はてなキーワード: 尊厳とは
この問題では被害者側となってるArata氏、ラブドールの話でこの作者に対して差別者だみたいな言及してんだけど小岡氏が名誉毀損で反訴したらArata氏も負けるなって思うよ。
https://twitter.com/jbnrsk_arata/status/1268824329824825344
「子供の強姦を疑似体験する権利」などあってたまるか。顔も体型も性器も幼い少女を模した児童型セックスドールは、ただの人形などではない。子供の尊厳を踏みにじるな!
#私たちは黙らない
#女性差別をやめろ
現状のラブドールは合法で子供でも何でも無いモノと法的に扱われる以上、裁判に持ち込んだらこっちの名誉毀損は成立しそうだよね。世論的にも一般的だとは言い難いでしょう。
人を差別者だとか児童性加害者だと勝手に扱うことの悪質さは名誉毀損の中でも最悪なものだと思うよ。
当然だけどそれは別件で小岡氏の謝辞の件が免責されるわけでもないけど。
https://anond.hatelabo.jp/20200816181710
こちらのマレーシア事例に触発されて、まあ、そんな経験者も多くないだろうからメモを残しておくよ
この内容が適切かどうか、自分の胸に聞いてみてから読むといいでしょう
最初に結論を書くと、私には今Twitterに見られる殆どの「フェミニズム」はその実、自身の「復讐」のことを述べているように感じられてならないという話です。
私がこのところ観測した、Twitter上でフェミニストとして声を上げる方々の多くは何らかの性犯罪を受けたか、男性嫌悪をお持ちです。
ですが被害にあったことは、復讐をする権利を与えられたことにはなりません。
ましてや、加害した訳でもない男性へ怨嗟を向け続けている状況は、はっきり言って異常に思います。
専門家ではない一般人としての意見になりますが、法律とは罪を裁くためのものであり、被害者の心を満足させるためのものでは無いと考えます。同時に、被害者が加害者を許さないことはどこまでも自由です。加害者が罪に問われるのは「貴方」を害したからではなく、罪に問われる行為をしたからです。
男性をはじめとした「貴方」にとって不快なものを排除した、「貴方」が満足する世界を生きたいという欲求の表現にフェミニズムという単語を使うことは、本来のフェミニズムに反することではないでしょうか。「貴方」が「自分」に害をなした人々を憎む心を、フェミニズムという耳障りのいい言葉で包んではいませんか。
フェミニズムは万能の剣ではありません。一人一人異なる考え方を持つなかで、フェミニズムが全てを解決するわけでも、全て正しいわけでもありません。
さて、この文章を書いている私はゴリゴリのオタク、腐女子です。主にBLでエログロなんでも好む私は、二次元において好きなように女体や男体を弄んでいます。二次創作においては既存のキャラクターを用いて妄想しています。彼らはいわゆる「客体化された」女性や男性です。
Twitterで見受けられるフェミニズムは、私のこれらの行動を排除したいということなのかと疑問に思い、キーボードを打っています。
お伺いしますが、あなた方はこのような行動を一切しないということでしょうか。
そもそも実在の人間の表象を持つことを「客体化」と表現するならば、「客体化されていない」キャラクターは存在するのでしょうか。
それではシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』はどうでしょう。ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品はどうでしょう。今まで人間を客体化し、好きに描いてきたあらゆる作品は、Twitter上で批判される作品たちと何が違うのでしょうか。
名作だから違う?芸術だから違う?価値があるとされているから違う?「貴方」が思う「萌え」がないから違う?今そんな話はしていない?
ジブリ作品について言及しているツイートもありましたので、「今はそんな話はしていない」は通用しませんね。
答えは、「同じ」です。アニメも漫画も彫刻も文学作品も絵画も、あらゆる作品は誰かの手によって生み出されたものなのですから。
これらの作品が非難されていないのは「創作物であるとあなた方が認識しているから」でしょう。
では、宇崎ちゃんやジャンプなどの物語を、創作物でありながら非難するのは何故ですか。
作品とは、ある人から見ればかけがえのないものであり、ある人から見ればただのゴミになります。嫌悪を感じる人もいれば、好んで鑑賞する人もいます。生きる糧となる人もいれば、一生関わらないで生きてゆく人もいます。その自由な態度を咎められることもありません。
誰かがある作品を批判したからといって、その作品を好む人にはなんら問題はありません。
時代によって許容される表現や文化は異なり、時には焚書などの弾圧を受けた歴史があり、そして日本に生きる私たちは「表現の自由」を手にしています。
では何故、サブカルチャーには自由な態度が許されないのでしょう。
常に何かしらの「正しさ」が求められるのでしょう。
一つの理由として「多種多様な人々が目に触れる機会が増えた」ためだと考えています。自ら探しに行かなければ分からないアングラな世界から、インターネットの普及などによりサブカルチャーが身近にある状態へとシフトしました。同時にコンテンツのほうも、典型的なオタク向け作品からポップでライトな作品まで裾野が広がり、様々な人が様々にサブカルチャーを楽しんでいます。
同時に、Twitterのようなツールが普及したことで、受け入れがたいものを目にしたとしても、完全に情報を排除することが困難になりました。「私が正しくない・面白くないと思うもの」を検索すればこんなに情報が出てきてしまう、「私が正しくない・面白くないと思うもの」を好きな人がこんなにいる……。自分が楽しめないものを多くの人が楽しんでいると感じると、まるで楽しめない自分が悪いのだと「錯覚」し、悪感情を増幅させてしまうことは私も身に覚えがあります。一方で、自分と同じ感情を抱く人のことも探すことができます。
その結果、「これだけの人が嫌だと考えているのだから、この作品を嫌だと考えることは正しい」という自身の考えを補強すると同時に、「この作品を好きな人はおかしい」という着地をしてしまう。
それがいわゆるロリ巨乳が登場する作品だったりすれば、「私たち女性を勝手に客体化しているこれは正しくない、やめろ」ということになる。
私がTwitter上で「女性を客体化するな」と訴える方々に特に伺いたいのは、客体化されない存在とは何か、ということです。
客体化されているのは女性だけではありません。男性、犬や猫、車、あらゆるもの客体化されて表現されています。自由な「客体化」を封じた場合、表現の場に残るものは何でしょうか。女性のみが女性について表現できる世界が、あなた方が目指す世界なのですか。
類似した案件において、「全てを消せなんて求めていない」という意見も見ました。ではその消す消さないの判断基準は何ですか。「フェミニスト」を掲げる「あなた方」ではないですか。「フェミニスト」に憎まれる、あるいは傷つけかねない表現を消していった先に、全ての表現が消える創造をすることは誇大妄想でしょうか。
その問題の重要さを、日々表現の規制を求める方々は本当に立ち返ってお考えになりましたか。
昨今話題になった献血やJAのポスターについて「公共の福祉」を挙げて問題視している方々もいらっしゃいましたが、「公共の福祉」とは「多くの人を不快にしない」ことを言い換えたものではありません。例えばポスターにおいて個人情報を載せたり、特定の人物を誹謗中傷したときに初めて問題になります。
性器が丸出しなど、無関係かつ過度に性的なイラストであれば公序良俗の面から問題になると思います。
話は逸れますが、ゾーニングの問題ももっと議論されるべきだと思います。Twitterでは、特に男性向けの18禁イラストがワンクションやゾーニングなしにアップされています。女性向けではゾーニングがなされることが多いため、BLのゾーニング問題に関連してしばしばやり玉に挙げられています。
私は寧ろ、表現の自由のためにあらゆる18禁表現作品のゾーニングを徹底すべきだと思います。性的な表現と普通の描写を一緒くたに放流していたがゆえに、普通のキャラの描写まで誤解、もしくは悪意のある解釈をされている可能性はないでしょうか。
きちんとゾーニングすることで、堂々と表現の自由を行使した方が健全だと思います。
二次創作でゾーニングしていながらめちゃくちゃエッチな商業BLがほとんどゾーニングされていないのは私の中で七不思議の一つです。白塗りや海苔をすれば良いってものでもないでしょうし、何より修正されていないものが見たいので出版社の方には是非ゾーニングをご検討いただきたいものです。
話を戻しまして。
Twitter上でなされている主張は、「女性を勝手に客体化するな」ではなく「女性を誤解するな」あるいは「誤解されかねない表現をするな」ということではないかと思います。そしてこの「女性」は「私」なのでしょう。「客体化」という表現を用いてしまうから語弊や誤解が生まれてしまっていますが、こう言い換えると納得することができました。
客体化された女性に関する表現が、いつかそのまま受け取られて「私」を害するかもしれない。「私」もそう見られているかもしれない。あるいは、この表現は「私」がかつて嫌だったことそのものだ――。
このように「自分」が経験した不快感や被害が創作物とリンクして、登場する女性が「私」になる。そして「私」に加害する登場人物たち、ひいては作品を楽しむ人々へも悪感情が向けられてしまう。
何度も議論されていることだとは思いますが、やはり根本的な原因は自分と客体化された女性に対して、男性からの性被害について共通点や共感を抱いてしまうことによるものといえるでしょう。これは物語に対する共感力というよりも、架空の人物に対する自他境界の曖昧さの問題ではないでしょうか。
この世界に「女性を客体化した」表現があること、そしてそのような作品があり楽しまれていることは、「貴方」の尊厳を傷つけること直接の関係はありません。
「女性であっただけで」セクハラをされた、性被害に遭った、差別されたと訴えるのならば、「男性であっただけで」潜在的な加害者であるとされることも同様に不当ではありませんか。
「まだ起きていない性犯罪」の原因を「客体化された女性像を鵜呑みにする男性」であると決めつけることで、問題は解決するのでしょうか。
現在も無くならない性犯罪は、むしろ表面化しないところに原因があるのではないかと私は考えます。
一人一人性犯罪を起こす原因も違えば、性犯罪の被害を受けた原因も違うのではないでしょうか。それなのに画一的に「表現」に原因を求めるのは、思考停止ではないですか。もしも「表現」に原因があるとするならば、同じ表現を目にしてきたにもかかわらず、問題や犯罪を起こしていない圧倒的多数の方々の存在はどう説明されるのでしょうか。
オタクはよく主語が大きいと言われますね。「女性」という主語、大きくないですか?その主語は「私」ではないですか?
「貴方」が被害を受けたこと、「貴方」が感じたことは、貴方自身を主語にするのが適切ではないですか。たとえ同意者がいなかったとしても、貴方が感じたことは否定されるものではないはずです。
「貴方」に害を加えた人物と、「貴方」が嫌う作品を読む人物は全くの別人です。
「貴方」が嫌いな作品を読んでいる人を嫌いになることもまた、「貴方」の自由です。それだけではどうしていけないのでしょう。「貴方」が作品や作品を読んでいる人を非難する際に、「気に入らない人物からそのひとが好むものを取り上げて満足したい」という感情は本当にありませんか。その感情を満足させたいがために、声を上げているところはありませんか。それは本当に「フェミニズム」でしょうか。
私は、本来誰にでも権利があり広く議論されるべき「表現」という問題がフェミニズムの名の下に一方的に敵視されていると言っても過言ではない現状が嫌すぎてこの文を書きました。
私が観測したツイートや主観のみで構成されており拙いところが多々ありますが、「復讐」という感情への自戒の意を込めてここに残します。
私は推しCP小説を書くのに忙しいはずのに、あまりにもやるせなくて気づいたらこんな長文を……。何故……。
つらつらと思ったことを書き連ねているだけの全くまとまっていない文章ですが、お読みいただきありがとうございます。正直こんなにコメントを頂けると思っていませんでした。
スタンスの提示のため、また議論に挙げられるのが主に男性向けが多いなと感じていたため腐女子という要素を盛り込みましたが、もう少し言いたいことを整理するべきですね。考えていることをできるだけ忠実に表現するということはこんなにも難しい……。
ご指摘の通り私はTwitter上でなされているフェミニズムの主張に賛同していません。ですがTwitter上でフェミニストの方々が意見が発信されていたからこうして考える契機になりましたし、文章を書き他の方に見ていただくことで自分には無かった視点を知ることができたので、良いきっかけになりました。
余談ですが、投稿する前に「普段の特徴を隠して匿名を楽しもう」とあったので意識的に普段と違う書き方を頑張ってみたら「ネカマ」や「男っぽい」とのコメントがあり新鮮でした。普段と違う書き方をしてみるのも面白いですね。支部やTwitterに小説を上げるのが生きがいの、ただの腐女子です。
「名誉男性」というコメントもありましたが、もし私がTwitterで意見を述べたならば、Twitter上のフェミニストの方々は私を自分たちと同じ女性とは認めないのではないかなと想像しています。穿ちすぎかな。
男女という性差は個人の一要素でしかないものの、その要素が個人を占める割合が人それぞれ異なっているということがとても厄介だなと非常に感じます。
このこと自体は至極当然のことなのですが、自分とスタンスの違う他者のこと、ひいてはその集合体である社会のことを考えると全くもって一筋縄ではいきません。
欲望を持っていい。持たなくていい。何かを好きでいい。嫌いでいい。それが私たちが持っている権利ですが、生きているからには権利の行使だけではなく様々に考慮しなければいけないことがあります。
ただ「嫌う」権利の行使にフェミニズムを掲げるのは違うのではないか?というお気持ちです。
Twitter上でなされているようなフェミニズムの主張をするならば、BLは生きていけないよな、と思いますし。正直腐フェミと呼ばれる方々はダブルスタンダードだと感じます。
同時に、「好む」方々からの「嫌う」方々への無配慮も無視できないので、「嫌なら見るな」で思考停止もしたくないです。
とりあえず、私には好きなものがたくさんあります。だからこそ考え続けたい。
アフリカ出身女性のAさんは都内にある外部の病院で糖尿病と診断されている。病院からはインシュリン注射が渡され、自らそれを打たなければならない。事件があった日、Aさんは自分で注射を打つと、急に体が熱くなり、我慢ができなくなって服を脱ぎ棄て全裸になった。そして、自分自身のコントロールが効かなくなり、壁に頭を打ちつけたという。
インスリン注射を打つと血糖値が低下するのに体が熱くなる???
精神的な疾患があるように見せかるため暴力的に振る舞っているだけのような。
Gブロックは3畳ぐらいの窓のない部屋で、天井からは監視カメラがぶら下がっている。トイレはただ単に床に穴が開いている状態で、自分で流すレバーなどはない。ここに入れられた人はトイレを流したい時、職員にお願いしなければならない仕組みになっている。
突起物や破壊した陶器などで自傷行為をしないための部屋じゃないの??
ニヤニヤ笑っていた、手を振っていたというのは一方的な証言でしかないのを簡単に信じれる人って陰謀論にも騙されそう
そもそも難民の認定を受けるための身元保証人って外国人でいいの??
いやいや、国内の難民に関する法規を理解せず難民として認定?? 勝手にあとから悲劇と。
Aさんの暮らしていたアフリカでは、女性の人権が非常に軽んじられていた。農場などで長時間の重労働を押し付けられ、町の人から性被害を受けることも当たり前。常に危険な環境に置かれていた。両親や親戚などから強制的に結婚相手を押し付けられることもあり、拒否することは決して許されない。そんな場所から逃げ出したいと考えたAさんは母国を離れ、日本に来る決意をした。
そして最後に......
彼女は安全と平穏のある生活を求めている。どれだけの苦しみを耐え抜けば幸せになれるのだろうか。
辛い人生から逃れたくて遠い日本まで来たというのに、入管は更に追い打ちをかけるかのようにAさんを辱め、侮辱し、心をズタズタに引き裂いた。
いやいや、こういうオーバーステイから国外へ移送させられないようにあとから「難民」と言い訳にするのが認められたら法律いらないじゃん。
本当に迫害で苦しんでこの国に逃げてくる難民の人たちを何だと思っているんだろう?
「乳児の首を締めたのは、ちょうちょ結びをしてあやそうと思っただけ。よって殺人ではなく傷害致死である。」
「精子が人間を復活させると信じていたことによる魔術的な復活の儀式であり、助命行為をしようとしていた。
・自分の観測範囲ではそもそも「フェミニストを自称しつつ一人一派と主張する人」を殆ど見かけない
・むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方
・またフェミニストを自称しつつ一人一派を主張する人がいたとして、それはフェミニスト思想全体への批判に繋げられるほど一般化された主張なのか?
・フェミニストの中で明示的に「一人一派」理論を採用している人は少ない。一人一派との指摘を行っているのはアンチフェミニストが主である
フェミは多様なものよ。一人一派、それ以上あるかもしれない。それらがぶつかり合うことはあっても、正統と異端という考えは全くない。(p186上野)(上野千鶴子×田房永子『上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください! 』、2020年刊)
フェミニズムは一人一派、まさにそのとおり。/小倉:フェミニズムは一人一派だから、考え方が対立して当然なのだ。/フェミニズムとは一人一派と書かれているので(上野 千鶴子,小倉 千加子 ザ・フェミニズム (ちくま文庫)、2002年刊 感想)
フェミニズムは一人一派だ、というのは(多分)田中美津の言葉だけれども、別にフェミニズムでなくたって人間は基本的に一人一派である。(私は愛されたい、私はピンクが大好き、それゆえ私はフェミニストになれない(のか?) )
上野 千鶴子氏など著名なフェミニストが「フェミニズムは一人一派」と言い続けているのに、「主張する人を見ない」「むしろアンチフェミが言っている」「一般化されていない」と嘘をついてアンチフェミを批判するあなたは、無知なのか歴史修正主義者なのか、どっちなんでしょうか?
そしてこういった汚れた輩から、高潔なフェミニズムを守るために、一人一派は役立ちます。
(追記)
あなたは理解力が著しく欠けているので、質問は義務教育を終えてから。まずは学校の勉強に専念しましょう。
第二に、「主張する人を見ない」「むしろアンチフェミが言っている」「一般化されていない」のはすべて事実です。
これらは全部あなたの観測範囲にもとづく主観です。これが証拠になるのは、小学校までです。客観的な事実なしに主張するなら、フェミニストを名乗ることで他に多大な迷惑を及ぼしていることを自覚なさい。
第一に、上野氏ほかの主張は彼女ら自身の説・主張であって、フェミニスト全体の総意ではありません。
総意なんて存在しないものを議論する価値がありません。上野氏は活動家でもあるという事実(後述)から目を背けて、自分の正当性に固執するあなたの姿は醜い。
自分の耐え難い苦しみがこれまでのフェミニズムに相いれないときに、自分の苦しみを優先して個人が社会活動として訴えることを認めるのが、本来の「一人一派」で、あくまで最後の手段です。それを、自分の気に入らないことすべてに安易に使うから、フェミニズム全体の信用が失われ、アンチフェミニストが指摘するときの便利な道具になってしまったのです。
あなたには無理ですが、あなた以外が「一人一派」の一般性を理解できるよう、フェミニストによる「一人一派」をいくつか引用しておきます。
第二に、小倉さんが言うように、フェミニズムは「一人一派」。だって「わたしがわたしであること」がフェミニズムなんだもの、人の数だけあってあたりまえ。ある人はこういうが、別の人はああいう。批判されても、ああそういう人もいるわね、でもわたしは違うって思っていればいい。(略)
何はともあれ、矢はとっくに放たれている。小倉さんとわたしの「一人一派」に、読者のあなたにもうひとりの「一派」を付け加えてもらえれば、この本の目的は達せられたことになる。
トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること 堀あきこ (2019.2.4)
一方、フェミニズムは、フェミニズム内で意見の対立を抱え続けるものでもあります。(略)
この対立は、しばしば「フェミニズムは一人一派」という言葉で例えられます。なぜ、統一しようとしないのでしょうか。
Where We Are Right Now :多義的に進化するフェミニズムの現在地 清水晶子 (Harper's Bazaar 2017年6月号掲載)
でも、そもそもフェミニズムって何だっけと考えると、これが意外にわかりにくい。「フェミニズムをひと言で定義してください」と言われたら、専門の研究者やアクティヴィストでも一瞬たじろぐだろう。
女性も男性と同等の権利と尊厳を持つと考える人はすべてフェミニストだ、という言い方がある。出発点として、これは間違いではない。
同時に、「フェミは一人一派」という言い方もあって、これもある意味では正しい。実際、フェミニストの間で「それってフェミニズムとしておかしくない?」「いやそれはありでしょ」という議論が交わされることは、珍しくない。
大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法 小松原織香 2019.11.2
フェミニズムは一人一派と呼ばれ、それぞれが「私のフェミニズム」を語ることで成り立っている。それがどんなに間違っていると他人に言われても、「私のフェミニズム」は誰にも否定されるものではない。それが大前提だということはおさえておきたい。
プラスαの読書大特集(第2弾)新書だけで学び直す一般教養15講+α 著者不明
論座 (通号 86) 2002.7 pp.188 - 236
204 ページ
フェミニズムは一人一派というひともいるくらい多岐にわたっているし、その内容もきわめて多様である。だから、どんな考え方がフェミニズムなのかという根本はともかく、一口にフェミニズムといっても実にいろいろな考え方があるという
ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか? 髙崎順子 ハフィントンポスト 2020.2.7
上野 千鶴子 NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。古市憲寿との対談にて、「ジェンダー研究はフェミニズムのツールです」と自身の研究は運動に利用するためと答えて、小熊英二に「活動家としては正しい」と言われている。堀茂樹は上野が自身の運動に不都合なことは隠すと答えていることで、上野を「救いがたいレベル」と評し、小熊と古市も批判し、研究者且つ社会運動家である事は許されるが、「研究者として社会運動家のように行動するのは詐欺」と批判している。
巨大な暴力である戦争によって理不尽に死ぬことはなくなり、飢えや疫病や大虐殺による死も少なくなった
規律と富と技術により、かくして生命を長らえさせることが容易になったこの世の中で、かくして人間のリアルは失われるようになった
この先、人間は生老病死すら克服し、神の庭でプカプカと浮くような生態を獲得するかもしれない
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」
もはや、そこでは死ですら救済にならない、何故だろうか
誰しもが生命の危機という危急の事態から遠ざけられ、子孫を残すことすら、社会的責任を果たすことすら自由になるようになった
人類史上、ここまで多くの人間がそうした「平和」を享受し、それと同時に「平和」という呪いを受けるようになったことはなかっただろう
我々は死ぬまで本当の感情を、本当の必然性や必死さ、危急さ、緊急性をもって人生を歩まなくなった
本当に食べたいものですら、我々はもはや自分で決められなくなってきている
我々に自分自身の意思はなくなってきている、カオナシかのように
もはやこの世界では、死ですら、セックスですら、コロナウイルスですら、戦争ですら救いにならない
システム化された社会はその修復力で、破滅を回避したいという先人の願いが故に、日常を堅持するようになった
それは本当に切実な願いだったからこそ、そこを否定することが誰にもできない
だって、目の前で自分の愛する者が死んでいく現実を肯定できる人間など、誰も居なかったのだから
無かった事にしてはいけない
救わなかった
「あの男には死ぬまで純粋な怒りなんて持てない」なんてセリフがアカギで述べられたが
そうなのだ、この世界の人間の中には、死ぬまで本気になれない人だっている
「生きよ、堕ちよ」と、極限状態になった時にそれでも生き汚く、生き延び
「自分が何者であるかを胸に刻み、望んでこの世界に生まれた二度目の赤子として自分自身の人生を歩み出す」ことを目指すしかない
それぞれの個別作業として、自分自身のオリジナルでパーソナルな苦悩と悲哀を母胎にし、何度も自分の人生を再規定するしかないのだ
人間の可能性を、この平和というシステムなんかでは人間の本質や尊厳は損なわれないことを信じるしかないのだ
…水も栄養も十分に与えるのよ
咲かせるにはその逆
ただ思い切り何かをやってみたかっただけなの
何もない所から頑張ろうとする方がムズかしいのよ
…でも何か見つけて…
――戸田誠二「花(生きるススメ収録)」より
「望むのは平和。ほんの少しの譲歩。
それだけしか望みません。
それだけで、わたし達は立派にやっていける。
その後のことは“みんな”が上手く形にしてくれる。
私はそれを信じています。
だって信じて貰えなければ、私は人間でさえなかったんですから。
虫けらのままで死んでいたんですから
ちょうどいい感じに尊厳を捨てられる
腐女子や夢女子のすなる、お気持ち長文というのを書いてみたくスマホを開いた次第である。
憧れのお気持ち長文なので、方々から種々様々のヘビーなお気持ちが集まって来たらと今から緊張している。
お気持ち長文の流儀に習い、ライブで打ち込んでいるし、校正もしない予定だ。
さて。
フォロワーには一発で身バレする、お気持ちを書こうと思った経緯なのだが。
あるジャンルの、いわゆる「コスプレ撮影会炎上」についての、経緯のまとめと、呟いた人の書いた解説がRTで流れて来た。
それまで炎上してることしか知らなかったが、ざっくりまとめると、
「このご時世に三密を作って撮影会をしていた(ように見える場面が動画内に多々ある」
「交通ルールやレンタル会社のガイドラインを守らなかった(可能性が非常に高い。まぁここはほぼ黒のようだ」
「体調不良者がいた」
……辺りが問題らしい。
しかし、その、「これでヤバさが分からない人はヤバい」と書かれたお気持ち見て、私にはイマイチ、ヤバさが分からなかった。
それらを斜め読みしたけど、大体
……みたいな話だった気がする。
結局の所、このご時世にやらかしたって文脈しか分からなかったので、
「可哀想にね、運が悪かったねって感想しか出て来ない」というのと、運とかそういうの関係ない個人コスプレイヤーのやらかしでコスプレが苦手になった話を呟いた。
そういう人だって何とかジャンル内に留まってたから次から気をつけて元気出してね。
と、自分としてはそういうニュアンス。他にどう見えていたかは分からないけど。
つまり、炎上を庇って見ず知らずの人にヤバい人認定された訳である。
たかだかコスプレイヤーに「反省して頑張ってね」と呟いただけで。
私は怒った。怒り狂った。
それから数時間その怒りの残り火で、腐女子らしくお気持ちを書いておこうと思った訳である。
これを書いてるうちに大体落ち着いてきて、事前に地雷避け出来て偉いねって気分でさえある。
けど、最近の腐女子や夢女子の紛糾を見てると、私のこの、鬱陶しいお気持ちはだれかに必要なのではと思った。
誰かが恥ずかしがってたり、いたたまれない目に遭ってる姿を見ると、自分まで恥ずかしいというアレである。
思うに、オタクというのはそれが人より高くて、同じジャンルの炎上とか、時によっては他ジャンルのそれも自分に取り込んでしまうのではないだろうか。
皆さんは、かなり恥ずかしい目に遭った時、咄嗟にどうするだろうか。
私は、キレ散らかす。
自分自身とか、自分をその羞恥に陥らせたシチュエーションとか指摘を暫く憎む。
わざわざ当人にぶつけないくらいの分別はあるつもりだが、それはそれ。腹が立つ時は腹が立つのである。
そして、羞恥が落ち着いた頃に「何であんなにキレ散らかしたか」を弁明する。今のように。
または、「これはキレても当然の所業で、私がキレたことにいかに正統性があるか」をデータや、時に法令やまとめなども引っ張って来て弁明する。
……皆さん覚えがあることだろう。
前者はこの増田で、後者はたまにRTで回ってくる、学級会や注意喚起文である。
つまり、みんな他人の事が自分のことのように恥ずかしいし、その恥ずかしいというのを認めたくなくて怒りに差し替えているのだ。
そう、これが世に言う『臆病な羞恥心』である。オタク女は虎だ、虎なのだ。がおー!
そして、自分や自分の親族のやらかしのように感じてしまうから、息子の頭を掴んで、
「この子がご迷惑を掛けて申し訳ありません! ほら! お前も謝って!!」とやりたくなる。
そして昨日の自分は、「は? おばさんだれ?? オレ、何で謝んの??」と話をほじってたのでブロックされた。
そんなところじゃないかなぁと思う。
閑話休題。
なので、まぁ炎上に限らず、誰かが怒っている時や自分が怒っている時(○○を破損したとか、××に迷惑掛けたとかそう言う奴)、
または自分のような末端のジャンル民の「可哀想にねー」にマジムカむく時。
「それがそのジャンル(の人)じゃなくても同じくらい腹立たしく恥ずかしいか」
「仮に地球の裏側で同じ事が起きた時も同じくらい怒れるか」
「私の恥ずかしいを全世界の人に受けとめて共感してほしい!!」という魂の叫びで。
それはきっと、魂の叫びで共感者を集める同人というジャンルならではじゃないかなと。
最初のコスプレの話に時を戻すと、あれは「交通違反」が悪かったのと、騒ぐのは実際に騒ぐのは陽性者が出てからでいいんじゃないかなぁと思うのだ。
事例として出して、「炎上しないように気をつけようね」までだろう。今の時点では。
画面に映っている情報以外に情報が無い時点では、当人たちの「ちゃんとやった」は限りなく黒に近いグレーなのだ。
それが民主主義なので。
そして、多分すげぇアンチでも居なきゃ、そんな全カット検証しようなんてならないし、この時期じゃなきゃ、動画じゃなくて写真だったら、屋外だったら…。
ちょっと条件が変われば違ったものにキーキー騒ぐ体力は自分にはもうないのである。
まぁそんな訳で、結論としては、「運が悪かったね」「元気出してね」な訳である。
あと、話は変わるけど、アンチフェミニストもオタクもそうだけど、最近の我々、「既存の価値観に自分のアイデンティティ預けすぎ」だと思う。
だからジャンルで起こった事で自分の尊厳がごっそり傷つけられた気分になるんだよ。
キミのアイデンティティは「このジャンルを推す自分」じゃなくて「何かに夢中になれる自分」だよ。
あとね、同人のことを公式に問い合わせるのはマナー以前の問題だから、そこんとこよろしくな。
色々恥ずかしい事は多いけど、元気だしてこー! ふぁいっ!
追記:
こんな12時間もコメントが付かないお気持ち長文を最後まで読んだ上で、数分差で感想書いてくれてありがとう!
つまりこの、何か一言物申したいという欲の為に、オタクは電車に揺られて本を売ったり買ったりするんだってわかったかな。
かつて人々は理解できない現象を目にすると、「魔女」のせいだとした。
雷が落ちれば、魔女さまがお怒りだと恐れた。
ゆえに、魔女という概念は、それら未知の恐怖とすべて関連付けられ、
解明された現代となっては、魔女はおそるるにたらぬ存在となった。
かつての魔女に起きたことと同じようなことが、いま、「おっさん」に起きている。
ただし、おっさんに向けられているのは、
「恐怖」ではなく、「嫌悪感」だ。
とりあえず、嫌な気分になったら、おっさんになすりつけときゃよくね、
という状況になっている。
パワハラ、セクハラ、くさい、きもい、仕事できない、クチャラー、うんこ、
そこにいるだけ、不快をもたらす存在として認識されるようになってしまった。
そんなにいじわるすると、ラミパスラミパスルルーでセクハラ大魔王に変身して、
ほんとうにHなこと、しちゃうんだぞ♥
そして、戦争教育の本質って「戦争反対!」というプロパガンダの刷り込みではなく、そういった「人の尊厳や豊かさが踏みにじられる」ことを回避する必要性の理解にある。
でも今日本で行われている教育にとっては、そういった「奴隷が自分たちが奴隷であることに目覚めてしまう行為」を嫌っているから、ただひたすらプロパガンダを繰り返させたがる。
そのプロパガンダの繰り返しに対して、もうちょっと踏み込んで他の物事にも応用できんじゃないかって意見が出てくると、教育の邪魔だと袋叩きにあう。
その光景は、戦中における非国民扱いと全くそっくりで、ついさっきその非国民扱いは酷いよねと教えていた教師が今まさにその相手を非国民として罵りだす。
マジでそういうの見てると、ああ日本の教育って支配者の都合のためにあるんだなあと改めて思うわけよ。
本当に酷いもんだ。
女性が性的消費されてる表紙と同数ぐらいになれば流石に嫌だってなるのかなって思ってたけど
まぁ、女性を性的消費する様な描写なんて書店であっても、漫画の中であっても害でしかないので、どんどん排除して欲しいし、anan批判して自らの首を絞めて欲しい。書店で子どもたちが見る場所にもエロが無法地帯になっている現状を見れば、規制すべきだよ。せめて年齢制限ぐらいは設けて欲しいよね。
あと忘れてはならないのが、男女では社会背景や抑圧されてきた歴史が違うので「男性を性的消費する事」と「女性を性的消費する事」は決して同列には語れないという点。
本当に本当にそう。
ananを「男性の性的消費」という面から批判している層は、男性の性的消費どころか表現の自由も本当はどうでもよくて、もっと言えばヘテロ男性向けのエロ表現が消え去るという危惧なんて本当は持ってなくて(ネットやホモソ社会でいくらでも得られると肌で感じてるから)、ただただ「弱者であると分かりきってる女性の必死の抵抗」を言葉遊びで潰すのが楽しいだけなんだよ。青い論の人とかまさにそう。
ananと宇崎ポスを比較する人が多いが、献血ポスの主要論点が「献血ルームという公共性の高い場で、巨乳女性を性的シンボル化した表象を用いることは、社会において『胸の大きい女性は性的に扱ってよいもの』との固定観念を促進する」だったのを考えると、ananはこの2つの論点のいずれにも該当しない
一方で「献血ルームという公共性の高い場で、過度に性的な掲示を行うのは不適切ではないか」という論点も存在する この場合は、後者の問題にananも抵触すると判断しうる 「献血ルームのような場(=前者の問題にも抵触する)であれば、自分もそれには強く反対する」という声が少なくないのはそのため
自由戦士はこの論点を理解できていないために、「献血ルーム等の公共性の高い場だけでなく、書店でもananの掲示は不適切」と言わんばかりの主張をしてしまっているが、これではそのまま「じゃあ書店で宇崎ポスター貼るのもダメだよね」と返ってくる 論点の把握を欠いたミラーリングは結果的に自滅する
もし「胸の大きさが無関係な献血に人を集める目的のポスターで巨乳女性を性的シンボル化した表象を用いることは、社会において『女性の身体の性的特徴を物的に扱ってよい』との固定観念を促進する」といった説明だとどうですか? -「ananはこの論点に該当しない」と言えるように思います。
「そっちがこうなら、これはどうだ」的な話は、どうかとは思うんだけど、いつもは「性的搾取?性的モノ化?」みたいな人たちが、「anan」の年一の特集だけには躍起になっているのは、やっぱり側から見て「ふむ……」となってしまう。
男の半裸を表紙にするのはけしからん、不快だ、というならそう言えばいいのに、自分からは意見を出さずに「フェミニストはこれに文句をつけない、ダブスタだ」と言うばかりなのね。男の裸と女の裸が同じ意味なわけねえだろ。行き過ぎたジェンダーフリー教育とやらでも受けたのか?
俺の観測範囲でananのセックス特集を決死擁護してる女性やフェミは見たことないわ。表現の自由的な観点から擁護してる人や事実として間違っているから指摘してる人はいるけど。そういう意味で性的/性的消費な表現ならどんなものでバックンバックン食いついて徹底擁護する表現の自由戦士はすごいな(棒
僕が知っているフェミニストの人達はananがセーフだなんて言っていないのだけど、そんなこと言っている人がどこにいるの?
「綺麗な裸」と「チンコ立たせるための裸」ということで一応説明されていると思います
女性の尊厳を踏みにじっていない男性誌をも撤去せよと主張する人がいるとしたら、それはもう僕には分からない。
献血ポスターは多くの人の目に付くものなので、あの内容ではセクハラになりえます(女性の尊厳とはまた別の問題です)
プライベートというのが何のことだか分かりませんので、それについてはなんともいえないですね
男性が「エロい男の写真を公共の場に置くのは男性性の消費だ。撤去しろ」と思うのならそう訴えればいいじゃないですか?
なぜしないんですか?
女性は声を上げた。だから女性蔑視的なコンテンツは姿を消しつつあるのです。
男性蔑視的なコンテンツを消したいなら、男性が声を上げるしかない。
周りのふっつーのろう者にヒアリングしたので、その結果を踏まえて疑問にお答えします。
とはいえ私の周りには中高年ろう者が多いので若い世代の意見はそれほど反映できていないけれど。
あとみんなのコメントを見て思うんだけど、「ろう者は・・」つっても立場や年齢やらなんやらで意見は相当バラバラだよ。
聴者と同じようにね。
手話界隈めんどくせぇという意見を見たけどそれはマジでその通りだと思うw
☆☆☆
・聴者が聴者同士のコミュニケーションのために手話を利用することが「文化の盗用」「ろう者の権利や尊厳を損ねる行為」であるならば、聴者はオリジナルのハンドサイン体系を新たに構築する必要があるけど、めちゃくちゃ無駄だよね?
→無駄ですね。ただ「文化の盗用」と思っている人はろう者のなかでは少数派だと思います。
そもそも今回のニュース、私の周囲のろう者は好意的なリアクションが多数でした。微妙・・っていう人ももちろんいたけど。
広く言えば日本語対応手話だって聴者が作ったと言えなくもない・・
・日本語対応手話というすでに確立したメソッドがあるなら聴者が聴者同士でそれを利用しても別にいいよね?
→いいんじゃないでしょうか。私はその場にろう者がいないのに聴者同士で手話で話すのは恥ずかしいですが。
もちろんそう思わない人もいるってだけで。
・副産物としても、日本語対応手話を使える聴者は、少なくとも何も知らない聴者より多少はマシな存在だよね?
→少しでも・・・日本語対応手話だろうと手話ができるだけで「素晴らしい」「我々に理解のある聴者」と思う人が多数派です。
そう思わない人も以下略
・ろう者の多くはバイリンガルだろうから、聴者にとって比較的習得の容易な日本語対応手話を受け入れてもらうほうが助かる(=社会的コストが小さい)のだがそれとも聴者は日本手話も日本語対応手話も使うなと言っている?
・「俺たちの手話」を使うのはかまわんが手ぶらじゃ許さん、それなりの誠意を見せろ、って言っている?
→そう思っている人はいませんでしたね。
・なにがいけない?
→特にいけないことはないです。
・どうしてほしい?
☆☆☆