はてなキーワード: 協調性とは
サークル内で煙たがられてる後輩を追い出したいけどどうしたらいいかわからない。
A:2回生(女)。大学進学で地方から上京。忙しい他サーに軸を置いてるからあまり活動には参加していないけど学年をまとめてくれるので助かってる。顔はまあ(察し)
B:2回生(女)実家暮らし。ヒラだけど活動は割と参加してくれてる。顔は普通〜そこそこ。こいつを追い出したい。
うちは音楽系のサークルで男女比はだいたい1:1。時々学内のイベントに参加して、メインイベントが学祭って感じ。
去年の夏頃からずっとBはAにいじめられてる(Bをハブにして悪口言ってる)んだけど、Bはちょっとアレな人だしぶっちゃけいじめられるのも仕方ないと思っている。
AとBの代が入った当初は女子が8人くらいいて、Bと特に仲良い女子が2人いたけどなんか2人とも早々に辞めた。(今は女子5人。Bは孤立している)(以下Bがハブられてる主な理由)
①空気が読めない
去年の夏に親睦会も兼ねて飲み会をした。1次会は参加必須、希望者のみ2次会に行くことになった(当日流れでやることになった)。でもせっかくの親睦の場だしAとBの代は全員2次会に来るように言った。
だけどBは「明日授業早いので……」とか言って22時過ぎくらいに帰った。(1限あるのは仕方ないけど空気くらい読めよとは思った)
1次会で先輩から気に入られてたAは「2次会出ないとかBはお嬢様ぶってる」とか「空気読めてない」とか飛ばしてて先輩もそれに同調してた。実際1次会でもBは話を振られてもぎこちない感じで話してたし自分のことをあまり話さないし、(ABの代の皆が酒を頼むなかでBは普通にソフドリ飲んでたし)誰もがBは空気読めないって思ってたと思う。
②協調性がない
外部の指導者の先生が交代するので、先生にプレゼントを贈ることになった。プレゼントは学年ごとで話し合って贈ることにした。
プレゼントを渡す会の1ヶ月前になって、Bがプレゼント選びに入れてもらえないと相談に来た。自分もちょうど忙しかったし、大学生になってまで小学生みたいなこと言ってんじゃねえと思ったので、Bの代のリーダー格のAに聞けって言って突き放しておいた。でも結局Bはプレゼント選びに参加できなかった。後でAが学年ぐるみでBをハブにしていたことがわかったけど、リーダー格のAに歩み寄れないのはまあ協調性のないBが悪い。(Aには後で軽く注意しておいた)
有志はサークルと並行して他大学の有志が集まってる楽団や社会人楽団に入っている。なお今のメンバーでは他のコミュニティに参加しているのは少数派。
Bはそこそこ上手いのもあって他大学の有志の楽団に参加している。もちろんうちの大学のサークルの練習には参加しているけど他大学の楽団の方に軸を置きつつある。うちのサークルに所属していなくてもその楽団に参加できるんだから、Bはサークルにいる意味があるんだろうかと思う。
長々と書いてきたけど要はBはうちのサークルに合っていないと思うから辞めてほしい。(やり方があまりよくないとは言え)Bは同期からハブられてるし、Bの同期のリーダー格のAをはじめサークル内のほとんどからよく思われていない。
ぶっちゃけBさえいなければサークル全体の雰囲気が良くなるし面倒事が減って楽ではある。Bが自発的に辞めてくれるのが一番だけど辞めろとは強く言えないし、どうしたらいいだろう。
コロナで仕事がヒマになったこともあって(40代後半自営業、実質所得2000万円程度、妻と子供2人)、出会い系サイトに登録してみた。もともと5年になる恋人の甲さん(アラフィフ、既婚、子供あり)がいて、甲さんとはナンネット的な遊びをしていたのだけど、ナンネットのような異性に満たされた男達じゃなくて、出会いを求めている男性達に彼女の裸の画像や動画でも見せてあげた方が喜ぶんじゃないのっていうくらいが登録の動機だった(2020年3月登録)
登録してしばらくは、業者さん、あるいは個人事業主売春婦さんからの売り込みのメッセージがどんどん届いた。お店のサイトで顔と身体を出しても客が付かない、あるいはそういった店で働く程度の協調性みたいなものがない女性が多いのだろうなと思うので放置しておいた。出会い系サイト内で日記がかけるので、そこに彼女とこんなラブホテル行ったとかいうような内容を性描写は抜きで、彼女の身体の写真(顔無し)と共に貼っておいた。温泉にいけば温泉での裸、露天風呂付きのラブホテルにいけば、青空と裸、そんな感じだった。
しかし、出会いを求める男性はそもそも男性が書いた日記なんて見ちゃいないのだろう、ほとんど反応は無かった。それではまたナンネットの方に戻ろうかなと思っていた5月に40歳くらいの女性からメッセージが届いた。「条件があれば教えてください(お金欲しいんだったら言ってね)」というメッセージを返したら、どうやらお金は求めていないみたいだった。それでこんなコロナの状況ですが会いましょうかってなって大阪のスパワールドの近くで待ち合わせをした。車から降りてまっていたらすぐに彼女は来て、挨拶したら、ホテルに行きましょうってことになって、そのままホテルに移動して、2時間ほど汗を流して、また駅まで彼女を送って別れた。
その彼女とはその時だけだったが(私のルックスかセックスが基準以下だったのだろう)、また6月にもメッセージが届き、その女性(アラフォー)とは、2か月の閒に3回くらいあった。車でピックアップしてホテルにいった。もちろん日常会話もするし、ラブホテルご飯だけど一緒にも食べるし、子供の受験の話なんかもした。でも基本的にはセックスをして別れた。その彼女は夫の転勤とやらであえなくなった。本当かもしれないし違うのかもしれない。
