はてなキーワード: 踏み込むとは
ポケモンのデザイナーは公開されているポケモンもいるけど、公開されていないポケモンもいて、
さらにある時期までネットではあるポケモンのデザイナーとして定説となってる人がツイッターで自らデザインしたことを否定したりとか、
しょうじき、踏み込むと色々と面倒臭いし、そもそも元増田の感じた違和感がいまいちしっかり言語化されてないからよくわかんないから難しいね。
元増田のいう
これは、まだポケモンをやっている人でも主張している人がいて、
アローラの炎御三家のガオガエンが公開される前にニャヒートを見て「進化しても立つな!」みたいことを言っている人もいた。
この進化するにつれて、人っぽくなるのは、確かになんでなんだろうな。
ポッ拳やスマブラにゲスト出演するために、モーションキャプチャ等で表現しやすい人型にしてるのかな? とかも思ったけど、
ポッ拳には四足歩行のスイクンがいるし、スマブラにもダックハントがいるし、
そもそも最終進化じゃなくても、中間進化のピカチュウやプリンやテールナーが出たりもするから、どうとでも工夫できるもんなあ。
(突っ込まれそうだな、64スマブラの当時はピチューもププリンもいなかったから、ピカチュウとプリンは中間進化扱いじゃないね)
アニメの最終的な展開決まってなくて、どう転んでも良いように、映像的に映える人型に三びきともが進化できた方が良いとかかなあ?
DPのヒコザルみたいに話が結構進んでからゲットするケースもあるから、各世代の発足時に全ては予想できないわけだし。
まーたださあ、2016年の夏やったポケモン総選挙っていう人気投票では、
当時の最新御三家の最終進化系だった、ゲッコウガが一位なんだよ。
だから「今もポケモンが好き」な子たちにとって、ゲッコウガは格好いいんだよ。
(念のためいうが、俺も「今もポケモンが好き」だから、ゲッコウガは好きだ。スマブラでも使ってるし、本編対戦でも使ってる)
結局、デザインの好き嫌いなんて、第一印象が全てじゃないんだよ。
ゲーム本編となるX、Yに、三世代のルビーサファイヤリメイクのORASと、RPGが二本でて。
派生作品も、運営型で毎週イベントやアップデートがあるポケとるでは、なんと先週のアップデートで今更ながらサトシゲッコウガが強化されたし。
運営型だと、スマホで遊べるコマスターでは、ゲッコウガは一時期かなり強くて人気があった。
ルビーサファイヤの頃からの定番派生作品になってる超不思議のダンジョンでは主人公の選択肢として登場するし、本格的な格闘ゲームのポッ拳にはテールナーが出てたし、
カロスのポケモン大活躍! ではないけど、アクションゲームのポケモンスクランブル、パズルゲームのピクロス、ADVの名探偵ピカチュウ、パズルゲームのバトルトローゼ、なんていうのもある。
アニメも毎週三年間以上放送して、映画も三回上映して、そらもうゲッコウガはサトシのエースとして大活躍だったし、テールナーのポケスロンでのダンスはちょうかわいかった、ディアンシー映画ではマフォクシーやブリガロンもなかなか良い役だった。
カードはレギュラーパックだけでも11弾、不定期なイレギュラーのパックも6弾も出て、ここでもゲッコウガは2016の世界大会準優勝のデッキだったし。
しょこたんとかヒャダインがやってる実写のバラエティ番組なんてのもあって、もちろんそこでもカロスのポケモンは話題にあがる。
漫画ももう連載20年目になる、ポケスペが当然XY編をやって、そこではブリガロンが活躍してた。
まあ、他にもいろいろあってすぐには思い出せないけど(今パッと浮かんだのがスマホで遊べるミュウツーが踊るゲームの話は、さすがに本題から話がブレまくるからやめておこう)
増田のいうような不快感があるなら、きっとこんなにもカロス地方のポケモンが活躍しなかったんじゃないかな?
けど、増田が不快感を感じない、カントーとジョウトまでのポケモンしか登場しないポケモンGOもあるし、
3DSのVCで赤緑青ピカチュウが配信されてて、それを使用した「赤緑青ピカチュウ版の対戦をするオフ会」も開かれてたり、
カントーとジョウトのポケモンしかいないポケカの旧裏と呼ばれてる頃を使ったオフ会もあったりするし、
別に「今のポケモン」が好きになれなくても「今もポケモンが好き」であることは、両立できると思うんだ。
だから不快感をネットに書くな、とか、楽しんでる奴らにケチつけるな、とは思わなくて、
増田の問いである「今のポケモンのデザインって変じゃない?」に対しては、単純に
「変じゃないよ? ゲッコウガが特に格好いいと思うし、ガオガエンも好きだから今年の映画に出るの楽しみだし、御三家以外だとネクロズマとミミッキュが好きだよ」
って良かったところを教えたいな。
去年の12月くらいから時間ができていろいろとアニメを見てるんだけど
基本名作とされてるやつとか、女の子が戦う系のやつはだいたい楽しめるっぽい。
ごく最近はこの投票も参考にして見てるhttp://www.nhk.or.jp/anime/anime100/ani_report/
日常系はまだ手が出てない。ラブライブとか会いますはあんまり興味ない。
##楽しめたやつ
○リリカルなのは:1期面白かった。「リリカルなのは始まります」からのOPイントロが良い。2期微妙 3期1話で見る気なくなった。なのはとフェイトの素朴な殴り合いが好きなだけだったぽい
○まどかマギカ:すごすぎてハマってしまい勢いでブルーレイ(+BDドライブ)とか本とか買いまくって今冬ボーナスから7万ぐらい使ってしまったが後悔してない
○キルラキル:面白かった。アホみたいな勢いが良かった。マコちゃんかわいい。いまグレンラガン見てるが同じだ
○ニンジャスレイヤー:原作は大好きなんだがこれはちょっと…。まあ楽しめたけど原作ありきって感じ
○タイガー&バニー:↑で一位だったので。まあ面白かったかな? でもなんで一位って感じ?
