はてなキーワード: フラストレーションとは
批判が悪口ではないことは自明であり正しいとしても「悪口を言われている気がする」という感覚は事実であり
そのような形而下のフラストレーションが秘密投票の結果を左右してきた過去の歴史を全く顧みない。
そのような有権者は愚かだ馬鹿だと叩くのは勝手だがそのような愚かで馬鹿な人間の一票の積み重ねで得る権力を必要とする側の人間だという自覚が持てていない。
馬鹿相手に票をねだるには一世一代の馬鹿の舞を舞い切る演技力というか胆力が必要だ。
馬鹿相手なのだから票ハラもアルハラも祭りハラもなんでもござれのドブ沼を浴びきる覚悟ももちろん必要だ。
票ハラだなんだと啓蒙するのは結構だが現状のインフラは有機(化合物のほう)ドブ沼なのだからそこで票を得るにはブルーギルに成りきる勇気しか必要ないのだ。
支持者も相手陣営に真っ当な批判を加える暇があったら自陣営に引き込む飴をたんまりと用意することに注力するべきだ。
人は飴で動く。金ももらえない相手からの鞭では絶対に動かない。「悪口を言われているような気がする」という記憶の残滓が秘密投票の場で鎌首をもたげるだけだ。
年収300万の考える年収1000万のくらしは2000万あっても実現できない。
一方Twitterの年収1000万は「業務スーパーでしか買い物できない」みたいな自虐ばっかで話にならない。
ということで、年収400万~年収1800万まで経験した俺がリアルな年収1000万の暮らしを書いておく。
なおもちろんN=1の経験談であり、これが万人に当てはまるわけではないことは重々承知いただきたい。
現在36歳。夫婦と小学生の子1人と猫2匹でのびのび暮らす。昨年の年収は1800万。今年は2000万超えるかどうかって感じ。
なお年収は副業を含む。妻は専業主婦なので俺の年収=世帯年収。
一言で言えば
「ちょっとした予定外の出費を気兼ねなくできる」
こんなことの積み重ねで月2~3万の予定外の出費があっても、家計やフィナンシャルプランに致命傷を与えない。
もう少し年収が低いと、
みたいな思考になる。
たぶん、本当に年収1000万経験した人からは、それなりに同意が貰えるんじゃないかと思うぞ。
ということで、こっからが本当に言いたいことだ。
ボーナスや残業の有無にもよるが、年収1000万だと月の手取りは50万切ることもザラなんだ。
タワマンに住んで毎週高級レストランでディナーして子ども3人SAPIXからの私学なんて無理や。そんな暮らしは最低でも年収3000万必要。
でも年収1000万はあんたらとそこまで大きくは変わらない生活をしてる。彼らの待遇を悪くしたところで、あんたらの生活は豊かにならん。そこんとこよろしく。
あんたらがどんだけカツカツアピールしようが、あんたらの半分ほどの手取りで暮らしてる人たちがいっぱいいることは事実なんだ。
彼らに向かって「年収1000万でも貧しい」アピールしても、神経逆撫でするだけ。
もちろん取られるもんばっか取られて児童手当だの高額医療費だので差別されていることへの怒りや不満は痛いほどわかる。
でもその怒りや不満を、あんたらより更に貧しい人にぶつけても百害あって一利なしや。本当の敵は誰か考えて。
低所得には低所得の、年収1000万には年収1000万の苦労があるんや。んでお互い「こっちの方が大変」と思ってる。
隣の芝生は青く見えるって言うっしょ。
ぶっちゃけ年収2000万くらいまでの労働者階級は、程度の差こそあれ搾取される階級。叩き合ってる場合じゃない。
所得、性別、年齢。あらゆる軸で国民を分断して対立させることで、諸悪の根源である政府や財務省がやりたい放題やってる事実に気づいてくれ。
こんなの、近い将来全部自分たちに返ってくるで。特に所得制限系は、一度導入したら最後、あとはジリジリ制限ラインを下げられて最終的にはゼロや。
現に児童手当なんて、「世帯年収700万」という子育て世代のど真ん中ラインまで下げようとしてるからな。
頼むから、自分の半径3mの損得だけじゃなく、広い視野と高い視座で政治を考えてくれ。
以上
まあ予想はしてたがそこそこ多くの人に読んでもらえて、はてブに賛否のコメントや質問が来ているので、主要なものに応えておく。
年収1800万は今の話で年収1000万当時を振り返って書いたんだ。俺の書き方が悪かったかも。すまんな。
ちなみに今と1000万当時で何が変わったかと言えば、あんまり変わらん。ファミレスの選択肢にロイホが入ったくらいだ。
車持ってない。いらない。運転恐い。家から駅近いし、車いるときはタクシーでOK。
車代、税金、ガソリン代、保険代、車検代、駐車場代なんかを考えたら、案外タクシーの方が安上がりやぞ。計算してみ。
投信積立月10万(つみたてNISA含む)、優待目当ての個別株、仮想通貨少々。
総資産は4000万くらい。チキンだから半分は現金預金やw 円安株安やばいけど長期だから気にしない。
猫はいいぞ
小中高は公立。塾無しで国立大学行って、自分で学費稼いで通ったわ。もちろん結婚も家買うのも親の援助など受けてない。
虐待されてないだけマシと言われたら否定はできないが、親ガチャ当てたと言われたらカチンとくるわ。
いかない。少なくともうちの会社じゃ早くても50超えないとそこまでいかないw
書いてある通り副業込み。というか副業でだいぶ稼いでる。趣味が金になってるので全然苦じゃない。
ちなみにマネリテない上に極度のめんどくさがりだから経費でごにょごにょなんて出来てない。数百万円を雑所得で白色申告や。詳しい人、俺を助けて税金減らしてくれ。
せやな。超概算で比較するなら、"√人数"で割ると大体生活レベルは一致するで。
年収1000万の4人暮らしは、だいたい年収500万の一人暮らしと同水準。もちろん子どもの教育に金注ぎ込むとかしたらずれてくるけどな。
自分が年収1000万の時は既に家族がいたから、独身1000万のリアルはわからん。すまんな。
年収400だと手取320くらいだろうから、月2-3万の予定外出費は手取りの1割くらいか。
まぁ金がかかる趣味がなくて資産形成とかも考えず暮らすならいけるんちゃう?
せやな。無視しようかと思ったけど、昼にタコ食ったから拾っといた。
そのとおり。年収1000万だろうと2000万だろうと、金の出入りや資産を気にしている時点で心が貧困な庶民。
庶民どうし仲良くやろうや。
取られるもんだけ取られて何ももらえん、それでいて国からも低所得者からも金持ち扱いされてフラストレーション貯まるのは確か。
年収に応じた付き合いやそのためのコストがかかるし、そもそも単純な収入の多寡だけで幸福度は決まらんからな。
そういうの加味して「互いに理解できない大変さがある」ということは理解してほしい。
生活カツカツアピールしてる年収1000万と、それに食ってかかる低所得者がわんさかでてくる。
そういう輩に「おめーらがそうやって争ってるから政府や一部の特権階級がやりたい放題やれちゃうんだろヴォケ」と言いたいがために書いた記事なんだ。
長年推してるアイドルがいつまで経っても声もつかない、報われない辛いってお話だけど。
シンデレラガールズってそもそもそういうコンテンツではなかろうか。
たくさんのアイドルがいて、声が付く付かない、優遇されるされないで
最終的には推してるアイドルが報われて、大逆転して、俺は10年推してたんだぞ!とマウントを取る快感をずっと求めてた。
他の報われないアイドル達を踏み付ける栄光の日を待ち望んでたんだよ。
なんて醜い発想なんだろう。
シンデレラガールズは徹頭徹尾、射幸心を煽るゲーム。ギャンブルだよね。
単純だけど最高にカタルシスと最悪のフラストレーションを味わえる。
なんて酷いゲームなんだろう
シンデレラガールズ生まれる前からアイマス見てきたけど、シンデレラガールズには嫌悪感しか沸かなくて一切プレイしてない。
昔は良かった、などという部類の話に、どうしてもなってしまう。
つまり、街を歩いていても喧嘩を売ってもらえない時代になってしまったということだ。
生きていればどうしても嫌なことの1つや2つあるもので、そういう時、スッキリする手段として喧嘩というものがあった。
喧嘩を売ってくる人と、殴り合いたいのだ。
昔はそのような、いわば「マッチング」が容易だったのだ。
ムシャクシャしてるから人を殴りたいという俺と、
恋人を探す男と女同士が偶然出会うかのように、俺たちは出会い、拳を交わすことができた。
だから、誰かに迷惑がかかるという話ではなかったのだ。どうしてもイライラしてる男同士が、互いのフラストレーションをぶつけ合えた。
当時を知る人ならわかってくれるだろ?「あ、こいつムシャクシャしてるな」という同志は、街で見たらわかるものだったし、
ちょっとした空気感で、「この男とやり合おう」というシンパシーが生まれていた。
だから自分と背丈が違う人間だとか、明らかに自分より弱すぎる人間とはマッチングを避けた。
素敵なシンクロを重ねた相手とは、肩をわざとぶつけるだとか、些細な口実を作ったり、作られたりして、存分に殴り合えた。
ハンカチを落としましたよ、なんて女性を誘うのにも似た、なんだかいじらしかった、なんて今回顧できるくらいだ。
そういう出会いが、もっぱらなくなってしまって悲しいという話だ。
今の世の中は、出会いが少ない。
誰に迷惑だったのだろうか。
貴方達は、見なければ済むものに対して、自分から飛び込んでわざわざ傷付こうとしていないか?
あの日経の広告を見て、実際に興味を持ってたわわについて調べた結果として傷付いたというのなら、まだ理解できる。
でも、叩いている人達の大半は炎上したのが起点でたわわの本質について知ったんでしょ。広告だけだったら只の二次元の女子高生だよ?
フェミニズムについては私も思う所はあるんだけど、それ以前の問題として、自分から炎の中に飛び込んでいく人が多すぎる。
なぜそこまでして自分からフラストレーションを溜めて吐き出すような、マッチポンプをしたがるのかが理解できない。
話が変わるかもしれないけど、私は最近付近の幹線道路を走るバイクの騒音に悩まされている。
音というのは困ったもので、こちらが耳をもぎ取りでもしない限り、問答無用でこちらに届いてしまう。
耳栓などの防音対策をしても、音の大きなバイクのマフラー音というのは完全には防げない。
警察や自治体にも相談したけど、「人によって聞こえ方はそれぞれですので」で終わらされてしまう。
それでいて、引っ越すとなれば何十万円も掛かってしまう。どうすれば良いのか。
貴方達の叩いているものは、そんな風に貴方が何もしなくても入り込んでくるものなのか。
雑記になりますがなるべく整理して話そうと思います。読みにくかったらすみません。
以下本文
最近、街中で以前より多くの頻度でスポーツタイプの自転車を見かけるようになりました。その最も大きな要因としては、やはりコロナがあるでしょう。「密にならない交通手段」として注目され、加えてこのような接触しないタイプのレジャー注目されました。また、スポーツタイプの自転車が比較的安価で手に入るようになったこともサイクリングが人気になっている要因の一つだと思います。エントリーモデルのクロスバイクなら、メーカーにこだわらなければ5万円前後で買えるようになりました。(今年に限ってはなんか値上がりしてますね)また、サイクリングロードの整備等自治体もこのような変化を後押ししています。(つくばりんりんロードなど)
これらの影響によりサイクリスト人口が増加している現状ですが、問題も少なからず発生しているようです。例えば、多摩川サイクリングロードでは自転車による接触事故が過去に発生していました。また、レジャーとしての”サイクリング”には当てはまらないと思いますが、危険運転を繰り返す某宅配サービスの自転車について最近TVでよく取り上げられていました。更に、具体的な事例や重大事故のみならず、これを読んでいる方が車を運転したことがある方であれば車道で中途半端な速度で走っているロードバイクに対し邪魔だと感じたことがあるでしょう。とにかく、自転車というのは二大交通者たる”歩行者”と”自動車”のどちらにも属さない中途半端な性質上、公道で走る際には多かれ少なかれ問題が発生します。
さて、ここまで現状のなんとなく私が感じている現状を主観的に書きましたが、これらはロードバイク乗りが「ルール」を守って乗れば解決する話なのでしょうか?私は、そういう単純な話では無いような気がします。というかそもそも、レジャーやスポーツとしてのロードバイク乗り(以下ローディー)はルールを守っていないのでしょうか?私は、一般的にローディーは"ルール"に対して厳格であると考えています。例えば、サイクリングロードに行くと分かると思うのですが、彼らの多くはかなり自身を守るための装備のみならず、自身の存在を周りに伝えるための鈴やライトをしっかりと装備しています。また、車道を走る際にはほとんどの自転車はしっかりと二段階右折を実施しており、さらに「原則として車道のここを走りなさい」というような法律上の規則も守っています。そして、車道で彼らはよくハンドサインを使い、車とも積極的にコミュニケーションを取ります。更に、走るという部分からは外れてしまいますが、輪行の(自転車を電車に積んでどっか行く)際には、JRが定めている大型荷物の輸送の規則に厳密に従っています。そしてこれらのルールについて、ローディーは彼ら同士がそれを守っていない人を見つけるとそれを互いに指摘しあえるような自浄作用を持っています。これらのことから、私はローディーは一般に”ルール”に対してはかなり厳格であり、更に自浄作用も良い感じで機能していると思います。
一方で、”マナーの良さ”はあまり感じられないような気がします。まずそもそもですが、どこをどう走ろうが「30 km/h巡行」のようなことは邪魔です。車道にいたら、それはそれで車からしたら邪魔ですし、歩道にいたら歩行者からは恐怖でしかありません。また、多くのローディーはこれらの自分以外の交通者(歩行者・自動車)がどう感じているのかに対して極めて無頓着であり、彼らの多くは車が来ても頑なに車道の邪魔になる部分を走り続けています。車を運転する皆さんは、抜かせそうだけど抜かせない微妙な速度で走るローディーにフラストレーションを感じた経験が一度はあるでしょう。また、先ほどは「歩行者のいるサイクリングロードでは鈴やライトで自身の存在を周囲に知らせる」と言いましたが、これ自体がそもそも怖いと感じることもあるでしょう。ピチピチのサイクリングウェアを身にまとった人間が猛スピードでライトを点滅させ、鈴を鳴らして来るわけです。怖いですよね。そして、そもそもですが彼らの多くが交通手段としてロードバイクに乗っている訳ではなくレジャーや競技として乗っているため、「公道で練習すんなよ~~」という気持ちになることもあるでしょう。
ただ、これらの”マナー”も何も彼らの民度が終わっているからそうなっている訳では無いと思います。例えば「ローディーは車が来ても少しも内側に避けてくれない」と言いましたが、歩道と車道の境目には排水溝が多くありそこには雨水で流されてきた多くのゴミが溜まっています。パンクを避けるためにそういう場所を通るのをローディーは避けたいのです。また、単純な話ですが自転車での加減速はかなり大変ですから、歩行者のいるサイクリングロードであってもいちいち人を発見するたびに減速・加速をしてられないのです。そして、車道を走っているローディーの多くはそもそもルールを守って車道側で走っているわけで、「40制限の道路で60とか出してる車こそ」という言い分もあるでしょう。周りからしたらあまり”マナーが良くない”と思われてしまうようなローディーの動きも、彼らが彼らなりに見つけた最適解である可能性が高く、これらは彼らなりに周りに気を遣った結果だと思います。
このようなマナーについての認識のギャップが生まれてしまう原因として、ローディーは”ルール”という形而上学的なものに固執しすぎている点にあると思います。例えば、公道でハンドサインを利用しているローディーを見たといいましたが、そもそもそのようなサインが分かる交通者は少ないでしょう。(一応車の免許持っている人は知らないとまずいのですが)また、自転車の通行場所についても、誰もいない見通しのいい歩道があるのに態々幅の狭い白帯の付近を走ることもないでしょう。ろくにスピードの出ない上り坂であれば尚更です。また、彼らは”ルール”を守るということについての自浄作用が強いと言いましたが、少しその”ルール”に固執してしまう傾向があるようです。以前、「輪行警察」というようなものが少しネットで流行ったことがありますが、満員電車にやばい梱包して突撃するようなレベルでなければ本人に何も言わずにネットに晒すことも無いような気がします。確かに、当然そのような”ルール”に対して厳密であることは自己防衛の一種でもあり、昨今の自転車乗りにとって窮屈な現状に対してそのような対応をすることは重要です。しかし、もう少し上手くできないのかと思わなくもないものです。
そもそも法律に代表される”ルール”というのは慣習というか公序良俗に即した形で尤もらしい形で形成されていくものであり、それに対して成文的な形が付加されているということに過ぎません。ですから、紙に書いてある”ルール”を守っていても現状の交通事情に照らし合わせて明らかにまずいことをしていたら、やはりそれはまずいことに変わりはありません。このような場合が続けば、いくら”ルール”を守っていても更に規制を強化するということになりかねません。(軽車両通行禁止等)
と書きましたが、正直現状の交通事情がそもそもロードバイク乗りに対して半端すぎるということも否めません。この前驚いたのが、横須賀一周ことスカイチで通る三浦海岸の道は、そのほとんどが片側一車線のあまり広くない道に申し訳程に青い自転車通行帯の表示がされていたことです。こういうのを見ると、「流石に酷いなあ」と思ってしまいます。私は基本的には、交通量の多い道はそもそも行かないか当たってしまった場合は迂回します。ただ、サイクリスト側の人間としてはもう少しどうにかならんのかなあ~と思います。なんというかルールに加えて”マナー”まで守ると逆に立場を危うくしそうな感じがするのです。
https://anond.hatelabo.jp/20220404233422
こういう体裁で書いている以上、お前はなんか厳しいことや都合の悪いことを言われたら「アドバイスとか求めてるわけじゃないんで」みたいな拒絶をするのが目に見えている。
だから俺もハッキリ感想を言ってやる。まあタイトルのとおりなんだけどな。
社会人になるのが嫌でキラキラ大学生活を2年……いや、親が小金持ちなら場合によってはドクターも含めて最大6年くらい延長したいんだろ?
だったら仕方ねえじゃん。通常の大学生年齢くらいまでならともかく、延長戦でお前がそんだけ親の金を使わせていただくならそれくらいはコストと割り切って当然。
いわゆる毒親というヤツなんでしょうか?
とかお前書いているが、なんでしょうか?も何も、お前そうだと確信して同意を求めてるだろ。
正直になれ。
「自分が社会に出るのが嫌で大学生活延長するために親を利用しているが、うっかり院試に落ちたがために、親を利用するデメリットが鼻についてうざい。しかしそうストレートに書いてしまうと叩かれそうなのでなんか毒親に困っているワテクシみたいに書いておこう」
というだけだ。その親にしてその子ありだとしか言いようがない。
序に言うと、そういう親が嫌ならさっさと働いて縁切れよ、という助言もきっと寄せられるだろうが、お前の書いた嘘か本当かわからない親の情報からそんなことを断言するネット上の他人なんかクソだからな。
まあお前は今日もTwitterアカウント監視されてろってこった。
また新しい炎上事件がホットエントリーに入っていて、朝から眺めていたんだけど。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1868830
https://togetter.com/li/1868830
はてなブックマークと togetter コメント欄を読んでいて、おや? と思った。
「キモい」の声が連なる中で、「キモい」そのものに対して胃を唱えてる人が、どうやら結構いるっぽい。非難しているとか石を投げてるとか、それ自体を攻撃のように捉えてイライラしている読者が散見される。「許せない」と同じ意味に取ってる人もいるようだ。
高校の時まで言われるたびに思い悩んで、反省のループに沈んでたんだけど、当時、見かねた姉が無理矢理に首を突っ込んでくれて、教えてくれた。
フケを学ランの肩に落としたまま気づかずに登校したり、教室の床に寝かせてあった女の子の傘を知らずに踏みつけてしまった時とかに、キモいと言われた経験があって、そのことを話したら、姉はそう言った。
それ自体は告白の「好き」と同種で、言われた側は、そうなんだ、でしかなくて、「付き合ってください」の要請まで来て初めて、返答したり、何かリアクションを返す責任が生まれるんだと。
キモい だけでは、言われた側が特に何か変わったりする必要はまったく無い。だから気に病むのは時間の無駄どころか、むしろキモいと言った相手に迷惑だ、と。
「お前が落ち込み続けて逆にこじらせて、復讐とかしてきたら最悪だろ?
…キモいのは別にお前の自由だから、他人にも感想くらい自由に言わせる権利をやれ。」
姉はそう言った。俺は幼かったし、新聞などを読まなくてニュースにも興味がなかったので、「権利」という言葉が身近な、教師や教科書以外の人間から発せられるのを聞いて、へえ、そんな言い方があるんだ、と驚いた。だから強く記憶に残っている。
あれから数十年が経って大人になったいま、姉のアドバイスは本当に有意義だったんだな、と感謝の念がこみ上げてきている。以後何度も何度もキモいと言われてきたけど、フラストレーションの蓄積が全然無かったから。コメント欄の人たちのようにいちいち気にしていたら、負の感情の重みに耐えられなかっただろうと思って、ゾッとしてる。だから僭越ながら、学びを共有させてください。姉と俺が正しいなら、たぶん、キモいは批判や非難じゃなく、無害なただの感情の発信。気にすることじゃないと思う。
はじめての投稿です。非常にフラストレーション溜まっている故、とりあえず気持ちの整理も兼ねて書き記します。乱文失礼。
とりあえずどういう状況かというと、就活していないかつ、惰性が過ぎて附属国立大学の院試に落ち、現時点でいまだにモラトリアムを夢見て院試の勉強をしているという感じです。(ただストレートで院に行く同期や働いている人もいるので若干の焦りは芽生えています)
最大のいいところ、生まれてこのかたお金関連で諦めさせられたことがない。(こちらが望んだわけではないが)中学受験もさせてくれて、勉強に関する本などにお金を惜しまないでくれた。改めてそこは感謝
2.私のことが好きすぎる
ご飯とかはちゃんと作ってくれた。弁当も毎日作ってくれた。いらないと言ってもご飯を勝手に作って待ってたりする。
3.教育熱心(だと思う)
1でも述べたが、しっかり教育してくれたと思います。(育て方の上手下手はあるにせよ)
親の悪いところと良いところどちらが上回ってるかわからないし、今は一時的に悪い部分が目立っているだけで長い目で見ればそうでないかもしれないですが、現時点ではそういうことでありますので…
1.過保護がすぎる
良いところ2の裏返しですね。確かに愛情は感じるのですが、なんというかネガティブな愛、なんですかね…私の自己肯定感の上げるような感じではなく、子供をペットだと思ってる節がある。いわゆる毒親というヤツなんでしょうか?例えば、ブスっこだね〜とかを連発してくる。ちょっとイライラが溜まるし、疲れてる時にそういうことを言われると一気にむしゃくしゃしてしまうんですよね。(対極なのがポジティブな愛になるのか…具体的にどういうものがきちんと説明できないですが、人の話を聞いて想像できるのは、親子両者にリスペクトがあり、子供の進路について考えつつも選んだことは否定しない、っていう感じですかね)
また、元々大学の近くに一人暮らしをしていたわけなのですが、院試に落ちた後一緒に住むと言い出しまして………………(書いていて気持ち悪い)親が勝手に元のアパート解約して新しいアパート借りて……それで迷惑かかっただの、あんたが真っ当な人間になるためにやってるなどと…こっちはそんなこと望んでいないしあんたらの人生に私が真っ当なのかどうかは関係ないだろ、って思うわけです。私のためにやってると思ってるかもしれないけど、まずはあんたら自分自身のためにやってると自覚してください。というか私のためにやってくれてるならもうやめてください、留年して余計にかかった分は返すからそれで良くない?って思う。言ってもわけわからん理屈のとおてない謎理論でゴリ押してくるわけなんですが……また次に後述します。
2.話が通じない
ダブスタだらけで話が通じないのはもちろんなんですが、とりあえず親の経済的優位を盾にとって話を進めてくるのやめてほしい。何か反抗したらすぐじゃあもう金出さないだの、大学にかかった金返せだの、これから一銭もやらないだの…。無理に決まってんだろ経済的に自立してないんだから。で、奨学金も学生ローンも借りちゃいけないらしい。どうしろと?
悪い所の1に通じますが、最近ネトスト覚えました。👏自分は鍵をしているのですがTwitterでリプライから判断して会話を推測したり、またリプライ相手のツイートを覗いて、あるツイートの内容が私のことについて言われてるじゃないかとか(糖質か?)。また留年したことに対して慰めてくれる友人に対してそんな奴と絡むなと言いつつ、意外とちゃんとしていることをツイートから判断すると「お前は劣ってるんだから」と言ってくる。
あと留年同期にも絡むなという、一方、院ストレート勢(そいつら浪人してるけどな!!(もちろんめちゃくちゃ良い人間))と比べて「お前はダメなんだ、一緒に卒業旅行行けるような状況じゃねえんだ」と言ってくる。無敵の人じゃんお疲れ様です。
書き疲れたのでとりあえずオチもないですがここまで。軽く見返すと私結構可哀想だし異常な家庭環境だな。今の私の夢は東京大学院に行って奨学金かりて再度キラキラ大学生をすることです。(キラキラしていなくても惰性大学生は避けたい)そのために死ぬほど頑張ります。
再度乱文失礼。沢山コメントしてくれよな!?夢の舞台へ駆け上がれ!!
