「リンク元」を含む日記 RSS

はてなキーワード: リンク元とは

2024-02-26

ワルシャワアタック

自分運営しているWebサイト最近ポーランドからアクセスが激増しており、お?ついにグローバルデビューか?広告料ウハウハやと浮かれてたが、リンク元サイトはどこだろうと思って調べたら単なるスパムだった。

世界中で発生しているらしい。

泣きたい。

2024-02-24

久しぶりに騙された。

ちょっとグレーなものを探してたら、プレアカじゃないとダウンロードができないファイルを見つけて、登録してダウンロードしたらパスかかってやんの。

リンク元サイト見たらパス記載がないから騙しサイトでしたね。また一つ傷を負ってしまった。こうして人は強くなっていく。

2023-11-23

ニンゲンって複雑だということを思い知らせてくれる人の話

もうだいぶ昔に出会った人がいる。

出会ったと言ってもネット上での話だ。

私は当時(そして今も)自分webサイト文章を載せていて、そういう個人文章が読めるサイトを紹介するリンク集に参加していた。

ある日サイトリファラ自分サイトの閲覧者がどこからリンクをたどってきたか見ることができる解析)を眺めていたら、見知らぬサイトからリンクされていることに気づいた。

そのリンク元を読むと、あちらの管理人テキストサイトをやっており、私のサイトを「たまたまリンク集から見つけて読んだ。面白かった」と紹介してくれていた。

どんな人がほめてくれたのだろうと管理人日記を読んでみると、その人柄や日々をつづった文体面白く、すっかりファンになってしまった私は定期的にその日記を読むようになっていた。

日々の仕事の苦労や家族とのやり取り、子どもたちの成長、そして家族の死。

全くあったこともない人物の日々・人生日記で追うようになるとは思わなかった。

その間約15年。

自分が常駐しているSNSで私のことをフォローしてくれている人が「その日記サイト管理人であることに気づくのには少々時間がかかった。

日記から想像していた人物SNS発言している人物が全く重ならなかったからだ。

何をきっかけに気づいたのか思い出せない。住んでいる地域が同じだったことか?

とにかく、決定的に「このひとだ!」と思えたわけではなく「もしかして……このひとはあのひとでは?」ぐらいの気づきだった。

そう思ってから日々の発言をさかのぼっていくとどんどん疑惑確信に変わっていく。

そもそも、よく見れば名前が同じじゃないか。間違いなかった。

SNSでは相互フォローではあったものの、発言は私の意見と合わないものも多く「なんだかなあ」と思っていた。

さらに「このひと=あのひと」とわかってから読むと、あの家族構成であの経験をしている人がこんなこと言うか!?と驚いてしまうほど差別的だったり、私とはあまりに違う考え方で、本来だったらミュートしたりフォローを外したりしたいところだ。

だけど、このひとはあのひとだから

人間っていろんな面があるんだな。ひとりひとりに、矛盾した数々の思いや考えが乗っかっているものなんだな。私と一部の考え方は合わないが、長年見続けてきた”このひと”の愛すべき部分も私はたくさん知っているのだ。ニンゲンはなんと複雑なんだ。そしてそこが面白いのだと思えた。

そんな当たり前のようなことに初めて気づかせてくれた人なのである

2023-08-27

anond:20230827182800

自分で書くのが面倒くさいか自分が見てきた景色感想とほぼ同じことを丁寧に書いてるリンク元拾っただけで、こう思うに至った原体験ネットじゃなくて実体験なんでな

多分誰しも似たような経験があるんだろう

ネットで真実しちゃう年頃だから他人もそうだと思い込んじゃったのかな?

anond:20230827175827

うーん

なんか仰々しく難しい言葉使って書いてるけど

ネットでこんなやつを見た!」程度のことしか書いてなくない

リンク元含め

2023-08-10

anond:20230810114856

フェミお気持ちに任せて意味不明の長文を書く傾向にあるのでAIに要約させた。リンク元も読ませてある。

ミソジニー連呼する高齢オタクエビデンスのかけらもない独りよがり論理だということがわかると思う。AIはこう指摘する。

AIのほうが説得力あるね。

2022-03-28

pixivで、訪問済みリンクの色が勝手に未訪問に戻ってしまうんだが…

全て戻るんじゃなくてランダムに戻る

キャッシュの削除などはしていない。ブラウザvivaldi

何が原因なんだろうか。リンク元に何か改変が入ってて更新された状態になってるから…とかあるかな?

ほんと困る

「この小説読んだ筈だけど未訪問になってる…読み直すか…」ってのが無限に起きる

pixiv課金してるから閲覧履歴は見られるんだけど、確かに読んである筈の作品履歴が残っていないんだよね

それも謎

あ…考えてみればブラウザ履歴は削除してないから、それで探せば出てくるかな

まあ、根本的な問題は「絶対これ読んでるんだけど結末覚えてない」っていう自分の脳の方なんだけどね…

気持ちいから結局再読することになるんだよね

2021-11-17

anond:20211117233235

香西かつ介(ノート / 履歴 / ログ / リンク元

ブログを開設しツイッターでも積極的につぶやいている方ですが、その割にあまり継続的メディアに取り上げられている様子がなさそうです。2021年衆院選政策アンケートは第49回衆議院議員総選挙立候補者全員を対象としているので特筆性根拠にすべきものではありませんし、過去炎上したことがありますがこれも特筆性根拠になりません。選挙立候補しては落選を繰り返す人物でも羽柴秀吉又吉イエス後藤輝樹などは結構メディアに取り上げられているので、同列にはならないでしょう。

過去4回にわたり共産党から国政選挙立候補している点で特筆性があるのかどうかということですが、当選したわけでもなく、上記のように継続的メディアに取り上げられているわけでもなさそうなので特筆性がないものと考えます

ケースE「百科事典記載するほどの著名性・特筆性がない記事

(削除)依頼者票。--Muyo(会話) 2021年11月13日 (土) 15:18 (UTC)

削除 依頼者に同意。現時点では党関係者として、何らかの特筆性がある人物とは思えない。--Sercioranndoss(会話) 2021年11月15日 (月) 04:25 (UTC)

削除 現時点では選挙立候補しただけの人であり、政治家としての特筆性選挙出馬しているという一事をもって特筆性保証されるわけではありません。以前の募金に関する炎上案件で私も名前だけは知っていましたがそれを持って第三者言及があるとはならないでしょう。ケースEとして削除に同意します。--Naga-r-juna(会話) 2021年11月17日 (水) 01:34 (UTC)

Wikipedia:削除依頼/香西かつ介 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E9%A6%99%E8%A5%BF%E3%81%8B%E3%81%A4%E4%BB%8B

2020-09-09

大手2社のVtuberにじさんじ、ホロライブ)への誹謗中傷通報窓口の違い

2022/2/15 追記

カバー株式会社ホームページを久しぶりに確認したら、コンタクトページから通報ページまでの導線が用意されていた。

いつ更新されたかはわからないが、きちんとなっていてよかった。

いちから株式会社にじさんじ

URL

https://www.ichikara.co.jp/report/

リンク元

お問い合わせで「一般の方」を選ぶと通報ページのリンクが表示される

その他

必須項目には「必須」と書かれている

(2020/09/10 追記電話番号入力欄が電話番号のものになっている

(2020/09/10 追記個人情報の利用目的記載されている。

 ただし、魚拓存在しないためリリース当初から記載されているかはわからない。

カバー株式会社(ホロライブ

URL

https://cover-corp.com/report/

リンク元

Twitterのツイート現在の固定ツイート

(2020/09/12 修正ホームページ該当のNEWSページ記載されているURLを手動で入力する

 ブラウザPDFファイルを表示する仕組みのため、通報窓口のURLクリックしても反応しない。

 元のPDFファイルURLクリックすれば通報窓口ページへ移動するが、そもそも元のファイル確認する手段ブラウザ開発者ツール機能以外に無い。

その他

上記リンク元つぶやきで「誹謗中傷専用窓口」という謎の文言を使っている(通報ページ自体には「誹謗中傷行為に対する通報窓口」と書かれている)

入力項目に謎の「*」マーク存在する(おそらく必須項目なのだろうが説明が一切無い。このページだけではなくお問い合わせページも同様)

(2020/09/10 追記電話番号入力欄が数値扱いになっておりマイナス値を入力できる。

 電話番号入力対応していないブラウザを想定してあえて数値扱いにしている可能性もあるが、電話番号入力欄のブラウザ対応状況を見る限りIE10以降は対応しているため関係なさそう。

(2020/09/10 追記)当初は以下の文章個人情報の利用目的)が記載されていなかったが、現在記載されている。

送信いただいた個人情報は、通報に対する調査、詳細確認、ご返答(なお、ご返答を確約するものではございません。)の目的で利用させていただきます

魚拓https://megalodon.jp/2020-0909-0234-28/https://cover-corp.com:443/report/

感想

何も対策をとらないよりは遥かに良いと思うが、カバーは本当に誹謗中傷通報連絡を受ける気があるのだろうか。

固定ツイートを変えた場合Twitterから通報ページが辿れなくなると思うのだが、このまま永遠に固定ツイートを変えないのだろうか。

そもそも現状でもホームページNEWSページを見て手動で入力するか、Twitterリンクからでないと辿れないのはどうかと思うが)

幾度もコンプライアンス強化に努めると会社から声明が出されている以上、1人のVtuberファンとしてできることはその言葉を信じて今後の改善に期待するぐらいしかありません。

安心して各社のVtuber活動できる・ファンVtuber応援できる状況になることを願っています

更新履歴

2020/09/10ブックマークで指摘があった個人情報の利用目的と、コメントで指摘があった電話番号入力欄について追記

2020/09/11:「疑問」を「感想」に変更。今後の改善に期待する文章追記

2020/09/12カバー通報窓口についてNEWSページでURLクリックすると移動できると誤認していたので修正

2020-04-12

anond:20200412050802

文中にでてるじゃん諮問委員会だって

何月何日何省の何々会議によばれた諮問委員までわかれば、

全員議事録の表紙とか議事録pdfリンク元あたりに名前かいてあるから判明するだろ

あんまりデータに当たる読解力がない点ではおまえも西浦先生の敵そっくりだぞ

2020-01-21

パパ活ママ記事に毎回釣られるブクマカ

出会い系アフィリエイター妄想記事に釣られるのはやめよう※

ホッテントリに上がるパパ活ママ記事は9割以上被リンク目的としたスパム記事です※

以下、note釣り記事一覧

note釣り記事一覧

関連記事

2019-11-04

JA福島電算センター

昭和ホームページ

http://www.ja-fcenter.co.jp/

・「JA福島電算センターホームページ」へのリンクは、原則フリーです。

・事前の連絡は必要ありませんが、リンクを行った場合は、*****@ja-fcenter.co.jpまで、連絡先、責任者リンク元のURLをご連絡ください。

リンク元のホームページの内容が法令公序良俗に反する場合などにはリンク削除をお願いすることがありますので、あらかじめご了承ください。

2018-08-09

2002年 リンク許可問題日弁連は「あまり深く考えていなかった」

日弁連が「リンク」の方針を転換 ネット掲示板での反発に

2002年06月17日 18時51分更新

https://ascii.jp/elem/000/000/331/331641/

日弁連1996年9月ウェブサイトを開設している。その中に掲げられているサイト使用条件で、同会はリンク許可条件として「下記事項を承認し遵守していただくことを条件とします」とし、(1)リンクサイトURL管理者の住所、氏名、電話番号メールアドレス日弁連に事前に報告すること(2)リンクサイトに対する第三者から損害賠償、苦情その他いかなる請求についても、日本弁護士連合会責任を負わない(3)公序良俗に反するもの法律などに違反違反するおそれがある内容を含むもの、その他日弁連不適切判断したものについてはリンクを断る――などを条件として掲げていた。

リンク許可問題日弁連は「あまり深く考えていなかった」

2002年07月02日 14時30分更新

https://ascii.jp/elem/000/000/331/331957/

この問題は、日弁連ウェブサイトリンク許可条件として、リンクサイト管理者実名電話番号を同会に事前報告することや、「日弁連不適切判断したもの」へのリンクを断るなど、きわめて厳しい内容を掲げていたものだ。これに対してネット掲示板などを中心に「リンク制限表現の自由侵害ではないか」といった批判が集中。日弁連6月13日ウェブサイト上の使用条件の文章を「当HPへのリンクは、原則として自由です」と改め、実名電話番号などの要求撤回していた。

リンク自由」は、古くて新しい問題だ。他のサイトからリンクを張ることはいわゆる「参照」の範囲内で、著作権侵害には当たらないと考える専門家は多い。リンクをたどる場合ユーザーが直接リンク先へのアクセスをたどっているのであり、コピーされたコンテンツを見ているわけではないからだ。またリンク先のウェブサイトはもともと公開されているもので、「リンクを張られることを快く思わないのであれば、そもそもWWW上にコンテンツを公開すべきではない」と指摘する専門家もいる。

昔、このような話題があったらしい。

インターネットで全世界に公開した情報原則自由利用だと思うが。

一体なんの権利があって、厳しいリンク条件をつけていたのか。

(2)のリンクサイトに対する第三者から損害賠償等に対して責任は負えないという部分はまっとうである

マルチ商法まがいのとある業者ウェブサイト上で、自社の合法性を証明するため、同会のウェブ上の文書引用する形でリンクを張っていた。これにどう対応するか。インターネットに詳しい弁護士にも相談するなどした結果、リンク許可条件を掲示した方がよいのでは、という結論になったという。各地の弁護士会のウェブサイトを参考にし、その中でももっとも厳しい内容となっていた第一東京弁護士会のものを流用。

きっかけはこれだったそうだ。

しかしどうにも違和感がある。

マルチ商法まがいの事をするような悪徳業者が、法的な根拠のないリンク条件を守るのだろうか。

それに相手悪徳業者であっても法律を正しく語る権利はあるはずである。もちろん法律を歪曲解釈してはいけない。そこはリンク問題とは別ではないか

仮に、法律が悪くそれを悪徳業者引用して欲しくないならそれは法律が悪いのであって、法律改正すべきではないだろうか。もちろんそのような政治活動日弁連業務とは見なし難いとは思うが。

東北大の後藤助教授によると次の通りらしい。

私見によれば、リンクからんで起きるトラブルの大部分は、リンクのものではなく、リンク周辺の文章表現などに起因する。

これを見るとやはり、厳しいリンク許可条件はずれているように感じる。

2018-06-14

最近SEO対策と言われても

スマートフォン用に作られてるか(AMPとかUIとか)

・表示速度は速いか

・被リンク元価値の高いか

サイトの信用性は高いか

訪問者が価値のあるサイトだと思えてるか

みたいな曖昧なところばかりでキーワード増やしただけで上位狙えたザルSEOって感じじゃないよね

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット Permalink | 記事への反応(1) | 03:05

2017-12-06

【解消済ぽい】12月6日(水)午後 はてブWEBページが反映遅れのように見える件

他に言及している人が見当たらないので、おま環だったら運営さんごめんなさい。

 →ブコメでお三方から同様であるコメント確認(16:29) 運営通報

 →18:20頃、解消した模様 リアクションいただいた方ありがとうございました。

 

PCchrome/Win7会社LAN)・MacX(野良回線))から

 WEBブクマページを閲覧すると新しいブクマが表示されない。

androidアプリから閲覧するとリアルタイムで新しいブクマも表示されている。

 

 15:35 気づいた

 16:37 未解消

 17:37 未解消 本エントリWEB表示上「0users」、実態は「24users」

 18:40 解消 目視確認ブコメによると18:20頃)

 

確認サンプル)15:45確認

 「漢数字アラビア数字に代えると何もかも台無しになる」

 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20171206133030

 ・WEBブクマページを見ると「6users」、

  同じくWEBで「AQMのブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/AQM/bookmarkで見ると「6users」

 ・スマホで見ると「21users」

 ・WEBホッテントリお気に入りTL等のリンク元では「21users」で表示

 ・WEBブコメ書き込んだらandroidアプリで反映確認WEBは「6users」のまま

 ・WEBで「AQMのブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/AQM/bookmarkで見ると「6users」のまま

 ・先日の更新処理遅延に似てる感じ

 

障害メンテナンス情報 - はてな

 https://www.hatena.ne.jp/maintenance

 ・情報なし 15:45

 

