はてなキーワード: The MANZAIとは
ご来店の皆様、本日はショッピングモールネオンにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。
このあと13時より、センターステージにて、お笑いコンビ『アルコ&ピース』のスペシャルステージが催されます。
アルコ&ピースのお二人は、2006年結成。2012年THE MANZAI第3位。
2013年にはキングオブコントでも決勝戦に進出している実力派コンビ。
その一方で、「俺達の笑いは他の奴らとは違うんだ」という、芸人を始めて3年目くらいの若手が抱える厨二感がいつまでも漂い、
ネタが滑った時も、「今日の客は本を読まないタイプだな」「文学性が無い、アンテナ張ってない奴にはわからないネタだし」などと、開き直ることも少なくありません。
ただ単に王道のネタを成立させるだけの技術が無いだけなのにも関わらず、その稚拙さを薄っぺらい雰囲気で誤魔化す、言うなればシュールに逃げたお笑い詐欺師。
袖に芸人が集まることもない、同業者からも評価の低い、2人のネタをお楽しみください。
バラエティへの出演だけでなく、情報番組やMCも務めるマルチプレイヤーでおられます。
一見、気の利いたコメントを飛ばしているように聞こえるも、よくよく注意を凝らしてみると、
低い声で雰囲気ありげに喋っているだけで、中身は何もないデカいだけのハリボテ男。
「敢えてこっちの路線狙ってます」のようなツラをして、ただ単に面白いことが何も浮かんでいないだけの独活の大木。
「芸能人とはあまりつるまないなぁ」などと周囲に吹聴するも、単に後輩に慕われていないだけの孤独なモンスターでいらっしゃいます。
そうした異名をテレビの需要が少ない事への揶揄であることにも気づかず、その気になってアホ面を晒すただの小物。
静岡で知り合った女性アナウンサーと結婚され、今では優しいパパの一面もお持ちです。
相方の平子さんが愛妻家として仕事が増えたのを横目で見ており、自分が結婚した途端、急に家庭人をアピールし始めるという前代未聞のコンビ間でのキャラ泥棒。
その浅ましさには目も当てられないと、業界内外からも非難の声が多く飛んでおります。
そんなお二人が織り成す「アルコ&ピース 爆笑お笑いステージ」。
皆さまお誘い合わせの上、ぜひお越しくださいませ。
https://www.youtube.com/watch?v=fHrzrL06I2A
↑動画も見てね。収益化停止してるということで書き起こししました。
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今日はですね、「THE SECOND~漫才トーナメント」という大会についてちょっとお話ししていけたらなと思っておりますね。
いやーまずね、あの「THE SECOND」が放送されたタイミングと同じタイミングでオリラジ
アカデミーって僕らのYouTube大学で、藤森くんとの番組に生放送してた。生放送という
かプレミア配信してたんでね。うわ、裏被ってるよと思ったんですよ。
なんかコメント欄でも「『THE SECOND』とかぶせんじゃねえ」とかって、「もうお笑い芸人が『THE SECOND』とかぶせんな」とかあったんだけど。ふ~ん。あっ、かぶってんだぁ。
僕「THE SECOND」って知ってたし、興味なくはなかったんですよ。言ったらもう
知り合いとか先輩が出まくってるから。あぁ、あの先輩どうなったのかなとか、知り合いどうなったか。三四郎とか同期だしね。
うーん。言ったらギャロップさんとかもね。若手の頃に大阪の劇場でご一緒させてもらったりとかそういうのもあったからねぇ。もうベテラン枠。15年以上が出るんですよね。大会でね。で、客評で決めていくと。そこまで知ってたんだけども。いつかってまでやってない。こっちはこっちでさ、あのスケジュールがあってこの日にっていうのが、たまたま一緒だったから。
あ、そうなんだ。わ、一緒かぁと思いきや、視聴者層の違うし。何だったら戦いだと。常にね。あらゆるコンテンツつうのはずうっと戦いだから。やってるじゃねえかぐらいの感じで
オンエアしましたね。
その結果ね、僕のほうのYouTube大学が急上昇ランキング4位までいきまして。相方のほうの後編は急上昇ランキング1位になりましてね。よかったなあと思いましたよね。その「オリラジアカデミー」木本さんにも活躍していただいてみたいな。そういうのもあって。
でも裏だったしって思ったんですけど。だって見ないで何か論じるのっておかしい
よねと思って、見たわけですよね。
ギャロップさんですとか三四郎の漫才を見ましたし。大会のあり方そのものも含めてね。
中田がどう思ってんのかっていうことですよね。はい。ここなんですよね~。
これでさネタが面白かった云々っていうのもそれもあるんだけど、大会そのものが
どういうふうに中田、捉えてるのかっていうことで言うと。
本当にいろんな側面があると思う。単純に「M-1」自体がそもそもは「M-1」との兼ね合いの中で生まれた大会じゃないですか。「M-1」はテレ朝でやってて。この「THE SECOND」ってフジテレビでやってるんでよね。
そんな中でテレ朝が作ったこの「M-1」っていうのがいろんな、その後賞レースできましたけども、すべての雛形になってるような形ですよね。
というのもお笑いで言うと東京ってああいうお笑いの賞レースって。
ショータイムのショーのレースじゃなくて受賞の賞ね。賞レースって我々言ってるんだけど、賞がついてるレースだよね。こういう大会自体が、関東はあんまなかったんですよ。テレビ局は。でもこれ、関西の文化で大阪はABCお笑いグランプリとかなんとかMBSアワードとかなんかいろいろあるみたいなんですよ。
でもその吉本の中でも大阪と東京って全然文化が違うから、その東京の人間がじゃあ大阪に行って大阪の賞をとれるかっていうと相当厳しいんですね。大阪の賞は大阪の芸人のものだっていうのが、大阪のテレビ局の中でも芸人さんの中でも視聴者の中でもどっかあるんですよ。
だから東京から来た奴らっていう感じだから、なんかね大阪の賞レース文化ってちょっと遠くに見てたんだけど。ただ吉本興業ってすごくその賞レースを中心とした事務所なんですよ。だからそのテレビでどれだけ売れたか以上に漫才の賞を取ってるかどうかで劇場のギャラが上がる下がるとかっていうのがあったりしたんだよね。少なくとも俺がいた時は。
だから僕はずっと不平等だなと思ってたの。なんで、東京はショーが少なくて大阪はショー
がいっぱいあるのに賞を取ったらギャラが上がるんだよって。フラットじゃなくない? 大阪超有利じゃんとかいろいろ思ったわけ。
でもそれはそれで、テレビ局の全国ネットが東京にあるんだから東京の芸人は売れやすくて有利じゃないか。大阪から移住しなきゃいけないんだぞとか、いろんな理由があるから。
必ずしもね。そのどっちがっていうのはないと思うんだけども。その大阪の賞レース文化っていうのはなんかすごく遠くに見てたんだけども。
そのM-1っていうものができて僕はそこに吉本って入ったの、「M-1」ができた後ですから。
2004年にNHK入って5年にデビューするんですけど、2001年に「M-1」始まって。僕は大学生の時に大学1年生の時に「M-1」ってのが始まったっていうのがね。覚えてますから。
