はてなキーワード: 注釈とは
http://anond.hatelabo.jp/20160111163333
元デブから元増田その他へ謹んで申し上げたいことがございます。
俺は100キロオーバーのデブだったのを食事制限をして平均体重まで落とした元デブである、その経験を踏まえて効率的なダイエット法などをうんぬんするつもりもないし栄養学にも明るくはないのでそういった実践的なことをこの増田に期待しないでほしい。極論食わなきゃ痩せる以上。言いたいのは心構えの話だ。
デブに対して二言目には「自己管理ができていないからそのように醜く太るのだ」と言う意見が何の遠慮も注釈もなく雲上からデブに投げつけられてはデブの心を打ち拉ぐものだが、それは真だろうか?
デブは大食なのか?まあこれはイエスだろう、何も食べずに太る奴はいない。しかしそれは過度な精神的怠惰さからくるものでは断じてない。
デブに投げかけられる言葉のナイフは以下のようなものである「運動をしなさ過ぎで」「甘いものを食べ過ぎている」「間食を取り過ぎ」「栄養バランスが悪すぎる」「結局一日の接種カロリーが多すぎて」云々、どれも一面的には正しいのだが、これらを言われたデブはまず落ち込む「そうか自分は異常なのだ」しかしこのとき用いられている「過ぎ」という言葉には何かとの比較の問題が潜んでいるのだということに鈍感でいられるデブは少ない。やがてデブは周りを見渡してはたと気づくのだ「ん?でも周りの非デブの食習慣って全然健康的じゃないぞ?」と。
そう、デブのことを嘲り眼差しで冷笑してくる非デブたち(被害妄想が多分に含まれている可能性があります)の食習慣はデブと同等にデブ的なのである。
識者は言う「一日1800Kcal以内に抑えなければならぬ」と、デブは思う「じゃああの30代で一切運動もせず毎日スナック菓子を夜食に二袋食いながらコーラを2L飲み干している人はなぜ太らないの?」
ケーキバイキングに足しげく通いながらまったく太らない女性、飲み会に行けば小腹がすいたなどと言って+αでラーメンだのピザだのを注文しバクバク平らげているおっさん。そんな人々を見たことがないだろうか?いやさ、そんな人たちこそ痩せマジョリティではないだろうか?勿論日々の食事にものすごく気を使っている人もいるが、大抵は元デブである。
結論「デブがなぜ太っているのか」の最も大きなファクターは「そういう体質だから」ということに他ならないのであり、けして「常人よりもはるかに精神的に怠惰で卑しいから」ではないのだ。このことは力強く主張しておきたい。
勿論痩せるにはやはり食事量を抑えなければならない、これは純然たる事実である。そしてそういう体質だから太っていていいのだとも言っていない、太っていることには様々なデメリットが付いて回る。だが、いざ痩せようと志したとき精神主義的に「甘えた自己を叩き直そう!自分の惰弱を見つめなおそう」などと言う様な自罰的な感情をモーティベーションにするのは間違っている、だって別にそんな怠惰さはデブの中のどこを探してもありはしないのだ。そのような嘘を前提として過激なダイエットを敢行しても上述した様々な矛盾に囚われてしまうのがオチだ。
「自分は太りやすい体質だから兎に角食べる量を減らそう」これだけが絶対の真実で、嘘と無理のない自然なモーティベーションであると私は思う。自虐は逆効果である。
「○○ニーでマジイキすると日常生活に戻れなくなるのでおすすめしない」といった内容の記事シリーズが、少し前に界隈を賑わせた。我々オナニスト協会としても斯様な知見が広く世に伝わることを悦ばしく思うが、先人の執筆者たちはやや書き急ぎ過ぎていた印象を受ける。つまりは『マジイキ』の定義論がなおざりにされたままだったのだ。そこで本稿では、我々オナニストにとってマジイキとはどういう状態であるのかを明確に定義しておきたい。
「マジイキした」と述べるためには、下記の3つの要件を満たさなければならない。
マジイキとは最低でもオーガズム(絶頂期)が30秒以上持続する状態を指す。男性は一般的に射精時にオーガズムに達するが、射精そのものの持続時間が10秒にも満たず、射精後は不応期(俗にいう賢者モード)に移行してしまう。ゆえに上記要件がある以上、射精及び男性器の使用によってマジイキするのは不可能である。
アナニーないしサイニー開発の背景には、オルガスムの持続時間向上の意図がある。またユメニ―では「夢見状態における体感時間」と「現実空間における体感時間」との差異を利用して、主観的により長くの快感持続を得ることを目的としており、これもマジイキ指向のひとつであると解釈できる。
(注釈)アナニーでは肛門を用い、サイニーでは催眠音声を用いる。ユメニ―では明晰夢を応用する。この他に、乳首を用いたチクニ―、瞑想を用いたメイニーなどが存在する。また、はてな匿名ダイアリーなど文章を書くときの陶酔感のみをもって絶頂する手法を増田アノニーと呼ぶ。
マジイキでは、複数回の絶頂体験を獲得することを目的とする。通常、男性であればオルガスムは射精時の1回のみであるが、マジイキオナニーは原則として射精を伴わないため複数回の絶頂を得ることができる。
例えばアナニーにおいては、下部骨盤筋群の筋収縮を人工的に引き起こし、オルガスム時の不随意運動を擬似的再現することによって、何度でも絶頂することができる。サイニーにおいては催眠音声を用いて、大脳辺縁系そのものをコントロール化におき強制的な絶頂を与える。催眠音声のなかでは「100回の絶え間ない絶頂を体感させる」商品なども出回っており、マジイキニストの精神と肉体の限界が試される。
余談だが増田アノニーにおいては、ブクマをひとつ獲得するごとに1回絶頂することができる。
そもそも論として、射精によって得られる快楽などたかが知れている。もしも射精が無上の快楽体験であるとするならば、男性の麻薬中毒者やアルコール中毒者は存在し得ない道理で、世の中はもっと平和だったに違いない。すなわち射精によってマジイキするのは不可能であり、射精時の絶頂は所詮はドラッグ以下のものであると推定される。
社会を脅かす危険ドラッグ撲滅のためにも合法的なマジイキノウハウの普及が待たれるのであり、そしてマジイキ時に得られる快楽は確実に、射精時の10倍を上回るものであることを保証する。つまり、マジイキの真価は、快楽の持続性と連続性に加えて、快楽自体の大きさにある。
例えばアナニーにおいては女性的オーガズムの再現によって射精を上回る快楽性を手にし、サイニーにおいては催眠によって性感帯の感度を何十倍にも上げる。ユメニ―では「現実」という認識のリミッターを外すことで非常識的な次元を超えた快楽を手にすることができる。また、増田アノニーも言ってみれば「自己催眠」の延長線上にあり、人間が本来持ち合わせている「承認欲求」と「自己陶酔感」を性的快楽に変換している。
