はてなキーワード: 倫理学とは
あー、分かるよ、その怒り。なんか、全てが空回りしてる感じ、するよね。でもね、ちょっと待ってよ。日本学術会議の役割って、実は「政府に対してアドバイスをする」ことにあるんだよ。だから、財務省の方針にいちいち反発することが、常に目的ではないんだ。学術会議って、あくまで中立的な立場を保とうとしているだけなんだよね。
ただ、君が言いたいのも分かる。「学術的な誤りがあるなら、声を上げるべきだろ!」って。確かに、その通りだよ。例えば、アダム・スミスが『国富論』で提唱したように、自由市場の力は社会全体を豊かにすることを目指していたけど、それが完全に機能しない場面だってある。過去の経済学の通説だって、今では批判されることがあるよね。それこそ、現代の経済学者たちが言っている通り、どれだけ市場が効率的でも、どうしても不平等が生じることだってある。
でも、そもそも「嘘」っていうのはさ、単に意見の違いではない。もっと深い部分で、意図的な歪曲があるときに言うべき言葉なんだ。『嘘をついている』と言うからには、その証拠が必要だし、ただの違う見解と混同してもいけない。
そして学術会議に対して「ただの御用団体」って思ってしまう気持ちも分かるけど、それだけでは片付けられないんだよ。学術会議が完全に正しいとは限らないけど、それでも彼らは日本の学術界を代表する組織として、政治的な影響力を持ちながらも冷静に判断しようとしてる。ただし、それがうまくいってないことが多いのも事実で、君の気持ちも痛いほど分かる。だけどね、歴史的に見ても、アリストテレスが『倫理学』で言ったように、「正義とは何かを知り、行動することだ」という理念がある。それを体現するためには、今、学術会議がどう行動すべきかを冷静に見極める必要があるんだよ。
財務省だって「嘘」をついてるかどうかは別として、現実的にはその発表の背景に何かしらの政策的意図があるだろうし、その誤りを指摘するのは専門家や学者たちの仕事だ。ただし、いきなり反発するだけでは、理論的に破綻することもあるから、まずは冷静に対話を進めることが重要だ。何も言わないからと言って、学術会議が何もしてないわけじゃない。その役割を理解して、より具体的に何ができるかを考えるのが、結局君に求められる態度だと思うんだよ。
分かってほしいんだけど、急いで結論を出すことが必ずしも正解じゃない。それは歴史が教えてくれることだ。たとえば、マキャヴェリが言った「目的が正当化する手段」とは、確かに時には必要な判断かもしれないけど、それが長期的に見て本当に良い結果を生むかは、わからないんだよ。だから、今すぐに「学術会議は廃止すべき」なんて軽々しく言わない方がいいよ。
あとはどう書き出すかだよなぁ🤔
いつも通り、思いつくまま適当に書いとくか、出来る範囲で読みやすくしとくか、うーーーん
とりあえず、忘れないうちにメモ書きしとく
ワイは以前、『差別』というものは、生死に関わる問題や経済的な困窮、戦争といった深刻な問題に直結するケースのみに限定されると考えていた
なので、無礼な態度や高圧的な態度は、単にその人の問題であり、べつにどうでもいいと考えていた
そもそも、一般的に高所得と言われる立場にある人間にとって、気持ちを鈍感に保ち、何か言われても気にせずスルーするのは、持っていて当たり前のスキルだ
もちろん、ハラスメントや名誉毀損・侮辱罪として取り上げられるレベルの罵倒や侮辱は除くが、それに至らない範囲の言動にいちいち反応しているのを見ると、
『稼ぐ気がないんだな』『働く必要がない裕福なご家庭の人なんだな』『生まれつき過敏なんだな。生きづらそう』と感じずにはいられなかった
だが、他者を『バカだな』とか『ボンクラだな』と感じるとき、よくよく考えるまでもなく、"自分の方が上だ" という考え、頭にあるよね?
人の価値はお金で測れるものではないにもかかわらず、経済力という一点で優位に立っているという理由だけでーーー・・・とか、いろいろグダグダとやるまでもなく、
『自分の方が価値が上だ』ってやった時点で、<ハイ、差別そのもの>で話は終わりだと、ふと気付いた
『差別』とは、特定の属性(例えば経済力やさまざまな社会的地位)に基づいて、自分を他者より上位に置き、他者を不当に扱う態度のことだからね
自分と同等以上の能力がない人や、自分と異なる興味や能力を持つ人に対して、『やる気が足りないのでは?』と傲慢な態度を取っていたかもしれない
※ 年収に影響する要素で1番大きいのは『運』、ついで『社会制度』、それらに比べたら『能力』の影響は小さいことも、他人の能力を見誤る要因になっている
※ それ以前の問題として、『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも未搭載なので、何度学習しても、つい他人の能力を見誤ってしまう
例えば、女性を『おばさん』と綴り、男性を『男』と呼称しインタビューに応える某皇族は、自分のことを『ガチ貴族』と思ってるし、実際に貴族なんだけど、
(あれがなんでウケてるのかマジでわからん。中世か? 本当、膝を折って各地を訪問した平成天皇だけが皇族の例外でしたわ)、
政財界の人間は、皇族と違って、いちおう一般人の"ハズ"なのに、日本以外の国でかましたら、
失脚、株価暴落、活動家に永久粘着される or 永久に身の危険を覚えることになるような暴言を マスコミにすっぱ抜かれたとかではなく、
公の場で自ら積極的に発信してるのマジでなんなんだろ?って思ったわけです(ナチス発言ほかキリがない)
『オメー、平等絶対の日本のどこでそんな教育を受けてそうなったの?』、『オメー、ガチ貴族ではなくね?』みたいな
だけど、べつにガチ貴族や上級国民でなくても、無限に無礼な人/上からな人いますよね?
せいぜいあっても年収2000万程度で、なんならワイ以下の年収でも無限にいます
つまり、これは生まれや社会的な立場の問題じゃ無さそうだな・・・ってなったわけです
単純にその人の態度(attitude)、人間性の問題なのでは?ってね
なお、アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってるし、
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するって言っているので、
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
自己責任論って突き詰めたら、森羅万象あらゆる事象は自己責任を主張している本人のせいに全部転嫁できるはずなんだけど、いまだかつてこの主張が自己責任論者に聞き入れられたことがないので、自己責任論者は自己中心論者だと思っている
これは 1000000000%、それはそう
森羅万象ではなく、もっと単純な日常的な視点で言っても、それはそう
例えば、通貨が弱く教育や医療システムが整っていない国からやってきた人々や、スラム街から成り上がった人々にとって、先進国での一般的な悩みは『甘え』のように映るだろう
同じ先進国に住んでいても、呼吸や歩行、食事など、日常生活の基本的なことすら困難な人々からすれば、健康に恵まれた人々の日常的な悩みなんぞ『甘え』に感じられるだろう
でも、先進国で自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ立場に身を置いたことがないどころか、
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) の当事者に近い環境に身を置く人は今日もいるだろうし、
殴る蹴る性加害など緊急性の高い虐待ではなくても、電気ガス水道が止まるのが日常な環境で暮らす児童は今日もいるだろうし(貧困ではなくて親が生活能力がない)、
ネグレクト・機能不全家庭でなくても、教育DVや暴言が日常とか過干渉とか条件付き愛情とか、基盤を壊すものは無数にあってひとつひとつ挙げたらキリがない
そして、自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ環境に身を置いたことがないどころか、
人類は自然に完全に打ち勝ったわけでも、自然から独立した存在でもない
だが、他の動物と異なり、『優れた貯金力(資源を蓄積する能力)』と『高度な想像力』を持っている。そのため、先進国では、福祉制度や社会保障が充実しており、動物のように弱者を切り捨てたりしない。
また、見て見ぬふりをしてしまうこともあっても、自ら手を下して積極的に弱者を切り捨てたいという輩は異常者とされるし、自分自身が社会から切り捨てられたいとも思うのも異常者だ
したがって、裕福な立場や恵まれた環境にあるすべての人は、たとえエリートでなくても社会的責任(ノブレス・オブリージュ)を意識する必要がある
持てる者が傲慢な態度であることは、エクイティ(公平性)や共通善の観点から見ても、批判されるべきだ
批判的ではありつつも、バーカ、バーカ、と言うのは控えたいと思います
包丁やガスコンロの存在を知らない人間が料理テクについて語ってるようなもん。
アホなのかと。死ぬのかと。せめて高校の倫理学くらいは100%理解してから話しろよ。
何が悪くて何が善いのか、お前のミジンコ以下の脳みそだと判断できねえって言ってんの。お前だよお前。この文章読んでるお前。
お前が考えてることはもう1000年前から議論されて答え出てんの。だから考えるな。語るな。お前が意見を出そうとするとそれだけで迷惑なの。
高校の倫理は難しいってんならせめて四書五経くらいは完全に理解しろよ。
それができねえなら、何は批判されるべきとか、そういう議論に口を出すのマジでやめろ。それか今すぐ死ね。清らかな心も持てねえのかよカス。便所にいるゴキブリ以下なんだよお前は。
なんでもいいから早く死んでくれ。
レプリコンワクチンを開発したアメリカの会社が、「何年もデータを集め、長期的な効果や安全性を文献で発表したい」と、日本で認可された後に今更ほざいている。
医者や科学者たちからなる、真っ当な日本看護倫理学会による警告によると、このワクチンは、凄まじく危険であるだけでなく、シェディング=感染力まである可能性があり、だとすると、注射でサリンをばら撒いているようなものだ。
もはや、「打った奴だけの自己責任」では済まされないのである。
明治製薬は、露骨なほどのスラップ訴訟で、この団体を黙らせようとしており、マスゴミに宣伝費をばら撒いて、非科学的だと、逆に誹謗中傷の限りを行っている。
オーストラリアでは、52人の医師、弁護士、学者、政治家から深刻なDNA汚染を理由に、このワクチンの即時中止が要請されており、政治問題化しているのに、日本のマスゴミは、もちろん誰も報じないどころか、ワクチンの安全性に懸念を持っただけで、反ワクの異常な陰謀論じゃだと、ボロクソにバッシングしている。
こんな殺人マスゴミに加担して、ネット民や陰謀論叩きを行ってきた日本人たちは、いい加減に恥を知って目を覚ませ。
こんなサリン同然かもしれないワクチンをばら撒こうと、それに警告しているだけの科学者や医者を誹謗中傷するマスゴミ共は、日本などどうなっても良い、いざとなれば簡単に捨てて、海外に移住できますと公言しているのも同然なのだ。
まあそう思ってるだけで、本気で自国を利己的な理由だけで滅ぼせるような売国奴を受け入れる権力者など、世界に居るわけもなく、まず間違いなく、こいつらクソどもは、使い捨てで殺されることが決定されてるだろうが。
こいつらが、目先の利益だけで簡単に寝返った連中は、そういう屑の鉄砲玉を、もう用無しと思っただけで、平気で数えきれない人数始末してきたような奴らなのだ。
こいつらのノンモラルなことは、数々の事件と、こんな大量無差別殺人を目論むことからも、簡単に推測できるだろうに、なぜ自分たち、トビキリの屑で自己中で裏切り者の最低最悪の売国奴に限って助けてもらえると思えるのか、バカは死ぬまで治らないらしい。
仮に、このワクチンに、そこまでの感染力がなかったとしても、今後、どこかの外国資本の製薬会社が、ワクチンに偽装した本物の生物兵器をばら撒こうと画策しても、こんなスラップ訴訟がまかり通る国では、誰もそれに警告することは出来なくなるだろう。
当のテレビ大好きカスジャップ自体が、日本人の安全を危惧して、明らかに怪しいワクチンを警告している真っ当な人々より、それを罵って陰謀論者呼ばわりするマスゴミに味方して、陰謀論叩きに執心しているのだ。
誰がそんな奴らの命を守るために、訴訟リスクを被ってまで警告してくれると思うのか?