○ガルパン:まあまあ。戦車の挙動は凝ってるのに戦車戦の構成が適当すぎね? 毎回謎の追いかけっこしてた印象
○リゼロ:面白かった。毎回の引きがやばかった。でもなぜか最後まで見てなくて22話で止まってる。あと18話かどっかでスバルくんが青い方にウダウダ言い過ぎと思った
○けものふれんず:まどマギ祭りにリアルタイム参加できなかったのが悔しいのでとりあえず見てる。めっちゃ癒される
##気になってるやつ
◇ご注文はうさぎですか:よくわかんないけど順位高いので
◇けいおん:なんかアニメオタクたちが一時期けいおんの話ですごかった覚えがあるので
◇らきすた:なんかアニメオタクたちが一時期らきすたの話ですごかった覚えがあるので。でも↑でランクインしてないぞ?
◇織田信奈の野望:昨日話題になってたので。なんかカワイイっぽい
◇結城友奈は勇者である:なんかカワイイっぽい
◇Fate:虚淵玄だそうなので面白そうだけどシリーズが長そうで踏み込むのに勇気がいる
◇とある~:面白そうだけどシリーズが長そうで踏み込むのに勇気がいる
##なんか合わなそうで見てないやつ
●ストライクウィッチーズ:女の子も兵器も好きなんだけど合体してるやつはなぜか好きになれないので見てない
●艦これ:女の子も兵器も好きなんだけど合体してるやつはなぜか好きになれないので見てない
●魔法少女育成計画:なんか引きこもり少女的な人が無駄に死んだところで見る気なくなってしまった
なんかオススメあったら教えてください。とくにアニメ映画は情報がさっぱりわからん。
ガンダム、エヴァ、パトレイバー、攻殻機動隊みたいな古典系も好きだけどとりあえずはいいかな。
最近のやつで。
##《追記》
皆さんいろいろ挙げてもらって本当にありがとう。自分だけじゃわからん情報だらけでほんと嬉しい
以下挙げてもらった中でピンときそうっぽいやつ
☆化物語:とりあえずさっき1話見た。だけで我慢できず2話まで見た。文字の羅列で雰囲気で圧倒してくるのとセリフ応酬の言葉のドッジボール感が本当にたまらん。凄い
☆戦姫絶唱シンフォギア:推薦人が一番多かった。本編見てないけどサイト見る限り確かにこれは勢いで持ってかれそうな感じはある
☆このすばらしい~
☆RWBY
狐狸庵先生原作の沈黙という映画を観た。逆吊りに呻く人たちがびくんびくん跳ねるのを観て、EXTRAVAGANZAというエロゲを思い出して不覚にも勃ったあたりで少し飽きてたんだと思う。
建前と本音の使い方に悩む自分にとっては、自分の信条が宗教になった途端に厚顔かましく外で全裸になるその性が全く信じられん。隠せよ、その汚えブツを。
内面に踏み込む井上さんの行為はなるほど、不快だったが、フェレイラの話には説得力があった。パライソに行けるとしか言わねえ、信者達に苛立ち、アミニズムを信じる原始人共が遠回しに貶す彼は本当にポルトガル人なんだろうか。イングランド人じゃないのか?
社会人が世間体や収入で評価する中、僕だけは違うんだ、本当はこんなんじゃないんだと拗らせるのと何が違うんだろう。転びポーロという言葉を聞いて心の声に逃げたのか?みっともない。
人は誰しもキチジローだと思う( ・ิω・ิ)
二人零和有限確定完全情報ゲームで、将棋以上に完成されているゲームはそうそうない。先手後手の差が微差であり、戦術上の大差はない。ルールも簡明で、ルールブックはA4用紙一枚で事足りる。必勝法も全く未知数。「とりあえずこうしておけば間違いない」という道筋すら、十手も指さないうちに幾百に枝分かれする自由度。終盤になるにつれ複雑度が増していくゲーム性。ゲームに求められる多くの要素を将棋は満たしているのだ。
ところで、ゲームのプロの価値は、結局ゲームの面白さをいかに伝えるかという点にある。僕らは豪速球を投げ込むピッチャーに熱狂し、素晴らしいパスワークを見せるミッドフィールダーに酔いしれる。スポーツには全く詳しくないが選手は好きと言うファンがいたら、そのファンはどの競技でもこう言われる。「ニワカ」「応援している自分に酔っている」……。
むろん、楽しみ方は人それぞれであって、否定する気はさらさらない。しかし、そういった人々は、競技自体にはほとんど興味がないのであって、断言するがプロプレーヤーは彼らを考慮すべきではないのである。なぜなら、プロプレーヤーは競技自体の魅力を発信するプロではあっても、決して自らや他選手自身の魅力を発信するプロではないからだ。有りていに言ってしまえば、素人がバラエティ番組を作っても面白いものにはならず、プロならば競技自体を楽しむファンのために競技に集中しろということだ。ただしこれはまた、解説者・評論家・記者等がプレーヤーの魅力を発信しないべきとするものではない。彼らは、業界全体のさまざまな魅力を発信することで、ファンに多様な楽しみ方を提供する職業であるからだ。
ここまでの話を将棋界においてみると、いかに今の将棋界が歪んでいるかがわかるだろう。棋士はソフトより弱くなったことで自分たちが将棋の魅力を伝えられないのではと不安になっている。そして個人の魅力を自ら売り出す方向へ迷走してしまい、棋士の精神性だの勝負の厳しさだのはまだいいにしても、「豊島、強いよね」だのは見苦しすぎて見ていられない。そういったことは専業解説者や評論家が行うべきことなのであるが、残念ながら将棋界においては解説者はほぼ現役のプロ棋士であって、専業解説者というのはほとんど存在しないと言ってよい。そして観戦記者には、棋士個人の魅力に踏み込む者も存在するが、なんら代わり映えもしない将棋の内容について語るだけの観戦記を恥ずかしげもなく発表するような者も多い。こんなことだから、プロは自ら棋士は個人として素晴らしいと思い込み発信していかないと、ソフトが強くなった今はなおさらやっていけないのだ。結局、今回の騒動も、将棋連盟の一部の棋士が棋士の価値について「将棋が強い」以上の過大評価をしたことが遠因であることは論をまたないものと思うが、それはここまで論じてきたように将棋界の構造自体がそうさせたものであって、僕は棋士個人を批判する気にはならない。彼らも被害者なのだ。
現役のプロ棋士は、早く「観る将」と決別すべきだ。彼らを楽しませるべきなのは、専業解説者・評論家・記者であって、決してあなたたち自身ではない。そういった外部の人々に思い切って任せておけばいいのだ、需要あるところに供給は発生するのだから。
そして、あなたたちの将棋は、ソフトより弱くなっても依然としてとても面白いものなのだ。少なくともずっとそう思っている人が一人いることを、ここに書き記しておきたい。
女の子同士がキャッキャウフフしてる描写は好きでも嫌いでもなかったんだけど
アラサーの終わり際になって、女の子同士が遊んで笑ってるだけでも癒やされるようになってきた。
百合、とはいうが本格的に女の子同士で恋愛してるのはまだ何とも思わない。
そのうち楽しめるようになるかもしれないけどね。
考えるに、男キャラとの恋愛描写みても何だかムカつくというか疲れるようになった。
青春のもどかしさとか甘酸っぱいすれ違いなんてのは疲れた身にはしんどい。
今はただ女の子たちが遊んでいる場面を見ていたい。
女の子が楽しければ良いんだ。
これが「そして、父になる」ということなんだ!
