はてなキーワード: 踏み込むとは
http://unrealmusicstudies.blogspot.jp/2015/12/blog-post_26.html
こういうサブカル勢の、理解者の振りした規制意見って、反吐が出るよね。
んで、こんな事いっちゃうの。
それは「ぼくのかんがえたさぶかる」の仕事で、消費する側でも、主催する側でもねぇよ。
現在進行形で大成功どころか、超成功してるガルパンを批判しておきながら、「際どいところに踏み込むには思慮深さを持っておかないと成功しないんじゃないかなぁ」とか、アホか。
こういう言説に共通する心理は、「僕はお前たちとは違う」だよね。
僕は理解がある、僕は女性の味方、僕はキモオタじゃない、何でもいいけれどさ。
切断処理してる訳よ。
こういう輩の言葉は、全部ポジショントークだから、まったく響かんよね。
この論の一番の破綻は、主催してる側は、まったく表現規制反対なんて叫んでない事。
批判されて引っ込めたところもあるが、そこは表現規制に逆らって、表現の自由を錦の御旗にしていたか?
言ってること矛盾してるよ。
つまり、ホームレスだからといって、他人からお金を恵んでもらいたいと思っているとは限らない。
(実際ホームレスの人って、日払いの仕事とかしてお金持ってること多い)
聞くけど、あんたは街歩いてていきなり
「困ってるように見えるから、この千円どうぞ」
って言われて喜んで受け取れるのか?
しかも「いいですいいです!」って固辞しても勝手にかばんにねじ込まれるんだよ?
普通は嫌だと思うんだけど。
普通は嫌なことを、「こじきではない」ホームレスにならしていいのはなんで?
それこそが「偏見」なんじゃないの?
街の募金にお金を払ったり、炊き出しボランティアに出るのとは違うよ。
本人がそれを求めて受け取るのと、他人に押し売りされるのは違う。まったくちがう。
本当にホームレスの生活に心を痛めるなら、定住支援と定職支援、
そして心の問題(定職を続けられない人も多いから)にまで踏み込む必要がある。
元増田はまだ「自己満足」ってことがわかってるけど(個人的にはそれでもどうかと思うけど)
あんたは美化しすぎ考えてなさすぎでどうかと思う。
あと、いちばん胸糞が悪いのは「気高さを感じた」の部分だよ。
そういう大げさな賛辞って、相手を「異化」し、「わたしたちとはちがうもの」扱いする、結局差別意識の裏返しだから。
それは性教育の失敗ではなく、一般的な教育の失敗と捉えられるからではないだろうか。
性衝動に突き動かされ他人の権利と平穏を脅かす性犯罪だが、他の利己的な犯罪と同じく、一般的な道徳意識があれば自制できると考えられている。
ではその根源となる性衝動を教育によって是正できるかというと、個人的な思想やプライベートに踏み込む問題であり、学校教育的なものからは外れているというイメージなのではないか。
避妊や中絶に関しては性教育と言えるが、それが主題となる事件、例えば若年者の産み捨てなどが問題になる時にはちゃんと性教育の話題も出てきているように思う。
相撲で横綱・白鵬が猫だましで勝ったのに対し批判がなされた件に関して、ブコメがたくさんついてるけど、イマイチ相撲に誤解がありそうなコメが多かったんで、なぜ批判されてるか簡単に解説。
そもそも、相撲は西洋発祥のスポーツと根本的に異なることがある。
それは相撲がルールに意図的にグレーゾーンを残してることだ。今回の「猫だまし」やよく批判にあがる「立ち会いの変化」はどちらも奇襲戦法なんで、このグレーゾーンに属する。
じゃあ何でグレーゾーンを残しているかというと、その理由の一つに、相撲が番付制を採用していることがあげられる。「番付」って言ってよくわからない人は、要するに一番から順に力士にランキングがついてるんだと思ってくれればいい。
で、相撲を実際に見てみればわかることだが、番付が低い力士が番付の高い力士に勝つのはなかなか難しい。
だから番付が低い力士への「救済措置」として、自分より番付が高い力士と戦う場合に限りグレーゾーンに踏み込むことが暗黙に認められている。
逆に番付の高い力士が低い力士に対して「救済措置」であるグレーゾーンの戦略を取るのは批判される。とくに今回は横綱・白鵬。最強のチャンピオンが格下相手に「弱者への救済措置」の技を使ったようなものだ。だから批判されたのだ。
一方、猫だましで有名な舞の海は、チャンピオン(横綱)ではなく、しかも小柄な力士だった。だから猫だましをしても批判を浴びず、むしろ賞賛されたのだ。
こういう話をすると「他の格闘技、例えばボクシングではルールにグレーゾーンを残してないのになんで相撲だけグレーゾーンを残すんだよ」という反論がくるかもしれないが、それはボクシングは階級制を導入して極端な戦力差のある戦いを排除してるからである。
相撲の場合はボクシングでいうライト級の選手がヘビー級の選手と同じ土俵で戦うので、弱い側の選手にこの手の救済措置が必要になるわけだ。なのに今回はその救済措置を強い側が使ってしまったのだ。
最後に。横綱・白鵬は歴史に名を残すほどの最強の力士だ。しかし最近は全勝を逃すことが多いなど、やや弱体化したことは前々から指摘されていて、先場所は遂に休場した。
こうした事への焦りが今回の猫だましに繋がったんだと思うけど、一ファンとしては晩節を汚すことなく全力で戦い、それで無理になったら栄光のうちに勇退してほしいものだ。
ダルくて友達のジェバンニに作成してもらったからいみわかんないwウケるw
特徴があったらキャプチャ保存されてる」
んーなに言ってるかよくわかんなーい
ブロガー目指してる皆もレポみたい??
