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はてなキーワード: 権威とは

2023-01-24

anond:20230124110031

これはさあ、外野日本人いくら考えたって、どうせまともな答え出てこねえよ

だって彼らの持つ「宗教的権威」がいったいどんだけのものか、俺らには全然わかんないんだから

葬式法事がなきゃ寺に用なんかないし、神社に行くのだって初詣ぐらい

少なくともここ2~3代でもう完全に惰性と同調圧力でやってるだけの儀式と化してる

そういう平均的日本人がだぞ

外人が実際どの程度のノリで、天におられるわたしたちの父よとやっているのか、そこイメージできるわけないじゃないか

そりゃ日曜に教会行かない奴だってフツーにいるだろうけどさ

下手すりゃ日本でいっちゃん近いの新興宗教教祖かもよ

こないだのアレみたいな

無害そうな男にはいくら虐げても良いと思ってる女はい

昔に家電量販店の本コーナー担当アルバイトしてたんだけどさ、スタッフ再編で入ってきた契約社員20代女)のパワハラうつ病を患い休職したことがある。

最初普通だったのに、何故か俺に対してばっかり当たりがキツくなっていった。仕事上の会話でもちょっとでも言い淀んだりすると、露骨に深いため息吐いてめちゃくちゃ睨んできた。

で、そいつがそんな態度を俺に取ってると今まで普通だったバイト女子もみんなそんな態度取り始めてくるんだよ。

今思うと、そこで声を挙げるべきだったんだろうな。

そんな環境だけど、家から近くてやっぱり好きな本に関わるバイトしたくて働いてたけど、あぁもう全部俺が悪いんだな…って感じで徐々に鬱が入って本が好きからではどうしようも無理な状態になったから一回休職したんだわ

で、後々その店舗改装するからって呼ばれてまた復職したんだけど、今度は知らんバイト(50代女性)が勝手に決めたルール強制うつ病が再発したので流石に辞めた。

1ヶ月後に本コーナーは消滅した

もちろん無害そうな奴に絡んでくるのは男もなんだが、女の方はなんというか日頃からの男に対して溜まってる鬱憤を無害そうな男で解消してる感じがとてとしたんだよね…基本的には身体的な力では勝てないか権威とか立場とか使って無力そう、抵抗してこなさそうな男にマウントを取る、みたいな感じ。

これって今のツイフェミとかと同じ構図だなぁって思ったんだよね。だから、そこまでして男を叩きたいほどの何かがあったのかもしれないので同情はすれども憎しみとかそういうのは、今はない。

本当、呪い連鎖止まってくれないかなぁって願うだけです。

2023-01-23

おでんから発見される旨味の増田州間の見舞う留玲三決原噛んデオ(回文

おはようございます

欧州最大のレアアース鉱床スウェーデン発見!って世界インスパイアネクスト級のニュースあったじゃない。

私もそれ級のレヴェルに匹敵するもの発見したの!

というか

おでんを作っている最中にもうかれこれ丸2か月になるんだけれども、

お馴染み私の攻めのおでんの具のメンバー牛すじスペアリブ手羽元のそれぞれの具材から出る超絶うまうまエキスというか

鍋の中で精製されたものなんだと思う?

そうお察しの通り

正解は越後製菓

って違う違うそうじゃそうじゃないの

マーチン脂なのよ。

でね、

鍋冷えてるとラード状に脂が固まって層になっていて

火を入れるとまたそれがとろけて鍋のルーシー出汁とかとつつみ込むように一体化になるの。

そこで私は思ったのよ。

そのどう考えても旨味しかなさそうな三獣脂の脂は美味さ最強なのじゃないかしら?って

その前に三獣脂!ってもの凄く上手いこと命名この瞬間思い付いて言えたからこれメモしてパクって今これを読んでいるあなた自分発信で開発した言葉です!って言っていいからね!

手柄は譲るわよ。

ひとりはみんなのために!みんなはひとりのために!ってそれが三獣脂主題歌よ!ってそんな夢冒険

そんでね、

その三獣脂で作る炒飯って爆発するんじゃない?って今から悪いこと考えてるのよ!