マジイキニストのなかには「まだ射精で消耗してるの?」などと自己優越感に浸って煽る者も存在するが、我々協会としては全人類は等しく(老若男女、人種門出を問わず)マジイキの権利を有していると信じているし、またこの権利は何人にも侵せない、不可侵で神聖なものである。
科学の発展したこんにちの世の中でも、野蛮な性犯罪が後を絶たず、心の底から嘆かわしく思う。もしも人類みんながマジイキの正しい手法を知り、自らを慰めることができるようになれば、このような性欲が他者攻撃へと転ずる卑劣で悲惨な事件は防げるのではないか。また薬物やアルコール、あるいはギャンブルへの依存も防げるのではないか。無論、それが理想論に過ぎないことを知っていても、私は「マジイキ」が世界を平和にすることを願ってやまない。
http://anond.hatelabo.jp/20151223021454
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以前、「街で見かけたJK」の絵をツイッターに載せていた人が炎上したことがあった。作者が街で見かけた(らしい)女子の絵が性的なタッチで描かれており、そこに矢印で作者の「汗だくでスケスケ!」と言った性的な視線のコメントが書き込まれているものだ。私も、これは批判されて当然だろうなあ、と思った。
で、その騒動のとき、私がツイッターでフォローしているエロ漫画家が「街で見かけたブラックホール」という体のネタ絵を描いてツイートしていた。その絵では街中にブラックホールが(なぜか)出現しており、そこに矢印で「時空の歪みが丸見え!」といったコメントが書き込まれたものである。明らかに「街で見かけたJK」絵のパロディである。
そのちょっと後のこと、「(街で見かけたJK絵への)批判すらネタにするのがオタクにとっての表現の自由なのか」という、オタク批判ツイートを見かけた。そのツイートには、ツイッッターで絵描きがアップロードした画像が4つ添えられており、うち3つは「街で見かけたJK」と同様の体で非実在女性を性的に描いたパロディ。で、残り1つが「街で見かけたブラックホール」の絵であった。
私は驚いた。他3つの絵は別として、「街で見かけたブラックホール」の絵は、寧ろ「街で見かけたJK」の絵を皮肉っているものだと私は感じていたためである。なぜか街中にブラックホールがあり、そこに「時空の歪みが丸見え!」といった意味不明な細かな注釈をつける。そういう奇妙さが「やたら細かな注釈をつける行為」のグロテスクさを浮き上がらせており、元の絵の異常性をも際立たせている。わたしはそのように感じた。語彙力がないのでうまく表現できないし、ここまで書いたことには私の主観が多分に入り込んでいるであろう(リンクを貼らないのは本記事が無粋なマジレスめいており作者に申し訳ないからである)けど、しかし少なくとも、ブラックホールの絵が「ネタにして」いるのは「街で見かけたJK」絵に対する批判というよりは、「街で見かけたJK」絵(あるいはその作者)そのものではないか?何にせよ、「JK絵批判をネタにしている」と決めつけるのは偏見に過ぎる。
その「批判をネタにするのがオタクにとっての表現の自由なのか」ツイートに賛同するツイートをいくつか見たが、「ブラックホールの絵は別」と指摘している人は誰もいなくて驚いた。しかしさらに驚いたことには、「批判をネタにするのが〜」のツイートをした人に「これらの絵はお前らみたいな(街で見かけたJK絵に文句をつける)繊細チンピラに対する揶揄だ」と食ってかかっているバカがいたことだ。両方の派閥から「批判をネタにしている」と決めつけられているブラックホール絵の作者が、私は気の毒でならなかった。
ときどき、「オタク差別」という言葉が話題になりますね。そのたびにこれはオタク差別だ、いや違う、だとか、オタク差別など存在しない、いやする、みたいな議論が巻き起こります。最近だと、とらのあなにヘイト本が置かれていた件のとき、ヘイト本を置かれていたことを指摘するツイートに「死ねよオタク」という文言があったことで、そういう議論が巻き起こりました。
この件では、「オタク差別ではない」とする側の中に、死ねよオタク、というのはヘイト本を買うようなオタクに対して向けられた言葉であって、あなたがオタクであるからといって「死ねよ」という言葉が自分に向けられているかのように思うのはおかしい、という趣旨のものがありました。このロジックが適切かどうかは、ここでは論じません。ただ、私自身についていえば確かに、ある種のオタクではあるけれども、普段から「オタクは○○(何かネガティヴな意味の形容詞)」だとか、「死ねよオタク」といった類の文言を見ても、別に自分のことではないと思うようにしています(あくまで私個人の生き方として)。はてなっぽく言えば、「自意識の当たり判定を小さくしている」ということになるでしょうか。(あとついでに言っておくと、それはそれとしてオタクでヘイト本愛好者がいることは嫌ですし、とらのあなも本件でなるべく使いたくなくなりました。)
そんな私ですが、ブラックホール絵の人が批判された件に限って言えば、「オタク差別」と呼べるのではないかと思っています。というのも、「街で見かけたJK絵(の作者)をネタにしている」という解釈が可能な絵を見て、「街で見かけたJK作者批判をネタにしている」という正反対の解釈に確信を持ってしまうのは、「この人はオタクなんだから、同じくオタクである街で見かけたJK作者を擁護しているのだろう」という決めつけによるものだと思うからです。だから「オタクにとっての表現の自由って〜」という言い回しをしているのでしょう。(なお、じゃあオタク側で「繊細チンピラに対する揶揄」と主張していたバカは何なんだ、という話になりそうですが、この人は見たところ左翼やフェミニスト憎しが行き過ぎた人だったので、それで解釈を誤ったのでしょう……。)さきほど書いた通り、「オタクは○○である」といった言説については、少なくとも「当たり判定を小さくしている」私にとっては別に気にならないのですが、それがこのように「お前はオタクだから○○なはずだ」という個人攻撃になってしまうと、当たり判定の問題ではなく、もはやどうしようもありません。
「オタク差別」という単語は、時には濫用されることもあります。たとえば、あらゆる「性的消費」を批判しているフェミニストが二次元美少女にまつわる何かを批判したとき、調べもせず「このフェミニストは(他の性的コンテンツは批判せずに)オタク差別をしている」などと主張しだす人が時々いますが、こういうのは「オタク差別」概念の濫用ですし、こうした濫用は当然、(フェミニストの主張に同意する人もしない人も)どんどん批判していくべきだと思います。しかしそうであればこそ、そういった濫用とは別に「オタク差別」という表現が適正な事例もあることを記録しておきたいと思い、こんな文章を書いた次第です。
地獄の絵を描きたいからといって、娘を車に乗せて焼き殺してはならない
驚いた人の写真集を作りたいからといって、道行く人に向けてクラッカーを鳴らしまくることがあってはならない
