はてなキーワード: 台中とは
筆者は現在台湾に住む日本である。ニュースなどで益田諸君既にご存知とは思うが、6/4に日本から台湾にコロナワクチンが贈られた。
背景に台中牽制の意図があることは明白でそれについては議論があるとは思うが、一市民の自分としては素直に日本政府GJと感じており、多くの台湾人も、かなりこのことで素直に日本に感謝している様子。
見聞きした範囲だが、知人の台湾人からマンゴーを貰った。タクシー運転手がタクシー代は不要と言ってきた。玄関の前に同じマンションの住民からフルーツが置かれていた。などなど、日本人からすると逆にびっくりするぐらい、このことに対する台湾人の評価は高い。実際、自分も何通かの「日本ありがとう」メールを受領している。
ところがこのワクチンの接種の順番について、台南のさる政府高官が以下のメッセージを発信したことで、素直に「日本GJ」と喜んでいた在台日本人界隈で議論が巻き起こっている。
そのメッセージとは、「日本から送られたワクチンは、台湾に居住する日本人に優先接種する」というものである。
それに対する在台日本人の反応は、優先接種したいという人、それはちょっと違うんじゃ無いかと言う人でそれぞれ3:7ぐらいに分かれてる。
まぁもちろん個人の思想さ勝手なのでそれぞれ意見があるよネ。で終了なのだが、面倒だなと感じるのは、ここから。
優先接種したいと言う人の中から、なんと次のような主張をはじめるものが出てきたのだ。
曰く、「『それはちょっと違うんじゃ無いでしょうか。優先順位の高い医療従事者等に優先的に接種してください。』と、意見を表明するのはやめてください!優先接種したい人が、怖くなって優先接種したいと主張出来なくなります!」
彼(彼女)等の論理の機序はまるで支離滅裂なのは言うまでも無い。
なんでこんな理論構成になっちゃうのか考えると、おそらく彼(彼女)等の無意識下に「優先接種を受ける=ズル。悪いこと。非難されること」って意識があるんですよね。
在台日本人社会ってある意味村社会のような、狭ーいコミュニティであーじゃこーじゃ言い合ってる世界なので、もうこれはうかうか「日本人に優先接種なんておかしいよね。」とも言ってられないんだなーと思い、なんだかどんよりする日曜日。
ただのjQueryコーダーですが、1000万を超えていることが不思議ですよね。
職歴。
接客業はヤバいお客さんがくると一瞬でストレスMAXになるため、
これはおれには生涯の仕事にはできないと気づく。
文章を書くよりhtmlを書くほうが楽しいぞ…とアルバイトで某価格比較できるサイト.comの運用に潜り込む。
やる気があったので、あまりに退屈な運用仕事に飽き飽きし制作会社へ転職。
ウェブ制作会社総ブラック時代。みんな会社に泊まって受託の嵐。
偉い人の怒号が飛ぶ中、違法薬物を使って、そうな人を横目にもりもりコーディングする。
中村勇吾 of GODに感化されるウェブ業界、Flash高額見積もり大儲け。
そして当然、エディタを見るとPCを自分ごと窓の外に投げ出したい病に……。
お金を使う暇がなく貯金がモリモリ貯まっていたので、魂を絞り出し辞職願いを出す。
徐々に復活したので再び就職。
しかし、時の流れか、運が良かったのか、徹夜なんて年に数えるほどしかない素敵な会社。
FlashはAppleに殺されていたので、JQuery、CSSアニメーション、Wordpressを学ぶ。
ActionScript3先生に鍛えられていたため、簡単すぎてほっこりした気分で仕事をこなす。
給料は下がったものの、欲望は坊主並になっていたためお金は貯まり続ける。
ふと、お客様に提出している見積もりに対して自分の給料って低すぎなのでは……?と気づく。
だってこれ、ほぼ自分で完結してるよね?残りのお金はどこへ?あれが社長の車……?