その「M-1」の大会の存在意義っていうものも含めてこのセカンドができたわけですよね。「M-1」っていうものは要するに1年目から10年目までしか出れなかったですよ。まず
これは島田紳助さんが10年やって売れないんだったらもう諦めてもいいんじゃないかっていうことでお笑いという、いつ売れるかわからないけれど、そのためがゆえにズルズルやっちゃうという芸人さんを産まないために10年目までに光を浴びないんだったらやめなはれ
というですね。
そういう言ったら厳しい愛の鞭のような意味を持った年齢制限だったわけですよ。
ところが1回終わるんだよね。「M-1」自体がね。なんでかって言うともちろん紳助さんが辞める辞めないとかもあったんだと思うんですけど。それ以上にやっぱりこう、10年目までのおもしろい人たちが大概出ちゃって。ちょっとこう、「うーん…。なんか、どうする?」みたいな状況になった中で。「THE MANZAI」とかできたり、(一緒に?)しましたよね。
そんな中でまた戻って、15年まで広げたんだよね。芸歴15年まで出れるようになったわけ
よ。この時点でかなり中堅に優しい大会になったんだよね。
これ10年って、俺が、俺はずーっとこう最初にデビューした時に武勇伝っていう
もの自体がそもそも漫才じゃないっていうことで準決勝まで行けたんだけど決勝に上がれ
なかったんですよ。
そこから漫才じゃなきゃいけないんだと思ってずっと漫才やってたんだけど、漫才自体が俺が一番向いてるフォーマットじゃなかったんじゃないかって思ってたし。僕らの実力不足でいけなかったんだよね。優勝も決勝までね。ずーっと敗者復活とか準決勝で敗者復活。ずーっと。そんな感じだった。
そんな中で、でもまあ10年でやめれるっていう側面もあるわけよ。あれって。
芸人からすると。もう出なくていいっていう側面もあるわけよ。ところが15年まで広がることによってずっと出なきゃいけなくなっちゃうんだよね。
ここね。でも15年で言ったら解放されるって所があるわけよ。解放されるのか? それともチャンスがなくなるのか? この2つの視点があることがすごい大事なの。
で、「THE SECOND」始まったんだよね。15年以上のキャリアの。ということはだよ? これ、全キャリアがその賞レースに向かうことになったわけですよ。
この「M-1」至上主義っていうのが「M-1」で見出された人たちはたくさんいるん
だけど、俺からすると正直みんな「M-1」目指しちゃってもなーって思ってたんですよね。
もちろんいろんな意見あると思うよ。「お前は決勝行ってないんだから黙ってろ」とか
いろんな意見あると思うけど、「M-1」ばっか目指しちゃうんですよ。みんな。
売れるために「M-1」しかないって思ってる人もすごい多かったのね。今、わかんない。「YouTube頑張れ」とかっ言う人もいるかもしれないけど、「M-1」しか
ないと思って、「M-1」で何とか売れるために1年準備して「M-1」に行くんだけど、「M-1」のすごいところって、発掘してるっていう側面もあるんだけど、選抜してるっていう側面がすごい強いから。言ったら「M-1」で優勝したとか準優勝したとか、それぐらいの功績を残した人たち以外は、言ったら日の目を見ない大会なんですよね。あんまり。
特に「M-1」の決勝出たけど、下位だったっていうコンビって、逆にレッテル貼られたりするじゃないですか。相当しんどいんですよね。僕の感覚からすると、お笑いって
漫才だけじゃないんですよ。まず。
漫才が偉いとかも実はないんですよ。だけどあの大会のすごいところは、漫才が偉
いっていうふうにしたところで実はみんな2001年からのお笑いの流れしか知ら
ない人って漫才ってすごいもんだって思ってると思うんですけど。
実はそれよりちょっと前って、言ったらボキャブラとかの時代って漫才師のほうが少なかったんですよ。ネプチューンさんとか、ナインティナインさんとかロンブーさんとかの世代
ってどっちかというとそのショートコントとかコントとかそっちのほうが多くて、漫才ってちょっとレトロな演芸になりかけてたところがあったんですよね。
それをルネッサンスしたのが、復興したのが、復活させたのが「M-1」だったわけなんですけど、そういう風に相対的に見ると漫才っていう演芸とコントっていう演芸とそれ以外の演芸っていうのは実は本当はフラットなんですね。
みなさんの中で落語と漫才どっちが偉いですかとかって言われてもなんか「う~ん、知りません」って感じじゃないですか。だけど昔は落語のほうが圧倒的に偉かったですよ。これ。
落語家さんは出番が黒い文字で書かれてて、それ以外の漫才師さんとか手品師さんとかそういう人たちは全部赤い文字で。色のついた文字で描かれて紹介されて落語という主の演芸を賑やかす、いろもんって言われてたんですよね。そういう感じで時代によってこの演芸が格式が高いっていう認識って全然違って。
ある時は落語、その後である時は漫才みたいになったりもしたんですけど。それはすごく相対的なものなんですよ。すごく相対的なもの。そんな中で「M-1」っていうものがもたらしたのは、僕から言うと漫才至上主義に近いものでそれのカウンターカルチャーに置かれちゃったのが「エンタの神様」とかなんですよね。
エンタの神様はどっちかっていうと「ボキャブラ」とかそういうのもそうなのかもしれないですけど、テレビバラエティの中で言ったら何でもいいからやるっていう感じですね。
もちろん漫才とかもやる時間もあったけど、漫才の時間は「エンタ」ってすごい少なくて漫才師は出づらいって言われて、タカアンドトシさんでも「コントで出ろ」とか、サンドウィッチマンさんでもコントで出ろとか言われて、コントに漫才を直してやるぐらい、お茶の間にセンターマイク1本で2人が立ってるだけの演芸は伝わりづらいだろうっていう五味和夫さんの強い意向によってコントにしていくっていう。そっちのほうがテレビ的じゃない?っていうそういう流れの中でやられてたんですけど。
だから言ったら「エンタ」芸人と「M-1」芸人って、2種類あるとしたら、なんかエンタ芸人のほうが一発屋の扱いを受けることのほうが多くないですか? でもね、冷静に考えてほしいんですけど、エンタ出身で売れ続けている人もいっぱいいるし、「M-1」出たけど一発で終わった人もいっぱいいるんですよ。
そうですよね。「M-1」の決勝に出たけど、今その後出てない人も全然いるんですよ。だけどなぜか「M-1」で決勝を出て、その後売れてない人ってのはあんまり一発屋だって言われないんですよ。こういう、まず流れがあるんですね。なので、「M-1」は漫才が格式が高いっていうふうに見せた流れがあることと、キャリアが10年って限定してたんだけど、それを伸ばしたっていうことがあるっていう事がまずあるんですよね。
そんな中で、僕がもう1個問題だと思ってるのが、実はその若手がすごく、その「M-1」に集中しすぎちゃって、逆にチャンス減ってんじゃないかなと俺は思った時期があったんだよね。他の出方、いっぱいできるんだもん。「M-1」に向けてだけやる人、すごい多くて。
減ってる?チャンス、もしかしてって思うこととか。あとね、他の賞レースとの大きな違い。これ、功罪両方あるんですけど。「M-1」って圧倒的に審査員に光がめっちゃ当たるんですよ。審査員がなんて言うかっていうのは超重要なんですよね。