それは表現の自由に優先する
そこで行くと、例のJK絵は黒寄りのグレーだと思う
しかし、「いやらしい目で長時間見ていたのだろう」「盗撮をもとに絵をおこしたのかも」というのは想像と可能性の話だ
壱川氏が周りの人や警察に「お兄さん何やってんの?」と言われていたらその時点でこの絵はブラックだったが、
幸か不幸かそんなことにはならなかった
制服から学校と地域を特定可能なように描き、絵に対してなのかモデルの子に対してなのかはっきりさせずにきわどい感想を寄せる
これはとてもまずい
実際、壱川氏の絵のモデルになった子たち、そして周囲の人たちが彼の視線を感じて不快になったかどうかはわからない
しかし、仮に今、彼女たちが壱川氏の内心を知ってしまったら、過ぎたことだからと不安に感じずにいられるだろうか
「ここに数日前不審者が来ましたが、何もせず不審だっただけで終わりました。良かったですね」
と言われてもまったくよろしくない
そこに不審者がいたことに気付けず、自分がまったくの無警戒で何の準備もしていなかったことを
アパート退去時に、大家さんに「隣の部屋にはどんな奴が住んでるんですか? 深夜に大音を立てて……」
と言ってみたら、「隣はずっと空き部屋だよ」と言われたような、ゾッとする気持ちになるかもしれない
そんなことを言っても、女子高生をいやらしい目で見てしまう男なんていつだってそこら中に歩いているわけだが、
しかし、意識せざるを得ないようなことを壱川氏は言ってしまった
「男はみんな女子高生をエロい目で見ているよ」という抽象的な話なら、まぁそんなものかと気に留めずにいられる
しかし、壱川氏の絵には時と場所、そして人に関して特定してしまえるような情報が少し多すぎた
壱川氏の「無警戒」という女の子への感想が「カモだ」という意味だったとは思いにくい。実際何もしていなかったのだから
しかし、悪意のある人がそのように解釈し、その場に行ってみようと思うかもしれない
何しろ、ネット上にあるものは本当に、思いもよらぬような数の、多種多様な人が見るのだ
その、「かもしれない」がどの程度の確率なのかはまったくの未知数で、当事者にとってみれば不安に思うには十分だろう
彼女たちがこの騒動に気付いたと決まったわけではないので、ここまでの話は仮定にすぎないが、
私たちは凌辱ものエロ漫画を読もうがリョナ系エロ漫画を読もうが、
「これは架空の世界、架空の人物の話だよってこの悲しみも怒りも実在しないのだ」ということを理由に
安心して後ろ暗い欲求をぶつけることができた
また、男は欲求をこういうところで発散させていて、こういう物をなくすのはむしろ危険だとも言ってきた
しかし、壱川氏はそれを真っ向から否定するような行為をオタクではない人たちに示してしまった
実在の、ただの一般人を架空のキャラクターと同じように扱ってしまった
萌え絵を描くために(萌え絵が原因で)女子高生をじっと観察してしまった
もう本当に、壱川氏は余計なことを言わなければよかったのだ
見たままを描くべきではなく、何かのキャラクターに置き換えたりすれば良かった
嘘でもいいから、「特定防止のために髪型や制服を変えてあります」と言ってほしかった
絵に注釈がなければ、「ただかわいいと思ったから描きました」と言い訳できた
まとめもツイートも一通り目を通して、論点のずれがあるように見えたので書いてみようと思う。
あれを批判してる人の大半はなにも「実在の女の子のスケッチを公開すること」が非だと言っているわけじゃなく、「実在の女の子のスケッチに『外見や体型に対する事細かなコメントをつけて公開すること』」が嫌だと言ってるんじゃないですか。
ああいう視点を持つことそれ自体が悪だとは思わない(そう思うひともいるだろうけれど)。
心の中で勝手に思ってるぶんにはなんら問題ないだろうに、例のイラストでは「自分は彼女のここがいいと思いました」っていうのを注釈として書き加えている。
絵だけが提示された場合は見たひとそれぞれがその絵のどこがいいかを好き勝手に感じればいい。
でも「自分はこう見て描きました」というガイドが詳細に書き添えてあったら、もうそれは単なる絵というより描いた人の視点を共有させるための道具になり得てしまう。
「別にこの絵を支持しているからと言ってそういう風に女の子を見てるわけじゃない」という反論もあるのでしょうが、実在の女の子をこういう目線で見ている男性がいる、という事実を歴然と本人が証明してしまってるわけで。
その時点で気持ち悪く思われても仕方ないと思う。
「Love Piece Club - 女子中高生に固執する成人男性たち / 田房永子」 http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2015/10/21/entry_005903.html
私が語るのはこの記事で言われている「JK視姦絵師とそのイラスト、諸々の問題について」である。
●まず、絵師は何をしたのか。
よく「ただ実在した少女をイラストとして描いただけ」等と言われることがあるが、それに収まるものではない。
1.実在した少女を絵にし、様々な性的な興味を注釈として書き綴ったものが、話の中心にあるイラストである。
例:超おっぱい! お尻近くまで見えてしまったナイスふともも (雨で塗れて透けた胸部に対し)白ブラとおっぱい
2.少女の着用していた制服の詳細を事細かに描いているものも少なからず存在している。
見る人が見ればどこの服だかわかるとも言い、実際にその学校の生徒から絵師に直接の苦言リプライもあったとされているが、
3.「この県の女の子は気が強くてダメだから、隣の県の女学生を眺めて癒されてくる」
「通りにいた女子中学生に車でクラクションを鳴らし、相手の反応を見て喜ぶ」
「今日30人以上の制服少女を見たけど一人もセンサーに反応しなかった」
「通学路に引越し、毎日カメラをつけて素材探しもいいですね!」
といった絵以外で実際に行ったであろうことを多く呟いている。
「今日たまたま見かけた面白い人を絵にしました」といったものではないことはわかるだろうか。
「たまたま見かけた」ではなく「自分から見に行っている」ものであり、
●何が問題なのか。
問題といった大きな話でもなく、ただこの行為に対して気持ち悪いと思う人がいたというだけの話である。
決して集団で叩いたりはしておらず、これに対し怒り断筆させようとする者も割合からしてごく少数で、
ただこれを見た人らが個人個人の率直な感想、思いを口々に呟いているだけなのだが、
あまりにも多くの人が気持ち悪いと感じ、感情を吐露している為、「集団での叩きに見える」のが現状である。
気持ち悪く思う部分も個人個人で様々で、
・女学生を性的な眼差しで見て、それを文字に書き起こしている所。
・詳細までハッキリ描けるくらいに見回している所。
・その他のツイートから滲み出る執着っぷりやマジさ。イラスト以外での行動etcetc...
