はてなキーワード: 印象操作とは
このところ世間を騒がせているキングコング西野の絵本「えんとつ町のプペル」無償公開事件。
これについて自分は本当に西野亮廣という人間は天才だと感じた。
と言っても別に例の絵本は西野が書いてないのに西野が書いてることになってる件とか、
配布してるページが収益貰えるシステムになってるとかそういう下らないことを指して天才と言いたいのではなく、
彼の行った一連の「ネット印象操作」についてが天才的だと言いたいのだ。それについてちょっと説明してみたいと思う。
http://lineblog.me/nishino/archives/9256089.html
「お金の奴隷解放宣言」。このセンセーショナルなタイトルと以降の文章についてどう思うだろうか。
多くの人は以下の2つの印象を持つだろう。
・お金のことをよくわかっておらず、格好いいことしようとして周りに迷惑をかける無知
おおむね、ネットの反応も上の2つで通っていたと思う。
重要なのはこの2つの印象を同時に持ってしまうことだ。つまり「お金のことを何も理解してない上に裏できっちり稼ごうとしているバカで賢い人間」。矛盾していると思うだろうか。
いや、そんなことは無いのだ。日本には似たような人、または似たようなイメージを持たれている人が多数存在する。
例えばワタミの渡邉美樹社長。社員に対してああだこうだ頭の悪そうな夢を説いているが、実際の所人件費をケチるための方便だろう。
あるいは日本ユニセフ協会のアグネス・チャン。世界の子供を救うなんて言ってるが、実際の所募金で金を稼ごうとしているだけだろう。
事実はともかく、日本にはこういうイメージを持たれ、日々ネット民のサンドバックになり続けている人間が多数存在する。
西野亮廣はそんなサンドバックのイメージにピタリとはまったわけだ。
だから誰もが西野亮廣を攻撃した。この人が人を呼ぶ大炎上により無事「えんとつ町のプペル」の人気は再燃。見事amazonの絵本売上でランキング1位をかっさらったのだ。
めでたし、めだたし。
・・・で、終わらなかったのが今回の話のスゴイ所だろう。
この時点で西野は賢いだの商売がうまいだの、「上から目線」で評価しようとする人もいたが、個人的にはそりゃねえだろと思っていた。
いくら成功しようと儲けようと、他人に嫌われて成立する商売なんてクソの一言で済ませるべきだ。だから今回も、西野はクソ、で終わるはずだった。
ところがこの西野亮廣という男、この炎上を鎮火するどころか、同情すら買ってしまったのだ。
http://lineblog.me/nishino/archives/9256313.html
今度の記事はどうだろうか。そこにはいい格好したいだけのうすっぺらい無知もいない。裏でこっそり稼ごうとするクズもいない。
いるのは堅実な夢を語り、真っ当なビジネスで堂々と稼ぐ西野亮廣ただ一人だ。
これが恐ろしいところだ。ネット民は誰もが西野を「叩いても反論できない男」だと確信していた。
渡邉社長が「社員に残業を強いているのは経営のためだ」とか、アグネス・チャンが「募金の一部を貰ってるのは社員を食わせるためだ」と言うだろうか?
口が裂けても言えないだろう。それまでの発言を否定することになるからだ。
前日のすっからかんな内容の記事にはウソも隠し事も無かった。しかし、この日の発言をする余地をしっかりと残していた。
これについて文句を言う人は前日より遥かに減った。何しろ、彼の発言は何もかも正しいからだ。
無料で配布しても利益は出る。お金が必要じゃない場合もある。むしろこれらの言葉は、旧態依然とした日本の大企業や政府に言ってやりたい言葉、
前日の記事をリアルタイムで見ずに、この記事を見た人はどう思うだろうか。
「なんだ、西野ってカッコいいやつじゃん!それに対して文句言ってる連中は頭悪いな!」だろう。
つまり、西野亮廣が嫌われることにより発生した炎上は、ここで無事鎮火したのである。火災発生からたった一日で。
「炎上ビジネス」と言われた案件は数あれど、そのどれもが今も嫌われ続けている。
対してこれほど見事に嫌われの輪廻から外れたのは類を見ない。だから西野亮廣は天才だと思う。
いや、これは西野亮廣個人がやっているかはわからない。というか十中八九、裏にブレーンがいるか、あるいは西野本人がブレーンとなって駒を動かしているかだろう。
何しろ1/20の記事がこなれすぎている。たった1日、いや、炎上した後から計算すれば半日で、これほど見事な文章が書けるだろうか。
おそらくは元からネットの反応を予見していて、それに対する文章を用意し、そこにツイッターの反応を埋め込んでいった。それだけだろう。
だからといって蔑むことはない。キングコング西野というコンテンツを、ここまで見事に運営したグループに天晴と言うほかない。
ただし一つだけ、どうしても気に入らない点がある。
声優の明坂聡美さんをはじめ、ネットでは「無料配布は誰も幸せにならない」という文句が巻き起こっていた。それに対して、「えんとつ町のプペルは売れた」という趣旨でこき下ろした点だ。
ネット民が文句を言ったのはえんとつ町のプペルを無料配布したことではなく、あくまでその後のポエムに出てきた「お金はいらない」という下りだろう。
早い話が彼らは論点のすり替えを行って上手いこと反論したのだ。いや、議論になっていないから一方的な暴力だ。これについては流石に弁護できない。
一晩過ぎて自分自身だいぶ心が傷ついていることに気がついた。
母曰く僕が生まれて初めて覚えた曲(童謡とか抜いて)がSMAPの「俺たちに明日はある」だったそうだ。伝説の教師。
そこからずっとファンだった。CDも全部持っている。(ライブは結局一度も行けなかったが…)
年始の解散騒動を発端に、2016年一年間通して(あるいはもっと前から)各種メディアがSMAPについて有る事無い事好き勝手書いて小銭を稼いでいた。
スマスマという長い歴史のある冠番組が終わった今も"本当の関係者"は誰も納得のいく説明をしてない。
そこにはただ"食いつきの良さそうなウワサ"があるだけ。
結局こうなってしまった以上、情報は個々人で取捨選択して自分が一番納得するストーリーを飲み込んで落とし前をつけるしかないのだろう。
僕はスマスマスタッフの愛を感じるとともにフジテレビサイド?のエゴ、印象操作を感じずにはいられなかった。