(追)(はてなブックマーク開発ブログ

 はてなブックマークコメントブックマーク数の反映が遅延する障害が発生しています(復旧済み)

 http://bookmark.hatenastaff.com/entry/2017/12/06/181341

 障害情報じゃなくて開発者ブログに載るのか・・・

 

(関連)

 https://anond.hatelabo.jp/20171206164800

 https://anond.hatelabo.jp/20171206165324

 https://anond.hatelabo.jp/20171206170539

 

みなさんはどうですか。

2017-11-26

留学前 告白

初めまして。今高校3年の男です。

私は来年4月からアメリカに約4年ほど(少なくともアメリカ大学卒業するまで)行く予定なのですが、今好きな人がいます

その人は今高校2年で女子校に通っています

小学校の頃から知ってて、しばらく連絡を取っていなかったのですが、最近縁があって取り始めるようになりました。

それでクリスマスの少し前に二人で会う約束しました。

彼女彼氏はいたことがなく、今好きな人もいないと言う事らしいのですが、彼女自身はとても魅力に溢れている人で、私とは不釣り合いな人なのですが、私としては、留学前に好きだと言うことは伝えたいのです。可能なら付き合えたらいいのですが。

そこでみなさんに訊ねたいのですが、皆さんなら私と同じ状況に立った場合、その人に告白しますか?しませんか?またするのであればいつしたほうがいいのかも教えてください。

乱文ですみません

もし答えたいけど情報が足りないと言うのであれば言ってください。

よろしくお願いします。

リンク元URL (http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2017/1124/827818.htm)

2017-11-08

anond:20171108124141

調整能力があるなら、特に何か言う事はない。

問題リンク元エントリー賛同しまくってる、調整能力ゼロプログラマだよ。

自分無能を棚に上げて溜飲を下げる奴らがあんなにいるなんて、そんなんだからソフトが軽視されるんじゃねーの。

とても一緒に稼げる相手じゃねーもん。

2017-10-12

Googleにデコイを食わせろ!

「よろしい、ならば戦争だ」

Google検索と戦う方法を紹介します。

デコイ

デコイ(英: decoy)は、狩猟で囮に使う鳥の模型。これが元来の意味である

デコイ英語: decoy、Military dummy、囮とも)は、敵を欺瞞して本物の目標と誤認させる目的で展開する装備の総称

ネガティブSEO

リバースSEO」や「ネガティブSEO」とも呼ばれる逆SEO

逆SEOとは、特定サイト検索順位を下落させること

Matt Cutts氏が指摘するように、順位を下げるために付けたリンクが、期待とは正反対順位を上げる手助けをしてしまうこともあり得なくはありませんね。

リンクされているサイトではなく、リンク元サイトスパムかどうか判断していることをGoogleゲイリー・イリェーシュ氏がMarketing Landポッドキャストで明らかにしています

この説明にもネガティブSEOの具体例をあげて解説していることからペンギンアップデートネガティブSEO対策に力を入れていることがうかがえます

方針

  1. ネガティブSEOではなく、ポジティブSEO採用する。
  2. ポジティブSEOデコイを大量に投下する。

あなたプログラマーではない場合(手動)

  1. あなた名前を付けたブログTwitterアカウントを作る。(例:はてな次郎のダイエット日記
  2. 質の良い情報必要なので、趣味や特技を活かしたテーマ記事を書く。(例:スムージーオリジナルレシピを紹介)
  3. 業界有名人積極的メッセージを送る。(例:料理家・平野レミさんのちくわストローで飲むティスムージーレシピ感想を送る) https://twitter.com/Remi_Hirano/status/759208574694359044

 

目的は「はてな次郎」の文字列自分管理して、インターネット上に増やすこと。

 

  1. ブログ記事動画にして、YouTubeにアップする。(YouTuberビデオブログ
  2. ブログ記事書籍にする。(例:Amazon KindleAmazonオンデマンド印刷本)
  3. 書籍オーディオブックにする。(例:Amazon Audible

 

目的は「はてな次郎」の文字列を爆発的に増やすこと。

 

