2020-09-07

「文」を書く

例えば歌詞とか小説かにおいても、そもそも受け手立場にとっては他人ことなんかわからないわけである尾崎豊歌詞を書いたって、俺には尾崎豊人生のこともなにもわからないし、なんで亡くなったかとか、マジで15歳でバイク盗んで走ってたかとかもわからない。なぜなら俺はそんなことをしたことがないから。これはきっと15歳でバイクを盗んだ人間しかからない「経験」だし、20歳になった今バイクを盗んでもそれとは違う。なんなら15年間尾崎豊という人間を生きていなければわからない歌詞であるのに、そこに人気が集まったのは、「なんとなくわかる」という自分を持っている、もしくは作り上げてそこに投影たからではないだろうか。では作り上げた自分という人格価値があるのか。

文章」を理解するのは大変に難しいと考えている。ハグキスといった身体コミュニケーションに比べて明らかに難易度が高いのは、目に見えないからだろう。受け取り手感性に多く順応するために最も適切なコミュニケーション方法五感依存するものと比例している。たとえば本のなかでも絵本は最大限に五感攻撃している。絵と文章読み聞かせなど、幼少期に「自覚」の獲得に必要感性に訴えるもので、人間はそこから物心をつけていくわけだが、そこに協調性というノイズが入るせいで感性はやがて鈍ってゆく。

人間所詮動物であるため、種の保存という目的さえあれば何の問題もなく活動を行えるはずだが、そこに思考という足枷がかかる。人間は考える葦であるが、考えなくてはならない葦である。この葦は協調性多様性といった様々な性質を持たざるを得ない葦である本来必要ではない、無駄思考であるこれらを動物にとってプラスにとるかマイナスにとるか。それもまた一つの多様性というノイズひとつになる。

詩や文章という他人知識や語彙に依存したメディアが発展するのは特に人間的でもあり、前時代的でもあると考える。人間思考した結果が他人への依存であるならば、思考したこと無駄であると一蹴できるからである。なぜなら思考は内的感覚への訴求であり、それもまた自らの知識や語彙に依存しているからだ。他人から受け継いだ知という感性を自らに受け止め、それを発展させることに意味があるとすると、それと矛盾するからだ。その矛盾と戦う人間たちは極めて無駄であり、また自然であると考えるのである。こんな「文章」を書いている自らについて。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん