はてなキーワード: 賛否両論とは
なんとなく日本では賛否両論あるってことと、寄付は確かに集まっていてちゃんと効果はあがってるっていうことだけ知ってる。
どんなに金が集まるにしても、チャリティーだというのならば「あっち側」と「こっち側」みたいな境界線をひくようなまねしちゃだめなんじゃねーかな
だってセレブとか有名人しかできないじゃん、あれ。ビンボー人とか、パンピーは見てるだけ。いいね押すのが関の山。
「結局金持ちが遊んでるのが気に食わねえんでしょ」みたいな指摘してるブログ記事読んだけど
まあ確かにひがみみたいなのもあるかもしれんが、それだけじゃなくってさ
弱者っていうのは、マイノリティーっていうのは、常に自分は「フツウじゃなくなるんだ」ってことにおびえてるわけじゃん
まあ病気だからさ、弱者とかマイノリティーだとか言うのは違うのかもしんないけど
病気、そのものもつらいけど、わかってくれない世間とか、そういうものとも戦ってるんじゃないかと思うのね
そういう人を助けるチャリティーで、こう、線引きされる恐怖みたいなのがあるキャンペーンって、どうなの、っていうか
http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして「自分」の書き間違いか?
ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。
中南米のスペイン語の盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。
cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。
ともあれ、留学した先の言語や文化に自分を一体化するということは実際にあるのだな、
「新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。
一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語(イギリス文化)にかぶれた人や、
フランス人として生まれたわけではないのにフランス語(フランス文化)かぶれた人もいる。
これらは少数派としての挟持、マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、
それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。
つまり、「誇り」の有効範囲は日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。
イギリスやフランスに行って名誉イギリス人、名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。
その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。
後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分の文化上の宗主国を主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。
一方で、諸外国()では、ある国・ある地域の言語を学ぶことはその言語の文化圏の代理人になることを意味しない。
中国の王毅外相は、日本語の機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語は手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。
サイデンステッカーやドナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。
世間には「仕事というのは苦痛なものなのである。苦痛を耐えることにより給与を得ているのである」という考え(信仰?)があるようだ。
もちろん世間の全員がこのような考えを持っているわけではないし、自分もこういう考えなわけではないし、苦痛な仕事には就いてない。
この思想については賛否両論あるだろうし意見もあるのだが、今回は本題ではないのでおいておく。
とにかく「仕事というのは苦痛であるのが当然である」「しかし収入や社会圧力のためにしなければならないのだ」という思想があり、それはあまり少数派ではないようだ、というのが今回の話の枕だ。
本題なのだが、しかしなぜか「家庭(=結婚)というのは苦痛であるのが当然である。しかし収入や社会圧力のためにしなければならないのだ」というような考えは少数派のようだ、という点だ。もちろん少数鼻だけでゼロではない。
さらにいうと「仕事の苦痛を家庭で癒す」というような考えがある。
改めて考えるとこれはとても不思議なはなしだ。
なぜこのような思想がインストールされたかについては歴史的経緯があると思われる(男女の権利格差とか就労環境が文化を作り出した)。
しかしながらこのような思想が改善されない理由は思いつかない。だから改善はされていくのだろう。時間さえあれば。
個人的には、仕事は苦痛なものではない。仕事が苦痛である瞬間はあるけれどそれは瞬間だ。どちらかというと人生の出目は幸運だけでは続かない、程度の話だ。「人生の出目は幸運だけでは続かない」と言えるタフネスがない人が仕事も結婚もdisしているのだが、非婚のほうは無職に比べて社会的な地位を先に確立したってだけなのではなかろうか?
すまん。長い。
さんざん電子書籍とかないわーとか言ってたんだけど、本屋に日常的に通って本を物色する時間がなくなってきたこと、生活パターンが夜昼ひっくりかえってることなんかも含めて、電子書籍的ななにかを導入しないと不便だよなーと思った。あとブックオフ通いしてるヒマないしそもそも最寄りのブックオフまで車で最短でも50分かかるし……。でも、ウォークマン全盛時代にあえてアイワとかケンウッドで十代を過ごした俺としては、キンドル買ったらなんか負けのような気がする。負けのような気がしたんだけど、ほかの電子書籍サービスをいろいろ使った結果「 使 え ね え !!!」とかなってギィィィィって変な声出しながらキンドルぽちった。
さて、そんでキンドル届いた。最初から自分のアカウントが登録されていて、Wi-Fiの設定だけすればいきなり使えるようになってた。こういう手の届きかたって賛否両論な部分あるんだろうけど、俺みたいな「なんでもいいから楽なほうがいい」っていうくらい怠惰な人間にはこれはありがたかった。
さて、そんで品揃えであるが、別にキンドルだからすべての書籍が電子化されてるとかそういうことはなかった。けどやっぱり充実はしてる。ひとまずその面でのストレスは解消された。
新しい道具ってのは、それを通じて「なにか新しいライフスタイル」が見えたときにとてもすばらしいものだと感じられると思っている。俺にとってはウォークマン(の類似のアイワの製品)の登場がそうだったし、ワープロ専用機がそうだったし、もちろんその後のインターネットもそうだった(PCそのものではなくインターネットだった)。
まったく期待してなかったんだけど、キンドルには確実にそれがあった。
これは自分が活字中毒であることも関係してるんだが、いちばんすばらしいことは「読むものを切らす」という可能性がゼロに近くなったことだ。俺は便所でも風呂でも、どうかすると歩いていても本を読んでるタイプの人間で、とにかく空き時間があるとなんか読んでる。それがおもしろいか、有意義かとかそういうことは優先順位としてはかなり低い。まず「なんか読んでる」ことが重要なのだ。そういう人間なので、外出のときもかならず本は持っていくのだが、あたりまえだが、重い。それに、いざ本を切らしたときに近くに書店があるとは限らない。その点、キンドルならそもそも1000冊の単位でぶちこんでおけるので、切れる心配がない。
この「桁外れの物量」という点では別の感慨があった。いま俺のキンドルには、青空文庫から仕入れてきた半七捕物帳全巻だとか、吉川版三国志全巻、柳田国男や折口信夫のほぼ全著作が入ってる。青空文庫経由だから無料か、まとめてあるやつでも100円とかだ。無料っていう点では図書館もあったわけだが、重要なのは、その「全巻」「全集」の単位を常に持ち歩けるということだ。安いのはもちろんすばらしいことだが、金に糸目をつけなければ、そして電書化さえされていれば「自分好みの図書館」を持ち歩けるにひとしい。習慣的に読書をしない人、「読むものがなくなるのでは」と恐れるようなことをしない人にとっては、この事実に対する感動はいまひとつわからんとは思う。こんなことは、実際にキンドルを入手しなくても理屈でわかりそうなもんなんだが、手のなかに実際にこの道具があって、そしてこの道具のなかにいつまでも読んでいられるものがある、そう実感してはじめて「すごい」と思える。そういうのってある。
細かい点では「ページをめくる」という作業がないのがとても快適だ。具体的には電車のなかで楽。あと寝ながら本読むときにうつぶせだとすごい腰痛になって泣きたくなるので横向きに読むのだが、横向きだと右ページと左ページを読むときで微妙に工夫がいるのでちょっとだるい。あとバックライトあるので暗闇でも本読める。なぜわざわざ暗闇で。
とまあ、こんな感じだ。
それと、副次的に思ったことなんだけど、本ってのはコンテンツなわけだ。情報としてパッケージが完結している。キンドルを入手する前は、もちろん本も読むものの、わずかな時間の隙間に読むものといったら、常時PCつけっぱの環境もあって、インターネット経由のものが多かった。それで、あらためて両者の違いについて思う。
本はコンテンツとして完成度と完結度が両方高い。印象でいえば「ひとつの世界」を提示するものが本だ。ページを開くということは、著者が見た「自分の見た世界とは違う世界」を覗くことだと思う。ネットにある文章は、もちろん数多くの例外があるのを承知したうえで、やはり「いまリアルに動いてる世界」の断面図という側面が強いと思う。本質的なところでコミュニケーションのツールとして機能している。
俺にとって活字を読むことは、テレビを見ることと近い。やることがなければテレビをつける。なんかやってる。なんなら「音がないとさびしい」という理由でテレビをつけるのでもかまわない。それがぬるいバラエティーでもなんでもいい。ぬるいバラエティーに意義だとか完成度だとかを要求する人はあまりいない。ただなんとなくひまがつぶせて、ちょっとでも笑えればいい。気に入られなければチャンネルを変えればいいだけだ。
この比喩でいうと、ネットってものは街頭に設置してある常設カメラの映像をそのまま流しているような印象だ。重要なのはカメラの設置場所と種類のほう。あと、設置した人。本は番組だと思う。キンドルがあるいまとなっては、本屋に行くという行為に「映画を見にいく」のと同等の敷居の高さを感じる。だから、キンドルを入手したということは、俺にとって「自宅にテレビが来た」というのと近いインパクトがある。そしてこの比喩でいうなら、キンドルを入手する前から俺はテレビっ子だったわけだ。
……というわけで、いままでは活字の本ばっか買ってたわけですけど、そんじゃマンガもこれからはキンドルだけでいいですよねーと思ってハナヤマタの原作1巻買ってみたんだけど、マンガはものすごく読みづらくてびっくりしました。だめだこりゃ。しょうがないので、なるがトイレに入ってるシーンをくぱぁって拡大したりして喜びました。というわけで今季のアニメはハナヤマタでガンギマリだと思います。あとこれでようやくシロクマ先生のキンドルだけで出てた著作を読めます……。
騒動って言葉で片付くような事じゃないと十分に理解しているけど、あえてこの言葉を選ばせてもらう。
これ、秘密のときや原発関連の活動と同じ成り行きになるんじゃない?
成立直前・直後で一気に吹き上がって反対派とそれに釣られた人が大騒ぎして、でも数ヶ月すると静かになる。その静かになる過程で、極端に振れてしまった過激で変な人がちらほら目立ち始め、だんだんと「変な人が騒いでる」って認識になっていく、あの感じ。反対派・賛成派どちらもちゃんと真面目に、冷静に取り組んでいる人も大勢いるのに、キワモノだけが超目立ってしまって、真面目な人たちの活動を邪魔する、あれ。
どれも大事な問題なんだから、メディアにしろネットにしろ、賛否両論どちらも載せながら議論していくっていうのには、やっぱりならないもんなのかな。綺麗事って言われちゃうのかね。デモもさ、くたばれとか死ねとかそういう過激になりがちな言葉じゃなくて、他に表現はないのかね。
今回の件で言えば、シーレーン防衛とかもあるでしょ。いま中国が主張してる南シナ海の領海って、そりゃフィリピンやベトナムも怒るよねって図でしょ。軍事拠点も作り始めているそうで、もはや南シナ海封鎖なんて絶対無いって断言できる状態じゃなくなりつつある。それで、将来フィリピンと中国で何か起きて、それにアメリカ軍が参加するなら、集団的自衛権がそのときも有効なら、日本も支援することになる。でもシーレーンや邦人を守れるだろうか?有効だろうか?そういう議論もあるよね。たとえば、自衛隊が行かなくても、フィリピンやベトナムの軍備や人員強化を支援して、アメリカと自国で戦ってもらうって手もあるかも?それなら「集団的」じゃなくてもいける?いけない?これも議論がいるよね。
でも、そういう、冷静な議論は何故か見ない。無いんじゃなくて、目立つところに上がってきていないだけだと思う。探せば見つかるし。
「徴兵」「派兵」って騒ぐのも分かるよ。分かるけどさ、それ今日とか明日とか、今月とかに発生するの?せめて1週間くらいは冷静な議論って出来ないの?
じゃないと、また熱が冷めた後に変な人だけ目立つようになって、必要な議論がされないまま、受け入れられていくことになるんじゃないの?
こういう考え持ってるんだけど、私が稀なの?違うと思うんだけどなあ。
ワールドカップ初戦の西村主審のジャッジが「誤審か?」と騒がれたことについて、ある方のツイートにかぶせる形で“日本人だから(西村審判を)擁護する……”という趣旨のことをつぶやいたところ、その方から反論をもらいました。
で、1往復やりとりしたあと、ちょっとつらつら考えてみました。
リプライを返そうと思ったけど、答えというより自分の頭の整理になってしまったのと、
あと単純に長すぎるので、ここに書かせてもらいました。すみません。
詳しいどころか、サッカーそのものにはぶっちゃけ興味ないです。
でも、初戦の審判を日本人が務めたことは嬉しいし、そこで誤審騒ぎになったことに興味を持ちました。
私と相手の方ではスタンスが違いましたね。
1.ブラジル対クロアチアには興味がないし、その審判にも興味が無い。
1a.ブラジル対クロアチアには興味がないが、日本人審判が誤審と言われるのは嫌。
私はもともと1.なので、今回の件では1a.です。
だからといって、
1b.ブラジル対クロアチアには興味がないが、日本人審判が誤審と言われるのは嫌なくせに、日本と仲の悪い国の審判が誤審と言われたら喜ぶ。
2.ブラジル対クロアチアはもちろん、大会期間中ずっと緊張感ある試合を見たい。初戦のジャッジは大会全体に影響することもある。なのであのジャッジには反対。
2a-1.日本と外国の試合での審判のジャッジも冷静に見ることができる。
2a-2.日本と外国の試合で日本不利なジャッジにはさすがに冷静になれない。
2といえる人はサッカーの観戦力があるのでしょう。楽しいだろう、と思います。うらやましい。
さらに2a-1の人もいるし、2a-2の人もいるでしょう。
私はどっちもアリだと思います。
でも、
2b.当事国ではないサッカー先進国の専門紙が誤審と言っているのだから誤審だ。
きっと、2.、2a-1.、2a-2.の人も、一緒にされたくないでしょう。
でも、今回、そういう意見もいくつか見かけました。
今回は、私と相手の方がお互い1.と2.である=サッカーの審判に対する思い入れのレベルがまるで違うことを知らないままやりとりが始まりましたが、まぁこういう掛け違いはよくあることでしょう。
そのときに、1.の発言に対して「おまえ1b.だろwww」「だまれ2b.め」と言ったり、
逆に2.の発言に対して「おまえ2b.だろwww」「だまれ1b.め」と言ったりする応酬にはしたくないな、と思います。
(結構たいへんだけどね。自分の得意分野で自分と違う意見を言われた時は特に。自戒を込めて)
さてこれは正しいのか?
2.の人から見れば正しくないかもしれないですが、まぁ1.の人もいていいんじゃないか、と思います。
私は、海外で日本人が外国人によく評価されるのは嬉しいし、悪く評価されるのは悔しい。
そして、やっぱり外国の外国人より、外国の日本人の方が気になる。
海外で日本人が逮捕されて重い刑に処されるのは、たとえ罪状が事実でも気持ちよくはないし、
海外で飛行機が落ちた時に日本人の安否確認を優先するのは当然だと思う。
その分野に詳しくないとき、思い入れがないときは、自分は日本人として一旦は「賛」のスタンスをとると思う。
1.に近い。
でも1b.みたいなことは言わないし、2.の人がいることも忘れない。
でも、その分野に詳しいとき、思い入れがあるときは、その日本人に厳しい見方をするかも知れない。
2.や2a-1.に近い。
でも2b.みたいなことは(なるべく)言わないでおこうと思うし、1.の人がいることも忘れない。
※出羽守(でわのかみ)=二言目には「海外では~」「欧米では~」という人は、正直、嫌いですが、
論理や理想も大事だけど、日本という国民国家の国民であることは、なかなか超えられない壁と思うので。
長くてとりとめがないですが、以上です。
http://b.hatena.ne.jp/entry/biz-journal.jp/2014/06/post_5119.html
このコメント欄を見て思ったこと。
前々から、インターネットではよく「法で定まっていない倫理や生活スタイルの問題」=「個人により正解が異なる問題」で炎上しがちだなと感じていた。(結婚やモテや出産やライフプラン全般の問題はよく燃えるとも言う)
なぜだろうか。
僕は、「皆一つの問題に対し、結果だけ見て、個人の意見を言い、さらに違う「個人の意見」で反論するから」なのではないかと考えている。
個々の人生は、年齢や産まれや親や土地、世代や性別によって異なることに異論がある人はそんなにいない筈だ。
最初の産まれを克服するのが人間だ、努力することに意味がある、といわれてしまうとそういう価値観もあるので何とも言えないが。
見聞きしたり、読んだり、他人の意見を取り入れることは出来ても、「その人一人分の人生とその人の思考」を丸々理解するのは、現在のテクノロジーでは無理だと思う。
人の意見とは、どんな過程を歩んでどんな事をそれに対し感じてきたかということに裏づけされている。
それを大抵学習や努力、成功体験などと社会では呼んでいる(と、個人的に考えている)
とくに「法で定まっていない倫理や生活スタイルの問題」=「個人により正解が異なる問題」に関してはこれが顕著なのではないか。
そしてインターネットでは、特に、twitterやはてなのような短いコメント欄では、そんな自己背景を説明できない。
「このような人生を歩んだこのような年齢なのでこのような意見を持ちます」というのが生活スタイルの問題においては重要な意味を持つのに、短い文章が意味を持つ場所では「このような意見」しか言うことが出来ない。
「このような意見」をいくら見聞きした所で、それはあんまり意味がない。
なぜならそれを聞く人間にとってはその意見は自分の辿った人生のルートの中では、たどり着くのがおかしい意見だったりする場合があるからだ。
ルートの選択、つまり他人がどうしてその意見になったのかを聞くことにより、やっとはじめてその意見の善悪の判断や是非がつくんじゃないだろうか。
「このような人生を歩んだこのような年齢なのでこのような意見を持ちます」という様々な人間の意見を、たくさん偏らずに聞くことによって、寛容な人が増えるのではないか、等と賛否両論のコメント欄を見て思う。
勿論、話題になる記事自体の情報が少ないってこともあるし、さらにいうと、そもそもコメント欄やインターネット自体にそんな「他人の意見を聞く」なんて意味自体ないのかもしれないのだが。自分の人生も正しさを他人にも丸ごと適用できると考えている人が多そうな印象があるのは、とても息苦しい。
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。
リベラルで理性的なコメントが優勢な「はてな」ですら、違法薬物については俗っぽい厳罰論が優勢なことに私は驚いている。
ヨーロッパやオーストラリアでは、違法薬物に対して厳罰主義ではなく実害最小化主義(Harm Minimization、適切な訳語が見つからないので私の感性に基づいて直訳した)の姿勢をとっている。発展途上国、シンガポールや韓国などの開発独裁国、ならびに日本は厳罰主義である。アメリカ合衆国は中間ぐらいだ。実害最小化主義は即ち危険や害悪の元を絶つことは不可能であるから、それらが存在しうる前提で実害を最小限に使用という試みであって、性風俗産業にコンドームを配布するとか、薬物使用されうる繁華街などで使い捨ての注射器を配ったりするとかがそれにあたる。なお実害最小化主義においても、違法売春の元締めや違法薬物の流通に関しては極めて厳しい罰則が定められている。したがって違法薬物の使用者は弱者であり守られるべきであるが、それらを食い物にして金を儲ける奴はけしからん、というある種の優しさからくる社会正義に基づいているといえる。賛否両論はあるだろうし偏見に基づく価値基準であることは否めないが、ヨーロッパ諸国と発展途上国のどちらが人類に最適化された社会システムを持っているかは、少なくとも私にとっては疑いの余地がない。日本は先進国として実害最小化主義に軸足を移すべきである。「覚醒剤やめますか?それとも人間やめますか?」なんて全くナンセンスであって、人間の価値は覚醒剤の使用で毀損されるほど不安定なものではない。「間接的に反社会勢力の資金源に・・・」とかいう話は置いておくならば、他人に何ら実害を与えていない違法薬物使用者を極悪人のように仕立て上げて報道するのは間違っている。
モルヒネで前後不覚になって職務遂行不能であったならともかく、社会生活に支障の無いリラクゼーション・ユースの覚醒剤使用で逮捕された校長先生の作曲した校歌を変える、チャゲアスの楽曲が使われているテレビ番組の現場が騒然、とか全く的外れもいいところである。それならば全員ヤク中、それもMDMAなんていうヤワなもんじゃない、皿に山盛りのヘロインとかコカインでパーティーやりながらレコーディングしていたMiles DavisやJohn Coltraneが作ったアルバムなんて完全に発禁だし、現代音楽も基になるバークリー音楽理論なんてそいつらが発展させたようなもんなんだから、違法薬物抜きには語れない現代の商業音楽作品は全て発禁だ。
そもそも私はモルヒネやヘロインなど「狭義の麻薬」を使用するのはやめた方がよいと思う。しかしMDMAのような穏やかで感染リスクのない覚醒剤や、身体依存の全くない大麻と、合法である酒やタバコを仕切る境目に合理性を見いだせない。後者は薬理作用の他に食品や嗜好品としての味わいがあるが、大半の使用者はこれらを薬物として摂取している。なぜか問題にされないが、特に飲酒の害悪は恐ろしい。加害者がそれなりの社会的立場を有している場合の喧嘩やセクハラなどは大半が飲酒による酩酊のせいといっても過言ではない。覚醒剤使用で懲戒免職なら、飲酒して他人に絡んだら懲役の実刑ぐらいじゃないと釣り合わないと思うぐらいだ。
だからASKAとか槇原敬之とかミュージシャンが薬やってたって騒ぐことじゃないし、「やまとなでしこ」も「ホテル」も再放送で観たいし、大麻くんは大野やってないよ。
勢いで描いたので多分に偏見や引用が不十分な部分があることは自覚しています。「アスカに覚醒剤を教えたのはチャゲであって、チャゲは「残念です」とかコメントしてる場合じゃない、自分が黒幕のくせして。見た目的に。」ぐらいの偏見で書いてる。ごめん。
2014/4/17 22:57
2014/4/18 16:45
この文のりくつは、りかいできない。つか、危うい。
2014/4/18 23:44
片岡英彦 @turu2009
@banocchi どこが「危うい」ですか?
いただいたリプライについて回答します。長くなりますがご容赦下さい。
片岡さんは以下の行為を「理解できない」とおっしゃっています。
2.私が並んでいるのにソイとラテの違いを尋ねるおばちゃん
4.出演者&スタッフの顔合わせ当日に有休をとる社員プロデューサー、ディレクター
「理解できない」には、文字通りの意味と、文字通り+批判の意味と、両方があると思います。
ここで、1と2はすぐ後に「迷惑だろ」という言葉があることから、批判の意味が入っていると解しました。
そして、全項目を「それと全く同じく」で繋いでいることから、1-7まですべて批判の意味が入っていると解しました。
1から7までの行為は、だれかに迷惑をかけるという点では共通していますが、レベルは異なるように思います。
_23____ 迷惑をかけることに気づいていない可能性がある
1__4567 職務に関して誰かに迷惑をかける
1__4_67 職責を全うしていない(5については議論が分かれている)
___4_67 職務上重要な日の日程は関係者の事前調整で決まる?
____5__ 担任は入学式への出席が必須、または担任期間中は学校のある日は全出席が必須?
1_____7 上級職相当である
___456_ 上級職かもしれないが一般職の可能性もある
片岡さんの文章の主題が5にあるかどうかは不明ですが、私にはそう読めましたので、5について書きます。
4,5,6,7は、不在という点で共通ですが、5は4,6,7と違い、入学式という特定の日に不在であったことが問題なのか、担任の期間中のある1日に私用を優先したことが問題なのか、議論が分かれているように思います。
ここで、5は1や7と異なり、上級職相当とは言い切れません(実際の5がどうであるかにかかわらず)。
また、5は、4,6,7と違い、入学式の日程調整に参加することもできないと思われます。
もし、重要な行事の日だけではなく、1年間の出勤日すべてに対して計画的な有休を取らないという形で、4,6,7と同じ態度を求められるとすれば、それは妥当なのかどうかという点が、5に関しての賛否両論のポイントの1つなのだと思います。
長くなりましたが片岡さんの文章について「危うい」と書いたのは、
・共通項は「迷惑をかける」であり、それを批判的に語っている
・職務上のもの(1,4,5,6,7)とそうでないものを同列に語っている
・実際に起きた出来事(1,5)と、そうでないものを同列に語っている
・故意かどうか分からなくても、結果として「迷惑をかける」点では同じと語っている(2,3)
「迷惑をかけ得る」あらゆる行為を、同じように批判できてしまう
のではと考え、そのことを危ういと感じました。
たとえば
すべて「迷惑をかける」行為であり、避けるべき行為、批判される行為という点で同じになってしまうように思いました。
片岡さんの文章を歪めて批判する藁人形論法を展開する意図はないのですが、直感的に「危うい」と思ってしまった理由を説明するのに、どうしても片岡さんの文章から導き出されることを推論する必要がありました。【D】については完全に私の創作です。
以上です。
今日から新卒研修の技術研修が始まりました。初日はJava(JDK)をMacにインストールして、簡単なプログラムを書くことから始めます。
さて、なんでJavaなのかと感じるかもしれません。Webに限らずスマートフォンのマルチプラットフォーム開発にもJavaScriptが浸透し、RubyやPythonは学生の間で人気があります。
逆説的ですが個人的には、Javaを研修に選びながらも「Javaを覚えてほしいわけじゃないだよね」って思っています。
習得して欲しいのはJavaそのものではなく、どこまで言語の深いところまで掘り下げたのか。つまり「深さを探った経験」を得てほしいからです。
Javaが新卒研修に適しているのは、適度な深さと広がりがあるから。それも、C++ほど底が途方もなく見えない感じもなく、Rubyのようにあs(以下略)
この「言語を深く探った経験」は、まとまった時間がないとなかなか掘り下げられなかったりします。配属されて仕事や成果を求められるようになると経験しづらい。興味本位でアプリを作ることに没頭する学生時代にも経験しづらい。教授に多くのタスクをふられがちな院生時代にも経験しづらかったりします。
プログラミング言語を、深いところまで掘り下げる機会は、新卒研修の時期に適していると僕は思います。成果や責務に追われずに、プログラミング言語に没頭することが許されているからです。
深く掘り下げた結果、何が見えてくるか
Javaのもうひとつの側面は、個性があらわれやすい言語だと僕は感じます。きれいに書けば人間性が感じられるほど美しく書けます。逆に雑に書けば、プログラマとしての伸びしろが良い感じに見えるくらい、未熟に書けます。
Javaが新卒研修に適しているのは、適度に思考の深みを表現できるから。それも、C++ほど哲学的に難解になることもなく、Rubyのようにとr(以下略)
ここは賛否両論ありますが、いずれにせよJavaで何ができるのかではなく、Javaを通してその人の可能性の何が見えるのかが大事になります。アプリを開発する新卒側と、人材を開発する人事側の、視点の違いもありましょうが。
だからこそ、Javaというプログラミング言語を通して、深く掘り下げる機会を大切にしてほしいと思います。それから、Javaを通して何を表現できるのか。プログラム設計という点から、いろいろチャレンジしてほしいなって思います。
そうすれば、掘り下げた分だけ他の言語も、もっと深く短時間で掘り下げられるでしょう。
そうして、自分の思想や仕事に対する人間性を、プログラミングで伝えられるようになったら、きっと一人前のプログラマになるでしょうね。
今日から新卒研修の技術研修が始まりました。初日はCOBOLをMacにインストールして、簡単なプログラムを書くことから始めます。
さて、なんでCOBOLなのかと感じるかもしれません。Webに限らずスマートフォンのマルチプラットフォーム開発にもJavaScriptが浸透し、RubyやPythonは学生の間で人気があります。
逆説的ですが個人的には、COBOLを研修に選びながらも「COBOLを覚えてほしいわけじゃないだよね」って思っています。
習得して欲しいのはCOBOLそのものではなく、どこまで言語の深いところまで掘り下げたのか。つまり「深さを探った経験」を得てほしいからです。
COBOLが新卒研修に適しているのは、適度な深さと広がりがあるから。(特定言語に良くない印象を与える記載がありましたので、この箇所は削除しました。大変失礼しました。)
この「言語を深く探った経験」は、まとまった時間がないとなかなか掘り下げられなかったりします。配属されて仕事や成果を求められるようになると経験しづらい。興味本位でアプリを作ることに没頭する学生時代にも経験しづらい。教授に多くのタスクをふられがちな院生時代にも経験しづらかったりします。
プログラミング言語を、深いところまで掘り下げる機会は、新卒研修の時期に適していると僕は思います。成果や責務に追われずに、プログラミング言語に没頭することが許されているからです。
COBOLのもうひとつの側面は、個性があらわれやすい言語だと僕は感じます。きれいに書けば人間性が感じられるほど美しく書けます。逆に雑に書けば、プログラマとしての伸びしろが良い感じに見えるくらい、未熟に書けます。
COBOLが新卒研修に適しているのは、適度に思考の深みを表現できるから。(特定言語に良くない印象を与える記載がありましたので、この箇所は削除しました。大変失礼しました。)
ここは賛否両論ありますが、いずれにせよCOBOLで何ができるのかではなく、COBOLを通してその人の可能性の何が見えるのかが大事になります。アプリを開発する新卒側と、人材を開発する人事側の、視点の違いもありましょうが。
だからこそ、COBOLというプログラミング言語を通して、深く掘り下げる機会を大切にしてほしいと思います。それから、COBOLを通して何を表現できるのか。プログラム設計という点から、いろいろチャレンジしてほしいなって思います。
そうすれば、掘り下げた分だけ他の言語も、もっと深く短時間で掘り下げられるでしょう。
そうして、自分の思想や仕事に対する人間性を、プログラミングで伝えられるようになったら、きっと一人前のプログラマになるでしょうね。
id:minamiyama1994 さん、反論してくださってありがとうございます。
Haskellファンのご意見がいただけて嬉しいです。元増田です。
記事全体で「関数型言語」と呼ばれているものは「関数型言語一般」ではなく「Haskellや一部OCamlの話題を含むごくごく一部の言語」の話である
わかりにくくてすいません。記事では「関数型言語」の話はしていません。「関数型プログラミング」の話をしました。
「関数型言語」は範囲がよりボンヤリとした表現です。たとえばC言語が関数型言語かどうかをみても賛否両論にわかれるでしょう。
私が記事を書いた目的は、”関数型プログラミングに縁のない人に関数型プログラミングをわかりやすく紹介したい”でした。
その目的のため、「関数型言語」という表記を注意深くとり除き、代わりに「関数型プログラミングをサポートした言語」という言い方をしています。
このスタンスの上で、
”関数型プログラミングをフルにサポートした言語”の代表として、Haskellを紹介し、
”関数型プログラミングへのサポートが片手落ちな言語”として、LispやErlangなどを扱いました(それらのファンの皆、ごめんなさい)。
関数型プログラミング初心者の方は、それらの差異なんてどうでもよい、と考えるのではないでしょうか。
関数型プログラミングとは何が良いのか、を大雑把に知りたい。
そうなのではと考えて、あえて区別せずに記事を書きました。
「たとえばモナドを知っていれば、30分程度でパーサー(解析機)を理解することができて」? モナドはそんな限定的用途のものではないし、パーサの理解とは無関係だ(単にライブラリの設計の問題)。それにApplicativeスタイルのほうがパーサが書きやすいという人もいるだろう
id:minamiyama1994 さんの仰るとおり、モナドはパーサー以外の多くの応用があります。
現状多くのパーサーがモナディックパーサーとして書かれています。モナディックでないパーサーは、あまり多くのユーザーには使われないでしょう。
モナドなどの抽象的な構造が幅を利かせてるお陰で、ライブラリに秩序が生まれ、ユーザーはそれを使いやすく・読みやすくなっている、というのが私の言いたかった主張です。
(なお細かいことで恐縮ですが、ある種のモナディックパーサーはApplicativeでは書けません。その点をお忘れですよ)
「テキスト処理」に対して
お前それShellやPerl、RubyやPythonの前でも言えるの?
「GUI」に対して
この二つは、先人が不利な環境ですごく頑張った成果が現状なのだ、と思っています。
本質的には関数型プログラミングの強みが活かせる分野のはずです。
「個人の技量の話題」
「レシピ」に関しては、関数型プログラミングのスタイルでは、手続きを手続きとして自然に表現できるのに対し、オブジェクト指向ではできない(DSLチックなものになってしまう)、ということを言いたかったのですが、
わかりにくかったですね。
「書きやすい」
(*)関数の例で、関数型プログラミングの無駄の無さを示せた、と思ったのですが…
マヂですか…反論のためのでっち上げとかじゃなくて(失礼)?(追記: Haskellの方が「短く書ける」、のタイポだそうです)
Haskell布教のために有休とって4時間かけて書いたのにーw
撲滅…
ショボーン(´・ω・`)
率直に言えば、結構面白かった。ひき込まれて一気に読んでしまった。
私はドイツについてほとんど無知で、現代ドイツでは「ヒトラー」「ナチス」がタブー視されている、くらいしか知らない。なので、本書のユーモアについても半分も解せていないかもしれないが、それでも結構面白かった。
この本(日本語訳版)は、オビやら前書きや後書きで「ヒトラーを称賛するものではない」と強調されている。現代ドイツでは、「過去の悲劇を繰り返さないために」という文脈でしか、ヒトラーを語ることはできないようだ。だが本文では、徹底してヒトラーの一人称視点で物語が展開していくので、そのような言い訳がましい言文が殊更強調されるというものでもなく、エンターテインメントとしてすっきりあっさり読めてしまう。
本書をどのように捉えるかは、ことに日本では様々な意見があると思う。コメディとして読むもよし、教訓を受けるもよし、批判するもよし。
私はとりあえず態度を保留することにした。ただ、現代に現れたヒトラーがドイツ社会に賛否ありながらも受け容れられていく様子と、本書が賛否両論ありつつドイツでベストセラーとなっていく過程がある種の相似形となっているように感じた。これは、敗戦後にタブーとなったヒトラーを、目を背け続けるのではなく、新しく捉えなおすことのできる時代が、ようやく訪れた、いわば戦後ドイツ社会の一つの転機とも呼べるのではないだろうか。
そして翻ってこの日本はどうだろうか、と否応なしに考えさせられたりもする。
ただ、上下巻8時間くらいで読み切ってしまったので、3400円は少々高いよなぁとも思う。ドイツ語版も英語版も1冊なのにさ。
バラエティ番組出演程度の事を何故許容できないのか全く分からない。しかも説教じみているし。
出演で何か不都合が生まれたか?出演時間分政治について考えたら税が軽く成るのか?
人気番組に出演する機会が有って、その番組はもうすぐ終了で、今は震災直後の様に忙しくはない、となれば人気商売に就いている人間が出演する事は自然だ。
>なんか、どう見ても国民のご機嫌取りしてるようにしか見えない。
>首相が会期中にいいともに出るだけで政治に絶望する奴もいるんだ。もっとちゃんと国民の事を考えて行動してくれ。
この2つの意見は矛盾している。国民に対するご機嫌取りは国民の事を考えた上でする行為だろ。
「首相が会期中にいいともに出るだけで政治に絶望する奴」が居たとしてそれがどうした。カウンセリングでも受けてこい。
>ましてや賛否両論百出する事が想定され得る行動なら、そもそも選択するべきではないとは思わないのか?
賛否両論百出してないよね?極少数の人間が新宿で騒いではいたけれど。
なんか、どう見ても国民のご機嫌取りしてるようにしか見えない。
三月いっぱいで国民的長寿番組が終わるというのもあるんだろうが、小泉の示した前例のように、電話で済ませたって良かったろうに。
たまたま昼飯食ってたらテレビに映ったので見たけれど、バラエティ出てタモリとぎこちない会話してないでさ、だいたい国会会期中なんだろう?
そんなヒマがあるんだったら、増税を少しでも軽くする方法を真面目に考えて欲しいなあ。
首相の仕事はバラエティ番組から国民の皆さんに挨拶する事じゃないだろう?
「長寿番組の有終の美を飾りに永田町からもやってきました」てアピールする事じゃないだろう?
エグザイルから贈られた花輪を見て「私エグザイルと食事した事あるんですよ、晩餐会にゲストで招いて」とか言ってる場合じゃないだろう?
せめて選挙の前の時期とかだったら、「ああ得票に大変なんだな」と思えるし、まだ微笑ましいで片付けられるんだが、
消費税増税前、しかも国会会期中にわざわざお昼のバラエティ番組に出るとか、それはもうちょっと笑えないと思う。
あの時も首相が迂闊な現地視察のような行動をとって制御不能の危機に瀕した原発の現場を混乱させたり対処を遅らせたりしたよな。
もちろん菅と安部では首相としての評価も全然異なるだろうが、それでも安部が何やってもいいって事にはならないし、ましてや賛否両論百出する事が想定され得る行動なら、そもそも選択するべきではないとは思わないのか?
そもそもちゃんと国民の事を考えているのか? 庶民や苦しい生活をする人々の事を、たった3%のちっぽけな消費税増税の負荷が生活にもっともかかる層の事を本当に考えているのか?
「笑っていいともは国民的番組、国民的番組」て免罪符のように連呼していたが、国民的番組の最終回付近にゲストとして首相として出ておく事が、すなわち国事を考える事にはならないんだぞ?
この年度末に家やら車やらばんばん売れているけど、それは大勢の金持ちが金を吐き出しているのではなくて、たった3%の値上がりを許容できないレベルの貧乏の裏返しでしかないんだからな?
虐待を受けた子ども視点の歌詞が賛否両論 有線で放送見送りにもなった楽曲「ママ」が物議 -
ねとらぼ http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1310/04/news123.html @itm_nlabさんから
子供を虐待するような性質を持った人間は人から手を差し伸べられすらしないほど心が荒んでると思う。
人の好意を跳ね除けてしまうような客観的に見ると屑で、自閉症や精神疾患で他人の気持ちを理解できる状態ではないと思う。
虐待をしてしまう人間も幸せになって虐待がこの世から消えて欲しい。
虐待だけじゃなくこの世の悲しい事全部。
自殺に関わった人間は批判する。自殺した当人は責めない。これが大体の人のスタンスだと思う。でもこれってつじつま合ってるんだろうか。
正確には、LINEで死ねって送信した男性に対しては賛否両論って感じ。批判的な見方も多いけど、同情的な意見も少し見られる。
一方、自殺した女性には同情的な意見が多い。少なくとも、彼女を責めるようなことを書く人はいない。
よく考えると、これっておかしくないか。
自殺した人間を責めないってことは、その人の行為を「悪くない」って思ってるってことでしょ。なのに、その「悪くない」ことに関わった行為は「悪い」のだろうか?
いや、そう思う気持ちは分かるんだ。感情的(あるいは道徳的)には分かるんだけど、自殺を処罰する法がないのに、自殺教唆を処罰する法があることの整合性がピンとこないんだ。ここで「自殺者を処罰する法がないのは、死んだ人間に対して罰をあたえようがないからだ」って反論もあるかもしれないけど、実際アメリカだと自殺を罪とする法があったりする。彼らは自殺を犯罪と考えている。
自分としては、LINEで死ねって送信した男性を責めるには、自殺を「悪い」ことだと認めざるを得ないんじゃないかと思う。この点、みんなはどう考えてるのか気になる。
追記
聞きたい論点をまとめる。要するに「そもそも自殺は違法なのか」「自殺を合法と考える人はなぜ自殺教唆を違法とするのか」の2点です。
「違法」は「悪いこと」に置き換えてもらって構いません。
以下返信。
自発的にやるのと他人から強制される(させる)のとは大違いなんだよ
「強制」までいくと殺人なんじゃないかな。少なくとも今回のLINEの件は自殺を強制したとはいいがたい。強制じゃなくて自殺をほのめかしたにすぎない場合をどう思う?