい」ってだけで子どもに携わっていっていいとは思えなくなってきている。
そういうことのツケなのだろうか。
こんなに相応しくないって烙印を押されているのに、明日からどういう顔をして子どもに会ったらいいのか分からない。
もうやめるか。
迷うなあ。
自分は使えないって言われても貫ける信念なんてあるんだろうか。
こんだけ正しくないって言われているのに。
全体の奉仕者として相応しくない。
もう表に出てこないでください。
そういうことを言われた気分だ。
悲しい。
いらない人間。
でも、子どもにとっては、そんなこと関係なくて、必要な身近な大人の一人なのだと思う。
仕事に就いているうちは、責任を果たせるように限界まで頑張ろう。
自分がしたいこと。
もう一度想像してみよう。
それが、学校現場で叶うのかも考えるんだ。
とにかく苦しいし、悲しい、ずっとずっと光が当たらないのは、とても惨めだ。
誰かに大切にされたい。
そういうことも浮かんでくる。
どうすることもできない。
這い上がる気力がない。
次は、何から始めたらいいんだろう。
私は教職に就きたいのか?
就くべきなのか?
どんな人が受かるのだろう。
足りない情熱をもう一度灯せるといいなあ。
連日のニュースでも上位に出るような気温の町の高校に勤務して1年目。
断言するけど、子供が何人倒れようと死のうと現場の教師たちは変わらない。
小1男児死亡の痛ましいニュース、人災としか言いようのないあの話を受けて同僚(40代男性体育教師、小学生の子持ち)の口からこぼれたのは「それくらいで死ぬ子ならここから先も生きていけないね〜」というつぶやき。
より正確には、冬の持久走の授業時間数が足りていない生徒の追試験代わりの「補走」。
開始時間は午後1時、予想気温はゆうに35℃を超える。
クソのような縦社会の体育職員室で、勇気を出して「今日走らせるのはリスク高すぎないでしょうか…?毎年この時期なんですか?」と訊いてみた。
件の体育教師(主任だ)は不思議そうな顔をして「やるよー。ここで補走をしなかったら奴ら(生徒たち)単位出なくなるから。必修科目だから救済策のようなもの」という答えが帰ってきた。
「暑いんだよこの時期に走ったら死ぬわ正気かボケ」というつもりで投げた質問だったのだが、返ってきた答えは「暑さ」「時期のおかしさ」について最初から疑問にも思っておらず、私がそのような意図だとは思いもしていないようなものだった。
質問を変えて「持久走の時数不足は3月の時点で分かってますよね?だったら4月や5月に走ることはダメなんですか?」と訊いてみた。
面倒くさそうに「だって追試験って夏にやるものでしょ。こちらはサボった生徒に救済策を与えてやってるんだよ。人より時間数が足りてないんだから、これは『試練』とも言えるね」という答えが返ってきた。
咄嗟に言葉が出ず、またこれ以上この教師に言っても無駄だと思った。
養護教諭に事前に根回しする、スポーツドリンクを買い込む、コースの途中に立って様子を見る、くらいしか今日の私にできることはなさそうで情けない。
生徒が死んだ学校で働くのは嫌だ。
いくら気象庁が「危険な暑さです、屋内にいましょう。外出は控えましょう」と呼びかけようが、子供が犠牲になろうが、学校現場はこんなものだ。
せいぜい市教委のお偉いがたが「安全管理は徹底していたが、事故は予見できなかった。再発防止に努めます」と頭を下げて来年の夏が来るだけだ。
生徒がいくら暑さを訴えても、多くの教師にとってそれは「はいはい、でもそれは仕方ないの。ワガママ言わず大人しく従え」という結論にしか結びつかない。
危険な暑さの中で強制的に走らせてなにが「保健体育」だ。「自らの体を大切にして健やかに生きることを学ぶ」だ。
保護者のみなさん、声をあげてください。
情けないが、内部から動かすのは非常に困難なんです。
助けてください。
嘘みたいだが本当の話である。
難易度を示す偏差値(河合塾基準)が35以下となる入試を通じて
実際に教壇に立つ教師のことで、誇張や叙述トリックでもなんでもない。
子供たちを教え育てていることになっている。
そんな信じられないことが学校現場で起きているのだ。