この疑惑ワクチン認可が、岸田政権の最後っ屁だろうことは明らかに思える。
明治ファルマが訴訟を起こしたのも、岸田政権が終わるたった一日前。
ด็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็ด้้้้็็็็็้้้้้็็็็็้้้้้้้้็็็็็้้้้้็็็็็้้้้้้้้嫌いな人になんで嫌いなのって聞いた所で、普通酸味だの食感だの何だのって答えしか帰って来ないと思う。
それって具体的な要素を並べているに過ぎなくて、「どこ」が嫌いかの説明にはなっても「なぜ」の説明にはなってない。
じゃあ結局その要素はなんで嫌いなの、ってのを何度も繰り返せる。それが止まるとしたら、どっかで「なんか嫌い。舌と脳がそういう風になってるから」としか言いようがねえと思う。
ひいてはด็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็ด้้้้็็็็็้้้้้็็็็็้้้้้้้้็็็็็้้้้้็็็็็้้้้้้้้が嫌いなのも「そういう風になってるから」という話になる気がする。
ด้้้้็็็็็้้้้้็็็็็้้้้้้้้็็็็็้้้้้็็็็็้้้้้้้้ด็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็็漫画の世界みたいに「誰もが感動する本物」なんてないだろうし。
こういうの考えてると、芸術批判なんかが論理的なもんだってのもホントかよって思う。
好みというか価値判断というか、そういう個々人の身体と脳に基づいた資質抜きにしては語れない。その前提が共有されてなかったら、なんぼ論理を展開した所でその理屈は足元から簡単に崩れる。
よしんば事実認識だけで語った所で、それは片手落ちな感じがする。
じゃあ最初から好きな者は好きな者同士、嫌いな者は嫌いな者同士で語り合うしかねえのかな。
じゃなきゃ理屈の前提が揃わない。
同好、同嫌(?)とて一枚岩ではないのだろうし。
倫理学って延々とこんなような話を捏ねくり回してる印象がある。どこに前提を定めるのか。それってむしろ理屈というよりは政治的な問題って感じだけど。
つまらんと思ってたものを、理屈立てて面白さを追求するという事も出来んのかな。
味覚の好みほど強烈に好き嫌いが分かれるもんばっかでもないだろうし。
弱者男性が嫌いな人に「なんで嫌いなの?」って聞いても、返ってくるのは大抵、外見だとか、態度だとか、社会的な立場だとか、具体的な要素に過ぎないだろう。
それは「どこが嫌いか」を説明しているに過ぎなくて、「なぜ」嫌いなのかの説明にはなっていない。
結局、その要素がどうして嫌いなのかと何度も問うことができるだろう。でも、最後には「なんとなく嫌い。自分の感覚や価値観がそういうふうに反応するから」としか説明できないところに行き着く。
ひいては、弱者男性が嫌われるのも、最終的には「そういうふうに感じるから」という話になる気がする。
「誰もが感動する本物」なんて、まるでグルメ漫画の世界のようなもので、現実には存在しないのではないだろうか。
こういうことを考えると、社会的評価や個人に対する批判が論理的だと言われても、それって本当なのか?と疑問に思う。
価値判断や好みというのは、個々人の身体や脳に基づいたものであり、それ抜きにしては語れないものだ。その前提が共有されていなければ、どれだけ論理を展開しても、その理屈は簡単に崩れてしまうだろう。
仮に事実だけで議論しても、それだけではどこか片手落ちな印象が残る。
結局のところ、最初から好きな者同士、嫌いな者同士でしか話が通じないのかもしれない。さもなければ、議論の前提が揃わない。
それでも、部分的には共感できるところもあるかもしれない。好き嫌いが一致するからといって、一枚岩というわけではないだろう。
倫理学の議論って、どこに前提を置くかという話を延々と捏ねくり回しているような印象がある。それって、理屈というより、むしろ政治的な問題に近い気がする。
つまらないと思っていたものを、理屈で面白さを追求することができるのだろうか。好みの分かれる問題だって、すべてが強烈に対立するわけではないし。
好みというのは案外、慣れによるところが大きいのかもしれない。だが、どうしても無理なものは本当に無理だということもある。
好きでも嫌いでもないものを「好き」に引き上げることはできないだろうか。思い込みを「スパイス」にするのも、よくあることだし。
トマト嫌いな人になんで嫌いなのって聞いた所で、普通酸味だの食感だの何だのって答えしか帰って来ないと思う。
それって具体的な要素を並べているに過ぎなくて、「どこ」が嫌いかの説明にはなっても「なぜ」の説明にはなってない。
じゃあ結局その要素はなんで嫌いなの、ってのを何度も繰り返せる。それが止まるとしたら、どっかで「なんか嫌い。舌と脳がそういう風になってるから」としか言いようがねえと思う。
ひいてはトマトが嫌いなのも「そういう風になってるから」という話になる気がする。
グルメ漫画の世界みたいに「誰もが感動する本物」なんてないだろうし。
こういうの考えてると、芸術批判なんかが論理的なもんだってのもホントかよって思う。
好みというか価値判断というか、そういう個々人の身体と脳に基づいた資質抜きにしては語れない。その前提が共有されてなかったら、なんぼ論理を展開した所でその理屈は足元から簡単に崩れる。
よしんば事実認識だけで語った所で、それは片手落ちな感じがする。
じゃあ最初から好きな者は好きな者同士、嫌いな者は嫌いな者同士で語り合うしかねえのかな。
じゃなきゃ理屈の前提が揃わない。
同好、同嫌(?)とて一枚岩ではないのだろうし。
倫理学って延々とこんなような話を捏ねくり回してる印象がある。どこに前提を定めるのか。それってむしろ理屈というよりは政治的な問題って感じだけど。
つまらんと思ってたものを、理屈立てて面白さを追求するという事も出来んのかな。
味覚の好みほど強烈に好き嫌いが分かれるもんばっかでもないだろうし。
【緊急声明】 新型コロナウイルス感染症予防接種に導入されるレプリコンワクチンへの懸念 自分と周りの人々のために
要約
一般社団法人日本看護倫理学会は、次世代型mRNAワクチンとして、世界で唯一日本のみで認可され、2024年10月1日から定期接種を開始するとされている自己増幅型mRNAワクチン(レプリコンワクチン)の安全性および倫理性に関する懸念を表明します。
はじめに
新型コロナウイルス感染症に対する予防手段として遺伝子操作型ワクチンであるmRNAワクチンが導入され、多くの国民が接種しました。
いままでのワクチンが、ウイルスや細菌などの病原体を弱毒化したものやその成分を抗原として接種しヒトの免疫応答を誘導するのに対し、遺伝子操作型ワクチンは、当該抗原(スパイクタンパク質)をヒトの細胞内の遺伝機構を用いて作らせる点が大きく異なります。
そして、昨年11月28日に、自己増幅型mRNAワクチン(レプリコンワクチン)が世界に先駆けて日本で認可され(CSL, 2023; Sheridan, 2024)、以来日本は世界で唯一の認可国となっています。
認可されたレプリコンワクチンは米国の Arcturus Therapeutics が開発し、ベトナムでの大規模な治験(第I~第III相臨床試験)(Ho et al., 2024)を経て、製造と販売を日本のMeiji Seikaファルマが行なうものです。
レプリコンワクチンは、これまでのmRNAワクチンの抗原産生機能に加え自分自身を複製する機能があるため、少量の接種で長期間スパイクタンパク質を産生します。
このレプリコンワクチンは2024年10月1日をめどに定期接種を開始する(読売新聞, 2024)とされていますが、本学会は以下の通り、このワクチンの安全性・倫理性に関する懸念を表明します。
1. レプリコンワクチンが開発国や先行治験国で認可されていないという問題
日本がレプリコンワクチンを認可してから 8 ヶ月が経過していますが、開発国である米国や大規模治験を実施したベトナムをはじめとする世界各国で未だにレプリコンワクチンが認可されていないのはなぜでしょうか。
この状況は、海外で認可が取り消された薬剤を日本で使い続けた結果、多くの健康被害をもたらした薬害事件を思い起こさせます。
COVID19 パンデミックのときのような緊急時を除き、本来、薬剤は安全性が認められるまで世の中に出回ることはありません。
海外で未認可であるということは何らかの安全上の懸念があるのではないかと疑わざるを得ません。
2. シェディングの問題
レプリコンワクチンが「自己複製するmRNA」であるために、レプリコンワクチン自体が接種者から非接種者に感染(シェディング)するのではないかとの懸念があります(Seneff & Nigh, 2021)。
すなわちそれは、望まない人にワクチンの成分が取り込まれてしまうという倫理的問題をはらんでいます。
これは医療において最も重要で最も基本的な倫理原則である「危害を与えない」ことへの重大な侵害といえます。
レプリコンワクチンは、感染性を持たせないように設計されている(Ricardo-Lax et al., 2021)とのことですが、そのことは臨床研究によって実証されなければなりません。
しかし、現在までに当該レプリコンワクチンにおけるシェディングに関する臨床研究は皆無(岸田, 2024; 厚生労働省, 2024)です。
レプリコンワクチンが、望まない人にワクチンの成分が取り込まれてしまうという倫理的問題をはらんでいることに加え、10月からの定期接種が、シェディングの有無を確認するための実証研究になってはいけないと考えます。
3. 将来の安全性に関する問題
遺伝子操作型mRNAワクチンは、人体の細胞内の遺伝機構を利用し抗原タンパク質を生み出す技術であることから、人間の遺伝情報や遺伝機構に及ぼす影響、とくに後世への影響についての懸念が強く存在します。
mRNAベースのワクチンはヒトのDNAを変化させないという根強い主張がありますが、それを裏付ける研究は欠如しており、出所のはっきりしない仮定である(Domazet-Lošo, 2022)ことが明らかになっています。
最近の研究では、ファイザー・ビオンテック製のmRNAワクチンの塩基配列がヒトの肝細胞のDNAに逆転写されたと報告されており(Aldén et al., 2022)、ヒトの遺伝情報に影響しないという言説は
このような問題が解決されていない以上、定期接種によって広範囲かつ継続的にmRNAワクチンを使用することは問題があると考えます。
4. インフォームドコンセントの問題
従来のmRNAワクチンで指摘されていた重篤な副作用については、臨床試験の段階においても(Cardozo & Veazey, 2021)、実際に接種が開始されてからも(Slawotsky, 2023)、被接種者に十分な説明が行われてこなかったことが示されており、インフォームドコンセントを基盤とする医療のあり方を揺るがしかねない事態に私どもは強い懸念をもっています。
従来のmRNAワクチンでも指摘されていた心筋炎(Hviid et al., 2024)やアナフィラキシー(Barta et al., 2024)等に加え、上述したシェディングの可能性など、接種の時点で判明している有害事象のリスクを、被接種者に十分に説明し、理解をしてもらうことが重要です。
そのうえで被接種者本人が自発的に承諾するという基本的なインフォームドコンセントのプロセスを経る必要性があると考えます。
5. 接種勧奨と同調圧力の問題
従来のmRNAワクチン接種の事例を鑑みますと、ひとたびレプリコンワクチンが定期接種化されれば、医療従事者は率先して接種すべきであるとの世論や医療機関の方針が打ち出されることは想像するに難くありません。
患者を守るために医療従事者が感染経路とならないようにするという大義名分のもと、医療従事者自身の主体的な自己決定権が脅かされることがあってはなりません。
また、レプリコンワクチンは、自分のみならず、非接種者の家族や周囲の人々にまで影響を与える可能性がある中で、接種しなければならない状況に追い込まれることは絶対にあってはならないことだと考えます。
結論
一般社団法人日本看護倫理学会は、レプリコンワクチンの導入に関してはさらなる研究と長期的な安全性データの収集が必要であり、十分なインフォームドコンセントの確保と、接種に関する勧奨と同調圧力の排除が求められると考えます。
われわれは、安全かつ倫理的に適切なワクチンの開発と普及を強く支持するものではありますが、そのいずれも担保されていない現段階において拙速にレプリコンワクチンを導入することには深刻な懸念を表明します。
引用元:https://www.jnea.net/wp-content/uploads/20240806kinkyuseimei.pdf
Xでは1万近くシェアされてるのに。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/72dcf13fe005d1057d4d739e656824f86cd8e691
なんで、みんな、これにはだんまりなの?
リベラルって、都合の悪いこともフェアに向き合うからリベラルなんじゃないの?
どうしたの?みんな。
もう少し薬害を学べよ。
既に異常事態。
感染症は上下水道の整備により、自然に死亡者が減ってきたところにワクチンを投入して自分たちの手柄にしてきた。
https://dissolvingillusions.com/wp-content/uploads/2021/07/G11.2-UK-Deaths-1838-1978-1.png
「人類を救った」とされる天然痘の生ワクチンなんて詐欺も良いところ。
厳格な接種法が設定された1867年から、死亡者が爆増してるし、そもそも天然痘の生ワクチンは当時の先進国である世界人口の数%でしか打ってない。
天然痘が医学の力で根絶されたのは、壮大な嘘である確たる証拠だ。
一般人はこの話を知らないから「ワクチンはスゲー」と今でも思い込まされてる。
弱毒化ウイルスを体に入れても、そんなものは体外に放出されて、余計に感染を拡大させる。
そいつがダメだから不活化ワクチンなんてものができたが、これは抗体誘導全然しないし、アジュバントにアルミなどの毒を使う。
不活化ワクチンで下半身不随になるの当たり前の話。アルミなのどの毒が脳に運ばれてるからだ。
近年、ワクチン大好き国家の米国で自閉症の子供が異常に増えているが、毒が血液脳関門を突破すれば自閉症にもなる。
子供のワクチン接種は、1986年には数種類のワクチンだったのが、2024年には35本以上。自閉症が増えない方がおかしい。
https://www.conservativewoman.co.uk/vaccines-autism-and-an-epidemic-of-official-lies/
今回のmRNAワクチンに至っては、免疫抑制しながら自然感染の400倍~1000倍もの異常なスパイクタンパクをつくるパワフルバカな機序。
こんなもん人死ぬわ。
そして、10月からレプリコンワクチンという、さらにバカで大薬害なワクチンが登場するが「看護倫理学会」が緊急声明をだした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/72dcf13fe005d1057d4d739e656824f86cd8e691
https://www.jnea.net/wp-content/uploads/20240806kinkyuseimei.pdf
お前の嫁さんにも問題あるぜ。
「ワクチンは政府が自分たちの目標実現のため打たせてる」なんて言ってるのは、反ワクの中でも陰謀論に傾いてるバカだからな。
だが、部分的には本当の話も混じってる。
シェディングは生ワクチンの頃から知られていた害だし、mRNAワクチンで癌が増えるのも当たり前。
免疫抑制しながら抗体誘導するし、繰り返しの接種で免疫寛容するからな。
https://www.explorationpub.com/Journals/ei/Article/1003140
自分でも打ってるから、害が認められないサンクコストクソ野郎。
おめーみたいな奴なんて、反ワクの誰もが説得できると思わねーよ。
手遅れでもあるし。
でも、お前は、もうちょい薬害の歴史を学び、ワクチンの機序を調べろよ。
「ワクチンを打たせないことは虐待だ」と言うけども、判断力のない子供に無理矢理ワクチンを打たせることも、それが逆効果な毒物である場合は虐待だからな?
分かってたら、自分では打つにしても他人にはけして勧めない代物だからな。
お前と反ワクの嫁さんなんて、何回話したところで歩み寄ることはねーよ。
例えば医者や医学者である夫が反ワクで、いくら機序を説明しても、医学洗脳者の嫁は聞く耳持たない。
嫁さんや子供を説得できなくて打ってしまい、案の定、嫁さんや子供は後遺症を抱えて怒り狂ってる医者や医学者は結構な数いる。
機序も分かってない一般人同士なんて、もっと分かり合えねぇな。
バカがバカ同士で、根拠薄弱なことを言って罵り合っているのだからな。
嫁さんが反ワクになろうが、それは変わらないだろ?
