はてなキーワード: 追慕とは
「AIで死者を“復活”」の件、死者に人権はないという趣旨のブコメが散見されるのだけども、だからといって死者の尊厳は破壊し放題かというとそうでもないので、若干のメモ。
刑法230条(名誉毀損)① 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
まず刑法において、虚偽の事実を摘示した場合には死者についての名誉毀損罪が成立する。その保護法益は①遺族の名誉であるとする見解、②死者に対する遺族の敬愛の感情であるとする見解、③死者の名誉であるがその性質は公共の法益であるとする見解、④死者個人の名誉であるとする見解が対立しているが、多数説は④説に立つとされる(条解刑法 第4版補訂版(有斐閣,2023)230頁)。いずれにしても名誉毀損罪は親告罪なので(刑232①)、死者の親族(6親等内の血族、配偶者、3親等内の姻族(民725))または子孫の告訴(刑訴233①)が必要である。なお、侮辱罪(刑231)は死者については成立しない。
刑法はこの他に死体損壊等罪(刑190)等の"墳墓に関する罪"によって死者の身体を保護している。死体損壊等罪は、死者に対する社会的風俗としての宗教的感情を保護しようとするものであるが、近年では、死体等に関する死後にも残る死者の人格権を保護法益と解する見解もあるとされる(前掲条解刑法561頁)。なお、名誉毀損罪と異なり親告罪ではない。
ではこれら刑法犯以外の場合には死者はフリー素材なのかというと、民事の不法行為として、死者の冒涜が遺族の感情を害したとして損害賠償を認められたケースがある程度ある。
たとえば東京地裁平成23年6月15日判決・判例時報2123号47頁は、ロス疑惑に関し2008年に米国で逮捕された三浦和義がロス市警留置所内で死亡した後、産経新聞が掲載した記事(犯罪被害者遺族が三浦を犯人と断定して書いた手記をそのまま掲載したもの)が、遺族の故人に対する敬愛追慕の情を受任限度を超えて侵害したとして、産経新聞社およびYahoo!Japanに損害賠償を命じている。
また、最近話題になった岡口基一裁判官(当時)がレイプ殺人の裁判例を紹介した事案においても、被害者の尊厳がこれ以上傷つけられることのないよう願う遺族の心情が不法行為法上も保護に値する人格的利益であるとして、その侵害について損害賠償を命じた(東京高裁令和6年1月17日判決)。同判決は、この心情の要保護性を導くにあたって犯罪被害者等基本法を参照している点も注目に値する。上記のロス疑惑報道損害賠償事件があるので、故人が犯罪被害者であることが賠償を認める要件ではないが、犯罪被害者の冒涜についてはより賠償を導きやすいといえそうだ。
これらの民事裁判例はいずれも、死者の尊厳そのものを保護しているわけではない(死者に発生した損害賠償請求権を相続人が行使するものではない。権利侵害行為が死後に行われている以上、当該死者が損害賠償請求権を取得することはないからだ。)。
けれども、遺族の敬愛追慕の情を媒介にして、死者を侮辱する行為についても民事上の制裁の対象となりうるといえるだろう。
なお、敬愛追慕の情が法的保護に値すると言える範囲は必ずしも明らかではない。故人の配偶者であっても両親の敬愛追慕の情を害して良いということにはならないだろうし、故人の尊厳そのものではなく身近な者の心情が法益とされているとなると故人本人の同意も必ずしも免罪符とはならないが、不法行為法上の違法といえるのは受任限度を超えた場合に限られるので、冒涜行為の主体が(破綻していない)配偶者であるとか故人の同意があったといった事情があれば、両親その他の親族の受任限度が嵩上げされると考えて良かろう。
コアマガジンの雑誌「実話BUNKAタブー」の編集部アカウントが、ベルセルクの三浦建太郎の死去にこんな言葉を寄せています
https://twitter.com/BUNKA_taboo/status/1395245571464597506
@BUNKA_taboo
作者は絶対に物語を完結させるべきです。ベルセルクの三浦健太郎なんて漫画家として三流以下。
見習うべきは、創価学会教祖・池田大作さんです。生死不明なんて揶揄され続け、表舞台に全く出てこないにも関わらず、2018年にちゃっかり『人間革命』を完結させたんです! エラい! 功徳の賜物ですね!
https://twitter.com/BUNKA_taboo/status/1395348467363368964
@BUNKA_taboo
このツイートにベルセルク信者がいろいろとイチャモンつけて来てますけど、『ベルセルク』を発刊してる白泉社の社長であるマシリトが「10年は連載しすぎ」と明確に言ってますからね。30年も続けてるベルセルクはヒットに胡座を掻いてるただの老害です。
https://twitter.com/BUNKA_taboo/status/1395350574548230146
@BUNKA_taboo
作者の死によって『ベルセルク』の完結を読めないことを残念がってる読者が多くいるのは理解できますが、同じくらい30年も連載を続けたせいで「終わりが気になるなぁ〜、だけど逝っちゃうー」と地震や病気で死んだ読者も山程いるわけです。連載はさすがに10年で完結させるべきかと。
これを、白夜書房子会社のコアマガジン内の編集部が発信しているわけです
コアマガジンにも漫画誌は存在しており、そこで描いている作家はこの発言を公認している出版社で描いているという事であり、同業者として三浦建太郎先生に対する敬愛追慕の侵害に加担している事になります
G=ヒコロウ
この作家陣は、このまま黙っている限り同業者でありベルセルクの作者でもある三浦建太郎先生の死に対する侮辱に加担している事になります。
なお、コアマガジン親会社の白夜書房はかつて存在した漫画専門店「まんがの森」の経営母体でした。
タイトルの通り。筆者は高校の教員で、いま業務が少しだけ落ち着いていて分析する暇が出来たので、次年度以降の入試対策のために解き直してみたのだが、新テストの方針をすごい形で問題として体現していたので、なるべくわかりやすく解説していきたい。
わかりやすくとはいえ、大学入試の古典問題について突っ込んで書くので、もし興味(と古典の知識)があったら実際に解いてから読んでみてほしい。
問題や解説・予備校の分析などは以下から参照。解けなくても解説や、現代語訳と設問を見るだけでもいい。
https://www.toshin.com/kyotsutest/
https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/kyotsutest/21/
https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00038406.pdf&n=R3年度大学入学共通テスト問題作成方針(令和2年6月30日一部変更).pdf
以下は教員仲間とのディスカッション用メモを元にしているから内容はかなり専門的かもしれない。それと、自分の専門は古典ではないので専門家から見れば細かい部分で雑だと思うが許してほしい。
まず、第三問の古文。
センター試験から変わると事前に予想された、複数の文章や会話形式の選択問題はなかった。
本文(「栄華物語」)は妻を亡くした夫の哀しみについてのしみるストーリーだが、新傾向の問五が回答することによって本文の感動・深みをよりしみじみかみしめられるようになっている。これが非常に素晴らしく、「文学的文章の入試問題かくあれ!」と感じた。いとあはれなり。
・具体的には、問五では本文中の和歌X(妻の死の悲しみを無常観を引き合いにして慰める歌)とそれに対する返歌Y(無常の教えなど今は悲しみが深くてとても考えられなかったよ、という返歌)に加え、本文とは異なるXへの返歌Z(無常の教えは肯定するが、それでもなお悲しい、という趣旨の返歌)を問題は示している。
・問いとしては、本文とは異なる返歌Zの存在を指摘し、Y/Zの内容を比較したうえで正しい説明を選ばせるというもの。
これは表面的には和歌を中心とした複数の出典の内容を読解するという新傾向問題であるが、作問者の意図はむしろ「文学的な文章の鑑賞」つまり「作品の情趣や感動の理解」に重点があるのではと感じられた。
・本文のストーリー的なキモは、妻を亡くした夫が、この返歌Yを書き終えながら「こんな悲しみにあってなお私はこんな冷静に返歌を書けているわけだが、それならこれから数ヶ月、数年と徐々に時間が経っていけば、私はこの悲しみをいつか忘れてしまうのではないだろうか」と考えるところにある。そして、亡き妻との思い出をまた振り返るところで、出題の本文は終わっている。
・問五の正解の選択肢⑥「和歌Yは、世の無常のことなど今は考えられないと詠んだ歌だが、そう詠んだことでかえってこの世の無常を強く意識してしまった長家が、いつかは妻への思いも薄れてゆくのではないかと恐れ、妻を深く追慕してゆく契機となっている」。この説明は、本文の感動を得るための入り口を示すものとして非常にすぐれた一文であると感じられる。さらには、本文の内容が古文学習における重要概念「無常観」と繋がっていることに自然と気づくことができる。現代人にはなじみの薄い「無常観」という価値観が、悲しみと共に実感を持って感じられてくるだろう。これを正解として選べた受験生は、本文の「あはれ」を回答前よりも深く感じられたのではないか。(少なくとも自分は深まった)
・「こんな問題作れたらキモチイーだろうなぁ!!!!」と同業者的(?)的におもった。
・また、過去の試行調査でも、本文と同一内容の文章だが異なる出典で差異のある文章を出題する、本文異同研究や異本系統研究といった国文学研究のよくある題材を意識させるものがあった。今回の出題も「栄華物語」とは異なる返歌が「千載和歌集」にあるということを指摘した問題である。新傾向で問う能力を古文の中で定義した結果が、人文学研究的な意味での「思考力」ということかもしれない。(これは友人で一生敵わないんじゃないかってくらい優秀な国語教員が、試行テストを見て上記のようなことを半年前に言っていたのを思い出したから言ってる。持つべき者は優秀な友人である)
これだけでも十分すごいが、続いて漢文。
こちらは長い五言詩と短いエピソードを記した漢文で、いずれも馬車を操縦する「御術」に関するものという点で共通のテーマの文章ふたつの出題である。
・新傾向の問題は問三の押韻と内容理解を組み合わせた空所補充問題と、問六の2つ文章の内容正誤問題。
・とはいえ、問六は二つの文章の内容合致問題であり、多くの予備校などが予想していたものと大差ない印象。
・対して、問三は感心するくらい出来の良い問題で、複座的な視野を持ち、落ち着いて整理しながら考えるという多角的思考力が要求される。
・漢詩の押韻の知識で、5択の選択肢をなるべく削るところまではセンターと同じセオリー通りの知識問題。しかしそれで絞っても選択肢は残り三つ。
・そこから正答を選ぶためには文章Ⅱの読解と漢詩の読解ふたつを重ね合わせる必要がある。この二つの重ね合わせが難しく、よく考えられている。
・文章Ⅰの空所補充については、該当部分を訳せば「四本の脚は馬についているとはいっても、その脚の速さが遅くなるのは御者である私の【X】のせいである」という感じになる。ここの【X】に入る候補は「心」「進」「臣(臣下・わたくし、の意)」。
・該当部分の漢詩の訳ができていてテクニカルに解くなら、この時点で文脈判断して「心」が正解は出せる。(予備校でもそのように解説を打ち切っている)。
・しかし、そもそも選択肢に上がっているのは文章Ⅱに入っている字なのである。しかも、いずれも馬の御し方の神髄について述べるところに選択肢の漢字は入っている。
受験生を惑わすのは、文章Ⅱの内容が「馬を早く走らせる条件」となっていて、その中に「心」「進」「臣」という字が傍線と記号付きで強調されていること。つまり、受験生の心理としては、文章Ⅱの内容が正確に理解できていないと「進」「臣」が誤りなのか判断しづらく、疑心暗鬼になるように作られている。あるいは、先ほどのテクニカルに導いた回答と矛盾するような内容がここに書いてあったら……という心理を誘発する。
・よって受験生は文章Ⅱを慎重に読解せざるを得ず、その中で文章Ⅱを精読してゆく。同時に文章Ⅰとの共通点を探りながら、最終的に文章Ⅰの内容を考えて空所補充の内容を決定する。このような思考過程を要求される(というよりも問題側から誘導されてゆく)という問題の構造が、出題者の作問力が並大抵の出来ではないことの証左である。
このように、古文・漢文ともに「受験生に思考力を求める」という建前のもとで「受験生を深い読解へと誘導してゆく」「受験生の思考を多角的なものに仕立て上げる」問題に仕上がっているのは驚くべきことであり、事前の予想を超えた完成度の高さだった。
また、問題によって誘導した思考迷路の中で、その読解の深度や多角的視野に立って考えようとする態度の有無を測ろうとしている。能力の低い受験生ならこれだけの思考を繰り広げることはできず、中途半端な読解や類推に頼ってしまうので確率的に正答率が下がるが、問題の誘導する深い思考に対応できる受験生は自ずと正答へたどり着けるよう適切に迷路が設計されている。学力を測る目的の大学入試問題としても適切である。
センター試験からの積み上げがあるとはいえ、「言語を手掛かりとしながら,文章から得られた情報を多面的・多角的な視点から解釈」するという方針を、古典という題材を用いながら、新テスト実施初年度で見事に実現させたのは、高校教育の成果というよりも大学入試センターおよび作問者の作問能力の高さや学術的知識の豊かさが結実した結果であると思う。高校教育の現場から、惜しみない賛辞を送りたい。
・思ってた以上に反応があったので、書いてよかったと思いました。ありがとう。自分にとっても、いろいろ考える機会になった。
・別記事で「古典を義務教育で扱う意義について」の返事を自分なりに書いてみました。
https://anond.hatelabo.jp/20210222160532
この記事みたいな筆の乗り方はないし、教育制度についても専門とは言えないが……
古典の魅力はもちろん語れるんだけど、他の科目と同様にそれは万人に共通でない、というのが義務教育のむずかしさであり、教員にとっては腕の見せ所でもあるとは思っています。
古典が嫌いな生徒に古典を学んでみたいと思わせることが、自分の授業の到達目標でもあります。
・あと、改行のやりかたを学んだのでついでに上に付して見やすくしました。
こちらの書き方が悪かったなら申し訳ないけど、「感じ方」は出題されていません。あくまで論理的に、勉強した成果を発揮できたら「あはれ」を感じられるような構成になっている、というつもりで書きました。
よくある誤解だけど、国語の入試はとことんまで「論理的に」答えが出るように作られていて、必ず本文中に根拠があるし、その根拠と解答をつなげるものは「感情・センス」ではなく「論理」になっています。
もしかしたら昔はそうじゃなかったのかもしれないけど……。
石原千秋の本は納得感高くていいですよね!どちらも自分の現代文指導の根本にある本です。
解答して読んだ。長年古文から離れていたが丁寧な注釈と設問に助けられて理解できた。テクニック丸暗記ではとても太刀打ちできないが、当時の情緒を解する読解力があれば知識は最低限でも解ける良問だと思った。
解答までしてくれてありがとう!まったくその通りで、重箱の隅をつつくような部分もなく、古典の学習におけるエッセンシャルな部分が試されていると思います。
これは数学の同僚の先生に聞いたことですが、数学ⅡBでは指数の問題でも非常に数学のエッセンシャルな(そのぶんやや抽象的な)問題が出たのだとか。
新共通テストについて、これまでの学力測定に加えて、より学問のエッセンスを感じられるような方向を現時点では感じています。実施されるまでの経緯がひどかったので、これについては非常にありがたい。
今回の共通テストはセンター試験の名前が変わったにすぎない。その程度の変革だったのだけど、もともとセンター試験がかなりよくできてるんだよ!国語でも随分前からちゃんと多角的な思考力を問う内容になってる!
そうなんです。ただ、今回の新傾向がそれをさらに進化させたような代物で、ただただ凄いと思って、まずは同僚の先生に伝えようと思って書いたのがこの文章のもともとです。しかも、これまでと比べて劇的な変更と呼べるほどではなく、受験生にとっても取り組みやすいものになっています。
それもあるし、これを見た高校の先生は「知識だけでなく、学問的な思考の方法を教えていく必要があるかも?」と授業を見直すきっかけになります。
大学入試改革は、高校入試改革の嚆矢としての役割を持っているので、この方向性は国語の授業を探求性を高める方へドライブしてくれると思います。
古文漢文って、歴史を学ぶだけで拾えない、当時生きていた人たちの生き様や心情を拾える学問なんだなあと思った。そう思うと大事やなー。未来の人達に私達の心情とか踏まえて歴史を理解して欲しいって思うもん。
こういう言葉を生徒から聞くために古典を教えているんだと思います。
今回の内容はいずれ、授業にアレンジして生徒へ伝えるつもりです。その意味で、非常にいい「教材」になるのもセンターや共通テストが良問であるとされる所以ですね。