旺文社のサイトで「偏差値35以下」「教育・教員養成系学部」で
数多くの大学から、毎年、偏差値35の教師が世に送り出される。
僕の調べた限りでは、この大学数は近年なぜか急増しているのだ。
教師といえば、子供たちに正しい知識を正しい方法で伝えるプロ。
この認識はそれほどまちがっていないだろう。
実際のところ、偏差値35の教師は中等教育(高校、中学)よりも、
子供たちの基礎的なリテラシーを育てる重要な仕事だが、大丈夫だろうか。
偏差値35の教師が説く道徳を学んで議論する(通知表に特別な評価記入あり)。
事ここにいたっては、恐怖しかない。
偏差値がすべてではないと人は言う。
その通りだと僕は思う。
しかし、教師たるもの、ある一定以上の水準が求められるのは必然。
例えば、2018年のセンター試験結果から計算すると、以下の数字が出てくる。
英語:200点中、63点
国語:200点中、48点
ご承知の通り、センター試験は基礎知識を問う問題がほとんどで、
わからなくても選択肢を選べば一定の確率で正解することもある。
つまり、それがこれほどまでに解けないということは
少子化によって大学全入時代となったことだけでは説明がつかない。
ベテラン教師の大量退職と、教員免許更新制によって教師になる資格を持つ者が
不足しているのが大きい要因だ。
詳しくない人でも、ニュースで教師不足を嘆く声を聞くことがあるだろう。
現行の制度は、教師のなり手そのものを減らす結果となっているのだ。
そうして、本来、教師となりえる有能な人間(会社員経験者、研究者上がりを含む)を弾き飛ばし、
人生経験も学識も浅いが免許だけは持っている「偏差値35」の教師が誕生する結果となった。
あなたの子供の教師は、賢そうなふりをしているが、本当は偏差値35かもしれない。
教室は偏差値35の教師に支配され、子供たちは偏差値35から学ぶ。
我々はその先の未来をまだ知らない。
以下、予想される反論にあらかじめ回答を。
A. 現行の入試制度では、私立大の場合、AO入試・推薦入試での入学が
半数を大きく超えるのが通常だ。
すなわち、がんばっても偏差値35にしかならなかったということである。
A. もし本当に人柄や人間味が秀でているとしたら、
人としてわかりやすい魅力を備えていないこともわかる。
低ければ経営に関わる問題なので、一生懸命試験対策に取り組むのだろう。
また、幼稚園教諭に知的能力が必要ないというのは大間違いだと思う。
A. 何を言っているのか。
採用後に何を積み重ねていくかが重要であり、教師たるもの日々勉強だ。
A. 論外な考えだ。
自分の子供はいいかもしれないが、偏差値35の教師から教育された
みなさんは「大津いじめ事件」を覚えていますか。「ゲーム」「遊びだった」と裁判で語っているように、加害者側に罪の意識はありません。恐ろしいことですよね。しかし、子どもの社会だけでなく、大人の社会にも「いじめ」があるんです。
私は現在、職場いじめ、いわゆるパワハラを受けて自宅療養中です。鬱を発症して働けなくなりました。新年度にきらきらしている新採用の皆さんを見るのが辛くて、羨ましくて、泣きそうで、心のやり場がないのでここで吐き出させてください。
まず前提として、私は学校現場で働いていました。そして、職場いじめ、いわゆるパワハラをしていたのは何人かの上司です。
例えば、クレーマー側の意見に同調して、「相手の意見のどこがおかしいの?あなたの考えがおかしいんでしょう?」と私の評価を下げたり。「うまくいかないので助けてください」と言っても手を貸してくれず、状況が悪化したら私の能力不足として処理したり。保護者の前で「担任は能力がありません」と言い放ったり。挙げ句の果てには、「来年度はここにいなくていいから研修に出なさい」と言われる始末。それでも耐えて耐えて頑張っていましたが、ついに鬱になって働けなくなりました。
本当は子どもたちが好きで、教えるのが好きで、教師になるのが小学校からの夢だったんです。卒業文集に書いた将来の夢も「先生」なんです。それがこんな形で潰されて、毎日がとても辛いです。
これが、とある職員室の実態です。もちろん、こんな上司ばかりではありません。心配して声を掛けてくれる先生もいます。ですが、言ってみれば職員室は上層部の独裁社会です。
きらきらしている新採用の先生たち。パワハラ上司には気をつけてください。そして、どうかその輝きをずっと失わないでくださいね。
https://anond.hatelabo.jp/20170713183630
「流れてしまうかな、誰か反応してくれるかな」と思っていたら、想像を遥かに上回る反響があった。
トラックバックもコメントも、現時点で確認できるものには全て目を通させてもらいました。
全ての意見に対して返事、説明、反論などをすることはできないので、どうしても補足したいと思ったことだけ書きます。
寄せられた反応の中で、「事前の調べが足りなかったのでは」「さすがに抜けすぎなのでは」「大事なことをもっと確認してから契約すべきだったのでは」という類のものがあった。
もちろん、自分の調べが甘かったとは思うし、すぐに食いついてしまったな、とも思っている。
しかし、今現在の記憶を持ったまま3月30日に戻れると言われたと仮定して、あの電話に「いえ、お受けできません」と答えることができるだろうかと考えると、私はおそらく今と同じ道を選ぶだろう。
3月30日というギリギリの時期にかかってきた県教委からの電話は、私にとっては「学校現場に立てる!先生になれる!」という希望でしかなかった。
そして、希望であると同時に「断ったらもう依頼されないかもしれない」という恐怖も含まれていた。
「3月30日に依頼なんて有り得ない」という意見も多数見かけたが、指摘してくれている人もいたとおり、非正規教員の取り扱いは自治体によって大きく異なる。
私の県では、3月20日過ぎに正規教員の異動発表→非正規教員(常勤講師)への内示→それでも足りなければ非常勤の時間講師を補充、という流れのようなので、私の内示だけが格別に遅かったわけではないらしい(今日事務員さんに尋ねてみた)。
この一連の流れは全て県教委が司っているので、単純に個々の学校がバタバタしていて手際が悪いというわけでもない。
話が逸れた。
とにかく、あのときの私にとって、積極的な意味でも消極的な意味でも、内示を断るという選択肢はないも同然だった。
(それに、勤務校や割り当てコマ数についてその時点で問い詰めたり交渉したりしたところで、「ではよりよい条件を提示します、ぜひ!」となるものでもないだろうと思う)
今日は一学期最後の通常授業で、いくつかのクラスに期末試験を返却したり夏休みの課題について説明を行ったりしてきた。
担当は3時間目と5、6時間目だったが、職員朝礼に出たり教科主任と打ち合わせを行うために8時過ぎには出勤し、フリーの時間には成績入力や提出物のチェックをし、6時間目のあとに行われる清掃の監視もしてきた。
返却した試験用紙を受け取るたびに上がる歓声や悲鳴を聞いたり、夏休みの課題の存在にげんなりする生徒をなだめたり、女子生徒とたわいない会話をしながらゴミ袋を運んだり。
「空き時間は全て勉強に費せ」もしくは「塾で働いたほうがいい」「舐められてるだけだから辞めてやれ」、頭では理解できるが、このような待遇でもやはり「学校の先生」にやりがいを見出し、生徒の成長に資する一員となりたいと願うのは愚かだろうか。自己責任だろうか。
もしくは、自分の大切な人(パートナーや息子娘、友人など)が「理不尽に使われていることは分かっている、しかし、それでも先生になりたい」と、私のような境遇にいたとしたら、あなたはどうするか考えてみてほしい。
「馬鹿げている、さっさと辞めて次を探しなさい」または「自分で選んだんだから自己責任でしょう」と言えるだろうか。
先にも書いたが、正規・非正規教員共に人事権は県教委にあるため、自分の生まれ育ったこの県で先生になるには、選択肢やとりうる策が限られすぎている。
「この会社はダメだ、ブラックだから同業他社に転職しよう」とはいかない。
(各学校の校長が独自の判断で「〇〇先生(講師)、10月からウチに来て」と呼ぶのではないらしい)
正規になってもブラックだ、と言われても、「先生になりたい」という気持ちそのものは揺るがない。
そしてこれは夢であると同時に、「子供たちの未来の役に立ちたい」というある種の使命感のようなものでもある。
コメントで書いてくれている人がたくさんいたが、教育は未来を作る仕事だ。
よい教育なくして国や社会の発展が望めるはずがない。また、発展という光の方面だけでなく、貧困の連鎖を断ち切るという役割を担うのもやはり教育(特に公教育)だろう。
自分の面倒すら自分で見られない私が「生徒の助けになりたい」など、甚だおこがましいことを言っていると思う。
しかし、この数ヶ月間生徒たちと共に過ごし、先生と呼ばれる中で、自分の境遇への複雑な思いを抱きつつも、それを跳ね除けて教壇に立つ力を与えてくれたのはこれらの気持ちだったのだ。
「じゃあ一生やりがい搾取されてろ、自己責任」と言われるだろうか。
しかし、この問題はもはや、私1人がこのままやりがい搾取され続けるかそこから脱するかというだけの問題ではないし、「そんな条件を飲んだお前が悪い」と言って解決する問題などではないと思う。
私を含め、その全員によって現在そして未来の教育が担われている(もちろんさらに多数の正規の先生がいて日々尽力されているのだが)。
そのことを知ってもらいたかった。
今回、はてな匿名ダイアリーに書いてよかったと思う。
精一杯頑張ります。
https://anond.hatelabo.jp/20170713183630
この記事を読んだ。
この記事を読むと常勤講師は恵まれているように見えるし、「時間講師と比べたら」実際相当恵まれているんだと思う。
自分の場合は大学を出た1年目、2年目が非常勤だった。増田よりコマ数はあったが、一人暮らしを余儀なくされたので生活はとても苦しかった。
生徒からもそれなりに親しまれていたと思うし、陸上部の顧問として土日の練習や試合引率にも行ったなあ。
ようやく巡ってきたチャンス、成果を出そうと必死だった。
半年の任期が終わろうとする9月末、正規の教員から診断書が届いて病休が延長、それに伴い自分の任期も延びた。2ヶ月。
人として不謹慎だと分かってはいるが、このときは「頼む!病気よ、せめて今年度のうちは治らないでくれ」と思わずにはいられなかった。
結局その願いは叶い、年度いっぱい勤めることができた。
クラスの副担任をしていたので、堂々と卒業式にも参列し、教え子の卒業を見送ることもできた。
しかし、3月29日になっても、30日になっても、31日になっても翌年度の内示が来なかった。
「退職」後の各種書類をどこに送ればよいか、と事務担当者に聞かれたので、(内示が来ないと住む場所も分からないんだよ…)と苦々しく思いながらも「とりあえず実家に送ってください」と頼んでいたので、ハローワークの書類や源泉徴収票が届いた。
親は何も言わず普段どおりに接してくれて、それがまた堪えたなあ。
気持ちを切り替えてアルバイトでも探そうか、と思っていたら、5月半ばから産休が1人出るのでそこに入れないか、という内示の電話がかかってきた。
「あぁ、自分たちは代わりの駒でしかないんだな」と思ったが、また学校現場で働くことができて、収入が保証されると思うと受け入れるしかなかった。
新任、転任の先生たちに混ざって着任式の挨拶をさせられたときには「勘弁してくれよ…」とは思ったが、今年度いっぱいは勤めることができるだろうという安堵感を噛み締めている。
3月30日で「退職」したことになっているから勤続期間が途切れているが、6月には期末手当が出た。
生徒の進路を考えて講演会の講師を探したり、保護者との面談を行って感謝されたりと、やりがいは本当に大きい仕事だ。
ところで保護者の中には、「任期付きの講師」と聞くと、「正規の先生じゃないの!?技量や資質がないのではないか」という目を向けてくる人が一定数いる。
違うんだ、正規の教員も非正規の教員も、みんな所定の大学の課程を出て免許を持っている。
違いは、「県の職員として採用されているか、そうでないか」ということだけだ。
「非正規だから授業の質が悪い」と言われては生徒たちに申し訳が立たないから、授業をはじめ、生徒と関わることには本当に力を注いでいるつもりだ。
「先生になれる!」という思いと日々の仕事でいっぱいで駆け抜けた1、2年目。
念願の常勤になれて奮闘した3年目、理不尽な思いをしながらも境遇を受け入れて働いた4年目。
新卒で「フレッシュな先生だねー」と言われた自分も、いつの間にか27歳になった。
仕事が順風満帆な者、結婚して子供がいる者、海外の支社で才能を発揮している者。
しかし、人事担当者の采配一つで、または教員の体調ひとつで、来年度
どんなに頑張ったところで、正規の教員のように長期で大切に育成する対象として見られていないんだろうなと思うことが多い。
この気持ちのぶつかりを、高揚と落胆を、誇りと情けなさを、どう整理して生きていけばいいのだろうと思う。
まさに、ブルマーについて「なぜそれが使われてきたのか」という研究が出版された。
おそらく制服についてもほぼ同じ論理で読み解けると思うので一読を勧める。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3410-0
女子体操着であるブルマーは、ブルセラブームを契機に批判を受け、1990年代半ば以降に学校現場から急速に姿を消した。消滅の社会的背景はこれまでも断片的には語られてきたが、では、腰に密着して身体の線があらわになる服装が、なぜ60年代に一気に広がり、その後30年間も定着・継続したのだろうか。
地道な資料探索や学校体育団体、企業への聞き取り調査を通して浮かび上がってきたのは、中学校体育連盟の存在だった。そこから、中体連の資金難、企業との提携などのブルマー普及の背景を解き明かす。また、受容の文化的素地として、東京オリンピックの女子体操が与えたインパクト、戦前から続くスカートの下の2枚ばきの伝統などとの関連も検証する。
ブルマーは導入当初から性的なまなざしにさらされてきた。にもかかわらず、学校現場でブルマーが存続してきたのは、ブルマーをはく女子の身体に女子修身教育の幻を見る戦前回帰派と、美と健康を見る戦後民主主義派とが思わぬかたちで共謀していたためではないかと指摘する問題提起の一書。
西村「学習指導要領について伺いたい。(略)LGBTに関する記載について伺いたいと思っております。先週末、私の地元の新潟日報に高校生の日報が載っていた。性的少数者への理解必要、というタイトル。”学校の保健の時間に疑問に思った。思春期になると異性への関心が高まると書いてあった。で、私はこういった教科書の説明は適切ではないのではないかと考える。確かに大多数の人間は思春期を迎えれば、異性のことを好きになるだろう。しかし中にはそうではない人もいることを忘れてはいけない。学校で、異性への関心があるのが当然だというように教えれば、性的少数者の生徒たちはますます悩む~まず教育課程において、しっかりと性的少数者への理解を深めていくべきだ”という風に書かれている。今回の学習指導要領の改訂に当たっては、パブリックコメントで大変多くの方からこの点についての記載して欲しいという要望があったと聞いております。その割合は全体の約12%と、非常に大きいと思いますが、学習指導要領には反映されなかった。他方、文部科学省は、学校における性同一性障害への対応に関する状況調査を実施して、H27.4.30に性同一性障害にかかる児童生徒へのきめこまやかな対応への実施等について、という通知を、都道府県教委、学校関係者に通知している。また手引きも出している。それで、私はこの点についてはやっぱり学校で、いろいろなこと考えますと、やはり、LGBTについての記載があることが望ましいと思います、先般質問主意書を出したんですが、回答はけんもほろろでございました。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/193199.htm
