はてなキーワード: ソロとは
日時:2014年6月28日(土) 18時30分開演(第2回公演)
入場無料だが、ハガキによる事前応募・抽選制である。つまり私の個人情報は防衛省に把握されたw
原題は「シェルタリング・スカイ」。
同名の映画があるが、特にそれとは関係ない模様。ちなみに映画の方の音楽は坂本龍一氏の担当で、ゴールデングローブ賞受賞らしいので、今度聞いてみようと思う。
曲は終始穏やかで、オーボエの澄んだ音色とトランペットの柔らかな音が印象的だった。
「オリエント急行」「ドラゴンの年」「ハーレクイン(ユーフォニアム独奏曲)」などで有名なスパークの曲ということで楽しみにしていた。期待通りのスパーク節を、厳選された編成の音楽隊が見事に演奏した。
これ以上吹くと崩れる、というギリギリのところで荒ぶるホルンの音が、吹奏楽サウンドのホルンで、とても気に入った。
トランペットは途中で舞台裏で演奏するのだが、舞台裏から聞こえるフレーズとしては相当難易度が高く、スパーク先生鬼だ……と思った。
パーカッションは、上手からひな壇にかけてかぎかっこの“「”字状に配置されていたが、上手手前に「パチン」と打ち合わせる楽器(名前が分からない……スラップスティック?)、上手奥にタンバリン、上手中央にスネアと、結構離れているのに終始揺るぎないリズムを刻んでいて安心して聴けた。
ロビーでも放送で流れたのは、カフェで休憩中の身にはありがたかった。
1部はウィンド・オーケストラ編成、2部は大編成のシンフォニック・バンド編成とのことだった。
これも期待していた曲。上手に吹くととてもカッコイイ。
曲目紹介で、1964年の東京オリンピック、そして先日の国立競技場での編隊飛行の話があった。「F-86F」「T-4」とちゃんと紹介するあたり、ニヤッとしてしまった。
演奏は文句なかったが、特にトリオのサックスが美しかった。そしてドラムセット!どこまで譜面に書いてあって、どこまでアドリブなんだろう。普通の曲ならアドリブだろうと思うのだが、なにしろ斎藤高順「航空中央音楽隊第4代隊長」の作である。一音一音忠実に……なんてことも???
服部克久氏の息子の服部隆之氏の曲。「機動戦艦ナデシコ」「半沢直樹」「ルーズヴェルト・ゲーム」など劇伴の分野を中心に活躍されている方が、航空自衛隊50周年(つまり10年前の2004年)に委嘱により作曲したもの。
トゥッティの音圧と、それに負けないツインスネアドラム。迫力のある曲だった。
この曲は、航空自衛隊60周年記念で募集した作品の中から選ばれた、コンサート・マーチ。
東京藝術大学トロンボーン専攻で首席で卒業、入隊1年3ヵ月の田中裕香さんの曲。
この曲も60周年記念。こちらは歩ける行進曲。
国立音楽大学卒のトランペット奏者で、北部航空音楽隊所属の和田信さんの曲。
トリオがEuphの旋律(対旋律ではなく)で始まるのが意外だった。
曲自体は弱起で始まり、装飾的な動きや音量差も多く、歩くのに向いているかどうか……
二人は曲目紹介でそれぞれマイクを握ったが、ちゃんと階級を名乗るのか、と思った。
一般の方で「○○会社課長の△△です」という機会はそんなにないと思う。
航空自衛官の16階級中、2等空曹は12番目、空士長は14番目である。ちなみに航空中央音楽隊長で指揮の水科克夫さんは2等空佐、4番目である。
「春になって、王達が戦いに出るに及んで」を知っていたので、期待していた。
複雑な拍子の曲で、非常に難易度が高い。「危険な空でぶつかり合う2つの対立した力を表現」とあるが、まさにそんな感じだった。
アメリカ軍のことは全く知らないのだが、第564戦略空軍司令部軍楽隊の委嘱による作曲と聞いて「564」という数に驚いた。
アンコール1曲目は「一旦地上に降りて(水科克夫さん)」ふるさと。
ここで、楽団のメンバー紹介が行われたが、北部、中部、西武、南西の各音楽隊からのメンバーが想像以上に多くて驚いた。
アンコール2曲目は空に戻って。
おそらく音楽会最後の曲として定番になっているのだろう、公式の行進曲。
やや大きなシンフォニック・バンド編成になった第2部だが、野暮ったく分厚くなることはなく、高いレベルの合奏による心地よいサウンドが維持されていた。木管の弱奏の際に一瞬、弦?と思うような、ふわりとした音が鳴った瞬間があった。
この日の空は荒れ模様だったが、ホールの中は澄んだ、濁りのない吹奏楽サウンドで満たされていた(すみだ、だけに)。
2007年12月9日、syrup16gはNHKホールで解散を発表した。
”一旦終了”という五十嵐隆のMC、無言のキタダマキと中畑大樹。何を言っているんだ、という困惑がホールを包み、
公式ホームページに記載された”syrup16gは解散します。"の一行。
新曲はあるものの音源のリリースもなく、活動は年に数度のライブのみ。
"DEAD CAN DANCE"、"END ROLL"など、終わりを冠した公演タイトルを繰り返し、確かにその解散を予見していなかったわけではない。
それでも「終わってしまうんだ」という漠然とした思いが形として発表され、帰り道は落胆と悲しみの声に包まれた。
そして2008年3月1日、syrup16gは日本武道館満員のオーディエンスの中、解散した。
代表曲、最近のライブでは聞けなかった曲、この日のための新曲とライブは続き、五十嵐は”1曲1曲を葬っているような気がした”と語った。
"明日はない、終わってしまうけど、明日が見える曲を書いてきました。"の言葉から続く、客電を全開にした"Reborn"が終わり、
ライブ前の客席から叫ばれ続けていた「やめないでくれ、終わらないでくれ」の言葉は、
syrup16gは完結した。
同年秋、「犬が吠える」と称した五十嵐隆のソロ・プロジェクトが開始された。解散したバンドのフロントマンがソロ活動を始めるのは珍しいことではない。
リキッドルームのライブツアー、冬フェス参加。再活動に予定調和的なものを覚えさせながらも、五十嵐隆の声とメロディ、
ポストロックバンドのメンバーを引き入れたこれまでに無い楽曲の形は、syrup16gファンに新たな門出を思わせるのに充分だった。
一枚のリリースの無いにもかかわらず音楽雑誌・MUSICAの表紙を飾り、歌詞、デモCDのレコーディング風景が掲載され、
そこに新しい五十嵐の出発、syrup16g解散の理由、新しい決意を見ることができた。
解散理由等も一切不明。リリースどころかデモCDの完成・未完成すら不明のままバンドは解散。
五十嵐隆はダメ人間を自称し、楽曲の中ですらそれを隠そうともしなかった。
ファンは再びの活動終了に放り出されながらも、「五十嵐だから仕方がない」と呆れながらも笑っていた部分も多かったように思う。
2013年5月8日、「五十嵐隆 生還」と銘打たれた公演が行われた。
再びのソロ名義活動。一曲目、syrup16g・解散ライブのラストに演奏された"Reborn"が終わり、暗幕の向こうに浮かぶシルエット。
幕が上がるとそこに居たのはキタダマキ、中畑大樹。元・syrup16gのメンバー2人だった。NHKホールのオーディエンスは万感の歓声に包まれた。
披露された楽曲は半分近くがsyrup16gの楽曲であったものの、音源にならなかった犬が吠える時代の曲、また書き下ろしの新曲も多数演奏され、
一夜限りの復活、五十嵐隆・再びの「再出発」に「昔のメンバーが集ってくれた」という物語は胸を打つものがあった。
新たな活動形態についての告知はなかったものの、夢の様な一夜を過ごし、
更にこれからおそらくゆっくりではあろうものの、再び彼の声の楽曲が聞けるのだと期待に胸を膨らませていた。
はあああああああああああああああああああ???????ふざけんじゃねえよてめえお前あれだけあれで終わりです終わりです言ってたじゃねえかよ俺がどんな思いでNHKホールのチケットとって無数の女連れのクソガキ共とメンヘラポージング女とそのナンパ野郎の列掻き分けて耐えに耐えてボロボロ泣きながら一旦終了のMCの前後で記憶がなくて会場出てから何やったのかも覚えてなくてなんかアウトロで終わってしまうを連発してた翌日思い出してまた泣いて3月1日武道館の告知読んで膝ガクガク震えさせながらなんとか家について2ch邦楽グループ板で頭のおかしい長文だらだら書いては消して書いては消してリロードのたび湧いてくる阿鼻叫喚に酒ダラダラこぼしてうんうん唸ってどうしようどうしようとりあえずチケット取らなきゃ看取らないと絶対後悔するって先行申し込んで落ちて二次先行申し込んで落ちて一般でなんとか取って全然見えねえ席からありがとうありがとうってドラムのお兄さ~ん叫んでるババアの2つ隣でこの女次叫んだらマジで殺してやるって睨みつけても止まらねえから鞄でぶっ叩いて頼むから黙ってくれと涙と鼻水でぐしょぐしょになっていただろう30過ぎのオッサンの剣幕にようやくわかってくれた間にも次の曲が始まっていてああ新曲でも拍n数間違えて五十嵐はやっぱりダメだなあ次はああ次はって次はねえんだよちくしょうって考え始めたらまた胸がこみ上げてきてしゃくりあげると曲が聞けないから息をできるだけ止めて涙がたまると舞台が見えないから下瞼ひっぱってボロボロこぼれるようにして明日は来ませんねって五十嵐が中畑とキタダがSonic Disorderのイントロで見合ってるところとか神のカルマのリズムが早くてキタダがなんか言ってるだろうこととかああこういうのももう見れねえんだ終わっちゃうんだ終わっちゃうんだって一曲一曲すぎるたびに拍手もできなくなって座り込んでしまってでも座り込むと見えないからすぐ立ってバカの一つ覚えみたいに拍手していままでのライブは観客が壁みたいで怖かったっていうから最後は本当に盛りあがろうって盛り上がろうって思って他の観客たちも絶対それがわかっててバラードなのに腕上げちゃったりちょっと早い曲だからオールパイプ椅子だってのにアリーナはモッシュっぽい変な動きしててああ本当になんで終わっちゃうんだってもっとこういうふうにすればよかったのにってそうしてればもっと聞けたのにもっとライブ行けたのにって楽しいはずなのいどんどん悲しくなって客電がついてRebornが終わって三人出てきて手繋いで五十嵐が真ん中はいやいやってお前そりゃねえだろ俺はお前たちを見に来ていてsyrup16gはやっぱりお前のバンドなんだからってサポートメンバーだったはずのキタダマキがラストアルバムでメイン2人との空白がなくなってるなんてそんなどうでもいいことで嬉しくなって手繋いでお辞儀してああこの光景が見れてよかったなって絶対忘れないようにしようありがとう五十嵐隆ありがとう中畑大樹ありがとうキタダマキありがとうって片っ端から電話して酒のんでいいライブだったいいバンドだったいい最後だったねってなんだよ完全に葬式じゃねえか心の準備ついたじゃねえかって明日が見える曲を書いたからってそこまで思い入れなかった翌日とかループで延々聞いちゃってああ本当にいい時間だったよさよならシロップありがとうって2chに書きこんで思い出すたびにやっぱり泣けてきて今更復活します♪テヘ♪だの元サポートメンバーとか対バン経験アレたちの超嬉しい!待ってた♪だの解散後にファンになったので嬉しいです♪のガキも業界人どものずっとお伝えしたかったです~♪もねェェェェェェェェェェェェェェェェだろお前ほんとふざけんなよどこまで人をコケにすれば気がすむんだよこのクソバンドは!!!!!!!!!!!!!!!!
みんな『SAY YES』だの『YAH YAH YAH』だの、大喜利のネタがいかにもありきたり。確かに『SAY YES』とか『僕はこの瞳で嘘をつく』は汎用性高いけど。
ということでファン歴5年(つまりほぼ新参だけど)の俺が、ASKAの曲の中で、薬物疑惑と絡めて聴くと味わい深い曲を紹介します。
自分達を犯罪者になぞらえて、もう後戻りは出来ない、俺たちはひとつに結ばれちまってるぜ、このまま進もうぜーと歌い上げる。
今聞くともう、薬物中毒でありながらCHAGEandASKAにとってなくてはならない存在であるASKAが、CHAGEや事務所の人間に語りかけてるようにしか聞こえない。
もう出だしが良い。
びくびくするな 顔を変えるな
何もなかった そのままでいい
誰も思わない 聴かれもしない
すべてを認めるな
今まさにこんな感じなんじゃないんですかねえ。
これに続く、
手抜かりは掃いて捨てるほど
あるにはあったさ
それでもここまで潜り抜けてきたさ
サビの
とか、CHAGEや事務所の人間が今聞いたらどんな気分になるんだろうと思う。
とりあえず俺は本当にこれぐらい開き直ってほしいと思ってる。
一番目のサビはそうでもないんだけど、
二番目のサビがいい。
Nothing will ever change. We are the ONE
俺たちの鐘の音がどこかで鳴るはずだ
Cracking open the cage. Close to the line
俺たちはひとつ名で結ばれちまってるよ
ケージ(直球)
開けるんですか。
いや、実際にはあけられないんだけど。クラックっていうか多分ただの保釈だけど。
そして、それに続くフレーズがこの曲で一番強烈だと思う。
だってまあ、CHAGEandASKAだもんね……J-WALKとかラッツと違うもんね……ふたりの名前堂々と載せたんだもんね……。
Ah みんなこっちだよ 素敵なとこだよ
出だしド直球
Ah みんなこっちだよ 他人同士さ
汗の出所と来た。
結局は尿でしたけどね。
楽しんだ人が勝ちです 怒った人が負けです
(略)
口を汚すケーキのようなもんだよ
納得する人は少ないかもしれないけど、この曲、何か詞の調子が『パラダイス銀河』とかの頃に戻ってる。変な敬語で。
これを歌ってる光GENJIとかアリだと思いますがどうでしょうか。
で、サビ。
みんなで行こう 仲良しこよしで行こう
裸足で行こう 行こう 行こう
何にそんなうきうきしてるんですかねえ。
この曲、詞がシニカルな分、メロディをポップにしたとASKAは語ってたんだけど、もう残念なぐらいマッチしてる。
そのピークがやはりこのサビ。
極めつけはCメロ
刺激好きですジャパニーズ
ブレーキなかったんだね(悲嘆)
一部週刊誌では渡英したときに薬物を覚えたとされてたけど、この『ONE』こそはASKAのソロアルバム唯一のロンドンレコーディング。
本場でキメてはしゃいでたんですかね。
と。こんな感じで、将来きっと『夢の中へ』に並ぶことになる名ネタ曲だと思う。
最後に言っておくと、
ASKAの詞はだいたい、クスリ決めながら書いたとか言われても仕方ないぶっ飛び方のものが多い(実際キメて書いてたの曲があるのか、それがどれなのかはもちろんわからん)。
コード進行も笑えるぐらい複雑だし。
薬物騒動を面白がってる初心者はどれ聴いてもげらげら笑えるはず。
まあそういう奴らを全員殺してやりたいけど今は我慢してやる。
他に味わい深い曲を聴きたいやつは、
『kicks』に入ってる薬物について直接言及してる『kicks street』を抑えるといい。
後は、最近の曲である『いろんな人が歌ってきたように』とか『birth』を聴けば良い。
2000年代後半以降のASKAは輪廻転生だとかめぐりあわせだとか宗教じみた思想を取り入れた末に、「すべては愛なんだ、君も認めたっていいだろう」と繰り返す地獄に踏み込んでた。
新卒3年目の子が大型契約をあげて社長にご褒美の高級レストランに連れてってもらってるのを、SNSで共有されてるのを見て感じたこと。
彼はたった1つの契約で自分の年収を遙かに凌駕する利益を会社に落としたわけだが、もらえる給料は変わらない。
(ボーナスの際に多少考慮されるけど、うちの会社の査定では変わっても数万程度だ)
社長は当然嬉しいだろう。
それは容易に理解できる。
日々頑張って仕事をこなし成果を出した。会社に貢献して褒められ、周りのメンバーからは称賛される。その点に満足をしなければならない。
小利口にも、これだけの利益をあげたのだからあれくらいのお金がもらえてしかるべきだ、とソロバンをはじき始めたら不幸になる。
つまるところ人生を楽しむとは、そのおかれている状況に満足できるかどうかで、足るを知るということなのだろう。
余談になるが、近しい親戚には会社を創業し成功させて、うん億円のキャッシュをもってる者もいるが、はっきり言って幸せそうには見えない。
まぁその、幸せそうに見えるという感覚すらも僕の裁量であり、本人は案外幸せなのかもしれないが。
これなにも、独立というリスクをとっていない被雇用者と雇用者の違いだとか、デービーカパーフィールド方式のちゃちな話をしたいわけじゃないんだぜ。
civBG(『シドマイヤーズ シヴィライゼーション:ボードゲーム』の略称。日本語版公式サイトはこちら:http://hobbyjapan.co.jp/civ/)において「自分が勝つ可能性は消えたが、他の誰かを勝てなくさせることは出来る」という状況がしばしば発生するのは、プレー経験がある方なら大抵同意して貰えるものと思う。
実際には大小様々な例があるが、最も典型的かつ極端で、かつ厄介なのは以下のような状況だろう。
A,B,C,Dの4人で対戦。
Aは軍備を放棄して経済勝利一直線。手に入れた文化も全て活版印刷でコインに変換し、文化カードも一切引かないという戦略を採る。
それを見たBがAの勝利を阻止すべく、Bの首都に軍隊を差し向ける。
ところがAは一切軍備を行わず、他のプレーヤーCとDに「このまま私は一切軍備をしない。でもこのままだと私の首都が落とされて我々は全員敗北する。それが嫌なら私を全力で支援しろ」と要請する。
何もしないとCとDは負けてしまうので、仕方なくAに文化カードや資源を送り続けて支援する。
その結果、支援が足りて耐えたために全力疾走したお陰でAが経済勝利した。
A「わーい!勝ったー!」
いや、少し質問を変えよう。「CとDにとって、このゲームは楽しいだろうか?」
.
自分がAを支援すればBが勝てなくなりAが勝つ。支援しなければAが勝てなくなりBが勝つ。
また、支援しようがしまいが、全力疾走しているAより早く勝利条件を達成するのは困難であり、自分は勝てない。
出来ることは、ただ「敗者が誰になるかを選ぶ」だけである(この場合は、結果として勝者も選んでいるが)。
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この問題はかなり根深い。少なくとも
という条件がある限り、この状況は容易には覆らないように思える。
勿論「そういう自分勝手なのは禁止な!」という紳士協定を結ぶ、などといった対策が出来ないことはない。
しかし、このゲームは大なり小なり「他人は放置して全力疾走したほうが早い」という側面があるため、結局は程度問題となり、根本的な解決にはならない。
全員が他人を放置して全力疾走すればいい?それも一案だ。しかしそれではただのソロプレー合戦になってしまう。対人戦での醍醐味である、他人とのインタラクションが激減してしまう。
一体どうすればいいのだろうか?
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ここで筆者が提案するのは「チーム戦の導入」である。
これだけで、前述したような「敗者選択」をさせられることはなくなる。
Aとチームを組むCは全力で支援するのが自らの勝利に繋がるので意味がある(※1)し、Dは当然Aを支援しない(むしろBを支援する)。
また、チームを跨いだ交渉が無くなってしまうかというと、そうでもないだろう。条件次第では取引は成立し得る(※2)。
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「敗者選択」しか出来なくなってプレーを続ける時間は、私は楽しくないと思う。
ただでさえ1ゲームが長時間になりがちなcivBGでは尚更である。
もし、敗者選択に辟易した方がいるのであれば、この「チーム戦」のアイデアを導入してみることを提案する。
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※1:「サポートプレーを強制されるのは楽しくない!」という意見もあろうかと思うが、それはチームとして同意を取ればいい話であって、もしチームとして同意を取れないような相手が一緒に卓を囲んでいるのであれば、多分チーム戦をやろうが個人戦をやろうがこの問題は回避出来ない。
※2:そもそも、普段は「全員が敵」という条件下でも取引が成立しているわけで、チーム戦になったらからといっていきなり「有り得ない選択肢」に成り下がるわけではないだろう(優先度は落ちるかも知れないが)。
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追記:誤解の余地があったようなので補足。冒頭の例において、Aは「交渉の余地が無いプレーヤー」だとする。すなわち、交渉材料には「自身の敗北回避」しか出さず、自身の勝利を遅くする交渉には一切応じないプレーヤーだとする。
「胸が大きくていいことなんてない...」(Facebook)
「Fってだけで目が変わる…」(Facebook)
これはわかりやすいし男性も反応しにくいと思うけど、ほんとに巨乳が悩みな人は絶対にFBなんかに書かない。
あと、だいたい「悩み」とか言うやつはEカップぐらいだったりして言うほど巨乳じゃねーから、って思う。
オープンな巨乳キャラでセクシーな写真なんかも躊躇なくのせつつでも「ほらご褒美だぞ〜」的なノリでやってる人も、ない。
Twitterとかニコ生とか、シラン人相手にやるならまだわかるけど、身内で「私はそのへんも理解した上で求められてるのでやってるだけです?」
みたいな人、それに反応(冷静なツッコミ含む)してる男はその女と同じくらい引く。
だれかの投稿へのコメントでさりげなくアピールしてきたりするぞ。
「○○ちゃんほんとかわいい♡」(インスタ)
湘南で2人で自撮りして、明らかに友人は変な顔に写っちゃってるのに
だいたい投稿者はその友人よりも下がって小顔を演出しているので要チェック。
上級者はこれにその友人をタグ付けしてくる。地獄。シラン人でもその友人らしき人のことを思うと辛い。
もっと上級者は対面式でごはんを食べているときに自分よりブスの友人をソロで撮って(しかもピースまでさせて…)投稿。
「かわいこちゃん♡シラス♡青空♡私はほんとにハッピー♡」(FB)
あと全然関係ないけど、ご飯食べてるってことをSNSに投稿するときに皿を持ち上げて自分と一緒に写真を撮るやつすごいキモい。
人口十数万~数十万規模の都市の人間のうちのどうしようもない者は、己の場所こそ田舎であると盲信し、都市のインテリへの幻想に勝手にあこがれて、都市のこじらせた人間がネトウヨになるかわりに共産趣味者になり、都市の大学院に進学を希望するスタンスだけとり田舎のカルチャースクールを軽視し、文化相対主義を充分に習ったはずなのにそれを理解せず発展主義的な単一的文化構成に拘泥し、たとえばAKBを批判しソロアイドルを礼賛し、また一方で方言や雑煮の話題には飛び付き自分の地域の特徴を得意げに開陳し、とにかく読んだ本の感想をすぐ言い、募金とスポーツとを倦厭し、フェティシズムになりきらないフェティシズムを持ち、「ドS、ドM」という実際的によくわからないカテゴライズの牢獄に囚われ、プロ野球は槇原斉藤のあたりで知識が途切れ、小説は綿谷りさのあたりで知識が途切れ、昔習った対して覚えていない人文科学系の単語を頻繁に弄し、手帳を変えたことをtwitterで報告する。
※2014/04/05追記
南米諸国に行ってきましたが、ウユニ塩湖(ボリビア)に興味がある人に私が得たいくつかの情報を提供しようと思う。
(個人的な体験談ですので、同意しない方もいらっしゃると思います。。)
取り急ぎ、そんな感じでしょうか。
ロンダ組がまともな結果なんて出さねーからだろうが、アホかお前は?
全く研究も何もしないの研究室に在籍だけするのはとても迷惑なんだよ。
だから、東大でもいいけど、もう、就職専用コースつくってやろうか?って教授たちが冗談で言ってるよ。
就職専門コースは研究室に所属させない、授業だけで単位上げる。授業料200万。
博士に進む、もしくは就職するにしてもきっちり研究を行ってその後その道の就職など、いずれにしろ研究をきっちり行う場合は
ただし、お情けで修論を認めたりはしない。
お前みたいなクソロンダがしゅうかつーとかほざいてたら絶対修了できないような(今でも本来修了できるレベルのやつはほとんどいないが)システムにする。
その楽器では超有名な協奏曲なのに、スコアとソロパート譜、ピアノ伴奏譜くらいしか出回っていない曲が少なからずあるらしい。
プロのサックス奏者をオケに招いて一曲やるとすれば、ほぼ確実にグラズノフかイベールになると思うんだけど、どっちも肝心のオケ用パート譜が売ってないとか、どう考えてもあり得ない。
だってこれを演奏するために、昔なら写譜屋にお金を払ってパート譜を作ってもらい、今だったらスコアを紙からスキャンするなり電子書籍で購入したものを、楽譜作成ソフトにぶち込んでパート譜を自動生成するという作業を、世界中のオケがいちいちやっていることになるわけで。
正直バカじゃねーのと思わずにいられない。
さっき友達の友達がライブやるから見に来てっていわれて、初めてライブハウスにいってきた。
受付でドリンク代500円払って薄暗がりの中、入った。
客はみんなバンドの誰かの知り合いみたいな人っぽかったけど20人弱ぐらいいて、しばらく待ってたら照明が落ちて始まった。
結構みんな演奏上手い!ドラムのソロから始まってギターもバッキングとか上手くて、ライブハウスってもっとうるさいイメージがあったけど結構聞けてちょっとびっくりした。
しばらくインストみたいな感じでやったあと、主役登場的な感じでボーカルが脇から出てきた。
「えぃっ!」とか「うわぁお!」とかいってリズムに乗りながら歌が始まったらすごい下手過ぎて唖然。
ちょっと音が高くなると音程外れる上に声が細くなって凄い酷い。
え?なんでこんな人がボーカル?って感じながら30分ぐらいの演奏が終わった。
演奏の人たちはプロみたいにうまいのに、なんであんな人が?って思ってボーっとしてると次のバンドが始まった。
このバンドは最初からボーカルが歌いだしたけどこれも超下手、ハードロックみたいな曲だったけど声よく聞こえないし音程外しまくりで気分悪くなったからドリンク頼まないで出てきた。
たまたまこの人たちが下手だったのか?それとも私の耳がおかしいのか?うまい人でもライブになると上手い人でも下手に聞こえるのか?
2人連続で途中退出したくなるほどの下手さ。自分はチケット代は払ってないからいいけどチケット代払ってこんなの聞かされたらげんなりだろうな~。
小保方の擁護に関しては俺も動く
男なら守ってやるしかないよ
具体的には普段はいがみ合ってるハテナ民と連絡を取り合い、短期のコミュニティを立ち上げる
最大派閥のNo2、No3
ハテナ民には有名な、サービス開始以来一日も欠かさずブクマし続けているという勇者
お気にいられが200人いる人望の持ち主
仕事辞めてハテブに入り浸っている奴
他に挙げたらきりが無いが、そうそうたるメンバーで総勢30人を超えた
守れない奴は、もはやいないだろうという最強集団だ。
全盛期の矢口すら守り切れる自信がある。
ハテナ村では皇帝、四天王、10傑(俺含む)、3本柱などの超一流だ
なによりも強いのは、全員ネットでの監視をぶっ通しで何日も可能だ。
はっきり言って、俺らが声を掛ければ増田の半数以上が動くだろう
四天王の連中はFacebook、Twitterにも顔が利く。
協力して全員で死守したらさすがにイチャモン付けられないだろう
主題の結論からいうと、新垣隆を擁護して、かわいそう、あの人は良い先生なんだ、きっとこれから彼は見直されるとかいってる連中。
日本の8割強はこんな連中なんですが…ww
彼はまったくサムラーと同罪です。
依頼して、耳不自由きどって、謎にサングラスかけて、被災地語りながら編曲もできないサムラーはもう極刑。だから曲かけないんなら別のもの目指せっつーの。
後々になって、気の弱いひと擁護してどうするっつーの。社会で、ダメなこと断れなくて、悪いんだけどあいつころしてくんない?ってたのまれて、気が弱くて断れなくて、でも悪い人じゃないんですーってなるか!!気が弱くてやっちゃったらそれはがっつり罪です。
あげくに「新垣隆の報酬が安すぎる」って!10万でひとごろしたのんだ事件があってそれを「安すぎる」って論点で議論しますか?そういう問題じゃない。
オーケストラは自腹でだしてかわいそう!とかもうおわってる…。充分か不十分かではない。彼は悪いことをして金をもらってるんです。
あげく、罪の意識に耐えられなくなって、暴露して、全リスナーを困惑させる。弱いのも自分、救われようとするのも自分だけ。もうおこちゃまなんですよ新垣隆。
なんの責任も取れなくて、こんだけやらかしてる彼、どこがかわいそうですか?落ち着いて考えてみてください。
隠れて代筆はだめです。違法行為で代償もらっちゃだめです。墓まで持っていくの諦めたらだめですw。
制作に関して、こんな甘っちょろい認識しかないから、当然にほんの芸術はこの通り全然そだってない。国内のマーケットでしかまわせない作品しかない現状。
もちろん、新垣隆をさばくことが出来ないでしょうね。少なくとも10年は入っててほしいけど、彼を懲役に出来ることはないでしょう。
ただ、彼がゆるされるのは日本くらい。
これで、ほとぼりさめて「新垣隆楽曲集」とかリリースされたらもうおれこの國でますw(絶対出ると思うけどwww)
ようは売れれば良いんです。このくに。
ともあれ、最初の一報を聞いた時、友達と「これへたしたら耳きこえてんじゃねー?ははは」と話していたら耳も3年前から治ってきてたとか言ってるしw
というか正直、3年前から聞こえてようが、昨日治ったんだろうが、最初からだろうが何だろうが、そんなことは問題ではないんですよね。
その瞬間にせよ、それを裏付けなくプロモーションとして用いたことが問題なんですよねー。
これって、日本のプロモーションの特性なんですよね。特に芸術アート系の。
ただ良い曲かく作曲家なんて当然売れない。それにはいろいろと属性がつくと話がつくりやすいし、盛り上げやすい。別のネタに絡めたりもしやすいし、無教養なひとにもからんでもらいやすい。
性転換作曲家
肝っ玉母さん作曲家
片手の作曲家
ね?どれもワイドショーでてきそうでしょ?あとは最低限の腕があれば売れますw
新垣隆も後に
日本はそれが出来るくに。
警官なぐってもいまだに一線で活躍出来るアイドルがいる国です。
覚せい剤でつかまったあともミリオンセラーでカムバックできる国です。
この国は、「悪いことをする」ということをどう捉えるか、しっかりとしたハートがないんです。
その反面、悪いことをしてしまった「弱さ」を理解してあげようとしてしまいがちなんです。
多分ひところし以外カムバックできない過去は無いと思います。この国w
こんな話題になった人をこの国の音楽プロモーターは放っておく分けないです。
悪事それぞれではなくて、その「弱さ」をしばしば誤認する日本人の特性が少しでも軌道修正されない限り、しばらくは何も変わらないでしょうね。
ただふわっと理解した感じになっているくらいなら正直共犯ですよ。
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。(青空文庫)
自分は東北の田舎に生れましたので、ドコモショップをはじめて見た時に
ウィルコムじゃない携帯電話屋さんがあることに衝撃を受けました。
抱き合わせでYahooのADSLが売られていない、そんな馬鹿な。
大人の階段だとばかり思っていたのです。大人の階段を登って降りたら、
登って下った先にはアナザーワールドがあるとばかり思っていました。
もしくは、天国への階段だと考えていたのです。
ツェッペリンの音楽はわたしを飛行船へと誘ってくれないのです。
ギターのサウンドは天国まで登る煙のように幻想でしかありませんでした。
ギターソロの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶんと気の利いた反復運動に思え、それは世の中ののトラヴィスの曲の中でもでも、最も気のきいたチューニングギターの扱い方だと思っていたのです。
のちにギターソロはただギタリストの為のオナニー行為でしかないと気づいて、、
にわかに興が覚めました。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。(青空文庫)
私は、その男の写真を三度、見たことがある。ガンジーでも三度見するレベルだったからね。
一回目は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、Facebookでタグつけされていて多分彼と推定される。
その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、一つ飛ばして、ドドリアさん!!(フリーザ山本)と想像される
グランド花月の舞台の袖に、荒いエビズジーンズをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、ピサの斜塔のように斜めっている
けれども、鈍い人たち(つまり、芸人などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空(から)お世辞に聞えないくらいの、謂(い)わば
ドドリア感もその笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、
前説の訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
ももクロのライブで心に残るシーンといえば枚挙に暇がないけれど、個人的にナンバーワンなのは女祭り2011のアンコール2曲目「コノウタ」。
曲中、百田夏菜子さんのソロのシーンでメンバーが本来の振りを離れて百田さん向けにケチャ(百田さんを賞賛する動き)をする。ソロパートを歌いつつ「あれ?」と困惑した表情で横を見るとやはりケチャをするメンバーがいる。笑顔でソロパートを歌い上げ、次のユニゾンパートに入る一瞬の間で「ありがとう」という百田さん。困惑した表情が徐々にほぐれ、心底嬉しそうな表情に変わり、笑顔でありがとうと言う。
凄く微笑ましいシーンなんだけど、とても感動するシーン。
http://youtu.be/NwZnsPgJ9NU?t=10m23s
蛇足だが、あのケチャは百田さんが前の曲でナイスフォローをしたから実行されたのではないと思う。その方が美談度は高いけれど、彼女たちはそういうことはしないような気がする。
きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版のテレビ放送だった。
悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったからなのだ。
起こったのはごく単純なことで、僕はネットでたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。
そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みにゲームをクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。
冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここから、WHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマを想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンドの二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。
ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲーの歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマは積極的に表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞とわずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人や超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマをささやかな心理学や物語に還元するのに対し、先の3作品は、トラウマを表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。
さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正面からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭をきっかけとした主人公とヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇は成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。
大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味で原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療の過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやかな日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療の過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間。
冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグを強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年もの間ピアノを毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからみあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいたものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまるで馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後の最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷なリアリティをもたらすために。
"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語の総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍の起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまり、ほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年のファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。
顔が好みだったからだよ!
一目惚れだよ!
これが、この巨大な地獄の起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常の現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、
* * * * *
ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティックな主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップの機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスのクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎なものがあろうか)し、CGをコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが、彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。
ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー的主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、
色々思うところがあったのでネタバレ気にせずぶちまけたくなって増田に投稿しようと思いました。
ぶちまけるので構成とかも誤字チェックも何もしないので色々見苦しいかったらすみません。
まず映画。
公開初日の都内の映画館で、平日とはいえ終業明けの時間であるにもかかわらず客は多く見ても50人程度。
そんな状況だから観る前から「ヤバくね?」って思ったけど金払って映画館入っているわけだし観たわけですよ。
紛れも無い糞映画でした。
新年一発目の映画でこんなものを1200円払って観てしまった俺。自分で自分に同情します。
唯一の救いは上映時間が1時間弱だったこと。90分とか120分とか、とてもじゃないけど耐えられる気がしない。
映画はとにかく酷かったので長くなるけど許して欲しい。
「こんなに終始荒れてるアニメも珍しいだろ…」というレベルの作画。
主人公?のセンターキャラ(島田さん)を中心に話が進むけど肝心の過去のトラウマが一切明かされず、感情移入できる余地無し。
これはテレビアニメへの伏線とも取れるが、映画単体としてみた場合、完全に意味不明なストーリーになってしまっている。
謎が明かされないまま他のキャラも何やら納得していきます。お話が進みます。どんどん取り残されていきます。
正確にはライブパート直前からだけど、荒れていた作画が突然安定する。
7000枚描いたらしく、確かに結構頑張っている。
でも分かる。
明らかにライブパートにリソースをぶっ込みまくったのが分かる。
全リソースの95%程度をライブパート含むラスト5分程度につぎ込んだんじゃないだろうか。
次にテレビアニメ。
個人的には映画ほど酷いとは思わなかった(映画は金払ってるのにな)。
作画も演技も映画よりは良くなってた。でも平均レベルよりはどうなんですかね…。
肝心のライブパートは映画と全く同じです。使い回しです。パンチラも修正ありません。
映画観てない人はセンターが島田さんだとわかった人は居るんでしょうか。
とかなんとか映画もテレビも他にも一杯言いたいことありすぎるんだけど、とにかく酷かったです。
面白くなかったです。本当に。
でもね、ライブあるなら行ってみようかなとは思った。
映画を観た時、声優の中村繪里子さんの「大腸のジェラシー」って動画を思い出したんですよ(ニコ動に今もあるんじゃないかな)。
アイドルマスターでヒロインの声を当てている人ですが、言っちゃ悪いけど本当に歌も踊りも下手くそな動画です。
イベントで歌って踊ってる様子なんだけど、音は合ってないわリズム取れてないわ、マイクに音乗ってないわ…。
イベント自体も客席はパイプ椅子っぽくて、カメラも明らかに安物で、そういうショボさも拍車かかって酷いわけです。
底辺さ満点の動画です。
でもこの動画が終わると他の動画にジャンプされるようになっていて、次の動画ではそんな中村さんがなんと武道館で歌っているわけです。
歌も踊りもしっかりしてて、堂々としてて、完全にアイドルなんですよ。
例のイベントの7年後の様子だけど、7年でこれだけ成長したんだなと凄く感動したわけです。
Wake Up, Girls!ではド新人を敢えて起用していることからも、「成長」を見せたいと思っているはずです。
で、実際、映画とアニメ第一話では既にその成長が俺でも分かるわけですよ。
演技だけ見ても映画よりテレビの方が明らかに「成長」しているんですよ、ハッキリと。
そういう成長をずっとそれを見守って行けたら中村さんの動画のような感動が得られるのかな…ってね。
先のことはわかんないけど、そんな可能性を垣間見たような気がする。
とは言え、映画もテレビアニメも「面白くなかった」という事実に変わりはなく、
今後の展開が面白くないと今ちょっとだけ芽生えているこの期待感もいつかは消えるでしょう。
消える時は消えるし、消えなかったら……その時はライブとかイベントとか行くかもね。