特に松本さんだよね。松本さんが「うーん、もっと点数入ってもよかったと思いますけどね」って言ったら、順位が低くてもものすごいフォーカスされたりしますよね。あれがもう圧倒的な特徴なんですよ。この「M-1」の「M-1」の圧倒的な特徴が、審査員にものすごい力があって、審査員がものすごい光を当てられる。
あんなに審査員が華々しく登場する賞レースってないんですよ。最初の1時間ぐらい、実はネタ始まるかなと思う。始まんないじゃないですか。審査員の紹介が、結構長い大会なんですよ。だからこそ成功してるとも言えるんですよ。
他の大会見てると、重みがあんまりなかったりするんですよ。要するに言ったらネタ番組と差別化が図れないんですよね。だからこそ大御所の審査員のほうが厳しいこと言うとかがすごいフォーカスされますよね。上沼さんがとろサーモンさんに対して何か言ったとか、和牛さんに対して何か言ったとかもすごい注目されるように、紳助さんがなんか言うかとか。
でもなんせとにかく松本さんがなんか言うかっていうところすごく強かったわけですね。M-1ってね。これが大きな特徴。そんな中で、僕がずーっと思ってたことは、松本さんがあらゆる大会にいるんですよ。
これ冷静になって考えてほしいんですけど、「1本グランプリ」にもいらっしゃいますよね。「滑らない話」もいらっしゃいますよね。漫談でも大喜利でもいるんですよ。なんだかんだで、その若手を審査するっていうお仕事がめっちゃ多いんですよ。それは第一人者だからカリスマだからっていう意見もあると思うんですけど、今までもカリスマ的な芸人さんってたくさんいたんですよ。
たけしさんとかさんまさんもそうじゃないですか。でもたけしさんやさんまさんはそんなに審査員いっぱいやらないんですよ。ここが松本さんの特筆すべきところで。
松本さんはあらゆる大会を主催して、あらゆる大会の顔役になってたんですよね。ここで非常に重要なことが、賞の審査員が、どのジャンルでもですけど、実はその業界で一番力を持つことが大きいんですね。例えば、だから芥川賞ってすごい有名な賞ですけど。
芥川賞の審査員をやっている作家が一番偉いんですよ。実は。なんでかというと、どの作家がいい文学かっていうのを規定できるからなんですよね。この文学がいけてる。なぜなら、こうだからだっていうふうに決められる作家が一番偉いんですよ。
だから太宰治とかは、それを賞を、僕に、芥川賞を僕にくださいとか言って審査員にお願いしに行って断られたりとかっていうことがあるわけですよね。
それぐらい、その審査員って権力なんですよ。この権力が分散していたらまだいいんですけど集中してるんですね。なんせ漫才だけでキングオブコントもそうですよ。キングオブコントにもいて、「M-1」にもいるって、要するに言ったら、主流二種競技なんですよ。漫才というかコントって。その両方にいて。なんと大喜利にもいて、漫談にもいるんですよ。4種競技。5種競技だとしたら、全部のジャンルの審査委員長が松本人志さんっていうとんでもない状況なんですよね。これって。
たぶん他の業界だったら信じられないぐらいの独占状態にあるんですよ。これ、どうなるかって言うと、松本さんがおもしろいっていうか言わないかで、新人がキャリアが変わるんですよね。その権力集中っていうのは、1個の見方で言うと松本さんがそれだけ偉大な人だから求められてるんだって見方があると思うんですけど、求められてるっていうことと、実際にやるっていうことはちょっと違うことなんですよね。
求められてたとしても、冷静に考えたら実際にやることがその業界のためになるかどうかでいうと、もう僕の意見で言うとあまりためにならないと思うんですよ。なんでかって言うと一つの価値基準しかないっていうことは、それ以外の才能は全部こぼれ落ちるからなんですよ。
その人の理解できないお笑いに関しては全部こぼれ落ちていくんですよね。いや、とはいえ、中田とはいえ、それでうまくいったんじゃないか、「M-1」は成功したんじゃないかっていう議論があると思うんですけど。
もちろん素晴らしい芸人さん出てったんですけど、この「M-1」における成功って何なのかってことだと思うんですけど。それってネクストスターの発掘じゃないですか。
つまり本当の成功って松本さんを超える芸人が出てくることなんですよ。「滑らない話」「M-1」この「キングオブコント」「1本グランプリ」もう何年もやってますよね。「M-1」にいたっては2001年からだから、言ったらもう20年近く。休んでいった期間があるとはいえ、20年以上やってるんですよ。20年やって、松本さんを完全に超えたっていう芸人さんをこの全大会全部やってですよ、誰か産んだんすかって言うと、誰かが新しい大会の審査委員長になって、みんなが納得するような人が出てきたら、もしかしたらそれは成功したっていえるかもしれないですよね。
ところが、新しく始まった「THE SECOND」のアンバサダーという役割は、松本さんなんですよ。わかります? つまり20年間松本さんは松本さんを超える才能を発掘できなかったんです。発掘できなかったのか、どうなのか。
それとお笑い回は、今向き合わなきゃいけないと僕は思うんですよね。みなさんがどう思うかわからないです。僕の意見だけ言うと、ここのっていう、このアンバサダーという立ち位置がすごい微妙な立ち位置ですよね。なんでかっていうと、審査に影響を与えない大会の顔だけを求められてるわけですね。権威だけとしてアンバサダーってあるわけじゃないですか。
ブランドのアンバサダーとかいますよね。でもそれは広告塔であってブランドのディレクターではないですよね。クリエイティブディレクターとかではないから、広告塔になってくださいという言い方なんですけど。ただね、ここ、すごいポイントなんですけど松本さんってめちゃめちゃ評価に介入していくタイプの人なんですよ。
今回それが浮き彫りになったのがマシンガンズさんの時ですよね。マシンガンさんが自分たちの書き込み、自分たちについての書き込みを読み上げていくぜって言って、「マシンガンズがこういうふうに言われてる! なんでだよ!」って突っ込んでいくっていうネタがあるわけですけど。
それをやってすごいウケたわけですよね。ウケた後に、「いやでも、あの紙を出すのっていうのが、どう捉えられるかな」っていう意見を言ったわけですよね。あれがいわゆる介入。
価値観への介入に値するわけですね。
「M-1」でもそういうことはたくさんやってきたんですよ。「M-1」でも、もっと受けてもよかったけどなとか、もっと点数入っても良かったけどなってなった時に、「あっ、えっ? そうか。点数はもっと高くあるべきなんだ」と。「この人たちは面白かったのにうけなかったのは間違いなんだ」っていう。あれは審査とか、価値への介入なんですよ。
それをまあ積極的に求められてるから審査員なんじゃないかっていう見方で言うと、今回審査員ではないにもかかわらず価値に介入していったんですよね。その価値への介入を、しかも今回凄かったのが、跳ね除けちゃったんですよね。客票が。マシンガンズが勝っちゃうっていう。だから余計に変な感じになるわけですよね。
「ん? どっちなの?」っていう。紙を出しても良かったの?良くないの?
