はてなキーワード: 賛否両論とは
美術館は東京都歴史文化財団が都の指定管理者として運営。小室副館長は取材に「こういう考えを美術館として認めるのか、とクレームがつくことが心配だった」と話す。定期展は今回で七回目だが、来年以降、内容によっては使用許可を出さないことも検討するという。
表現の自由の根幹部分を抑圧している。従軍慰安婦を題材とした写真展が会場使用を拒否されたように、異論が出そうだから展示させないという対応
確かに、従軍慰安婦を題材とした写真展については 賛否両論どころか、否しかないのかもしれないが。
否定論しか無いから、展示させない。というのは、違憲状態も甚だしい事態だな。
正に言論の自由を否定している。政治的に不利益な考え方だから、国家が否定するというのは。国家としてはありえない対応だ。
ただの手紙が芸術品かどうか?というところには議論の余地はあるけど。クレームがつくから展示できないというのは理由としては存在していてはいけない理由だろ。
個人的には従軍慰安婦や靖国問題が芸術品として展示されることは不愉快極まりないが、国家としては展示を拒否する理由にはならんだろ。
返信たいへんありがとうございます。
意見は多種多様あってよい、というか逆に全員同じ意見という方がよっぽど気持ち悪く不健全だと思いますので、賛否両論あった結果、総体として何らかのバランスが取れてくるというのが大事だと思いますから、「多数派の意見が盲目的に支持されている状況について思う所があって投げてみた」というスタンスについては、大変共感します。
id:tripleshot でございます。
まず前提として、
・個人的には「他に選択肢があるのであれば」あえて (健康被害がないレベルだと考えられても) 添加物を使用している製品を買いたいとは思っていない (と前置きつつそれ以前のレベルで味や食感の好みから食パンはもっぱらフジパン本仕込みばっかり)
と記しておきたいと思います。
それから、「重要なのは、我々のコメントを見た人達が、自分の目と耳と口と頭とで判断する、という事」が大事と思うのは同様ですので、そのためブックマークでは否定意見に対する対立意見としての情報提示、という意味づけで解説及び参照先を示し、「議論をするつもりはない」ためにあえてidコールもしませんでした。(賛否両論のコメントが並ぶ事になるので、あとは読む人の解釈となります)
「国も企業もマスコミも消費者をだまくらかしてきた例はあります」
コレはもちろんその通りでしょう。
情報の発信元がどこなのか、誰なのかによって、ある程度は情報の質、真偽についての期待度というのは変わって来ると思います。
2ch のスレに書かれた匿名の意見と、例えばそれなりの企業が正式に発行するプレスリリースとでは、誰もそれを同列に扱いはしないでしょう。
ただし発信元によって真偽の期待度は変わりますが、それがそのまま真偽を担保することにはなり得ません。
大企業が自社に都合の良い捏造プレスリリースを出す事も、2ch のスレに関係者からの真実のリークがあることもあるでしょう。
大事なのは、「鵜呑みにせず」自分の頭を使って検証したり裏を取ったり数字や関連情報を確認して真偽を確かめる事ですよね。
そして、発信元が誰なのかと同様、掲載媒体が Web なのか新聞なのかテレビのニュースなのかといった「メディア」によってその真偽をはかることも大変に危険な事だと思います。
Web に書かれていることなら信用ならない、新聞や書籍や論文に書かれたことであれば信ずるに足りる、というのは、大変に危険な判断基準だと思います。
むしろ Internet の発達によってそれ以前とは比べ物にならないほど情報が入手しやすくなり、自分で調べる事が容易になったとも言えますが、団塊世代より上あたりでは未だに「テレビのニュースで言ってたのだから本当だ」と完全思考停止で鵜呑みにすることが少なくないですから……。
話が逸れましたが、臭素酸カリウムの使用については、諸々調べて考えた結果、毎日大量に食うのでもなければ問題ないだろう、と考えています。
(むしろそこまで大量にパンを食うのであれば塩分や脂質の摂りすぎの方がよほど健康被害があるでしょう)
3.11 以後の低線量被爆に関するあれこれや、最近ではトランス脂肪酸についてのあれやこれで騒いでいる人の中には、「とにかく毒/有害なんだからダメゼッタイ!」と「量の問題である」ことを理解せずに思考停止でヒステリックになっている人が少なくない印象で、そう言った方々にはぜひ天然自然でナチュラルなお水を試しに一日10リットルばかし飲んでみて欲しいなと思う今日この頃です。
「なんで他国の反応を気にして靖国神社に参拝するかしないかを決めなくてはならないのだ!」という意見を目にすることが多い。信仰を自由を侵害しているのではないんじゃないのか、と。
信仰に関して他国に云々言われる筋合いはない、という意見はもっともである。靖国に参拝する多くの人だって、国体護持を唱える右翼じゃなく単に戦没者哀悼のためであろう。動機が、政治的な、つまり不純なものである人はむしろ少ないと思う。だって一個人が靖国に参拝したって政治的意味は何もないもん。
だけど、やっぱり政治家──とくに首相クラス──になると、やっぱり話は別でしょう。
サヨクの人びとは、「A級戦犯が祀られているから」とか「あの戦争は侵略戦争だったから」首相を非難するだろう。私としてはその意見を支持したいと思っている。
しかし、「A級戦犯」という言葉は東京裁判によって押し付けられたものであり、その言葉自体が非常に政治的なものであることをサヨクは自覚すべきだ。
さらに、「侵略戦争」であったかどうかは、もう一つ厄介な歴史認識の問題に移行してしまう。
そうすると、靖国参拝の問題は「東京裁判を支持するかどうか」とか「歴史をいかに認識しているか」という別問題にシフトすることになってしまう。
認識の相違によって、議論はつねに並行線を辿ってしまうことになるだろう。
私は靖国参拝問題については、もっとスマートに言えばいいのだと思う。
靖国が「問題」になるのは、つねに「政治」という場においてである。
政治においては、人は「行動の動機」によって評価されるものではなく「行動の結果」によって評価されるべきものであろう。善意から悪政を行ってしまったり、自らの野心から徳政となることは歴史上珍しいことではない。
たとえば「生類憐みの令」なんかは前者だよね。
靖国問題はしたがって、それが私たち国民にとって有益であるかどうかという点から見ていったほうがよい。私は首相の靖国参拝は、有益ではないと判断する。
──しかし、そうではないと言う人もいる。産経新聞は、2013.12.28の「産経抄」で、首相の靖国参拝は「国益」につながると言っている。
▼第一は、首相が公約を守ったという事実だ。アベノミクスがうまくいっているのに中韓と波風を立てる必要はない、としたり顔でいう識者は、約束を守らない政治家を見過ぎたのだろう。政治家が自らの発言に責任を持ち、実行に移すのは当たり前の姿であり、「政治力」アップは間違いなく国益に資する。▼米国務省が「失望した」と、表明してくれたのも国益に大いに役立った。日米同盟が永久不変なものではなく、歴史認識ひとつとっても日本が逐一、主張しなければ、中韓のプロパガンダ(宣伝)工作にしてやられかねないことを教えてくれた。▼米国はかけがえのない同盟国ではあるが、国のために命をささげた先人への感謝は譲れぬ一線である。心ある日本人が「嫌米」にならぬようケネディ駐日大使はぜひ、靖国神社にお参りいただきたい。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131228/plc13122803080003-n2.htm
あらゆる行動の結果に収穫と損害があるのは当然だが、首相の靖国参拝を支持する産経新聞が「収穫」を上の二点しか挙げられなかったというのはイタい。
「政治力」についてだが、安倍首相の靖国参拝については次のようなデータがある。
NHKが11~13日、全国の成人男女1千66人を対象に実施した電話世論調査で、安倍首相の靖国神社参拝について「非常に評価する(17%)」という回答と「ある程度評価する(27%)」という回答が合わせて44%で、「あまり評価しない(29%)」という回答と「全く評価しない(23%)」という回答は、合わせて過半数の52%であった。「安倍首相が今後も靖国参拝を続けるべきだと思うか」という質問には「継続するべきでない」という回答が38%で、「続けなければならない(27%)」という回答よりも多かった。
「賛否両論」という表現が正しいだろう。これが政治力の向上につながるとは思わない。産経抄の指摘する第二点についてはあまりに意味不明なので取り上げることができない。ケネディ駐日大使に靖国参拝を薦める部分なんかは、筆者は頭がパーンとなってるのでしょう。
──もうね、ひと言で言っていいと思うのだけれど、靖国参拝は、産経をはじめとする保守論壇が喜んだっていう収穫しかなかったんではないの?
そう考えると、やはりますます首相の靖国参拝は、いかに崇高な動機から行ったにせよ、私たちの役には何も立たず、海外からのイタい視線を浴びただけで終わっただけの行為だと言わざるを得ないのではないかと思うのだ。
まず一つ目、利用者が多くあらゆるタイプの人間の愚痴や意見など多くの人間の思想を収集するのに
便利なのでオンライン上で意見する以上めちゃくちゃ見てもらいたい。
何が違うって完全匿名性で且つYahoo知恵袋やラルーンの様に綺麗事を並べる人間も少ない
要するに自分を常識化するのはおかしいかもしれないけど常識を知っている人が多い。
匿名ならでは有り得ることかもしれないが、賛否両論がバッサリハッキリしている。
これが一番かな、自分のブログで書くよりもトラックバックが付く。
私の思考に対して誰かが何かを思って気軽に賛否をもらえる。
突っ込みどころの地雷原たる一連のツイートだが、いくつか言いたい。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1785362.html
所得の低「そうな」人ほど礼儀正しさを備えているように「思える」という雑なイメージを吐露している。
なぜ雑かというと、所得の低そうな人がどういう人か、礼儀正しい人がどういう人か、
読者に納得のいく意見が述べられていないからである。データや経験のない意見は
その雑なイメージを基に疑問を呈してみても共感など得られるはずもない。
まずは「牛丼 客 年収」などでググることが必要だ。別に論文レベルの
データや参考文献は必要ない。だがそれを補うためには圧倒的に魅力的な経歴が
2. 疑問は時に炎上する
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1499407139
皆さんは上の投書を覚えているだろうか。
新幹線の指定席を買い忘れた壮年男性が空席を求めて指定席ゾーンを彷徨い、
最後は自由席で子連れの母親から席を譲ってもらったという話である。
ペットや未就学児童が指定席に座っていることに疑問を呈する投書であるが、
「虚を突かれ」「座席で居心地の悪さを感じながら」など、
今回のツイートも「僕はこんな疑問を持ちました」という表明である。
が、共感を求めるポーズが滲み出ており、「分からない」という形式の疑問ではなく
「僕/私の言ってることは間違ってますか」という形式の疑問である。
このテの疑問は小町でよく見かける。そして漏れなく炎上している。
3. 不要論は禁止に似ている
たしかに「牛丼屋でごちそうさまなんて本来不必要」と「牛丼屋でごちそうさま言うな」は違う。
だが、世間では「○○なんて不要」という意見は強制の意味を多分に含む。
そんな考えを持った人間たちが街を練り歩く姿をよく見かける。
そもそも140文字という短いフォーマットでは1つのツイートでも
正しく理解してもらう文章力が求められる。殊に本を書いてもいるプロなら尚更だ。
「なぜ謝らなければならないのか分からない」を繰り返していた。
この局面になって炎上する理由が分からないのは他者意識が欠如していると
言わざるを得ない。ここで言う他者意識とは、「この文章を読んで読み手が
どう感じるか」ということだ。
考えてほしい。そのツイートがなぜ炎上したか。なぜ反対意見が多いのか。
かく言う私は反省も謝罪も求めてはいない。求めるのは学習である。
永遠の0の作者なあ……。いっそのこと、思想的には対極の位置にありながら築き上げた業績では足の爪にも及ばない宮﨑駿に対して反旗を翻したのち、著作よろしく華麗に玉砕などして存在感が永遠に0になったら超面白いと思いましたが、映画大ヒットの報を拝見するかぎりそれも難しい様相で、なんとも盛り上がりません。
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2979.html
この記事によれば「風立ちぬ」をべた褒めしたところパヤオからこれ以上ないカウンターでフルボッコ、という状況です。それについてのリアクションは寡聞にして知らない。そもそもパヤオに対する反骨の相もあるのかないのか……あるいはガン無視でしょうか。このテの人材がこうもボロクソ言われたら自尊心が刺激されないわけが無いのだが……。
さて、俗にいう“特攻”、自国民の消耗にもとづいた戦法を肯定的にとらえようとしている時点でコイツの視座が現実から乖離して形而上的ステージへと突入しつつあるのは明快であります。特攻を美化し、賛美したものを書物にしたため、売り物にしてお金を儲けている。劇中でも「史実を知らない現代の若者」に蔑視のまなざしを向ける配慮も忘れないと聞きます。映画は大ヒットだそうですから、さぞおいしいものを毎日たくさん食べているのでしょう。戦没者300万人をおかずに供して日本人の感動を誘い、その涙とともにこぼれ落ちたお金の力を使って召し上がる食事の味とは、果たしていかばかりのものか……。“第二次大戦中における日本戦没者のおよそ5割は餓死”という話とあわせて考えると大層感慨深いものがあります。
そのような彼の勢いはツイッターでもとどまるところを知らず、やたらと威勢のよい佞言を垂れ流してリツイートを稼いではえびす顔、というわけですからいよいよもって香ばしい。俺は当初、これほどの大ヒットを叩きだした小説家なのだから、賛否両論あるにせよ洞察に満ちた示唆をツイッターでも与えてくれるのだろうとおもっていたが、彼のツイートからプンプン漂ってくるのはネトウヨフレーバーの小物感でした。なに、これ。ただのクソウヨじゃないか……。彼の著作はゼロ戦モノなのに、申し合わせたように嫌韓嫌中というのも見逃せません。
これが、この人物こそが、本邦で話題沸騰中の小説家その人である。
この煉獄めいた事実には絶望と諦観を禁じ得ません。水嶋ヒロの話題で盛り上がるほうが5億倍マシだ……。
――敗戦濃厚な状況下にあって、それでも敵に立ち向かわねばならないという時に“お国のために命を捨てる”ということが美しいのか、あるいは愚かしいのか、そんなものは平和と飽食のなかに生まれ育った俺が一言に断じることは出来ません。が、国家という視点で眺めてみると、替えの効かない人間を100%使い捨てる「特攻」という手段が戦略的にはあきらかな悪手であり、絶対に死ぬという前提のもとで14,000名もの人的資源を消費してなお局面を打開することかなわず敗戦に至った、その現実を忘れてはなりません。
ところで、戦地に赴く兵員も守られるべき国民の一部です。まともな軍隊は無意味な命の消耗を決して行いません。生還が期待できない作戦に従事させるなどありえないと聞きます。なればこそ、最低限の技術すら充分に仕込まず、戦略的確信もロクにないまま、垂れ流すように人間を消費していった大日本帝國という組織が、もはやマトモに判断する頭を持っていなかったのは想像に難くない。というかそんなもん作戦でもなんでもなくて、呪術か狂信の域です。氾濫した川に人柱を捧げるとか、そういう次元の愚行。20世紀の話ですよ? そんなクソ『作戦』に殉じて死んでいった人間を「護国の英霊」だなんだと奉じてただただ祀り上げたり、「日本を護ってくれてありがとう」などと謝意を述べたりするのは、まず現実に即していないという意味において死者の耳に届くものではありません。