もちろん爆発するってフィジカルポップコーンのようにお米がポップにコーンと爆発するって意味じゃなくて、

牛すじスペアリブ手羽元の脂の3つの旨味が縦の糸はあなた横の糸は私方式に、

うちのお店はそれでやってます!みたいな織り重なって出来たその布は誰かを温めうるかも知れない級の炒飯の美味しさ的な意味で温まりうるという意味

そのつまり

獣脂で炒めうる炒飯は美味さが爆発するんじゃないかしら!ってことなの。

まだ実験はしていないけど、

机の上で考えた机上での理論は完成しているので空論ではないわ!

イーロンでも無いし

マスクでも無いし、

脂っこいものを食べて黒ウーロン茶を飲んで何事も無かったかのように涼しい顔してチャラからノーカウントにしようとしている人でも無いんだから

みんな黒ウーロンを過信で信じ過ぎているのよ!

そんでこの三獣脂炒飯事業が上手くいきーの

その脂自体を三獣脂!って瓶に詰めて売ったら、

これ欧州最大級レアアース鉱床より凄いんじゃない?

まあこの事業化も誰かに譲ってあげるので、

この三獣脂ビジネスモデルも手柄譲ってあげるわ!

でも本当にまだその三獣脂炒飯作ってないので

本当に美味しい三獣脂炒飯が出来るかは謎よ。

ゆくゆくは十六獣脂茶を作って新垣結衣さんことガッキーにシーエムしてもらうの。

でも三獣脂の旨さは嘘じゃないの!

机の上での理論は机上で完成しているので、

ってこれどう机をひっくり返しても、

これどう考えても美味しさしかなくない?

普通味の走攻守バランスレーダーチャートグラフに示してみてエクセル上で考えてみると

篠原涼子さん的に言うと

「愛しさと切なさと心強さ」のそれぞれの項目が100点だし

平松愛理さん的に言うと

「部屋とワイシャツと私」のそれぞれの項目が100点だし

私のライフワークであるおでん作りの前に研究していたお粥テーマである

「手軽さと簡単さと食べ応え強さ」のそれぞれの項目が100点なの。

この重要3タテフォーマット

何々と何々と何々でってのの大喜利ができるぐらい

3タテと言ってもかつてソフトバンクホークスがいつかの何年かに優勝を決めてビールかけ優勝祝賀会の翌日みんなベロンベロンで酔っ払って二日酔いでへろへろでくたくたのしんどいはずなのにその次からの3試合3連勝とか!

その3タテとは違うレヴェルの3タテなのよ。

これが「三たて」となると美味しいお蕎麦の条件である

「挽きたて、打ちたて、ゆでたて」ってなって全く意味が違うことになるからこれ豆な!って蕎麦だけどねって1つ賢くなるぐらい注意してね。

でもさー

その色々なアイデアが詰まっていると思うのその三獣脂には!

ネットミームで各ジャンル専門家方面の方々の何々の三銃士呼んでくるよ!ってタクシーで連れてくる漫画のやつ

ももしかしたら炒飯獣脂呼んでくるよ!って呼ばれる方のネットミームになれるチャンスかも!

でもこの三獣脂事業は誰かに譲って使って良いよって今言ったから、

この炒飯獣脂ネットミームにもなれるってダブルゲットのチャンスよ!

クイズ番組で言うと

ダブルジャンピングチャンスのように

一気に最下位から優勝が十分射程範囲内狙えるぐらいよ!

でも冷静に考えたら

もし4チーム中4位で

ダブルジャンピングチャンスをゲットしたとて

ダブルジャンピングだと4位から2位にしかなれなくない?

愛川欽也さん真面目か!って冷静にそんなことを言いたいんじゃなくって、

そっからでも十分に1位に優勝出来そうな勢いの三獣脂美味さ爆発の机の上の理論は机上で完成されているのよ!って意味から

心意気の意気込みでの飛び込み前転の話しよ!

でも最大の欠点があったわ!

この三獣脂精製に2か月はかかんのよ。

ドラゴンボールタイムマシーンエネルギーを動かす片道分の抽出時間の1年よりかは早いけど

しかしかし2か月は精製に時間がかかりすぎるわ!

またさら

量産化となると大変よね。

瓶詰めのラインを動かせる量ほどは今の技術では三獣脂大量生産できないわ。

ゆくゆくは最終、

街中で走っているあなたも見たことがあると思うウエイパーの赤いトラックみたいにイメージキャラクターシソンヌ長谷川さん似の人を採用して、

獣脂を缶パッケージにして売り走るところまで行きたいし、

レアな青ウエイパー的なトラックも走らせたいわ!

またそして、

1日1日操業が終わったらドモホルンリンクル製造工程ライン機械毎日全部分解して、

綺麗にしてまた1から組み立てて明日の三獣脂製造に挑むぐらいでもあるわ。

そんでおでんを作っている副産物としてこの三獣脂発見されたのと同時に

偶然にもまた一つおでんの中のザワールド世界で鍋のベーナーで発見したことがあるの!

それはつい先日おでんに投入すべく

スペアリブを鍋が冷めた状態からぶっ込んで火を入れて煮ていくんだけど、

そのときスペアリブから灰汁が出てくるじゃない、

その灰汁が鍋のベーナーの中の漉しきれなかった2か月という古式ゆかしい不純物と一緒に固まって、

なんかこれ間違っていたらリアルにごめんなさいだけど、

出来立ての白濁の日本酒を透明な澄みきり綺麗にするために灰を入れてそこに付着させて沈殿させて透明にさせるってレガシーテクノロジー技術に似てない?

あの濁り酒から清酒になったあの話しよ。

にごりおでんからおでんになったの。

いっぺん鍋を綺麗に洗おうと

1回鍋のベーナーのルーシー出汁を漉したとき

濁りはさすがに取れなくて半ば諦めていたんだけど、

まあ半ばと言っても50パーセントではなく75パーセントぐらい、

いや正直80パーセントぐらいほとんど濁っているのは取れないと思い仕方ないと諦めていたの。

本当は自分の中にある頭痛薬の処方成分のように半分の優しさは残しておきたかったけれども。

でもその濁りが

スペアリブを煮たときに沸騰して浮かび上がってきたスペアリブから出た灰汁が全部中の余計な不純物をもミーシャさんの曲の「つつみ込むように…」って感じで吸着して、

笑うぐらいに澄み切った清おでんおでんルーシー出汁スープになったのよ。

あれさら

例の自衛隊アウトドアの達人の人たちがそこら辺の水たまりとかの泥水をも漉して飲料水として飲めるようになるハイテクアウトドアグッズを用いれば

本当にいろはすおでん味できっかも!って感じよ。

でも正直手放しでは喜べないこともあって、

あれ一応あの不純物も旨味の歴史の積み重ねの地層の堆積物の一部のルーシー出汁の要素なのよね。

から全部取り除いちゃうと味が落ちちゃうのかも知れないわ。

そういう懸念中の懸念もある感じ。

権威が濃すぎる人もいるけれども

懸念濃すぎな人も世の中にはいるわよ。

きっと。

スープが透き通って綺麗になる反面旨味も灰汁に吸着してしまって取り除かれると味が落ちるそういったことがあるかも知れないので手放しでは自転車運転したら危ないわよ!

違う違うそうじゃそうじゃないの、

手放しで喜べないってマーチンが初めて自転車に乗れたときの幼少期のエピソードトークよ。

でも本当に偶然の発見産物わ!

よく実験で間違って、

シャーレとかの培養液的ななんか寒天みたいな上にくしゃみぶっ放してペニシリンラクリマクリスティーが偶然にも出来ちゃったとかの話しあるじゃない。

私もそれ自由気ままにおでんスペアリブ間違って入れちゃった!みたいに

濁ったおでんを澄み切った清おでんに綺麗にする方法って実用新案出せっかも!

まあこの手柄も誰かに譲ってあげるわ。

伊達に2か月おでんと一緒に暮らしてないわよ!

わず力こぶ作るポージングしちゃったわ!

キレてるね!とかナイスカット!とか肩の上に山手線電車乗っけてんのかい!とかの声欲しいわ!

他にもボディービルのかけ声辞典に載っていないかけ声でもいいしさ。

にしても、

おでん一つとっても色々な発見があるものね。

インスパイアネクスト級のおでん世界発見だわ。

うふふ。


今日朝ご飯

ハムタマサンドよ。

美味しいサンドイッチで朝から元気いっぱいよ!

ワカメおにぎりにしようかと考えたけど、

考えるだけ無駄だったハムタマサンドね。

デトックスウォーター

葛湯をいただいたわよ。

抹茶葛湯

ホッツ抹茶葛湯ウォーラーってところかしら。

作り立てお湯で溶いたときは熱すぎるので、

少し冷ましてからいただくのが

マイルド温活には有効ね。

寒いので、

ゆっくりかいのをいただくのはいいわ。

寒い時は身体を中からも温めてね。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2023-01-22

ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。

ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。

特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベ価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。

後にも述べるがいまやラノベ純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。

が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体まりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。

このような単にラノベ純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。

正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベ純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。

ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。

一方で純文学シェイクスピアハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。

ブリタニカ百科事典先生によると、文学芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。

逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。

でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。

文学といえばよくそメッセージ性が問題にされているとは思う。

文学作品物語プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。

その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。

あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。

しかしそれがなんだと言うのだろう。

そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに価値」じゃないか

しろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。

価値に対して人間万物尺度であってかつ尺度多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである

またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。

他方、ガリバー旅行記人間社会不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。

そういうメッセージ風刺アンチテーゼの質が文学作品重要評価軸になっているようには思う。シェイクスピア漏れくその点で評価されているのだろう。

じゃあそのメッセージかいうのは「美しい」のか?

こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。

たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報視覚関係する尺度をあてがってもどうにもならない。

あるいは文学には描写のものの美しさというものも見出すことが当然できよう。

その最たるものが詩だろう。

それは単純に視覚的に美的ものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。

そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学要件を満たしうるはずだ。

しか文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というもの論理次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである

その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。

文学価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。

結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。

とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並み見解しか沸いてこないだろう。

それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲知的障がい者には荷が重い。

からその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。

それはおそらく知的エリート価値観になるだろう。

知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。

ただの女たらしが「紀州ドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリート社会的地位が高い傾向がある。

そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。

ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。

彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。

なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか

教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ

以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値判断している。

そしてそれが権威ある辞書事典記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数一般大衆に浸透し、そうしてラノベ純文学に対して劣ったものという既成観念形成される。

月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか

似たような話でアニメドラマ実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。

昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。

逆にアニメジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。

さら時間が経てば歌舞伎浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。

実はこの文章原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。

その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベ同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。

ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識存在する傍証になってしまったようだ。

本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベ純文学バランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。

しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。

好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。

知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである

また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログ増田に埋もれたラノベアニメ感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。

dorawiiより

2023-01-21

Reddit匿名ダイアリーの意外な共通点

最近Google検索おかしいと感じることはありませんか?

多くの人がそう思っており、より良い結果を得るためにGoogle検索最後に「Reddit」という単語を追加しているアメリカ人が多い事実を知っている人もいるでしょう

かにGoogle世界検索エンジン市場の多くを占めているので「Googleは滅びるのでは?」という物語懐疑的な人がいるかもしれません

しか検索キーワードに「Reddit」を加える人が沢山いるというのは何らかの実態を表しています

これはつまりGoogle検索ユーザーエクスペリエンスが劣悪である証拠の一端です

世の中にはインターネットほとんどフェイクだと確信している人は結構いると思います

まりインターネット上のほとんどのコンテンツは、ボット詐欺師や嘘つきやナルシスト仕業であり、しか検閲されています

より多くの人々が検索に「Reddit」を付与しているという事実は単なる奇妙で風変わりなインターネット上の行動ではありません

Google極左巣窟に成り果ててしまたことや、広告というそビジネスモデル根本的におかしいということにも関係しているでしょう

平均的なGoogleユーザーとしては、見たいものを見るのに時間がかかるのは残念です

多くの検索エンジンは、オーガニック検索結果を表示するためにスクロールダウンする必要があります

まり最初に表示されるのは、情弱を釣るためだけに存在する広告だらけの画面である可能性が高いのです

昔はそんなことはなかったんです

2000年代後半の高校時代にも、2010年代前半までの大学時代にもこの問題はありませんでした

2010年代半ばから後半にかけても、問題であった記憶はないのですが、ある時期から問題になっていったのだと思います

このツイート(https://twitter.com/GinnyMarvin/status/757606109322633216 )の画像を見てみてください

この中で、Googleでの広告の見え方が長年にわたって変わってきたことがわかります

まりGoogleは以前よりも多くの広告掲載しているだけでなく、広告検索結果を区別しにくくしているのです

「中品質コンテンツマシン (medium-quality content machine)」とは、あらゆるSEOルールに従い、見た目だけが役立つような雰囲気を醸し出し、具体的なアドバイス提供しない記事作成するウェブサイトのことです

日本では「いかがでしたかブログ」もその一例でしょう

例えば統合失調症患者が「セレネース副作用がどんな感じなのか」を聞きたいとしましょう

セレネースとはなんであり、薬学作用がなんであり、副作用がなんなのかという情報を見ることはできます

しかし最終的に判明するのは「作用副作用の決定的証拠はない」という情報で、それはただの正論です

まり専門家相談しなさい」という当たり障りないことをGoogleは出してきます

でもそれを摂取したら実際にどんな悪いことが起こったのか、その生の情報をr/schizophreniaにアクセスして、実際に試した人に聞いたほうが「納得できる」という人が多いのです

実際の情報: /r/schizophrenia/comments/vmc8qv/what_was_your_haldol_experience/

まあネット上の見知らぬ人間薬学的助言をすることは本当はナンセンスなんですけど、気持ち的には「医者自分でその薬を試したことがないだろ。試した人の苦しみを教えろ」と、そういう正直な感情を持つものです

Wikipedia無味無臭情報よりは、redditのほうが「人間的」なのです

人間らしさが核心です

表面的には、権威ある情報を渇望している人が多いのですが、権威ある事実情報は退屈です

小説というより、役所書類教科書のようなものに感じます

多くのアメリカ人が愛しているインターネットはその逆で、雑然としていて、混沌としていて、予測不可能です

疲れるし、終わりがないし、いつもちょっとだけ危険

それはとても人間的なものなんです

Reddit製品レビュー個人的体験談を得るには本当に適しています

逆に、匿名で悪いアドバイスをしたり、陰謀論を広めたり、ゴシップを広めるサイコ本拠地でもありますけど

ところがGoogleは人々に主観ストーリーを与えることが少なくなってきており、それゆえ検索に「Reddit」を加えるのです

インフルエンサーブロガーなどは、品質関係なく商品宣伝するクソが多いという事実を、パワーユーザーは何年も前から知っています

多くの人が商品レビューを探すためにGoogleを利用するという弱みに漬け込む形で、アフィリエイトマーケティングシステムゴミを生み出し、その信頼の欠如から反発が起こります

結果、人々は偽りのない、無報酬レビューを求めるようになるというわけです

しかし「Reddit」をキーワードとして使うことを全面的に推奨することには、非常に注意したほうが良いです

Redditは争いごとが多く、矛盾しています

まるで現実人間のような感じなんです

同意する二人が出現することは稀です

Aさんはあなたが調べているその製品が今までで最高のものだと言い、他の人はそれをゴミと呼びます

そして独自サブレディットを作成するマーケターや自社製品ステマのような役割を果たす人々も増え始めています

Redditさえ、Amazonが抱えているような問題を引き起こす可能性が常に潜んでいます

あるいはすでにReddit情報戦争の最前線ということもありえます

さて、つまり何が言いたいかと言うと、Google検索普通検索結果というのは「天使のふりをした悪魔」であり、Redditとは、「悪魔のフリをした人間であるということです

Redditはてな匿名ダイアリーに置き換えても、多くの共通点はあるでしょう

2023-01-20

anond:20230120130744

権限がないのに叱責するからじゃ?

会社から権威を与えられてないのに勝手に罵ってるってことじゃないの

2023-01-19

anond:20230119135529

統計坊や

聞き齧った知識だけで、権威あるフェミニズムテクストから導出された見解に噛み付きがち

テクストがどれだけ世界中で読まれ引用されたものでも気にしない幼さがまさに坊や

h-index50超えのフェミニストにも立ち向かってくる勇気だけは讃えたい

2023-01-17

anond:20230117141641

おバカが頭を使って考えたとしても適切な解を出せない。

それならば頭の良い人が考えた答えを使ったほうが失敗も少ないし効率良いではないかというのはわかる。

昨今のコスパタイパを重視する考えはこの思想が基本にあるはずだ。

それがどうだ、いつしか頭を使うということ自体ができなくなりいつの間にか弱者や貧者を生産している。

弱者や貧者は、考えられないが故に目立つ凄そうな人やそれっぽく見える権威にすがる。

ビジネスは何かを生産するよりも、それっぽく見えることがいつしか重要ファクターになり、

嘘で固め、考えられない人から資産を巻き上げ、また弱者や貧者を生産する。

そしてその弱者や貧者も、さら弱者や貧者に対してビジネスを行い弱者や貧者を再生産する。

私は、これらを「貧しさ」と表現せずにいられない。

2023-01-16

日本の政治権威は正直どうでもいい

アメリカの現政権に従う傾向にあるので、トランプになればトランプ側になるしバイデンになればバイデン側になるし。

問題アメリカ権威とそれに影響される意識高い系日本人

まずGoogleパヨク企業であり、少なくとも個人レベルでどうにかして洗脳を避ける必要がある。

Google社員偶像崇拝するような連中は要注意で、特定パヨク発想から抜け出せない。

そのパヨク発想の最たるものの例が「ワクチン接種」「マスク着用」に関するもの。まあ洗脳されている人が沢山いるのは見ての通り。

あとはエリート主義能力主義といったものを推進する動きがあったら、そいつ米国パヨク式の情報に飲まれている可能性大。

2023-01-15

anond:20230115202904

権威地位のある人の言うことはどんなことでも盲信してしまタイプかな。

anond:20230115060015

ジャップ喧嘩はいかにして警察権威を借りるかにかかっている

古来から天皇権威を借りて戦をしてきたのでジャップ根性に染み付いているのだ

2023-01-14

左翼がよく使う詭弁

ウイグル論法

現在進行形左翼が使っている論法

元々はネトウヨ右翼的もの批判された際に多用した「ウイグル問題の方が深刻だ!なのに、なんでそちらを批判しないんだ!」という論点のすり替え

colabo問題フェミが同じ論法使用し、図らずしも、自分たちが憎んでやまないネトウヨ同類であることを証明してしまった

早まった一般

少数の例から全体の傾向を決めつける詭弁定番

フェミニスと、リベラルは「女である私は男から嫌がらせを受けた。だから、(ジャップの)男は皆女性だ!」「私の周囲の人間は私に冷たい。だからジャップは悪い国だ!」と主張する例が多いが、その姿は一部の韓国人を例に朝鮮人野蛮人であると決めつけるネトウヨそっくりである

またフェミは女をあてがえ論を引き合いに出して、男叩きをするが、女をあてがえ論を主張しているのは弱者男性の一部であり、同じ男から軽蔑されている。しかし、フェミはまるでそれが独身男性の総意であるかのように語る

レッテル貼り

これも詭弁定番

ネトウヨはよく自分に気に入らない人間在日工作員認定する

ミソニジストも自分と少しでも意見が食い違うと女性認定、おばさん認定する

一方リベラルも異を唱えた人間レイシストであると決めつけて反論になっていない反論をする

ジョージ・フロイド犯罪者であるという事実を述べたゲーム会社幹部解雇されたことを忘れてはならない

弱者正当化

弱者から何をしても許される、今まで悲惨な目に遭ったからどれだけ酷いことをしてもいいという理屈

リベラルの主張の根幹を成すと言っても過言ではない

典型例がBLM運動

人種差別に反対する黒人アジア人差別しているのはなんとも嘆かわしいことである

リベラルの皆さんには是非とも呪術廻戦を読み以下の名言を噛みしめていただきたい

「不幸ならなにしても許されんのかよ」

 

強者の不当化

前述の例の真逆パターン

強者から何をされても耐えろ、今まで酷いことをしてきた人間には何をしても許されるという理論

コレも同じくリベラル代名詞である

例としては

「男は今まで女性を抑圧してきたのだから差別されても耐えろ、というかそもそも男への攻撃差別ではない」

ジャップ侵略をしてきたのだから原爆を落されるのも自業自得である鬼畜米英も同じ事をしてた?うっさい、黙れ」

この理屈は早まった一般化と組み合わされて非常に悪質なコンボ攻撃となる

言い換えれば、「一部の日本人男性女性差別した。だから、例え女性差別していなくても日本人男性であるというだけの理由攻撃しても許される」ということである

白人様が言ってた

権威論証の一種

白人が主張したから我々の意見は正しいと主張する論法

リベラルは何かと欧米を引き合いに出して日本攻撃したがる

欧米では死刑廃止されている。だから日本死刑廃止すべきだ!」

白人男性は人権意識が優れていている!それに対してジャップのオスは人権意識底辺だ!白人アジア人差別している?黙れ」

といった感じである

人種差別反対を主張する人間白人至上主義者であるとはなんとも滑稽である

ネトウヨも「日本人は白人遺伝子を受け継いでいる!」と主張したり、白人日本賞賛させる下品ホルホル番組悦に入る

愛国者なのに白人至上主義者とかこれもうわかんねーな

滑り坂論法

ドミノ理論雪だるま論法とも言う

「○○を許せば、歯止めがきかなくなりいずれ~~に繋がる」という理屈

具体例は

9条を改姓させれば、いずれジャップ外国侵略する」

難病で助かる見込みがなく本人も死を望んでいる人間安楽死させれば、いずれは死を望んでいない健常者も殺される」

優生思想的な考えを少しでも認めれば、誰も居なくなる」

ちなみにこれはアメリカベトナム戦争介入を正当化したのと全く同じ理屈である

結論リベラルネトウヨ同類

素人の俺の方がプロよりも賢い」と信じられる神経というのもよく分からないが、そうした権威失墜の責任は「プロとしての節度ある振る舞い」を軽視してきた連中にこそ求めたいという気持ちもある。

2023-01-13

父親育児に関わると良い理由の一つは、権威分散するから

これがオカン一強だとオカンが認めたもの以外ダメになる。オカン価値観が似ていればいいが、そうじゃないことも多い。そこで父親父親は認めてくれるかもしれないという期待が大事なのだ

2023-01-09

anond:20230109042821

かに知名度とか権威とか一切効かずにボロが出まくるのが増田だよなー

anond:20230109042603

多分だけど、アカデミック世界での顔出しでの議論ならずっとその技法百戦錬磨だったんじゃないかな。

増田はその点でダブルブラインドから権威通用しなくていつもの調子が出ないの。

2023-01-08

anond:20230108081620

増田気分転換に遊ぶのがダメとは言わんが、『増田で遊ぶの時間は1日1時間』とか最初時間を決めておこうな

みんな、こいつに騙されるなよ。

特定権威にとっては、SEOが強い増田という存在不都合なことがあるんだろう。

TwitterならシャドウバンWikipediaなら記事削除依頼ができるが、増田じゃそうはいかんからな。

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2023-01-05

権力破壊するというつもりで生きる

ソーシャルメディアが普及し、誰もが情報発信できるようになった。一見するとこれは民主的に思えるだろう。

しかしある人たちのメールアドレス電話番号は、どうやら何らかのブラックリストに入っているらしく、必ずシャドウバンされるらしいのだ。

そしてその人たちの大半はソーシャルメディアが用意したルール違反したことはない。

Twitter Filesでも明らかになっているが、特定権威にとって不都合情報を発信したこと関係している可能性が高い。

例えば私の知人は、マスク着用に効果がないことを示す科学証拠論文と共にツイートしたり、法人税増税をしてもタックスヘイブンへ逃げられることはないことなどをツイートしたりしたことによって、シャドウバンされてしまったようだ。

しかしそれ以外には全くシャドウバンされる理由について思い当たることがなく、フェイクを書いているわけでもなければ、誹謗中傷をしているわけでもないようなのだ

要するに、様々な利害関係を持った既得権益が金を投じて情報戦を繰り広げており、もはや言論封殺は当たり前のように行われているということだ。

いいね」「リツイート」なども、工作に利用される機能として見て良いだろう。都合の良い情報イイネされ、拡散し、真実封殺されていく。

その点において、いくらパヨク」がゾーニングされていると言っても、マストドン中央集権的な仕組みを避けられるという点において、はるかにマシなツールといえる。

匿名ダイアリーさえ、社会に対し「既得権益情報操作をされることを避けること」を目的として伝達するという意味では、ソーシャルメディアよりもマシである

2023-01-04

神社でお祈りするとき合掌している?

一昨日に神社作法増田https://anond.hatelabo.jp/20230102150139)が盛り上がっていたから、なんとなく神社作法を調べてて驚いたことがあるんだけど、神社でお祈りするときって合掌しないのが正しいんだな。

「二礼二拍手一礼」の作法最近広まってからやったんじゃなくて、それより前からその作法でお参りしていたというコメントを人を結構見かけたけど、昔から正しい作法を知っているなら、やっぱり二拍手の後で手を下ろして一礼していたんだろうか……?


かに「二礼二拍手一礼」と神社の参拝の作法になっているけど、この文言では合掌しろとは一言も言っていない。

で、そもそも論だけど、合掌は仏教作法だ。神道でそんな作法があるわけない。でもみんな合掌してるよな。

ちなみにお寺の参拝方法は「合掌して一礼」だから、合掌することが明言されている。


「合掌」のウィキペディアのページではこう書いてある。

日本では仏教に関する儀式の際に行われるだけでなく、お詫びをするときやお願いをするときに、相手を持ち上げるための仕草として使う例もある。また、食前食後の挨拶の際に合掌する例もあるが、これは仏教由来の習慣である神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道拝礼では、合掌はしない)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%8E%8C

神道拝礼では、合掌はしない」と明言されてしまっている……。なんてこった、これまでも俺の参拝方法は誤っていたのか。

ソースウィキペディア(笑)みたいな人が絶対いると思うから、ここはわかりやす権威を借りよう。神社トップ神社本庁のページでは以下のように記載されている。

まず、神前に進み姿勢をただします。

背中を平らにし、腰を90度に折り、拝をします。この時の拝は2回行います

胸の高さで両手を合わせ、右指先を少し下にずらします。

肩幅程度に両手を開き、2回打ちます

指先を揃えます最後にもう1回拝をします。

https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/sanpai

合掌をするともしないとは文字では明言していない。「指先を揃えます。」は合掌を表しているんじゃないのか?と思うかもしれないが、これは文字通りの意味であって手を合わせることを説明していない。

なんでわかるかって、神社本庁のページの「拝礼作法」の欄には、丁寧に動画まで掲載してくれるという至れり尽くせりっぷりだから、それを見るとバッチリ正しい参拝方法がわかるぞ。

件の動画は34秒しかいかちゃんと見てくれ。動画の25秒辺りで二拍手を終えた後、手を下ろして一礼している。

から、二拍手した後、そのまま手を重ねて合掌して一礼するのが正しいわけではなく、手を下ろすのが正しいってこと。

「二礼二拍手一礼」「鳥居の前で軽く一礼」に続く第三の正しい神社の参拝方法として、そのうち広まると思う。

今のうちに正しい参拝方法を行って、君も参拝のマウント取りができるぞ!

anond:20230104054951

ワクチンとかの分野自体(つまり論文を発表する側の権威)が何か一方の側に肩入れしていてバイアスになっているというのはあり得る話なので、そういうバイアスに対する率直な指摘を民間人が行うというのも一定価値はあるのでは。

おそらく指摘の量が多いとか、感情的すぎるとか、フェイクかどうかの判別が難しいとか、バイアス無自覚とかで、学者の側も情報処理が追いつかないのかもしれん。

anond:20230104050548

信者はすぐそうやって自分言葉説明するのを諦めて聖書にすがる。

正しい発言ってのは匿名な誰の口から出ようが正しいし、間違った発言はどんな権威が言おうが間違ってるの。

これが学問入口、わかった?ホモソーシャルでも男社会でもないの。

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