そういえば昔 THE MANZAI ゆう番組があったなぁ。いつ頃やったかな。
視聴者・芸人含め千鳥を「理想の芸人像」みたいに見てる人が多いのは
千鳥がロケが評判になって売れたというのが大きいだろうなと思う
M-1決勝4回、THE MANZAIで3位・2位・2位って成績もめちゃくちゃ凄いんだけど
それの切り抜きとかが出回ったのが一番の理由だと思う
(YouTubeで「千鳥 ロケ」で検索すると数百万再生の動画がゴロゴロ出てくる。違法アップロードだけど)
一般人の店員と絡むとなるとガチガチ台本みたいなのは疑いづらい
(実際台本かもしれないんだけど、スタジオ収録のバラエティ番組に比べたら難しい)
それに加えて千鳥の2人の一般人に対するボケ・ツッコミがかなり自然体であることも重要
思った感想とか思いついたボケをそのまま言う、という姿勢自体が評価されてる
長文でたとえツッコミした時の「家で考えてきただろ?」みたいな違和感が
ノブが「クセがすごい」みたいな具体的な説明を省いたツッコミが受けるのも
本当に困った時ってこうなるよな、みたいな感情を受け手に与えているから
千鳥の2人はこういう「技術を感じさせない技術」にめちゃくちゃ長けてる
この「裏表がない」ことを最近のお笑い用語では「ニン」と言ったりする
つまり「客前でも素の自分が出ているか?」「これはこの芸人本来の姿か?」というのを視聴者が気にするようになった
芸人同士がプライベートで仲が良いかとか、キャラクターに嘘がないかとかまで評価されるようになっている
千鳥でいうと大悟は酒・煙草・女・ギャンブル好きみたいなあからさまに昭和の芸人チックなキャラクターを早い段階からアピールしたおかげで
浮気が週刊誌で報道されても大してイメージダウンしなかった、というのがその証拠
まとめると、
日本の文化は「マジ」と「なんちゃって」に分けられると思ってるんだけど
80年代はなんちゃってが優勢だった時代なんだよ。バブルで調子乗っててチャンネーシースーギロッポンとかふざけた時代。
テレビだったら秋元康ととんねるずの時代だよね。真面目が馬鹿にされる時代。
それが90年代はマジ優勢の時代になっていくのよ。正確にいうと91年にバブルがはじけてその残り香がなくなった94年くらいからかな。
そして00年代はまたなんちゃってに戻るみたいに繰り返してるとおもってる。秋葉系の時代と言っていいから「てへぺろ」でもいいかもしれないw
10年代はけっこう「マジ」が復活してる感あったよね。震災の影響あるのかもなぁ。
90年代は「マジ」の時代だから自分で作詞作曲しないと音楽で飯食えなくて、不遇だったのがアイドルのSMAP。
アイドルというジャンル自体が「なんちゃって」になってしまったので、活躍の場がなくアイドル冬の時代なんて言われていた。
だから開き直ってなんちゃってを始めたのがSMAPxSMAPで、なんちゃってが得意なフジテレビでコントのコーナーを取り入れたアイドル番組を始めたのが戦略的だよね。
でも音楽はマジの中心だったから、彼らは従来のジャニーズがやってた王子様的な少女漫画の世界から、リアルな青年をイメージさせたマジに寄せた青いイナズマとかSHAKEで勝負したんだよね
光ゲンジのだれかがSMAPの歌の路線をうらやましがってた話をしてたのを覚えてるよ
とはいえ中居の超絶的歌唱力でやっぱりSMAPはなんちゃって扱いだったけどねw
モーニング娘。もそのマジの時代に生まれたアイドルって感じだよね
ASAYANがそもそも「マジ」なんだけど、でも平家みちよに決まったオーディションの負け組で組まれたっていう流れがなんちゃってだし、いかにもアイドルな売り方だよね
とはいえ00年代みたいに黒髪にしろなんてこともなく、金髪の後藤真希がそうだけどマジ時代に対応したアイドルではあった
だからそのあと出てくる00年代の歌が下手で口パク上等でダンスがゴミなで、握手だのじゃんけんだので優劣を決めるAKBなんかと比べて歌とダンスは抜群にうまかったから、ハロプロオタクはそこが心のよりどころだったよね。
アイドルなのに「アイドルっぽくない」が誉め言葉という変な時代
アイドル不遇だから、芸能事務所が新人の女の子売りづらくなった。それで発明したのが女優の卵という謎のジャンル。
広末涼子が代表例で、そういう人材はしれーっと音楽も出してアイドル的な売り方もする。この手法は今でも続いてるよね。
アイドルが好きだと言ったら馬鹿にされたマジの時代に、思春期男子に「アイドルじゃねーから」といいやすく消費しやすくしたのが女優の卵だったり女子アナなんだよね。
音楽は「マジ」の中心地みたいな感じだったから作曲はできないけどせめて作詞はやらせろみたいなかんじでマジ売りを事務所におしつけられて
マジ時代に対応したよくわからんエセアーティスト売りのアーティスト増えて、歌姫なんていうジャンルが生まれたり、裸足で歌いだしたり、あの時代のマジ対応はよくわからんこと多いw
だから椎名林檎みたいなガチな人材が業界人からも勘違いされて「きみもそうなんでしょ?」みたいな扱い受けてたの笑うよね
松本人志はテレビのお笑いに「マジ」を持ち込んだ人だよね(談志とか上岡龍太郎とかもいるんだけど)
90年代はお笑い芸人が芸能界のヒエラルキーでトップになった時代といえるんだけど、間違いなくダウンタウンの影響だよね
ビートたけしは映画業界ではマジをやってたけど、テレビじゃ「なんちゃって」のキャラでコマネチコマネチってやってたからその辺が微妙だった
(余談だけど、彼がプロデュースした伝説の糞ゲーたけしの挑戦状は「こんなげーむにまじになってどうするの」なのが偶然とはいえおもしろい)
お笑い芸人は「なんちゃって」を生業にする職業で、昔はいろもんなんて言われてたが、松本人志はそれをひっくり返しマジをお笑いで商売にした人といえる
それでお笑いとアーティストの芸能界マジヒエラルキー競争が始まったんだけど
HEYHEYHEYとか、うたばんとかお笑い芸人がMCやり始めて
浜ちゃんに叩かれた!うれしい!浜ちゃんにたたかれると売れるってジンクスがあるんです~なんて言って
お笑い芸人に媚びるアーティストみたいな構図が普通になって、あれでアーティストがお笑いの下になったのを感じたよね
M-1がウケてるのは「マジ」だからだよね。あの時だけ、日本の笑いはかっこいい「マジ」が許される。
ただ初期のM-1はテツトモみたいなのも交じってたことね。それで談志に漫才じゃないとか言われてwあれってマジじゃないってことよね。
そんでM-1終わってフジテレビで始まったTHE MANZAIで審査員に秋元康がいてずっこけたねw
さすがなんちゃってのフジテレビですね。そしてTHE MANZAIが失敗するのも当然よな。
それでサブカル野郎はAKIRAとか攻殻機動隊は別腹とかいう扱いをしてたよね
メイドをコンテンツにする秋葉原はなんちゃって文化の中心と言っていいんじゃないかな
「ご主人様~、萌え萌えキュン!」なんてなんちゃってにもほどがある
そこに秋元康のようななんちゃってでメシ食ってた人間が注目してAKB48始めたのは当然だよね
セガってだせーよなとかいって自虐させたり湯川専務のように実際の専務をCMに使うなんて典型的なんちゃって戦略だけど
秋元って90年代のマジに対応できなくてさ、いつまでたっても80年代のなんちゃってな空気でスゲーダサかったイメージ
それが秋葉と00年代のネット文化で復活してしまったのは俺の中で苦々しく思うことの一つ
宝塚歌劇団がマジを提供し続けているなって思ったことあって、コナンと宝塚って結構似てるんだよね。
ジャンルは全く違うけど、マジというトーンが似てる気がするんだよね
「マジ」は「スタイリッシュ」「キザ」「見栄」「キメる」「気取る」「媚びない」でもいいよね
スーツびしっと着て、テンションがパリッと張って、キザで気取ってるのが好きなんだなって思ったよね
アニメコンテンツのなかでコナン、AKIRA、攻殻機動隊、カウボーイビバップはマジの立ち位置だったけど
秋葉系オタクはカウボーイビバップをオサレアニメって嫌ってたよね
あとブリーチに至っては、作者の久保さんまでネタにしてオサレオサレって馬鹿にしてた
00年代の秋葉のオタクたちはネットで冷笑でひろゆきみたいなキャラあこがれて、マジなものをなんでも馬鹿にしてた
秋葉がそうだったから2ちゃんねるみたいになったのか、2ちゃんねるがそうだから秋葉がそうなったのかしらないけど
とにかくマジをきらってなんちゃってでミニひろゆきみたいな他人を馬鹿にするような、中二病や黒歴史という言葉をやたら好んで他人を攻撃するやつらばかりだった
そのころアメリカはテンション張ってるものが好きだからオサレなもの、キザなものが好きでまっとうに評価してたよね、さすがハードボイルドの母国って感じ
最近アメリカで日本のシティポップが評価されてるらしいけど、あれもテンション張ってるキザでオシャレなコンテンツだからアメリカ人が好きなのは納得
アメリカ人はエルビスプレスリー、マイケルジャクソンとかブルーノマーズがそうだけど、伝統でも今でもずっとマジを真面目にやる国なんだよね。
日本人みたいに恥ずかしがってなんちゃってに逃げないし、他人をオサレとかいって馬鹿にしない。
ソニーがこの方向でそれ以前までの小学生に向けていたゲーム業界をファミ通などと組んでイメージの変革を起こそうとしていたよね
ソニー参入までは、ゲームを作る人は今でいう歌のお兄さんみたいな特集のされ方だった。「みんな新作まっててね~」みたいな感じだったけど
暗い部屋で間接照明をあてて「ゲームクリエイター」って肩書で、中高学生のあこがれの職業みたいにしていったのはソニーだよね
ソニーのゲーム事業は母体がソニーミュージックだからアーティスト的プロデュースのノウハウがあったんだろうね
マジをつかったゲームクリエイターのブランディングは見事にはまったよね。
それに対抗しようとしたセガはなぜか秋元に頼ってなんちゃってやってセガってだせーよなとかなんちゃってをやりはじめた
秋元のチェキっ子とかいうアイドル番組のスポンサーになってそらセガつぶれるわって当時思ったよ
セガって渋谷の兄ちゃんたちに愛されてたのよ。秋葉っていうよりかは渋谷系だったよね
そんなセガが秋元のなんちゃってに取り込まれ、そしてアイドルのスポンサーするとか終わってたよね
あのころのセガは方向性を見失ってて、サクラ大戦なんかもそうだけど、セガってこんなゲーム作る会社だっけ?っておもったよね
そのあとの話だけど、10年代のセガは初音ミクとか、バーチャロンととある魔術の禁書目録のコラボみたいに誰が得するんだみたいなことやり始めたり、とにかく秋葉系にすり寄っていくよね
90年代のマジなセガを知ってるから、セガサターンを白くしたり、ドリームキャストは最初から本体カラー白だし
あとゲーム業界のマジの代表格だったFFがFF10になって秋葉系オタクのなんちゃって文化に毒された結果が10-2
あれでまじでスクエニは死んだなって思ったし実際ゲームオタクからは相手にされなくなったよね。
役割を軸にして考えたとき、(コントと比較すると)漫才ではボケとツッコミの役割がはっきり分かれるパターンが多い。
これは、コントでは最初から最後まで「自分以外の役」に入り込んで「演技」をする形態が主であるのに対して、漫才ではあくまでも「自分」が喋っている体で「会話」をする形態が主だからである。
「だったらコント漫才(M-1優勝者ではアンタッチャブルやサンドウィッチマンなどのネタがそれに該当)はどうなの?」という疑問が当然あると思うが、これも基本的にはボケ・ツッコミ共に自分自身を投影した役であることが多く、純粋なコントに比べると言動にパーソナリティが大きく反映されるという点で違いがある。
つまり、漫才には純然たる役割が決められており、M-1が2001年から開催されひとつの「競技」となっても「ボケ担当の人はひたすらボケ続けるし、ツッコミ担当の人はひたすらツッコみ続ける」という形はしばらく変わることがなかった。
漫才における役割を軸にして考えたとき、まず最初に議題に上がるのが笑い飯というコンビである。
彼らは、最初どちらかがボケてそれに対してツッコむというやり取りが終わったあと、ツッコんだ側が「俺にもやらせろ」と言って役割が変わり、それ以降はツッコむごとに役割が交互に変わっていくというスタイルを持つコンビである。
しかし、ネタ全体の構成を見るとボケ・ツッコミの役割がハッキリと別れており、それが入れ替わるというギミックがなければ比較的オーソドックスなネタであるとも言える。
このボケ・ツッコミという役割を曖昧にした上で主要大会を優勝した最初のコンビは、M-1 2005におけるブラックマヨネーズである。
基本的に吉田がボケ・小杉がツッコミの役割を持ったコンビであるが、この年に披露したネタは後半になっていくにつれて小杉が突拍子もないことを言いだし、それに対して吉田が正論でツッコむというパターンが多く見られた。
これは「平場のトーク(ラジオなど)では面白いのにネタがいまいち」というブラマヨ評に対して彼らがたどり着いた一つの回答である。
つまり、漫才だからといって必ずしも役割をハッキリ分けず、普通の会話のようにボケとツッコミがシームレスに入れ替わるパターンがあっても良い、ということが世間にも認められた瞬間であった。
そして、その漫才における役割の曖昧性が頂点に達したのはTHE MANZAI 2012である。
この中で役割がハッキリと別れたネタをする千鳥はさておき(ここもベタとは言えないスタイルを持つコンビではあるのだが…)、注目したいのはハマカーンとアルコ&ピースである。
まず、優勝したハマカーンであるが、2012年以前は浜谷がボケ、神田がツッコミという役割が比較的はっきりと別れた漫才をするコンビであった。
しかし、この前年のTHE MANZAIで(本人曰く)惨敗したあと、スタイルを大きく変える決断をし、役割も主として神田がボケ、浜谷がツッコミという形に変更した。
そして、このスタイルのネタの中で一番特徴的なのは、神田が女子目線で物事を語ったあと、浜谷が著しく感情的に怒り、それに対してさらに神田が理論的に諭すというものである。
抽象的に言い直すと、本来は単なる導入部に過ぎないネタ振りがボケとなり、それに対してボケに限りなく近いツッコミをして、それに対してさらに言い返す、というパターンを構築しているのである。
彼らもやはりブラマヨがネタの構成を変えた理由に近いものがあり、優勝後に記者が彼らに「どっちがボケ・ツッコミって書けばいいですか?」と質問したというエピソードもあるくらい彼らの役割は曖昧であったと言える。
彼らは、漫才の代表作としてラテン語風の架空の言語を駆使して(しかし、よく聞くと日本語が散りばめられており内容がわかる)しゃべくり漫才など、(自分自身を投影した役割ではないという意味で)どちらかと言うと限りなくコントに近い漫才を得意としていた。
この年に披露したネタは、酒井がよくある漫才のネタ振りを平子が真剣に受け取り芸人として苦言を呈していくというものであった。
これは、見ようによっては役割上はツッコミであるはずの酒井がボケっぽく見え、ボケであるはずの平子がツッコミっぽく見えるネタであると言える。
決勝ではハマカーンに敗れてしまったものの、このネタにより一回戦を審査員満票で笑い飯を退け、決勝に勝ち上がったということの意味はとても大きい。
このようにして、漫才における「役割」を軸にして考えると、いろんなことが見えてくる。
つまり、伝統的な漫才とされているものが、役割だけで見ると必ずしもそうとは言えない(またはその逆)ケースが出てくるのだ。
昨年M-1を圧倒的な評価で優勝したミルクボーイであるが、ちゃんとやり取りがあるという点においては比較的ベタなしゃべくり漫才と言えるが、役割を軸にするとどうだろうか。
彼らのネタはボケである駒場が、母親がなかなか思い出せない物事があると語り、それに対してツッコミである内海がヒントを元に推測する、というスタイルになっている。
ここで、内海のツッコミに注目すると「〇〇やないか!」「〇〇ちゃうやないか!」という最初のフレーズを除き、推測対象(コーンフレーク及び最中)に対してやや偏見掛かった持論を語るという形になっており、取りようによっては最初のフレーズ以外はほぼボケとみなすことも出来るだろう。
ボケである駒場も、特に突拍子もないことを言うわけでもなく、ただ淡々と対象を推測しうるヒントとなるワードを言い、それがツッコミによりボケと気付かされるというスタイルになっている。
つまり、ミルクボーイは役割こそ別れているものの、その境界線はかなり曖昧で、実はツッコミがボケをリードする形になっており、しゃべくり漫才における主従関係が逆転したスタイルをもつコンビと言える。
この、ボケと言えるかギリギリのラインを攻めるボケと、それを埋めるように著しく強いツッコミをするというスタイルをもつコンビは、過去にもくりぃむしちゅー(海砂利水魚)などがいるため、前例がないわけではないが、漫才全体の歴史で考えると十分革新的なスタイルであると言えるだろう。
一方、漫才であるかどうかということが槍玉に挙げられたM-1 2020を優勝したマヂカルラブリーであるが、役割だけを見るとかなり保守的であると言えるだろう。
彼らのネタはボケである野田がひたすらボケ続け、ツッコミである村上が外側で解説に近いツッコミをし続ける、というスタイルである。
つまり、やり取りが序盤とオチ以外存在しないという点が従来の漫才から外れているというだけで、それ以外は至極まっとうなスタイルのコント漫才である。
この「やり取りが存在しない」という漫才の最右翼としてあげられるのがナイツだが、彼らが漫才師でないという意見はほぼ皆無であろう。
したがって、ナイツを漫才師であると評価している以上、マヂカルラブリーのネタを漫才でないと評価するのは無理のある議論と言えるのではないだろうか。
アイディアは凄いのよ。でも軽いの。薄いの。
「ほぉ~なるほど~」って真顔で言っちゃうの。もっとそのアイディアを変態的に突き詰めたら長年コスれるコンテンツになりそうなのにもったいない!って。
他の(ほぼ男性で占められている)お笑いのタイトル戦を見比べることで、お笑いにおける性差とかセンスの差を測れるかなって思ったんだけど。
The Wには、お笑いなんて種目は男女関係なく戦えるはずってことを証明してほしかったんだけど。
やっぱり笑えない。
面白いけど、笑いにはならない。へー面白いなって思いながら真顔になる。
これは同性の感性(男は男のお笑いしか面白がらない)みたいなところに寄せられているから?
友近だかが「お笑いの感性で男には敵わない」みたいなこと言ってたけど、やっぱりそういうのあるのかな。
これも個人の評価の仕方の違いで、腹から笑えなくても「面白い」「興味深い」と思った強さで評価すればいいのかもしれないけど。
でも、やっぱり脊髄反射で腹から笑えるのは、M1やキングオブコントやThe MANZAIなど(残念ながら女性が少ないイベント)の方が強い。
やっぱりこれは、笑いの感じ方には男女差あるってことかな。
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
THE MANZAIをTwitter見ながら見てたんだけど、ウーマンラッシュアワーの時だけコメントが急に増えて
なんか怪しいなと思ったら可動してるのか怪しいアカウントがいくつか見られた
それに漫才終わって次のプレマスターズ組のに言ってもウーマンラッシュアワーの漫才についての感想が流れてきたし(他の芸人だとそんな事なかった)
つまらなさ過ぎて、終わってた。
ぶっちゃけ、フジテレビはどういう経緯でもってTHE MANZAIにコイツらを呼ばせたのか、小1時間問い詰めたい
朝生、見ました。正確には、見てたけど「やっぱWEB漫画の方が面白いな」と思いスマホ片手にとりあえず付けていただけですが。
たぶん、「大事なことを難しく話すな!大事なことならみんなが興味を持つように話せ!」というのが朝生の中での村本さんの主張だと感じたのですが。
(もちろん、それぞれの議題に関しての彼なりの意見もありましたが、キャラクターとしてはそうだったかと)
そのご意見、大賛成。
政治家(朝生にはそうでない人もたくさんいたけれど)は、人の心を動かしてなんぼだと。
人を説得するときに「〇▲※■×(何か難しい言葉)だ。分かったか。だからお前も言う通りやれ。」ってひどい話。
「小学生でも習う」って言っても、だったら水素水なんか流行らない。興味ないし小難しいことなんて覚えてるわけない。
ただ、村本さん自身がTHE MANZAIで占めた通り、「本当の危機は、国民の意識の低さ」な以上、それを主張しても何も変わらないのでは。
村本さん含めて朝生のメンバーは色々な議題に興味津々な人でした。まぁそりゃあ呼ばれている以上はね。
「そんなことねえよ!おめえの意識が低いだけだろ!」と言われそうですが、
それはあなたも数少ない「そういう意識がある人」なだけだと思われます。
偏差値40の人に~とか一時期話題になりましたが、大学進学する人だけとっても偏差値50が日本の中間なわけで。
http://xn--swqwdp22azlcvue.biz/tokyo.php
ではここで駒澤大学法学部の憲法の授業に向けた生徒の意気込みを見てみよう!
ログイン必要なので見れない人用に書くと、見事に「教科書あれば単位は取れる」以外の書き込みは皆無。
存じ上げませんでしたが竹花光範さんというwikipedia曰く「改憲派の急先鋒」と呼ばれる方を目の前にしても、です。
大学生にとってみれば、憲法がどうこよりかも、「俺が/私が如何に効率的に単位をとれるか」の方が圧倒的興味度。
そうでない人もいるでしょうがそれは少数派と言い切れる。
勘ですが、全財産賭けてもいい。むしろ賭けが成立するならレバレッジ5000兆倍で是非賭けさせてくれ。
何かしら繋がっていないと興味なんて湧き様がない。
朝生に出演する人たちですら他の色々な大事なことを無視してあそこにいる。
既に紛争が起きている(とても分かりやすい!)外国のことよりも、
自分が属する日本で「もしかしたら起きる戦争」の話のほうが大事。
日本に属してる意識がないから、当然朝生の議題にも興味湧かない。
「属する」をどう感じるか、から考えないとダメ、っていうのが持論。
「これに属してるわぁ」ってのは、「違い」を認識して初めて感じる。
高校の部活繋がり、大学の出身地繋がり、会社の同期繋がり、などなど…
同じコミュニティの中でも、「違い」があるからこそ更に強固な「所属感」が生まれてくるのでは。
日本にいて、日本ならではの「違い」を感じる事って実際にはほとんどない。
多国籍国家だとか、世界でも群を抜いて国家レベルで経済成長しているとか、
そういう「違い」を感じることがない限り、意識が日本に行くことはないのでは。
まぁそれこそ意識が高い人は日本にいても世界との違いに視野が行くのかな。
けど三分の一くらいは生まれた都道府県すら出ずに一生を過ごすのに、
なぜジャルジャルが勝てなかったのか、ずっと考えていてようやく答えがわかりました。今さらでしつこいですけど。シュールだったとか、感心させてしまったとか、じゃないんですよ。
https://gyao.yahoo.co.jp/player/11153/v00019/v0000000000000001448/?auto=1&rep=2
見てビックリした、というか逆に腑に落ちたんですけど、「面白いかはともかくとにかく練習量はすごい」みたいな評価ありましたよね。あれ完全に的外れで、実はあの漫才は半分アドリブらしいですね。(9:30あたり〜)
要するに本当にあのゲームをあの場で半分ガチでやってるそうです。もちろんオチとか大事なところは仕込んであるんでしょうけど。
本当に凄すぎる。でもそうなんやろな、とすごく納得します。そういう奴らなんですよね、彼らは。で、これが敗因とも関係しているわけです。
ジャルジャルの漫才に何が足りないか、というと、ツッコミです。もっというとツッコミの深さ、というべきかもしれません。
どういうことかというと、この漫才の面白さのキモは二人のアホさなんですよ。こいつらどんだけしょうもないことやってんねん、ほんまにアホやな、と見ている側が心の中でツッコんで、初めて本当の面白さが湧き上がる仕組みの漫才なんです。
だから、初めにそれを共有できない人は大して面白さを感じられないわけです。
で、そこで必要なのがツッコミなんです。確かに形の上では、後藤がツッコミをしています。しかし、このツッコミは福徳のしょうもない遊びに乗っかった上でのツッコミになっています。こういう遊びを面白いと思う、というところはすでに二人で共有されてしまっている。そこに対するツッコミは省かれています。多少は最初にあるんですが足りない。まあ、足りないのは「わからない人にとっては」ということで私を含めて、多くの人はそこに共感できているわけで、だからその後のやり取りが全部めちゃくちゃ面白い、と感じられるわけです。しかし、わからない人には誘導してあげる必要がある。それが漫才におけるツッコミの役割です。
他の漫才で一番近い面白さの種類の漫才はおそらく笑い飯でしょう。笑い飯の漫才も一つ一つのボケがどうこう以前に、この二人がアホすぎて面白いわけです。ボケを競い合う、ということも含めて、ボケの種類も全てくだらなくてしょうもなくてアホすぎる。うまい、とかではない。そこが面白い。しかし、笑い飯の漫才にはほとんど必ず一個一個しっかりとしたツッコミが入ります。ボケた後、きちんとツッコンでから、変われ、とボケが交代する。この間のツッコミで一旦、普通の感覚に戻してくれる。だから次のボケでまたしっかり笑えるんですね。
一方、ジャルジャルの場合は、ほとんどツッコミがない。あるとしても、アホな二人のやり取り上でのツッコミで、普通の感覚にまで届いていない。もちろん、ついていけない人にとって、という意味です。ついていける人はツッコミは不要だし無い方が面白い。そう考えると、この場合、漫才というよりはコントに近いとも言えるかもしれません。アホな二人の漫才のようなやり取り、というコント。そう考えると「面白いと思えない」ということは「コントの設定についていけなかった」と言い換えることもできるでしょう。そういう人にはシュールに見えたのかもしれません。
しかし、じゃあ、これは漫才ではないのか、シュールなコントなのか、というとそれも全く違うわけです。上に書いたように、これは練りに練られたネタではなく半分アドリブなんです。つまり、これはコントというより、素の二人が単に人前で喋っている、という形に近い。言ってしまえば、本来の漫才、面白い二人が人前でただ面白いことを話す、という漫才そのものとも言えます。では、何が距離感を感じさせるか、というと、この二人の元々のアホさ、なんですね。この二人はおそらく、学生の頃からこんなことばっかりやってたんでしょう。面白いことを思いついた。で、二人でやって二人で面白がっている。ほとんど他のお笑いの影響を受けることなく、ただただ自分たちの面白いことだけをやっていた。いくつかのインタビューを見てもおそらくそうなんだと思います。そういう非常に独特な出自を持つ芸人なんですね。そのような芸人が、自分たちが面白いと思うことを、あまり説明無しで人に見せる。そうすると、普通の人はついていけない。アホすぎるから。なんでそんなことをやりたいと思うのかわからない。これって、多分実際に学校とかでもそういう状況ありますよね。要するにそういうことがMー1の舞台で起こってしまったのだろう、というのが結論です。それは審査員も含めて。特に関西人以外には、文化的に理解しがたいものがあるんじゃないか、というのは大吉先生のラジオでの解説なんかを聞くと思ってしまいます。
しかし、松本には大いに受けた。インタビューを見ていると、ジャルジャルは近年の芸人の中ではダウンタウンの影響をほとんど受けていない稀有な芸人です。それが、逆にダウンタウンに評価される、というのは不思議でもあり、むしろ当然とも言えます。そもそもダウンタウンの笑いって身内の面白さを強引に世間に広めた、というものでもあり、根っこの感覚はほとんど同じものがあるのではないか、と想像します。
だからと言って、ジャルジャルはどうしたらよかったのか、というと難しいですが、もう少し受け入れられる層を広げるとしたら、後藤が初めは福徳の発想についていけない、なんでそんなことせないかん、という部分をもう少し多くして、徐々に面白さを感じ取っていって最終的に一緒になってハマっていく、という構造をとってあげれば、かなり多くの人を巻き込めた可能性はあると思います。あるいは、もう一人、傍観者としての軽めのツッコミがあっても良いのかもしれません。お前ら一体何してんねん、という程度の。そうなると、構成として近いのはネプチューンかもしれません。ホリケンと泰造が好き勝手やっているのを離れてツッコム名倉。最終的には名倉も一緒に巻き込まれてしまう、というようなネタが多かった気がします。そうなるとわかりやすいと言えばわかりやすいですけど、ジャルジャルの良さは半減してしまう気もします。
THE MANZAIのネタもそんな感じでしたよね。お互い自己紹介で張り合うというアホさの上に、どんどんアホさが積み上がる形式の。
2年前のネタは笑い飯形式でわかりやすかった。ので、一位通過でしたね。2本目も同じパターンだったのでインパクトが少なくて負けてしまいましたけど。正直、あれがジャルジャルの漫才の完成形だったと思います。程よいシュールさを漫才形式に作り上げる、という。それを一度捨てて、新たにより本来の漫才に近い形で自分たちのセンスをぶちまけるネタを作り上げた。本当に凄すぎる。しかし、残念ながら受け入れられなかった。一体どうしたら良いんでしょうかね。
まあ、もう勝たなくても自分たちの好きなことを思う存分やってくれるだけで良い気もします。どうせ世間には受け入れられないんですよ、こういう人たちは、と変な共感をしてしまいます。
THE MANZAIっていう漫才番組でウーマンラッシュアワーが政治風刺の漫才を披露して、それがTwitterとかで話題になってる。
一部のネット民はこれぞ本来のコメディだ!今の日本のお笑いは終わってる!とか絶賛してて、茂木健一郎とか乙武とか津田大介とかの知識人とやらもこぞって称賛してる有様を見て、ああ日本の知識人の文化レベルって低いのかなぁって思った。
茂木健一郎いわく批評性こそがコメディの真髄らしく、ウーマンラッシュアワーの漫才は政治批判してるから批評性があって、本来の(アメリカとかで主流な)コメディっぽいから素晴らしいらしい。
そもそもなんでアメリカのコメディを基準にする必要があるのか意味わからんし、政治風刺を日本のコメディアンに求めるのも意味不明。
今回のウーマンラッシュアワーの漫才は、特に後半は単に政治を直接批判してるだけで、何もメタファーがきいて無かったから聞いててしんどいだけだった。
自分が思っていることを言葉でダイレクトに伝えるってのは芸としては一番安直だし、それなら漫才にする必要も無い。
漫才ってのはある意味ウソなわけでしょ。なぜウソを付くかというと、正論なんかより物語やメタファーの方が力があるからで。
例えば漫画家や小説家がもし政治を具体的に批判するような物語描いたら駄作になること間違いないし、薄っぺらなプロパガンダになることは目に見える。たぶんそれ見て喜ぶのは同じ政治的思想を持った人たちだけだろう。
とりあえず、ウーマンラッシュアワーの漫才見て熱狂して、これを笑えない奴は日本のくだらないお笑い芸人に毒されてるだとか言って選民意識撒き散らしたアホが気に食わなかったから書いた。
というわけで、文化レベルの高い俺は今年も50過ぎたおっさんがケツ叩かれまくっていじめられる番組見てケラケラ笑いながら年を越す予定です。
以下の話は、言葉や展開はややうろ覚えだが、実際に起こったことは間違いないです。
2014年に行われたTHE MANZAIの話。2011年にM-1後継番組として復活し、賞レースとして行われていた。
ロッジで同性(男性)に好きと告白されるシチュエーションを展開し、
ホモとかそういうやつ聞くと笑っちゃうんだよね、と笑いをこらえながら言った。
続くトレンディエンジェルも、たけしのリアクションを意識したのか、
ホモネタを雑にいれてつかみの笑いを取り、自身の漫才を展開した。
最後に出てきた博多華丸・大吉は、そこには一切触れず自分たちの漫才を貫いた。
この決勝を経て最終的に優勝したのは博多華丸・大吉だった。
もちろん、漫才のスキルでベテランの彼らがズバ抜けていたことは間違いないが、
アキナ、トレンディエンジェルには、差別的な笑いに対する配慮も覚悟も足りなかった。
彼らが優勝していたら、THE MANZAIも終わりだろうと思っていたので安心したことを覚えている。