特攻では日本を守ることが叶いませんでした。われわれは、国を挙げた狂乱の最も哀れな犠牲者である彼らについて、ただただ哀悼の意を捧げるしかありません。まったくの非論理性に基づいて死んでいくことを強いられた彼らについて、国に身をささげて護ってくれた偉人だと位置づけるのは、どう取り繕ったところで美化だし、また身勝手にも程があります。
もし靖国神社におもむいたなら、特攻で死んでいった霊前に際して感じるべきは、決して感謝の意のたぐいであってはならない。ましてや参拝者自身のナショナリズム(笑)のズリネタとするなどもってのほかです。お前自身の事なんざどうだっていいわ。われわれは彼らに対して『あなたがたのような無意味な犠牲を今後二度と生み出すことのないよう、いついかなる時においても冷静な判断力を保持し続けるべく不断の努力をする』と誓わねばなりません。彼らの無意味な死に意味を与えたいのなら、彼らの教訓から悪い部分を点検・評価をし、処置・改善を施し、よりよいみちすじを計画し、そして実行する。そうやって戦後の我々がつねに賢く在ることで、彼らに報いねばなりません。それができなかったからこそ戦前の日本はあれほどの愚を犯したのだから。
――とは申せ、この国においては困難に取り組む姿勢や努力そのものが崇高であって結果は二の次三の次、という精神論が未だに根強いので、自爆攻撃が二度と繰り返すべきではない馬鹿げた愚行だと確信するにいたるのは少々先の話だとは思うのだけれども。とりあえず日本人が特攻隊員を美しく思っているうちは、いまなお旺盛なサービス残業はきっと無くならないでしょう、残念ながら。ていうかよくポツダム宣言なんて受諾できたもんだな日本……。
そんなウワサの永遠の0さんですが、述べたようにツイッターの閉じた輪っかの中で自らの考えを発信しては、同好の士(と書いてネトウヨと読む)のさんざ輻輳しきった肯定のレスポンスを受け取ってほっこりしているようであります。RTとfavの数字だけみたらまぁよくも次々と数百RTを連発するなあという感じですが、実際のところ汚泥が汚泥と混じりあって発酵していく毒の沼地のような醜悪さです。日夜この国のトラフィックを増大させてプロバイダの業務を1%くらい煩雑にしておりますが、その様子はナメクジ同士の交歓にも似た淫靡さで、読んでて正直恥ずかしい。とあるツイートなどでは『有事の際には9条論者を最前線に立たせ、彼らの物言いで戦争を止められるかどうか眺めればいい』などと超ドヤ顔で言いだす香ばしさ。うーん、これは上手いことを言ったつもりなのかな? たいへん粘着味あふれる皮肉センスで小生は惚れ惚れいたします。膨れ上がった自尊心が伺えます。かようなトラフィック上のクソですら、山ほどの(とはいえ3ケタ程度の)RTをされてしまう魔のフィードバックに取り囲まれた裸の王様こと氏は、お勤め時代ならいざしらず、今はもう自分の見たいものだけを見て生きているに相違ありますまい。実に幸せそうです。人間かくあるべきというお手本のような状況です。われわれ日本国民は、かの映画を見ることでこんなおもしろ人材を養っているのだという現実にそろそろ向き合う覚悟が必要でしょう。くわばらくわばら。
――以上は多少のオブラートに包んだ物言いでしたが、ただいまの気持ちに偽りなく申し上げるならば、先の大戦からこのようなスイーツ受けする感動話(笑)しか導きだせないこのようなボケナスは、有事の際においてまず靖国ならびに千鳥ヶ淵で1億回陳謝ののち速やかに最前線に赴き、一億火の玉の嚆矢と成り果てて欲しいと思った。氏の著書に感銘を受けたフォロアーが80人くらい同行するかもしれませんし。
映画の方ですが、あんな見え見えの地雷をだれが踏むかって感じなので5億円くれたら見たいです。ツイッターで感想をつぶやいた人々がおおむねスイーツ(笑)層とジャニオタ的人材である点には少しホッとしています。単純に「泣ける感動モノ」という文脈で受け止めているようです。とりあえず、根底をうごめくクソウヨ史観に運悪く感染してしまったインフェクテッドがそう多く見受けられないのは不幸中の幸いでしょう。人々はいまだ中庸なり。多分。
私は公共セクターで広報に関わる仕事をしています。数年前から、いわゆる萌えキャラクターを活用した広報をやっています。
萌えキャラクターを活用した広報は、うちの仕事では今までにないぐらいの話題性が出ていて継続的にやりたいというところです。
また、今までの心積もりとしては、男性向けと女性向けを交互に展開する方向ですすめてきました。
確かに、スプツニ子さんの指摘のとおり、人工知能学会の紀要の表紙は差別的であると非難されてしまう要素はありました。また海外で活躍されているスプツニ子さんやメイロマさんのご指摘のとおり、海外からの指摘として、ああいった日本的なサブカルチャーに依拠したものは理解され難く、非難の対象になることも、おっしゃる通りです。
特にメイロマさんの指摘の通り、リスクマネジメントの観点から言えば、公共性のある舞台では避けるべきというのはもっともな見解であると思います。
さて、どうしてもオタクカルチャーの文脈は異性を性的に見る視線が脱臭できません。それは、その出自からも明らかなことです。宮崎駿ですら、その少女を描く視線にオタクあるいはロリコン、あるいはマザコンとしてのリビドーが見受けられるでしょう。
しかし、いや、だからこそというべきでしょうか。そのようなリビドーとファインアートの反対としての技巧主義的な姿勢に裏打ちされ、同時に作家性(=ファインアート性)を抱き込みながら、大衆向けポップカルチャーとしての地位を築く原動力となりました。
もう第4四半期です。予算の執行も迫っています。私はイラストレーターやデザイナーを選定しなければなりません。
しかし、ここで下手を打てば。つまりスプツニ子さんやメイロマさんなどに批判的に取り上げられ、ネットで賛否両論が話題になれば、この方向性は二度と日の目を見ないでしょう。
最近は、コンテンツツーリズムや萌えおこしといった文脈で同業他社さんからの問い合わせもあります。
ここで、私がコケれば、公共セクターがサブカルチャーを活用した広報や事業を行うことに、大きな影響ではないでしょうが問題が生じるでしょう。少なくとも、私の所属する組織では日の目を見ることは無くなります。育てたキャラクターは倉庫の奥に仕舞われ、死に至るでしょう。そして、これは今まで、後ろ暗い趣味であったオタクを世に認めさせてきた諸先輩の顔に泥を塗ることにもなります。