医学なんて個体差を利用して、デタラメばかりを風潮する非科学。
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2017/PA03212_01
てめーみたいな人間は絶対に変われないだろうが、嫁さんや子供を大切に思う気持ちが、少しでもあるのなら、少しは自分を疑い世界を疑ってみろ。
【緊急声明】 新型コロナウイルス感染症予防接種に導入されるレプリコンワクチンへの懸念 自分と周りの人々のために
要約
一般社団法人日本看護倫理学会は、次世代型mRNAワクチンとして、世界で唯一日本のみで認可され、2024年10月1日から定期接種を開始するとされている自己増幅型mRNAワクチン(レプリコンワクチン)の安全性および倫理性に関する懸念を表明します。
はじめに
新型コロナウイルス感染症に対する予防手段として遺伝子操作型ワクチンであるmRNAワクチンが導入され、多くの国民が接種しました。
いままでのワクチンが、ウイルスや細菌などの病原体を弱毒化したものやその成分を抗原として接種しヒトの免疫応答を誘導するのに対し、遺伝子操作型ワクチンは、当該抗原(スパイクタンパク質)をヒトの細胞内の遺伝機構を用いて作らせる点が大きく異なります。
そして、昨年11月28日に、自己増幅型mRNAワクチン(レプリコンワクチン)が世界に先駆けて日本で認可され(CSL, 2023; Sheridan, 2024)、以来日本は世界で唯一の認可国となっています。
認可されたレプリコンワクチンは米国の Arcturus Therapeutics が開発し、ベトナムでの大規模な治験(第I~第III相臨床試験)(Ho et al., 2024)を経て、製造と販売を日本のMeiji Seikaファルマが行なうものです。
レプリコンワクチンは、これまでのmRNAワクチンの抗原産生機能に加え自分自身を複製する機能があるため、少量の接種で長期間スパイクタンパク質を産生します。
このレプリコンワクチンは2024年10月1日をめどに定期接種を開始する(読売新聞, 2024)とされていますが、本学会は以下の通り、このワクチンの安全性・倫理性に関する懸念を表明します。
1. レプリコンワクチンが開発国や先行治験国で認可されていないという問題
日本がレプリコンワクチンを認可してから 8 ヶ月が経過していますが、開発国である米国や大規模治験を実施したベトナムをはじめとする世界各国で未だにレプリコンワクチンが認可されていないのはなぜでしょうか。
この状況は、海外で認可が取り消された薬剤を日本で使い続けた結果、多くの健康被害をもたらした薬害事件を思い起こさせます。
COVID19 パンデミックのときのような緊急時を除き、本来、薬剤は安全性が認められるまで世の中に出回ることはありません。
海外で未認可であるということは何らかの安全上の懸念があるのではないかと疑わざるを得ません。
2. シェディングの問題
レプリコンワクチンが「自己複製するmRNA」であるために、レプリコンワクチン自体が接種者から非接種者に感染(シェディング)するのではないかとの懸念があります(Seneff & Nigh, 2021)。
すなわちそれは、望まない人にワクチンの成分が取り込まれてしまうという倫理的問題をはらんでいます。
これは医療において最も重要で最も基本的な倫理原則である「危害を与えない」ことへの重大な侵害といえます。
レプリコンワクチンは、感染性を持たせないように設計されている(Ricardo-Lax et al., 2021)とのことですが、そのことは臨床研究によって実証されなければなりません。
しかし、現在までに当該レプリコンワクチンにおけるシェディングに関する臨床研究は皆無(岸田, 2024; 厚生労働省, 2024)です。
レプリコンワクチンが、望まない人にワクチンの成分が取り込まれてしまうという倫理的問題をはらんでいることに加え、10月からの定期接種が、シェディングの有無を確認するための実証研究になってはいけないと考えます。
3. 将来の安全性に関する問題
遺伝子操作型mRNAワクチンは、人体の細胞内の遺伝機構を利用し抗原タンパク質を生み出す技術であることから、人間の遺伝情報や遺伝機構に及ぼす影響、とくに後世への影響についての懸念が強く存在します。
mRNAベースのワクチンはヒトのDNAを変化させないという根強い主張がありますが、それを裏付ける研究は欠如しており、出所のはっきりしない仮定である(Domazet-Lošo, 2022)ことが明らかになっています。
最近の研究では、ファイザー・ビオンテック製のmRNAワクチンの塩基配列がヒトの肝細胞のDNAに逆転写されたと報告されており(Aldén et al., 2022)、ヒトの遺伝情報に影響しないという言説は
このような問題が解決されていない以上、定期接種によって広範囲かつ継続的にmRNAワクチンを使用することは問題があると考えます。
4. インフォームドコンセントの問題
従来のmRNAワクチンで指摘されていた重篤な副作用については、臨床試験の段階においても(Cardozo & Veazey, 2021)、実際に接種が開始されてからも(Slawotsky, 2023)、被接種者に十分な説明が行われてこなかったことが示されており、インフォームドコンセントを基盤とする医療のあり方を揺るがしかねない事態に私どもは強い懸念をもっています。
従来のmRNAワクチンでも指摘されていた心筋炎(Hviid et al., 2024)やアナフィラキシー(Barta et al., 2024)等に加え、上述したシェディングの可能性など、接種の時点で判明している有害事象のリスクを、被接種者に十分に説明し、理解をしてもらうことが重要です。
そのうえで被接種者本人が自発的に承諾するという基本的なインフォームドコンセントのプロセスを経る必要性があると考えます。
5. 接種勧奨と同調圧力の問題
従来のmRNAワクチン接種の事例を鑑みますと、ひとたびレプリコンワクチンが定期接種化されれば、医療従事者は率先して接種すべきであるとの世論や医療機関の方針が打ち出されることは想像するに難くありません。
患者を守るために医療従事者が感染経路とならないようにするという大義名分のもと、医療従事者自身の主体的な自己決定権が脅かされることがあってはなりません。
また、レプリコンワクチンは、自分のみならず、非接種者の家族や周囲の人々にまで影響を与える可能性がある中で、接種しなければならない状況に追い込まれることは絶対にあってはならないことだと考えます。
結論
一般社団法人日本看護倫理学会は、レプリコンワクチンの導入に関してはさらなる研究と長期的な安全性データの収集が必要であり、十分なインフォームドコンセントの確保と、接種に関する勧奨と同調圧力の排除が求められると考えます。
われわれは、安全かつ倫理的に適切なワクチンの開発と普及を強く支持するものではありますが、そのいずれも担保されていない現段階において拙速にレプリコンワクチンを導入することには深刻な懸念を表明します。
引用元:https://www.jnea.net/wp-content/uploads/20240806kinkyuseimei.pdf
レプリコンは9月中って話もあるけど、10月1日からなんだね。
それにしても、この声明を出すの遅すぎじゃね?