ならば僕は父として日曜朝に娘達(プリキュア)の活躍を見る義務があろうというもの。
で、これって性別逆にすると腐女子の考えになるのかな、とも想像してみる。
彼女らも別に推しと恋愛や結婚したいわけではないようなので(そういうのを夢女子というらしい)
母性を刺激する男たちのキャッキャウフフを見たい、というのであれば
なるほど、と今の僕は納得する。
今回は少年ジャンプ+
氷の魔女(?)の対決は省略か。
まあ、ここで勝つとは思えないから省略しても構成上は問題ないとはいえ、演出上ここでの対決はアグニと氷の魔女の対立性と力の差に説得力を持たせるために、描写してもよかったとは思うけどね。
まあ、この漫画、構成上切り捨てても問題のない箇所はバッサリ省略することが多くて、逆に対して構成上必要だとは思えない部分を執拗に描くから今さらだけれども(演出上どこが必要で不必要かなんてのは最終的に作者本位なんだから、ストーリー上問題なければダメではないけれどもね)。
とはいっても、一見すると氷と相性のいい強力な炎を纏っていてなお手も足も出ないほどの力の差ってのは最低限分かるので、あれで問題ないっちゃあ問題ない。
後半の展開は、自身に演技を課していたアグニがそこから脱却するためにとった行動が捕らえられていた祝福者の救出という形で行動に移されたわけだったんだけれども、その祝福者から神と崇められて結局は別の演技を要求されるという構図が興味深い。
ただ、個人的にはそーいうしがらみでグダグダされることに関しては興味が無いので、ここらへんの問題は別の話や展開をメインにしっかり描写しながら、同時進行してくれると中だるみしなくていいかなあ。
本編が佳境ともいえる場面だから、ここでの休載は読者目線では残念。
そして、側面的に考えて気になるのはダウンの理由だよね。
何の病気か知らないが、数ヶ月ほど安静ってことは結構な重たさ。
ワートリの先生もそうだけれども、こういうのが重なると労働形態だとか、体系とかを勘ぐりたくなる。
とはいっても、どこまでが作者の自己体調管理による責任能力なのか、労働形態や体系の問題なのか、事情を全く知らない身からは勘ぐりしかできないんだけれども。
私としては、そんな状態で考えたところで仕方がないのでテキトーなことを長々と語るのもアレだし、かといって変に気負うのも嫌なんだけれどもね。
おお、はっきりと明言した。
正統ラブコメなら告白と同義だけれども、まあ本作はそこらへん踏み込むような作風じゃないし、恋愛というよりは敬愛だとか親愛の意味合いが強いんだろうけれども。
オチは脱力モノだが、ガチでやったら禍根を残すレベルだし、それの後処理とかも描かないといけない。
それが読みたいかっていったら「描くべき」ではあっても「読みたい」ものではない。
もし、今回の出来事を現実に沿った方法で解決し、ドタバタコメディもない展開で描いたとすれば、自然ではあっても誰得である。
なので、多少不自然でも最終的に茶番になりつつも、この選択をしたのはいいんじゃないかなとは思う。
というより、私からすれば茶番は照れないで、かつ茶化したりだとか斜に構えないで描ききる位の気概を感じるほうが、むしろ好印象である。
本格LGBTアニメでもなければ本格BLアニメでもないしアニメの中で誰1人カミングアウトしてるわけでもないのに、本当に勝手な想像と凝り固まった偏見で語られてる
苦悩がないから踏み込んでない???LGBTの人全員が恋愛に苦悩抱えてるとも言い切れないし、ヘテロセクシャルの人全員が恋愛に苦悩がないとも言い切れないのに????
何を持ってLGBT表現に踏み込むとするのか、BL的表現なのか、ただの個人の主観をなんのデータも根拠も裏付けもなくさも全体の総意のように感情的に語ることに対してまったく同意できない。
勝手に自分でLGBTにくくりつけて考えてるだけで、このアニメがフォーカスしたいのはそこではないし、わざわざ現実の問題をアニメという架空の物語がフォーカスしたいところ以外の表現に落とし込む必要はない。
http://lineblog.me/yamamotoichiro/archives/13096170.html
彼の発言の内容に含まれる様々なアンチテーゼを、誰が実行できるのか?