あとお前らの学歴コンプレックスをこどもたちに晴らそうとするな。お前らあの大学はダメだあーだこーだって語るけど絶対大したことない大学だよな?絶対出身大学言わないもんな?気持ち悪いプライドは高いもんな
34歳女、総合職、結婚願望なし、子供も欲しくない。10年ちかく恋人はいない、アプローチされても断ってきた。でも最近そろそろやっぱりパートナーはいてもいいかな〜と思いはじめマッチングアプリを始めたが、自分がいいなと思うひとはいない。いいねしてくれる人はゆくゆくは結婚したそうな人が多い(確かに30〜40代でマッチングアプリに課金する男性はそうなのかもしれない)。会ってみても友達にはなりたいけど付き合いたい人はいない。アセクシャルではないが別にもう一生セックスしなくてもいい、むしろ面倒臭い。という自分がイマイチ理解できずなんなのだと思っていたのだがこの記事を見てピンときた
https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2022/02/23/132151
さらに彼・彼女らと私はどこまで行っても「点」の関係でしかない。趣味なり酒なりネットなりを媒介にして私は友人たちと繋がっていますが、どんなに親しい友人でも、どんなに気の置けない仲間でも、どこまでいってもそれは媒介を通した「点」の交わりでしかなく、生活や想い出の積み重ねといった「線」としての繋がりではない。それが「友人」の持つ限界なのです。
私の人生を知る存在は、私の「線」としての人生を共有する存在は、この広い世界に私ただ独りしかいないのです。それは、なんと孤独で寂しいことなのでしょう。そう、私は「生活友達」が欲しいのです。趣味や店といった「点」ではなく、日々の積み重ねの共有という「線」で繋がった「生活友達」が。
そしてそうした「線」としての存在は、現在の日本社会では結局のところ「家族」という形式をとらなければ得難いものなのでしょう。そう考えたとき、私は結婚をしたくなりました。「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」
これに全然共感できなくて、気づいた。自分は自分の人生で起こった楽しいことや嬉しいことや面白いことを、独り占めしたいと思っているところがある。親しい友人は遠距離で数人いるけど数年に1回合えば楽しいし時々メールで近況を報告し合うのが楽しい。友達と毎日会うとイライラし始めて仲が悪くなりかけたこともある。昔付き合っていた恋人とも全部は打ち明けなかった。確かに好きだったがもっと境界が欲しかった。
「自分だけの考え」「自分だけの感動」を他の人とシェアしたくないと思っている。どんなに仲の良い人間でも所詮他人であり、感動を100%伝えることは不可能なので、「伝わらなかったフラストレーション」が生まれるのである。本を読んだ後の感動とか、絶対誰にも喋らないようにしている。仕事が終わった後に一人の家に帰るのが至福である。帰った後に家で誰かが待ってると思うとゲンナリする。それを守るならば孤独死もしょうがない、人生の最後10年間が大変だったとしてもそれまで楽しく生きてれば人生積分的には満足である。今を大事に生きているので今のところ人生の後悔は特にないし今後もそうだろう。「点」の友達をつくって一人で生きていくのは自分に向いているのかもしれない。
——登さんくらい常に気持ちをフラットにできればいいのですが、仕事のストレスで参ってしまうエンジニアも多くいます。
そうですね。ストレスを感じる理由はさまざまあると思いますが、一つ例をあげるなら、仕事の目的が「お金を稼ぐこと」それ自体になっている人は疲弊しやすいかもしれませんね。
稼ぐことを目的としている人のゴールは、おそらくご自身の「安寧な暮らしの実現」にあるのだと思います。それがとても大事なことなのは言うまでもありませんし、否定するつもりも毛頭ありません。
一方で、私や私の周りにいる人たちは、現状の成果に満足せずに得たお金を次の進化のために再投資しようと試みる人ばかり。どちらが良いとか悪いとかではなく、価値観が違うだけのことです。
ただ、前者の「お金を儲けて安寧な暮らしがしたい」という人にとって、仕事から受ける疲労や気分の落ち込みというのは、ある種当たり前のことだとも思うんですよね。
——というと?
どこかで成長を諦め、安寧な生活を望むような性向が、かえって心身の不調やフラストレーションを生み、パフォーマンスを落とす一因になっているのではないかと思っているんです。
「お金を稼ぐためだから、しょうがないか」と思ってやっていること自体が、ストレスになるのではないかと。
登 大遊さん
でも、こればっかりは人の価値観ですからね。変えようと思っても、すぐに変えられるものでもない。
どんな価値観で生きるのかを選ぶのはその人ですし、どんな人生を選んでもリスクはついて回ります。
安寧な生活や休息を優先する生き方には、仕事に対するストレスやそれに付随する心身の不調などの副作用があるということに過ぎません。
ただ、一つ言えることがあります。日本において、「大義を持って働く」生き方を選択をした人は、これから大変有利だということです。
——どういう意味でしょう?
自分の手で未来を変えようと野心に燃える人が世界中から集まるシリコンバレーなどでは、埋もれてしまうかもしれない人であっても、日本の旧態依然とした組織の中では、同じことをするだけで、比較相対的に価値が高くなりますから。
技術者がわざわざベンチャーを立ち上げ、投資家からお金を引き出すために詭弁を弄したり、ニーズをでっち上げたりしなくても、日本の大企業にはストレートに解決すべき課題がいくらでもあります。そしてそれらの問題を、自分自身の頭脳を用いて解決しようとする時は、必ず、従来とは異なる方法で解決する必要があるのです。
なぜなら、まさに従来手法では解決できなかったことからその問題が放置または堆積されているためです。
——その場合は、どうすればいいのでしょうか。
その問題を一旦一般化・抽象化した上で、これを解決することができるより低レイヤーのフレームワークのようなものを作ってしまうことが重要です。一定の労力はかかりますが、それによって生じた汎用的成果物は、他の業務や他の組織においても普遍的価値を持つようになります。
ここで重要なのは、目的を「業務上の特定の問題の解決」から昇格させ、「その特定の問題と本質的に類似しており、かつ既存の最適な解決方法が存在しない、新たな汎用的解決方法の実現」という、より価値の高い目標に設定する必要があるということです。
登 大遊さん
——目先の特定の問題をその場しのぎで解決するのではなくて、普遍的な価値を目指すと。
その結果、問題がうまく解決され、成果物が出たならば、サラリーマン的な自分自身(個人)と自組織にとっての短期的な狭い利益だけでなく、同時に「世界における技術の進歩」という長期的で大きな価値が生じます。
具体例を挙げると、たとえば「UNIX」を構成する重要な機能、たとえばシェルやプロセス間通信、パイプ、grepといった機能。これは電話会社であるAT&T社の特許部門における、膨大なテキストファイルを全文検索するという特定の業務を解決しようとした同社の社員たちが、単にその社内問題解決にとどまらず、さまざまな組織や目的で汎用的に利用できる仕組みを考案し、プログラミングして実装したものです。
結果として、「UNIX」は汎用的に利用される価値を有し、単に一企業の業務に留まらず、全世界的に普及し現在のサイバー世界の基礎となっています。
このように考えれば、ICT技術者は、これまで組織内で放置または堆積されてきた多種多様な課題について、目先の解決ではなく、「正しい普遍的な方法で解決する仕組みを作る」という気概で、真摯に向き合えば、自然に世の中に貢献できる成果ができるわけです。
歩道を横並び3列で歩くやつ、ましてや自転車でそれをやるやつ何なの。
追い越せなくてイライラする。
するとリーダー格と話がしたい仲良しのやつがその横に来て楽しいおしゃべりが始まる。ここまではギリ赦してやる。
問題は3人目のおミソのやつ。こいつが疎外感を恐れてさらに横に来る。話に入れないくせに。これで歩道封鎖。
この3番目のやつは前方のやつとすれ違う度に道を空けなければいけないから、馬鹿みたいにいちいち下がって避けては元の位置に戻ろうとする。この繰り返し。
3番目のやつ、自分がおミソであると謙虚に受け止めて2人の後に下がって進め。
お前が視界に入らなくても、声が聞こえなくても先の2人は不便を感じない。
前からすれ違おうとする人たち、後ろから追い越したい俺は必要のないフラストレーションを感じる。
1日家に居ることがないのよね、
と言うか現実逃避というか、
あーあいよいよ今年の掃除も明日までにしなくてはマジックリンって感じなのよね。
もう今年の内にいろいろとやることは諦めて、
来年のことを考えて鬼に笑われる方がまだマシかも知れないわねってそう思うのよ。
この時期もう今年になにかいろいろやろうと思うのは諦めがちよね。
やっぱり朝起きて夜寝るという
夜と昼がひっくり返りがちな、
そこは帰らないようにしていたいし、
うーん
いまいちピンとこないのよね。
たしかにお茶を飲む人で桜の皮で覆われて上等な茶筒だとお茶を飲む雰囲気も盛り上がるかも知れないけど、
あんまりお茶飲まない人にベストオブ今年の茶筒って言われてもって感じだし、
私はそれよりも
何度も何度も言ってる録画したコンテンツをいい加減消化したい、
この時間の借金を一体何時になったら返すことが出来るのかしら?って思うのよ。
見進めていきたいところよね。
だけど
その時の間ってのがあるから、
無音の短縮してしまっては味がスカスカなスルメみたいになっちゃって、
あながち倍速で倍速してしまうさらに倍速でコンテンツを消化していくことについては
一概にはいいとは言い切れないのよね。
バラエティー番組とか料理番組とかは時短で見てもいいかもしれないし、
やっぱり間が大事なのよ。
間がなかったら間抜けでしょ?なんて。
事務所に居る方が何かこう言う考えることとかが捗るような気がするけど
気がしているだけでなにも成し遂げられてないところも
本当は気付いているのかも知れないわね。
今年はなんだか
やったつもりだった気になっていた1年だったようなきがするわ。
人として成長したのかしら?って
何でもないようなことが幸せだったという説もあるけど
その256章も結局何もなかったかのようなことばかり並べられて歌われている感じがして、
銭湯に行ってお湯に浸かっても
なんとなくその日の疲れが溶け出してって思ってただけなのかも知れないわね。
と言っても何をしたいわけでもなく、
なにかこう目標があるわけでもなく
そう日々の充実感なのかしら?
充実すれば良いけどねー。
やっぱりどっか遠くへ行きたいわ。
なんだかんだ言ってフラストレーションが溜まってるのかしら?
嫌だわね。
今この瞬間おもったけど、
俄然なんか急にやる気が湧き出てくる事ってない?
今沸いてきたわ!
うふふ。
鮭切り身焼いてそれとご飯とでなんか平和な休日の朝ご飯って感じで
休日って感じがするんだけど、
なにかこうボーッとしているともったいない感じがしてしまうのはもはや現代病なのかも知れないわ。
じんわり温まるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
左の人が言いがちな、経済的成長は幸福をもたらさない、みたいな話にも近いというか、
集団がことなかれ主義に陥って、保守的になってるんだとも思える
つまり、実際の仕事が前進しているかはどうでもよくなっている可能性がある
文章内の攻撃的とか難しい人というのが、本当に仕事を妨害している人なのかは現場を見ないとわからない
だから、そういう抽象的な表現で、そういう人は邪魔だよね、排除した方が生産性が上がるよね、というのが寧ろ攻撃的に思える
個人的に思うのは、感情的な人が仮にいたとしても、寧ろそれに流されない方が良いのではないか、ということだ
感情的な人や攻撃的な人が悪というより、単にその感情的要素は無視すれば良い
そんなことより、仕事が前進してるかどうか、ということだけ考えればいい
そうすれば、相手が感情的であるかどうか、なんてことは、どーでもいいことのはずだ
ログミーの話は抽象的すぎるので置いておくとして、トゥギャッターの話は自分はモヤモヤする
「どうして〜なんですか?」
という疑問に返答しない、寧ろそれに苛立つ、という人の方が寧ろ感情的であり、攻撃的であるといえまいか
返答内容が、そう決まってるからそうなんです、でもいいではないか
サラッとそう流せばいい
相手がそれでも執拗に言ってきたとしても、そう流し続ければいい
どうして、それができないのか?