しょうがないにゃぁ・・
①共通使用
聞いて
その点
事を
気付く
本当に
んじゃなくて
起きる
それぞれ
対する
なのかもしれない
打ち明けた
されているように
このような
というのは
思うんです
~にしか
測れない ※測れる あり
してはいけない
とするのも ※~するのも あり
一歩
踏み込んだ ※踏み込む あり
伴う
仕方がない
真っ直ぐ
発信
言い合う
沢山
②混合使用
出来る ※できる と混合的に使用
ほうが ※方が と混合的に使用
良い ※よい、いいと混合的に使用
③変換違いであり
同じ様に ※なし、ただし 同じように 使用
色々な ※なし、ただし いろいろな 使用
雁字搦め ※なし、ただし がんじがらめ 使用
ズレた ※なし、ただし名詞の ズレ 使用
④なし
可哀想 ※かわいそう含めなし
きちんとした ※ちゃんとした含めなし
⑤疑問
居た・居る ※不要な変換
想います ※変換を途中で変更
政治家でなくとも良い、
例えば、テレビを見ている内にそのような話題が取り上げられた際、
この芸能人はそれに賛成なのか、反対なのか。
相手の立場を知りたくなるという欲求がある。
気になって当然であると言える。
あながち結論の異同に依って、敵味方を判断する事は出来ないように思う。
極論、
という二つは判断過程は同等だが、結論だけ違うという一つの例だ。
しかしこの二つは、表層だけでぶつかり合い戦う事となる。
何とも悲しい結末だ。
結論だけ知ろうとする事は容易く、
知れば相手との関わり合いを容易にもつ事ができる。
少し踏み込むと、仲間意識を醸成できるし、あるいは、相手を糾弾する事ができる。
相手が賛成か、反対かの表層を知りたくなる気持ちは、
「子供はまだいいや」とか思っている人。
「将来的には欲しい」と。かすかにでも思っているのであれば、早い段階で各種検査だけはしておくべき。
何故か。
いざ作ろうとしたタイミングで不妊の要因が見つかり、不妊治療といわれるような対処が必要になると、結構な時間がかかる場合が少なくない。
なんだかんだやっていると、気が付いたら2年経つ、ということも珍しくないのだ。
体の周期に合わせてのことなので、なんらか治療や検査など、一回のトライが最低でも一か月単位になると思っていい。
人工授精や体外受精になると、一回のトライが2~4か月単位になることも普通にある。
そもそもこの『不妊治療』に踏み込む前の段階で、半年~1年くらいかかったりする。
そうこうしていると、特に女性の体には年齢という重い壁が迫ってくる。
年齢が上がると成功率は下がり、体の負担などからも一回のトライやインターバルに時間が必要になる。
そこで。
私としては、子供を作ろうとする前に、事前にある程度の準備は終わらせておくこととお勧めしたい。
以下は20代の早い段階からでもやっておくことを強くお勧めしたい。
なんだかんだ基礎体温の把握は基本になる。
最近の婦人体温計はメモリ機能があるのは当たり前、PCやスマホと連動するものもある。
基礎体温計を付けて不審な点があればそれも婦人科で相談してみるといいと思う。
生理不順や生理痛がひどい場合は、何等かホルモンや卵巣などに問題がある可能性がある。
日常生活に差支えばなくても妊娠という面では障害になることがある。
もし検査で経度の子宮の病気等が見つかった場合、もちろん医師との相談の上ではあるが早めに対処を考えてほしい。
例えば通常は医者も「気にすることはない」という軽度の子宮の変形でも、不妊治療に何度も失敗すると「着床しない原因」の可能性を疑い手術することはある。
もちろん不妊治療中にそういった外科治療をすると次の不妊治療まで大きくインターバルが空くことは言うまでもない。
何が言いたいかというと、
ということ。そして
ということ。そのため
くどいようだが。
子供が欲しいと思ってから「トライ→検査→自然妊娠トライ→人工授精→体外受精』と一通りやってみるだけでも、すんなりいって2年はゆうに経つと思っていい。
時間との戦いを制するには事前にできることをやっておくに越したことはない。。
妊娠・出産だけでなく、むしろそれ以上に、不妊治療には肉体的も精神的にも女性に負担がかかる。
ぜひ支えになって上げてください。
仮に自分が今は子供が欲しくなくても、パートナーが検査や治療を行うことに嫌な顔はしないでほしい。
基礎体温について。
