はてなキーワード: 注釈とは
日本は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。
例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、
その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。
襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、
できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。
イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。
まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。
まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。
モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、OSの設計思想も、
結局のところ、ノイマン型アーキテクチャを基にした世界観の上に構築されているわけだ。
宗教とは、目の前に存在する「現実」をリバース・エンジニアリングしている。
その構造分析の結果、あるモデルにピッタリハマれば「悟った」と言われる。
般若心経は、Z80の手書きのニーモニック表と同様だと思えば、親しみも湧くだろうか。
さて、「現実世界」は中々簡単にディスアセンブル出来ないので、
できればインテルから直接、回路図なんかの技術資料をもらうみたいに、
「現実世界」を作り上げたり、その内部構成を知ってる相手に教えを請いたい。
その教えを請うことに成功したのが、預言者であるムハンマドだ。
大天使ジブリールに出会い、アッラーフの啓示を受けたとされている。
電気屋で悩んでたら嶋正利さんにCPUの論理設計について教えてもらえた、みたいなものだ。
まあこのへんでやめとくが、この教えてもらった世界の仕組みを書き留めたものが、クルアーン(コーラン)だ。
血なまぐさい話になるのでさらっと流すが、まあ日本でも大覚寺統と持明院統とが大揉めに揉めて南北朝同時成立したりしてたわけだ。
さて、「現実世界」を理解しハックしたのがムハンマドってことは、クルアーンに従って生活するのが良いわけだ。
つまり、本質的に宗教は「現実世界への関わり方」を示していることになる。
(残念ながら注釈でしか読んだことがなく、その美しいアラビア語による原典に触れたことはないが)
世界への関わり方は、時として人によって酷く違った解釈をされることがある。
デヴィット・フィンチャーの「セブン」という映画を観たことがあるだろうか?
キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続猟奇殺人事件と、それを追う刑事達の物語だ。
フィクションでは分が悪いと思うのであれば、エド・ゲインを思い出しても良い。
母親が狂信的なキリスト教信者であり、女性は悪魔だと教わって育ったと言う。
彼らは、その教えを忠実に守り、どちらかと言えば善意からその行為を行っている。
こうした連続殺人を観て、キリスト教信者をなじったり、キリストを風刺するのは、あまり面白いとは言えない。
彼らは、キリスト教信者ではあったかもしれないが、本来の教えとは異なる解釈をした、単なる犯罪者だからだ。
まあ、現代でもキリスト系のパロディー映画には苛烈な抗議文が届いたりするようだが、
過去、キリスト教会に対する風刺や批判は、即刻刑罰の対象になっていた時代が確かにあった。
「聖☆おにいさん」を書いたら暗殺され、それを民衆が支持する時代だ。
これは信教の自由と、表現の自由の、長い戦いの歴史がもたらした冷戦構造でもある。
表現者は、今回のフランスの新聞社への襲撃は、反対の異を唱えるだろう。
端的に言えば「オマエの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」だ。
疎い人ほど、「ムスリムはそういう過激な宗教の人なんでしょ」という理解をする。
また、「その風刺はいかがなものか」と「表現の自由を守る」が、矛盾なく同時に主張できると判らない人も居る。
そうすると、「表現の自由を尊重しない宗教が、テロに走った」と捉えられてしまう。
「表現の自由を守るためには、テロに屈せず、また風刺画を描く」のが正しいと思われてしまう。
人は理屈ではなく感情で行動するので、こうした時に、出来る事はほとんど無い。
淡々と、「その風刺は侮辱なので訴えます」とフランスの法律の範囲内で行動するしかないのだろう。
ブリジット・バルドーは、何度もそうやって訴えられ、フランス司法はキチンと刑罰を下している。
(またフランスはユダヤ人に対する人種的差別には敏感で、割とちょくちょく出版社に罰金刑を出している)
日本人が日本を馬鹿にした出版社を襲撃する事件があれば、その日本人を非難し、襲撃された出版社側に立つだろう。
その後、日本を馬鹿にした出版社の表現の自由を守りつつ、淡々と法律に則って侮辱されたとして訴えるしかない。
今回、欧州の各種ムスリム団体がテロ行為を非難している事は、忘れてはいけないと思う。
Je suis Charlie(私はシャルリー)とつぶやく前に、Je suis Ahmed(私はアフメド)として呟いたムスリムの言葉も聞いて欲しい。
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so.
元記事はこちら。
http://www.bbc.com/news/magazine-30698640
【追記】こちらの訳よりずっと上手い訳が出てたので、そちらのリンクを張っておきます。
http://knagayama.net/blog/2015/01/08/bbc-why-hasnt-japan-banned-child-porn-comics/
【追記終わり】
BBC「何故日本では“児童(チャイルド)ポルノ”漫画を禁止しないのか?」 - Togetterまとめ
(数字)注釈付きの文はよく分からず無理に訳してるので誰か直してくれると嬉しい。
MangaやAnimeとして知られる日本の漫画やアニメは巨大な文化的産業であり世界的にも有名だ。でもその幾つかはショッキングで子供の露骨な性描写を特色としている。何故日本はこうしたものを禁止するのに反対することを決定したのか?
日曜の午後、東京、サンシャインクリエイションは活況だった。何千もの漫画ファン、その多くは男性、は展示センターに群がっていた。部屋の中を歩き回りながらテーブルの上に売り物として並べられたコミックマガジンを熱心に読みふけっていた。エルフ顔でメス鹿のような目のアニメヒロインのポスターの多くは肌もあらわであり得ない程均整が取れて海綿を色とりどりに変えている。(1)
「このエリアは主に性的な創作を扱っています。」とイベント主催者の一人Hideは説明する。
我々は二人のトップレスの少女がカバーに描かれたあるテーブルで足を止めた。私の目には彼女らは13,4歳か9,11歳に見える。ストーリーは彼女らが際どい性行為に及ぶ様を描いている。
他のいくつかの売店は似たような物を売っている。これらはUK、オーストラリア、やカナダでは間違いなく論争を呼び、おそらく違法になるだろう。しかしここでは大した問題ではない。
「児童虐待が良くないことだというのはみんな知っていますよ。」Hideは言う。「でもそういった感情を持つのは自由です。何らかの子供との性的な場面を想像し楽しむことは禁止されていません。」
彼の正直さに私は面食らった。そして彼は「ロリータコンプレックス」を略した「ロリコン」という言葉を私に紹介した。若い少女が性的に露骨な行為に及ぶ様を描いた漫画を意味する。それは近親相姦やレイプ、その他のタブーを含むこともある。Hideの嗜好は高校ロマンスにあるというが。
「私は若い少女の性的な創作が好きなんです。ロリコンは私の数ある趣味の中の1つに過ぎません。」彼は言う。
私は彼にあなたの妻が近くに立ってあなたの「趣味」をどう考えるか尋ねた。
「多分何も問題ないと考えると思います。」彼は返した。「だって彼女は若い少年が性的な行為を成すことが好きですから。」
こうしたものは日本の巨大なマンガ産業 - 年間約36億ドルの売上げ - の極一部である。しかしそれは多くの注目と論争を引きつける。
2014年の7月、衆議院は児童の性的虐待のリアルな映像を所持することを禁じることを可決した。これらの映像の制作と配布1999年から違法であった。しかし日本はOECD中で所持を違法化した最後の国だった。
その頃、漫画、アニメ、ゲームの18歳以下に見えるキャラクターの「ヴァーチャルな」性的映像を違法化する呼びかけもあった。しかし討論を重ねた後、衆議院はこれに反対することを決めた。この決定は児童保護の運動家やNGO、特に日本の外から非難を浴びた。
より理解を深める手がかりとして事実を示すと、Hideは私たちが会ってからたった数分で彼の「趣味」について楽しそうに討議しはじめた。とても幼い子供を含む漫画がある種の社会的烙印を取り付けられているように見えるけども、青春期の若者を含む性的なモノは確かに興味をそそるメインストリームだ。(2)
日本の国会議員は多数 - 潜在的に数百万 - の漫画ファンを犯罪者にすることを明らかに嫌がっている。
Hideの様なファンは主張する。我々は無害なファンタジーを楽しんでいるだけである。いかなる子供のモデルも役者も含まれていない。彼は言う。だから「性的テーマの漫画を創作することは児童虐待ではない。」
東京秋葉原は漫画界の精神的なホームである。ネオンサインとけたたましいポップミュージックが目と耳を圧倒する。高層の書店が街中に並び、太陽の下であらゆるテーマの漫画を販売する。
18歳以上に制限された大人用セクションではジュニアレイプや日本人プレティーンスイートといったタイトルの漫画を探すのは難しくない。
「あるモノに性的興奮した人はそれに慣れます。」ある大人向けストアのカウンター裏で働くTomoは言う。「だから彼らはいつも新しいものを探しているんです。そして若くて未成熟な女性に興奮するようになる。」
これが批評家が心配していることだ。- 性的に露骨な漫画の創作で誰も傷付けられていないとしても、正常化し助長させ、性的虐待のリスクを増大させるかもしれないという懸念だ。
これが真実かどうかは誰にも分からない - 研究は確定的ではない。しかし日本人の多く、特に女性も広く関心を寄せている。彼らは女性の品位を傷付けるような強烈なポルノや若者の性欲化への目を閉ざす社会としてこれらの映像を見ている。
日本では若者の魅惑を探すのに遠くを見る必要はない。若い少女のポップグループが成人男性の集団に向けて演技する。そして看板や広告から漫画までスクールガールの映像はどこにでもある。
Sex in the City, Tokyo風の本で若い女性に人気の作家、Lilyは彼女の学生時代について話す。男が彼女とその友達に近づき、彼女らの靴下やパンティのためにお金を差し出したのだ。
「あれは不快だった。とても変態じみていた。」彼女は言う。思春期の性への魅惑というのは「男が成し遂げたいという力が全てだ。強くて自立した女性が嫌になった男のね。」彼女は主張する。(3)
Lilyの親の時代の家族モデルはまだ日本では強い影響力を持っていた。 - 父親はお金を稼ぎ、母親は主婦として家にとどまる。しかし日本経済の弱体が現実化を困難にした。
「business-wiseで成功しない人達がいる。おそらく彼らはロリコン漫画というファンタジーに出会っている。」(4)
「私は大嫌いだ。本当に大嫌いだ。私はこうした性癖異常を日本から追い出して欲しい。子供達をこうした変態から引き離して欲しい。あなたのファンタジーの中であっても。」
しかし他の人達は政府が何が「良く」て「適切」なのか定まった指針を規定し強制するため関与すること、特にファンタジーという領域に、に懐疑的だ。
「批判的になる理由は十分にある。それはよいことだ。」漫画翻訳家で言論の自由支持者、兼光ダニエル真は言う。「しかし他人が何をし何を考えたかに基づいて他人を捜査する権限を人々に与えるなら、それは思想の取り締まりだ。」
それでは彼は小さな子供やレイプ、近親相姦のようなタブーを描いた漫画の創作者の権利を擁護するのだろうか?
「私はそれらが不快です。でも私には人々がどのように考え共有したいか言う権利はありません。」彼は言う。「他人の人権を侵さない限りはファンタジーライフを送って何が問題なのでしょうか?」
・日本は1999年子供の性的虐待の映像の制作と配布を違法化した。 - UKの21年後である。
・2013年、米国務省は日本を「児童ポルノの制作と取引の国際的なハブになっている」と記述した。
・日本の警察庁は2013年に1644件の法律違反があったと報告した。 - 1999年の法律が強制力を持ってからどの年代よりも多かった。
・2014年7月、日本は児童性的虐待の映像の所持を禁じた。国民は従うまで1年の期間を与えられた。
秋葉原の漫画ショップに囲まれ、児童保護運動家のKazuna Kanajiriはカートゥーンやコミックよりもっと大きな問題があるとある場所に私を連れて行った。メインストリートを抜けて階段を一歩一歩上り、大量のDVDが積まれた部屋に現れた。
Kazunaは棚から1枚引き抜いた。そこにはリアルな少女の映像が描かれていた。彼女が言うには少女は5歳で小さな水着を着せられ、大人のポルノの真似をして扇情的な姿勢でポーズを取っていた。ショップの中にある他の全てのDVDも本物の子供を特色としていた。
「私はこの子供達が気の毒に思う。」Kanajiriは私に告げた。
これら所謂「ジュニアアイドル」DVDは1999年に児童ポルノの制作が違法化されてからポピュラーになってきた。
これらは性器が隠されてさえいればこれらは法律を回避するのだ。しかしKanajiriは言う。7月に法律が強化されて、これらは今は違法となっている。
「搾取する人は適切に裁かれなければならない。」彼女は言う。「法律の下ではこれらは完全に違法だ。しかし警察は取り締まっていない。」
性的な場面で未成年者を特色としたマンガとアニメにおける幾つかのコンテンツはショッキングで注目を掴むものであるかもしれない一方、Kanajiriと私が話した他の運動家は私に告げた。今のところは彼らは現実の子供を保護するためにより重要なバトルにフォーカスするという。
しかし彼女は論争の的であるマンガとアニメを禁止する望みを諦めたわけではないという。
「私は消し去りたい。」彼女は言う。「2020年に日本で夏オリンピックが始まる時、みんなが日本を変態文化と呼ばない国に変えたい。」
それはマンガサポーターが強く拒否するような説明だ。しかしオリンピックが近付けば、外部の目が日本に注意を向け、「奇妙な日本(weird Japan)」より「クールジャパン」としてみんなが見るように、マンガやアニメへの強力な圧力が働くだろう。
(1)Posters of elfin-faced, doe-eyed cartoon heroines, many of them scantily clad and impossibly proportioned, turn the cavernous space into a riot of colour.
(2)Although manga involving very young children does appear to have some social stigma attached to it, sexual material involving adolescents is a fairly mainstream interest.
(3)The fascination with adolescent sexuality is "all about the power that men want to achieve, men who are tired of strong independent women," she argues.
(4)"There are people business-wise who are not successful, maybe they are running into fantasy with Lolicon manga.
これは 物理学 Advent Calendar 2014 の記事です。
僕は blog を持っていないので はてな匿名ダイアリー をお借りします。
しばらく話すうちにおじさんが知りたいのは『ヒッグス粒子そのもの』ではなく
『なぜ研究者はヒッグス粒子発見に大騒ぎしたのか?』なのではないかと気が付きました。
研究者がヒッグス発見に大騒ぎした理由はあまり説明されてなかった気がします。(僕が見逃しただけかもしれません)
なのでちょっと書いてみようというのがこの記事です。今更な話ですみません。
床屋での世間話的ないいかげんな話です。あまり中身はありません。
普段はてなを見ている人なら全部知っている内容かもしれません。あまり期待しないで読んでください。
(あと間違いがあったらすみません)
これから物理の基礎理論が大発展する(かもしれない)からです。
場の理論を聞いたことはあるでしょうか? 量子力学を 相対論+多粒子系 に拡張したものです。
古典力学は量子力学の、量子力学は場の理論の、近似的な理論といえます。
Ruby が C言語で記述されているように、量子力学は(原理的には)場の理論で記述できるべきものです。
C言語が正しくて Ruby が「間違っている」という訳ではないように
場の理論が正しくて量子力学が「間違っている」訳ではありません。ただ、適用できる範囲が違うのです。
さて、量子力学や場の理論がプログラム言語だとしたら、コードは何でしょうか?
実は「ラグランジアン」と呼ばれているものがそれに相当します。
ややこしいのですが「ラグランジアン」も理論と呼ばれています。
素粒子理論の研究者が「理論を作る/改良する」と言ったら、それは大体ラグランジアンの改良を指しています。 (注[1])
素粒子理論の研究者は、世界のあらゆるものを記述できるラグランジアンをつくろうとしています。
[これ]が場の理論で書かれたラグランジアン、標準理論と呼ばれているものです。(ごめんね。良い画像が見つからなかった。)
僕たちの世界で現在わかっている ”ほとんど” 全てを説明することができます。
世界の全てを記述するコードがこんなにシンプルなんて結構びっくりでしょう? そんなことない?
ちなみに一番下の項がヒッグスです。
これまで研究者達は理論の予想と実験結果の違いをヒントに理論を修正してきました。
ところが困った事が起こりました。
実験結果と全部合うなら標準理論が完璧な理論なのか? ・・というとそうではありません。
多くの研究者が現在の標準理論はまだ不完全であると考えています。
まず重力がうまく扱えません。それどころか様々な理由から場の理論そのものが、より基礎的な理論の有効理論(近似的な理論)ではないかと今では考えられています。
理論は不完全なことが分かっているのに、修正するヒントがなくなってしまったという訳です。
そんなわけで標準理論はここ40年ほどあまり変わっていません。
こんな中、標準理論で唯一まだ発見されていないのがヒッグス粒子だったのです。
ヒッグス粒子が発見されてその質量が決まるだけでも大きなヒントになるというわけです。
それはようやく標準理論のバグ取りが可能になるから。実に40年ぶりに。
つまりヒッグス粒子は研究者にとって最後の希望とかそういう・・いや、最後でもないか。
まだLHCに発見してほしいものはいろいろあります。(超対称性粒子とか・・。)
[1] 場の理論や量子力学の修正ではなく、ラグランジアンの修正です。
皆さんも自分のつくったプログラムにバグがあったら C言語のバグではなく、まずは自分の書いたコードのバグを疑いますよね? つまりそういうことです。
物理学 Advent Calendar 2014 を立ち上げ管理してくださった id:tanaka733 さん、 id:aetos382 さんに感謝致します。
皆さんの記事を楽しませていただきました。飛び入り参加ですみません。
お目汚しすみませんでした。
メリークリスマス。良い夢を。
id:allthereiznika わかりやすかった。出来れば参考ページ・書籍も示してくれるともっと良かった。
一般向けの解説書は僕はよく知らないのですが
こんなのが出るみたいですね。目次を読む限り良さそうです。
Chapter2 が標準理論の破れの話ですが、どうも最近の話題が入っているようなのでちょっと差し引いて読んでください。
Chapter3 が標準理論の改良の話(超対称性理論etc) 。 それから上でちょっとでてきましたが、
「場の理論」自体がより基本的な理論の有効理論であると思われています。(より基本的な言語・・アセンブリ言語とでも例えるべきでしょうか?)
アニメ放送中とか後に原作者がツイッターで「実は○○って設定があったんですよ」とか
アニメはアニメ、原作は原作ってスタンスじゃないと原作読む価値がなくなっちゃうし
何より原作者ってこういう人なんだ、へえって原作とアニメに中の人が介入しちゃって
駄目になる。
出版社も止めろよって思う。
たまに今後のネタバレしちゃうサービス精神旺盛な原作者もいて興醒めする。
何が酷いってアニメそっちのけで自分の世界を色々描きまくってアニメで、アニメが表現したかった事に
注釈入れる時点でアニメをリスペクトしてないじゃん、ただ自分の願望書いちゃうなんて2ちゃんねるのSSレベルじゃん
残りの8万円を電気光熱水道代、食費、遊行費、雑費に使いきるとします。
こんなことは賢しい増田の諸兄の糞共にはわかりきった単純な話ですね。
消費税:(80000-420×31)×0.1=(80000-13020)×0.1
= 66980×0.1
≒ 6700
つまり喫煙者は6700+8370=15070円を、毎月、所得税や住民税以外に国に納めているわけです。
果たしてこの国にとって、煙草の煙ごときにキャンキャン騒いでいる糞喧しい嫌煙者の害虫共と、
人知れず黙って粛々と国家に税金を納めている喫煙者のどちらが必要な人間なのでしょうか?
一票の格差などが問題となっている昨今ではありますが、こうした嗜好による納税の格差についても喫煙禁煙論の中に入れて、盛んに議論されてほしいものです。
はあちゅうが雑誌メディアに書いた記事で他人のツイートを利用するさいに、「有名な豆腐のたとえ話がある」としか紹介せずに、元の投稿者の不評を買い、訴訟沙汰にまでなろうとしているらしい。
確認しとくとはあちゅうが自分の文章として発表したから騒動になっているのではなく、引用元を明かさずに利用したから元投稿主とトラブルになっている。
2年前に1万RTされたこの有名なツイートを、「有名なたとえ話」としか紹介していないことについて、元投稿主及びこの騒動を眺めるギャラリーのほぼ全員が不満に思っている。
2つ疑問が湧く。
1.どの程度経過した文章なら「有名な話がある」として受け入れられるのか
「法的な著作権期間が過ぎたら」なんてつまらない回答を聞きたいのではない。有名な話としてブログやtwitterに書いてる文章。出典がどこまで確かめられているのか。ネットで人気のあるエスニックジョークは元作者を確認して出典が記されているのか。元作者が分からなければいつどこで書かれたか分からなくとも有名な話として利用していいのか。最近読んだ新書でも「中国の話として」「韓国の話として」と誰が言い出したか分からないネットで見た話が書かれたりしていたがそれはいいのか。「有名な話」として紹介されることが受け入れられている文章と受け入れられない文章の2つがある。その違いをどうやって読み取ればいいのか。
2.自分のツイートが他人の文章に利用されるときにどこまで許すことができるか。
今回は出典元を書いていない、リンクを貼っていないが許せないとなったわけだが、この許容の度合いは人によって変わるだろう。
②何の注釈もなく利用した
③「有名な話」として利用
④「有名なツイート」として利用
⑦「○○さんのツイート」として利用
上になるほど許せない度が増していくのは誰でもそうだろう。「有名な話」として利用されると作者不在のコピペとして扱われている感じがしていい気はしない。「有名なツイート」だと元ネタがtwitterだと分かっている感じがしてその辺の不快感は低くなる。「1万回もRT~」と修飾文がつくと自分のツイートと特定されていると安心はできる。「あるツイッタラーの~」なんてのになると何で名前伏せるんだ、といい気はしない。ここまで行くなら名前を出せと。WEB記事なら埋め込みタグ使え、と思いつつ、ギチギチと他人の文体に制約をつけるようなことまでは求めない。
週末に美術館に行ってきたら、「香害」というのだろうか、「香水や柔軟剤の香りで気分が悪くなる人がいるから配慮してね」というポスターが貼ってあった。それ自体に異論はないのだが、そこに「化学物質過敏症」の文言があって、ん?となった。しかもごていねいに※印で、「化学物質過敏症を知っていますか」と注釈までついている。
美術館のスタッフに「化学物質過敏症」の人でもいるのかな、と思ったが、よくよく見ると下の方に四角い枠があって「ここに施設名を入力してください」と書いてある。つまり、旗振り役がどこかにいて、公共施設でこういうものを掲示してください、と活動しているということなんだろなーと推測して、そのまま忘れていた。
さっき、はてブのトップにこのエントリが上がっているのを見て、あ、そういえばあのポスターはなんだったんだろう、と思いだしてググったら一発でヒットした。
市かー。市が主体かー。
こういう自治体って結構あるのかな、と調べてみると、2010年現在で50以上というから、いまはもっと多いだろう。
どうやらこれは、患者さん(団体?個人?)がロビー活動を頑張った結果のようで…。
市長ポストへのメール(化学物質過敏症に関する職員周知について) | 出雲市
職員の方に対しての化学物質過敏症の周知について。 | 宜野湾市公式ホームページ
(文章がほぼ同じ)
いや、実際問題、強すぎる香りはだれだって迷惑だと思うんですよ。とくに美術館のような一定時間滞在する施設で、近くにクッサイ人がいたらそりゃイヤですよ。でもそれなら「マナー」だけを焦点にしたって啓発ポスターは作れると思うし、そこにわざわざ賛否ある「化学物質過敏症」を入れなくてもいいでしょ、と思うんだけどね…。自治体の立場からすれば、要望書が届いたら検討せざるを得ないのか…。
ずっとこの問題を追ってる人には当たり前の話なのかもしれないけど、こんな形で「化学物質過敏症」が浸透してるのを初めて知ったぜ。
http://blog2014.h2o-space.com/2014/05/94/
はてなブログとかではないのだが、はてブが60以上付き、facebookやtwitterでもそこそこ拡散されてる。
羅列しただけならまだ良いものの、意味の分からない順番で紹介し、意味の分からない注釈をつけてる。
もし仮に、これらのコマンドを知らない人が見たとしたら、ここに書いてあることは何一つ理解できやしないし、
一体何の場面で行うコマンドで、何を行うコマンドなのか、全く理解できない。
何が「参考になります」なのか?
ほんと、小一時間問い詰めたい所。
「子供が真似する」って、じゃあ人を殴ったり殺したりするマンガは批判されないの?
「良い・悪いの判別がわかりづらいような描写をしたのがマズイ」のなら、その判断基準ってあるの?
未成年が飲酒してる描写の枠外に「※20歳未満の飲酒はダメだよ!」みたいな記述があるのはよく見るが、
人殺した描写に「※人を殺したら殺人罪だよ!」なんて注釈見たこと無い。
ってなことをグチグチ書いてたら、何となく落とし所が見つかった。
別にフィクションなら、違法合法関係なく何書いてもいいんだよ。
ただし、アニメや漫画の外で遵法精神や正しい知識を得ることが重要だってこと。
極端に言えばフィクションの中には「正しい情報」はひとつもない、ってことを知らせるべきだと思う。
そーすりゃ「漫画で知った」という言葉は「ソースは2ちゃんねる」程度の信頼度しか持たなくなる。
義務教育でやれ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/shikisha.hatenablog.com/entry/2014/04/09/170536
ブコメで日本の文化が、とかモッタイナイ精神とか言及してる人が複数いたのと、個人的に気になってたトピックだったので
「食事を残すのがマナー違反なのは日本だけなのか?」とネットを軽く漁ってみた。
で、見つけたのが以下のフォーラム。
http://forum.wordreference.com/showthread.php?t=385127
「アメリカでは食事を残すのは無作法なの?」という質問から始まったスレッド。
質問主はアメリカの事情を聞いてるけど、「他の国からの意見もどうぞ!」となってて
いろんな国の人がうちの国では…を回答してる。
・アメリカ以外でも多くの国で「自分でよそった食事を手をつけずに残す」のは無作法との回答
・やはりじいちゃんばあちゃん世代はどの国でも「残さず食え」というしつけだったようだ
・お腹がすいてないとかこれ以上食べられないときは断ろう、ただし礼儀正しく、という回答もある
・いわゆる「世界には食べたくても食べられない子供が…」式の説教はどこの国でもあるらしい
・なにがなんでも全部食べるべき!という回答はない。逆に、いくらでも残すぜ!という回答もない。当たり前か。
質問主の想定が「他人の家に招かれた際に食べ残すのは」だったため、
多くの回答はホスト(招いた人)への気遣いや、逆に自分がホストになった場合を想定してのものだった。
とりあえずの結論としては、「食べ物を残してはいけない」という文化は別に日本だけのものじゃない。
多かれ少なかれ、どこの国にもある感覚だと思ってもいいんじゃないだろうか。
ただし、このフォーラムを見ててちょっと興味深いことがあったんで以下はそれについて書く。
スレッドの最後のほうで、アメリカ在住(?)の日本人らしき人の書き込みがある。
田舎で育ったというこの人は、子供のころ学校で食事を残さないよう強制された思い出を語っている。
食べ終えるまで帰れなかった母親世代ほどではないが、と注釈を入れた上で、
ニンジンが大嫌いでこっそり捨てていた同級生の話、ティッシュに包んで持ち帰っていた子の話などが続く。
自分が興味を引かれたのは、食べ残すことに「罪悪感がある(feel guilty)」という言葉。
このスレッドで罪悪感という単語を出したのは、この日本人らしき書き込み主だけだった。
食べ物を無駄にする(wasting food)ことについてさえ、言及してる人は他に二人だけ(ドイツ人とアメリカ人)。
ほとんどの回答者はホストへの気遣いは理由にしても、食べ物を無駄にすることを理由には挙げない。
これは食物を貴重とする日本の価値観によるものであり、道元はその理由を
食べ物を粗末にするのは罪悪感を感じる、だから残さない、というのは、
もしかすると日本的な(他国にもあるにはあるが)価値観なのかもしれない。
他にももうひとつ、罪悪感を感じる原因は明らかに学校教育にもあるだろう。
食事を残す、と言われて日本人ならすぐ思い浮かぶのは給食での光景だ。
日本では、家庭で行われるような「しつけ」をある程度学校がしている状況がある。
給食を残さないことを過剰に強制されるのも、食べ物を残すことへの罪悪感から来ているのかもしれない。
日本人らしき書き込み主は、アメリカの大学での経験も語っている。
学食で多くの生徒が食べもしない料理を皿に盛って、そのまま捨てていたこと。
用意された多くの食べ物が廃棄されることに、書き込み主はいつも罪悪感を感じていたという。
彼(彼女)が感じていた罪悪感は、学食を作ってくれた料理人へのものだろうか?
かつて学校で教えられてきたことに反する行いへのものだろうか?
「お百姓さん(←差別語)が汗水垂らして作ってくれたお米を…」式の説教は、
農家の人のほうが実際には大量の野菜だの米だの捨ててるよ、とか現実を言ったところで
彼(彼女)の罪悪感が減るわけではないだろう。
たとえ機械で大量生産されたファストフードでも、厳しく怖い教師がいない場であっても、
多くの日本人は食べ物を残すということに罪悪感を感じるのかもしれない。
個人的に、食べられないものを強制的に食べさせるのはよくないと思う。
アレルギーや体質的な問題で食べられない人もいるということが広まっているのもいいことだ。
追記:id:showgotch(技術教師)さんご本人から、元増田記事を書かれたのは別人であるというご連絡を頂きました。当初、誤った推定でこの記事を書いていたために、showgotchさんに不要なご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
なお、元増田記事が投稿された日、showgotchさんはお誕生会を開かれていたそうです。そして、せっかくのお誕生会から帰ってこられたときに、自分が元増田記事を書いたと思われたことを「不愉快」に感じられたそうです。それを含めて、元増田記事の投稿者だと勘違いしたことをお詫びします。そして、お誕生日おめでとうございます。
以上:追記おわり
コウモリ(Rlee1984)です。ご質問を頂いたので、お返事いたします。
①技術教師のid:showgotchさんが、こういうブログを書かれる。
→ http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20140228/1393606968
②コウモリ(Rlee1984)について書かれている部分があるので、そのブログにコメントする。
③コメント欄で幾つか話す。
④id:showgotchさんの記事とコメントを見た誰か(不明)が増田に、無リンクでの投稿をされる。
→ http://anond.hatelabo.jp/20140302105919
A、該当記事のリンクは上記の通りです。念のため、以下にも再掲します。
B、元増田記事での引用から抜けている部分を以下に引用します。
C、元増田記事に対して、返答が必要と思しき箇所のみ簡潔にご返答いたします。
①引用元のブログ記事と自分のアカウントを隠蔽し、リンクも貼らず、任意のコメント欄だけを抜いた形での増田投稿による文脈操作は、良くないと感じます。
②繰り返しになりますが、僕は個人攻撃やマウント合戦には興味がありません。ブログ記事でご返答すべきものがあるとは思えないこと・増田でご意見を頂いたことから、この場を借りてお返事さしあげる次第です。
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20140228/1393606968
『ちきりん氏の科学教育論もそろそろ幕引きで』 id:showgotchさんのブログ記事
showgotchさんが、記事内で僕(コウモリ・id:Rlee1984)について触れた部分を引用します。
なんか高卒ニートがそんなトラウマからか、調べて頑張ってる様子だったのだけれど限界が見えているので細くしておこう。それよりニートに屑とか言っちゃダメだよ増田。
Id:Rlee1984の主張は、経済を勉強した学生によくありがちな「ハイ論破」のつもりで結局平面上を右往左往してる議論にしかかなってない。
トレードオフの話を取り出してくれたのは自分で落とし穴掘ったようなもので、結局つめこみvsゆとりの構造から脱却できてないわけでしょ?ぜんぜん脱構築もアウフヘーベンもしてないじゃん。系統学習か経験学習か、と言われれば両方横断するのが一番なのである。僕の好きなメタファの一つに「デールの円錐」と言うものがある。~略~
分けて返答するのが困難なため、元増田記事とshowgotchさんの記事を同一意見とみて返答しています。
指導要領では、「系統vs経験を乗り越えて」、「ゆとりか詰め込みかを乗り越えて」、というお題目がセットになるものです。
それを引きの視点で見て分類した話をしています。(僕の記事の注釈で分かるかと思いますが、言葉の範囲を拡大して分類整理に使っています)
たしかに企業による利益誘導は問題ですが、『学者や教師以外は外野』と言ってしまうのは極端です。
教育は社会の基幹であり、この社会に暮らす万人が広く意見を述べる権利があると思います。
対応発言:元増田の『より学問や科学知に近いスキームを得られるようにした方がいい』
対応発言:元記事の『学校で行われている教育は100年の改善を積み重ねて来た等しく必要な教育』
対応発言:元増田の『100年の積み重ねがある教育を~中略~必要とはいえなくても不必要とは言えない。』
対応発言:元記事の『その二つは同一平面じゃない。円錐の一番上としたなのですよ。』
これを受けて、平面ではない具体的な制度論としての「提案」を求めておりました。『幕引き』とタイトルで仰られていたからです。そのため、次の発言は意味が分かりません。
また話を広げようとされているので、収束が面倒なのですが;
ICT教育への期待(教育効果の可視化)と、弊害への心配(教育目標の矮小化)については、ツイッター上の発言部分をご参照ください。
→http://twilog.org/1984lee このツイログから検索すれば、見つかるかと思います。
ここで多元的評価(羅生門アプローチ)についても話しています。
僕の記事では、「学習指導要領の変遷くらい眺めてから記事を書かれてはどうですか」と申し上げました。系統vs経験は、ざっと眺めれば素人でもすぐに見つけられる用語です。そして伝えやすさのため、他のベクトルを含む用語を一旦わきに置いて絞り込んだ説明をしています。徒に自分の知っている専門用語をばら撒くのはマウント目的と判断されやすいからです。相互の記事における、固有名と専門用語の数を計算してみれば分かるかと思います。僕はコメニウス、デューイ、ブルーナーの名前すら出していません。また、ICT教育の語も用いておりません。
そのように評価される教育関連の方もいらっしゃるのだ、と受け止めさせて頂きます。
また何かありましたら、よろしくお願いいたします。
ただ今後は、「相互の理解を深める」「生産性ある見識を広める」こと以外を目的としているように思える場合には、返答しないことがあります。ご了承ください。
それと同時に、「クソプログラマがどのように地雷を踏むか」を大体イメージ出来る。
これがくせ者。
プログラマがある程度の経験を積むと、大抵はチームリーダーを任命される。
チーム全体を技術面で見ないといけなくなる。
基本設計をしている時、クソプログラマでも実装出来るように詳細設計までしないといけない。
「詳細設計は実装者に任せよう!というか詳細設計書は後でツールで吐き出そう!」とかぬるいことは言っていられない。
なぜなら、クソプログラマはツールの使い方すら知らないし、そもそもロジックを考えられないからだ。
つまり、
1して、
2して、
3します。
1して、
→1.2ほげの状態にする、
2して、
→2.1ほげを取得して、
→2.3ほげをふがに保存し、
→2.4ほげをする、
3する。
→3.1を取得し、
→3.3ほげをする。
こんなことばかりをしていると、
■オレが作れば1時間で出来るのにー!
■ここの比較で地雷踏みそうだから、注釈書かないといけないけど、なんでこんなことのために毎回100文字くらい説明を記述しなきゃいけないんじゃー!普通に考えれば分かるだろー!でも書かなきゃ地雷踏むよ絶対ー!
■クソコードしか書かないくせに、高学歴だからって偉そうなんじゃー!オブラートに包んで指摘したら「重要視されている!オレは出来るやつだ!」みたいに勘違いしやがってー!
ってなる。
疲れる。
そして定年を迎える。
要は、1年中クソプログラマのお守りをしてるなんてまっぴらごめんなわけ。
だから、クソプログラマを管理しなくていいポストに行こうとする。
(間接的には管理するけど、直接じゃない分まだマシ。)