これらが集まっていた為により多くの人が気持ち悪く思ったのだろうし、
どれか一つだけだったらこのように炎上することもなかっただろう。
「犯罪じゃないのだから悪く言うな」という意見もあるが、それはそれこれはこれであり、
犯罪じゃなくても気持ち悪いものは気持ち悪いし、そういった悪感情を表現する行為も犯罪ではない。
犯罪じゃないのだから、というのなら、気持ち悪いという表現も犯罪ではないので、この表現を悪く言われる謂れはなくなる。
そのように拡大するのであれば、絵師の行為も迷惑防止条例違反と成り得るものであり、
「法律には背いてはないんだから何をしたって嫌うな」と言うのであれば、
それと同じように「法律に背かない範囲で自分にとって嫌なことを集団でされる」ことになるよ。
「この程度のことで炎上させるなんて酷い」や「こんな些細なことで悪く言うやつは嫉妬に決まっている」といったものは、
自分にとっての「この程度」「些細なこと」と、他人にとっての程度は違うということを知るべきだと思う。
自分がいくら気持ち悪いと思わなくても、大多数の人が不快に思ったから炎上した、ということを受け入れないと何も始まらない。
フェミが~BBAが~といったものも多いが、男でも不快に思った趣旨を発している人は多くいる。
この話は絶対的な良し悪しの話ではなく、客観的な快不快の話である。
なので法律のように、誰かが「ここからはNG」と示すものではない。
言動を知って不快に思った人が多ければ多いほど炎上しやすくなる。
結果論ではあるのだが、その他のものは「こう大きく取り上げられて周囲から不快感を突きつけられる」ようなことが無かった以上、
今後また同じように多くの人が不快に思う表現がなされればそれは同じように悪感情の塊をぶつけられることになるだろうし、
不快に思わない表現に対してわざわざ嘘ついてまで嫌いだと言いに行くこともない。
「コレに対してキモいと言ったんだから、アレにもソレにもキモいと言え!」というのはただの炊きつけだし、
実際キモいと思ってないものにキモいと言えと言われてもそんなの不可能だし、
"コレ"と"アレとソレ"は全く別物なのにも関わらず当然のように同一視してしまうのは
「コレのどこが気持ち悪がられているのかを理解できず、また理解しようともしていない」ことを自ら示してしまっている。
今回のことで炎上したからといって今後街で見かけた人イラストが自粛するようにはならないだろうし、
視線を向けただけで犯罪者になるような厳格な社会にもなりえないだろう。
これらには共感者がいない。これらのことに賛同する人間は決して多くなく、従って炎上もせず世界も変わらない。
●最後に
表現の自由は表現の自由で、視姦イラストを描くことも自由。ただし自由には責任が伴うということを忘れちゃダメ。
絵を描いて発表するのは自由だが、それを見た人がどう思うかも自由。悪く思う人もいるし良く思う人もいる。
自由なので、どれだけ多くの人に気持ち悪がられても俺は一生描くぞ!っていうのも自由。
そりゃ描き続ける以上周囲も言い続けることになるけど、描くこと自体を無理やり押さえつけることは誰にもできない。
ただし、「オタクはキモくて当然だ!周囲のことなんか考えないのがオタク!」とか
(学業に励む少女に対して)「見られるのが嫌なら家から出ないようにしろ!」とか
そういって開き直る限りはまた相手にも同じように「オタクのことは考えなくていい」とされるだけで
それこそ「オタクは犯罪者予備軍・迫害推奨」の称号を自分から勝ち取りに向かってしまうこととなる。
今まで「これは絵であって実在する人間とは全く無関係で誰も被害にあってません」として顰蹙を少しでもかわそうとしてきた中で
実在する人間を性的な目線で描きあげるのは明らかにその道に反していて、オタクの未来の芽を摘むようなこととなってしまいかねない。
気持ち悪がられても貫くのがオタク!というのは個人的には好きだが、
それが適用されるのは「周囲から小さな不快感が向けられている時」のみだろう。
今は昔。
ゾロアスター教の流れを汲むインターネット最大の世界宗教、はてな教は「村民派(ヴィレジスト。モヒカンとも。第一次はてな宗教戦争で勝利したマッチョイズムの末流)」と呼ばれる宗派によって支配されていた。
彼らはヴィレジズムと呼ばれる高踏的な態度で知られ、ヴィレジスト間だけで通じる言語や儀礼によって他宗派との差別化を行うエリート集団であった。
はてな教には「マスダの書(the book of Mazda、略してブクマ) 」と呼ばれる聖書が存在した。ヴィレジストたちは、このブクマをどう扱うかではてな教内の派閥争いの趨勢が左右されるといちはやく見ぬいて一致団結し、ブクマ独占のために動いた。
具体的にどうしたか。彼らはブクマをヴィレジストの解釈に基づいてしか使用してはならない、と定めたのだ。
ブクマは非常に難解な書物であり、文盲である一般ユーザー(はてな教の信者をこう呼ぶ)にはまず利用できない。そこで、教養の高いヴィレジストたちが彼らの代わりにブクマを読み込み、その意味するところを一般ユーザーに説教したのである。ヴィレジストたちによるブクマへの注釈、解釈がブクマコメント――今日のブコメの源流とされている。
ともあれ、ブコメの独占、ブクマの独占は一般ユーザーとヴィレジストたちとの間に圧倒的な格差をもたらした。ブクマはシステム構築当時の理想とは裏腹に、ヴィレジストの権力強化のための占有物へと堕していくのである。