私がその出会い系サイトで書いているプロフィールは別に通り一遍のことだ、性感帯は?みたいな質問にはさすがに答えていないが(そんなのまじめに回答している中年男性なんて気持ち悪い)身長、体重、活動エリア、なんかを書いている程度だ。だけど1か月に2通くらいそんなメッセージが届く。8月に会った女性乙さん(アラフォー既婚者子供あり)は、すごく相性が合う方で、乙さんとはしばらくは付き合っていきたいと思っている。この日記を書いている翌日もデートの予定だ。そうしているうちにもまたメッセージが届いた。30代後半の彼女、丙さんはなかなか綺麗な方で、その方とも会ってセックスして、あとはカカオで「おはよ。」「仕事終わったよ」「お休み」くらいのやりとりをしている。しばらくは会い続ける予定だ。
もともとの彼女甲さんとは、2週間に一度くらい会って、お互いの生活圏から離れたあたりでデートするかホテルにいっていた。あんまり切ない気持ちにならないようにホテルにはお金かけて(休憩で1万円くらい)いたくらいで、ごく普通の不倫カップルのデートだ。そこに乙さんが同じくらい、丙さんが月に一度くらいってことで、月に5回もデートするようになってしまっている。出会い系のプロフィール欄を「出会えないおっさんになっております」と書き換えてしまっているので、今は業者以外からのメッセージは届かなくなった。
半年ほど出会い系をやってみて思うのは、彼女達は、「おはよ」、「仕事お疲れ」とメッセージをくれて、そしてデートしてくれて、丁寧にセックスしてくれて、キレイだと言ってくれて、ときには好きだとかも言ってくれて、デート代くらいは出してくれて、あとくされのない異性を求めているんだなあってことだ。
私はなんとかその条件にあてはまるので、これをモテるといっていいのかどうかよくわからないけどそんな感じだ。乙さんとも丙さんとも事前に写真の交換はしなかった。メッセージの交換はある程度したけど、でも顔もわからない、どんな人間が来るのかもよくわからない。でも彼女達は私の車(ごくごく普通の仕事用のプリウス)に乗り、ホテルにいく。
35歳で結婚するまでは異性関係は乱れていたが、結婚してからは5年前に甲さんが彼女になるまでは、一度も浮気したことがなかったし、それ以降も甲さん以外とはセックスしていなかった。それがこのコロナ禍の中で半年で4人とセックスをした。プロフィール欄に出会いいりません!と書いてなかったらまだ人数は増えていくだろうと思う。
こんな簡単に(とはいっても平日の昼間に時間作れて、車出せて、1万円程度のデート代を負担してあげられる程度の条件はあるが)、出会いが存在する時代なんだなってことに驚いています。そして彼女達は私よりこの世界の先輩で、定期的に会うようになっても、お互いの細かい個人情報的なことは知ろうとしません。何回もセックスして好きとかいう言葉だって交わしたりもするのに、知っているのは相手のハンドルネームだけ。いろんなことを考えたらそれくらいがいいのはわかりますが、なんとなく抵抗があるのは私がまだ半年ほどの経験しかもたないビギナーだからなのかもしれません。
彼女達はメンヘラ系でもなく(そういう方からのメッセージも来るが、メンヘラの人は日記サービスでメンヘラの方っぽい日記を書いているので地雷踏まなくて済む)、今どきのちょっとこぎれいにしたお母さん女子だ。そんなお母さん達が平日の昼間、子供が学校に行っている閒に、お父さん以外の男性と会ってキスしてセックスして好きだと言われて、また家に戻ってくる。
妻から、子供の幼稚園時代の仲良しグループ8人の中に、恋人が外にいる人が3人いるらしいというのは聞いている。妻にだって恋人がいてもおかしくない。妻ともセックスはしているが、日常の生活から切り離された恋人という立場の男性との会話、キス、セックスの方がそりゃ楽しいだろうとは思う。知らない閒に中年男女の出会いってすごいことになっていたんだなとけっこう感動しているというのが、出会い系登録から半年たった時点での私の感想です。もうしばらく使ってみます。
そりゃ仕事やなんや、英語が便利なのは確かだろう。が、日本語には日本語にしかないものがある。と、思っている。
例えば、虫の声。
虫の出す音を「声」と感じるのは、日本人とポリネシア人だったかな、だけらしい。
日本人とポリネシア人は、虫の鳴き声を言語を司る左脳で聴き、西欧人は右脳で聴いているのだとか。
このため日本人は、虫の出す音を「声」と感じ、そこに様々な情緒を感じとる。しかし西欧人にとっては虫の出す音は「音」であり、うるさいと感じたりもする、と。
他にも、雨音や、川を流れる水の音。風の音なんかも同じだとか。
で、こういう違いがあらわれる原因はなにかというと、どうやら日本語にあるらしい。
日本語・ポリネシア語を母語とし、幼少の頃から触れているかどうか。それによって、こういう違いがあらわれるのだとか。
日本人じゃなくても、日本語を母語として育てば、同じく「声」と感じるようになるらしいです。
こういう様々なものに情緒を感じる力と、制約が少なく柔軟な日本語の特徴とが相まって、日本語には擬音・オノマトペが多く、多彩です。曖昧なものを曖昧なまま伝え、共有する力に長けています。これは日本人の「和」という言葉に象徴される、共感能力や協調性の高さへも影響しているでしょう。
他にも、日本語は制約が少なく柔軟という特徴をもっています。そういった特徴は、新しい言葉を作り出す能力の高さに繋がっています。
ノーベル賞を受賞した益川教授は、英語が苦手で、ノーベル賞受賞のスピーチにのぞんだ折り、日本語でスピーチをしました。
これに世界は大変驚いたらしいです。何に驚いたかというと、英語が出来ないということではありません。もちろんそれもあるでしょうけれど、もっと驚きだったのは、英語が苦手なのに、ノーベル賞を取れるほどの学を積めたことに対して驚いていたのです。
大学レベルの学問まで、ほぼ単一の単語で学ぶことができるのは、英語と日本語くらいじゃないでしょうか。(他にもあった場合はすみません)
これはなぜかというと、日本人が、全て日本語にしてきたからです。言い換えると、新しい単語を作りまくったからです。
そういうことができた理由は、日本語がとても柔軟な言語だったからに他ありません。
柔軟で、情緒溢れる言語は創作を生み、独特の感性を形作ります。それらが日本人の「日本人らしさ」に与えてる影響はとても大きいでしょう。
母語を英語にする。そりゃそれの方が楽なこともあるでしょう。けれど、古来より紡がれてきた「日本人らしさ」を、徐々に薄めてしまうかもしれない可能性を考えたら、いらないなと思うし、なによりこんなに素敵な言語を捨ててしまおうと思える気がしれないなぁと。
わたしはそう思うなぁ。
小さい頃から集団行動が苦手で、通信簿にはよく「協調性がない」と書かれていた。
サラリーマンになることなく生きていくことを強く意識し始めたのは高校生の頃で、どうすれば実現できるかを考え、情報工学に進むことを決めた。
大学生の頃にいくつかWebサービスを作ってはいたが、食べていけるほどの収益はあげられず、結局サラリーマンとして就職した。
就職先は幸運にもホワイトな企業で、それなりに楽しく働いていた(技術職ということで技術に没頭できるのも良かった)。
とはいえツラいこともあり、何より人間関係が億劫に感じ、自前のサービスを作ることはやめなかった。
そんな中、サービスがちょっとだけ当たり、毎月10万円くらい入ってくるようになった。
10万円では生活できないが、もともとスキマ時間で開発していたものなので、フルコミットすれば売上を伸ばして生活もできるのではないかと思い、仕事を辞め個人開発に集中することにした。
初めは全く上手くいかず、貯金だけが減っていく生活だったが、紆余曲折あって、最終的には毎月100万円弱くらいの売上まで持っていくことができた。
こうして昔から目標にしていた生活に到達したのだが、全く幸福を感じることがなかった。
100万円を200万円、300万円に増やそうという意欲は湧かず、もともと好きだったゲームに没頭していたが、それも何となくの暇つぶしでやっていた。
そんな自堕落な生活をしていたこともあり、売上はどんどん落ちていった。
それでもサービス開発する意欲はなく、一応食べていけるくらいの売上と貯金を切り崩して漫然と生きていた。
この期間は空白期間ではあるものの、実績っぽいものはあるので就職することはできた。
平日は毎日出社して、納期に追われながら多少のストレスのもと働いている。
しかし、目標にしていた全く幸福ではなかった生活よりも、必死に避けようとしてた今の生活の方がよっぽど幸福に感じる。
宇宙大学の受験生である主人公タダトス・レーン(タダ)は、最終テストである実技試験(協調性のテスト)として、筆記試験の成績に基づいて組まれた10人チームのメンバーとなり、漂泊中と仮定して外部との連絡を断たれ、惑星「黒」の衛星になって公転周期53日で回り続ける廃棄済みの宇宙船・白(はく)号の乗員として53日間船内にとどまるよう言い渡される。だが白号に乗り込んでみると、そこにいたのはなぜか10万9900人多い11万人。大学側に事態を知らせようにも連絡手段は司令室(ブリッジ)に設置された非常用赤ボタンのみであり、押せばチーム全員が不合格になってしまう。試験合格のため、11万人は互いに疑念を抱きながらも規定の53日間を過ごすことに決める。
1 声の出演:名無しさん 04/07/20 21:04 ID:kd4r+Djf
当時大学3年生だったオレはGS美神のおキヌちゃんをやってたマリ姉に出会い、
即効でファンになった。元々合コンや女の子とは縁のない生活だったが、
毎日マリ姉の歌を聴き、毎週ラジオも聴き、もちろんハガキも出しまくって
嬉しくて本気で涙が出た。人生で最高の喜びだと有頂天になって、帰り道一人で吼えてた。
地元の役場の事務に就職した後も、それだけが楽しみで生きてきた。
他の事は考えようとしなかった。結婚も、彼女も、友達も、そんなのは関係ない、いらないと思ってた。
そして去年の9月。
目を疑った。絶対ありえない、絶対ありえない。死んでもありえない。
マリ姉と釣り合わない、失礼だ。ふざけんな。ふざけんな。一週間仕事を休んだ。
失意の内に半年が経った。もうラジオも聴いてない。会員番号2ケタ前半のファンクラブも辞めた。
最近になってようやく、俺も自分の幸せを掴もう…そう思えるようになってきた。
だけど俺には何も残ってなかった。20代という多感な時期に何もしなかったんだ。当たり前だ。
マトモに他人と喋ったのはいつだっただろう。女の子とおしゃべりをしたのはいつだっただろう。
恋について、結婚について、そして人生について最後に考えたのはいつだったんだろう。
残ったのはブサイクで汚い30代の中身スッカラカンな男。それだけ。
こんなのが今更どうやって幸せ掴めってんだ。声優のおっかけは何も生み出さなかった。
それに今まで気づかなかった俺は最高にバカだ。
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
学校や職場っていうのは「日常的な言動」を見られる場なわけで、それが評判よくなかったんじゃない?
アクが強すぎる性格だったり(気が強すぎるとか、天然すぎるとか)、協調性がいまひとつだったり、男子と積極的に会話しないで女子と連んでばかりなタイプだと
近寄り難く見られたりするしな
ここ数年人に「結構すごいこと言いまくってるから一回診てもらった方がいい、でないと人が離れていく」というようなことを言われていて、増田にドバッと吐いたら増田でも病院に行くべきだと言われたので、流石に行くかと。ちょっとした躁鬱?を繰り返しながらたまに連絡を取ろうとして、でも自分は病気だなんて認めたくないのもあってやめたり迷ったりしている。
関東在住、都内ではない。心療内科はいろいろあるみたいだがとりあえず2軒あたった。
電車で一駅。駅ビルの中にあって、知人にメンクリに来たとはバレにくい(重要)連絡したのは春頃。
平日の午後に電話して、予約を試みた。
「混んでて1ヶ月は空かないんです、一応半月後に新しく受付を始めますが、先着順です」とのこと。loppiじゃないんだぞ。私は今辛くて辛くて仕方がないのに、半月なんて待ってられるかよ死ぬぞ!と怒鳴りたいのを堪えて、なるべく丁寧に電話を終えた。怒鳴ったら次恥ずかしくて電話しになくなるから…。結局今電話して、また同じようなことを言われると思ったら今度こそ我慢できるか不安で、電話できていない。
B心療内科
最寄駅近く。歩いて行けるのは悪くない、悪く無いんだが外に面しているので、ここに入っていくところを近所の人に見られでもしたら終わる。友人が世話になったことのある医院だそうで、予約の電話を入れた。
「混んでいるが、平日の朝なら空いてる」
なんかわかる気がするが、平日の朝は私だって働いているので、土日の朝にしてもらえないか聞いてみる。
「休日の朝は混んでいるので、初診は受け付けていない」
ちょっと気が遠くなった。心療内科にかかるというのは私にとってほとんど敗北宣言と一緒なのだ。自分が負け組なのを確かめるために有給を取るのはつらい。というかいきなり言われても取れない。限界でなんか文字もろくに読めなくなって焦りながら電話するけど、誰も私の焦りなんか気にしてないのだ。当たり前です。どうしてよどうしてよどうしてよなんで私ばっかり!と叫び出したいのを飲み込んで電話を切る。叫んだら電話しにくくなってしまう。
と、そんな具合でなかなか病院に接続できていない。みんな簡単に心療内科にかかれとは言うが、実際無理じゃ?と思う。私はまだ自分で探して自分で電話をかけてられる分それなりに元気なんだろうと思うが、本当に希死念慮の塊みたいになっちゃってる一人暮らしはどうなっちゃうのかなと思った。都内はもっとあっさり行けるのかな?
こんな風になかなかうまくいかないと、就活していた頃のことを思い出す。書類で落ちたことは一度もないのに、面接に入った瞬間バンバン落ちた。ブスだからか、声が悪いのか、答えを考えてもどうしてもうまくいかなかった。面接官と話が盛り上がることもあったが、なんとなく「あ、これ機嫌取られてる」ってわかった。私と面接官の間にはゼラチンの塊みたいな透明の壁があって、言うことは何にも伝わっていないのだ、みたいな感覚が常にあった。ちゃんとキャリアセンターで面接を練習してるのに、「態度も言うこともきちんとしてて悪いところなんて一つもない」って複数人に言ってもらえたのに通らない。グループディスカッションだって「まず人を褒めて、意見を付け足す」のを徹底して協調性のある良い人をやった。バカじゃねえのと思っていても顔に出さない練習をした。それでもダメで、なにがどうダメなのかわからなくて毎日泣いて、目の前の文字が読めなくなったり急に涙が出てくるのを皮膚毟って誤魔化したり、それでもアルバイトなんか全然動けなくなって鍵穴に鍵を差し込んでどっちに回したらいいかわからなくてなってパニックになったり、気がつけば裏方仕事しかさせてもらえなくなっていた。そらそうだ。そんな恥ずかしいこと友人はともかく家族にも絶対言えなかったが、涙だけはボロボロ出て、「いい歳して情けない」とか言われて、本当その通りで何しても止まらない涙やわけのわからない妄想に困り果てていた。ヤバいのが「私は小説家になるので働いてる場合じゃない」何言ってんだ?この思想がポンとバイト中に出てきて、真っ当な人間になれそうにない、終わりだ、と思った。結局めちゃくちゃよく喋る社長がものすごい勢いで楽しそうに話すのを聞いて面接が終わったような会社に入って、そのまま田舎で過ごしているような状態。だけど心が就活中のままなのかもしれない。選ばれないことが苦しくて辛くて悔しくて、何かの調子に頭まで就活してた頃にパン!