しかし、冒険を嫌い、安全な道を選び続けてきた公共セクターは、とてもつまらないものしか生み出せず、時代や社会にそぐわない「誰も文句を言わないが、誰も得をしない」事業ばかりやるようになっています。いや、現実はもっと悪くて、過去の経緯からの利益誘導に堕しているものが多くあります。
しかし、それが組織はもとより、個人のリスクマネジメントの観点からも妥当なのでしょう。私はそれが嫌で嫌でたまりませんが、しかし、ここで私が怒られ、出世の目がなくなるぐらいで済むならいざしらず、新しいことをやろうとする多くの仲間に水を差すことになるのは避けなければならないと考えてしまいます。
正直言えば、私はスプツニ子さんに恐怖を抱いています。この私の泣き言だって、要するに彼女の顔色を窺っている、あるいは畏れ多くも内心を忖度しているにすぎません。
私はどうすればいいんでしょう。今まであったような、ありがちで文句を言われない、でも誰の記憶にも残らないような広報をすべきなのでしょうか? それとも、リスクを甘受して、新しいものを目指せばいいんでしょうか?
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家に帰ってみたら、すごい勢いで言及されていてびっくり。とりあえず、はじめてtwitterアカウント作ってみました。
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1 釣りじゃないの?
釣りではありません。
2 萌え絵が否定されているのではなくて、差別的なモチーフが批判されているのでは?
確かに一義的には、ステロタイプな女性像が描かれたことによって、差別的であると判断された、ということが問題であるというのは認識しています。
しかしながら、フェミニズムの観点から検討すれば、それだけではない問題が明らかになると思います。
そもそも、ある性別が特定のジェンダーロールに縛られるという過程においては「まなざし(視線)」と「客体化」ということが問題になります。女性がジェンダーロールに縛られてきた過程においては、女性が客体、選ばれる性として扱われてきたということがあります。女性が主体化せずに配偶者に付き従う、といったようなステロタイプな見方は客体化という作業なしには存在しえません。また、その客体化はまなざし(視線)によって形成されるものです。
翻って「萌え」というカルチャーを見れば、ササキバラゴウを引用するまでもなく、少女を消費することによって成立してきました。
仮にジェンダーロールに反旗を翻すキャラクターを想起しましょう。古典的にリボンの騎士でも考えてみてください。さて、今、あなたがpixivで「女騎士」というタグで検索すればどういう絵を見ることができるでしょうか?
つまり「まなざし」や「客体化」というプリミティブな作業を経由すれば、ジェンダーロールに従っているかどうかに関係なく、私たちは少女性を食らい尽くすことができます。そして、萌え絵というのは、まさにそのようなカルチャーに根差しているということを指摘しなければならないでしょう。
やりようはいくらでもあります。ネタの絡ませ方や、出し方一つでおもしろい方法はいくらでも考えられます。
少なくない作家が今の時代にオリジナルはないというような事を言っていますが、逆に言えばエピゴーネンの組み合わせというのはまだまだ余地のある分野です。
4 コンサル入れたら? めいろまさんやスプツニ子!さんに頼んだら?
5 追記
仕事上はこんな突っ込んだ話なんかできないし、差別問題への深い理解を求めるというのも難しいのが現実です。そのために、公式見解的なものは、木で鼻を括ったようなものになりがちです。
だから、この問題が公共セクター業界で真剣に扱われ、前向きな解決策が出るなんて思わない方が良いでしょう。
奇しくもめいろまさんがこの件についてマニュアルとコンサルティングによるリスクアセスメントの価値を論じましたが、まさにそういった形で外部有識者という免罪符を買うか、あるいはマニュアル化された手法で乗り切るしか、組織においてはできません。
非常に残念ですが、現実はそのようなところです。
なんで定義がオレオレなんだよ。インイヤー型のステレオヘッドホンの事をイヤホンって呼んでるのかもしれないが
古い世代からすると、つまり 元々の定義で イヤホンが意味するものって
コレだぞ
http://info.axis-f.com/?eid=16
メーカーが言っている
インイヤー型のステレオヘッドホン は 音質にこだわっているものという意味だ
補聴器を含め 周囲に音がもれず、個人的に音を楽しむものという意味なら イヤホンだ。
言い方を変えると、じゃぁ スピーカー部分が何センチまでならヘッドホンで 何センチ以下になったらイヤホンなんだよ
http://www.pro.logitec.co.jp/pro/g/gLBT-AVNB01ABK/
定義できないだろ
言葉は誰が決めるのか?というのは賛否両論があるが、少なくとも メーカーや業界団体がおおよそ意味を定めているものは、それに従えよ。
http://anond.hatelabo.jp/20131218192932
う~ん、具体的なイメージが思い浮かばないなぁ…なんというか、多分こちらが典型的な「~べき族」として今まで生きてきたからだと思うんだけどもね。
しかし、わかることもチラホラあったりするので個人的に思考をアウトプットしてみたり。
そして「やるべき」なんて考えるからますますマイナス部分にしか興味がなくなる。そのことに気付いても、「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る。
単純な話なんだけど注意点が1つある。「そうは言っても好きだけじゃ生きられない」。そういう型にはまった思考に陥るとすぐ振り出しに戻る。これには「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考ではなくて、次のような自己反論で対処しよう。
この"「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る""「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考"って部分は最近気づいたところ。結論から言うと"べき思考"では中々幸せになれない気がする。特にそれが「好きなことをやる"べき"」って思考になるとね。
これは実体験なんだけど、僕はネットでは賛否両論な人物茂木健一郎っていう脳科学者の言、「人間の脳は自分の興味あることをハードルを超えながらし続けることで快楽物質(ドーパミン)が生じ、更にそれをするようになる。だから好きなことをもっとして更に増やせば脳はどんどん活性化するしアウトプットのレベルが上がる。逆に、何かを強制されてやらされると脳は活性化しないしアウトプットもレベルが上がらない」っていうのを中学くらいで読んでずっと信仰してきたわけね。
好きなことをたくさんやる「べき」なんだと。勉強やスポーツを好きなことに含める「べき」なんだと。
しかし最近になって、「結局"~べき"思考になってるんだから強制されてるのと同じじゃないか」ということに気づいた。好きなことをするべきするべき…って呪文みたいに心のなかで8年くらいつぶやき続けて、たどり着いてしまった自己矛盾。この8年なんだったんや…という絶望感は半端無かったね。
もちろん、この8年脳がフル回転してドーパミンドパドパ出て充実したか、って言うと全くそんなことなく。むしろ「好きなこと」すらも積極的に取り組もうとしない自分に自己嫌悪しながら虚ろに過ごしてきたなぁ。
繰り返しになるけど、だから「好きなことをする"べき"」って思考は、昨今の「好きなことをして生きようよ、気楽に生きようよ」という風潮に沿っていこうとすると、結構陥りがちな幸せになりにくい系な考え方なきがする。
それに気づいた後、じゃあどうすりゃいいんだろッて思ってた所にこのダイアリーがきたので一つの参考になりそう。結局やるべきことを嫌々ながらもやらなきゃいけなくて、それが幸せへの遠回りに見える近道なのかな、って思ってたので。
3行でまとめると
人は無くて七癖何だからなんか好きなことはある
但し「好きを意識"すべき"」と思わないように注意
ってことなのかなぁと。
賛否両論あると思うし、自分にもきっと自分で気づいていない非もあると思うし、
叩かれると思うが、どうしても不満がたまったのでここに書きたい。
女は事実を都合のよいように曲げる。
配偶者、職場の同僚など、複数の女性に共通して見られるように思う。
その信じ込んだ事実にもとづいて言動を行う。自分は悪くない、相手が悪い、と。
自分も含め、男もやっているのだろうと思うが、なぜか女性のやり方だけが異様に目につく。
女性にその頻度が高いのか、もしくは、例えば男脳女脳でやり方が違うので
ただ、順を追って認識合わせをして、「ほら、違うでしょ?」というとなぜかキレられ、
こちらが悪者のような扱いを受けることに納得がいかなくなったので記念に書いてみた。
同僚の方はロードバランサタイプではなく、処理を分散するタイプか
思っているんじゃないでしょうか?
ngnixやsquidとかを組んで、代理で応答してくれるサーバを
複数用意するような考え方の負荷分散構成で元サーバのファイルを
画像だけでも数万点で何十GBもあるような場合は手入れが簡単で結構効きます。
特別手当が必要な外向け高負荷webサイトの場合は、知識の範囲と、調整にかかる
そこまでやるのは100件に1件くらいで、やり方も多岐にわたります。
実績も豊富で、推奨設定などが明確なためロードバランサを用いた方が
スタートアップが早くなります。同時接続数250くらいがしきい値です。
ロードバランサのキャパシティ(主にネットワーク帯域がボトルネック)を
超えてしまう場合も多く、処理系や画像データなどの分散配置もしなければ
ならない事もあります。
そうかと思えば、ハイスペック機の2重化で十分な現場も多いですし、
分業していて畑違いでやってきたのかもしれません。
通常インフラ屋さんが集中的に取り組むのでプログラマ系の人は知らなくても問題ないかと。
むしろ知らないならその方が都合がいいことも。専門的な実績が蓄積されている中、下手に
動かれると壊れたりします。失敗すると全面的に影響してしまうリスクの大きな部分なので、
最近はAWSなどのサービスも充実してきていますし、ちょうど手分けが出来る分岐点でもあるので
コードを書いて動くものを作る系の人にまで求めない方がいい知識かも知れません。
アップデートサイクルが短く覚えた頃には陳腐化してしまうこともしばしば
負荷分散のパターンは流行り廃りが激しく最新事情は随時調べ直しが必要です。
飲みにいくような仲ならば、不満を抱えるよりも、ここの場合は、
こうやって負荷分散してるなど擦り合わせしておくといいかもしれませんね。
そこまでカバーできる人になってほしければ、調査を依頼する形で知識を得てもらう
と言う手もあります。
知っててもいいけれど手は出せない事も多いです。西海岸までの光ケーブルの接続が
どうなっているかまで知らなくてもできる仕事はたくさんあります。
ためになるってこともありますし、自分と同等であればわざわざ群れる必要も無いという
意見もあります。個人的にはヒアリングしてコードを書く人の場合、サーバ周りは
分からなくてもいいと思っています。#それが得意な人が結構見つかるし手分けが出来る
50人いるクラスだったら50人とも活かせるやり方を模索するのも悪くないアプローチかと思います。
これはあの人が得意だから深く突っ込まなくていいよなどの力加減とか
餅は餅屋に任せて踏みとどまろうみたいな感覚も意識した方が不要な処理をスキップできます。
似たような話だと、ビデオを快適にハンドリングしようとした場合のネットワーク構成があります。
出来る人がいるけど、みんな知っていなければいけない話ではない 手分けして取り組めばインターフェイスは
ここにファイルをアップロードすればうまくいく というところまで簡略化できる など
5人くらいで専門的に取り組めば、残りの45人は特に知識を習得する事なく、別の事に取り組み
一段上を目指せるようなケースです。みんな同等の技術やスキルが必要かというと、そうでもない
ブログの仕組みがあるから記事に専念できるというのも、言われていないけれど、
分業、協力関係みたいなものです。ブログシステム(箱)を作った人と作文した人(本)のコラボですね。
みんなで箱を作るより、5人で箱を作って残り45人で記事を書いた方がいい結果が出そうです。
分業するのも簡単で、箱作るから記事書いてというだけで済みます。
個人の能力にとやかく不満を持つのは結構疲れてしまうので、集団のうち誰も分からないというのは
避けようと中間目標を持っておくと気が楽になるかもしれません。得意な人を見つけておくなど
一部スーパースターがいますが、契約に比べると個人の能力差はそんなに影響しないような気もします。。。
賛否両論あるかと思いますが、人は一定数いて減らないものだから、うまくやろうくらいに思っていた方が気が楽ですよ。
気を病むようならば、組織から査定しろと言われていない限りは人の能力の評価はしない方がいいかもしれません。
やりたいし、できそうだけど、契約上できない事(予算が足りなかったり)やらなくてよいこと
あとほとんどのシステムは、変数がなんだか分からない人をモデルとしてチューニングされていきます。
システムものを使用するユーザにはそういう人の方が多いんです。作った人の高度なテクニックや技術よりも
さて、今回も感情の整理と現状の把握と、いつかこの気持ちを思い出せるように。
それでは始めましょう。
彼女とお別れしてしばらくが経ちました。
意外とそんな気分にもなれずに大人しく過ごしております。
彼女ありきの浮気などといったどうしようもないレベルの名言まで飛び出す始末です。
本当にどーしよーもねーなー。
某SNSで彼女がいい別れができたって書いてて(ネトストこあい)
それだけが、まぁ救いです。
少し渡す物があったので、彼女にメールをして、それでまた連絡するって言われて、
あぁ、これでもう自分から連絡することもないのだろうな、と思いました。
意外なくらい、淋しいくらい、彼女の居ない日常に慣れていきます。
ただ、気付けば身の回りの物に貰ったモノが意外と多くて、
彼女の存在が日常に根付いていたのだなぁ、愛されていたんだなぁと思います。
そして、不在を強く感じるのです。
今もまだ好きだけど、戻れるとかは思っていなくて、こうやって過去になっていくんですね。
別の側に居てくれた人が去っていってとても淋しく思ったり、
気分転換に久々に行ったコンパが人生で一番盛り上がらなくて死にたくなったり、
それでもほとんど喋ってなかった女の子が気に入ってくれて後日二人で飲みに行ったり。
飲みに行けばすごく素敵な女の子で、そのままスムーズにホテルに行ったり。
すったもんだでちんちんかもかも。ちんちんかもかもって言いたいだけですけど。
その女の子はどうやら僕を気に入ってくれている様子だし、
可愛いと思うし、一緒に居て楽しいし、セックスは気持ち良いし。でも、それだけ。
好きだなぁとか、付き合いたいなぁ、とかは思えない。
若い頃ならそのまま次にいけたのに、まだちょっとそういう気分にはなれない。
いや、きっとそういう気分になれないんじゃなくて、きっとそういう気分になりたくないだけ。
もう少し、彼女と付き合っていた日々の、余韻に浸りたいんだと思う。
映画のエンドロールの後の感じ。本を読み終えて本を閉じて目を閉じる時のあの感じ。
だって思い出主義者だもの。くだらない感傷に浸るのが好きなのです。
人はずぶとくてたくましいな。ほんと馬鹿だしすごく愛おしいや。
余談ですけど前回書いたアレは、賛否両論ですごく面白かったです。
アレはホント知り合いには見せられない。
自分の知り合いがあんな文章を書いてたら、どんな顔をして会えばいいか分からない。
自分で読み返して、我ながら気持ち悪かったです。
すごく自分に酔っていて、すごく自分大好きな感じが出てて、すごく名文だと思います。
あんな文章は今は書けないもん。あの文章は、あの時にしか書けなかった。
別れたての一人でモヤモヤした寝れない夜の布団の中でこそ、書けた名文なのです。
この文章も、いつか黒歴史となる日がくるのでしょうね。
その日がとても、楽しみです。
或いははてな匿名ダイアリーの使い方。
ここまでのまとめと振り返り、自分の方向性の確認と先輩方への質問と。
さて、とゆーことで先週くらいからはてな匿名ダイアリーに投稿し始めました。
まずね、みんな増田増田って言ってるけど、増田って何を指すの?
はてな匿名ダイアリーっていう場所のこと?その中のエントリーのこと?そのエントリーを書いた人のこと?
あと、トラックバックってして頂いたらそれに返信するのが一般的なの?
ブックマークのコメントには返さないでいいの?フル無視でいいの?
あと、はてな匿名ダイアリーに投稿すると、最初は新着エントリーに表示されて、
そこからブックマークを集めると注目エントリーに表示されて、それでブックマークを更に増やしていく流れなのですかね。
はてな匿名ダイアリーに投稿するより通常のブログに書いた方が人に見られやすいのでしょうか。
広告とか付けたらお金が入るんですか、欲しい物リスト付けたら誰かがくれるんですか。
お金とか色々欲しいです。誰か下さい。
まぁ、ブログの仕組みとかどなたか親切な方が居ましたら教えて下さい。
あ、あと改行の仕方が分かりません、読みにくてすいません。
今まで4つのエントリーを書いて、ブックマークの数は50、10、200、160でした。だいたいですが。
いちよう各種SNSはしてますので、そこに書きにくいことを書いています。
でもこの場所は、純粋にテキストの内容のみで勝負できるから、書きがいがありますね。
一番の力作が一番反応が薄かったり、賛否両論だったり、楽しいですね。
いちようここに書く上での自分のルールとして、リンクを貼らず引用をせず自分の文章だけを書くことに決めています。
その上でいつか自分のTwitterやFacebookのタイムラインに自分のエントリーが流れてきたら愉快だなって思ってます。
今までの反応からするとあんまり長過ぎず、1000文字くらいが読みやすいのでしょうね。
炎上商法じゃないけど、多少は反論しやすいくらいの極論を書いた方が反応は大きいのかも。
せっかく匿名で好きなことを書くために始めたのだから、あんまり遠慮しすぎるのもね。
でも、無駄に人を傷付けたり、人を傷付けることを目的とするような文章は書かないつもりです。
この話をすると、荒れるだろうなぁとは思う。賛否両論有ると思う。
「拉致と核開発問題が解決しない限り、支給する予定はない」
その人達と、北朝鮮の決定に直接的な関係がないやん。おもいっきり言いたいことはわかるけど。
荒れるなーと思うけど。
第2次世界対戦の時に、アメリカに住んでいた日系人が、ひどい目にあう。というのとおじぐらい、すごい良くわかるけど違うじゃん。
※いちおう過去ずっと支給されてきたという歴史と、理由が拉致と核開発だったというところを踏まえて。財政難なら文句をいう気はない。
給付打ち切りで問題が解決する見込があるなら、文句は言わないけど・・・その人達も切り捨てられちゃうだけなんじゃないの?だとしたら、効果がないから意味が無い。
「俺は個人的に好きだけど、嫌いな人間もいるだろうことは予想できるので先に防御。叩かれるの嫌だし」
というヘタレな作戦で
「つまりいいカッコしたいだけなんだろ?ただの優柔不断で八方美人なだけじゃねえか!それを上から目線で言ってんじゃねえヨ!クソが!しね!」
ぼく個人の意見としてはですね、ええ、まあ端的に言って好き、ですね。
私は最終回見てモニョッた人間なのですが、何故自分がモニョッたのか原因がはっきりしなかったので
アクターズスクールっぽいところに俳優や歌手、アイドルを目指して頑張ってる
遙、凛、真琴、渚が居て、凛の提案で発表会か大会みたいのに4人で出て
それが最高のステージだったけど、凛が歌の勉強のためロンドンかどっかに留学したため解散。
しかし、高校になって既にダンスでそれなりに評価されてた怜をスカウトし
新生Free!として復活。しかし、怜は音痴だった…でも、努力してご当地アイドルの大会かなんかで
勝ち上がってついに地方大会決勝!これに勝ったら全国大会!ってなったら
凛が今活動していたグループの選抜メンバーから外されて個人での結果も散々、歌うのをやめると言い出す。
で、Free!の怜以外のメンバーが動揺、センターの遙が歌えないとか言い出す。
もうそんなこと言われたら、怜が凛にポジションを譲るしかない。で、譲る。
最高のステージ、再び!ルール違反!?そんなの関係ねぇ!!やっぱ初代Free!最高だぜ!!
もちろんグループは失格、でも新生Free!の絆もSMK48(鮫柄48)の絆も拗れていた初代Free!の絆も深まったぜ!
~終~
…なわけねーだろ!!
てめぇ、怜や怜ヲタの気持ち考えてみろよ!第一、SMK48の凛ヲタの気持ちも、新生Free!ヲタの気持ちも考えろよ!!
(どうでもいいですが、Free!はSPEEDをイメージしました)
「ハルちゃんのソロが終わった後ステージ上でハルちゃんに抱きついて泣いてて可愛かったー!」
なんて書き込んだら炎上どころじゃありません。もう担降り祭り、リムブロ祭りですよ
Free!のメンバーも続々とブログに意味ありげに「皆さん、すいませんでした。怜、ありがとう」みたいなことを書くのです。
そして怜ちゃんがブログに
「応援してくださっていた皆様には本当に申し訳ないことをしました。でも僕は後悔してません。
これはFree!が本当のFree!になるために必要だったことです。」なんて書いちゃうんですよ。
で、5人での写真を掲載するんですよ…
と、ここまで妄想して何故か勝手に自分の中で昇華しちゃってるんですが
結局、私が言いたかったのは、
いくら追い込まれてても替え玉なんて普通しねーし、第一するにしてもちょっとは考えろよとか
なんか来年も…みたいな雰囲気になってるけど不正しちゃったから来年は無理だろうし、再来年は真琴と遙いねーよとか
テメーら運良く次の大会出られて1位じゃなくても最高の景色見れなくても「やっぱ怜じゃ…」なんて絶対思うんじゃねーぞとか
色々あるんですがまとめて言うと
「視聴者なんて関係なくピッチピチの男子高校生が短く儚い青春に自分たち中心の世界で色々やっちゃうアニメが見たい」と思ってたが
ホント、女は面倒くさい
「賛否両論なのはわかっていました」、っていう後出し辞めよう。カッコ悪い。
あのなあ、賛否両論なのはわかっていました、っていうのは、敗北宣言だよ
賛否両論なんてのはな、意味もなくやっちゃったら、もうそれは「混乱を招いただけ」なんだよ。
トイレの便器を「泉」として美術館に出展する、女性天皇についてTV番組で特集する。
当然「賛否両論」が界隈で起こるだろう。でもそれには意味がある。
「芸術とはなにか?」、「憲法や天皇制」についての議論が、そんなこと絶対に興味のない連中にまで行き渡り
そこかしこで議論が行われることになるからだ。それはまったくもって「意味のある」ことだ。
だからやる意味がある。賛否両論を引き起こすことに、意味がある。
賛否両論を引き起こしたい確信犯(誤用)は、「しめしめ」くらいに思ってないとダメなんだ。
そして、思惑通りいかなかった場合の、失敗のリスクもきちんと引き受ける。
俺たちの描く最も美しいシナリオは「コレ」だったんだ!!!って、胸張ってくれよ。
俺たちのFree!は「コレ」だったんだって。でもそれは受け手にはさほど評価されなかっただけなんだって。
混乱を招いて終わった。それを認めろ。賛否両論とかで逃げるな。
「賛否両論を引き起こすのはわかっていた」なんて言うな。恥を晒すな。
撃たれる覚悟のないファンを撃つと決めたのは、京アニ、お前たちだ。
ドキドキプリキュアの敵がやっていることをやればいい。
ドキドキプリキュアを見ていない人間はまずいないと思われるが、一応説明する。
幹部達は、人間の心に自己中心的で身勝手な欲望が芽生えた所に、そのエゴイズムを増幅させるように囁き、欲望で黒く染まった「プシュケー」を抜き出して「ジコチュー」を造り出す能力を持ち、ジコチューを利用して破壊活動させ、キングジコチューの復活のために必要な「ジャネジー」の収集を目的としている。
以上Wikipediaより敵が行う行動の説明。
一読してわかりづらいため以下具体的に説明する。
クルマも来ていないし、渡ってしまおうかと考える(=自己中心的で身勝手な欲望の芽生え)。
そこで普通は「いやいやクルマが来ていないからって信号無視しちゃだめだ」と自制する心理が働く。
しかしドキドキプリキュアの敵はその一瞬のエゴイズムを抜き出し、増長させる。
この場合だと、信号なんか無視しちゃうもんねーと言っちゃって暴走する敵=ジコチューがつくりだされることになる。
閑話休題。
そうすれば、賛否両論あれど、過激な意見にはブクマがつきやすく、ホッテントリ入りも容易だ。
ああ、こんなにも有用なドキドキプリキュアというアニメはなんと素晴らしいのだ。
見ていない人間は人生を10割損していると言っても過言ではないだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130912120735
なんかMOTHER3の話が増田に上がってて、ふと「なんで3のパーティキャラって俺女とか義足のオッサンとか犬とかへんに奇をてらったキャラばかりにしたんだろう、1や2と同じように、最初の3人は赤い帽子の少年と金髪の女の子と眼鏡がよかったのに」なんてMOTHER3の不満だった点を思い返していたところで、「そういえば小説版のジェフって後天的な事故が原因で義足なんだったな、3のパーティ3人目のダスターと同じじゃん」と今初めて気がついた。
思えば2のジェフの「生き別れ同然の科学者のお父さんがいて、父と微妙に確執があるちょっと育ちのいい感じの少年」という設定も、1のノベライズにおいて久美沙織が造形した「小説版のロイド」の設定がそのまんまだった。
(ゲーム版のロイドの父は息子同様にゴミ箱に入った状態で話し掛けて来る職業不明の気さくな人物である一方、小説版のロイドの父は「ギーグに捕らえられて敵のロボット兵器の開発をさせられていた気難しいマッドサイエンティスト」で、ジェフの父親であるアンドーナッツ博士に非常にキャラが近い。2のノベライズのあとがきによると、あまりにもゲームのジェフの設定が1の小説版のロイドそっくりだったので「同じ子じゃ書くのつまんない」と思ったがゆえに、久美氏はジェフにとんでもないオリジナル設定(※両足の義足とその原因となった事故のトラウマ)を追加してしまったのだという)
1の小説版からゲームの2に、2の小説版からゲームの3にリンクする「3人目の仲間の共通点」を糸井氏の意図的なものと見るのはあまりに突飛すぎるかもしれないが、意図的にせよ偶然にせよ、7年ぶりに思わぬ発見を得て少しいい気分だ。元増田に深く感謝したい。
Amazonで売られている久美沙織のMOTHERのノベライズは「作者はキャラヒイキし過ぎ、女の子(アナとポーラ)がビッチ過ぎ、オリジナル要素入れ過ぎ」とそりゃもうボロクソに言われつつも随分なプレミアがついている。
彼女はもともと凄まじく悪ノリ&長文&脇道癖のある作家であり、かつて小説版ドラクエの4〜6(特に4)を執筆した折などは想定読者年齢層を全力でブッチした筆の冴えを見せつけたことで(主に悪い意味で)その筋では有名である。ゲームでは「なんか魔族の王」程度しか設定されていなかったデスピサロの魔界での鬼畜イケメンぶりとロザリーに対するロリコンぶりを描写するために、実に第1巻の約3割を費した耽美と難解を極めるオリキャラだらけの序章を筆頭に「ドラクエの小説版」という単純な単語に惹かれた全国の無垢な少年少女を疑問の渦と睡魔の淵に叩き落としたものだ。
あれに比べたら小説版MOTHERの脱線ぶりなど屁のようなものであるが、それでも1の地底湖における妙に淫靡な13歳同士のラブシーン、著者本人も認める2のタイトル詐欺(MOTHERではなくBROTHERになってしまった)などは、精霊ルビス伝説を初めて読んだ小学生の頃から意味などろくすっぽ訳も分からず彼女の文章を刷り込まれて育った増田のような重度の奴隷信者には溜め息のひとつで済ませられても、彼女の作風を知らずまっとうなノベライズを期待して本を開いた方々には怒髪天ものであっただろう。
前述のような久美沙織のノベライズ奴隷信者たる増田が、開発中だった64版MOTHER3のサブタイトル(豚王の最期)を聞いて思ったことは想像に難くないだろう。勿論「次の小説版どうすんだろ」の一択だ。
ネタバレをすると、小説版の2のポーキーはゲームと違っていずこかへ逃亡しない。2の小説は一冊で完全に独立完結している。
ゲームよりかなり陰惨な設定を付け加えられ、死んだ方がマシじゃねえかと言う酷い目に遭わせられはしたものの、色々あって小説版の彼は救われ、オネットのはずれの家で弟達と仲良く幸せに暮らしている。
1では原作通りの「ジョージとマリアに育てられた宇宙人の子供」だったギーグを、2では設定を完全無視して「多次元宇宙からやって来た、人間に寄生して成長する凶悪宇宙怪獣」というわけのわからんものに平気で変えてしまった久美沙織の事であるから、恐らく3のノベライズも一筋縄では行かないだろう、どのような味付けをするつもりなのだろうか、とゲームも発売しないうちから想像してわくわくしたものだ。
だがいかんせんゲーム原作である3の発売まであまりにも間が開き過ぎ、残念ながらその間に久美氏の小説家としての執筆活動はほとんど行われなくなってしまった。
ゲームそのものの出来が賛否両論で関連グッズ制作に予算が割かれる可能性も少なかったろうから、どのみち彼女が現役だったとしてもノベライズの発売はなかったかもしれないが、今でも久美沙織によるMOTHER3の小説はどんなものだったのだろうと思いを巡らし、赤い背表紙の文庫本が3冊並んで棚に並ぶ事を願わないことはない。
多分ダスターは作者の好みの傾向から言って超かっこいい男になるだろう。ウェスは「ふしゃしゃしゃしゃ!」などと変な笑い声を上げるようなゲーム以上のしゃかりきジジイとして描かれ、一般プレイヤーなら名前すらウロ覚えであろうタツマイリ村の一住民の視点でまるまる一章が描かれることになるだろう。サルが主役の章なんかすごくそうなりそうだ。コーバのヨシダさんやマジプシー、ヨクバあたりのキャラはそのままでも彼女の筆にとてもよく似合うから、きっと笑ってしまうほど魅力的に描かれるに違いない。
そういうどうでもいい細部の事は想像できるのに、MOTHER3という物語を彼女がどう完結させるのか、ポーキーというラスボスにどのような結末を用意するのか、自分程度の貧弱な頭ではとても想像できない事が悔やまれる。
増田はMOTHER2の小説の中では、ハッピーハッピー村の教祖であるカーペインターについて書かれた下記の文章が一番好きだ。(ちなみにゲームに登場するカーペインター氏は、別段このような性格設定や過去があるわけではない普通の中ボスである)
少年の頃、彼は、痩せっぽっちで病弱で、ひどく不器用でした。学校ではいいところを見せるチャンスがありません。おまけに常用していた薬の副作用で顔がゾンビみたいに青かった。気味悪がられて、いつもひとりぼっちでした。こころを通わせることのできる友達が欲しくて堪らなかった。でも、どうすれば、ひとに好かれるような人間になれるのか、ちっとも分からなかったのです。
せつない気持ちをぶつけるために、教祖は絵かきになりました。さまざまな青の濃淡で描かれた彼の絵に、希望や共感を見出すひとたちが現れます。寂しいのは、彼だけじゃなかったのです。悩んでいるひと、困っているひと。ひと見知りで、ともだちを作るのが苦手なひとたちと、助け合って暮らしたい。そう思ったので、一生懸命働いて、この、人里離れた谷間の土地を買いました。誰でも、来たいと思うひとを歓迎する場所、みんなが他人を脅かさずに静かに過ごすことのできる場所として、ハッピーハッピー村を作りました。狭い画布ではなく、大地そのもの、空間そのものを、青いっぱいで埋めるのが、彼の夢でした。
平素の地の文では「今週のハッピーハッピー村信仰大賞佳作受賞者は、ご近所一帯に青大将三百匹を放したヌリ村のジョン作さんです!」などというクソみてえな悪ノリを平気で書くくせに、彼女はこうやって時折、心に突き刺さっていつまでも離れない文章を書く。忘れられない文章がいくつもある。
だから未だに彼女の書くMOTHER3の物語をずっと諦められずにいる。
久美沙織が大昔に書いたゲームノベライズのことなんて知っているマニアックな年寄りは、いかにネット広しといえどもきっとあまり沢山はいないだろう。「翠の髪のボウシャルマン/王宮付きの軽業師」なんて小説版ドラクエの作中詩の一節をググったところで出てきやしない世知辛いご時世だ。
それでもこうして長文を形にしておけば、そのうちこれを見つけた同じ気持ちの誰かと思いを分かち合えるんじゃないかと思い書き残しておく。