はてなキーワード: 起承転結とは
作ってもらって申し訳無いけど、美味しくない。
「ペペロンチーノは乳化が命!」うん、分かったよ。
「パスタは中華麺じゃないから、オイルやソースと絡めるときフライパンの火は止める!」そーなのね。
「ペペロンチーノは乳化が命だから、麺をフライパンに入れたあとしっかり混ぜ合わせる!」うん
「盛り付けは麺から、高さが出るように置いて上からソースと具!」はい。
「仕上げに加熱してないオリーブオイル!」うん。
ヌルいんだよ。私は暖かいパスタが食べたいの。最速で乳化と盛り付けができるなら全部間違ってないんだけど、火を消したフライパンを何回も返して執拗に乳化させて、盛り付けもモタモタしてたらそりゃ冷める。トドメに冷たいオリーブオイル。「ねっとでしらべたぼくのさいきょーのペペロンチーノ」でしかない。
って言うことをオブラートに包んで伝えたらスネちゃった。冷めそう。
【追記】
ここまでで起承転結が良いとか、冷めた感じが良いとか、ちょっと褒められて嬉しくて追記するのためらったけど、彼氏の名誉のために追記。
「冷めそう」が狙いすぎて寒いとか、ちょっと上手いとかで賛否両論でもありがたい。全部本音だけど、そこだけ狙って書いたので反応があるだけで嬉しい。
味についてだけど、まあまあ美味しかったです、ぬるいだけで。オブラートに包んで、私は味を褒めたあとで「私は熱々のパスタの方が好きかな」っていう一言しか言えなかったのね。美味しいものを作りたい気持ちは伝わったから。スネちゃったってのもちょっと大袈裟で、「彼女好みのものを作れなかった」のイジケだったのかなって思う。
本人いわく、「2人分の分量で作ったのは初めてで、こんなに冷めるとは思ってなかった」だそうだ。本人も「失敗した」ことはわかってたみたい。そこは経験だよね。
昨日「冷めたペペロンチーノのおわび」って、熱々の麻婆豆腐作ってくれた。私好みの、辛さは控えめの花山椒強め。
褒めるのは私の特権じゃないのに褒めまくった。単純に好みに合わせてくれるって、嬉しいね。
熱々とは行かないまでも、まだまだ思いは冷めてない。
まぁ自分語りでもさせて。
私は二次創作BLを書いている所謂文字書きというやつだ。ハマるカップリングはいつもマイナーで、上記SNSに10件あればいい方、酷いときは私が初投稿なんてこともある。
小説を書き始めたのは中学生の頃からだ。書き始めた理由なんてそれはそれは不純なもので“絵が下手だから”の一言に尽きる。当時の私はイキっていたので小説なんて誰でも書けるし、私でも書けるっしょwwwと思っていた。
その時の小説は「」でとじた台詞の最後に。を入れていたし視点の統一もされていなかったし描写なんて台詞20個に対して一行、起承転結なんてありもしなくて話の流れもいきなり飛ぶ、文体も構成もひどい物だった。
それでも学生時代は暇さえあれば小説を書いていて苦手な情景描写は好きな作家の書き方を真似したり、雑誌の編集をやっていた兄からアドバイスをもらったりしてずっと書き続けていた。絵が描けないから、という理由で書き始めたが、なんだかんだ小説を書くこと自体好きだったのかもしれない。十数年かけて書き続けて、それなりのものが書けるようになった。
そう思えたのも最近ハマったジャンルでそれなりに評価されているおかげだ。
最近大手ジャンルにハマり、……まあ案の定カップリングはマイナーなのだが世間で言うマイナーカップリングというほど数は少なくない、むしろ多い。神に感謝。
大手ジャンルにハマれたおかげか、小説を投稿すれば一晩でブクマは3桁つくし、同人誌を出しても3桁売れる。まあそれは表紙依頼をしているからかもしれない。でもすごい快挙だ。今までのジャンルではブクマが二桁に届けばすごいことだったし、本も身内分と合わせて二桁捌ければいい方だった。その数でも嬉しかった。
問題はそこまでいっても上記のSNSのランキングに入れないのだ。どういうこと?
ツイッターのフォロワーたちは「デイリーランキング入れました!ありがとうございます!」って言ってるのにどういうこと……?私が投稿しているサイトってもしかして違う……?
それもそのフォロワーが桁違いにブクマ数が違う作家なら納得してたけれどブクマ数は私と同じくらいか最終的に私の方が多い。何故……?
そこで筆を折ったりフォロワーに対して僻んで僻んで噛みつくくらい出来ればツイッターで拡散されるような学級会の話題の一つにでもなれたのだが如何せん私は平凡な人間ゆえそこで筆を折るほど繊細な精神は持ち合わせていないし(多分持ち合わせていたならもっと繊細で綿密な文章が書けていたんだろう)悔しくなって、「うおおお、やってやるー!」なんてなるほどの情熱は持ち合わせていない。
そういう人間だったなら、ここから這い上がってデイリーランキング一位を取りました!とかここに書けたのだろう。でもそんなこと絶対起こりもしないしやる気もない。そういうやる気がある人間はえらいね。
電脳少女シロちゃんの後輩で、世界初男性バーチャルYoutuberのばーちゃるがプロデューサを務めるユニットだ。
彼女達は最初は2Dで活動していたが、登録者5万人達成で3Dモデルをもらえるという条件で活動し、
やっぱり3Dになると実在度が上がるため、3Dになれた瞬間はとても感動したし、今でもあの時の喜びを精彩に思い出すことが出来る。
そんな彼女たちの魅力は、やはり同じばーちゃる学園という学校に通うため、みんな仲良しというアニメのような設定。
きららアニメのような甘ったるいいちゃいちゃを提供してくれる。この前の4人映画同時配信などは、仲良し女子高生と年下の女子中学生が
きゃきゃうふふしながら映画を見ているという言わば日常アニメ2.0と言っても過言じゃない新時代のエンターテイメントになりうる
そんな甘ったるい世界がある日風雲急を告げる。
あるメンバー。ここではY.Tさんと呼称するが、Y.Tさんが自身のtwitterのプロフィールをすべて消してしまうという行動に出た。
ちなみにその日は別のメンバーK.Iさんの誕生日配信が行われていた。内容は割愛するが、とても満足のいくものだった。
その余韻も冷めやらぬ中、上記Y.Tさんは深夜にどうしても我慢できない事があった。戦ってくると謎のメッセージをtwitterに投稿。
以後詳細はなく、一体何があったのかと周辺は騒ぎ立てたが特に結論も出なかった。
ちなみにこのアイドル部だが、予定はきっちり前日に発表。一人一時間。ゲリラ配信なし。アーカイブは基本残すというかなりユーザーフレンドリーな
そのアイドル部において、ゲリラ配信を実施。この異常事態を前に周辺は最悪の事態を想定していたが、内容は特に語ることはないので割愛させてもらう。
ただ、そんな事は裏で話し合って後で文章で出せばいいのではないかという内容であった事は特記しておく。
その内容に対して別メンバーK.Cさんが不満を表明。なぜなら次の日は更なる別メンバーM.Mさんがファーストソロライブを実施する事になっていた。
また週末には自身のメインのイベントが控えているという大事な時期であったからだ。
そんな大事な時期に空気を悪くしたY.Tさんへの怒りはごもっともとも言えるであろう。
もちろんK.CさんもY.Tさん同様に運営に思う所はあったであろうが、そこを我慢していたという事は察せられる。
そんな中、配信を予定だった更なる別メンバーC.Pさんが、お話をしてくると配信を中止。
その後K.Cさんが少しだけお話がしたいと、配信を実施。上記Y.Tさんに対して今は頭を冷やして第三者を交えて時期が来たら話し合おうと提案。
お気づきだろう?