もはや、これはネットで影響力を持つ人すべてに言えることなのかもしれませんが
しかるべき立場にいる人が、何かしらこういった煽る人(アオリスト)をしっかり公聴して動けば良いのだと思うが
じゃあ、一言一句もれなく、やまもといちろう氏の言うとおりやれば完璧ですってこともないとも思う
結局、普通の人は何もできないし
やまもといちろう氏がやればいいというわけでもない
普通の人は、その意見が正しいと思えばただそれを信じてみんなで煽って
しかるべき立場にいる人に訴えかける(公聴の土台に持っていく)ことくらいなんだろうな
でも断片的に理解しているだけだと、すぐにたたき落とされるが・・・。
(経済の仕組みを理解してないと発言してもすぐに打ち落とされるのも問題だと思う)
ここまで読んでフィリップ・K・ディックを読んでないのはもったいない!!!
処女作からしてランダム性を主題に掲げて人造人間に10人の意識がのべつ間もなく入り込むお話ですから
ディックの長編SFはサスペンスな要素が強く映画化もされているのでまずはそこから3つ手に入りやすいものをおすすめします
どれもこれも面白いですが、苦手になってほしくないのでポップな面白さで図抜けているユービックを一晩(一番)にどうぞ
暗闇のスキャナー(A Scanner Darkly)
電気羊はアンドロイドの夢を見るか(Do Androids Dream of Electric Sheep?)
ユービック(Ubik)
ディックの長編は一気に読ませるほど面白いんですが綻びがなくもないので短編の方が実はおすすめです。
火星年代記を読まれているということは多分短編小説もたしなまれると思いますので次の2つをおすすめします。どちらもベスト版です。
人間以前
「アジャストメント」は映画にもなった表題作ですが、他にも「にせもの」や「電気蟻」、「くずれてしまえ」など特におすすめの一作です。
他の短編集に収録されているものが多いのでコレクターの方には不評ですが、最後のエッセイだけでも買う価値あると思いますよ~
ディックからもう一歩踏み込むならJ・G・バラードや安倍公房をおすすめします。
安部公房の作品はどれをとっても入りやすく、それでいて本質を問うような内容でとってもおすすめです。
ノーベル賞関連で取りざたされることも多いですがそんなことはそっちのけて入り込んでほしいです。
SF色が強いのは「第四間氷期」ですが、他のどれをとっても馴染んでいけると思います。
J・G・バラードはいわゆるニューウェーブの作家さんですが、その価値を抜きにしても読んでほしいと思います。
中後期の作品は非常に濃く、好き嫌い分かれるところだと思いますが、最初期の「結晶世界」だけでも手にとって欲しいです。
SF的な味付けはありますがユング心理学でいうところの「シャドウ」に直面するような内容です。それをどのように受け取るかで面白さが変わってくると思います
私は「母」がテーマになっている曲が苦手だった。
理由は世間で言われる「母」という存在に対する感情に共感できないから。
そんな私が宇多田のfantômeを聴いて、少し母と自分について書いてみたいと思った。
私の母は私が甘えることや泣くことを嫌った。
今でも「私のび太みたいなのが大嫌い」とドラえもんを見ている私に言っていたことを覚えている。
小さい頃の思い出に祖父母や父に甘えた記憶はあっても母に甘えた記憶がない。
その頃の母の記憶にはさみしくて構ってほしくて泣いている私が常にセットだ。
あと母親は私が何をしても褒めてくれなかった。
成績が良くても、何かで賞をとっても。
純粋にそれ以上のことをやってきたであろう彼女にとって褒めるべきことではなかっただけのことなのか。
それとも身近で私そのものを観ていて、表向きなそういう評価に意味を感じなかったのか。
そういう諸々のせいなのか多分母が死んでも私は泣かないんじゃないか、悲しまないんじゃないか、と考えてきた。
物語や現実の中で見かける「母が死んで悲しむ」ということが頭では理解できても感情的に理解できない。
ハンターハンターの最初のほうで「恋人と母親どっちを助ける?」みたいなクイズがあったけど、選択の余地なんてない、どう考えても恋人一択。
更に言うと、介護しなくて済むようにぽっくり逝ってくれたらありがたい、くらいに素で思っている。
かといって、私は母が嫌いなわけではない。むしろ好きだし尊敬している。
母の好きなところ、尊敬しているところを挙げればキリがない。
逆なことを書くようだけれど決して私に冷たかったわけでもなく、放任主義でどちらかと言えば甘かった。
私が選ぶことは基本的に肯定してくれるし、途中必要があれば金銭面でも助けてくれた。
今でも年に一回くらい「今度そっち行くからご飯どう?」と連絡が来て二人で食事に行くくらいの仲でもある。
ただし、「母」として私は母を感じきれていない、とでも言えばいいのか。そんな感覚。
こういうことを30を過ぎてからよく考えるようになったのは、私という人間の諸々が色々な経験を通して少しずつ見えてきたときに、
母という存在を抜きに考えることができなかったからだろうと思う。
まあ、アダルトチルドレンとかパーソナリティ障害とか私なりに調べてみて論理的に思うところは色々あるけど、ここでは省く。
そんな私が宇多田のアルバムを聴いたとき、やはり最初は彼女の歌う言葉には共感できず、サウンド面だけをとって「いいアルバムだなぁ」と思って聴いていた。
それが何度か聴いているうちに少しずつ変わってきた。
アルバムの中の母に対する愛を表現した歌詞のところで私は何とも言えない感情を持っていることに気づいた。
その感情を考えたとき、私がどうしても感じられなかった「母」という存在を少し感じられたように思えた。
それは多分、彼女の歌う「母」への愛が私にとって、純度の高い、人それぞれの「母」に対する想いの皮を捲っていった先にある「母」という存在を理解させるものだったから。
私が、母が、お互いをどう感じ考えていようが、変わらないことがあって、それを30年以上生きてきてやっと素直に受け入れられた。
そう気づいて母の姿を思い浮かべると、私が踏み込み切れない何かがあることに気づく。
多分その先が「母」なのだろう。
その「母」は母自身の快活な笑顔が壁になっていて、どうしても私には踏み込むことができそうにない。
ただ、その笑顔が消えたとき、その壁も一緒に消えて、私は「母」に会えるように思えた。
そして、そのとき私は「母」を亡くしたことを悲しんでいいのだと思った。