先に退社してフリーランスになっていた人に話しを聞くと、給料の倍は余裕で稼いでいるとのこと。
仕事あるよ!と後押しされてそのままフリーランスに(その後、彼から仕事は来ることはない)。
フリーランスになった旨を以前の会社の知り合いなどに伝えるとそこから徐々に仕事がくるように。
ここで学びは止まる。
10年前とまったく同じことをしている。
にも関わらず年収が増え続け、ここ数年は1000万前後で安定している。
はてなブックマークを見ていると、やれReactだJAMStackだと飛び交っているが、
私の世界のホームページ(主に広告、コーポレートサイト)は未だにJQuery、CSS、Wordpressで用途を満たしている……。
ちょっと勉強したら誰だってできる仕事でも、これくらいは稼ぐことはできる。
いつまで続くのか不安を抱えてはいるが、とりあえず生きていくことはできそう。
もう勉強したくないみんなに伝えたい。
こんな程度でいいのだと。
無料版。シングルプレイヤー。マップは「The World」。時間は無制限。
ちょっと古びた住宅街。パッと見では日本かと思ったが、看板の文字が中国語。
標識に「育徳路」「新吉路」と書いてある。その交差点が初期地点だ。
とりあえず大きな建物が見えるほうに進んでみる。
大通りに出た。これが「樹考路」というらしい。
すぐ近くの店名に「香港」と付く店が2軒、「台中」と付く店も2軒。
この街が香港/台中なのか、それとも香港/台中に本店があるチェーンだったりするのか。
香港の道は「〜〜街」とか「〜〜道」という名前が多いかもしれない。
「〜〜路」が多いのは圧倒的に台中だ。というわけで台中市に絞ろう。
道の名前だけがヒントなので意外に手間取ったが、何とか「樹考路」を見つけた。
誤差は14.1m。5000ptだった。
わりと広い道の交差点。信号機のそばにアメリカ国旗が掲げられている。
国道番号として「201A」と「2」が書いてある。もう少し進むと高速道路番号「95」。
最北東部まで辿っていくと国道2号線と並走するようなところがあった。
その周辺を探ってみると「201A」も発見。
201A号線と2号線が交差する「ノリッジウォック」のあたりで解答ボタン。
誤差は144.5m。5000ptだった。
南北に真っ直ぐに伸びた閑静な並木道。どこまでも森の中という感じ。
なにかの建物(表札などはない)の門前が初期地点だが、その他に建物があるようには思えない。
とりあえず北に向かって進んでみよう。
最初の標識。出たぞ、キリル文字だ。「БОРОДИНСКОЕ」かな。
他の地名と照らし合わせて解読してみよう。
Бは「B」、Рが「R」、ゴルァの口が「D」、Иが「I」、Нが「N」、Сが「S」か。
というか「КОНДИНСКОЕ」という地名を見つけた。
これの読みが「コンジンスコエ」なので、БОРОДИНСКОЕは「ボロジンスコエ」と読むのだろう。
この「〜〜スコエ」という地名は他にも見られる。なにか「〜〜山」とか「〜〜川」みたいな意味なのかもしれない。
そしてロシアの中南部あたりに集中している気がするのでボロジンスコエもそのあたりにあるかもしれない。
でもそれ以上は分からん。
ロシア広すぎんよー。
北に進みまくっても何もなかったので出発点に戻って南へ行く。
あっさり小さな町(というか村?)があった。
その町の入口の看板に「ATTENTION! ZONE OF THE BORDER CONTROL!」と英語で書いてある。
ロシア国旗が掲げられているのでやはりロシアなんだろうと思うが。
Border Controlというのは国境かなにかだろうか。国境付近?
ここらへんで諦めてロシア最南部、オムスクのあたりで解答ボタンを押した。
うーん、ぜんぜん違った。
国境というのは合っていたが、南ではなく西、フィンランドとの国境付近だ。
サンクトペテルブルグの北西に「ボロジンスコエ」という町はあった。
残念。誤差は2675.1km。832ptだった。
ロシア広すぎんよー。
けっこう大きめの街。看板が多くて助かる。言語は英語っぽくない。
「MERCAMA'S DOMINICANA」という店があったのでドミニカなのかな。
道路標識があったが色褪せていてほぼ読めない。
大きな橋があった。やはり色褪せていて読みづらいが「REGRESA PRO…」と書かれた標識が見える。橋の名前だったらいいけど。
なんか大きめの胸像みたいなものが見えるな。「DR. JOSE FRANCISCO PEÑA GOMEZ」と書かれている。あとで調べてみるか。
うーん、だいぶ探したが案内標識のたぐいがない。街の名前がわからない。
看板の上のほうにちょろっと「SANTO DOMINGO ESTE」と書いてるんだよな。やはりドミニカなのか。
あと「SAN VICENTE DE PAUL」というのが道の名前らしい。
でもサント・ドミンゴ・エステ(サント・ドミンゴとは違う地区らしい?)に絞って探したけどそれらしい道や橋は見つからない…
諦めてサント・ドミンゴ・エステの真ん中で解答ボタンを押した。
誤差3.8km。4987pt。意外と惜しい。でもストビューの印象と地図がぜんぜん違うな。
「José Francisco Peña Gómez」さんはドミニカ共和国の有名な政治家で元サント・ドミンゴ市長だったらしい。
大通りに出てみる。なんか急に日本語で「ねぎらーめん」って書いてある店があるぞ。
あと「づぼらや」の写真。日本人の店なのか。「Negi Ramen Trang」とアルファベットで書いてある。
なんとなく東南アジアっぽいな。
ここのストリートビューは歩道視点なんだが。自転車で走ってる?
看板に「ASIAN DELIGHT」「THAI TASTE」って書いてある。
標識に「Trang City Hall」とある。やはり「Trang」という街なのでは。
まっすぐ南北に走る広めの道から「ねぎらーめん」を探す…おお、見つけた。
解答ボタンを押す。誤差は5.7m。5000ptだった。
https://anond.hatelabo.jp/20200813115920
https://anond.hatelabo.jp/20200813164528
久々に日記を書きたくなったので、今回は方向性を変えて年代記風の記事を投下してみます。
私自身は業界の全盛期である80年代~90年代前半を経験しておらず、当時の状況を記述するのに十分な知識がないため、その時代については省いています。
ということで、私がこの業界に入ることになる少し前の90年代半ばから物語を開始します。
※工場の呼び名は企業の再編によって変わる事が多々あるので、原則立地で表記している。
80年代後半に栄華を極めた日本半導体産業であったが、日米貿易摩擦の影響で一時に比べて勢いを失っていた。
また、韓国企業の台頭により得意分野のDRAMの雲行きが怪しくなり始めたのもこの時期である。
(余談だが、日本の半導体衰退の原因としてよく話題に上がる韓国での週末技術者バイトはさらに昔の話である。このころにはすでに強力な競合に育っていた。)
とはいえ世界的にみると日本の電機メーカーは資金力・技術力ともに上位であり、一時的な不況を乗り越えさえすれば再び繁栄が訪れると誰もが信じていた。
そんな時代背景の元、日本企業は貿易摩擦に対抗しつつ、さらなる勢力拡大を図るため、自動車産業の成功例に倣い世界各地で現地生産を進めることで変化に対応しようとしていた。
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | カリフォルニア州ローズビル | 1981 |
富士通 | オレゴン州グラシャム | 1988 |
三菱 | ノースカロライナ州ダーラム | 1989 |
日立 | テキサス州アービング | 1990 |
松下 | ワシントン州ピュアラップ(National Semiconductorより買収) | 1991 |
東芝 | ヴァージニア州マナサス(IBMとの合弁でドミニオンセミコンダクタ設立) | 1996 |
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | 英 リビングストン | 1982 |
日立 | 独 ランツフルト | 1990 |
三菱 | 独 アーヘン | 1990 |
富士通 | 英 ダーラム | 1991 |
企業名 | 進出先 | 設立 |
NEC | 中国首鋼集団と合弁工場設立 | 1991 |
三菱 | 台湾力晶半導体(Power Chip)と提携しDRAM技術供与 | 1994 |
東芝 | 台湾華邦電子(Winbond)と提携しDRAM技術供与 | 1995 |
沖電気 | 台湾南亜科技(NANYA)と提携しDRAM技術供与 | 1995 |
日立 | 新日本製鉄及びシンガポール開発庁と共同出資でシンガポールに工場建設 | 1996 |
Windows95ブームの終焉による半導体のだふつき、アジア通貨危機後の韓国メーカーのなりふり構わぬ安値攻勢、ITバブル崩壊による半導体需要の激減と、短期間で何度も悪化する半導体市況。
次第に半導体産業は将来性を危ぶまれるようになり、成長分野から社内の『お荷物』とみなされるようになっていった。
かつて半導体事業の中核だったDRAMは、優位性を失い韓国企業に覇権を譲り渡してしまった。
資金面でも徐々に脱落するメーカーが現れ始める。はじめについていけなくなったのは、バブル期に事業の多角化を進めて半導体に新規参入した鉄鋼メーカーだった。
続いて総合電機各社も規模縮小に向かう。世界中に作った半導体工場は投資の回収ができないまま次々と閉鎖されていった...
工場の現地化の試みは失敗に終わり、10年程度という短い期間での工場立ち上げ・閉鎖はマンパワーと資金の浪費に終わった。
こうして各社は体力を削られ、余力を失っていくのだった。
NEC、日立、DRAM事業の統合を決定。エルピーダメモリ設立。
神戸製鋼、米TIと合弁の西脇の半導体工場を米Micronに売却
日立、台湾UMCと合同で初の300mmェハ(従来の主力の直径200mmのウェハから2.25倍の面積になり、ざっくりいえば同じ工程数で2倍程度のChipが取れてコストを削減可能。現在に至るまで主流のウェハサイズ。)を使用する工場、トレセンティテクノロジを常陸那珂に設立
東芝、DRAM撤退。北米拠点のドミニオンセミコンダクタを米Micronに売却。
NEC、非メモリー半導体事業を分社化、NECエレクトロニクスを設立。
繰り返す半導体市況の激しい変動も落ち着きを取り戻し、待ち望んだ好景気がやってきた。
90年代後半からの不況で体力を消耗した日本企業だが、いまだ技術力は健在。
折からブームとなっていた『選択と集中』を合言葉に、各社の得意分野に集中投資だ!
パソコンではアメリカ企業に後れを取ってシェアを失ったが、液晶・プラズマをはじめとするテレビ、DVDレコーダーにデジカメ等、日本のお家芸である家電のデジタル化が進展する今こそ最大のチャンス!
さらに、世界中で規格が共通化された第三世代携帯電話が普及すれば、圧倒的な先進性を誇る日本の携帯電話が天下を取れるのだ!半導体復活の時はついに来た!!!
製造業の国内回帰の波に乗り、生産性に優れる300mmウェハの工場をどんどん建てて再起をねらうのだ!
日立と三菱がロジック半導体事業を統合、世界三位の半導体メーカールネサステクノロジ誕生。
富士通、米AMDとNOR型Flashメモリ事業を統合、Spansion設立。
エルピーダ、三菱電機からDRAM事業を譲渡。日本の残存DRAM事業が集約。新社長を外部招聘し、反転攻勢開始
東芝、四日市に300mm対応のNAND型Flash工場、四日市第3工場建設開始
Spansion、会津若松に300mm対応のNOR型Flash工場建設を発表
ルネサス、UMCからトレセンティテクノロジの持ち株を買収。完全子会社化
東芝、四日市に300mm対応のNAND型Flash第4工場を建設開始
2000年代の日本企業の反転攻勢は、リーマンショックで終わってしまった。
日本の電機業界が成功を夢見たデジタル家電は韓国勢との競争に敗れ、携帯電話でも海外展開に失敗した。
90年代から繰り返し計上してきた赤字と、2000年代の大規模投資を経た今、半導体工場への投資を継続する資金的余力はもはや残っていなかった。
不採算部門とみなされるようになった半導体事業は設備投資が止まり、建設されてからわずか数年で時代遅れとなってしまった。
これ以降は、東芝のNAND型Flashメモリや、ソニーのイメージセンサーといった競争力を維持している分野、また旧エルピーダのDRAM工場といった外資の資金を得た分野のみが投資を継続されることになる。
ルネサス、日立時代からの欧州拠点、ランツフルト工場をLファウンドリーに売却
日立、シンガポールの工場をシンガポールのチャータードセミコンダクタに売却
ルネサスとNECエレが合併。世界第三位の半導体メーカー、ルネサスエレクトロニクス発足。フィンランドのノキアからモデム部門を買収。
ルネサスエレ、NEC時代からの北米拠点、ローズビル工場を独テレフンケンに売却
米オン・セミコンダクター、三洋電機の半導体事業を買収
ルネサスエレ、ノキアから買収したモデム事業から撤退、さらに2300人リストラ。またNEC時代の中国の合弁を解消し撤退。
富士通、マイコン・アナログ事業を再建したSpansionに売却
東芝、四日市の300mm第5工場2期分稼働。200mmの第2工場を300mmに建て替え
Panasonic、半導体工場をまとめてイスラエルのTower Jazzに売却
富士通とPanasonic、SoC設計部門を統合、ソシオネクスト設立
この時期に至ってようやく主要半導体メーカーの工場再編が一通り完了し、現在につながる枠組みがほぼ出来上がった。
リーマンショック後の大規模再編で日本企業の世界的地位はかつてないまでに低下し、国内の工場においても外資系の傘下に入るところが増えた。
現在半導体の先端工場に継続投資できる日本企業は、イメージセンサーに強いソニーと東芝のメモリ事業を引き継いだキオクシアだけである。
はたして日本の半導体産業は今後どうなるのだろうか?再び世界に飛躍する日はやってくるのだろうか?
東芝、四日市の第2工場建て替え完了。大分と岩手の200mm工場を分社化、ジャパンセミコンダクターを設立。
東芝、本体の粉飾決算のあおりを受けてメモリ事業を分社化。東芝メモリ設立。四日市に300mmの第6工場建設開始。さらに北上市に300mm新工場を建設
ルネサスエレ、米intersilを買収
東芝メモリ、四日市の第6工場が稼働。多国籍連合のファンド、パンゲアから出資を受ける。
富士通、桑名の300mm工場を台湾UMCに売却。また、会津若松の200mm工場も米オン・セミコンダクターに売却。
Panasonic、残ったマイコン等の事業を台湾Nuvotonに売却して半導体から撤退
36歳の俺が幼稚園くらいの時にやってたのがカトちゃんケンちゃん
その後ちょいちょいバカ殿とかコントが放送される程度で、ドリフの笑いなんてものは
90年台中盤以降はもうなかった気がするんだがなあ
いや冗談抜きでさ、この国の衰退と今の停滞や、生きづらい世の中になった原因の8割くらいは、ロスジェネ世代のせいだろ。
就職氷河期世代の救済を、雇用保険の積立からやるなんてことで氷河期世代が大バッシングを受けて、我々に人権はないのかとかいってるが、そんなの言われて当たり前だろって
俺ら社会人はヒーヒー言いながら、バカみたいに高い年金や雇用保険払って、30万くらい稼いでも手元に残るの20万円台前半なんだよ、なんで俺らがそんな苦労してんのに、今まで楽してきて人生詰んだオッサンやババア共養うために、さらなる年貢を取られないといけないわけ?
大体、就職率が悪かったというが、有効求人倍率はバブル崩壊~1998年くらいまでは、人手不足でかなり就職しやすいくらいに上がってる今と統計上どっこいどっこいだぞ
有効求人倍率が1を割ったのは西暦2000年の一回だけ、今とほぼ同じ有効求人倍率でマトモなところに就職できませんでしたなんて、そんなもん自己責任以外の何だってんだよ、甘えてんじゃねえぞ?コラ
今や20代なら、年収300万円台中盤でかなり頑張って稼げてるクラスにまで全体の賃下げが起きた起点ももとをただせば氷河期世代のクズ共が「本来なら市場から淘汰されるべき中小零細」に群がって薄給でゾンビのように延命させ続けたからだろうが、派遣だって当時の政府のせいにしてるが、全く同じ理由で、単純労働しかできんクソ共が安請負で平均時給ガンガン下げまくったせいなのは、当時の経済学者たちの著書の中でさえ、大半は触れられてる事実だ。
お前ら氷河期世代のクズ共がいなければ、中央値でさえ480万円くらいのまま労働者の平均年収が微増してんだよ、つまり経済的停滞は少なくとも今並よりかは起きうるはずがない。もっと言えば、ここのITあたりで20代で500万や1000万くらい稼いでるや男女問わない増田でさえ、結婚と出産や子育てには躊躇するほどに雇用環境が不安定に悪化してっからな、お前ら氷河期野郎どものせいで
お前ら氷河期世代の害虫共が、勝手に薄給ブラックに甘んじて、奨学金踏み倒しまくったせいで、今や女子大生でさえ風俗で学費を稼ぐほどなんてニュースで問題になるくらい大学の学費が国公立でさえ上がってんだよ、〇ねよマジで、お前ら罪悪感とかないわけ?
若者の〇〇離れじゃねーんだよ、そんな余裕も時間もなけりゃ、今や中学生や高校生が手つないで下校しただけで、女子高生がバイトでお金貯めて中古車買ったのをSNSにアップしただけで、嫉妬に狂った氷河期世代のフェミ婆やオッサンが「けしからん!!!!」とかクレーム入れて何を狂ったか警察に110番16連射とかやってるなんて問題になってるだろ。そんな中で若者が委縮して恋愛なんかできるわけねーだろうが、てかそんな正義マンや正義ウーマンという名の公務執行妨害行為の対応に当たる警察官のみなさまの迷惑とか考えたことねえのか?考えたことないから氷河期で落ちぶれて、無能ゆえに誰からも相手にされずに、そんな暇なことやってんだろうけどなw
そもそも今一番比較的稼げるIT業界ですら、致命的な賃下げを引き起こしたのも、業界がブラック化するほど供給過多を続けたのも、お前ら氷河期世代のせいだろうが
VBブーム以前の頃は、マジで平均年収800万くらいの世界だったっていうべ?予算は何でもつけてくれてどんなエッジのきいた技術だって使わせてくれる、そんだけ金回りがよかった業界を、今見たいなブラックに変えたのはほかでもない、氷河期世代のせいだろうが、デスマだのブラックだのと勝手にやめればいいのを自殺に利用するがごとくやってさ、IT業界に風評被害まで巻き起こしてよ、迷惑なんだよ、死にたきゃ一人で死んでろよ、お前ら氷河期世代の害虫どもがいなければ、少なくとも年収はアメリカ世界標準だったわけだべ?
散々そんで社会福祉を甘えだ削れと20年間も言い続けて、いざ自分らが福祉のお世話になるしか生きる方法がないとわかった途端に「我々は国に捨てられたのだから貰う権利がある」とかふんぞり返ってナマポ開き直りとかさ、ホント呆れて物も言えんわ
人権認めてほしけりゃ日本国憲法の義務を果たせよバカ共が、年貢もロクに納められない時点でお前らに人権認めてやる余裕なんか今の日本にねーんだよ
で、挙句の果てにここ1年で何件もこの世代がテロを起こしてるけどさ、狙うのは幼稚園とか小学校とか、何の関係もないアニメスタジオとかでさ、情けないことこの上ないのをネットじゃあ「ソフトターゲットを狙うのはテロの常道」とか開き直ってんだぜ、こいつら氷河期世代って
国が言わんなら俺が代わりに言ってやるわ、
ググりました!
明治大学中退後、東京厚生年金看護専門学校に入学。同校を卒業後1987年より東京厚生年金病院に勤務。内科病棟を経て、神経科病棟および緩和ケア病棟の看護師長を歴任する。
小林光恵
茨城県立鉾田第一高等学校在学中は地学部やチアリーダーで活動をしていた。1982年に東京警察病院看護専門学校卒業後[1]、看護師、編集者などの経験を経て、著述業となる。
国立療養所宇多野病院付属高等看護学校卒。都内で看護婦として働く[1]。夫は新聞記者の柴野徹夫。1987年に『看護病棟日記』を刊行して話題となり、数冊の著作をなした。
山中利子
室園孝子
久留米医師会看護専門学校卒業後、聖マリア病院へ勤務、並行して音楽専門学校にてボイストレーニングを重ね、バンド活動等を経験。 二児の母になったのをきっかけに執筆活動を始める。
真杉静枝
1911年に一旦日本に戻ったが、再び台湾に戻り、台中の看護婦養成所を卒業して1916年から看護婦として台中病院に務める[1]。
弥永英晃
看護師として救急救命・外科・内科・整形外科・脳外科・終末期医療・訪問看護・精神科の経験、病院・クリニックの心療内科・精神科・児童・思春期外来で病院カウンセラーとして勤務。独立し「心理カウンセラー・メンタルトレーナー・作家」として活動。
吉見マサノヴ
ルイーザ・メイ・オルコット
1860年にオルコットは「ジ・アトランティック・マンスリー」(The Atlantic Monthly)誌に作品を書き始め、また1862年から1863年にかけて六週間ほど、ワシントンD.C.のジョージタウンにある合衆国病院で看護婦を務めている。
1997年、家族がコンピュータを買ったことをきっかけに小説を書き始める[2]。この時、看護師になって20年が経っており、まだ看護師という職業が好きだったが、何か新しいことを始めてみたいと思っていたという[1]。
ヴィッキィ・バウム
野口悠紀雄曰く「2050年には、中国の方が日本より豊かになる」
そういう近未来だと、東北の若者は兎も角として、九州の若者は「東京じゃなく、上海を目指す」んじゃない?
「上海を目指す若者が多い九州」において、小学校中学校で東北北海道の地理を習ったり、日本語英語習うのは、時間の無駄なんじゃないの?
東北北海道などのオワコン地域の学習より、大陸中国の地理を教えたり、上海語教えたりした方が、2050年の若者には役立つんじゃないの?
沖縄の小学校なら、日本本土の地理教育より、「台北の地理、台中の地理、高雄の地理」を教えた方が、遥かに役立つんじゃないかと。
環島っていうのはこれ↓
https://taiwanisshu.asia/taiwanisshu-web/
環島用のルートが制定されていることもあって、日本からの観光客もやっている人が多いが
本やブログでは「自分頑張った!」的な内容ばかりで、よくわからないことだらけだったので参考になればいいなと思いメモ。
ちなみに行ったのは先月。
トラブル等もあったので8日間くらいかけて踏破(ただし、2日間は電車になってしまった)
あと、個人の感想なので、信用しすぎないでほしい。
なんだかんだでものすごく悩まされたのが天気。
現地のテレビの天気予報を見ても、晴れと曇りと雨と雷のマークが1カ所の中に全部出ているなんてこともあり全部役に立たない。
対処方法としては、「朝早くスタートして、夕方前にはゴールしている」ようなスケジューリングを組むこと。
朝は比較的天気が安定しているけど、夕方になると毎日のように激しい夕立がある。
暗くて大雨よりは明るくて小雨の方がまだマシ。
自転車道といっても車道のサイドに自転車専用レーンがついているだけなので、夜の雨は怖すぎる(そして気分も落ちる)。
ブログとか読んでいると「毎日快適に走れました!」みたいなことを書いているけど、思ったより…
台湾の北側は台北、新竹、台中、高雄など大都市が集中しているので、信号が多い。
自転車用の停止線はあるけど、原付も共用だから原付に思いっきり囲まれる。
台北から反時計回りで出発したんだけど、初めは川沿いの完全な自転車道だったから快適だった。
その自転車道を出た後はなかなかひどい。
環島用の道路は基本的には標識があるので迷うことはないんだけど、ごく稀に工事をしていて通れない。
そして、回り道がどこなのかが書いていないことが多い。
(書いてあるのかもしれないけど、地図はなく文字だけなのでわからない)
また、三貂角灯塔近辺の道は環島用の標識のとおりに行くと、漁村へ寄り道するだけなので
線路を跨がなければいけないところは立体交差になっていることが多く無駄な坂が発生。
荷物をいっぱい積んで走っている身としては辛い。
毎日毎日、セブンイレブンかファミリーマートかハイライフ(台湾のコンビニチェーン)にお世話になっていた。
トイレも貸してくれるし、疲れたならアミノバイタルを買えばいい。
塩分のタブレットも売ってたし、場所によっては空気入れを貸してくれる。
何よりいいのが、コンビニは基本的にはガラス張りなので自転車の盗難を見張れること。
町の食堂は「台湾きたな!」っていう気分にはなるけど、牛肉麺ばかりなので飽きる(偏見かも)。
これ以外だと50嵐やCOCO都可のようなドリンクスタンドにもお世話になっていた。
環島の自転車道と並行して電車が走っているので、どうしても疲れるようであれば電車に乗ればいい。
輪行バッグなしでも電車に入れられるけど、対応している電車が日に数本しかないので事前に調べておいた方がいい。
(ググれば詳しく書いてあるブログに行き着くはず)
自転車留めが車両の中にあるタイプ、自転車を詰める貨物車があるタイプ、一般車両にそのまま入れるタイプ(自転車留めはない)など様々。
予約時に自転車があることを事前に言えればいいが、言えなかった場合でもどうにかなった。
環島用道路近辺のホテルは自転車の扱いに慣れているのか、みんな室内に停めさせてくれた。
長期で行っていると、汚れ物がたまる。
(雨でぐしょぐしょになっていることも多いし)
それなりに大きな都市は24時間営業のコインランドリーがあるから、そこまで衣類の予備は必要ない。
環島用道路を大荷物乗せて走っていると声をかけられることがある。
ただ、日本人だと思われていないので、魔法の言葉「我是日本人(Wǒ shì rìběn rén)=私は日本人です」を唱えるといい。
また、対向車などに「加油(Jiāyóu)=ファイト!」と言われたり、サムアップされたりする。
台湾の方々はとても人懐っこく、親切。
ものすごく助けられた。
個人旅行で行っていたのだが、某G社がサポートする環島用のツアーに参加している人とかち合うことが多かった。
傍目から見て、「とても甘やかされていて、こんなので1周したと言えるのか…?」といった様相。
まず、彼らは荷物を持たない。
着替えなどはサポートカーに積んでいるし、そもそも自転車のリペアグッズとは無縁。
大雨が降れば、自転車に乗らずサポートカーが適度な位置まで運んでくれる。
疲れた時も同様、運んでもらって進めばいいじゃない!という感じ。
ある程度のロングライドができる体力があり、パンク交換などリペアの最低限の知識があるのであればツアーでなくても問題なし。
宿はBookingなどで予約すればいいし、地図は標識とgoogleマップでどうにかなる。
致し方ない車体トラブルが起きれば駅まで徒歩で行き、電車に乗って大都市の自転車屋さんに行けば済む。
ツアーは体力がない、ウェブリテラシーがない、だけど「環島したよ!」って自慢したい人が参加するものだと思う。
ちなみに、ツアーに参加すると太るらしい。
1日8時間自転車に乗ると約2000kcal、基礎代謝が1500kcalだとすると1日3500kcal以上摂取してやっと太ることになるのだが…察してほしい
普通の社会人なら(ましてや会社人なら)その手の受け答えは持ってても持ってないって答えるのがデフォ
テスト前に勉強していないわーとか、マラソンで一緒に走ろうぜって言ってたのと一緒
あいつ金持ってんだからリストラ、異動しても大丈夫でしょってなることもあるぞ
逆にあいつは乳飲み子抱えてるからリストラ、異動の候補から外してやろう的な話も普通にある
例えばお前が「1000万貯まったわー」と言ったところで、
にしかならない
結局損しかしない
30歳時点でどんなもんだった
多分2000万くらいは持ってた
単身なら30台~40台はボーナスステージっていうか一番金が貯まる時期だと思う
30台中頃には年200-300万ずつ貯められるはず
自分は友達がめちゃめちゃ少ないんだけど、少し前になぜか人生で初めて彼女というものができた。で、2人で話してると当然のごとく結婚というワードが話題に上がるわけで彼女は結婚式を挙げたいという意見だった。
いやー、あげたくない、あげたくないよー。そもそもさー、友達少ないというかほぼいないんだよ。呼ぶ人いないじゃん?会社の人とか呼ぶの?やだよー。
というわけで、彼女には、結婚式はあんまりあげたくなくて、やるんなら近親者だけのこぢんまりしたご飯会みたいなのがいいなぁ」ということをやんわりお伝えしたんだけどさ。
いやー、申し訳ないよー。なんかよく分からんけど、結婚式って女の子の夢なんでしょ?今まで数回しか結婚式に行ったことないからか知らんけど「こんな結婚式をあげてみたい」って思ったことないし、準備に時間かかって金もかかってめんどくさそうって感想しかないけど、でも結婚式ってわりと多めの女の子があげたいんでしょ?(あ、私はあげたくなかったからうんぬんみたいな意見はいらないです)
なんかさー、自分のあげたくないって気持ちも強いんだけど、それで彼女の人生に一度限りかもしれないイベントをスルーするのはめちゃくちゃ理不尽な気がするんよ。
いや、ドレスとかは写真屋さんとかで写真だけ撮れば良くない?って思ったんだけどさ、でも、そんなんで満足してくれるんだろうか?相手の家族からそれで「なんだこの男……」って思われたりしたらとか考えるともうどうしようもない気持ちになってくるよ。
友達少ない時点で社会不適合だとは思ってたけどさ、彼女の家で飯作って彼女の帰宅待ったり、デートで少し多めの金払って感謝されたり、そういうのが楽しくてさー。でも、結婚式とか考えただけでだめなんだよー。頑張ってやったとしても、俺は全く結婚式あげたくないから、彼女から「結婚式よかったねー」って言われても「うん、そだねー」みたいな上の空の返事して不審がられるだろうし、そもそもあげたくないやつに無理に上げさせたくないだろうしさー。
まあ、こんなこと書いても「彼女が可愛そうだから早く別れろ」とか「運動と瞑想をしないから」みたいなことしか言われないのは目に見えてるんだけど、もし友達少ない男で頑張って結婚式あげた人とか、こういう落とし所で決着つけたとかありましたら、教えてください。
彼女ともっと話し合えって意見もあるかもだけど、結婚式あげたいって言ってる人に「俺はこんなに結婚式があげたくないんだぞ!!」ってプレゼンするのも嫌だし、「結婚式あげたくないけど、あなたのことが好きだから我慢してやったげるわ」みたいなことも言いたくないんだよ。こんな逃げ腰だからだめなんだろうか。お互い、そんなに金ないんだから別にあげなくていいと思うんだけどね。。
*追記
うおー、わりと反応あってびっくりしてる。皆さん色々なご意見ありがとう!!
リゾート結婚式とか全く頭になかったので調べてみます。。頭数絞って豪華にみたいなこと全然考えてなかったのでめっちゃ参考になりました!!
自転車を使った交通事故詐欺(当たり屋)行為が増加して以来、自転車=詐欺師の凶器と扱われるようになったが、少し冷静になろうよ。
大体自転車を使って交通事故詐欺する人間なんて1000台中1台あるかないかだ。
確かに日本の自転車の交通事故は外国に比べて多いし、自動車事故の次に多いと思う。もちろん、免許とか強制保険がなく、車両のコストの安い分あのハードルは低いだろう。
しかし、だからといって「自転車を公道から排除しましょう!」という考えに思考を飛躍させるのはおかしいと思う。
これは例えていうならば、同じく1000台の中で1台あるかないかの、民度のなっていないドライバー・保有者だけをとって、白一色、黒一色のラグジュアリー車を公道から排除するという発想と同じ。多数派と少数派の比率を考えていない、馬鹿馬鹿しい話だ。
動物のお医者さんというまんがを読んだときに誰でも気づくことがあると思う。
それはハムテルたちのライフイベントが意外とあっさり流されていく一方で菱沼聖子のライフイベントは比較的濃密に描かれるという点だ。
そこで 1 巻末のおまけマンガを確認すると、佐々木の友人の友人である「Sさん」なる獣医学部所属者に取材したことが記されている。そして、 1-12 巻全巻において、取材協力者として同じく「Sさん」がクレジットされている(単行本中には本名が記されてますがわざわざ検索しやすいインターネットで拡散する意味もないと思うのでとりあえず伏せます)。そして、この「Sさん」は常に協力者として末尾にクレジットされている。
これは通じて「Sさん」への取材がストーリー構成のメインとなっていたことを示していると思う。
また、「Sさん」は初取材時時点ですでに獣医学部にある程度長期間所属しているような人間であったことが 1 巻のおまけマンガから推察される。
これらの事実は何を示すか。
あまり信用のおけない情報ではあるのだが、菱沼聖子のモデルとされるすっとろい優秀な女性研究者というのが実際に当時北大に在籍していたという情報もインターネットには散在しており、「Sさん」==菱沼聖子説を補強してくれる。
おそらく現在彼女は 50 台中盤であろう。その後の菱沼聖子は一体どんな人生を送っただろうか。まだ企業で研究者として現役だろうか。などといったことをたまに考えたりしている。「Sさん」にしてみれば迷惑もいいところだろうが。
http://anond.hatelabo.jp/20161018195148
当方148cm女性だけど、成人してからは本当に自分と同じくらいの身長の人はなかなか見かけなくなる。
だから、このくらいの身長の人間は「自分と同じくらいの他人」を見慣れていない。
なので、知らず知らずのうちに身長に対する認知が狂ってきているんだと思う。
同じ職場に女性が数十人いるが、漠然と「自分と同じくらい」と認識していた人は150cm台中盤だった。
一人だけ私と同じく150cm未満の同僚がいるのだが(お互い身長を教えあって確認済み)、
ある日偶然、街の人混みの中で彼女を見かけたとき、明らかに周囲の人間より小柄なので驚いたものだ。
「数字としては自分の身長を認識してはいたけど、現実にはたから見るとあれほど小柄だったのか…」と。
なので、「私と同じくらい」と思ったその人も、実際は150半ば〜160台だったのかもしれませんよ。