セルフプロデュースセルフブランディングするのがポジティブSEO王道です。

現在、「はてな次郎」をGoogle検索したら1万件ヒットする場合セルフブランディングした情報が3万件ヒットするぐらいを目指してください。

はてな次郎」に関する誤情報が、検索結果の10ページ以下に沈めばとりあえず成功です。

あなたプログラマー場合自動

はてな次郎」という文字列インターネット上で増殖させる作業を、手動ではなく自動で行うことも可能です。

 

  1. クローラー」を作り、Web上のデータ収集する。
  2. AI自然言語処理データを加工する。
  3. 加工したデータをもとにポータルサイトを作る。

 

(例)有名人応援するファンサイトを作り、各ページのタイトルやヘッダーに「はてな次郎」の文字列を入れる。

  1. Amazon商品データスクレイピングして、本=著者、CD歌手DVD監督俳優人物データベース作成する。
  2. その人に関する情報スクレイピングする。(DBディアAPI、あのひと検索スパイシーを参考にする)
  3. 日本語英語日本語の往復翻訳をするなどして、オリジナルデータを少し改変する。
  4. 人物に関するデータから、その人物の三行紹介を作成する。(マルコフ連鎖圧縮新聞のような記事を生成する) http://pha.hateblo.jp/entry/20071124/1195904502
  5. 自分が好きな歌手女優なら、自分で紹介記事を書いても良いです。(手動の作業も加えてOK

 

このような方法で、100万ページ程度のWebサイト自動的に作れます

データや加工方法を変えて、さらWebサイトを作れば「はてな次郎」の文字列インターネット上に1億個以上投下することも可能です。

いいね工場

アメリカ大統領選挙ロシア情報操作を行っていたと言われている「ロシアゲート事件」を参考にして、SNSデコイをばらまくことも可能です。

  1. 安いスマートフォンSIMカードを大量に用意する。
  2. SNS操作する専用アプリを作る。(DeployGateやTranspoterPadのようなデプロイツールを利用)
  3. はてな次郎」の情報自分で作ったブログWebサイトSNSアカウントなど)を拡散したり、いいねを送る。

 

ユーザー陳情を受付けないGoogle傲慢ですね?

やりたい放題のGoogleをブッ飛ばすには、プログラミング有効です。

頑張ってください。

 

追記

記事仮名が変更されたので本記事仮名も変更しました。(はてな次郎)

 

補足:

はてな次郎」の文字列自分管理

自分が書いた投稿なら、必要に応じて(自分権限で)表示/非表示を切り替えられるので管理上都合が良い、という意味です。

2017-01-31

晒し同盟観察日記

夢小説という二次創作に暗い影を落とす匿名掲示板 晒し同盟というものを知りました。

好きなサイトさんの閉鎖の原因になったものがどのようなものかを知りたく思い、数日「適当晒し」板を数か月オチりました。

まず自己紹介をさせていただきます

好きなサイトさんが晒しにより閉鎖されてしまったため、どういったロジック個人妄想小説暴言を吐いているのだろうと

気になったため、上記サイトを観察していました。

私が好きなサイトさんは、設定が一部住人から気に食わない、おかしいと揶揄されていたことがわかりました。

その後、おとりサイト作成し、晒し同盟からアクセスしてきた端末番号とIPアドレスの取得を継続して行っております

1スレ100レスまでできるうちの半数近くおとりサイトへの言及で、ずいぶん盛り上がって住人達アクセスしたものかと思われます

1日目:220アクセス

2日目:137アクセス

3日目:36アクセス

4日目:9アクセス

5日目:3アクセス

上記のような結果となりました。

単純にアクセスだけをカウントしており、一日に何度アクセスしても加算しています

ここから言えることは、晒し同盟はかなりの過疎掲示板であることが予想されます

同じような調査を二年ほど前に2ちゃんねる夢小説アンチスレ実験した結果はこれより多かったと記憶しております

2ちゃんねるは凸禁止晒しダメだったはずです。それでも2ちゃんねるの半分以下のアクセスであり、

正直に申し上げるとごくごく少数の人が批判をしているだけであり、恐れる必要があるのかというレベルの規模だと考えています

次に、晒し同盟を眺めていて気付いた事などを列挙したいと思います

主に、住人たちが信じる同人ルールを守らない人たちのサイトURLを貼って住人達暴言を書きこんでいるように見えます

IDが出ないので、オチ先を叩きたいならそう言う雰囲気自分で作り上げてしまえば真偽を検討するほど脳味噌が足りてない住人達書き込み鵜呑みにして個人サイトを叩きに行っているようです。