こうして、ヴィレジストはブクマをおさえることで、はてな教の覇権を握った。
彼らがはてな教を支配して月日がたつにつれ、一般ユーザーのあいだにも不信が広まってきた。
曰く、ヴィレジストのブコメどおりに生活しても、自分たちが救われる気配は一向にない。もしかして、ヴィレジストの言うことは正しくないのではないか。自分たちは騙されているのではないか。要は勇気がないのではないか。
一般ユーザーの不満を抑えるため、ヴィレジストたちは免罪符――すなわちはてなスターを乱発した。スターはきらきらしていてとても綺麗であったが、実質的な価値は絶無にひとしかった。が、愚かな民衆は大量の星を欲し、こぞってヴィレジストの教会(article と呼ばれる)に殺到したのである。
ヴィレジストはスターを発行権を独占することでピンチを脱するどころか、よりいっそう民衆にたいする支配を強めたのだった。
いよいよ腐敗極まったヴィレジストは「オフ会」と称して連日連夜乱痴気さわぎを繰り広げ、ついには禁忌である妻帯を公然と行うものまで現れた。
もはや我慢ならない。村民、死すべし。そう唱えて敢然と対抗して立ち上がったのが、互助会派と呼ばれる人々である。彼らはアメブロやココログにルーツを持つとされ、ヴィレジスト的な文化の影響が薄かった。
互助会派はひとつの派閥としてくくられてはいるが、実態としてはそれぞれ主義の異なる小宗派からなる寄り合い所帯である。そのなかでも最大勢力であるミニマリスト友愛会の修道僧たちがブクマを民衆の手に取り戻す運動を始め、ヴィレジスト的な解釈に依らない自由なブクマを標榜した。
そうして、ブクマとは誰かに教えられて使うものではなく、ユーザーひとりひとりが自分なりに解釈し自分なりのブコメを模索すべきなのだ、と彼らは主張した。いわゆる「万人ブクマカ説」である。
当然、既得権益者であるヴィレジストはその破壊者たる互助会派が気に入らない。「偶像破壊者」として恐れられた傭兵隊長アオニサイや邪悪な異端審問官アザナエルなどを使嗾し、互助会派を激烈に攻撃した。互助会派も自衛のため、ますます連帯を密にした。
…………
(ガチャ)
ネットウオチ 「遅れて申し訳ございません。『ネズミ』の駆除に戸惑いましてな」
サバカリ枢機卿「まるで煉獄。互助会派からの思わぬ反撃を受けて、ひるんでおります。アザナエルめ、意外と『やればできる子』でしたな。しかし互助会派の被害も甚大。そう、甚大です。最高幹部の一人である人財が殺(と)られました」
ネットウオチ 「あいつがか! いい気味だ。バカが異端開いて悦に浸ってケツ穴掘じくりあってるから、こういう目にあう」
??? 「できれば殴り合いをつづけてもらいたいものだな。そうやって、両陣営ともに疲弊し、十分に弱ったところで、吾々が」
??? 「そうだとも」
ネットウオチ 「やつら、俺たちを無視しやがって。ちくしょう。匿名だからとバカにしやがって。そうはいくか。無理矢理にでも、首根っこをおさえつけてでも、こちらを向かせてやる。あいつらの鼻先で踊ってやる。できるだけ楽しく、な」
??? 「いいや、ネッチー。それは違う。われわれはもう踊っている。なんとなれば、十年前から踊り続けてきたのだよ。やつらが気づかないふりをしていただけだ。だが、もちろん今度こそ、そうはいかない。そうはいかなくさせてやるのが今回の目標だ。なあ?」
サバカリ枢機卿「――すべてはシナモンのために。我らが匿名教会のために――」
Amen.
「言語学の専門家が教える新しい英文法」っていう本の第一章にあった例文について自分なりに注釈を加える。
(45) In no clothes does Mary look attractive.
(46) In no clothes, Mary look attractive.
自分で例文を書き写して気付いたけど、カンマの有無の違いがまずあるな。
(45)メアリーは何を着ても魅力的ではない。
(46)メアリーは服を着ていなければ魅力的だ。
この違いが、In no clothesっていうフレーズの解釈に差が出る原因ってことで正しいみたい。
ググッたら解説してるページがあった。
走り書きだけど
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12072474832.html
●我が国の国債金利は世界最低の水準で(世界最低はスイス)、日銀が国債を買い取っている以上、財政破綻(政府の債務不履行)は起きえない
→日銀が国債買い取っているけど、これ自社株買いみたいな感じ。以前の記事で「パックマンの口が開いている」(それだけ国債が日銀に買い上げられて、国債不足になっている!)という、別種の問題が発生している。
●日本国家の対外純資産は360兆円規模で、世界最大。日本は統計的に「世界一のお金持ち国家」
→円安による対外資産増加の影響もあるけど。日本国に属するありとあらゆる主体を合算するとそうなる
●日本の財政赤字、政府の負債(国の借金でも、日本の借金でもありません)が増えているのは、デフレで名目GDPが十分に成長せず、税収が減っているため
→名目GDP=物価変動を除いた部分。ここ最近は、消費税増税分だけ多少物価が上がった→GDPが増えた(棒 程度
●日本の社会保障支出の増加1.2兆円/年は、税収弾性値を無視しても、名目(実質ではありません)GDPが3%成長すれば、普通に賄える(税収増による)
→ 昨年度1年間の名目GDPは490.8兆円。ということは、ざっと14〜15兆円程度の成長が必要?
●デフレは「総需要の不足」であり、貨幣現象(定義不明)ではない。デフレから脱却するためには、総需要拡大策が必要
→名目GDPは「物価変動を除く」だからより多くのものが売れる必要がある。
ただし、貨幣が十分あっても欲しいものがなければ、買おうと思っても手元のお金が減ることに抵抗があれば需要なんて起きない。
●消費税は、税制の性質上、消費性向が高い低所得者層の税率が高くなる(いわゆる逆累進課税)
→これが深刻。低所得者層が生活できなくなる。というのもあるけど、団塊世代の労働者人口→高齢者への移行にともないストック(現預金などの純資産)を大量に持っているが、フロー(収入)が少なくなりがちな人が増えているという点でも深刻。
●4-6月期の経済成長率(実質GDPの対前期比%)はマイナス。さらに7-9月期もマイナスになる可能性が高い。すなわち、現在の日本はリセッションに突入している可能性が高く、理由は昨年の消費税増税。
(デフレギャップがGDPの1.7%ほどある)というわけで、日本が、
●10兆円規模のデフレギャップを抱えている
というわけで、代替案ならぬ「解」は、
●10兆円規模の補正予算を組み、直近のデフレギャップを埋める
●整備新幹線やリニア新幹線、ILCといった、将来の生産性向上をもたらす長期投資を実施することで、土木・建築産業の雇用拡大、投資増強を促進し、土木・建築サービスの供給能力を高める
→財源はどこよ?といったら、国債。ものすごい勢いで日銀が買い取ってて、民間金融機関が国債欠乏症になっているんで、逆にありがたがられるかもしれない?!。赤字国債がだめなら建設国債とか。
また、ここまで大規模な土木工事の発注は、行政府でもないと困難。
●消費税については再増税は凍結。可能であれば、5%に戻す。消費減税が難しければ、消費性向が高い低所得者層に所得減税を実施する
→これ、消費税自体が、最近の現実ってMMOのゲームのゲームバランスをかえって悪化させているような気が済んだけどね・・・。
ここまで注釈。
ここから自説。
今の日本国における経済情勢は、ゲームバランスの調整を間違えて、延々とクソ修正やアホイベントを繰り返しているクソゲーと化しています。
市場内に存在するお金が余っているものの、多くのプレーヤーがあまり使いたがりません。
結局は、一個人や一企業(ないし企業集団)では解決できないほどゲームバランスが崩壊しており、かつその中で、各プレイヤーが
合理的な行動をすればするほど合成の誤謬とか、ゲーム理論の基本例みたいな事態が起こっている。
具体的に言えば、個人や企業が支出を減らせば減らすほど各自の手元現金が多く残るが、それをみんなが一斉にやると
各自の勤め先や取引先の売り上げが減るので、巡り巡って自分の収入を減らす。ってことになる。
だったらゲームバランスを調整。と。
今回は自身関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
パソコンやスマホ(フォ)にあるメモ帳に、質問や回答を下書きしているね。
他にも候補はあるが、お節介な機能がほとんど排除されている方が個人的にはありがたいな。
いざここで本文を乗せる際もイメージから離れすぎていなくて都合がいい。
思いついたらメモ帳に列挙して、途中で何らかの表現を思いついたら追加したり、逆に削ぎ落としたり。
そうやって、ある程度の回答がいくつかできたら、適当にテーマを決めてコピー&ペースト、投稿という流れだ。
もちろん、投稿前に全文を確認して、その上で何か思いついたら付け加えたり、削ぎ落とすことも多々あるね。
このシリーズは私の価値観を表明する場というより、如何にそれっぽいことを書けるかがテーマなんだ。
実際、しばらく前の回答を読み返したら、自分でもよく分からないことを書いているケースも多々あったし。
タイトルの「FAQ」をクリックすれば、私の過去のシリーズは簡単に見つかるが、あまりオススメはできない。
その二元論で語ること自体がナンセンスだと思うが、それでも答えるなら私は凡人だろう。
なぜなら、私は私以外の才能を正しく知覚できる能力がない。
ピカソの絵を初めて見たとき、私は当時「なんだこのラクガキは」と思った。
もちろん、ピカソがすごい人物であるということを知ってはいるが、「知っているだけ」なんだ。
他人の評価を介して知覚することは出来ても、私自身の価値観でもって正しく知覚できない。
だから凡人なんだ。
まあ、それで私としては何ら問題がないのだが。
卓ゲ動画の感想って悪意がなくてもここがもうちょっとこうしてくれたらなあっていう意見が下手したら作者にダメージを与えるんじゃないかと思うと言い辛い。
けど感想をずっと一人で抱えてるのももやもやする。のでちょっとここで呟いてみるが保身に端って動画のタイトルはぼかしてたり。なお全てイメ卓。
某クトゥルフ動画→物語として見る分には楽しいけどKP周りのネタがネタを通り越してて複雑になる。そんなキーパリングしてたら卓外追放されるんじゃないかっていうレベル。難しいけど頑張ればちゃんとラストまでいける難易度じゃなくてただただKPがPLを嬲るだけになってたんじゃないかなそれ。
人によっては地雷KP思い出して視聴が難しそうなのでもうちょっとネタとして楽しめるレベルまで落としこんでくれたら更に間口が広がりそうなのに惜しい。
某削除済み動画→上げなおしの時に一言上げなおしだと注釈してくれたらそれだけでも違ったと思う。色々と残念。ご本人の行動に全く問題がないとは言わないけど問題のある行動を取った相手だから何をしてもいいんだと言わんばかりに、本人としての言葉ですらなく他の人も迷惑してるという口調で文句を言いにいった人がいるのには正直動画主以上の問題行為じゃなかろうか。本人に伝わってるならそれ以上のあれこれは蛇足じゃないかしら。
あと作者さんが動画という媒体での表現に向いてない気がするので別の媒体を探してみてもいいんじゃないかとも思う。文章なら動画よりは修正と上げなおしが簡単じゃないかなとか。
某卓ゲ→レイアウト無理して凝らなくてもよかったんじゃよ…。ごめんなさい正直文字表示は上下2箇所までが精一杯です…。とても楽しそうでよい動画だったので次回があれば是非通常のレイアウトでお願いしたく…。
趣味でいろんなデータをいじっていると、ちょこちょこと興味深い結果が出てきたりもする。
ちょっとtw禁(くだらない理由だけど)してるので、ちょっとだけこっちでつぶやきがわりにちょろっと。
昨年末C87における、平均当選率(有効申込数に対する当選率)は84.769%。10年前のC66の当選率が98.507%なので、当選率の面では10年前よりも条件が悪いといえる。
しかし、総申込数自体は、C83をピークに漸減状態にあり、当選率も78.791%を底にして、徐々に高まりつつある。44000件を越えたC83の申込数に対し、C87では41200件を切った。この傾向が今後も続くかは、観察を要する。
#注釈:10年前時、「当選率が6割(7割だったか?)を切りつつあり~」というアナウンスがあった(そして、それが夏冬3日間開催の有力な根拠とされた)と思ったが、コンシューマユースで触れるデータでの確認においては、当選率は上記の通りである。データベースへの登録に際し、落選サークルの取り扱いが途中で変わった可能性もあるため、10年前頃のデータの「総申込数」については参考扱いとして慎重な扱いを要する。以下の確認においては、基本的にC80以降に限って言及する。