倫理学というものを少し学んだけれど、これって結局どんな理屈の組み立て方をしているかというより、何を前提にして理屈を捏ねてるかの方が重要なんじゃないですか?
例えば人権思想のような前提となるフレームが共有された範囲内では通用するけれど、倫理の問題って往々にしてそのフレーム同士が対立した時に生じるんじゃないですか?
何を前提に置くかっていうのは論理に先んじた問題であって、それって結局全ての問題が政治の上にあるという事なんじゃないですか?
みたいな気持ちが終始拭えなかった。
それについて聞いても、道徳的直観とかいう「それって単なる共感とどう区別するんですか?」っていう概念でお茶を濁されて、モヤつきが収まる事はなかった。
いやモヤつきが収まるような答えがあるのならとっくに学問として完結してるんだろうけど、にしても、にしたってもうちょっとスマートな感じのレトリックがあるんじゃないかと期待してた。
「読書力」(著:齋藤孝)という本に、「本を読まなくてもいい、なんて言う読書家はフェイクだ」的な記述があるらしい。僕はこの本を読んだ事があるのだが、実際、そのような記述があったような記憶がある。だが、そんな事は忘れていた。この前、Xでこの本を読んだ人が、その記述についてポストしていたのだ。ところで、恐らく、齋藤孝は「フェイク」などといった言葉は使っていない。大胆な意訳を試みた事になる。
さて、ここら辺で僕は教養に関する見解を雑多に書き殴ろう。昨今、中学、高校レベルの知識を元に、日本人の教養を誇る、大変恥ずかしいポストがよく流れてくる。耳なし芳一に至っては小学生や幼稚園児なのだが、これが「分かる」のが教養らしい。
問題は、彼らが日本ageをする時に、諸外国に比べて、実態的に、どの程度日本の教育が優れているかを体系的に論じている訳ではないことだ。もしくは、それを論じた論文の一つも引っ張ってこないことだ。この時点で教養がない。というか学術的態度を持ち合わせていない。無論、そもそもの突っ込み所は、日本で耳なし芳一という話が共有出来るのと同様に、諸外国でもそれぞれの国での逸話などが共有されている可能性の話である。そこの精査もなしに、日本を持ち上げるのはナンセンスだ。
ところで、日本人は教養がある、外国人に比べて、みたいな話はとても気持ち悪い。外国人が日本人に対して何か言ってきたのだろうか。そうまでして日本は凄いんだと言い張って、本心では何をしたいんだろうか。この発言は、事実に関するステートメントだが、この事実をピックアップしたい心理を考えてみよう。
言うまでもない。経済でボロ負けしている、上にクソブラックな労働環境で、諸外国の人々(アメリカとか)の方が金持ってて羨ましい、悔しい。こんな所だろう。ドイツ人は労働時間が短い。悔しいよおおおおおおお。発狂。日本人はIQが高い!それで?この態度自体がIQが低いし教養もない。
そもそも、教養というのは、「教養ない」のが大半で、「ある」人などひと握りである。世間的には教養があると言われる人は、「自分なんてまだまだ不勉強」と言うぐらいで、そこを突き抜けたごくごく1%ぐらいの人が教養人である。訳の分からぬ無教養アピールを展開し、相対評価で俺を付け上がらせるのを辞めて欲しい。僕なんて、まだまだですよw
こういう事を宣う大半が、殆ど学問と言われる営為を行っていないのは明白だろう。学術書なんて月1冊も読んでないのが殆どだ。コイツらに本物の教養マウントを食らわせてやりたい。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」そもそも、学問なんてものは、「知りたーい❤」「楽しーい❤」ので、皆やりたい癖して、「私頭が悪いから…」とか「難しくてわかんない…」みたいな雑魚が楽しめない、厳選選民・雑魚淘汰趣味なんだよ。「教養なんていらないっすよ!衒学者乙!」みたいなのは、楽しくゲームが遊べない雑魚のすっぱい葡萄に過ぎない。楽しいからやるの!
読む意味あるの?とか学ぶ意味あるの?とかバカじゃねーの?プラトン読めて楽しくない事あるか?シェイクスピアの韻文を英語で読めて楽しくないとでも?つまり、学問という広大な世界に繰り出ないで、「いや経験が重要で…」とか言い出してるのが負け犬仕草なの。遊びなんだよこっちは。
というかね、ここが分岐点でさ。逆にこういう学術書とか読むタイプの人間は、大抵のアカデミックな話を友達にされても、分かりやすく説明されれば理解出来る。文理問わず。ところが、この手の教養負け組共は、理解できない上に教養マウントを取られたと思い込む。世界をエンジョイ出来てない奴らは更に人生クソゲー。面白いアカデミックな話が理解できない上に、そういう人間に嫉妬して仲良くなれない。可哀想!