でも、そのとき私は私側にある壁を自ら壊せるだろうか。
大卒の人が大卒は正しいと喚く記事を読んで、学歴コンプレックスっていうコメントを見たわけだけど、これって学歴コンプレックスとは違う何かじゃないかなあ。
抽象的なはなしだけど、多分その記事の筆者は(そして多くの人は)「幸せが確定するチケット」を求めていて、この20年位、それは大卒の肩書だと思われていたし、購入者もそう信じていたのではないかな。
彼が記事の中で肯定しようとしたのは「大学卒業資格は人生を幸福にする」ということそのものではなくて、「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」ということなのだとおもう。
彼が守ろうとしたのはは「大学卒業資格は人生を幸福にする」という事実ではない。もちろん「幸福」ってのは主観的なものなので、統計で一刀両断にはできないんだけど、経済的な側面で言えば、大卒資格者のほうが高卒資格者よりも、生涯賃金が大きくなるというデータが有るのでそれですむ。示す必要すらなくて、彼自身がその統計を見て「そうだな」と思えばそれで済むので、そもそも記事を書く動機にはなりえない。
そういう経済面に限れば、大学卒業資格というものが、100%確定ではないにせよ確率論的にはある程度効果のあるチケットだったっていうのは有る。しかしそれは同時に、「確率論的」「ある程度効果のある」にすぎないわけでもある。「それを購入すれば購入者は確定した幸福を保証される」わけではない。効果の程は購入者によって程度の差がある。
(そもそも大学というのは研究/教育機関なわけで、そこに「幸せ」なんて主観的な、しかもチケット一枚で生涯を保証するようなものを求められても、大学側は「知らんがな、困るがな」でしかない。この件で大学が悪いわけではない)
筆者が守りたかったのは、「俺は大学を出て幸福だ」という以上の、もっと広範な「大卒チケットを購入した人間は幸福になれる」という「世界観」だったのではないか。それはすなわち「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」という保障でも有る。もうちょっと踏み込むと、「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想なんだとおもう。そして、これは、すごくわかる。
人間は日々を生きる上で脳みそ空っぽで生きるのは難しい。どうすればうまくいくか考えちゃうし、試行錯誤しちゃうし、うまく行けば嬉しいし、失敗すればなにが悪かったか考えてしまう。「セカイには攻略法が有るはずだ」って思想は人類進歩において巨大なアドバンテージだった。それは、自然科学分野においてはおおむね正しい。背景には物理法則があって、同じ入力には、同じ出力が返ってくる。技術研鑽や職人的な人生においても、概ね正しい。そういう態度で経験を扱えば、一定の知見が得られる。
だから「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想はすごくわかるし、自分を点検しても、この類型は形を変えていくつも発見できる。
でも実際問題、本当にこれが正しいかって言うと、ぜんぜんそんなことはない。人生という関数は入力が同じでもその個人ごとに出力がぜんぜん違うようだ。そもそも「同じ入力をする」ということ自体が人知では制御できないほど難しい。双子なのにぜんぜん違う人格になったり将来を迎えたりするわけで。人生という巨大関数はすくなくともワンチケットでフリーパスになるほどちょろいものではない。信用できるデバッガもない。
でも、その事実はかなり痛みを伴う。「人生に攻略法がない」というのは(もちろん確率論的にだが)「どんなに頑張っても不幸にしかなれない人間が存在する」ということを意味するからだ。
(※もちろんこれは一部宇宙の事実と異なります。瞑想とジョギングと野菜はすべての人生を攻略します。Yes、ぶくまますたー!)
そんなわけで、件の記事はなんだか悲鳴のようにも聞こえた。「この世界に攻略法は有るよ、ぼくらが幸せになれるチケットは実在するよ! ボクの過去の努力コスト支払いは間違ってなんかない! なぜならボクはいまそのチケットで暮らしているからだ!」――あの記事で筆者が説得したかったのは、誰より筆者自身だったのではないかと思う。
同様の光景はあちこちで見ることが出来て、それが先鋭化すると、論理が逆流を始め「(大卒資格が幸福チケットであるという)世界観を守るために、高卒以下の人間は不幸でないとならない」な方向に拗れてしまう(連中は全員DQNみたいな発言)。そうなると地獄の二次生産だ。だがどちらにせよ、それは学歴コンプレックスと言われているものとは、隣接しているけれど、もっと何か違うものなのじゃないかと思う。
うちの家庭は「機能不全家族」だ。
機能不全家族だとわかれば、脱出することがセオリーとされている。
しかし、機能不全家族であるがゆえに、生活力が身に付いていないので、脱出することができない。
然るべくして、次善の策として、機能不全家族の下で耐え忍びながら生活力を身に付け脱出の機会を伺うという選択肢を取ることになるが、これがものすごくつらい。
そもそも「子供が生活力を身に付けられない」ことを病理として、機能不全家族は定義されているわけだから、それができるなら問題となっていない。
行政による介入でも、家庭に踏み込むのでも、なんでもいいから、この苦しみを軽減してほしい。
人は、家庭をホームベースとして出撃(=仕事をしたりすること)できる存在であればこそ、ホームベースがしっかりしていなければどこにも出撃することができない。
この間、「外の世界」には優しい人たちばかりだということがよくわかった。いますぐにでも私は「外の世界」に飛び出して社会に参画したいと思っている。
しかし、最後の砦として、「内の世界」であるホームベースとしての家族の機能不全がそれを阻んでいる。
「内の世界」の負のエネルギーは強烈で、「外の世界」の溢れんばかりの優しさを打ち消して余りある。
どんなに日本が素晴らしい国だったとしても、機能不全家族の下にいる人にはそれを感じることができないのだ。
どうにかならないものか。助けてほしい。
道ならぬ恋、というヤツに今現在の私は身を置いている様だ。
様だ、等と断定を避けたのは私自身この状況に大いに迷っている有様で、認めたくもあり、しかし認めたくもないという思いの間で立ち尽くしているからに他ならない。
頭を整理するためにも、と言うことでこんなふうに書き出し始めた。
そんなもんチラシの裏にでも書くか穴でも掘ってその中に喋らんかい、と思われるかもしれないが、恋愛ごとに悩みを募らせる女性のご多分に漏れず、私にもどうしても誰かに話を聞いて欲しいという構ってちゃん根性がある。
故にこの場を選ばせて頂いた。
前置きが長くなったがこれより先は一人の女が悲劇(笑)に身をやつした己に酔いしれているだけの何の面白みも無い独白だ。
読むも読まないも、自由にして頂きたい。
さて、非常にありきたりな話ではあるが、私が私のこの恋を道ならぬ恋と呼ぶ理由は恋の相手が既婚者で子供もいるからだ。
幸いにも、相手が私に対して恋愛感情を抱いていない事と、私にも理性とそれを上回る恐怖心があるお陰で明確に道を踏み外している訳では無い。
ならば別に良いではないか、と思われる方もいらっしゃることだろう。
私もそう思っていた。
恥ずかしながら、私は過去に幾度かの恋の中で既に恋人がいる人を好きになった事もあり、その理論で武装して開き直った事もあった。
しかしその言葉を発している時の自分は、大体が「苦しい恋」に酔いしれていた。
悲劇のヒロインであるかのような、大層な自惚れだった。その人が好きだったのではない。私は苦しむ私が好きだった。
だが、苦しみというものは、外的要因だけからなるものでは決してない。
その外的要因を受け、それらが内的要因へとシフトして初めて本当の苦しみに転化する。
私にはそれがわからなかった。
私が恋心を抱いている人は、私より二回りも上の他部署の上司だ。名を仮にAさんとしよう。
他部署とは言っても、私の属する部署とはかなり密に連携を取るので、Aさんとはほぼ毎日顔を合わせる。
私が去年新入社員として今の会社に入社してから、何かと絡んできてくれた人だった。
最初は何の想いも無かった。互いにからかいあってふざけるだけの他愛も無い関係だと信じてやまなかった。
どちらかと言うと、兄を慕うような、いや、年的にいえばむしろ父親を慕うような感覚に近かっただろう。
ただ、私は年上の(失礼を承知で言うと)いわゆるおじさん世代と昔からウマが合いやすかった。
なのでAさん以外にも、そういう風にからかいあう男性上司は何人かいた。なので別段その気持ちに不信も抱かなかったし、周囲からも「おじさん達と仲良しな子」程度にしか認識されていなかった。
何よりもAさんには妻子があるのを私は知っていて、からかいあってはいても大きく踏み込むような事はしなかった。
だがある時、それは起こった。
何度か部署混合の飲み会は行われていたのだが、Aさんが参加するのは初めてだった。
初めて同じ席で飲めるという事で、私はガラにもなくはしゃいでいた。
この頃には既に周囲からも「Aさんと仲良くコントやってる賑やかし要員」という感じに扱われていたので、私もその役を演じようとしていた節がある。
少し遅れてAさんが参戦する頃には、私もほろ酔いで上機嫌この上なかった。
わざわざ席替えをして、Aさんの隣に腰を落ち着けていつもの様にからかいあった。
だがこの時はほろ酔いで羽目が外れていた分、私の方がAさんをからかっていた。
恋人にするならAさんが良い、等と間抜けなことを口走った記憶もある。
しかしその後、再び席替えをして私は別の先輩の隣の席へと移動した。
ただ、何席か離れたところにAさんがいるのをちらりと見たのだけは覚えている。
私の記憶は一度そこで途切れた。
気付いたら私は吐いていた。
正確に言えば吐きそうになっていた。
だが寸でのところでAさんがおしぼりで私の口元を抑えてくれていた。
私が吐きそうになっていたのを誰よりも早く気付いたAさんが、慌てて私の所へ駆け寄ってきて口元を抑えくれたのだ。
彼は私が堪えられずに吐いた時には、それをそのまま素手で受けるつもりだったのだ。
吐き気で朦朧としながら、私は近くにあるAさんの体温を感じて、ただただ混乱した。
この人は何故気付いたのか。
何故駆けつけてくれたのか。
何故躊躇わなかったのか。
その後は女子の先輩にトイレで介抱して貰いしこたま吐いて、そのまま帰宅の途に就いた。
翌日は当然二日酔い。起き上がれもせず、辛うじて這うようにトイレまで行きそこで一日を過ごした。
しかしそんな中でもAさんのあの体温がまだ近くにあるような気がした。
心臓がざわついた。
大きな温かい手のひら、耳元で何度もかけられた身を案じてくれる言葉、今までに無い程近い体温、洗剤の匂いに微かに混ざった煙草の香り。
しまった。
好きになってしまった。
瞬間そう悟った私は、吐きながら涙も鼻水もボロボロと便器に零して泣いた。
嘘だ。
それが私が一番に考えたことだ。
目の前が真っ暗になった。
初めて感じた絶望だった。
始まった瞬間に終わる、しかし長く続く恋が始まったのを感じたせいで、だ。
外的要因と内的要因の二つが揃った時、初めて苦しみは始まる。
叶わぬ恋をしたから苦しいのではない。叶わぬ恋が叶っても叶わなくても、どこにも幸福が無いことに気付いて苦しくなるのだ。
叶わぬ恋であり続ける事が相手の幸せであることに気付き、既に蓋もできない程に大きくなっていた自分の心を持て余し続ける。
まるで真綿で首を締められているような、そんなある種心地良さを纏った不快感が心に根を張る。
根は奥深くまで伸びて、やがてどうしても取り除けなくなる。
そうしたら最後。
何度芽を摘み取っても、根から再び新しい芽が生えてくる。
繰り返す。
不倫を望んでいる訳では無い。
離婚して欲しい訳でも無い。
それなのに、心のどこかで叫ぶ声が聞こえるのだ。
「愛して欲しい、私を選んで欲しい」と。
その度に根は深くなる。
幸せになって欲しい。
でもあの人の幸せを願う度、心がジクジク痛んでいる。
私の隣で幸せになってもらいたくて、けれど私の隣ではあの人は幸せになれない。
私は怖い。
この感情のままにあの人を傷つけてしまうのが、不幸にしてしまうのが怖い。
どうか私がこのまま臆病者であることを願う。
あの人の何をも壊してしまわないよう、優しいあの人を傷つけてしまわぬよう、ただ恐れ、縮こまって生きてゆくことを願う。
こんなくだらない文を読んでくださった方、本当にありがう。
ここにこうして公開した事で、心が幾らか軽くなった。
頭の整理もついたし、今後も周囲及びAさん本人にもこの感情がバレないよう上手くやっていける自信もついたところで、この文章の締めとしたい。
出張から帰ってきたらカメラ談義で手斧飛び交いまくってたことを知ってとても悔しい気分だよ!
被写体への愛とか、アマチュアは一眼レフ捨てろとか、手っ取り早く撮影できるコツを教えろとか、ひとまずみんな正しいよね。
だけど、写真を撮る上で本当に本当に根幹にある部分について誰もまだ言及してないことがあるよ。
それはね、写真に映る世界は撮り手が見てる世界でしかないってことだよ。
だって、カメラは透明人間ではないから、その空間には必ず撮り手がいるはずなんだ。
だから、写真には必ず撮影者と被写体の関係性が映るはずなんだよね。
その関係性っていうのが、人が写真を通してみたいものの一つでもあるんだ。
例えば被写体とのダイレクトな関係性を写す写真かといえば梅佳代ちゃんだよね。
そもそも逆立ちできないし、でももしかしたらそんな惨めな姿を眼の前にしている人との意外な関係性が写せるかもしれないね!
被写体との関係性を高い次元で成功させているのはアンリ・カルティエ・ブレッソンだよね。
彼は決定的瞬間を発明した人間として有名だけど、それよりもすごいのは膨大な数のストリートスナップだと僕は思っているよ。
どうしてそんな瞬間に居合わせたんだろうっていう写真もあれば、写ってる人に見つかったら大変なことになりそうなドキドキを感じる写真もあるよね。
被写体に愛があることは大事だけど、被写体に愛がないというのも関係性なんだ。
商用であることを前提にしないなら、そんなことを気にする必要なんてないんだ。
それよりも何よりも愚かなことは、自らの関係性に目を背けて他人の関係性を真似しようとしかしないことだ。
当然関係性というのは人に対してだけじゃなくてものに対しても生まれるよ。
被写体に対してどういう想いがあったかによって見え方だって変わってくるし、感じたままを写そうとすれば撮り方だって変わってくるよね。
そんな他人でも作れる写真をいくら量産したって、自分にとって何の意味も持たない。
これだけは断言してもいいよ。
次に機材の話。
だって、自分の目から見える世界とカメラに写る写真とは同じはずがないからね。
だから、自分の見た世界にどれだけ近づけることができるかを考えて、機材を選ぶんだ。
高ければいい写真が撮れるなら、みんな高い機材使うよね。
違うよね。
君が機材との相性が合わなかったり合ったりを感じるのは、君が見てる世界との違和感を感じているからだよ。
だからアマチュアだって一眼レフを使ってもいいし、使わなくてもいい。
どちらでもいいけど、自分が追い求めるべきは、自分の見てる世界の表現だと割りきったほうが、余計な機材を買わなくて済むよね。
それはね、自分と自分以外の関係性に恐れず一歩踏み込むことだよ。
もしそれが自分と周囲との関係性を表現してたなら、それをつまらないと言われたら腹が立つのは当然のことだよ。
僕だって、人の中に交わるより遠くから冷静に眺めてる事のほうが好きだ。
もしその奥さんが自分と周囲との関係性を汲みとって写真に撮ってと言ってたとしたなら、そしたら話は早いよね。
僕は奥さんのことを知らないからなんとも言えないけど、例えば僕が奥さんと一緒にいる時は、奥さんと子供が楽しそうにしている雰囲気を奥さん目線で撮ったり子供目線で撮ったりするよ。
この人に限って言えば、デジカメじゃなくてチェキを使って撮ったら面白いかなって思った。
暗い部屋の中ならフラッシュが届く距離も限られてくるし、すぐに写真を渡せるから相手のリアクションを楽しみながらコツをつかめるんじゃないかな?
最後に、もし写真を楽しみたいならハイスペックな防犯カメラになるのだけは止めよう。
その風景はあなたがいて初めて出来上がった風景なんだから、それをしっかり写真に収めていこうよ!
そうしたら、きっとカメラの役割が記録から記憶に変わっていくと思うんだ!
みんな偉そうなことを言ってる割には、こんな基本的なことも忘れてんじゃない?
よく貧困やなんかの社会問題系の記事で「一番の問題は想像力の欠如だ」みたいな言われ方がされている。
人間は基本的に自分の見たもの経験したものについてしか考えられない。
それ以上の領域に踏み込むためには類推だとか連想だとかが必要で、それにしたってある程度の下知識が求められる。
そういうものをぶちやぶって想像力を飛躍させるレベルともなると、これは一つの才能だ。だから小説家なり漫画家なりで金を取れる。
誰もが小説家になる必要はない、弱き隣人に思いを馳せるのにそんなに大したコストはかからないと人は言うかもしれない。
社会問題を考えるうえで必要とされる「想像力」とはすなわち、「他者の痛みについての想像力」だ。
痛みこそ、自らが体験あるいは目撃しないと想像することができない最たる感覚だ。
実際にその痛みを体験したものでさえ、いったん過去としてしまえばすぐに同じ痛みを味わっている他者に対して冷酷に振る舞える。ルサンチマン。卑近なところでは、体育会系の年功序列がいい例だろう。
そもそも共感に訴えるロジックは、その感情を共有できない人間を包摂できない問題を抱えている。
共感能は誰にでも備わっているようで、グラデーションがあるものだ。映画で人が刺されるシーンを観て自分まで同じ箇所がキリキリ痛むような人もいれば、サイコパスと呼ばれる人々はまったく共感というものを持たない。その二つの極のあいだで我々は「すぐもらい泣きしてしまう人」や「反応が薄い人」として生きている。
たしかに共感に訴えるショッキングな事件は、短期的には法改正などにつながりやすい。しかし、よほど特異でセンセーショナルなケースでないと大衆は食いつかない。たとえば未成年が集団で残虐な事件を引き起こす、だとか。
そこが難しいところだ。貧困など、恒常的で身近な問題に共感は通用しにくい。
状況を良くしたいのなら、我々に「想像力」などないと認めるところからはじめるべきだ。
人間が他者に対して無関心なのは今に始まったことではない。その状況を了解したうえで、どうやってゲームに勝利するかだ。
となると、やはり構造的に問題の根を断つ方法を見つけなれけばならない。なるべく人的コストを必要としない方法がいい。
てっとりばやく、ゲームのルールを策定する側に回れれば話は早い。
権力。
権力。
権力を手に入れろ。
増田たちよ、栄達せよ。
そうして、クソを漏らす自由を。
・周りに自慢できない
その地方では大手になるので、親御さん世代にはいいとこ入ったねと言われる方かな。。若い人、20代の知名度は全くないから自慢は出来ないかもですね・・・。
・合コンでモテない
女性受けはないですね。。金融機関に勤めている人だったら受けはいいかもしれないけど。
・社員同士の距離が近くてプライベートを侵食されそう
あんまりそういうのはないです。確かに仲が良い人はいるにはいるけど、何でもかんでもプライベートまで踏み込むというのはないですね。
・潰れそう
・大手に逆らえず無理な仕事ばっかさせられそう
下請けというわけではないので、そんな無理な仕事をさせられることはないですけど、得意先からの無茶ぶりはありますねw
・コンプライアンス意識低そう、ブラックそう
同族だけど、そこまでコンプラひどくはないかな。残業は確かに多い方ではあるけど、月間100時間とかはいきません。
・周りのレベルが低そう、成長できなさそう
レベルが低いとは思わないけど、得意先の民度は低い方かもしれない。。
・地味な仕事でつまんなそう
仕事はスーパー地味な方です。面白味はあるのですけど、地味ですね。仕事内容がよくわからないと言われます。
こんなイメージでみられるのがほんと腹立たしいんですよねー。
天鏡のアルデラミンの八巻と九巻を読んだ。一部完結時の流れを組んでるからか、比較的重たい話が続いていた。でも九巻の終わりで少し光が差してきたのでほっとした。
八巻は前巻から二年経った状況と人物紹介が主な内容だったので、あんまり内面に踏み込むことのもなく平坦な物語になっていた印象。とは言え個人的にライトノベルの理想形とでも云うべき読みやすさと物語を併せ持っていたので、可もなく不可もなく優等生な小説になっていたと思う。ただ、眠れる子が彼女だったのには少々閉口したなあ。内容的に主人公一行は随分とつらい目にあっているのに、ここに来てまたそれかああって感じ。暗澹たる気持ちになった。始めにも書いたけど、重たいムードで進む内容だったから一層堪えた。
重たい雰囲気は九巻になると更に顕著で、状況がどんどんどんどん悪くなっていく。立花の勇者を読んでた時もそうだったけど、主人公サイドが敵の術中に嵌っているのに気が付かないまま事態が悪化していく様子が描かれると、サビを噛んでるような気分になる。敵方の意図が描写されつつ、作中の登場人物が認識できずに窮地に陥るパターンは、自分には合わないんだと思う。はじめてのおつかいとか、目に見えてトラブルにあるのが分かっているのに見守ることしかできないのって、苦痛に感じてしまうんだなあ。後々のカタルシスのためだとは理解しつつもどうしても苦手だ。
登場人物の思いがそれぞれにちゃんと描かれていてよかった。みんな重荷を背負いながら歩いている感じで、大変だなあって思う。争いなんて無いほうがいいよ、やっぱり。平和が一番。ラブアンドピース。狐は許さないけどね。
とにもかくにもイクタくん頑張れ。まじ頑張れ。九巻の終わりがとっても熱くて、感動的で、十巻への期待が高まる内容でした。親父たちが本当に格好いい。
時間経過の描写が弱く心理描写に割ける時間もないために、文字の編集を入れることで解決させようとしているが、映像作品としては致命的にわかりにくい上に絵に動きがなくて地味
2話の俯瞰でパズルを見せるシーンや、3話の手紙を読んで葛藤するシーン等、ミステリにおいては謎を解決するために絶対必要なヒントを提示する重要なシーンだが、上記の文字演出のために台無しになっている
物語の目標がわからない。吹奏楽のメンツを集めるのが目的なのにアニメの内容はほぼ音楽に関係ない問題解決行動なので、視聴時の感情の向きがちぐはぐ
だいたいミステリには大目標は存在しないか達成しないことが多いのだが、こちらは曲がりなりにも終点が決まっており、さらに物語的にもアニメシリーズ的にも時間的制限が存在する
原作がどうかは知らないが、シーン合間の描写がバッサリ切られているので唐突にすぎる
2話で加入したキャラクターが急激に馴染むのはまだいいとして(本当は良くない)経験者が加入したから他にもモブがたくさん加入したっていうのは流石に唐突すぎる
他にもいろいろある。3話のゲームなんかは、ゲームなのか劇なのかはっきりしないし、空想なのか客観視なのかもはっきりしない
即興劇対決と公に銘打っている中で、個人のプライベートなバックボーンを大勢にさらしてしまう。これでは劇どころではないし、個人のプライベートに踏み込む事が目的のゲームであるなら観客は必要ない。
ワンちゃんという役を演じる人間が本当に居たのかどうかも全くはっきりしない(現実には居ないらしく、犬だと思っていた物は消えてしまっていたが、変装を解く初登場のシーンで「変装を解いて現れた人間」が次のシーンで忽然と消えているのは、「犬ではなくて人間が居る」という視聴者が与えられた理論の整合を即座に否定されてしまう)
(だいたい、じゃああの犬は何だったのか。あの犬をかわいがっていた女性は、一体なにを撫で回していたのか)