ジャンル別に見た場合、ノンジャンルを除いて一番当選率が高いのはコード720(音楽(男性アイドル))の94.431%。その他上位は735(スポーツ),710(音楽(洋・邦)),730(TV映画芸能),531(ガンダム),532(T&B)と続き、女性向けジャンルの当選率が比較的高い。
例外的に831(ヘタリア),433(テニスの王子様)だけ平均当選率よりも低く、8割にかなり近い。
去年猛威をふるったコード301(艦これ)は、当選率80.174%と、当選だけを考えるとかなり不利である事が分かる。成年向けはこちらで、と準備会のアナウンスがあったコード200(創作・アニメ・ゲーム(男性向))も81.843%で、他の200申し込みサークルを含めた中でのジャンル内当選枠確保はかなり困難であったと思われる。
当選率が比較的高いと言われた130(学漫)は、C87では86.391%で、平均にかなり近い。過去は90%前後だったので、このへんは何らかのトリムがかかっている可能性がある。
一貫して当選率が高く、かつジャンル枠が拡張状況にあるのが135(評論・情報)。C80では申し込み643サークルだったのが、C87では1045と、1000の大台を超えた。当選率も89.328%と高く、ここ数年、平均当選率を上回る状態が続いている。
申込数的には拡張気味なのに当選率がふるわないのが200と220(ギャルゲー)。ともに81%台で、申込数の多さも相まってかなりボロボロ。
ビッグサイトの物理的容量は変わらないので、これは純粋にキャパオーバーが当選率に響いていると考えられる。2つの内どちらかを1日目に移せば、当選率的な意味での公平性は保たれるのでは無いか。
(ただし、隣接ジャンルを同一日に配置すするという方針からは外れる)
信者もアンチも多い241(東方)は、C87で82.032%と、かなり当選率が低い。当選率の底はC83の69%割れが最低と思われ(C79以前のデータが一部欠落のため推測)、その後波打ちながら回復基調。
原因は調べていないが、241は夏の方が当選率が高く、冬は当選率が低い。全体的な申込数が漸減傾向にある中で、77%→83%→76%→83%→76%→84%→82%と、見事なくらいな波の傾向。
ちなみに、当選率最低は231(コスプレ)の75.377%。ブービーは240(同人ソフト)の77.455%。80%を切っているのは2xxの3ジャンルだった。
1日目は88.510%
2日目は85.250%
3日目は81.967%
である。ジャンルを詳細に男性向け女性向けに分けるのは困難なので日付での判断となるが、C87は日月火の日取りであるため、いわゆる「女性向け」サークルにとっては有利なはずだが、実際のところを見ると女性向けは申し込みベースでは低調であることが窺える。
ビッグサイトのキャパが決まっており、同一傾向ジャンルは同一日に固める方針であることから、申し込みの少ない女性向けジャンルの当選確率は、他の2日よりも有利になっている事が分かる。
サークル数の割合で見る男女分布で、「女性も沢山いるのです」という言説を見かけるが、「総申込数に対する女性向けサークル」と言う意味では、実は言われているよりかなり低い。
おまけ。コード999で申し込んでる準備会の話を聞かない人の数であるが、C84で128サークルいた以降、ゼロが並んでいる。
で、ここがhttp://logmi.jp/38827こういう記事を作ってたりするんですがどうみても著作権的にアウトなんですよ。
TEDのプレゼンテーションを翻訳して、それを記事にしています。
最近のこの記事あたりから記事の最後に注釈がつくようになりました。
※ログミーでは、TED Talksおよび各TEDxの定めるCCライセンスを遵守し、自社で作成したオリジナルの書き起こし・翻訳テキストを非営利目的のページにて掲載しています。
らしい。
https://www.ted.com/about/our-organization/our-policies-terms/ted-talks-usage-policy
ログミーは、非営利目的のページにて掲載、としているがこのサイト自体は他のページで広告を掲載しています。
また、書き起こし自体が事業なのでそれを行なっていることはログミーにとってはこういう書き起こしができますよという事業の広告となります。
さっきの規約読んだらわかるけど、ここで許可されているのは教育とか仲間内での研修とかそういうことです。
もしあれならパートナーライセンス取ってねって書いてあるけど、それじゃなくてCCライセンスのことを記載しているってことは
あと、この規約はたぶん動画についてのことなんだけど、それを文字にして使ってSEOの一部として使ってるのはまたさらに別の問題なんじゃないかと。
どっちにしろ企業としては完全にアウト。最近問題になったキュレーション系と同じで人のものをパクってるだけです。
もしログミーがこれは問題ないと主張するなら、このログミーが書き起こしした記事をまるまるパクッたサイトが作られたらどうか?という質問に答えてほしい。
某裏で行われてた今月庵こと鈴奈庵25話の考察が目から鱗だったので。
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霊夢がなぜ里に危害を加えないと宣言した易者妖怪(もどき)を退治したのか。
霊夢の「里の人間の監視が仕事」「人妖が幻想郷のバランスを崩す」という発言から、理由は"幻想郷を維持するため"だというのは分かる。
そうなると、ある程度東方の世界に浸ってる読者はその動機づけをこう考えるはず。
・そうすると妖怪にとって都合のいい世界である幻想郷が崩壊しかねない
・霊夢は紫とともに幻想郷を維持管理する側の立場だから、これを阻止しようとするのは当たり前
ここまで考えた時、「幻想郷は妖怪のためのもの」「霊夢はそんな幻想郷を維持管理する立場」という前提から、無意識に「霊夢は(幻想郷を成り立たせるために妖怪退治を行っているけど実際には)妖怪側の人間」と考えてしまう人もいると思う。
ここで易者と霊夢のやりとりを見てみる。
易者は、霊夢を「無用な殺生をしない」「妖怪巫女」と呼び、また里に危害を加えるつもりはないから「敵対する理由はない」と説く。
それに対して霊夢は、自分を「無用な殺生もする」「人間巫女」と呼び、「妖怪なら問答無用で退治する」と応える。
つまり易者はあくまで霊夢を「本質的には妖怪の味方」と見ているのに対して、霊夢はあくまで「人間の味方だ」ときっぱりと易者の視点を否定しているのだ。
易者「お前は周囲に妖怪を侍らせて妖怪の側に立つ巫女なのだから、"里を襲わない"という幻想郷のルールに
抵触するつもりのない俺と敵対する理由はなく、無用に殺すはずがない」
霊夢「私は人間の巫女なのだから、例え無用な殺生に見えようが、妖怪ならば問答無用で退治する」)
もし霊夢が易者の言うように本質的には妖怪の味方だというならば、霊夢は(幻想郷の人間と妖怪のバランスを崩しかねない)里の襲撃を行わないと宣言した易者を見逃していただろうし、「里の人間が妖怪になるのが一番の大罪」というのが妖怪側の管理者の理論だとするならば、少なくとも「人間の味方だ」などとは言わずに「ルールを破った」と言い放った上で退治していたことだろう。
霊夢はあくまでも「人間の味方」だった。(当然といえば当然だが)
無意識に「易者の目線」で見ていた読者が俺の他にもいたとすれば、その認識は他ならぬ霊夢自身の手によってばっさりと消し去られたのである。
あるいは幻想郷の維持はあまりにも当然のことと考えていて、疑問すら持っていないのかもしれない。(例え妖怪のための世界であっても)
霊夢は幻想郷という枠組みの中で人間を守ろうとしているのだと思う。
だから基本的に人間に害なす妖怪は悪であり、霊夢は人間の妖怪化を阻止しようとするし、妖怪は問答無用で退治する(それは霊夢を妖怪側だと思っている易者の視点から見れば無用な殺生と映る)
一方、紫は妖怪の立場から幻想郷を維持し、人里を維持しようとする。
霊夢と紫は、目的こそ違えど「幻想郷を維持する」「人里を守る」という利害が一致して似たような立場にいるのではないか。
もちろんそれならなぜ霊夢と近しい一部の妖怪は退治されずにいるのか、という問題も出てくる。
弾幕ごっこで一度「退治」してしまえば、あとは人間に危害を加えない限りそれっきりなのか、今回は易者が「人間から妖怪化した」という大罪を犯したからきっちりと退治したのか・・・。
ただ少なくとも今月の鈴奈庵の霊夢の発言は、霊夢は決して紫(というか妖怪)の手先ではない(少なくとも本人はそのつもり)ということを物語っている。
霊夢が幻想郷を維持しようとするのは、個人的には、霊夢も(人間の視点から見てもなお)幻想郷を気に入っているから、と思っていたいが。
中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。
(なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない)
六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。
判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。
翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。
財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。
と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。
王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、
砂漠のど真ん中で戦国時代やってたような連中をまとめ上げてサバイブしてきた宗教なので、
政(まつりごと)やってる連中に好きに利用されちゃう宗教とは違って、
なので、イスラーム共同体を作り守り広げるぞ、いう感じなわけだ。
ウンマ・イスラーミーヤ(ummma islamiya)とか言われるものがそれになる。
で、ジハードのことを聖戦と訳すとまたややこしいことになるんだが、
「アッラーフのための奮闘努力」が多分一番近いニュアンスになる。
意外(?)な事に、大ジハードとは個人的な内面の戦いになる。現実の戦争とか小ジハードなのね。
ラマダーン(断食月間)だとか、宗教的に正しい行いをするのはより困難で重要である、というわけ。
これは、大体の法学者が見解を一致する数少ない部分でもあって、かなり重要な概念なのです。
宗教というよりは生活様式というかまんま国是みたいなものですというのを理解してもらった上で、
さらにムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、というのが義務として五行に組み込まれていて、
ムスリムはみんなそれを守るのは重要だと考えている、という前提をおいた上で、
ダール・アル=イスラームと呼ばれる、イスラーム世界というのがあるわけです。
ダール・アル=ハルブと呼ばれる、非イスラーム世界というのもあるのです。
自分たちのルールとは、違うルールを使ってる世界、というニュアンス。
すると、当然、自分の家を守るのは義務、ということでイスラーム世界を守るのは義務なわけです。
宗教は自由なので無理強いはしないけど、イスラーム世界のルールには従おう、みたいなのがあるのです。
結果、非ムスリムは許容するけど、非イスラーム世界をイスラーム世界に組み入れる努力を怠ってはならない、
という、ワリと複雑なことになっているわけです。
まあ、正確にはアラビア語のクルアーンを読むべきなんだけれども、
不信仰者の攻撃を受けて背を向けてはならない、戦略的撤退等を除いてはアッラーフの怒りを被り地獄に住むことになる、とか書いてある。
そうすると、非イスラーム世界からの攻撃に、ムスリムは防衛する義務があって、背を向けてはならないわけです。
そして、非イスラーム世界の代表例とも言えるのがアメリカ合衆国で、これに背を向けられないと。
ただし、害がない場合(イスラーム世界と和平を結びたがってる異教徒)には、和平を結んでも良い、とされている。
ムスリムである中田考さんの会見は、同胞であるムスリムに対する呼びかけになるわけですね。
イスラーム国をムスリムでないと断定できれば攻撃したり非難したりすることは簡単なんだけど、それは出来ない。
すると、非イスラーム世界と戦っている!と言われれば、背を向けよ、とは声掛け出来ない。
日本政府側には「ムスリムは異教徒と戦って背を向ける事は出来ない(地獄に落ちる)ので、戦うとか言わないで」とまず言ったと。
テロリスト、非テロリストという枠組みではなく、まずイスラーム世界と非イスラーム世界との枠組みの話ね。
で、トルコ経由で人道支援に限って渡すことも出来るよ、仲介するよ、と。
「日本政府の資金は、人道支援に限ってるよ(戦うために使っているわけではない≒非イスラーム世界だが敵対中ではない)」
「(君らも知ってると思うが、安部総理はトルコ・レバノンへ支援すると言ってるわけで)トルコ経由で渡すこともできるよ」
「双方にとって時間が短すぎるよ、そこはなんとかならんかね。自分もそっちに行くよ」
「ヤージディー教徒は解放したよね。そういう態度の方が、主張は通りやすいよ」
ムハンマドにもたらされたクルアーンは絶対、という前提のもとでは、攻撃に折れよとは絶対に言えないわけです。
ただ、テロリストとは交渉しない、テロリストに金を払わないという日本政府側の前提も曲げられないと。
すると、日本は非イスラーム世界だが、人道支援に限って金を出しているので敵対中ではなく、和平を望んでいると、
イスラーム国もムスリムなら、小ジハードを止めろとは言わないから、異教徒に寛大でも良くないか、
そもそも時間も短すぎるし、ちょっとムスリムの法学者たる自分が間に入るから話を聞いてくれまいか、
と、そういう声掛けになるわけです。
質疑応答でも、身代金を払うんじゃない人道支援だ、と繰り返し言ってるのが、板挟みの回答になってるわけですよ。
まあ、ワリと中田考さんはイスラーム国側に立った物言いしてるわけですね。どちらかと言うとメッセージになってる。
敵対すると同じ派閥であっても即処刑する人達なので、非難して即斬首とか困るわけですよ。当然ながら。
(もちろん、ムスリムがみんなこうかとういとそうじゃなくて、過激派は認めないとか、イスラムの名を利用した単なる侵略だ、とか言ってるトコロも多くある)
とういわけで、ワリと詰んでる状況で、譲歩を引き出す限界ギリギリのところだったんじゃないかなあと思うわけです。
だって、日本は米国と協調路線で、ガッツリ名前出してISIL壊滅の為にイラク政府に手を貸すとか言っちゃってるわけで。
本来なら政府はテロリストと交渉しないので、引き伸ばしつつ救出(奪還)作戦を展開して成功させないといけないわけで。
家族とか所属会社経由で身代金に応じるっていう裏取引(政府は目をつぶる)も、時間が短すぎると。