最初の方にも書いた通り、教養があるなんて言えるのはごく一部の人間だ。だけど、この手の、若干のアカデミック力を身につけてないと、クッソ惨めな人間になるんだよな。「本当に教養のある人間は〜」とか、いやお前はどれぐらいの知識量があって、どれぐらい精神が涵養されているの?読書メーターを開示しろ。
という話だよ。Xで「教養」について語った奴、全員読書メーターを開示しろ。じゃないと話にならないよ。ところで、言っておく。君が読んでる本が、リチャード・ドーキンスだろうが、マイケル・サンデルだろうが、國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」だろうが、決して馬鹿にはしない。その大海原に一歩を踏み出そうとしている勇者は、讃えよう。
「価値」は存在論、認識論、倫理学などの領域にまたがる複雑な概念であることがわかる。
価値が存在の本質にどのように組み込まれているかを問うことは、存在論的視点からの探究である。
価値が宇宙の根源的な性質として存在するのか、それとも人間の意識によって付与されるものなのかという問いは、存在そのものの性質を理解するための重要な鍵である。
もし価値が存在の本質に組み込まれているとすれば、それは物理的現実の一部であり、私たちがそれを発見することが可能である。
これは、宇宙がある種の目的や方向性を持っていることを示唆し、価値が客観的に存在する可能性を示す。
価値がどのようにして認識されるかという問題は、認識論的視点からの探究である。
価値が主観的なものであるならば、それは個々の意識や文化的背景に依存することになる。
ここで重要なのは、価値がどのようにして私たちの認識に影響を与え、どのようにして私たちの行動や選択を導くのかという点である。
意識が価値を生み出すプロセスは、私たちが世界をどのように経験し、解釈するかに深く関わっている。
価値の倫理学的側面は、私たちがどのように生きるべきかという問いに直結する。
価値が倫理的判断の基盤となる場合、それはどのような基準や原則に基づいているのかを問うことが必要である。
価値が普遍的なものであるのか、それとも状況に応じて変化する相対的なものであるのかという問題は、倫理的価値の普遍性や相対性に関する議論を引き起こす。
価値の探究は、無や虚無の概念とも密接に関連している。無価値の状態を考えることは、価値がどのようにして創造され、維持されるかを理解するための重要な視点を提供する。
無価値の状態は、存在の無意味さや虚無感を象徴し、そこからどのようにして価値を見出すかが問われる。
これは、価値が単なる人間の幻想であるのか、それとも何らかの根拠を持っているのかを考える上で重要である。
価値の時間的な側面もまた重要である。価値が時間とともに変化するものなのか、それとも永遠不変のものなのかという問いは、価値の持続性や普遍性に関する深い疑問を投げかける。
時間の流れの中で価値がどのように変容するかを理解することは、私たちがどのように価値を評価し、未来に向けてどのように生きるべきかを考える上で重要である。
このように、価値の探究は、存在論、認識論、倫理学、無の概念、そして時間の影響を考慮しつつ、私たちがどのようにして世界に意味を見出すかを示す。
根源を遡っていけば共同体の在り方への漠然とした信仰しか残らない点で人権思想も宗教と変わりないし、どう考えてもイデオロギー以上のものではない。
それなのに人権は絶対だという人間が少なからず存在するのを割と不思議に思ってた。
別に倫理学なんか学ばなくとも単純に「なぜ?」を繰り返せばその結論に至ると思う。
学んだ所で、根っこの部分の正当化は割とお粗末な感じな気がした。おれはね。自然法とか定言命法とか直観とかさあ。
私たちの道徳的直観が「それは差別である」と判断します、とかもう何でもありじゃん。
そういうのと道徳的直観ではない個々人の感覚とをどう区別すんの?それこそ「それってあなたの感想ですよね」案件になっちゃうよね。
普遍性を要求するのなら誰の目にも明らかな論理が必要だけれど、それでは他の何らかの前提に寄りかかった仮言的な留まってしまう。
その前提となるような部分が倫理規範の根幹になる訳で、でもその前提自体には普遍性を見出だせない。
まあ当然と言えば当然で、論理は目的や前提あってのものに過ぎないし、後者はいくらでも自由に設定出来てしまう。仮説と検証の繰り返しでなんとなくのルールが見えてくる所与の自然法則とは話が違って、どこまで行っても「こうあるべき」という規範の形式を逸脱出来ない。
とはいっても共感だとか、実定法としての合意だとか、そういう点で普遍性とまでは言わなくとも正当性なり妥当性を見出だせなくもない気はする。
これも多数決なり功利主義なりを前提として要求する気がするけど。
合意っつったって、いつそんな合意を取ったんだよ?って感じはする。生まれた時に契約書の一筆でもしたためたか?これはあらゆる法規範に言えてしまうけど。
まあ生まれた時点で強制加入で、人を殺すなり何なりの行動を意思表示として破棄できる合意とでも言えなくもない気もする。
理屈はさておいてまあなんとなく共感は出来るし、そっちの方が良い気もする。じゃあそれをルールとしましょう、っていう。そういう正当性の確保。
宗教のそれに対する世俗規範の優位性があるのだとしたら、それはひとえに政治的に確保されたものに過ぎなくて、普遍性の問題ではない。
という所を踏まえると、「人権は絶対だ」と言うのも実は政治をやってるんじゃないかって気がした。うっすら思ってはいたけど、ちょっと確度が上がった。
何らかの信仰に基づいて人権という概念を本気でこの世の黄金律だと思っているんなら、まあ素直にそう言うんだと思う。
そうではなく、絶対の原理でもなければ自明に「ある」ものではないと自覚していたとしたら、わざわざそんな事言って相対化したりその価値を揺らがせるような真似はしないのかもしれない。そんな余計な真似をして、わざわざ一度作り上げたものを解剖してみせるメリットがあまりにも少ない。
絶対ではないながらも守るべきものだと思っていればこそ、絶対の存在であるかのように振る舞う。そしてその振る舞いが共同幻想をより強固にしていく。
これも不断の努力というやつなのかな。なんか猿の惑星で全ての真実を知りながら、人間と同じ轍は踏むまいと宗教でコミュニティをまとめてた奴を思い出した。
某氏の件がいい見本になってると良いけどって思ってる
某氏はスペックだけ見たら高いでしょ?だいたいの人は某氏よりもスペック低いと思うわけ
礼拝増田・いつもの増田の生きづらさの原因は、能力やスキルにはなくて、スタイルや態度(attitude)にある
生きづらいブクマカも同じだね。些細なルール違反するような子どもに育って欲しいとか、戦慄するようなこと言ってたし
知的怠惰を発揮する権利をフル活用する癖に、やたらそれっぽいことに異常な憧れがあるヤツ向けに補足するなら、
アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってたでしょ
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するってな
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
あと、何事も積み重ねは大事なので(もちろん他人を傷つけたり・自傷するのは除く)、
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