つまり、受け手側もその質問と同じ疑問、苛立ちを持っているとも考えられる
そういう風にしか思えないことが、仕事であれ日常生活であれよくあるように自分は思う
痛いところを突かれた、図星だ、そこから過剰な防衛反応に移行する
素朴な疑問を呈した人間は難しい人だ、
攻撃的な人、難しい人は生産性を下げるという論文がある(某メンタリストのような権威主義、恣意的な論文引用による正当化
自分が加害者でも被害者でも、そんな推論のハシゴをゆっくりなんてとっくにやってる
ゆっくり登ったって、論理的思考ができない人は圧倒的にできない
「なんで〜を選択したんですか?」
という問いに丹念にゆっくり、その推論のハシゴとかいうのを登ったところで、一番上に到達する前に相手が議論を放棄する
特に上司というか、仕事での権力の関係があれば、それは顕著になる
結論を最初に持ってくれば、それはそれで急ぎすぎだと言いつつ理解しようとしない
じゃあ、ゆっくり議論ができたらどうなのか?とできたとしても、そこには人間の思考としての意味で人種が違うという圧倒的な壁が出現する
あー、これは最初から会話にならないのに、自分は頑張ってたんだな、という徒労感だけが残る
仲良しクラブは成り立たないし、グーグルが心理的安全がどうこう言おうがクソ食らえだ
理不尽であれ、そんな丁寧な議論は、上から一蹴されるだけで終わる話なのだ
オチを考えずにだらだら書いてみたが、やはり思うのは、結局議論の意味なんてなくなるのである
これはマキャベリズムとして正しいし、意外とマキャベリズムは正しいことが多いのが現実である
ログミーなんか読むより、君主論読んだ方がいいのではないだろうか
理想的な、みんなが理解し合えるチームワークなんて絶対成り立たないことは、バカな自分でも長い人生経験で分かってる
単に目下の素朴な疑問を持つ人は、攻撃的だ、難しい人だ、で集団が追い出せばいい
いわゆる、イジメ、虐待の構図だが、それは集団社会では仕方がない面もある
しかし、これが上司、権力構造的に階層が上の方向に向けるなら話は別だ
これは日本でなくても、他の国でも変わらないように思う
端的に言えば、上司が難しい人、攻撃的、それが気に入らないなら辞めるしかない
不愉快な時間で人生を消耗するのもイヤだろうし、それが金銭的利益より優先されることもある
があって、まず3は避けたい、というのがあったように思う
それに対して、君主である自分は分からない、側近に相談しても側近も分からない、
これは当然避けるべきである
例えば、上司がその新しい技術を理解できない、これはまあいい、理解できないのは当たり前だが、
理解できる側近に騙されるのではないか、寝首をかかれるのではないか、
そういったことを考えているのだな、と思える上司、君主は非常に多いように思っている
マキャベリは、君主として自分が理解できないことがあり、側近には理解できることで側近に騙される、
そういったことに対して直感的ともいえる、側近のウソを正しく見抜く力、
そういう力がない君主は単に駄目なだけのように書いていた気がする
仮に側近が善意で行動したことでさえ、君主には理解されず粛清されることもよくある話だからである
側近を信じ切るような君主もバカであるが、疑いすぎる君主もバカであるし、
自分が理解できないことを側近が理解できることを恐れるばかりの君主は、いつしか敵に打ち負かされるであろう
自分より劣った側近を周囲に置いていないと安心しないからである
あー、書いてて思ったんで再度書くけど、
Googleがこう言ってる、
〜という論文がある、
とか、まあ、参考程度するのはいいけど、それが正しいという前提で話すとか、最近の「頭でっかち」の風潮が非常に不愉快なんだけど…
そもそも、人文科学というか、社会科学というか、研究や統計調査だって理系のものとは大分違うものだということを理解してほしい
特に「脳科学」の研究だの、そういう研究をしている、していたからって、
痴話喧嘩だの人生相談だののレベルに偉そうに口出しする女性とかがメディアに出ていたりするが、
まあ、まともに研究している人ならそんなことはしないわけで、
ソーシャルメディアというか、いわゆる「単なる目立ちたがり屋さん」に自分の人生を振り回されるの、馬鹿馬鹿しいと思うんだよなぁ…
それより、理系のこととか、法律とか、そういうことは揺らがないわけで、
というか、なんか最近の世の中は急ぎすぎてるんだか、その自分の判断だの悩むところを時間の無駄だと思ってないか?
一生結論なんてでなくていい、結論が出ないまま悩み続ければいいことに、一足飛びに答えを求める
その「単なる目立ちたがり屋さん」のYouTubeとかブログとかTwitterとかテレビとかに答えを求めて、そーだそーだ言ってる
なんか、そういうのって虚しい行為だと思うんだよね
でも、そういう虚しい行為をGoogleなり、キラキラした企業なり、起業家なりがやったり言ったりしてるんで、
それに飛びつきたくなる気持ちは分かる
そこに答えがあるんじゃないか、
いや、もう考えるの面倒だし、それが正解ってことでとりあえずやってけばいいんじゃないか、
みたいな風潮がやっぱりあると思うんだけど、
まあ、馬鹿げてると思うんだよね
人として