番組前半はこれまでのSMAPの歴史をスマスマの時系列を追って懐かしい映像とともに振り返った。
放送前から森くん脱退の件や稲垣吾郎逮捕、草なぎ剛逮捕の件は果たして放送するのか?と気になっていたが、そこも包み隠さず放送した。
とりわけ稲垣吾郎逮捕に関しては、これまでテレビではあまり放送されてこなかった逮捕報道翌日のナゴヤドームの奇跡まで説明していて「すごいとこまで突っ込むな!」とただただスタッフに感心した。
これも話題になっているがソフトバンクのCMも素晴らしかった。
あの1分のCMのためだけに急遽スタッフが素材を編集し、北大路欣也さんがナレーションを入れたかと思うと目頭が熱くなった。
27時間テレビのライブも、僕自身はファンだからもう何度も録画した映像を見ていたので泣きこそはしなかったが、いつまでたってもCMが入らないのでソフトバンクこの尺全部買ったのかと、ここでも孫正義の株が上がった。
で、だ。
鳴り続けるオルゴールとスマスマ以外のSMAPが活動したテレビ番組の総集編。
結局ファンもそうでない人も何がしたいのかよくわかんない西山アナが仕切っているFAXのコーナー。
もう、滑ってるとかそういう次元じゃなかった。
これは推測の域を出ないけどTwitterなどで多くの人が言っていたようにあそこはスマスマスタッフではなくフジテレビの人?が携わっていたのだろう。
ただ一視聴者としてそれまでの熱が一気に冷めてしまったのは事実だ。
まだ、これが逆の流れならうまく受け止められたかもしれないのに・・・。
そして最終回にして今回唯一の撮り下ろし「世界に一つだけの花」。
僕は期待していた。何がメンバーが話してくれるんじゃないか、別れの挨拶なのか「ドッキリでしたー!」なのか怒りのメッセージなのか。なんでもよかった。
ファンからすれば「何よ!テレビや事務所の都合でこんなめちゃくちゃな最終回持ってこられて最後に喪服みたいなスーツ着たメンバーで歌うって!」って感じだし、ファンじゃない人から見てても相当寒い演出だっただろう。
それが例えば事務所やテレビ局サイドの圧力あってのことなのか、はたまたメンバー自身の意向なのか、一般人には想像しかできないが、僕には「言葉で仕事をしてきた中居正広」という人間がスマスマ最終回で何かを語ることでまたメディアの餌にされることを危惧して「何も語らないこと」を選んだように思えた。
最終回あの場所で「今まで応援ありがとうございました!さようなら!」あるいは「ドッキリでしたー!」(こっちがよかった)とにかくなんでもよかった。
メンバーからの、リーダー中居正広からのメッセージを全国の視聴者は望んでいた。しかし、そうはならなかった。
最初に僕は情報は個々人が納得できるよう取捨選択しなければならないと言ったが、ファンとして好き勝手に予測するなら、中居正広はスマスマ最終回で何も語らないことで「SMAPを殺した」のだ。
一年間いやもっと長い間大人たちに振り回され続けたSMAP、ゴシップにもワイドショーにも苦しみ耐え抜いたSMAP、その最期を中居正広の涙が殺した。
テレビで活躍してきたスターアイドルが最後に何も語らず(あるいは語ることが許されず)ああして去って行った事実がテレビっ子の僕を深く傷つけたのだ。
テレビが嘘や欺瞞やデマで溢れているなんて百も承知で、それでも笑えてた僕は目の前で自殺したSMAPのせいでこれからしばらくはテレビで笑えないだろう。
SMAPとはまた別に大好きだった嵐の曲も、今回の事務所のいざこざ(これもゴシップの域を出ないが)で対立勢力がどうだとかあったせいで聴けそうにない。
(iPhoneに入っていた嵐の120曲近い曲目は今朝消してしまった。)
これまでだってスマスマやライブ以外は個々人の活動がメインだったんだし、素直に来年からは個々人の活動を応援しなよ、という人の声がある。
僕はSMAPの中居正広、SMAPの木村拓哉、SMAPの稲垣吾郎、SMAPの草なぎ剛、そしてSMAPの香取慎吾のファンなのだ。
(多分こういう感覚ってSMAPじゃないにしても誰しもが好きなミュージシャンやお笑い芸人やスポーツ選手に抱く感情だろう)
かなり正確な分析は不破雷蔵氏がされているのでリンクさせて頂く
http://www.jgnn.net/ls/2016/12/post-14336.html
Q1,「格差」は日米共に広がっているのか? A1,広がってはいる。
Q2,どちらの方が「格差」は広がっているか? A2,アメリカだ。
Q3,どちらの「格差」の方が深刻か? A3,それは日本だ。下位層(90%)が下がっているから
日本の2011年以降、アベノミクスで下位90%の所得が回復している事を切り捨てている事
A5,【私】は大きな問題では無いと考えている。数値は変えれているが、等間隔だからだ。
今回は違うが、酷いグラフだと対数で表示されていたりもする。 今回のは見れば分かる。
そもそも、下位90%って、=上位10%以外の殆どの人って事だろ。
最上位1%との比較では 最初から人数では90倍の差があるわけだ。
つまり、
池上彰氏が凄い(そして厄介な)のは、異なる層に対して「同じ話」を使って「別の見解」を持たせ、しかし「結論」は一致させてしまえる事だ。
今回の件で言えば
そのまま「信じて」しまう層には『日本の格差が広がっていてピンチだ。』と「騙せ」て
「見破る層」には『より深刻な危機を意識』させる。 でも危機感、問題意識は一致させられる。
これは池上彰氏が週刊こどもニュースで解説されていた時からの特徴だ。
こども(実際の視聴者は年配者だったらしいが……)に現実のニュースを大幅に捨象して分かり易くし解説する。
要は要約なんだけども、 時に『虚構』を混ぜて焦点を絞る能力。
一例として、株式市場の説明の際。野菜の株を使って説明する等。分かり易くするために完全な嘘を大胆に混ぜる。
これが、異なる層に対して「同じ話」を使って「別の見解」を持たせ、しかし「結論」は一致させてしまう。氏の最大の特徴を強化したのだと思う。
これは、やっている事は単なる【要約】のように見えるが、実は違う! 池上彰氏は【待って】いるのだ
実際には極めて広い見識で問題を先読みし、問題が十分に悪化して【要約】可能、≒一般人に分かり易く解説可能になったタイミングで切り取っているのだ。
話は逸れるが、
氏がバングラデシュでテロの事後取材をしていた時、まさにその時に偶然、氏の目の前で新たなテロが起きた!
池上さん躊躇無く。現場に突っ込んだからね。 普通する?そんな事。 イカれてるだろ……。あのおっさん……。
他にも池上氏の番組を見てると、さり気なくブッ飛んだ行動と取材をしているところがマレに良く見れる。
池上彰氏は単なる解説おじさん ではない。狂気を秘めた報道記者なのだ。
▽いつも思うんだけど、さ~ぁ……
だって最上位者(ビル・ゲイツとか)の所得や資産が2倍になっても、低所得者層の所得と資産が半分になっても
「格差の広がり」は「同じ」だけど、 前者より後者の方が 遥かにヤバい。
正直に貧困、階層化、貧困の再生産、階層の固定って言えんかね?
いや、確かに「格差」は構造よ。 でも問題の焦点は貧困か、それを無視しても貧困の再生産な訳じゃん。
じゃあ解法は主に2パターンで、「『構造』の改良」か、「問題≒貧困の改善」のどっちかか、両方じゃん。
●日々、社会の何処かでガキ野郎が生まれ、問題行為が繰り広げられている。
確かに、迷惑をこうむる側にも否があり、迷惑を掛ける側にも理がある場合が少なくない。しかし、問題行為が開始され、その流れが定まってしまうと、にわかに大勢が参加し、 過激さが加速度的に増していくさまは、脅威を感じるときすらある。
●今で言う鉄道系リア充や重度な鉄道オタクは、昔で言う暴走族のようにこういった人たちの多くは一見「物好き」を装っているが、本音は物を徹底的に糾弾し、傷つけ、ひねりつぶすことにあるという。そうだとすると、なぜ、「DQNすること自体を自己目的化したDQN」が横行しているのだろうか。その理由は「娯楽文化のスケールが極端に大きくなっていること」と「資本主義や新自由主義の発展」、「世界の肥大化」、そして「日本人が元来持つ特性」が関係しているという。
◯「オウム真理教」では疑心暗鬼にかられた人間が、ついには隣人まで信用できなくなり、仲間同士が殺し合い、そして「一般人」も敵として攻撃される。そしてついには組織の崩壊を招いた。今の鉄道消費空間はこれと似た状況になりつつある。20世紀にカルト化の恐ろしさを教えた「オウム真理教」はある意味歴史から消してはいけない存在である。
◯人間は電波系として生まれるのではない。どこかで偏見や憎悪を抱いた時、電波系になるのだ。何かを殺して気勢を上げれば、その囲いは狂気から心を濁らせていく。この連鎖はおそらくとどまることを知らないだろう。
集団ストーカー論者、1980~2000年代前半の青少年の行いがゆとり世代・刹那主義世代・理由なき犯罪者のような疑心暗鬼を生んだように、カルト化の横行はさらなる過激な思想を生むと思われる。
ひょっとしたら電波系は実在していて、この動きをほくそ笑んでいるのかも知れない。
こいつらは自分で切符などを買いあさり、故意に集団でその沿線で移り住み
をしやがった!実際は組織的に行っただけなのに!これは都会の人間としては絶対にみっともないことだ!
カルトとキ○○○を合わせ持つ最低最悪の行為だ!左翼活動家の集団移住よりもよっぽどふざけてる
こんなことが許されて良いはずがない!いいや左翼以上に外道な行いかも。
最近やたら安い駐車場や駐輪場や車やバイクが多いのもそれが理由じゃねーの?
最近は公共交通利用促進ポスターが都市部から消えているが、これで、公共交通利用促進の元に鉄道やバスなどの公共インフラをならず者のように我が物顔で好き放題弄んでいた私鉄オタクたちを委縮させ、需要が過剰に増えた鉄道やバスの需要を適正化させる有効な効果にもなると思われる。
一般市民などが私鉄の大盤振る舞いをやめさせて公共交通としての運営に専念させることが出来れば、鉄道で「遊ぶことが」できなくなり、鉄道の抱える問題のいくつかが減り、公共交通が再生される。
鉄道の利用者から消費者が減っていけば、よほどわずかな「露悪趣味を愛してやまない」卑劣な人間だけがふるいにかけられることになり、彼らのような異端な存在は、「世論の良心」によって糾弾を受けることになる。
大体この取り組みは嘗ての韓国で行われていたものだが、日本では、今こそ全国の自治体単位で当たり前のように広めるべきだし、もっといえば富裕層に対する公共交通の利用の制限とマイカー利用の努力義務をすべきだ。国土が狭くて人口の多い韓国や台湾でもできるのだから日本でもやらないとダメである。
「これは民営だ!公営ではない!」みたいなうちはうちよそはよその発想ではだめだ。そうやって大都市部から、過剰な需要を消し去る作業をするとともに、むしろ富裕層の健常者を対象にして公共交通の目的外利用に対して何らかの社会的ペナルティを実施するべきだ。←ほんとこれ
自分達の歪んだ行いを「昔からの伝統だ」とか「都会人の文化を馬鹿にするな」などと妄言を吐くが、公共交通の利用は無限に認められるべきものではない。
少なくとも何らかの制限は行わなければならない。
ましてや公共交通のあり方に対する私鉄への批判を「不当だ」と言って何の疑問も感じないらしいネット原住民のような子供のような存在をいつまでものさばらせておいてはいけない。
私自身、高校時代に鉄道を娯楽目的に利用して教諭に嫌われたことがある。当時既にこういった連中を嫌う大衆の意見が既に存在するからだ。
昔の私といい、私鉄オタクといい、公共に対する軽視が大手を振って罷り通っているこの社会の異常さを痛感する。彼らの不良ぶりがはっきりわかるんだね。
なんでもゴマドレッシングをかけて食べないと気が済まない人かと
ごきげんいかが。
ぐわし!みたいな。
あれって、
日頃こまめにやっておけば済むのよね。
今まで朝ご飯の習慣がなかったのを
たくさん洗剤が売れますようにって、
年末に掃除をしようというキャンペーンをすり込み作られた印象操作なのよ!
ミカ先輩にチョップ喰らいそうよ!
そんな神話に騙されないようにしなくちゃね。
あー、大掃除なんてしたくないしたくない。
けど、
この切羽詰まった感がたまらないわね。
うふふ。
昨日飲み過ぎたのか朝だるいです。
うげーって感じ。
今日を乗り切りましょう。
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!
「友達はいるけどしんねりうるさがられてる」とかになるだろあの性格
それを言ったら将也みたいなのいじめるとか無理なんだけどね
佐原さん強い子!
作者のファンタジー出過ぎでは?
自己否定的な言葉吐くから印象操作されるけどあいつ1人だけ別の漫画みたいに全てを成功してるじゃん
自分のしらんとこで友達が勝手に飛び降りたからってなんで自己否定モードになるんだ無理ありすぎ
川井は、こいつだけは好きになれない。
うすっぺらかった
うすっぺらかった2号
って作者も言いたそーだけどさー
親友だったものを自殺するまで長期間しつこくいじめてなんとなく仲直りとか許されるとかいいの?
そういう雑さが結果としてただのアンフェアさやアンモラルさになってて飲み込みにくい箇所は至るとこにあった
勢い余って告白しちゃう西宮かわいいよおおお!!!結絃の何気ない「石田彼女つれてたぜ」って嘘ずっと気にしてたんだね!!!そんで植野のこと彼女だと勘違いしたんだよね!!!「やっぱり普通にしゃべれる女の子がいいのかなぁ」なんて悩んでたりしたのかな!!!かわいいな!!!!
自殺するレベルに自分嫌いな人間がライバル押しのけて告白とかできるかなあ?
自分が何もしないでいるうちに、将也と西宮が手話で会話する仲になっているのを知った時の泣き笑いたまらないよお!!!完・全・敗・北!!!って感じだよね!!!笑いながら泣くしかないよね!!!成人式に婚約指輪もらったフリまでして将也の気を引きたいのに、まったく裏のない笑顔で祝福されちゃうのもかわいいよ!!!!
好かれるようなこと一切やってないのに「私は選ばれない」とか言ってて
エントリすらしてないのに「採用通知は来ない」って言ってる感じ
でも一番好きなのは竹内先生と将也が再会するところ!大人にとって自分の間違いを認めるのは、難しいこと!!!ハズレを引いた、自分の責任ではなかった、それでも自分は反省している善良な人間、そう思って、それで終わりにしたいよね!!手話をマスターして、それで償いになったって思いこみたいよね!!!そこにかつての教え子がやってきて、過去の罪をまるっと認めて、そして向き合ってる姿を見せられたら、そりゃ認めるしかないよね!!!
自分と同じように手話覚えてるのを「立派」っつってるだけじゃね?
「フランスに音楽修行にいく」ってなんや? つかその情報必要あった?
遊園地でも祭りでもたこ焼き屋として出てくるのは不自然&意味不明すぎた
そこが最高に疑問だった
そういうのコミュニケーションていわないだろ
本人が印象操作をやるつもりがなくても、無意識のうちにやってしまうことはある。中でも引用や編集という作業はそのリスクが大きい。
それを指摘されたらすなおに謝れよ、って話だわな。
ちなみに、はてこはゲーム会社への嘆願書で、「アイヌ殺す」のツイートに関して
という非難を加えていた。それが誤りだとツッコまれたら、今度はこんなことを言いだした。
大阪市の条例に該当するからヘイトスピーチだ、該当しなければそうではないということではなく、定義を理解してもらうための参考例。
こいつ、何で開き直ってるんだ?? お前は最初、ただのヘイトスピーチとは言ってなくて、条例違反のヘイトスピーチと断定していたよね??
はてこの嘆願書がひどいのは、大阪市のヘイトスピーチ条例を恣意的に引用していること。
このことは下記ブログで指摘がなされている。
はてこはこの指摘について、「削除ではなく一部引用」だとか、「リンク先で全文を確認できるようにしてある」などと述べて釈明した。(※1)
しかし、ソースへのリンクがあれば恣意的な引用をしてよいということはない。リンクが貼ってあるとしても、そのソースを確認しない読者は多い。これはまとめサイトでよくあることだが、引用や編集のやりかた次第では捏造だし、印象操作をおこなって読者をあざむくことができる。
もっとも今回の引用にあたって、はてこの意図がどうだったか分からない。不都合な部分を隠すような「一部引用」には印象操作の目的があったと見られても仕方ないが、その悪意の有無を追及するのは水掛け論になってしまう。
それでまあ、彼女がそのことを故意ではない、過失ではない、そもそも捏造や印象操作に当たらないからセーフと主張するつもりなら、彼女はあの引用方法を修正するべきではない。それなのにこの指摘を受けた後、ちゃっかりと修正していた。表向きはあの引用方法を正当化する釈明をしておきながら、その裏でこっそりと修正するのはおかしい。(※2)
ところで、もしかして、はてこはこの問題を指摘したブログを無視しているのだろうか?
上記のブログは180以上のブクマが付いているし、ホットエントリにも入っている。はてこは恐らくここから指摘を受けて、自分のブログでこの問題について釈明をおこなったのだろう。
それにもかかわらず、彼女が釈明をおこなっているエントリ内には指摘元のブログへのリンクを貼らず、名前を出していない。先方の存在をまるっきり無視しているかのようだ。これはいくらなんでも失礼である。(※3)
アイヌがどうとか差別がどうとかいう問題以前に、彼女のやっていることは不誠実であるし、それを指摘されたときの事後対応もまずかったと思う。
※1 「まとめて返信」http://kutabirehateko.hateblo.jp/entry/2016/09/15/073000
※2 はてこは嘆願書エントリの追記欄でこの修正について報告をおこなっていない。彼女が嘆願書を修正するときには、追記欄で報告することもあるようだが、この件では報告をしていない。なぜなのか。批判のやり玉にあげられたこの箇所を修正する場合にこそ、はっきりとした理由説明と報告が必須だと思う。
※3 はてこが上記ブログを読んでおらず、べつの人から同内容の指摘を受けたという可能性が微レ存。
この問題を指摘していたブログで、新しいエントリが発表された。
やはり、はてこはこのブログを無視していたらしい。彼女は指摘元の筆者(id:shoheiH)に連絡を送らず、先方のブログ名を隠したままリアクションした。
相手がどこの誰かというのを曖昧にしたまま反論・釈明するのは、すごく卑怯な行為である。はてこは一体どこに向けて反論・釈明をしたというのだ? おかげでshoheiHは「一人相撲」と感じて困惑しているし、はてこのブログだけを見ている読者はshoheiHの見解を参照することができない。こんな卑怯なリアクションをするぐらいなら、指摘をスルーして黙殺する方がよっぽど誠実だ。
私は上記エントリでshoheiHが書いていることに概ね賛同する者である。なのでこれ以上に語ることはないのだが、そのブクマページでid:piripenkoが言っていることも書き留めておく。
はてこは引用にあたり、前後の部分を省略したのではない。中抜きしてツギハギしたのだから、(中略)等のことわりがなければアウトだ。
洗い方を変えるだけで治せます。
まず解決するためには問題の原因をハッキリさせる必要があります。
原因を理解していなければ方法にも誤解ができるため、読み飛ばさないでください。
原因を理解し、最後にその原因全てを解決させる洗い方を紹介します。
主な原因は2種類。
フケの原因その1:すすぎが足りない
単純に汚れを流し切れてないため、せっかくシャンプーしてもフケである垢が残ったりシャンプーが残ってしまうのが原因。
フケの原因その2:フケ原因菌
まだあまり啓蒙されていないと思うが、これが原因の場合でフケに悩む人も多い。
これが原因でできるフケを分類するのによく「カサカサ型」「ベタベタ型」などと言われて、
カサカサ型はシャンプーのしすぎで皮脂が不足してしまうから、と説明されている。
なぜならきちんとシャンプーをしているのならフケ原因菌は殺菌されて死ぬので矛盾しているからだ。
カサカサ型に陥るのはそもそも皮脂が健康な状態の頭皮に留まっていられないことが原因であって、
しっかりとシャンプーをして、しっかりと洗い流している限り、皮脂は正常にとどまりカサカサしない。
とにかく、フケに悩まされている人間にとってシャンプー=悪という認識をする必要はない。
それを後述する。
【フケに悩まされない洗い方】
①普通の温度で普通に髪をシャワーで濡らす。熱すぎなくていいし冷たすぎなくていい。いつも通り髪を濡らす。
②シャンプーを気持ち少なめにして、手で泡立てるように伸ばす。ダマになると流し残しの原因になるので石鹸で手を洗う要領で伸ばす。今後シャンプーをこのようにしてから使うこと。
③普通にシャンプーする。外で髪に付いた外来的な汚れを軽く落とすイメージで適当にシャンプーする。そしてシャワーで流す。
④ここからが本番。シャンプーをできるだけ大量に手に落とす。そして石鹸のように泡立てる。そして髪につける際に、頭皮と平行になるように、櫛のように指を差し入れる。髪を指でかきあげるときのようなイメージで指全体を頭皮に密着させる。その状態で爪も指も立てずに、指全体の腹を使って前後に動かし頭皮をゴシゴシする。問題は頭皮に存在するフケ原因菌なのだ。だから髪の毛を洗っても仕方ない。頭皮に接触する表面積を増やすためにできる限り指を密着させて前後に動かし頭皮を洗うのだ。爪を立てるな、指も立てるな。密着させて指の腹で洗え。
④横サイドや後ろも同じように洗え。横から平行に指を差し込んで、頭皮に悪い感じがしたとしても力強く前後に動かせ!フケを無くすために原因菌を殺すんだから頭皮に悪いに決まってるだろうが!黙ってゴシゴシしろ。
⑤「結構疲れたな」と思って流してそこで終わったら、いつもと同じだぞ。もう1セットだ。もう1回大量のシャンプーを手に落として頭皮をゴシゴシ。シャンプーのしすぎ?黙ってろフケ野郎。
⑥最後の仕上げの流し。しつこいまでのシャンプーのおかげで皮脂が飛んでいるので水が弾いてバラバラになり流しにくい。我慢だ。シャンプーの時と同様に、できるだけ頭皮に平行に差し込み流しの残しの内容にゴシゴシしろ。疲れてきたらシャンプーヘッドを直に当てたり、下から当てるなどして角度を変えろ。時間とお湯をタップリ使って流すんだ。日本に産まれて良かったな蛆虫が。
⑧もし髪を拭いている途中でまた頭が痒くなってきたらまたシャンプーし直せ。かゆくなくなるまで徹底的にシャンプーしろ。
この方法で過剰なシャンプーによりフケ原因菌は除去できるし、最後の流しを諦めなければ流しの残しも発生しない。
1か2どちらでも解決できる。
そして気づくはずだ。
これが大嘘だということを。
しっかりと流せば皮脂は正常に皮膚に留まる。
単に流しのこしの罪をシャンプーのせいにしているだけだということを。
私は今までシャンプーこそがフケの原因だと不当な印象操作を受けていたが、
根本的な原因は流し残しとフケ原因菌、この2つだったのだ。
そしてこの両方を解決する洗い方を見つけ、実践し、開放された。
シャンプーは敵ではなく、味方だった。
フケだらけの者にとって、水洗いオンリーブームなど犬の糞以下の教えだと知れ。
フケに悩む者よ!恐れるな!!しっかりとシャンプーを使え!!!
以上だ。
追伸:
もちろん、この洗い方をしてからフケが出なくなったなら通常のシャンプー量に切り替えて頭皮の環境を整え続けるといいだろう。
既にフケ原因菌を殺したのに過剰なシャンプーの使用を続けても意味がないからだ。
・勅使河原という苗字は愛知に多い苗字だと聞いてたけど飛騨にもいるのか。(由来は関東らしいので関東でも結構多いのかな?)
・飛騨弁って名古屋弁混じってるよね?関西弁っぽくもあるけど。むしろ岐阜の言葉が名古屋に入ってるのかな?(河村市長が喋っているのは名古屋弁じゃなくて河村語です)
・名古屋駅から飛騨って遠い。東京から行くんだったら実は富山経由のほうが便利なのでは?新幹線走ってるし
・名古屋駅映ってたけど、構内が田舎くさい。大阪や東京の駅はオサレなのに。でかい駅ビルは立てたくせにJR東海は在来線の駅に投資してないよね。大曽根駅とか通路の屋根がバラック(?)になっててひどい
・名古屋駅で味噌カツの駅弁売ってるの初めて知ったわ。そんなもの映すより大名古屋ビルヂング映してくれ。三大都市名古屋を田舎にみせる悪質な印象操作だ。
一部はてななどでも「合意があったのか?」「不起訴ということは犯罪者じゃないので批判出来ないな」などというトンチンカンな発言を目にするので、当方素人ながら思うところを書いておきたい。
これには、被害者とされた女性との示談成立が考慮されたことは事実と思います。しかし、ご存じのとおり、強姦致傷罪は被害者の告訴がなくても起訴できる重大犯罪であり、悪質性が低いとか、犯罪の成立が疑わしいなどの事情がない限り、起訴は免れません。お金を払えば勘弁してもらえるなどという簡単なものではありません。
示談成立が不起訴の決め手になっているのはその通りでしょう、しかし後段の悪質性という言葉は曲者です。そもそも強姦致傷罪は起訴率は50%程度でそこまで高くありませんので、
本件がほかの強姦致傷罪よりも著しく悪質性が低かったとは言えませんが、そのような誤読を誘う文章です。
一般論として、当初は、合意のもとに性行為が始まっても、強姦になる場合があります。すなわち、途中で、女性の方が拒否した場合に、その後の態様によっては強姦罪になる場合もあります。
このような場合には、男性の方に、女性の拒否の意思が伝わったかどうかという問題があります。伝わっていなければ、故意がないので犯罪にはなりません。もっとも、このようなタイプではなく、当初から、脅迫や暴力を用いて女性が抵抗できない状態にして、無理矢理性行為を行うタイプの事件があり、これは明らかに強姦罪が成立します。違法性の顕著な悪質な強姦罪と言えます。
これは強姦というものに対する古典的な誤解に基づくただの一般論で、高畑レイパーの行為とは何の関係もない世間話です。
私どもは、高畑裕太さんの話は繰り返し聞いていますが、他の関係者の話を聞くことはできませんでしたので、事実関係を解明することはできておりません。
しかしながら、知り得た事実関係に照らせば、高畑裕太さんの方では合意があるものと思っていた可能性が高く、少なくとも、逮捕時報道にあるような、電話で「部屋に歯ブラシを持ってきて」と呼びつけていきなり引きずり込んだ、などという事実はなかったと考えております。つまり、先ほど述べたような、違法性の顕著な悪質な事件ではなかったし、仮に、起訴されて裁判になっていれば、無罪主張をしたと思われた事件であります
事実関係が解明できていないのに知り得た事実関係とはなんでしょうか? 他の関係者の話を聞くことが出来なかったのですからつまりここで言う知り得た事実関係とはそのまま「高畑レイパーの一方的な主張」のことです。
後段でそのまま恰も事実であるかのような書きぶりになっていますが、すべて高畑レイパーの主張においてはそうだと言うだけの話です。
以上のことというのはなんでしょうか? 途中で全く関係のない一般論の話と高畑レイパーの思い込みの話が入るのでわかりにくいのですが、「示談が成立したから」ですよね不起訴になったのは。
と言う訳でまあ実際の高畑レイパーの犯行がどのようなものだったかは全く分かりませんが、本件と無関係な一般論や知り得た事実関係などという言葉を持ち出して恰も高畑レイパーと被害女性の間に合意があったかのように印象付けたいコメントであるとしか言いようがありません。
カメラに映る場所に出てくる弁護士に女性を選んだ理由もその服装もすべて高畑レイパーへの批判をトーンダウンさせるための印象操作でしょうね。
「おなじ女性が弁護しているんだから合意はあったのかもな?」と思わせる作戦。
はてぶなどを見ていると「不起訴になったのだから有罪とは言えない、高畑を批判するのは私刑だ」のような反応が見えますが、示談したということは強姦を認めたということです。
だから私は容疑者ではなくなってしまった高畑裕太を高畑レイパーと仕方なく呼んでいます。レイパーを批判するなとは一体何事でしょうか?
また、「女性はこれに不服があるのなら反論すべき」という意見も見受けられますが、まずこの詭弁声明の中に弁護士から見た限り恐らく嘘はありません。無関係な一般論や加害者側の一方的な意見はありますがね。
そしてこの手の場合示談の際の条件として「事件についての一切の発言を行わない」というものが盛り込まれていますから、女性はいかに不服でも何も言えません。
一般に日本では犯罪者=批判しても良い/非犯罪者=批判出来ない、という不思議な感覚があるようですが。
「法と道徳の分離」が全く行き届いていない弊害ですね。
ヨッピーがYahoo!個人に投稿した「PCデポ 高額解除料問題 大炎上の経緯とその背景」という記事が爆発的な勢いで拡散している。Yahoo!個人はページビューに比例して報酬が支払われるから、沖縄で一週間過ごしてもお釣りが来る程度の収入になったのではないか。
ところが一部のブコメが見るに堪えない。「ヨッピーがジャーナリストに転身か」などと書いている者が少なからずいる。えっと、取材にかけた労力を上乗せして大甘な評価を付けたとしても、ヨッピーはジャーナリストとはいえないんだよね。大手マスコミの関係者なら誰もが「この記事はアウト」と断言するはずだ。
たしかにヨッピーは、自身では風俗ライターなどと茶化しているが、以前に書いた記事を見れば有能さは一目瞭然。寝起きのような顔写真は嫌みのないセルフブランディングになっているし、顔アイコンを並べた軽妙なやり取りはいまやネットメディアにおけるパブ記事のテンプレと化している。その上で文章にはジャーナリスト的な風味が加えられていてインテリを唸らせる部分もある。個人的にはよくやっていると思う。
しかし、それはあくまで「ジャーナリスト的」なものに過ぎない。大手マスコミで、駆け出しの記者が件の記事のような原稿を書いてしまったらどうなるだろうか? 赤を入れられるどころか、「当事者に肩入れして一方的すぎる」と完全にダメ出しを食らうのが関の山なのだ。
ジャーナリストだって人間だ。義憤にかられることもある。だが、その視点は常に公正中立なものでなければならない。公正中立とは、悪を断罪するという意味ではない。被害者(と主張する)側だけでなくPCデポ側の意見を併記するのはもちろんのこと、悪印象を植え付けるような印象操作や炎上を煽るようなことをしてはならない。最終的な判断は読者に委ねるべきなのだ。
このあたりで「大手マスコミはスポンサーに配慮して書けないのだ」といった頭の悪い批判をする者が現れるだろう。だが全く次元が異なる。言っちゃ悪いが、PCデポごときに配慮する理由など大手マスコミには欠片もない。記者倫理によりそうした報道はできないというだけだ。
今回、ヨッピーは世間の期待に応えようとするあまり、勧善懲悪のストーリーを下敷きとしながら、ジャーナリスト的な視点を入れて記事を完成させたのではないだろうか。以前に氏が活躍したバイラルメディア批判からも読み取れるように、心のどこかでジャーナリストに憧れている部分があるのかもしれない(本人は否定するだろうが)が、これに味を占めてはいけない。自身が本当に正しい方角を向いているか、一度振り返ることをおすすめする。
前回『【新共通テスト記述式】氏岡真弓氏による朝日新聞の記事を批判する』という記事で、朝日新聞編集委員 氏岡真弓氏の署名記事について批判した。
その要点は、氏岡氏の記事が、国立大学協会入試委員会の対応に関して、(意図的にせよ結果的にせよ)明らかな印象操作を行い、「新共通テストの記述式試験を大学側が採点する」という方法が極めて問題の多い案であるという事実を十分に報じないまま、この方法の採用を後押ししてしまっているという点にある。
いくつかのコメントに飛ばし記事であるとか文科省側のリークというような話が出ていたし、私自身もその可能性はあると考えている。
しかし、その一方で、私は文科省も国立大学協会も正しく状況をレクチャしたにも関わらず氏岡氏自身が(意図的か無意識かはともかく)内容や方向性の間違った記事を書いた可能性、つまり氏岡氏の持っていた見解やバイアスや資質の問題が今回のような記事を書いてしまった原因である可能性も留保している。
これらの点を詳らかにするためにも、氏岡氏は自分自身の言葉で今回の記事に関する経緯を説明してほしいと考えている。
今回私が批判したいのは、8月19日付朝日新聞4面に掲載された『<解説>大学に負担、利用未知数 新テスト記述案』という記事である。
前回の内容は記事化の経緯に関する点であり、氏岡真弓氏に非があることは明らかであると(少なくとも私には)感じられる問題だったが、今回はもう少し論争的な部分を批判したい。
はじめに結論をかけば、
氏岡真弓氏は今回の新共通テストに関する問題特に採点方法の問題を論じる/解説するにあたって、この問題に関する十分な見識を欠いているのではないかということだ。
私が特に重要視している記事の記述は次の2つの記述に集約されている。
この問題を論じるにあたって、国立大学協会入試委員会の提出した論点整理や文科省の有識者会議=高大接続システム改革会議の出した最終報告は役に立つ。
私の批判の要点は、氏岡氏はこの記述の中で、記述式問題において何を問うかという点に関する検討・理解を十分に行わないまま独自解釈を述べていないか、ということである。
特に、「文章を理解し説明する設問」と「自分の考えを書く問題」とを明確に区別した書き方をし、大学側が採点する方法を採ることにより、後者が可能になったと断定している点である。
国公立大学の二次試験の国語で問われている問題はおおむね前者にあたり、文章の記述の内容把握や根拠説明を要求するものになっている。
一方小論文試験や国公立でも非常に僅かだが一部の大学(2016年度だと例えば滋賀県立大・静岡大・首都大学東京・島根大など。ほかにもあるかもしれない。)の国語の試験には、課題文の内容理解を踏まえる形で「あなたの考えを述べよ」という「自分の考えを書く問題」が出題されている。
では、新共通テストの記述式問題で本当に後者のような問題を出すことが想定されているのだろうか。
国語については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、言語を手掛かりとしながら、与えられた情報を多角的な視点から解釈して自分の考えを形成し、目的や場面等に応じた文章を書くなど、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。(p.54)
とあり、ここにみられる「自分の考えを形成し」という語句は一見氏岡氏の記述に合致しているように見えるかもしれない。しかし、これは、例えば選択肢を選ぶのではなく自分の言葉で説明することを指していると通常は解釈するように思う。
実際、
「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の記述式問題については、現在、国立大学の二次試験で行われているような解答の自由度の高い記述式ではなく、設問で一定の条件を設定し、それを踏まえて結論や結論に至るプロセス等を解答させる「条件付記述式」を中心に作問を行うことにより、問うべき能力の評価と採点等テスト実施に当たっての課題の解決の両立を目指す。(p.56)
と述べられていることを見落としてはいけない。最終報告のp.75に掲載されている図も見落とすべきではない。
つまり、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」は、創造性・独創性・芸術性の評価も含む問題であり「個別入試になじむ」と整理されている。
仮に大学が採点することになるからといって、この整理を放り出して、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」を出題するとか、
「自分の考えを書く問題」を出題すると述べるのは、議論の成果である最終報告よりも明確に一歩踏み込んだ記述になっていると言わざるを得ない。
では国立大学協会の「論点整理」ではどのように記載されているだろうか。
解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大することである。また、設問の中に構造化された能力評価の観点を踏まえつつ、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーに基づき独自の採点基準を採用することができ、各大学(学部)の主体性が発揮できる。
ここでいう「解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大する」という記述には、氏岡氏の言うような「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」という趣旨を読むことはできないと私は考える。
というのも、ここでいう「出題の多様性」という文章は、前半にある次の記述を受けてのものだからだ。
全国共通試験への記述式・論述式問題の導入は、多肢選択問題では測ることのできない能力を評価するための大改革であり、適切にその能力を評価するためには相当数の問題が課されるべきである。また、評価すべき能力が個々の設問の中に構造化されるわけであり、その観点からは、短文記述式(40-50 字)設問のみでは、改革の主旨に沿った十分な評価を行うことができないと言わざるを得ない。解答文字数を含めて出題の多様性が出来るだけ拡大されることが望ましい。短文記述式のみでは早晩パターン化し入試技術化する危惧もあり、持続可能性の観点からも、同様のことがいえる。
これは、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題」を出題するべきというよりは、文字数は40-50字の短文記述よりは長めで、個数は多めにするべきということである。個数を多めにというのは扱う内容の多様性を確保せよといっているように私には見える。50万人が共通して受験するテストの場合、題材が1つだけだとどうしても能力よりもその話題になにがしかの知見があるかどうかなどの運の要素も出てきてしまう。十分な量の問題と十分な長さの解答要求をすることでしか「適切に能力を評価」することはできないだろうと言っているように見える。ここには、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」というような観点は入っていない。氏岡氏の記述は国立大学協会の「論点整理」の文脈からもはみ出していると考える。
また高大接続システム改革会議の最終報告の参考資料2には、今回の新共通テストの問題例が掲載されている。(ただし、あくまでも何を問いたいかを例示するためで直接試験で出題できる問題として掲載しているわけではないという注釈付き。)この中の「国語」の問題では、交通事故の発生件数・負傷者数・死者数の年度変化を示すグラフを掲げ、「交通事故の死者数が他よりも早く,平成2年(1990年)以降減少傾向になっていること」の理由について考えさせている。要求しているのは、資料から読み取れる内容の記述や自分の主張を裏付けるためにはどのような資料を見ればよいかを記述させることである。これは、「自分の考えを述べる」問題ではないことは明らかである。
「出題の幅」とはどういう意味なのかはっきりしない。最初に取り上げた4面の解説記事の記述にもあるが、「自由記述」「本格的な記述」のような書きぶりにも現れているように、言葉の選び方が不用意で十分に検討したと思われない。
しかし一方で、氏岡氏の名誉のために、次のことは指摘しておくべきだろう。
読売新聞が8月20日付の記事『大学新テスト、英語「話す」で民間試験の活用案』の中で次のように記述している。
国大協は記述式の採点を、受験生の出願先の各大学が行う案を示した。(中略)国大協はテストを1月中旬に実施しても、各大学が採点すれば200字~300字程度の記述式が導入できると想定。大学による採点が難しい場合は、採点期間を国立大学前期試験直前の2月下旬まで延長する別の案も示した。
これも国大協が大学側が採点するという案を提示したという問題のある記述をしているのだが、それ以上に、国大協が「200字~300字程度の記述式が導入できると想定」などという「論点整理」には全く書かれていない話を登場させている点に注目したい。
「40-50字の短文解答式」ではまずいという議論から、いきなり「200字~300字程度の記述式」というところへ直接は結び付かない。
上の最終報告にある問題例は、40字以内と80字以上100字以内の設問である。通常、短文解答式ではないものを、という点でみれば、いきなり200字~300字となるのではなく、80字~100字程度の文字数ということを考えるのが自然ではないだろうか?
また国公立の二次試験を見ても、単独で200~300字の記述を要求する大学はむしろ珍しく、東大でさえ最大文字数の問でさえ100字~120字で述べさせる問題である。
もちろんこの「200字~300字」というのが、たとえば小問3個での合計解答文字数というなら話は違ってくる。(1個の大問全体での記述量が500~600字程度ということは珍しくない。)読売記事がそのあたりの正確さを欠く記事になっていることは批判されるべきだ。
といったことだ。
しかしどれであったとしても、氏岡氏の記事は、高大接続システム改革会議の最終報告からは乖離しているし、現状の国公立二次試験での国語の出題状況などについても十分把握しているとも言い難い。また19日時点では取材していなかったのかもしれないが、国立大学協会の「論点整理」とも乖離している。こうした点からも、署名記事を書いた氏岡氏はいったいどういう経緯と解釈でこの解説記事を書いたのか説明するべきだと私は考える。
実は、国立大学協会の論点整理の中には、次のような記述もあることを付け加えたい。
そもそも、記述式・論述式問題に評価すべき能力をいかに構造化できるかは、根源的な課題である。評価すべき能力の構造化があって初めて、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーの中に、記述式・論述式問題を適切に位置づけることができる。しかしながら、国立大学全体にも大学入試センターにも、そのための知識やノウハウの蓄積は未だ十分ではない。平成 32 年度実施に向けて能力の構造化に向けた記述式・論述式問題設計の理論構築、体系化が喫緊の課題といえる。国大協としても、過去の各国立大学の個別試験における記述式・論述式問題に関する実績を調査・分析することなど、この課題に積極的に取り組んでいきたい。
これは、どのような形式で何を問うかということについて、決して十分な知見があるわけではないことを述べており、すなわちこ(「学力の三要素」といった抽象論ではなく)具体的な設計レベルでみれば、新共通テストにおける記述式問題の形式や内容についていまだに十分合意が取れているとは言えない現状を示している。にも関わらず、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」とか「大学が採点を担う国立大学側の独自案が具体化すれば、入試改革は実現に大きく近づく」などと断定する氏岡氏の記述に私は強い不信感を抱かずにはいられない。