病院や医師によって差異はあるかもしれないが、診断の最初のデータとして利用されるケースが少なくない。
そのため基礎体温を全くとってない状態で婦人科にかかかっても「とりあえず1周期分基礎体温記録してきて」となり初回診断は何もできずに終わることもありうる。
所詮は素人が採取するデータ、精度にバラつきが出ることはあるがそれは医者も織り込み済みである。
最も負担が軽く取得できるデータでもあるので、よほど事情があるのでなければとることをお勧めしたい。
将来的に子供が欲しい男性も可能であれば精子の検査を行っておくにこしたことはないだろう。
とはいえ男性の不妊の場合、1年などの短期間で根本原因を取り除くような治療よりも、何らかの方法で精子を採取・選別して人工授精や体外受精となるケースが多いと聞いている。
(EDによる性交渉障害や精子の質と量に問題がある場合など、治療や手術等でそれ回復を図るよりも確実だからだろか。)
そういった意味では、"事前に検査や治療が 後々の自分の体やパートナーにかける負担の軽減にどれくらい有効に働くか"という度合では女性のそれと比べてインパクトが低いと私は考えている。
(重ねてになるが、やらなくて良いとは思っていないしケースバイケースではあろう)
あれはまだわたしがおぼこだった頃。おざなりな愛撫も、ちんぽの味も知らなかった頃。
あの年頃の女の子には必ずひとり以上は好きな人がいた。それは話をしたこともないひとつ上の学年の綺麗な顔立ちをした少年だったり、汗ひとつかかないようないやみったらしい数学教師の青年だったり。対象はなんだってよかった。好きな人がいることが大切だった。
わたしだって例外ではなかった。わたしにも好きな人がいた。彼は同じクラスのコンピューター部の男の子だった。彼はわたしにとっては好きな人の条件をしっかりと満たしていた。
他の女の子たちは口を揃えて、ありえないだの、根暗男だの、乳臭い男だの、とにかく彼のことを罵った。「あなたに彼は不釣り合いだから。」って。わたしはあの不細工なじゃがいも達より容姿に優れていたから、到底彼女達の手には届かないような、学年イチ顔が整っているサッカー部のあつしクンだとか、インターハイで2位になった水泳部のたつやクンだとか、そういう人を好きになって欲しかったんだと思う。本当に勝手。わたしはじゃがいものために描き下ろされた少女漫画ではないのに。
根暗で乳臭い彼は好きな人に最適だった。彼は人に興味を示さなかった。顔は整っているし、気さくに話をするのに自ら人に踏み込むような会話をしているところを聞いたことがなかった。わたしはそこが好きになった。都合が良かった。話を避ける手間が省けた。おせっかいなブスがくっつけようとしても彼には取り付くシマがなかった。私にとってこんなに素晴らしい好きな人はいなかった。
あの年頃の子どもたちは男女間で関わりを持たない。男と女の真似事をし始めてついには本当の男と女になる。お互いを強く意識して排他的になる。体が変わると考えも変わるのだろうか。
わたしはその排他的な空気にだんだんと耐えられなくなって行った。彼もまた排他的な空気に閉塞感を感じる一人だった。
彼は射精を知らなそうな透き通った肌をしていた。ソプラノの声は永遠に失われないのではないかとさえ思えた。彼は周りの第二次性徴よりも遅れていたように見えた。彼は性に置いてけぼりを食らっていたはずだった。
閉塞感に耐えられなくなっていたわたし達が歩み寄っていったのはごく自然な成り行きだった。これといったきっかけも無かった。
ある日、わたしは彼の家で遊んだ。大乱闘スマッシュブラザーズをしていた。Nintendo64のいびつな形のコントローラーを握りしめて、ジョイスティックを壊れんばかりに倒して遊んだ。わたしはその日に初めてちんぽの味を知った。どうということはなかった。何の知識もない彼はコンドームも付けずに挿入した。わたしもわたしで何の知識もないものだから、それを拒むことをしなかった。ただ、彼が精通を迎えていたらしいと、今になって気がついた。
最近、ドッジボールが野蛮だから禁止すべきだ、とか、ドローンが危ないから規制すべきだ、とかいうネタをよく見る。
何だかすぐに規制・禁止の方向に持っていく考えには自分は反対なんだが。
そんな事言うんだったら、よくアクセルとブレーキを踏み間違って店に突っ込んだりしているオートマチック車の方がよっぽど危険だ。規制・禁止すべきだ!
左手・左足での操作が不要で、運転に集中するどころか、携帯・スマホ・化粧(←通勤中見てると結構いる)をしながら運転も多いから、オートマチック車は規制・禁止すべきだ!
アレだろ? オートマチック限定免許ってのは「動き出すための動作=右足を踏み込む」のと「停止させるための動作=右足を踏み込む」という相反する動作をさせるために同じ操作をさせる安全上おかしい動作を状況に応じ完璧に使い分け、間違わないよう特別な訓練を受けた者が所持出来る免許なんだよね?
コンプレックスは、
コンプレックスの理由が顕在化しているかどうかという更なる2分化を行える。
概要としてこの3つに分類ができる。
・コンプレックスが顕在化していて、その理由は内在化している。
女性であらば、胸の小ささをコンプレックスと感じている人がいるとする。
では、なぜそれをコンプレックスと感じるのか?
例えば、その女性が3歳の時、
旨の小ささをコンプレックスとして感じていたであろうか。
いつか、どこかのタイミングで、
コンプレックスとされていることを指摘して、
その他者が何をコンプレックスとしているかを知ることができるのはもちろん、
もう少し注意して観察すると、
「アベノミクスで嬉しいのは一部の人間だけ」っていうコメントが付くんだけど、
そういう人たちってなんで「自分も投資しよう」ってならないのか。
1.投資に回せるカネがない
二年前から毎月千円ずつ日経平均に投資しておけば、それはいま4万円近くなってるはずだ。
4万円もあれば、焼き肉と寿司食べてもお釣りが来る、けっこう幸せだろう?
投資する金がなかったんじゃない、金はあっても投資しなかっただけ、投資できるはずの金を浪費してきただけだ。
2.株とかよくわからない
勉強するとか詳しい人の話聞くとか、一度だけでもやってみるとか、そういうことはしないのか?
あなたが妬んでいる「一部の人」はそういう努力をしてきた人たちだ。
3.株なんてギャンブルだ
そう考えるなら、株で勝った人はたまたま勝っただけなんだから、妬まなくてもいいはずだ。
投資対象は日経平均だけではない、投資できるチャンスは一回だけではない、
投資できる期間は決まってるわけではない。
「今日買ったら明日下がるのが怖い」思考から、少し離れてみてはどうだろうか。
5.安倍政権が嫌い
結局そういうことだろ。
ところで、こんな話は、投資に限らない。
どうしたらいいか必死に学んで考えて工夫して、そして体を動かすしかない。
政治の体制がどうなろうと、経済の状態がどう転ぼうと、社会がどういう状況になろうと、
頭と体を動かすことをやめた奴に未来はない。
どこまでも他人を悪く言いながら、絶対に良くはならない自分の境遇を嘆いていればいい。
日経平均が20,000円を超えて浮かれる世間様を指くわえて見てなさい。
「あるジャンルの漫画を世の中から撲滅すべきだ」と主張しているならともかく、「あるジャンルの漫画はうちでは掲載しません」は普通に編集権の範囲だろ。また、潜在的にwebでBL漫画を発表したい層が可視化されたわけで、ビジネスチャンスでもある。
理想的には「ゾーニングのため c○mic○ BL のようなサービスを立ち上げたので、BLモノはこっちへ移住をお願いします」としたほうがベターだったかもしれないが、まずい対応により結果的に既存顧客や潜在顧客を失って商業的に失敗するのだとしてもサービス提供者の自己責任だ。
[追記]
本文に書いた例示で分からない人には何を言っても無駄かなあと思いつつ。
例えば上にも挙げたヤンマガが分かりやすく、キスどころかもっと踏み込んだ性表現もOKとしていると思えるけれど、多分そのものズバリなBL漫画は載らないか載ってもすぐ打ち切られるだろう。ものすごくステレオタイプに言えば、BL漫画というのは主に女性向けであって、ヤンマガの主たる読者層である若い男性に受けないからだ。ヤンマガは例えば Webでタダで読めるからタダマン なるネーミングのサービスをしていて、これを見て眉をしかめるような人を主たる想定読者にしてないことが分かる(これ自体を非難するつもりはないよ)。
BL漫画(これは男性同性愛者向けの漫画とも異なる。例えば今はもう廃刊になったけど薔薇族とかにいわゆるBLが載ったりはしないだろう。)を全面的に歓迎とするのは、ヤンマガが若い男性読者層向けに踏み込んでいるのと同程度には、対称読者を女性読者層向けに踏み込む行為だ。後だしにせよこれを禁止ということにするのは、差別(同性愛表現を世の中から消し去りたい)というよりは、マーケットポジションを男性向け寄りに変えている、と考えるのが普通の社会人のものの見方だと思う。
BLファンから見たらはしごを外された思いだろうし、悔しいのは分からんでもないが、冷静になった方がいいと思うよ。
[/追記]
■その1。
「やばい!太平洋だ!」……プレイした感想は、まさにこれだった。休業しているとはいえ、商業誌の編集者である筆者は、ゲームの題材として同人誌を扱うのは、やはり抵抗があったし、おたくである自分の状況を俯瞰的に扱うということを、美少女ゲームで表現するとは……という気持ちもあった。まあ、ありがちな先入観を抱いていたのだ。
で、実際にプレイしてみたら、「ゲームとして良くできている」のだ。確かに、題材の違和感は拭えないのだけど、『こみっくパーティー』はゲームだ。ゲームとして面白ければそれでいいのだ。その驚きが冒頭の台詞に現れているんだけど、まあ、元ネタは分かるまい(笑)。
さて、『こみっくパーティー』というゲームは、特別な思想性を見いだすことはできないけど、最大公約数の娯楽性を持った作品だと思う。実際、主人公に関する事柄以外は、かなりのバランス意識を持ってテキストが作られており、現在の同人誌状況のプラスもマイナスの両極を無難に取り込んでいる。これは、正月のオールスター映画を作るようなもので、それ故に「無難」というのは、この場合、最大限の褒め言葉なのだ。
そして、最大公約数故に、どのような批評も内部に取り込んでしまうというか、あらかじめ批評を予測された構造になっている。だから、ユーザーはゲーム中の事象にいちいちツッコミを入れつつ楽しんでいるし、批評にしても、思想的な根幹は特に存在しないので、どうしても些細な設定に帰着してしまう。そういう意味ではライター泣かせというか、誰もが批評家然として語ることで楽しむ作品でもあるし、このゲームを語るのは、筆者の場合、自分の半生を語るようなものでもあり、正直言って、気が重い。つまり、このゲームを語る事は、ユーザー自身の同人誌観を語るのと同じなのだ。これは非常に恥ずかしい。
■その2。
前号の「美少女絵師列伝」での、リーフ東京開発室インタビューにもあったけど、同人誌即売会という現象がそれほど普遍的なものになったのかと思うと、正直言って、また別の感情もある。筆者は同人誌の世界に足を踏み入れて8年、その半分はまんが雑誌の編集者として、絵に描いたように、おたくメディアと密着した生活を送ってきたけど、こうした俯瞰的に自己言及するメディアが発生するあたりは、言葉は悪いが、同人誌の世界が成熟し、おたくのイニシアチブを取る=経済的に勝利した状況になりつつあるのだな、と思い知らされた感がある。
あと、『こみっくパーティー』には思想性が無いと書いたが、特定の思想があったら、こんな広範な題材は取り扱わないし、結果として、一つの市場をめぐる噂話(都市伝説)の集合体という構成になるのも当然の事だろう。そして、このゲームは、善悪全てごちゃまぜにして、同人誌をめぐる状況を極力そのまま取り込んでいるし、登場人物がどれも清濁併せ呑む存在であることにも気づくだろう。特に、前半に関しては、主人公の視点があくまで素人として設定されているので、出会う人々がどれも過剰な存在に見えるのだ。また、冒頭で「主人公に関する事柄以外は~」と書いたのは、同人作家として成長するスピードと素人の視点が、後半になるにつれ、やや噛み合わなくなってくる為で、この辺で違和感を感じた人はいると思う。
ところが、みつみ美里氏や甘露樹氏といった作画陣の流麗な絵柄のフィルターを通すと、清濁併せ呑んだ部分が届かなくなるという現象が起こってしまう。最近のユーザーの傾向として、ビジュアル的な構成要素だけで全体を判断するので、本来、皮肉になるべき箇所が皮肉として通じないのだ。ユーザーはフィルター上の表層(ビジュアル)しか見ないので、キャラクターの内面まで踏み込むことはない。この微妙なズレというか、奇妙な皮膜が形成された結果として、特に何の問題もなく『こみっくパーティー』は、美少女ゲームという商品として成立している。本当は、もう少し微妙な立場にあるはずのゲームなのだけど。
古参のユーザーは、シナリオも含めたトータルを見た結果として、自分の同人誌観を語るのだが、最近のユーザーはビジュアル的な要素だけで判断するので、必然的に「キャラ萌え」といったベクトルへ向かう事になる。まさに、パソコン用語の「オブジェクト指向」ならぬ、「オブジェクト嗜好」といった所か。また、このタイプのユーザーには、全肯定と全否定という二つの判断しかない為、批評という概念自体が成立しなくなる傾向もある。
批評の介在しない、言論の一定化という状況で、他人との差異を何処に求めるかとなると、信仰心の強さを競う、という一点に帰着していく。信仰対象への愛情がイコールで消費した金額に換算される為に、トレーディングカードが流行したりもする。けれども、その信仰の強さが物語性を妨げる弊害も起きる。物語は信仰対象を疑うことから生まれるものというか、強烈な信仰は、自己の内面を相対化する心理機制を内包していないので、内面の葛藤の結果としての物語は生まれにくいのだ。
そして、信仰対象を次々と消費する現在のおたく産業に於ける経済システムは、物語よりも情報を重視している為、物語の需要は失われていく傾向にある。
【ネコミミ】【ロリぷに】【眼鏡っ娘】【妹】【メイド】といった、快楽原則に忠実な根本要素に、作画技術(画力・技法)や、ブランド(描き手のネームバリュー)が絡みあった結果、萌えられるかどうかを判断する……このように、価値の基準を情報単位で捉えていくパターンが、先に述べた「オブジェクト嗜好」なのだが、そういった表層的な要素のみで判断すると、物語や思想性は余計な要素=ノイズ以外の何物でもなくなってしまう。
例えば、とあるゲームのタイアップまんがで、元々、オリジナルの作品を描いていた作家を起用したりすると、アンケートは絶好調で、単行本もバカ売れしているのに、巷にはそのまんがに対するブーイングが溢れるという、パラドックスな状況が起こったりもする。
これは、「ゲームの関連商品」として単行本を買ったんだけど、描いている作家の作家性がノイズと判断されたからだろう。いわく「ゲームのイメージを壊す」と。この場合、その作家の絵柄(ビジュアル)だけで起用するから、そんな事態になるのであって、ゲームやアニメが主導する形でタイアップまんがを作るときは、キャラクターグッズに徹する、思想性の無い作家を選ぶ必要があるだろう。実際、最近のまんが業界周辺にはこういった、メディアミックスの悲劇といえる現象が、日常茶飯事になりつつあるのだが……話がずれた。
筆者は古いユーザーなので、エロの含有率で美少女ゲームを判断する癖がどうも抜けないのだが、現在の美少女ゲームユーザーは大きく二つの属性に分けられると思う。「キャラ萌えできるか」「心の琴線に触れられるか」……しかし、両者は結局、コインの裏表で、どちらも表層の情報、つまり、あらかじめメディアによって価値判断処理が施された情報だけを消費しているという点では五十歩百歩に過ぎない。
おそらく『こみっくパーティー』は、前者に属するのだろう。だが、萌え~なキャラがいるからプレイする、感動できないからプレイしない、というレベルでは割り切れない懐の広さも、このゲームが持っていることは知っておいて欲しい。
……筆者は、ゲーム(物語)の内部と自分の内部を相対化できるゲームが、良いゲームと考えているのだが、『こみっくパーティー』は十分、その条件を満たしている。題材が良いのか悪いのかに関しては、未だに判断し難いのだけど、ゲームとしては、まさに予想外というか、嬉しい誤算だったと言えよう。
アイディアを生み出すための想像力は「鋭い観察眼と知識」によって培われるものだと西谷は言うが、こうした知識に対する態度は他の多くの作家にも多く見受けられる。例えばクーンツは何かを調べる際、それについての参考書一冊を読んで満足するのではなく、2冊から3冊は確認しなければならないとするし、五代/榊も知識を増やす労を惜しむようでは作家になるのは無理だとする。
知識の広げ方という点では、例えば榎本はネットは有用だとして、わからない単語が出てきたら放置せずその場で調べる、新書、辞典、専門書を読むことなどを推奨している。またキングはテレビを否定し、読書が重要だとしている。
重要なのは何かを盲信しないことである。五代/榊は単純に何かを鵜呑みにしたり、逆に根拠なく切り捨てることは思考停止であり、これは「極めて危険」だと明確に述べる。クーンツの複数の文献を確認することへの指摘も同じことだろう。
一方、情報収集なぞ必要ないという主張も存在する。水島はラノベを書きたいならラノベだけ読んでいればそれでいいのであり、ラノベに限らず幅広い文献に目を通すべきだという意見は作家の見栄に過ぎないと言う。
ラノベ作家を目指すのならばラノベを読んでおくべきだ、という指摘は至極もっともだが、しかしラノベ以外の知識は不要だ、というのはいささか乱暴な主張と言わざるを得ない。もちろんそれでラノベを書くことはできるだろう。しかしラノベしか知識がないのだとすれば、そこで描かれる内容は他のラノベで既に描かれたものの域を出ない。もちろん、大塚の主張するような抽象化と具体化による工夫は可能だが、そこで具体化するための材料もまたラノベから引っ張ってくるという引き出しの無さは、相当の才能が無い限りすぐに限界を迎えるだろう。
知識という点で、飯田は作家がオタクであることを求める。しかし飯田がいう「オタク」とは流行のラノベを楽しみ、流行のアニメを楽しみ、ニコニコ動画で流行している動画を楽しむ人のことである。
一方で五代/榊は「新しく入ってきてる人達は、オタクと呼べるほど濃くない」とそれをオタクではないと断じる。共に作家が「オタク」であることを求めるが、両者の言うものは似て非なるものに思われる。とはいえオタクとは何か、オタクの濃さとは何か、という問題に本稿で踏み込むつもりはない。
最後に、知識の無さはワナビが創造する登場人物の幅にも影響することは理解されておくべきだろう。プロアマ問わずラノベにはよく「天才」が登場する。問題はこの「天才」が知っている知識は作家本人の知識を限界とし、その発想力や考え方もまた作家本人の能力に制約される、という現実である。
天才を出したいのならば、作家本人が天才の知識と思考を模倣できなければならない。幸い、作中の天才と異なり作家には十分な時間をかけてあらゆる文献を調査する時間的猶予があるのである。
何度となく推敲され書き上げられたものは珍しくない。にもかかわらず全く面白くないそのラノベの問題点を、例えば登場人物に魅力が無い、物語にリアリティがないとあげつらうことは容易である。それが欠点であることは間違いないだろう。しかし仮にそれが解決されれば、つまり偏差値30が50になれば、それは面白いラノベなのか。
五代/榊はワナビを「自分が知らない事は考えたくない、考えたくないところは考えないですましている」と批判するが、ワナビはそもそも「面白さ」について、とりわけ学術的に考えることを避ける傾向があると筆者は思っている。先行研究の調査は思考の基礎であるが、ネット上で飛び交う様々な「面白さ」についての議論がそれらに言及することは残念ながら稀である。
練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。
faridyu
本稿の整理が的を射ているとは限らない。しかし「面白さ」を構成する要素について、先行研究の重要性を幾ばくか示すことができたのではないかと考えている。それが本稿をここまで読んだ時間がワナビにとって価値あるものだったかはわからないが、しかしせめて、なにかの気づきに役立つことができればと願っている。
ある記事がきっかけになって、Twitterアフィリエイト"谷"の人たちと議論できたので、その感想を書く。
主に、ブロガーとアフィリエイターのその思考法の違いと、今の印象をセールに出かけるまでの30分という時間制限を設けて書いてみようと思う。
僕はブロガーだ。
だいたい1日あたり3000UU、10000PVくらいのブログを運営している。ライターや管理は僕一人で全て運営している。
もちろん本業は別に合って、ブログは趣味の延長線上、というよりも語りたいことや書きとめたい事、勉強したい事がまず先にあってそこから書き始めた。
サラリーマンだし1日に数回更新するほど暇ではなく2日に1回のペースが限界、それ以上書こうとすると各記事の情報が薄くなるのが嫌だからだ。
とあるアフィリエイターさんのブログを見て少しだけ不快な気持ちになり、Twitterでメンションを飛ばしてしまった。今思えば反省しているし、絡む必要性もなかった。読み返せば「会社の飲み会で正論吐くオヤジ」みたいな感じだった。
アフィリエイト谷の人たちが数人、僕とのやりとりをRTしたり、エアリプしてくれたりしたので彼らの思考法がわかった気がした。
1:アフィリエイターは商売でやっているのであり動機はまず利潤である。だから「商売の案件」が主であり、書きたいテーマは従となる。
2:商売の案件が先なもんだから、自分の経験・知識は当然不足する(銀行&証券など本業ドロップアウト組は除く)。、なので外注ライターを雇うか、他のサイト・図書館で得た知識を「リライト」して補う。
3:小奇麗なサイトに仕立てて、Googleのアルゴリズム「いっぱいリンクをもらえれば、検索上位に上がる」を使って、無料ブログやらかつて人が使ってて放棄されたドメインを買ってリンクを作成する。
4:見事、キーワード検索上位に上がれば成功。あとはそのサイトから購入してくれる人が来るのを待つ。
まぁざっくりいえばこんな感じだろう。
3については、去年Googleのアルコリズムが大きく変わった上に、アルゴリズムではなく、手動で排除することが多発したこともあって今は少し違ったことをしているかもしれない。
1:書きたいテーマがまず主であり、もしアフィリエイトリンクを貼りつけるとしても、それはブログの記事に沿った案件があれば、という従になる
2:書きたいテーマが先にあるから、知識や専門性、経験がゼロから始める人はすくない。その知識がある程度あるところからスタートする。「ブログで飯を食う」ってのが大抵ダメになるのは、専門性が無かったり文章力が無かったりするから。だいたい8割はここで脱落し、放置されたブログはそのうちだれも振り返らないネットの墓石となる。
3:Googleの検索上位に上がってくれればうれしいけど、特定のキーワードで上位ってのは目指したこともないし発想したこともない。せめて、自分のブログ名で一番上には立ちたいけど。
4:自分のサイトで知識を得てもらい、自分の思考法や考えている種を読者に植え付けることができれば成功(なんとなくインセプションみたいだな)。
5:収益がないと継続的モチベートにならんので、アドセンスは貼るけど、内容は自分がコントロール管轄外のため、好きなことを書くことができる。
ということで、この考え方のズレが最初に述べた「会社の飲み会で正論吐くオヤジ」みたいなメンションになってしまったのだ。
僕にはアフィリエイターの思考は自分の範疇外だったが、考えてみれば、アフィリエイターの思考1~4は別に悪いことでもなんでもない
1:利潤が世の中の進化を促す。利潤が動機でない方がかえって怖いこともある。よって、全面的に賛成
2:知識を得てからでないと書いてはいけないわけではない。外注ライターだろうが余所のサイトからだろうが、知識の総量を増やしていることにはかわらない。
3:Googleは私企業であり、彼らは公正公明な存在ではない。強大過ぎる彼らの力をほんの一部使う「軒先を借りるビジネス」はどこの業界でも成り立つのであり、すべてのサイトを人力でランク付けできない以上、公開されているアルゴリズムの裏を突くのは当たり前である。また検索上位のサイトとは、人通りの多い通りに面した一等地にあるお店なのだろう
4:背中を押すことは悪いことじゃない。世の中公平な情報は無料では買えない。サイトを無料公開している以上、文句を言われる筋合いは無い。
うーむ、やっぱり僕が間違っていました。絡んだ方、すいません。
・お金が欲しくてブログをやってるわけじゃない。でもお金は欲しい。よって彼らの思考法やセンスを学ぶ必要があるのだろう。
・しかし、気前よく出してくれる広告主と読者(≒顧客)の利益は相反することがよくある。自分でよく選ばないとむしろ今までの読者の期待を裏切ることになる。これが怖くて、クロージングができないブロガーはたくさんいると思う。アフィリエイターが作るサイトは顧客と一期一会かもしれないが、ブログは定期的に見に来てくれる読者と接点を持ち続けているため、なかなか踏み込めない。
・アフィリエイターはネットから収入を得るのが目的とした場合、従来のビジネスより格段にリスクが低いといえる。一等地は賃料が高く門外漢がお店を出しても儲からず破たんすることが多いが、ネットだけで完結するビジネスはコストが安く、スモールであるかぎり成立することが多い。
・アフィリエイトだけが利潤のチャンスというわけではない。ブロガーは、「本を書く」「講演をする」「メディアに出る」「ブランド化してリアルビジネスに踏み込む」というexitもあり得る。全くの裸一貫より自分のブログ、ブランドを持っている方が圧倒的に有利だろう
・「リアルビジネスに踏み込む」ってのはいま書いた通りリスクが高い。もちろん期待利潤も高い。でも、今年は「本を書く」ってのがまずは目標だろう。
ここまで30分。ご清聴どうもありがとうございました。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47