と戻る。普段バネを引っ張って目の前のものに集中してるフリをしてるが、少しを気を取られるとすぐにバネが戻って頭と心があの頃に戻ってしまうのだ。最近のトリガーは結婚。結婚したいだなんてひとつも思っていないのに、知人の結婚の報せを聞くとバネが大暴れして大変なことになる。結婚するための努力を何ひとつしていないのが唯一の救いだ。何かしてたらもうヤバかった。誰のことも好きじゃないのに、誰か、これも誰でも良いと言いつつも私が定めた「普通」の人に一度は選ばれないとダメ、みたいになっている。就活も結婚も、人生の途中経過を答え合わせしていると思ってしまうのだ。スムーズに良い会社に就職できなければ0点。ちゃんとした人に一度も選ばれなければ0点。このまま0点が続いて頭がおかしくなりそうだ、みたいなことを自虐っぽくツイートして、それで傷つく人がいることを考えられない。今は一時的になんてバカなことしてるんだろうと考えられるけど、ツイートしてる時はそれどころじゃない。表に出せない激情みたいなものを全部吐き出して人を傷つけて、また好きなものがひとつもない日常に戻る。一人暮らしだけど、ひどい時は殺されたくて鍵を閉めないで寝てしまう。田舎だから何も起こらず普通に朝。
我が家の小4の息子はお絵描きしていないと息が出来ないんじゃないかと思うほど、
ずっと絵を書き続けている。
万人が「この絵いいね!」というほどでもなく、面白い絵を書くなぁ程度のものだと思っている。
絵画教室等に行けば、もっとスキルアップできるのかもしれないけど、
本人が楽しく書き続けるのが一番!人に指導されるのは嫌だというので、
日々、紙とペンを与え続けて、書き散らかしたものを片付けなさい!と怒っている。
毎日、数十枚の紙が散らかって片付かないのも腹が立つけど、まぁ、それは本人の問題。
最近面倒なのが、2年ほど前に越してきた隣人親子。
隣の女の子も同学年でお絵描きが好きらしく、お絵描き仲間として時々遊んでいる。
が、この隣人母がイラストレーターを夢見て破れたタイプの人らしく、
自分の子よりも絵が上手いと認識した息子に対して、変な絡み方をしてくる。
目の前で息子が書き上げた某キャラクターの絵よりも、
卒園アルバムにあった幼稚園の時に書いた数字やひらがなを擬人化した絵をほめちぎり、
「そんな誰でも描く絵よりもこっちを磨けばいいじゃない!」とか言いだす。
あまりに自分の現在の絵をほめてもらえないので、息子は一時期、なんとも言えない絵を書き続けた。
それでしばらく親子での出入りは、それとなく控えてもらっていたけど、
コロナ後はまた時々親子で来るようになった。
そしたら、妙に息子に迎合するようになっていた。
「紙とペンがないと俺生きていけないわ」
「わかる、わかる。おばちゃんもね、そうなのよ!紙とペンがないと無理よね!
みたいな、妙に仲間意識を作ろうとする感じが非常に気持ちが悪い。
目の前で書いているあなたの娘は?と、つっこみたくなる。
「もう、これだけ気があうと、自分の子供みたいな気分になるわ!
みたいに言われて、息子ともども閉口し始めている。
ちなみに息子は、隣のおばちゃんにまったくもって親近感はない。
そして、息子の絵と隣人母の絵の質は違う。
勝手に仲間にすんな。
息子が人に絵を書くときは、見た人の感情を動かしたくて書いている。
人に見せた時に、笑い声や驚きの声が出たら、息子はいい笑顔をする。
「わぁ、上手い」は誉め言葉じゃないのだ。
これを息子が隣人母に言ったら、
「わかるわかるー。上手いって言われるのが当たり前すぎて、誉め言葉じゃないよね!」って、
答えが返ってきた。
だから、違うって。だから、絵のキモを見ないおばちゃんって言われるんだって。
第一声で「上手い」って言われるのは、その絵に「上手」以外の受け取り方を相手が出来なくて、
本人の書いた意図が伝わらなかったということだからなんだって。
彼にとって絵が上手になることは、自分の絵の意味を相手に伝える手段にしか過ぎない。
それ以外の絵を見せない隣人母とは、正直、相容れないタイプなんじゃないかと思ってる。
いや、それはそれですごい技術だと思うんだけど、自分と息子を同一視するにはあまりにも姿勢が違う。
音楽鑑賞中に落書きしてるんで近づいたら、その音楽のイメージをリアルタイムで書き続けてました!
初めての事態に動揺しましたが、授業はちゃんと受けているので、許可というかそっとしておきました!
自分の手帳の片隅やスマホに、自分で描いた絵の一つもないやつが、
人に褒められる場面でしか絵を書かないやつが、勝手にうちの息子を自分の子にとか言うな!
ああ、これ以上絡んでくるようだったら、同じ学区での引っ越しも視野に入れないとかなぁ。
一度体を許したひととまた会ったりご飯食べに行くと、高確率で何喋ったらいいかわからなくなる。
初対面の時は人見知りもあるから間を恐れてすっごい喋るんだけど、次会った時に完全視線うろうろしてだいたい「今日喋らないね。何かあった?」とか聞かれる。
昨日も数回いたした男性と会ってたんだけど、紅茶割りを1.5杯のむまでろくに喋れなかったし、話しても尋常じゃなくどうでもいいオチのない話しかできなくて「?」みたいな顔させてしまった。
てか数回っていっても6−7回してるからまあまあ会ってる方なのではと気が付いてなおさら戦慄した。
これが付き合ってる男性ならまた別なんだけど、付き合ってない、いわゆる体の関係だけひとはなんか向こうの許しがない気がして、上手におしゃべりできない。
本当に刹那的でペラペラの関係だから、いつ疎遠になってもおかしくないし、なんとなく地雷を踏んだり不興を買うのが怖い。
惚れてるわけじゃないんだけど、体を許すぐらいだからそれなりに人間として相手に興味持ってて、あわよくば仲良くなりたいな〜と思ってるのに、私なんかが口を聞くなど畏れ多い…みたいな謎の感覚に襲われて、変な緊張感が出てしまう。
ちょっとお酒回り始めたり、行為後は自分でも不思議なぐらい打ち解けられるんだけど。
昨日もお酒回ったら冒頭のクズコミュニケーションが嘘みたいに「なにwむかつくわ〜w」とか言いながら相手の肩ばしばししてた。
こうやって書いてて、本当に自分はコミュニケーションが下手くそなんだなと思った。仕事とか抜きにした状態の、心が裸のコミュニケーション。
これでも会社では「協調性が高くコミュニケーションに秀でている」とか評価受けてるんだよ、本当だよ。
きっと毎回冒頭わけわからん態度とってるから、変な奴とか気持ち悪い奴とか思われてるんだろうな…と思って、また変な冷や汗をかく。
生理うんぬんの話はちょっと置いておくとして、「幼少期から遊びの興味の方向は男女でかなり違う」の部分について、ふと思い出したので書いてみる。
実際のところ、遊びの方向はかなり違うと思う。
でもそれは脳の違いではなく、8割くらい同調圧力の話ではなかったか?と思っている。
私は小学生の頃、男子が遊んでいたカードゲームをやりたくてやりたくて仕方なかったのだけれど、女子は全く見向きもしなかった。
時々男子に混ざって遊んだけれど、男子とばかり遊んでいると女子との交流が疎遠になってしまうし、
小学生の頃ってそういう「人とは違う事をしている人」を糾弾する時代だった。
大人(主に教師)も圧力をかけたけれど、何より子供自身が強い同調圧力を作り出している。
ある程度成長すれば他人のやりたいことを尊重する考えも出てくるけれど、小学校前半は仲間はずれは重要な問題だった。
なお学校も友達を作る事を要求するし、世間も学校という機関は協調性の場だと言う。
一人で違う事してると咎められる。学校は協調性を養う場なんだとさ。
他人と合わせる必要があり、結果として「いわゆる女の子の遊び」に流れるより他無かった。
ビデオゲームの男女比がそこまでエグくないのは、「一人で遊べるから」というより他ないと思う。
嫌々女の子の遊びを…というわけでもなく、友達との遊びである以上それなりに楽しい。
でもものすごくカードゲームはやりたくて、当時は相手もいないのにカードを買って眺めていた。
親から見たら一人でカードを眺めて孤独にほくそ笑んでいるより、友達と声を出して笑ってる時のほうが楽しんでいるし、熱中しているように見えていたと思う。
だけど私はカードゲームのほうが好きだった。
興味を持つ遊びは男女で違う、と言うけれど
例えば歌詞とか小説とかにおいても、そもそも受け手の立場にとっては他人のことなんかわからないわけである。尾崎豊が歌詞を書いたって、俺には尾崎豊の人生のこともなにもわからないし、なんで亡くなったかとか、マジで15歳でバイク盗んで走ってたかとかもわからない。なぜなら俺はそんなことをしたことがないから。これはきっと15歳でバイクを盗んだ人間にしかわからない「経験」だし、20歳になった今バイクを盗んでもそれとは違う。なんなら15年間尾崎豊という人間を生きていなければわからない歌詞であるのに、そこに人気が集まったのは、「なんとなくわかる」という自分を持っている、もしくは作り上げてそこに投影したからではないだろうか。では作り上げた自分という人格に価値があるのか。
「文章」を理解するのは大変に難しいと考えている。ハグやキスといった身体的コミュニケーションに比べて明らかに難易度が高いのは、目に見えないからだろう。受け取り手の感性に多く順応するために最も適切なコミュニケーション方法は五感に依存するものと比例している。たとえば本のなかでも絵本は最大限に五感に攻撃している。絵と文章、読み聞かせなど、幼少期に「自覚」の獲得に必要な感性に訴えるもので、人間はそこから物心をつけていくわけだが、そこに協調性というノイズが入るせいで感性はやがて鈍ってゆく。
人間は所詮動物であるため、種の保存という目的さえあれば何の問題もなく活動を行えるはずだが、そこに思考という足枷がかかる。人間は考える葦であるが、考えなくてはならない葦である。この葦は協調性、多様性といった様々な性質を持たざるを得ない葦である。本来必要ではない、無駄な思考であるこれらを動物にとってプラスにとるかマイナスにとるか。それもまた一つの多様性というノイズのひとつになる。
詩や文章という他人の知識や語彙に依存したメディアが発展するのは特に人間的でもあり、前時代的でもあると考える。人間が思考した結果が他人への依存であるならば、思考したことは無駄であると一蹴できるからである。なぜなら思考は内的感覚への訴求であり、それもまた自らの知識や語彙に依存しているからだ。他人から受け継いだ知という感性を自らに受け止め、それを発展させることに意味があるとすると、それと矛盾するからだ。その矛盾と戦う人間たちは極めて無駄であり、また自然であると考えるのである。こんな「文章」を書いている自らについて。
学校の悪いところってここだよなって思うわけだよ。
テストの点数や生活態度などで通信簿の良し悪しをつける癖に、習ってない漢字を使っていたのを褒めただけで、
「他の生徒を見下すようになる」なんて考えがよく出るなって感じ。
なら、そもそもテストというもので生徒の理解力の良し悪しを決めるなよ。生徒同士がテストの点を見せあったりする時点で「見下す可能性」はあるわけでしょう。
それを棚に上げて、子供が難しい漢字を使ったのを褒めたくらいで管理職がギャーギャーいうのはおかしいんだよ。
なんでそんなに同じ高さの杭しか育てようとしないのかが不思議。
同じ高さの杭にだってなれない子はいるでしょうに。その時点で見下すための要素を作り出しているわけだよね。
日本人の悪いところ(全員じゃないよ)って、こういう管理職のようなネガティブ的な考えばかりする大人がいるってところ。
習ってない漢字だろうが、習ってない数式だろうが使える子は勉強や読書で関心を持ったから出来るようになっただけで、なぜ同じ歩数で歩かなきゃならないのってね。
そりゃね、一定の協調性は必要だよ。だけど、同じ歩数にしてすでに理解している授業をつまんなく受けさせてどうするの?
理解しているから見下すってくだらないネガティブ思考を持つよりも、理解しているから周りの生徒も勉強や読書に関心を持つかもしれない影響力を考えないのかね。
「すげー、なんでそんなの知ってるの?」から始まって「それはこれを読んだからなんだよねー」っていう流れよりも
「なんでそんな事も知らないの?馬鹿なの?」って生徒になる!なんて、根暗な考えに持っていく管理職ってどうかなって思うのね。
どんなに同じように育てようが差は生まれるものなんだから、同じ授業を受けさせても多様な考えを持てるような生徒たちの個性に発展させたほうが良いと思うんだけどね。
というか、昔の学校でも辞書を読むのが好きな子は普通に知らない漢字を使ってたし、担任に「よく知ってるな!」って褒められていたし、それによってその子は勉強に強く興味を持つようになったよ。
それが普通だったのに、なんで同じようにしか育てようとしないのかね。協調性うんたらの話を出すのなら、それはイベントなどでのクラス一丸、全校生徒一丸での協力作業で育成すればいい話でしょう。
人間は一人じゃ生きていけないとか
皆さまのお陰でとか
縁がどうのとか
人と人の繋がりがどうのとか
助け合いとか
協調性とか
その陰で誰かのせいで失敗した者や
誰にも顧みられずそれでも成功した人がいる訳で
そういうのが嫌なんだよ
弱々しくて見てて本当にムカついたって人はかなり多いのではないのだろうか。
急に辞めるって言う、体調管理ができない、嘘をつくっていう無能社会人の三大特徴を全て兼ね備えた悪魔の総理だった。
次はもっと有名な人になって欲しい。もし仮に無能でも許せるような人物が良い。
安倍のお友達になるようなことがあれば国民のやる気は完全に無くなる。
前置きが長くなったが、以下予想していく。
土曜日のTBSの番組ではいつも政治について発言している。政治的な発信ができる人物だ。面白おかしく伝える能力も高いので、分かりづらい国の制度を分かりやすく国民に伝えるのが期待できる。
また、映画監督としても世界的に有名で、世界的にも確実に人気が出る総理である。
②橋下徹
昔は大阪府知事だった。私は大阪府民ではないものの、府知事選挙で負けて辞めたときには残念だなあと思ったのを強烈に覚えている。それくらい府知事として有能だった証拠だ。
東京には及ばないものの、大阪をまとめていた実績があれば、総理大臣をやらせてみる価値はあるのではないだろうか。
③イチロー
元スポーツ選手だから安倍の100倍健康なのは間違いない。日本のスポーツ選手で最も世界的に活躍した。人気もかなり高い。
野球をやっていなければ東大に行けてたとも言われている。それくらいの頭脳があれば、アメリカ在住で日本の政治はよく分からなくても、勉強してすぐにできるようになるのではないか。
④三木谷
楽天のホームページは見にくいので賛否両論あるかもしれないが、日本を経済的に成長させたい場合は三木谷だ。
社長として世界的に成功していて、楽天では社内の公用語を英語にしている。経済的だけではなく、国際的な活躍も期待できる。トランプと対等にやり合えるイメージが湧く。
大穴で、コロナ対策限定であればノーベル医学賞を取った山中教授もかなり考えられる。
以上、独断で予想してみたがどうだろうか。
本当に立候補するかは分からないけど、市民として声を上げていきたい。政治的な声を上げ続けていかないと永遠に実現はしない。次の総理が決まるまで毎日ニュースに注目していきたい。
当時大学3年生だったオレはたまたま配信で見かけたココ姉に出会い、
即効でファンになった。元々合コンや女の子とは縁のない生活だったが、
それからはココ姉の為だけに生きてきたようなモンだ。
毎日ココ姉の歌を聴き、毎週ラジオも聴き、もちろんハガキも出しまくって
ファンやって二年目、スパチャで俺の名前を読み上げてくれてた時には
嬉しくて本気で涙が出た。人生で最高の喜びだと有頂天になって、帰り道一人で吼えてた。
地元の役場の事務に就職した後も、それだけが楽しみで生きてきた。
他の事は考えようとしなかった。結婚も、彼女も、友達も、そんなのは関係ない、いらないと思ってた。
そして去年の9月。
目を疑った。絶対ありえない、絶対ありえない。死んでもありえない。
ココ姉と釣り合わない、失礼だ。ふざけんな。ふざけんな。一週間仕事を休んだ。
失意の内に半年が経った。もうラジオも聴いてない。会員番号2ケタ前半のファンクラブも辞めた。
最近になってようやく、俺も自分の幸せを掴もう…そう思えるようになってきた。
だけど俺には何も残ってなかった。20代という多感な時期に何もしなかったんだ。当たり前だ。
マトモに他人と喋ったのはいつだっただろう。女の子とおしゃべりをしたのはいつだっただろう。
恋について、結婚について、そして人生について最後に考えたのはいつだったんだろう。
残ったのはブサイクで汚い30代の中身スッカラカンな男。それだけ。
こんなのが今更どうやって幸せ掴めってんだ。Vのおっかけは何も生み出さなかった。
それに今まで気づかなかった俺は最高にバカだ。
ウヨは国民の健康や生命をあくまでも将棋の駒程度にしか考えていなく、それよりも国家や集団の維持の方が重要と考えている。個人は集団のためにあるという考えはここでも揺るがない。
それでいて、自分だけは絶対に感染しないという根拠のない自己中心的な自信がめちゃくちゃ強いからマスクなんて意地でもしないし自分が無症状感染者だったとしても発症してないなら自分的には何の問題もなくて、他人にうつしてもうつされた他人がどうなろうと知ったこっちゃない。
そして、他人にも平気でマスクなしで至近距離で大声で話しかけるし、店舗や病院などの行列でいわゆる社会的距離を守らない。職場などでは対面での面会や会議、食事を強要するし、それに応じない者を
臆病者
協調性がない
自分だけ助かればいいと思っている
卑怯者
だと非難する。
その結果、医療関係者が死ぬ程の思いをしても、精神論で乗り切ればいいと他人事だし、彼らが切実に要望しているのは適切な業務に必要な待遇と物資なのにやつらはブルーインパルスをとばせばいいと思っている。
さらに、いざ誰かが感染ともなれば、下手すれば、マスクをしないウヨどもこそが移した当の原因の可能性が高いことすら棚に上げて、そいつは気合いが足りなかったからだとか不用意にほっつき歩いているからだとか自己責任だからなどといって、感染者が助けを求めることも恐ろしくなるほどの勢いで叩きまくる。
はだしのゲンを読んでみると、こいつらとホントによく似た連中があちこちに出てくるので全く驚いた。日本の社会は80年近く前とほとんど何も変わっていないのだ。
緊急事態宣言下、スッキリのNiziプロ特集を見ることにハマっていたが、
最初から世界デビューが決まっている大手プロダクションのアイドルオーディションはかくも厳しいものなのだと思った。
この番組を見た上で、アイマスの765プロ所属アイドルが世界デビューするとなったら誰が選抜されるか考えてみた。異論は認める。
アーケードゲームからのメンバーは良くも悪くもASAYAN的でつんく的なチョイスのメンバーなので、グローバルビジネスとしてのガールズグループオーディションで合格するには力不足である。
唯一、JYPからキューブがもらえる可能性があるのは真だろう。真は歌やダンスの実力もあり、体力にも不安がない。そして、チームワークに配慮できる性格がある。また、アニマスの配信を見て、他のアイドルを励ましたり場の雰囲気を盛り上げたりと、春香と同様に周囲に気配りができるタイプであることに気づいた。「人間性」を重視するJYPでは評価につながるかも知れない。
961じゃねーかという話はさておき、やはりこの3人は実力があることとJYPがいうところのアイドルになる「準備」が出来ているメンバーである。素人感が親しみを与える初期のモー娘やAKB的な雰囲気のあった765プロに、アクターズスクール的な養成所でトレーニングをしっかり受けてきたメンバーが追加され、アイドルグループとしての立体感が生まれたのが13人体制のASというイメージが自分にはあったので、美希・響・貴音がアニマスの最初の方で下積み仕事をしている様子は個人的に違和感バリバリだった。
・ミリオン組
この辺は多くの人たちの同意が得られそうだと思うので略。安定したパフォーマンス力と精神的な余裕、物怖じしない性格はどこへ行ってもアイドルとして通用するだろう。
海美はバレエの素地があり体を動かすことが得意なだけでなく、海外で活動するお姉さんもいるので、他のメンバーよりグローバルな舞台で活動することへの理解が深いのではないだろうか。
エレナも同様にブラジルが彼女のバックグラウンドにあり、実力や体力面も悪くない。
そして、この2人の最大の魅力はファンが喜ぶような元気に溢れたパフォーマンスができるところだ。JYPも審査員やお客さんと心を通じ合わせるようなパフォーマンスをオーディション参加者に求めていたが、見ている側まで元気になるようなパフォーマンスができることはアイドルに必要なスキルであり素質である。
・次点、その他
静香や志保のように歌はうまいがストイックすぎる性格のタイプは、ゲームユーザーからの人気は悪くないが、JYP的にはファンの方を向いていない、独りよがりで協調性が弱い、といった評価を受けても仕方がないと思う。
また、アメリカでのダンス留学経験がある歩は、「ダンサーという評価は褒め言葉ではない」と言われてしまいそうなところと、留学経験がある割に英語力がイマイチなところがマイナスだろう。
個人的には翼に期待したいところだが、実力を上げるための厳しい練習を乗り越えられるような精神力に不安があるので、765プロでぬるま湯に浸かっていないでJYPの練習生になることも検討して欲しい。
あまっちょろくていいね^^
実家に入れてローンの足し
←その実家大丈夫?子供が成人して働いててもローンもってるの?
不良債権やん
■ 両親に顔を何度でも見せられる
盆と正月、数えると、親に顔見せられる回数も限られてるんだよねえ…みたいなこと皆言うじゃないですか。実家暮らしなら見せ放題。なんならちょっとウザがられてる。
親がみたいのは孫の顔やで。実子もとうが立ってくると自分の顔みたいになって見飽きてるで。
おまえ独立するとき実家の電化製品ぜんぶもって出るつもりなの?
■ 協調性が高い
自分でわかってるなら書くな・・・人生、親との折り合いが一番たいへんなのよ
■ とはいえ
やってみてわかるんだろうな 一度はやってみろ