きららアニメのようなきゃっきゃうふふも、みんな仲良しのような甘ったるい空気もないギスギスである。
昨今の鬱展開が挿入されただけで炎上するアニメ業界から見ても異常なギスギス感だと言える。
そもそも、我々が見ていたきゃっきゃうふふな姿は虚構だったのであったのか?
そうではないと信じたいが、虚構に近い物であったと言わざるを得ないとは思う。
その上で今の状況を改めて見てみよう。はっきり言おう。コンテンツとしてとても面白い。
確かに毒にも薬にもならない日常アニメではなくなったが、起承転結で言う転の部分で引きが凄い。物語としてとても続きが気になる。
ここを乗り越えて彼女たちがどうなるのか、とても気になる。早く続きを見せて欲しい。
物語なら結でみんな仲良しに戻ってハッピーエンドであるが、果たして。
その限界集落は、スマホゲージャンルである。大昔にサービス終了の憂き目にあったゲームである。紆余曲折あって、最近プロジェクトにまた動きがあり、少しだけ盛り上がってきている。
前作からゲームをやっている人は、ゲームの再始動に歓喜した。途中で終わってしまったあのストーリーの続きが読めると思っていた。
前作とはキャラクターの設定が大きく変わっているところがある。それは話の構造上仕方ないところもあったが、キャラ崩壊が著しく見るに耐えない。
そしてやけに文語体で書くので違和感がある。文章が音読する用に書けていない。
ストーリーも、10ウン章までやっておいてまだ話を引き延ばすつもりらしい。話の盛り上がりとしてはまだ起承転結の起にしかたどり着いてなくて、なんの解決もしていないのに。
特徴的な言葉の多用もあるし(ファンの間では一時期それを揶揄した言葉も飛び交った)全体的に、読み進めるのが辛いストーリーになってしまった。
お世辞にも褒められない出来だと思う。少なくとも、もうお金は落としたくないと思ってしまった。
だがもっとクソなのは、そのストーリーでも公式を褒め上げていく信者オタク達だった。
気持ちはわかる。一度終わったと思ったプロジェクト、また再開したなら、いつかいいものが読めるだろうと期待してしまう。
続いて欲しいからこそ、クソストーリーでも褒める。続いてくれないと好きなキャラクターのたどり着く終着点がみられない。
でもそれ、ほんとにそこまで褒められるもの?いくらなんでも限度があるでしょう。ほんとにまともにその話、面白いと思ってる?国語の授業やってきた?マジでこのストーリー、クソだよ。
この信者オタク達は押しが強く、人が適当に呟いた考察にも噛み付いてくる。好きなカップリングには秒で反応する。他のジャンルに比べても、閉塞感が異様で気味が悪く、私はTwitterなどでそのゲームの感想を呟くのをやめた。
あんなクソストーリーを生み出したライターと、ゴーサインを出してる制作側が諸悪の根源だが
ゲーム全体は嫌いになりきれないが、しばらく離れていようと思う。ライトユーザーが離れて、またサービス終了になりませんように。
仮面ライダーのやつは、今回は見に行くつもりはなかったんだけど、友人から「見とけ、笑えるから」と言われたので見に行ってみることにした。
twitterなどで若干否定的な意見も目にしていたけど、つまりそれが「笑えるから」ってことなんだろうなと、ギャグ映画を見るつもりで見に行くことにした。
ドラクエの方は、シリーズ中5が一番思い入れが深くて、SFC版からPS2、DS、アプリと、ハードが変わるごとにやっていて、半ば原理主義者化している自覚があり、また小説版も大好きなので、その辺のゴタゴタからも見に行くつもりはなかったのだけど、twitterで「5点満点中マイナス100点」等、あまりに酷評されているから逆に気になった。
そんで、今日たまたま時間が空いて、ライダー映画の後にちょうど良い時間の上映があったこともあって、はしごで見てきた。
と、ライダーの名前を出しておいて何だが、今回の話にライダーは余り関係無くて、バーターで付いてくる戦隊の映画の方の話をしたい。
(ライダー映画は、突っ込みどころの多さも含めていつも通りの、安定した面白さだったので、特に語ることはない)
で、その、ライダー&戦隊映画を見た後でドラクエの映画を見たのだ、という話をしたいのだ。
まず、ドラクエの話をしたい。
散々な酷評が聞こえてきていたのと、後記する理由でハードルがガン下がりしていたのとで、期待値はマイナスだった。二時間の苦行になるだろうと思っていた。
事実、始まって10分ほどの間は、心が10回くらい折れそうだった。
リメイク時に後付された設定がさもSFC時代からあったかのような改ざん!!
っていうかそこまでゲーム画面でやるのかよ!!そのまま最後までゲーム画面流せばいいじゃねーかもう!!
あれもこれもすっ飛ばすのかよ!!
ゲレゲレかよーーーーーーー!!!(ゲレゲレ派の皆様すまん、プックル派なんだ)
ドラゴンオーブはそこにはねーーーーーーーーーーーーえ!!!!
ヘンリーそんな奴じゃねーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
ラインハットほったらかしかよ!!!!!!!妖精の国すっ飛ばしたからサンタローズに春が来てねえじゃねえか!!!!!!等々。
いや分かってるよ2時間で話まとめるためには仕方ねぇよ、でもさーでもさーーーと心の中の原理主義者が泣いていた。
しかし、綺麗なグラフィック、迫力の戦闘、懐かしい音楽、佐藤健の流石の演技(直前にライダー映画を見ていたとおり、特撮畑の人間でもあるので、特撮出身俳優のアフレコに対する判定は甘々な自覚はあるが、「あ~電王だ~」と思う瞬間は一切なかったので、さすが佐藤健だと思う)に押し流されるように時間は過ぎていく。少なくとも(心の中で原理主義者が泣く以外の)時間経過に対する苦痛はない。
原作と違う点に突っ込みは入れたいと思うが、時間内に話をまとめるためには仕方が無い。
例えば、ヘンリーのキャラが違うとは言っても、SFC時点で我々に許された解釈の範疇ではあるように思う。
リメイク版には仲間会話があるが、SFC版でNPCとして交わした会話はわずかだ。ああいう解釈をしていた人が、まあ、いなかった訳ではないかもしれない。ギリギリ。
リュカのキャラクターは全く小説版の「リュカ」ではないが、「どこかの誰かが操る主人公」としては、誰かの頭の中にはああいう主人公もいただろう。
ビアンカフローラの選択。そんなに簡単に「自分の本当の心」なんて分かるか???とも思ったが、一応、フローラがいいならまあよしとしよう。
個人的に、特に回収もされず、一番残念だと思ったのは「娘ーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
・・・まあ、これも仕方が無いだろう。大人の世界には予算とかの問題がある。
普通に考えて5のストーリーを「正しく」映画化しようとすれば、5章仕立てくらいにしないと終わらないだろうから、「どう二時間にまとめるか」も見所だ。文句を言うより楽しんだ方が得だ。
後半のプサンの「今回はそういうことになっている」的なメタ発言も、嫌いな人は嫌いだろうが・・・と思いつつもクスリとした。
ここまで超好意的に受け止めていたが、流石に「えええええーーー」と思った。
ついでに、「あ~~~~~~~~~~~~~これオタクが発狂するやつ~~~~~~~~~~~」と酷評の理由も理解した。
確かにちょっとグサッときた。いい年してこんなところで仮面ライダーの映画からドラクエの映画はしごして見てる自分の胸にグサッときた。大人にはなれてねぇわぷー。
しかし、その後の真実の暴露により、前半で心の中の原理主義者を殺した、気になるポイントの数々が全て伏線として回収された。
幼年時代をゲーム画面でスキップしたことも、リメイク版の設定のはずなのにSFC版に存在していたかのような扱いだったことも、ヘンリーのキャラクター解釈も、なんであんなに解釈が違うのに「リュカ」なのかも、ビアンカとフローラの選択の顛末があんなんだった理由も、プサンのメタ発言の訳も。
もう、なんか、ここでぞわーっとした。
気に入らないと思ってたことの全てに理由があった(娘の存在のことは置いておく。少なくとも見ているときはそう思ったんだ)。
今まで「どこかの誰かの頭の中にあるドラクエ5の世界を見てるんだな」と思って我慢していた事が、ある意味それで正解であり、また、一気に「どこかの誰かの物語」が、「主人公の物語」あるいは「自分の物語」になった気がした。
その辺は上手く言語化できないが、体感としては「うおおおおスッキリーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
最近は予定調和的なハッピーエンドが約束されているライダー映画ばかり見ていたので、ついぞこのところ体験していないカタルシス。
その後に登場したキーアイテムがロトの剣だというのももう、細かいことは抜きにしてたまんねぇわという感じ。
確かにあの瞬間、主人公は自分だった。子供の頃からドラクエと共に育った自分自身だった。あの一瞬、まさしく「YOUR STORY」だった。
(後で冷静に思うと「自分の」物語だと思うには物語の解釈が違いすぎるが、あの一瞬はそんな細かいことはどうでも良かったのだ)
そして、「経験した冒険は、確かに本物だ」というメッセージこそが、本当に我々に向けられたものだったのだろう。
大人になれ、現実に帰れ、そんな風に言われることが多い社会だけれど、我々が「ドラクエ」から貰ったものはそんなありきたりで薄っぺらな言葉で踏みにじれるようなものではないはずだ。
と、言われているはずなのに、一度発される「現実に戻れ」というメッセージの前に「そんなこと言われたかったんじゃない!!!!!!」って発狂するオタクが多いのはちょっとこう・・・オタクのメンタル弱すぎじゃねえの・・・という気がするが、まあそれは現代社会では仕方の無いことでもあるし、今回の本題ではないんだ。
言いたいのは、一本の映画として見たときに、よく出来ていたじゃないか、ということなんだ。
確かに、もう5の物語は身体に染みついてしまっているから、全く5の物語に触れたことがない人にとって、提示されている情報が十分だったかについては冷静な判断ができない。
ストロスの杖のあたりとかは説明不足だったようにも思うが、まあ、「息子が頑張って探した石化が解けるアイテムである」くらいは伝わっただろう。
(ちょっと使い方それェ~~~?!!と思ったりしたが)
(ルーラの辺りは怪しいかも知れないが、「ルーラ」といえばワープの魔法である、というのは有名だと思いたい)
二時間でまとめる為にはどうしても大幅なカットが必要である、そのためにカットされたり設定が変更された部分について「そこをカットするのかよ・・・!そこをそう変えるのかよ・・・!」という視点で気に入らない箇所を除くと、「え~~~~」と思った部分は大概、ラストで伏線として回収された。
その、ラストの展開それ自体が気に入るかどうかはともかくとして、5のストーリーを知っていればいるほど「あれっ?」と思う箇所には、大体理由付けがされている。
長い話をカットした時にありがちな「えっその話いつしてた??」みたいなのも、多分、なかった、と、思う。(なにせ冷静な判断ができないのだ)
一人の男の一代記になってしまうので、ストーリー全体が駆け足感あったのはまあ、仕方が無いと思うが、それも設定を知った後なら逆にリアルだ。
もちろん、二時間に納める為にカットされた部分、変更された設定について、文句を言おうと思えばいくらでも言える。娘はどこへ消えた。
ラストの演出については、これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうなとは思った。
「ドラクエを見に来たつもりだったがSAOだったか」と思ったりもした。
「これをドラクエで、しかも5でやる意味はあるのか」みたいな批判もあるだろうと思う(これは、はっきり意味があると思うが)。
「5のファンとして、納得できるかどうか」の話であって、「映画自体のクオリティが極端に低い」ということではない。
それなのに、あたかも「映画自体のクオリティがめちゃめちゃ低いから見に行かない方がいい」みたいな言説ばかり飛び交っているのは非常に残念だと思う。
CGは徹頭徹尾圧倒的に綺麗である。(ドラクエ5らしいか、は置いといて。。。)鳥山明の絵とは遠いが、動いて居る彼らを見ていれば全く気にならなかった。
物語や設定が破綻しているということもない。もちろん重箱の隅を突けば色々出てくるだろうが、世間一般の映画と比較して特段トンデモ展開という訳でもないと思う。虚無でもない(後述)。
(ただ、主な比較対象がライダー映画であり、あれはトンデモ展開をやってナンボみたいなところがあるので、若干ふつうの人より「トンデモ展開」判定は緩いかも知れない・・・その辺りの自信はちょっとない)
とはいえ「好き嫌いは分かれるな・・・」「文句の言いどころがいっぱいあるのは分かるな・・・」とも思ったので、薦める相手は慎重に選ぶ必要があるのはわかる。
たぶん、元からこの作品はオタクの方を向いて作られた映画ではないんだろう。
(まず、オタクの方を向いているならちゃんと声優を使うはずであるし、そもそも3DCGにしないだろう)
友人にこのクソ長ったらしい感想をもう少し縮めて伝えたところ、「子供の頃ドラクエやってたパパが、懐かしいっつって子連れで見に行って、そんで夏休みの間にソフト買って親子でやってね、ってことだろ」と言われたが正にターゲット層はそこなんだろう。30~40代の子持ち父親(あるいは母親)。ちょうど小中学生の頃ドラクエ5をスーファミでやっていた世代だ。(だからこそ、今「5」が選ばれたのだろうと睨んでいる。3以前だとリアルタイム世代がもう少し上になってしまうし、4は5章構成で話が長すぎる。6以降だとまだちょっと若い)
「現実と向き合え」って言われるのが何よりも嫌いなオタク(と、あとフローラガチ派)は見るべきではないと思うが、まさしく「子供の頃ドラクエが大好きだったが、今はまあ子供もいて、そこそこ大人やってます」って人には是非薦めたい・・・・・・いや、そう言うタイプの人は最後のどんでん返しでカタルシスを感じてくれなそうである・・・ある程度「ゆうしゃとしての自分」に思い入れがないと・・・だがそう言う人は得てして現実と向き合うのが嫌であり、あるいは原作からの改変が些細なことでも許せないタイプ・・・実にジレンマである。
(・・・と、そのようなジレンマを抱える構造になってしまったことが「失敗」といえば「失敗」かもしれない)
また、この流れをもって主人公を「リュカ」としたなら、確かに久美沙織に対して何かしらの仁義は通すべきだと感じた。その一点においてマイナス100点である。
5の主人公=リュカの図式を作ったのは間違いなく小説版であろう。(もし万一、「リュカ」あるいは「リュケイロム・エル・ケル・グランバニア」の名がエニックス(当時)サイドから提供されていたのだとしたらそれを明確にして欲しいし、作者があのような(慎重な)声明を出す以上、命名は久美沙織側だったのだろうと思っている)
製作委員会におかれてはその辺は本当に仁義を通して貰いたい。この素晴らしい作品に、そんな事務的なことで味噌が付いて欲しくないと思う。
で!!!!!!だ!!!!!!!!!!実はここまでの長ったらしい話は全部前段であるっていったら怒る???
何でここまでドラクエ映画を大絶賛するかっていうと、作品自体が(人は選ぶものの)素晴らしかった(のに世間の評価がだいぶ偏ってるから、いっちょこっちは絶賛しとこう)っていうのは大いにあるんだけど、その直前に見た、見てしまった戦隊映画があまりに、あまりにも虚無だったからというのも大きい。
虚無映画のダメージがまだ残っているうちに見た為、通常時の1.5倍くらい面白く感じた...と言う可能性が否定しきれない。正直なところ。
(ブースト効果がなくても十二分に面白かったと思っただろうが、ここまで熱狂的に、最高に面白かった!!!!と思ったかどうか、怪しい)
というわけで「虚無映画の後にドラクエ見たら予想以上に面白かった」って話がしたくてドラクエの話始めたら思ったより熱が入ってたらしくてすっげー長くなったごめん。
でもこの後また長々虚無映画の話をさせてくれ。誰かに聞いて欲しいんだ。
「5点満点中マイナス100点」の栄光はまさに今年の戦隊映画みたいなもののためにあるのではないか? ドラクエではなく。
いや、戦隊映画については多くの人々が「ライダー映画のバーター」程度にしか見ていないのだろうと思う。
だって毎年バーターで、ライダーは一時間、戦隊は30分と相場が決まっている。ライダー単体の映画は大人1800円キッチリ取るが、戦隊単体の映画は大人1200円だった時代もある。
最近は戦隊単体の映画は期間限定上映になってしまったほどだ。悲しい。
だから、毎年大した期待は掛かっていないし、つまらなくてもその後のライダー映画が面白ければ何の問題も無いのだろう。
現に、今年のライダー映画に関する評判は、良い物も悪いものも合わせて耳に入る。つまり、それだけの人数、戦隊の映画も見ているはずなのだ。
しかし、誰も話題にしない。あんなに虚無だったのに!!あんなに虚無だったということを誰も口にしていない!!!その程度の興味すら抱かれていないのだろうか・・・それとも虚無すぎて何も言えないのか・・・
あるいは、「名作」とまではいかずとも、通常のテレビ放送の二話分くらいの時間を使えるのだから、ちょっとしたスペシャル回くらいの話はできる。
テレビ放送を見ている時よりはちょっとわくわくした気分で楽しんで見られて、特撮映画のことだから突っ込みどころも多いが、概ね「楽しかった楽しかった」と思える作品がほとんどだ。
(折角の「劇場版」がそれでいいのか・・・という話は一旦横に置いておく。今は、多くは求めまい)
少なくとも「早く終われ・・・」と祈ったことは、(毎年見ている訳ではないが、6~7本くらいは見ているはずだ)一度も無い。
それがだ。今回は半分より手前くらいのところから「早く・・・終わらないかな・・・」と魂が吸われていたのだ。
確かに、今年の戦隊はあまりちゃんと見ていない。が、それは過去の戦隊においても同じ事が言える。
(おおよそキャラクターや敵が何者かくらいは知っているが、毎週毎週熱心に見ている訳ではない。これはライダーも同じだ。友人たちと話のネタにするために流し見しているくらい。そこまでガチ勢ではない)
だから、「例年より話が分からない」「例年よりキャラクターに思い入れがない」という点で「面白くない」訳ではない。
「特撮映画」というジャンルには独自の文明があるので、割合トンデモ展開が許される。
(実際のところファンが「許して」いるかは知らないが、平成だけでも20作品にわたってトンデモ展開をやり続けながら絶対的コンテンツとして君臨しているのだから、許されていると思っていいだろう)
突然東京がひっくり返って江戸時代になろうが、突然信長が蘇ろうが、突然歌って踊ろうが、サーカスを始めようが、見た目は大人頭脳は子供だろうが、侍もいるし天使もいるし忍者もいる。タイムスリップも日常茶飯事、作中における原理原則の多少の無視もよくあることだ。今更騒ぐようなことでもない。
「展開がトンデモすぎる」「作中の設定が無視されすぎて変」という話でも、ない。
六千五百万年前からいきなりタイムスリップしてきた人類(的な生き物)が居たら、まずは文明の違いに腰を抜かすところからじゃないのか???とか
六千五百万年前の文明発達しすぎだな?いやそれは作中設定があるからいいとしても、こっちの部屋はロストテクノロジー仕様なのにあっちの部屋は旧
だからこそ若い人は今のうちから資産運用しましょうね、ということなんだろうけど。
まずは、起承転結の「転」だけを取り上げて先導する馬鹿。そして、扇動を信じ込んでしまう馬鹿。ついでに、わけも分からず一緒に騒ぎ出す馬鹿。みんな馬鹿。
騒ぐポイント違くない?
ちなみに現役世代、一ヶ月5万円で暮らしてます。もちろん住居費は別ね。だから冷暖房は使わないよ。夏は室温38度だよ。冬の風呂は週一だよ。貧困層であるという自認はちゃんとあるよ。もちろん超氷河期世代だよ。
老後年金2000万円たりないとか。年寄りは夫婦ふたりで食費6万5千円だってよ。俺ひとりで、1万2千円。ちなみに都内。
年寄りは夫婦ふたりで「その他消費」で5万4千円。俺ひとりの一か月分の生活費なんですけど。
団塊世代はずいぶん豊かな生活してんね。現役世代から搾り取った年金で。「バブル崩壊の責任を現役世代に押し付けて、年寄りが逃げ切ろうとしてんじゃねーよ」とか「今後のワカモノの救済を議論しよう」ならわかるんだけど、騒ぐポイントがみんな馬鹿。
▽金があるならそれを使うのは当然。小説を楽しませてもらっておいてタダに飛びつくのは卑しすぎる
漫画村とかなら確かにその言い方でいいと思うんですが、無料公開が大前提のWeb小説ではさすがに無理かなと。
無料で読まれるのが困るなら公開しなきゃいいだけの話ですが、大半の作品はそうなってませんよね?
▽あと大半が書き直されていることもあるので「ほぼ同じ内容」とは限らない。
でも同じ世界観、同じキャラクターであるのは変わりないのであれば、そういうコレクターアイテムに金を使う趣味は、俺にはありません。
▽この世に「起承転結のある物語」しか存在しないなんてつまらないだろう。
それは確かにその通りだと思いますが、俺はそういう作品に金を払いたくはないですね。
▽大同小異の作品が無数にあることで「ほとんど同じ筋の上でこの部分がこうだったら良いな」などと細かくチューニングしていけるところに面白みがある。
これはなるほどなと思いました。確かにそういう需要はありそうですよね。
▽ほぼ同じ内容がWebで読める
金があるならそれを使うのは当然。
あと大半が書き直されていることもあるので「ほぼ同じ内容」とは限らない。
▽一冊読んだ、という満足感がない
「一冊のなかで起承転結を作らなければいけない」という制約があっては作りえない物語を読めるというところに価値がある。
この世に「起承転結のある物語」しか存在しないなんてつまらないだろう。
「ほとんど同じ筋の上でこの部分がこうだったら良いな」などと
当方、月に10~20冊くらい小説を買う本読み(ただし電書)。よく買うのは一般文芸(エンタメ。純文系も読むけど最近は買ってない)、ライトノベル(電撃、MW、スニーカー、甲羅とか。タイガも読むかな?)とか。
なろう系は買ってなかったんだけど、ちょっと思うところがあって、数冊買って読んでみた。Web上ではランキングに載るものを流し読みする程度。
▽ほぼ同じ内容がWebで読める
この時点で買う意味なくない?
「Webなんぞで長文は読めん! 紙で縦書きされてないものは読めんのだ!」みたいな人ならそりゃ買うかもだけど、俺のように電書読みで、Web小説も普通に読む人間からしてみたら、Webでほぼ同じ内容のものが読めるなろう小説に、金出す意味がよくわからない。
イラストがあるだろ、と言われたらそりゃそうかもしれないけど、それなら俺はコミカライズを待ちます。
▽一冊読んだ、という満足感がない
紙幅という制限が存在しないなろう小説が元だからしょうがない面もあるんだけど、俺が読んだいくつかの作品はそういう傾向があった。
つまり、ゲーム的世界観の中でダラダラ、何かやるたびに周囲から「すごいですねー」「さすが〇〇様」って言われてるだけで一冊終わる、的な。
ラノベでも一般文芸でもそうだけど、普通の小説は一冊の中で起承転結があり、盛り上がりがあり、何らかの大きな問題が解決されたりするんだけど、なろう小説にはそれがないケースが多い。
もちろん、全てがそうとは俺は言わない。一冊の中で綺麗にまとめてるなろう出身小説があることも確かだ。
しかし、大体のケースでは、一冊読み切っても「ああ、読めてよかった」っていう満足感がない。
ずっとダラダラ読み続けることができるWebならそれでもいいかもしれないけど、お金を出して買う一冊の小説でそれをやられると、はっきり言って「金返せ」と言いたくなる。
これはなろう小説が共通して抱えてる問題かもしれないけど、はっきり言って、似たような話がなろうにいくらでもある。
大体の話が、
じゃん?
そりゃクラス全体転移とか、VRMMOモノとか、追放とか、バリュエーションが色々あるのはわかる。だが、それを認識した上でなお、上記の二点の説明でほぼ事足りる小説ばかり、というのはいかがなものか?
もちろん、そういう小説が悪いとは言ってないし、ちゃんと書けてる小説なら読みたくもなるだろう。ぶっちゃけ、叩かれがちな「賢者の孫」とかも俺は楽しんで読んだ。
しかし、似たような小説ばかりなら、累計上位の作品だけあればいいじゃん、になっちゃわない?
そんな小説読むくらいなら、転スラでいいじゃん。
孫でいいじゃん。
このすばでいいじゃん。
オバロでいいじゃん。
巷に溢れる書籍化作品を流し読みすると、どうしてもそんなことが言いたくなってしまう。
(まとめ)
そんな感じで、大方のなろう書籍化作品は、買う理由がないなぁと俺は思ってしまう。
子供が生まれたので一緒に子供向け番組を見る機会が増えたが、主に海外の子供向けストーリーもの番組が苦手だ。
海外の子供向けストーリーもの番組はだいたいテンプレートがある。
子供である主人公たちが子供故の失敗をするけど、最終的にはなんとかなってめでたしめでたしで終わる、というものだ。
このテンプレの「子供故の失敗」が辛くて見てられない。番組によっては(リサとガスパールとか)とても丁寧にこれから失敗しますという伏線を張ってくれるので、その伏線を見ているだけでもう居た堪れない。
失敗した子供の心情を考えると辛いという話ではない。子供のやらかしに巻き込まれる人のことを考えると辛いのだ。
一方で日本の番組はみんな仲良くしました、という起承転結のないお話で気持ちとしてはとても安心して見ていられる。まぁ、こういうのが日本人の同調圧力を作っているのだと言われたらそうだろうなとも思うんだけど。
人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
たしかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作の意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長のワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者に特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃんが人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメの物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。
俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者、イエイヌを追い詰めサーバルに撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマを普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者は初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNSに悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事がホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思います。ネットの考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。
俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています。けもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコしながら見ていました。確かに、ドラマとして登場人物の紆余曲折が一つのテーマに収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン
一話の最後でスケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思います。ホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます。
キュルルちゃんの立場から見て、イエイヌの価値観を尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇のトリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的な理由はないでしょう。
強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放を宣言しています。けもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画風演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じます。しかし確かにセルリアンとの戦闘はけもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています。戦闘はけもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘はテンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思います。ホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります。
最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います。監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしかに結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任が制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?
キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアルな世界観でフレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうが、スッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思います。ケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。
ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばんちゃんの成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズが生存の理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマはどうでしょう。ケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんとサーバル・カラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善の余地は合ったかもしれませんね。
いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語の意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要なときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。
ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
絵柄が大きく変わっていることは初見でわかります。SNSで憤慨しているファンも監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファンが必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じものを要求した、そのように見ています。けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。
(付録)
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。
面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。
別の場所のコメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレー・ハヤシライス・ビーフシチュー」くらいの印象です。
読者の感想で作品が完成するくらいの「足りなさ」のある未完成の状態でわざと投稿します。
例えば、
・続きが気になるところで終了して読者に「この先、どうなるの?」と言わせる
・クライマックスを途中で切りあげて別のシーンにする。一番おもしろいところは読者の想像力で補わせる
・小さいボケを繰り返してから、むちゃくちゃな大ボケで終わらせて読者にツッコませる
・二者択一の選択で終わらせて「私ならこっちがいい!」「いや、こっちのほうが」と読者同士を討論させる
・ある世代では非常識だが、別の世代では常識となるジェネレーションギャップを描く
・謎と謎を解くヒントは書き、謎の答えは描かない(考察好きの読者を狙う)
・読者は他人から「こんなもの読んでるのぉ?」と後ろ指さされるような作品には感想を書きたくならないものです
・読者に名前を覚えてもらう。名前を忘れるほど長い期間を空けない
・自分の「好き」を読者に問いかけるというのを何度も繰り返す。作者の性格を覚えてもらう
・特定のひとりの読者のために作品を作る(その人からは必ず感想がもらえるように)
(4) 「読者のために書く」ということの大変さを理解する
・作者が楽しいと思って書いたものは、読者にはウケないことが多い
「描写がリアルにできた」「起承転結にキレイにまとめられた」といった作者の楽しさは創作者の目線であって、読者の目線ではない
・創作の知識やノウハウを身につけると、読者の目線から遠ざかる可能性が高まる
読者の目線を追求することが「読者のために書く」ことにつながる
・創作の楽しさ≠読者の楽しさ
・自分の中で意識して「創作の楽しさ」と「読者の楽しさ」を切り替えられることが大事
自分がただの読者だったときに何を楽しいと思っていたか?を思い出す
書いてて思ったけど、これだけじゃないな。もっとたくさんありそう
私は今を輝く関西ジャニーズJr.のひとりに夢中になっている。今年に入ってから急に関西の波が来た。何故だかは分からない、でも今まで干されていた関西かやっと世間からのスポットライトを当てられた。物凄く嬉しい事だった。1月の後半頃急に関西ジャニーズJr.のRIDE ON TIMEの密着が決まった。ツイッターでは「嬉しい」「キンプリの流れに乗れてる」そんな風に書いてあった。私もそう思った中のひとりだった。
2月8日第一回目の放送。私は胸を弾ませながらしっかりと視聴した。関西らしい雰囲気、関西ならではの家族感が伝わってきて微笑ましくなった。次回も楽しみだな、早く来週にならないのかそう思った。
2月15日第二回目の放送。やっと観れる、今回は推しが多く映るかな。そう思いながら放送時間になるのをそわそわしながら待った。案の定私の推しが映るのは多かった。可愛いなそう純粋に思った。エンドロールと共に流れた次回予告の映像。誰かが怒られている。そこから雲行きが怪しくなった。私の心もザワザワしていた。
2月22日第三回目の放送。やっとあの場面の真相が分かる。心の奥にあるザワザワをスッキリさせたい、そう思いながら見始めた。その場面がやってきた。3人が怒られている。そしてその中に私の推しもいた。怒られていた内容は彼らの練習に対する意欲についてだった。私は単純に「やらせ感」が見えた気がした。どうせ番組側が起承転結を求めてるのだろう。きっと台本があるのだろう。そう思った。でもどんな形でも怒ってくれる人がメンバー内にいてよかったねとも思った。そして怒られてすぐそれぞれに行動を起こし始めた3人を見て感動した。放送を見てスッキリした私はそのまますぐに寝た。次の日いつも通りに起きてツイッターを開いた。一番に目に止まった推しの名前。皆んなが私の推しの事を話していた。なんだろうそう疑問に思ってすぐ検索を掛けた。名前を打ってすぐ、横に「やる気」「態度」と書かれていた。半分状況に追いつけないまま私はその文字をタップした。タップした瞬間並ぶ私の推しに対しての不満、いや大半が悪口だった。怒られた後楽屋から出てくる3人を写した場面についての話。どうやら私の推しの態度が悪かったらしい。私はそれを見て「たったそれだけの事で」と最初はそう思った。でも時間が経つに連れ段々ヒートアップしていく彼への意見。私は2つのツイートに怒りを覚えた。1つはいつもダンスにやる気がないと言うツイート。これに関しては怒られた話とは全く関係がない。確かに彼はスカしたダンスをする。けれどそれは大先輩からの意見をしっかりと活かして健気にそれを守っているからこそのダンスだ。それを知らない他グループから「やる気がない」そう思われるのは正直覚悟していた事で仕方ない事だと思っていた。けれどそれをツイートしていたのは彼のファンだった。彼のダンスの理由を知っているはずなのにどうしてそんな事が言えるのか。意味が分からなかった。2つ目は彼が出てくるとき舌打ちをしていたと言うツイート。私はすぐに見直した、何度も何度も巻き戻した。けれどそんな事実はなかった。どうしてこんな嘘をつかれなきゃいけないのか。腹が立った。それと同時に悔しくもなった。そして3人の中の2人(此処ではA君B君と記載する)A君は楽屋から出てくる態度が物凄くよかった。側から見た私でもそう思った。でもB君と私の推しはさほど変わらない態度だった。それなのにネット上に名前が乗るは私の推しだけ。自分の推しを褒める為だけに彼が利用されていた。「B君は○○より態度悪くないよね」なんて比べられた。普段からチャラい彼だからこそ此処まで偏見を持たれるのか。正直自分の推しを煽てる為だけに彼が非難されている。その事実が私にとっては精神を不安定にさせる材料でしかなかった。いつの間にか頬に伝う雫。その雫は止まる事を知らなかった。この涙は悲しい涙、みんなはそう思うかもしれない。そして私以外に泣いた彼のファンが流した涙は悲し涙だったのかもしれない。けど私の涙は悔し涙だった。その日私は学校を休んだ。一日中泣けばこの悔しさは消えると思った。何も変わらないのに。思った通り何も変わらなかった寧ろ悔しさは募った。編集側の悪意までも感じた。彼への非難は止まらない毎秒毎秒誰かが彼を悪く言う。ついには彼のファン、私たちの事も悪く言われた。「○○のファンは甘すぎる」私は疑問に思った。何処が甘いんだ。確かに彼には悪い部分が無かったとは言い切れない、けど普段の性格からの偏見を持たれて思う存分叩いて自分の推しを煽てて楽しんでいたのはお前らだろ。それに対して私たちが意見を言うのは許されないのか。頭沸きすぎだろ。そう思った。それは何日間も続いた。
そして迎えた3月1日最終回放送日。彼への偏見を持たれたまま始まるストーリー。そしてメンバー2人が遠くへ行ってしまう。私の感情はごちゃごちゃだった。そして終わったRIDE ON TIME。結局番組は何を伝えたかったのか。私にはそれが分からなかった。今まで観て来た番組の中で一番意図が掴めなかった。
その夜私は彼が初めて雑誌の丸々1ページをひとりで飾った時の文を読んだ。そこに書いてあった彼の「グループの否定的な意見を背負うのは自分」その言葉に余計胸が苦しくなった。顔が良いから運良くグループに入れて運良く此処にいるなんて言ってる人もいたが、いつ消えてもいつ干されてもおかしくない。数が多いが故埋もれるJr.もいる。そんなジャニーズJr.の中で彼が此処まで来たのは、スポットライトを浴びる事が出来ているのは確実に彼の努力があっての事だ。もちろん私如きの人間が彼の努力を分かっている。そんな偉そうな事を言う気はない。だけど努力なしではどう考えても此処まで来る事は出来ない。それは関西ジャニーズJr.を見てきた全員が分かっているはずだ。私の推しは偶に儚く脆い表情を浮かべる時がある。何を思っているのか分からない。けれど彼の中にはなにか強いものがある。それだけは分かった。メンバーとの別れ、泣きながらも必死に最後まで歌い切った。お客さんにぎこちないけど笑顔を見せ続けた。そして自分のグループを「家族は俺が守らないとダメ」なんて言い切る彼は必ずここから成長する。しないわけが無い。私はそんな彼を見守っていたい。一緒に成長して行きたい。誰が何と言おうと所詮私は自担至上主義だ。偏見を持たれる事がこれから先も他のメンバーよりも多いと思う。でもその度に泣いて欲しい。悔しい思いをして欲しい。弱みを見せて欲しい。マイナスな事だらけじゃ無い。泣いた君は強くなれる。誰よりも強くなれる。いつか彼が輝けるステージへ。私にはそう願う事しかできない。
ストーリーを書くこと自体が目的になってるから失敗してるんじゃない。
前の作品の評判が良くなかったのも、そこが悪かったんだと思うけど。
漫画やイラストを描いてるくらいだから、書きたいのはプロットじゃなくてキャラクターでしょ?
やりたかった話っていうのも、ただ設定を複雑にしただけなんじゃない?
漫画、それも同人に必要なのはストーリーでも設定でもなくキャラ。
好きなキャラが喜んだり悲しんだり驚く状況を用意して、それを繋いだり膨らませて、起承転結にすればストーリーだよ。
前回の作品のページ数は関係ないし、過去の作品とのストーリーかぶりも関係ない。
ファンとか仲間とか、周りの反応にビビッて、いろんなアイデアに手を出すのをやめてるだけな気がする。
他人に反応をもらえるってことは今までもファンがいたんだろうし、作品を書けば人がついてくるって実力はわかってるんだから、好きなものを書けばいいだけだと思うけど。
もっと気楽に頭を柔らかくしなよ。
平成期末の12月、さりとてただの西暦2018年末も暮れゆき。Evernoteを整理(という名目の現実逃避)していたら、去年の末に増田に投下しようとして書き上がらないまま放置されていた漫画レビューが転がっていたので、供養として投下してみようと思う。細かい表現ばかりが気になり頭をひねっていたら知恵熱を上げてしまって、結果として放り投げてしまったのだった。けど1年寝かすと、ほんとうどうでもよくなるもんだ。今年こそ、ちゃんと書こう。
以下、そのままコピペ。
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年の瀬ということで、あっちらこっちらで総括的なものが始められている模様。そういうところにブコメをして推しを布教していくのもいいが何せ100文字で多くを語ることができない、ので徒然に増田に投下してみるわ。あー、明後日の納会行きたくねー(社内ぼっちなので)
お題は表題の通り。コミックスとして発刊されてるものが対象。発表時期は昨年以前のものでも、今年私が買ったものなら対象(流行に疎いものでね)というどこまでもジャイアニズム全開のまとめだ。誰かのこころに刺さるものであれば幸い。
【1席】
https://www.amazon.co.jp/dp/B077GQL19W/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
ヤマシタトモコはモノローグのうまさが前からそれなりに好きではあったのだけど、話や画づらがガチャガチャしていてあまりハマり切れてなかったところがあって(「BUTTER!!!」とかね)。
だが今作は主人公(の片割れ)が小説家ということもあって純粋に持ち味である「語り」が活きてきたな、という感じ。(ベタなフィーヤン的おセンチメンタリズム…ではあるのだが)
気が付いたらハマっていて、「2巻ないの?」となった。
両親を亡くした思春期の子を叔母(母の妹)が引き取る…なんて話だったら往々にして、「世の中を斜に見ているひねくれもの」という設定が「思春期の子」役にあてがわれることが多いんだけど、本作の「田汲朝」ちゃんはとても素直な性格なうえ、人見知りしない(齢34を超えて未だに他人とまともに話が出来ないおばさんにちょっとコミュ力分けてくれよ)。この人物造詣がなにより良かった。
それと、読まないと絶対わからないような細かいポイントで恐縮だが、「乾いた寿司は殺す」。この一言でもう、やられてしまった。
【2席】
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B071J6PGN6/ref=series_rw_dp_sw
4月ごろに部屋探しをしていたので、結構感情移入しながら読んでた。
(割と長いシリーズなので、ご存知の人も多いだろう。ということで概要ははしょりまーす)
主人公・沼ちゃんはようやく「ここだ」という部屋に出会い、マンションの売買契約を結びました…ここまでが3巻のあらすじ。
で、それを受けた4巻だけど、平常運転です。相変わらず、沼ちゃんと周辺の人々のパートと、市井の人とその人の暮らす部屋にまつわるお話のパートとを行き来しながらお話は続いていきます。
いつもどおり続くけど。
例えば、娘に命かけたものは何か、と問われた母親が「出産」と答えるエピソード、それを受けた娘は「じゃあ、私、一生懸命生きなきゃだね」と応える。
「いつもどおり」は日々のなか暗渠のようにずっと流れ続けていて、ある時まれにそれが顔をだす。その輝きのなんと素晴らしいことか。
8年暮らした部屋を出る沼ちゃんのエピソードに、5月、10年暮らした部屋と街を出た自分自身を重ねて、少し泣いてしまった。
【3席】
https://www.amazon.co.jp/dp/B0721MBYT7/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
ようやく「森・青木」以外の物語を書いてくれる気になったか…というところで、デビュー作「水と銀」以来ファン歴18年の私としては感無量です。
お話としては、相変わらずぶっ飛んでて良かった(吉田先生的には平常運転)。
ヘタレむっつりストーカー気質おじさん×ツンデレ狐目女子、萌え(何やら言語中枢がやられてしまってるようだ)
「淫らな青ちゃんは勉強ができない」①・②・③・④・⑤ カワハラ恋/講談社
「男はケダモノ」という世界観で生きている女子高生が、ピュアな男子高生に好きになられて…。
一人妄想を膨らまして、勝手に怒ってみたり悶えてみたり童貞にマウンティングしたりする主人公・青ちゃんを「一番ケダモノなのはお前やないかーい」と愛でるのが本作の趣旨です。
とはいえタイトルでわかる通り、「出オチ」系のマンガなので、そろそろマンネリがきつい。最新刊では青ちゃんに想いを寄せる女子高生も現れ、百合展開もあり…次の一手に期待。
「お前はまだグンマを知らない」①・②・③・④・⑤・⑥・⑦・⑧ 井田ヒロト/新潮社
これも出オチ系。マンネリが気になるかな。でも、グンマのこと、好きになれたよ。
ラブ焼きまんじゅう。
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(追記)
「違国日記」は3巻まで出たね。いいボルテージを維持しているので、引き続き期待しているけど、ヤマシタ先生の描こうとしているものの全容を想像するに、きちんと終わるまで何年かかるだろう、と思う。
巻末の「○○のそれぞれ」で脱線してる暇はないっすよ。
対照的に「官能先生」は2巻でもう物語の核心に触れつつある。次巻、起承転結の“転”となるエピソードがくるかな。「恋風」も「夏の前日」も5巻だしな、物語を転がすのが本当にうまいって思う。
ビジネス的にはどうなのかと思うが、「作品の質が全て」という信条なのでそれは無視。
(「おまグン」はWeb版くらげバンチで読んでるけど、単行本を買うには至らない)
日々は、進んでないようで、過ぎていく。たまに過去の自分が書き散らかしたものに出くわすたびにその少なくない変化を驚かされるばかりだ。