再度質問させていただきます。この回答では「体育科・保健体育科で、・・・いわゆる「性的マイノリティ」について指導内容として扱うことは、個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導、保護者や国民の理解、教員の適切な指導の確保などを考慮すると難しいと考えています」とされているが、個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導を行うのが、本来は教員の責務であって、これを学習指導要領から除外する理由にはなりえないと思うが、なぜこの理由をあげているのか。」
「まずこれは大前提ですが、LGBTをはじめ、さまざまな要因において、社会において、特に学校現場において、そのことによって差別をされたり、傷つけられたりすることはあってはならない。そのことについて、文部科学省も、それぞれの学校現場においても、配慮いただいているところであると考えいる。西村先生から、個々の発達段階に応じてというのは当然の責務ではないかとご指摘をいただきました。学習指導要領というのはすべての生徒・児童に対し、指導していただくことを大綱的に網羅しているものでございます。その事柄においてですね、すべての児童生徒に、授業の形式を持って指導、教えるということが、現状において適切であるかどうか、内容について、個別の保護者、生徒からの相談において進めることが適切なものがあるかどうか、そのことについて、西村先生からご指摘のあったLGBTに関してですね、まずはLGBTに対する科学的な知見が確立していないということがございます。それがなかなか授業において先生方が合理的な説明の元に進められない、問題があるかと思います。そしてパブリックコメントについても言及がございましたけども、LGBTを積極的に学校現場において教えるべきだというご意見と、あの個々の生徒児童の発達段階によるものであるから、授業の面で取り上げるのはいかがなものかと、そういったそれぞれのお立場の意見がございました。そうした中においてですね、今回学習指導要領の中においてですね、今回、LGBTについて取り上げなかったということでございます。」
「驚きました。私は学校現場で取り扱うべきだと思います。科学的な知見が確立していないからということを理由に、取り上げないということは、今実際にそれを理由にいじめを受けている子供たち、それからこのあの性的指向、性自認にかかる悩みを持っている子供たちは、そうではない子供たちに比べると、自殺のリスクが6倍高いとも言われています。そうした中で、本当に科学的知見が確立していないということが学校でこのことに言及しない理由になりえるのか。思春期が来たら異性に対する関心が芽生える、そうじゃない人もいる。そのくらいのことではないかと思うのです。それぐらいのことがなぜ入れられないのかと疑問に思います。ぜひ、今そういうことで悩んでいる子供たちを救ってください。実際に体育の授業を受けると、自分が世界の中で、本当に1人なんじゃないかとこんなことを思っている、私は、僕はおかしいんじゃないかと。なってしまう恐れが非常に強いんじゃないかと。ぜひ、考慮していただきたい。二番目の質問ですが、国民や保護者の理解が足りないとあるが、だからこそ学校で教えることで、理解を深めていかなくてはならないのではないのか(略」
(略)
「学校関係者の対応が、事態をかえって悪化させているという事例も私は実際に当事者から聞いている。しっかりと対応して欲しい。」
LGBTの科学的知見って何を意味してんだろうね。LGBTになった原因に関する科学的知見?LGBTにどういう対応をすればいいかという科学的知見?事実、LGBTが存在していて、彼らに配慮することに何の科学的知見がいるの?とおもいましたまる。できれば西村さんにはこういう聞き方をしてほしかったな。天下り問題でやめられた、前川喜平前事務次官はLGBTへの配慮に尽力されていたようですが、残っていたらどうだったかな、とは思いました。
「政治家としての答弁と事務方の作文」をどうやって外形から見分けるわけ?
いやーこれは官僚の作文ですねー、大臣の見解じゃないですぅっていえっての?だれが書いてようと国会答弁で大臣がしゃべったらそれは省の代表たる大臣の見解だよ。さすがにつっこむけどアンタアホじゃない?