オチスレとの大きな違いは、「オチ先凸禁止」というルールがなく感情のまま叩きたい→叩くが成立してしまう、頭を抱えるほど程度の低い掲示板であると感じました。

そこから感じたことを数点仮説として書き記しておきたいと思いました。

同人ルールを守らない人に対して、何をしてもいいというゆがんだ正義感からきているのでは

適当晒し板 789より引用

http://w.z-z.jp/thbbs.cgi?id=sayonara00&th=11991&style=1&name3=&num=all

31:28

それからTwitterサイトURLをのせていらっしゃいます検索避け意味がなくなってしまますし、原作者様、公式関係者様や二次創作が苦手な方の目に留まる可能性もありマナー違反になってしまますサイトURLは載せないほうが良いかと思います

テンプレのくだりは省くけどこれ送ったよ

これの答えが>>28だよ

わかりづらい文章だったかなぁ…

1/30 2:35

スレをさかのぼってみるとよくわかるのですが、31は晒されたサイトメールフォームなどの連絡手段にて

忠告(と31ならびに住人は考えている)を行ったものと思われます

個人的に、この論理適用するならば鍵なしでエロ同人を巻き散らかす、いわゆる男性向け同人BLなども等しく晒さないのはおかしいと思いました。

の子がやってるならいいじゃん、と言いたいわけではなく、なぜ、夢だけを叩くのかという単純な疑問です。

それは、特に公平さを求めていない私怨感情が赴くままにしているだけのことであること、晒した住人は夢サイト管理人であり、夢界隈のみが視界に入るのではないかと考えましたが、

まだ確証を得ることが難しい項目であるため、引き続き観察を続けたいと思います

年齢制限のある小説パスなしで公開しても晒しているようです。

適当晒し板 789より引用

http://w.z-z.jp/thbbs.cgi?id=sayonara00&th=11991&style=1&name3=&num=all

21:無名さん

>>20

>R18内容が多いですがパスワード特に設けていませんので、閲覧は自己責任でお願いいたします。

こういうバカは閲覧は自己責任大好きだな

閲覧は自己責任使いたいならパス付けて注意書するなり隔離するなりしてからだろうが

1/29 22:12

住人らが信じる同人ルールをよっぽど守っていない、鍵なしでエロ絵やホモ絵ホモツイを垂れ流す腐や、鍵なしでエロ絵を垂れ流す男性に守れと、

守らないなら晒されてもしょうがないと言えないのは単純に相手の数が多く、逆に叩かれるのがわかっているからではないのでしょうか。

個人サイトというある種の閉鎖空間になりうる場所を狙って晒して叩いてるのではないかと思いました。

確かに、原作者の目に触れるのはまずい。それはわかります

じゃあもっとツイッターとかでキャンペーン等して建設的な方法同人ルールの徹底を喚起するのが良いのでは?と思いました。

同人ルールをしっかり守っていきたい住人達は、アニメ漫画作品名検索すると上位10件以内にピクシブ二次創作が出てくる現状には何か言わないのかなと思います

からこそサイト運営している神たちに言いたいのは、こんな人生の程度の低い人間に何を言われてもスルーが一番だと思います

誹謗中傷メッセージ来た時って、安全から石を投げられたときみたいに怖くて、悲しくて、今まで楽しかったことが嘘みたいに不安になってしまうと思います

実験動物を見る気持ちで見ていましたが、おとりサイトメールフォーム暴言が来た時には確かに顔の見えない暴言は、とても恐ろしく感じました。

ですが、冒頭に書いたアクセスの状況を見ていただくとわかるとおり非常に少数の人が、自分が正しいと思うルールを守らない、たまたま自分の視界に入ったもの

安全から嫌がらせをする非常に程度の低い掲示板です。

そのような掲示板の住人に何を言われても、羽虫が喚いているくらいにしか聞こえないと考えるのが良いと思いました。

・どうしても辛いけど続けたいって人はプロパイ通報おすすめします。

過去自分サイトにて起きたトラブルにどのように対応たかを書いておきます

やり方は以下の通りです。

IPアドレス解析ツール(個人的にはFC2おすすめ)を導入します。

ipひろば」さん →http://www.iphiroba.jp/

でとりあえずIP検索してみましょう。

ここで、プロパイダというものがわかります

プロパイダとは、ソフバン英雄など、ネットを繋ぐとき契約している会社のことです。

ここに、通報窓口や、お客様窓口がありますので、そちらに

個人趣味サイト誹謗中傷メッセージをしてくるユーザー御社プロパイダを利用している。何らかの対処希望する」旨を送ります

私も過去二回ほどしました。

一人は非常にしつこくつきまとっていたため、どうやらプロパイ強制解約になったようです。

二人目は一度の警告で収まったのでプロパイダ解約まで至らなかったようです。

一度で収まった原因はきっと、ipひろばさんで検索したとき端末識別番号が出たのですが

その端末が法人のみ契約する端末から書き込みだったためかと思います

こんなふうに、ある程度効果が見込める場合もあります。ですが担当者プロパイダによってはスルーされてしまうこともあるようです。

そこまでひどくない場合は、IPアドレスを取得できるメールフォームのみ設置、拍手ボタンのみ設置し、通報だけいつでもできる形にしておくのも良いと思います

何かしら反論してやっつけてやりたい、という気持ちもわかります。腹立って悲しくて、自分が頑張って書いた大好きなキャラクター小説をこんなふうに貶して、

こいつら絶対地獄におとしてやりたい、と思われるかと思います

ですが住人達日常で寂しい人生を送っているのでしょう、構われると嬉しそうに反応してきてしまます

リンク元リファラもクソコメも、気にせずにやるというのも手です。やはり一番は構わないことだと思います

人達燃えるも冷めるのも一瞬だとアクセス数証明しています

最後になりますが、晒し荒らしに反応するということはガソリンをまいているようなものだと思います

反応の中にはリファラ禁止が含まれます。数か月オチっていた感覚で言うと、晒し同盟においては逆効果だと思われます

忠告に見せかけたルール押し付けも、サーバ規約違反は確かに対応必要かもしれませんが、サーバ規約違反サイトが消されようがロックがかかろうが、

住人たちにどうこう言われる筋合いはありません。サーバ管理会社サイト運営者の問題です。

端末番号でのアクセスブロックは、粘着して荒らしてくる相手が一人だった時に効果的です。判別方法は地道なログ監視必要になります

IPでのブロックはあまり意味が無いと思いますIPアドレス簡単に変えることができてしまうので。

本日までのオチ結果については以上になります。それではまた。

2017-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20170116122337

リンク元読んできたけど、そいつが言ってるのは「日本の据え置き」ゲーム進化が止まったってことじゃない?

増田が例に挙げてるゲームほとんど洋ゲーじゃん。対してリンク元が挙げてるゲーム洋ゲーはない。

洋ゲーをしない勢にとってのゲームっていうのは、日本の、据え置きゲームっていう意味洋ゲーはそもそも視野に入ってない。

洋ゲーも含めれば、ゲーム進化は進んでいるけど、日本ゲーム限定すれば完全に取り残されているし、もはや切り捨てる勢いじゃん。

日本ソーシャルゲームに移行しちゃったし。日本の据え置きゲームはとうの昔に見限られた分野だと思っていたんだが、増田日本ゲームにまだ未来があると思っているの?

2016-08-18

http://anond.hatelabo.jp/20160818143034

このトラバがまさに増田が終わってる象徴存在

 

昔の増田なら

 

これのこと?

リンク元

 

って自分で調べて答え出してきたのにソースはお前が用意しろ精神ゴミしかいなくなった

そんなカスソース提示したところで意味のない難癖が飛んでくるのは目に見えてる

ツイッターでいうとクソリプってやつ?不自然すぎる論点ずらしが開始される

そもそもお前自体判断する能力欠けてるスペックなのにソース求めてどうすんのっていう

マジで要らんわ

ネットの低年齢化捗る

 

んでこれにまともな反論せずに真っ赤なトーマスになって人格攻撃チェンジするのが今の増田の第二形態、お言葉ですが既に自重を支えているか

次の25件>
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん