「何でこんなことをしたんだ! 盗みが犯罪だなんて分かっているはずだ。それともバレなきゃいいとでも思っていたのか?」
この事件で危うく犯人にされかけたこともあって、表情からは怒りが滲み出ていた。
しかし従業員の怒りは収まらず、余計に火に油を注いだようにみえる。
従業員はかなり感情的になっており、今にも掴みかかりそうな勢いだ。
「しかもこんなにたくさん盗んで、持って帰る気マンマンじゃないか」
「えーと、家族にも食べさせようと……」
「盗んだパンを家族に食べさせるって? そんなので腹を満たせて家族は喜ぶか?」
従業員の詰問は高圧的であったが、言っていること自体は正論だったので間に入りにくい。
おかげでコッペパンを食べ損ねたのだから、文句の一つくらい言ってやりたくもなる。
ただ、怒りに割くエネルギーすら惜しい状態だったので静観していた。
「ごめんなさい、許してください!」
「ちょっと待ちな!」
従業員の怒りがいよいよピークに達そうとしたとき、それを静止する言葉が食堂内に轟く。
その声の主はオバチャンだった。
「事情はよーく分かった。今回は勘弁してやろう」
「ええ!? どんな事情があれ、盗みは盗みだろ。それを許すってのか?」
「そうするしかない理由があったんだから、大目に見てやろうじゃないか。『盗みは盗み』だからと冷たくあしらう、“罪即罰”なんて世の中は寂しいだろう」
犯人探しを血気盛んに始めた張本人にも関わらず、この場においてオバチャンは慈愛の心に溢れていた。
「ちっ……分かったよ」
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
なんだか酷い茶番を見せられている気がするが、とりあえずこれで一件落着ってところか。
この場にいる人間が許すというのなら、水を差すようなことを言うつもりはなかった。
その様子を静観していた俺に、カジマが話しかけてくる。
「ほら、マスダ。待望のコッペパンっすよ」
そう言って犯人のバッグに入っていたパンを手渡してくるが、もはやそれは俺の望むものではない。
無造作に詰められていたものだから拉げていて、ジャムのせいで全体的にベトベトしている。
とてもじゃないが俺のコッペパン欲を満たせるものではなく、すぐに突き返した。
「いや……いらない。ジャムでグチャグチャになってるし、食う気しねえよ」
「ジャム……?」
そんな俺たちの何気ないやり取りを聞き、オバチャンが妙な反応を示す。
「まさか、アンタ……このコッペパンにジャムをつけたのかい?」
さっきまでの態度が嘘のようなドスのきいた声色で犯人に尋ねた。
「え……は、はい」
そして犯人の返答を聞いた瞬間、オバチャンの仏のような表情がみるみる内に鬼のように変貌していく。
「どうやら、アンタを許すべきじゃないようだね」
「ええ?」
オバチャンの心境の変化に、俺たちまで戸惑った。
一体、何が逆鱗に触れたんだ。
「え、さっきパンを盗んだの許してくれるって……」
「アタシが許せないのはね、“パンを盗んだこと”じゃないんだよ。その“盗んだパンにジャムをつけた”ことだ!」
そう言ってオバチャンは犯人の首根っこを引っ捕まえ、食堂の奥へ消えていってしまった。
取り残された俺たちは、その場に呆然と立ち尽くす。
「ね、ねえマスダ。オバチャンはパンを盗んだことは許したのに、何でジャムをつけた途端に怒り出したの?」
そんなの、こっちが聞きたい。
「多分だけど……“盗んだパンにジャムをつける”のは、“味を楽しむ程度の余裕がある”ってことになるから……じゃないか?」
なるほど、そういうことか。
飢えて心身共に余裕がないとか、或いは誰かのためにやったとかならオバチャンは許すつもりだった。
だけどジャムをつけるという、余計な欲やエゴを認めるほど寛容ではなかったようだ。
「はえ~、ジャムをつけただけで、そこまで話がややこしくなるなんて変な話っすねえ……そうだ、これを『パンジャム理論』って呼ぶのはどうっすか?」
「何言ってんだ、お前」
この出来事が俺の期末レポートにどのような影響を及ぼしたかというと、結論からいえば何も関係ない。
腹を満たしたわけでも、代わりに何かを得たわけでもなく、結局はBのマイナスだったので全くもって無駄な時間を過ごした。
だがカジマは学び取れるものがあったらしく、『パンジャム理論』を考案。
レポートにまとめて提出し、見事D評価を貰って補習が決定したらしい。
俺はそう言いながら、彼に鋭い視線を向ける。
「……なにか不自然なことが? 僕は正解のタイムに一番近いのに」
「俺は『最も誤差のある人間が犯人』だと言っただけだ。その誤差が『正解タイム』だとは言ってないぞ」
「……え?」
「まだ気づかないのか。他の三人は正解タイムから30秒近くも離れている。なのに“お前だけ正解に近い”んだ」
「……ああっ!」
俺の罠にやっと気づいたらしいが、もはや手遅れだ。
勘付かれてもおかしくなかったし、見当外れの可能性も大いにあったが、目論見は上手くいった。
「オバチャン、もう一度聞くぞ。俺が注文する数分前、まだコッペパンの残りはあったんだよな。今もそう言い切れる自信があるかい?」
「うーん……でも、ここまで数え間違えるなんて、自分でも信じられないよ」
この事件のポイントは犯行推定時刻、アリバイをどう崩すかに尽きる。
オバチャンは「超能力を使えばアリバイなんぞ関係ない」として、アポートが使える従業員を犯人と推理したが、超能力の制約もあって難しいと結論付けられた。
実はこの推理、かなり核心に迫っていたんだ。
だけど、それは他の超能力者によってだ。
そしてその超能力は直接パンを盗める類ではなく、犯行推定時刻を誤魔化せるものだと俺は予想した。
だから時間当てゲームを提案し、その結果から手がかりを得ようとしたわけだ。
「超能力は、そんな大層なことはできない。恐らく限定的な暗示能力とかで、俺たちの体内時計をズラしたんだろう」
意識して数えてもここまでズレるのだから、そうじゃなかった場合は尚更だろう。
こうなると、オバチャンの言っていた犯行推定時刻はアテにならなくなり、必然的にアリバイも崩れる。
俺は、彼にそう言って詰め寄った。
他三人も、どう答えるのかと注目している。
超能力を使ったことは暴けたが、こいつが言い逃れできる余地はなくもない。
さて、どう取り繕ってくる?
「……証拠は?」
俺は溜め息を吐きつつ、従業員に目配せをした。
「ん?……ああ、そうか」
その視界内には彼の学生バッグもあった。
「……あっ、ちょ、ちょっとやめて!」
彼も何をするか分かったようだが、問答無用。
二つのバッグは一瞬だけ消え、すぐさま姿を現す。
「今、俺が持っているのはお前のバッグだ。さて、中に入っているのは教材だけか?」
みんなにも見えるよう、バッグを大きく開いてみせる。
「というか、最初から持ち物検査すれば解決していた気がするっす」
カジマの言う通りで、俺はもっと早くそのことに気づくべきだった。
数個のパンを短時間で食べきるのは難しいのだから、いくつかは隠し持っていると考えるべきなんだ。
仮に食べきったとしても、口の中を確認すれば痕跡が見つかるはず。
そんな簡単なことに気づかず、随分と迂遠な真似をしてしまった。
空腹で冷静ではないという自覚はあったが、俺の脳は思っていた以上に栄養が不足していたらしい。
この中に犯人がいるはずなのだが、全員にアリバイがあるという矛盾。
何かを見落としているのだろうけれど、その見当がつかない。
「はあ……もうどれくらい経ったんだ」
あまりのもどかしさに、地球の自転速度が狂っていくのを感じる。
もはや俺の体内時計は、まるで参考にすらならない時刻になっていることだろう。
そんなことを考えていた時、俺は何か“引っかかり”を感じた。
「……ん、待てよ」
それが消えてしまわないよう思考を巡らせ、辻褄を合わせていく。
それはか細くて、確信とは程遠い。
それでも、その可能性を確かなものにできれば、事件解決に大きく繋がる。
試す価値はあるだろう。
こちらに視線を向けさせると、俺はおもむろに携帯端末の画面を見せた。
「それは……ストップウォッチ?」
「今から俺がこれで時間を計る。そしてテキトーなタイミングでそれを止めるから、何秒かを当ててくれ」
「なんで、今そんなことをする必要が?」
「それで犯人が分かるんだよ」
俺の言葉に、皆が戸惑いの色を隠せないようだった。
まあ、そりゃそうだ。
突然、時間当てゲームを提案され、しかもそれで犯人が見つけられるなんて言われても理解できるはずがない。
だからこそ、俺にとっては好都合といえる。
「理由は後で説明する。今いえることは、最も誤差のある人間が犯人だってことだけだ」
あえて断片的に、そう語った。
こう言えば、みんな真面目に数えてくれるだろう。
「じゃあ、押すぞ」
俺がいつタイマーを止めるのか、気が気でないのだろう。
「ストップ!」
頃合を見計らって、俺はタイマーを止めた。
そして、何秒で止めたのかをそれぞれ紙に書いてもらう。
「ようし、じゃあ一斉に見せてくれ」
そこに書かれた数字を見て、俺は驚きを隠せなかった。
予想はしていたつもりだが、まさかこれほどとは……。
「正解は……30秒だ」
そう反応するのも無理はない。
なにせカジマは60秒、オバチャンは65秒、従業員は59秒という回答だったからだ。
あまりにも誤差が大きすぎる。
だが、ただ一人だけ、「27秒」と誤差が少ない男がいた。
「もしかしたらと思ったが、やっぱり“お前”か」
「ちょ、ちょっと待って!? 自分も従業員ですよ。パンを盗める時間なんて無い!」
「でもアンタには、“アレ”があるだろう? ちょくちょく使ってるのを見たから知ってるんだよ」
オバチャン曰く、犯行推定時刻中は皆が目に見える場所にいたらしい。
犯人がこの中にいるにも関わらず、全員にアリバイがあるという状況。
大掛かりなトリックでも使えばアリバイは崩せるかもしれないが、パンを盗むためにそこまでやるとも思えない。
となると、もっと“手軽かつ特殊な方法”が使われたと考えるべきだろう。
そして、この従業員は『アポート』という、物体を瞬間移動させる力があった。
俺もこの従業員とは別件で関わったことがあるので、それが事実であることは知っている。
アポートをつかえば、アリバイを成立させつつパンを盗むことは可能かもしれない。
だが、この推理には一つ誤解がある。
俺は少し横槍を入れることにした。
「オバチャン、その従業員が犯人と決め付けるのは気が早いと思うよ」
「え、何でだい?」
「超能力は万能じゃないんだ……そうだろ?」
俺がそう言いながら目配せすると、従業員はバツが悪そうに説明を始めた。
「信じてもらえるかは分かりませんが……自分のアポートは『二つの非生物の位置を入れ替える』ことしかできないんです。そして、入れ替える対象は同じ大きさじゃなきゃダメだし、視界に両方収める必要もある」
そう、この従業員のアポートは、無条件に何でも移動させられるようにはなっていない。
アリバイを成立させつつ、パンを盗めるような超能力ではないんだ。
「もちろん、この従業員が全て本当のことを言っている保証はない。だけど、超能力にリミッターがあるのは確かなんだ」
「え、何それ?」
何となくそんな気はしたが、オバチャンは超能力のことは知っていても“リミッター”の概念は知らなかったようだ。
超能力は人によって性質こそ様々だが、いずれも何らかの制限がついている。
例えば弟のクラスメートにタオナケっていう超能力者がいて、そいつは裸眼で捉えた物質を破壊することができる。
ただし、そのためには数秒間、対象を睨み続ける必要があるんだ。
更には体調によって成功確率が変動し、普段はせいぜい5回に1回といったところ。
これはタオナケが超能力者としてポンコツだからではなく、身体的メカニズムとしてリミッターがかかっているからだ。
超能力はそのままだと強すぎるので、リミッターがないと人という器は耐えられないのである。
時を止めて自分だけ動くとか、人を生き返らせるといった規格外な超能力は存在し得ないのさ。
「……というわけでアポートには制約が多いので、誰にも気づかれないようパンを盗むのは常識的に考えて難しいかと」
「ええ~、ほんとにぃ~?」
「義務教育で覚える話ですよ」
「それ言われると、弱っちゃうなあ……」
「オバチャンの気のせいってことは? パンは本当に残っていなかったの?」
その後も、皆であーだこーだ言い合うが、話は平行線のまま進まない。
みんな疲弊するばかりであり、俺もこの状況にはかなり参っていた。
もちろん、俺は犯人じゃないことが確定しているから、このまま帰ってしまってもよかった。
帰りに適当な店でコッペパンを買ってもいいし、違うパンでも構わないとも思っている。
このまま何食わぬ顔で何かを食べても、表面上は腹を満たせるだろう。
だが、『食べようと思っていたものが食べられなかったという体験』が問題なんだ。
そんな心理的負荷を抱えたままレポートに取り組める図太さは俺にはない。
この事件を明らかにしない限り、俺の心にはポッカリと穴が空いたままになる。
……まあ、とどのつまりは意固地になってるだけなんだが。
待ち続けること数分―――
「遅いな……」
いや、実際は1分と経っていなかったかもしれない。
なにせ、その時の俺は期末レポートを抱え、空腹とコッペパン欲も併発していた。
焦燥感によって地球の自転速度は狂いまくり、うるう秒による調整は困難を極める。
そんな無限にも思えた時間の中、ようやくオバチャンが戻ってきた。
だけど、何も携えていない。
「ねえ、ちょっと……」
会話の内容は聞き取れないが、表情の険しさからタダ事ではないのが伝わってくる。
そして突然、オバチャンは食堂全体にダミ声を響き渡らせた。
「どういうことだ、オバチャン」
「持っていかれてる」
「え、まさか……盗み?」
「そう」
「何が盗まれたんだ?」
状況から考えて、返ってくる答えは明白だったろうに。
「コッペパンだよ。残りが全部なくなってる」
言葉として理解できても、あまりにも予想外な展開に心が追いつかなかった。
こうして俺はレポートも空腹も宙ぶらりんのまま、事件に巻き込まれることになった。
まったく、何でこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
「盗みが起きたのは分かったけど、何でオイラたちは食堂から出ちゃいけないんすか?」
その中にはクラスメートのカジマもおり、ぶつくさと文句をたれている。
「ええ!? どういうこと?」
オバチャンによると、コッペパンの残りは数分前まであったらしく、盗みはその時間内に起きたことになる。
そして、食堂は人が少ない時間帯で、20分ほどの間に出入りをしたのは俺だけ。
「本当にこの中に犯人が? そこまで言い切れる?」
「出入り口はカウンターから一望できるし、今の時間帯は出入りが少ないから、数え間違いは絶対ないよ」
人の出入りがあれば記憶に残るだろう。
「この中にいるのは分かったけど、どうやって犯人を見つけるつもりっすか?」
「ふふん、実は既に見当がついているんだよ」
オバチャンの自信満々な物言いに、皆がザワつく。
俺も多少は絞れているが確信には至っていないので、これには驚いた。
「まず消去法で候補を外していくよ。アタシはもちろん違う。基本的にみんなの目に見える場所で働いているから、パンを盗んだり処理したりするのは無理だからね」
「え~? でもオバチャンは従業員で、しかも第一発見者じゃん。パンがなくなった時間を誤魔化せば、いくらでもアリバイは作れるっすよ」
「やだねえ。もしアタシが盗んだのなら、ここまで大ごとにせず黙ってればいいだけじゃないか」
そんな感じでオバチャンは雄弁に語りながら、推理を披露し始めた。
その様子は少し楽しげにすら見える。
場を仕切りたがるのといい、刑事ドラマでも観て感化されたのだろうか。
「コッペパンを注文した兄ちゃんは、食堂に入ってきた時刻と事件発覚にほとんど間がない。犯行は物理的に不可能だ」
とはいえ、オバチャンの推理はそこまでデタラメというわけではない。
一応の筋は通っているし、憶測の動機から犯人を決め付けたりもしない。
無意味な深読みをして俺を犯人だとか言い出さないだけマトモな方である。
そうしてオバチャンは回りくどい説明を挟みながら、満を持して犯人を指差した。
何を持って普通と言うべきかなんて知らないが、ともかく普通なんだ。
不衛生というわけではないが、綺麗と評するのには無理がある内観。
カウンターに貼り出されるメニューは、ちょっと離れた場所から見るだけで全部読める。
そして料理の見た目は精彩さを欠き、味に至っては繊細さの欠片もない。
そんなの“自己責任”さ。
食堂を利用する生徒の半分はそう答えるだろう。
1位は唐揚げ
2位はハムカツ
3位は細切りフライドポテト
4位は素ラーメン
5位がカレー
例えば4位の素ラーメンに放り込めば、若者の飽食に応える「揚げ物が入ったラーメン」が完成する。
衣から滲み出た油はスープに溶け込み、そのスープを衣が吸うという循環システム。
コショウをかけて麺と一緒にすすれば、別々に食べるより何倍も美味いという幻覚をもたらす。
或いは、5位のカレーに乗せてもいい。
具があるのかないのか良く分からないカレーは、「明らかに具のあるカレー」に生まれ変わる。
飯とルゥの配分に苦戦しながら頬張れば、「1+1=2」という真理に辿り付けることだろう。
生徒の間ではあまり評価されていないが、このコッペパンは割とちゃんとしている。
甘さも塩気もないが、ほのかに感じる小麦の香りは食欲をかき立て、素朴な味は期待を裏切らない。
バターが塗られていないため艶はないが、しっかりと保たれた楕円形によってパンは輝いているように見える。
トッピングは多くないものの、マーガリンや生クリーム、チョコに粒あん、いくつかの惣菜があったりと要所は抑えていた。
更にはサイドメニューで応用が利くので、その可能性は数倍に膨れ上がる。
そんなわけでコッペパンは人気こそ上位ではないが、安定した需要のある公務員だ。
時々、無性に食べたくなってしまう人もおり、かくいう俺もその一人だった。
特に、その日は月に一度あるかないかというコッペパンモードに突入しており、加えて空腹にも襲われている。
頭への栄養が不足しているせいもあり、わずかな理性で押さえつけているのが現状だ。
俺は焦りを表に出さないよう意識しつつ、平均速度で歩行しながらカウンターに向かう。
とりあえず、たんぱく質が欲しいからハムカツとタマゴは外せない。
それに糖分も欲しいから、シンプルに砂糖だけまぶしたやつを……小豆マーガリンもいっておくか。
それを口当たりのよい牛乳で流し込めば申し分ない。
近々訪れる未来をシミュレートし、自分の口内に唾液が分泌されていく。
「はい、ご注文どうぞ~」
唾液が溢れないよう気をつけながら、俺は注文を口にした。
「オバチャン、コッペパンください」
「それで、二人はもう主題を決めたのか?」
俺は探りを入れてみた。
この期末レポートで最も避けたい事は、テーマや内容が似てしまうことだからだ。
相対評価なんてされたら困るし、コピーを疑われて減点なんてのは最悪である。
「僕はオオザワの『不可逆性の時代』についてレポートを書こうかな~と」
タイナイの持っていた本に目を向けると、表紙に『不可逆性の時代』と書かれているのが分かった。
主題だけは決まったものの、何から取り組めばいいかなんて見当もついていないとみえる。
以前もそんなノリでレポートを書いて、シマウマ先生に「意識高い系の読書感想文」だと揶揄されたばかりだろうに。
「ウサクの主題は?」
「我は『未だ残り続ける、前世代の負債』だ。ここ50年の間に起こった大きな出来事をまとめ、現代にどのような負債を残しているか調べる。そして、その是非や責任を考察し、次世代に残さないためにはどうすべきか等を書くつもりだ」
翻ってウサクはさすがといった感じだ。
シマウマ先生が喜びそうなテーマに狙いを定め、更には方針まで既に固めてきている。
ウサクがそうしてやっと掴めるレベルだから、俺には逆立ちしても無理だろう。
そもそも逆立ちなんて出来ないし、出来たところで頭に血が上るだけに違いない。
二足歩行でBあたりをせいぜい目指そう。
俺は図書室内をのそのそと歩きながら、並ばれた本を眺めていく。
タイナイみたいに漠然と選ぼうかとも思ったが、それが複雑で面倒なテーマだったりすれば後が厄介だ。
変なところで油断をしたせいで春休みの予定が台無し……という事態などあってはならない。
「んー、これとこれを合わせて、ちょっとヒネってみるか」
そうして気になった本をいくつかチョイスし、うんうん唸ること十数分。
……まあ、自分で言うのもなんだが、センセーショナルさには欠けるな。
しかし、身の丈には合っている。
焦点を絞ったので、調べる範囲も狭くて楽だ。
後は目ぼしい資料を見つけ、あの馬面の欲求を満たす事実を抜き出していけばいい。
その事実から分析できるものを並べ、大まかな見解としてまとめれば完成である。
「はー、やれやれ」
ようやっとテーマと大まかな方針が決まり、俺は安堵のため息を漏らした。
グギュルルルル―――
だが、その吐息の音は、腹の唸りによってかき消される。
そういえば、俺は空腹だった。
課題のため後回しにしていたが、こいつに喚かれちゃ仕方ない。
1日の長さは地球の自転速度によって決まっているらしい。
地球が1回転するのが平均24時間で、それが1日の長さになってるんだとか。
しかし毎日同じというわけでもないようで、その時々によって分や秒の長さも変わる。
天体物理学だとかはサッパリ分からないが、その違いを感じ取ることは俺にでも出来る。
地球の自転速度は異常をきたし、人間の体内時計は大きく狂わされる。
縞柄のシャツをいつも着ていたので、俺たちは尊敬の意を込めて「シマウマ先生」と呼んでいた。
彼の課題に対する評価は非常にシビアであり、他の先生ならば通用する手抜きも減点対象にしてくるほどだ。
「あらかじめ言っておこう。この課題の評価は、成績のおよそ5割を占める。落書きを出した者の末路は悲惨ということだ」
恐ろしいのは、それが脅しでも何でもなく事実であるということだ。
もしもこの忠告を甘く見たとき、その人間に待っているのは「補習」という名の拷問である。
「お前たちの中には、この課題を恨めしく思う者もいるだろう。だが分かって欲しい。私は生徒を正しく評価したいだけなのだ。優秀ないし勤勉でいてほしい。その手ほどきを惜しむつもりはない」
とどのつまり「補習になった生徒に対しては、春休み中だろうと容赦しない」という宣誓である。
その言葉からは、むしろ補習組を作りたいという情念すら感じた。
そんなことをしても教師の仕事は増えるし、生徒の休日は減るしで誰も得しないというのに。
或いは生徒の苦しむ姿を見て喜ぶサディストなのか。
実際どうなのかは知らないが、何にしろ俺たちは課題をこなさなければならない。
春休みにもなって、擦り切れたラジカセのような講釈を聞くのは御免こうむる。
期限は2週間ってところだ。
地球の自転速度が狂っている今、猶予はそこまでないと考えるべきだろう。
「あ、マスダも来ていたんだ」
どうやら俺と同じ目的のようだ。
「カジマは?」
「彼奴は期限ギリギリになるまでやる気がないらしい」
「おいおい、カジマのやつ。またネット記事からパクってくるつもりじゃないだろうな」
「それを気にかける筋合いも、そんな余裕も我々にはない」
冷たいようだが、ウサクの言うとおりではある。
この課題は孤独な戦いであり、俺たちは互いに協力するわけにはいかないんだ。
俺たちはミミセンの助言をもとに、『新・イジメ対策プログラム』について調べることにした。
「うげえ、すごい量だな」
タオナケの母がPTA関係者だったこともあり、資料はすぐに手に入った。
想像するだけで吐きそうだ。
「分担して読んでいこう」
そうして資料を読んでいくと改めて分かったけど、プログラムの内容は予想以上にお粗末だった。
イジメのケース、イジメに繋がりそうなことを箇条書きでびっしり。
とにかく、「ここまで徹底すればイジメはなくなるだろう」と片っ端から対策する感じだ。
だけど、それこそがこのプログラムの欠陥でもあった。
「徹底している」と言えば聞こえはいいけど、これでは排水口に蓋をしているのと大して変わらない。
それに加え、合間合間に野暮ったい説教が挟まっていて、こちらの理性を奪っていく内容なのもキツかった。
こんなのをマジになって読んでいたら、そりゃあ先生たちの頭もおかしくなるだろう。
「よし、分かったぞ!」
ミミセンはその隙を見逃さず、一つの解にたどり着いた。
「このプログラム、どうやら僕たちの学校で作られている。使われているのもこの学校だけだ」
「つまり……?」
その日の夜更け、俺たちは学校に忍び込んだ。
「警備員だけど、いま3階に向かったわ。2階には当分こない」
「ルビイ先生は? 確か宿直やらされてただろ」
「疲れてんだな……まあ、動きやすくなるし好都合だ」
「よし、開けてくれ。ドッペル」
仲間の一人であるドッペルは隠密行動に優れる。
特に変装は骨身に染みていて、俺たちですら元の姿がどんなのかは自信がない。
そんなドッペルなら、関係者を装って鍵を拝借することも可能なのさ。
「ど、どうぞ」
こうして俺たちはパソコン室、その奥にある部屋に入った。
そこに設置された、大人だけが使えるメインコンピューターが目的だ。
「よし、ミミセン。パスワードを頼む」
「任せて。『P』、『A』、『S』、『S』、『W』、『O』、『R』、『D』……よし、開いたよ」
これでプログラムは俺たちの手の平だ。
「さあて、どうしてやろうか」
なんて如何にもなセリフを口走ってみたが、既にやることは決めている。
結局のところ、イジメそのものを失くすことが、この『新・イジメ対策プログラム』を壊すベストな方法なんだ。
だから、このプログラムを逆に利用して、そのことを大人たちに分からせてやろう。
俺たちは『新・イジメ対策プログラム』の内容を“ちょっとだけ修正”した。
それから程なくして、この学校からイジメはなくなり、。プログラムは“見直し”という事実上の廃止が決定されたんだ。
これにより肩の荷が下りたルビイ先生は以前の調子を取り戻した。
今回の件に関わっていた大人たちまで、まるで憑き物が落ちたように元に戻ったらしい。
「ルビイ先生、今回の件は本当にすみませんでした。あのプログラムが取り下げられて、自分たちも我に返りましたよ」
「仕方ありません。心身共に疲弊しやすい職業です。魔がさしてしまうこともあるでしょう」
「うむ、そうですな。“我々プログラムの被害者”は今回のことを糧にしていきましょう」
「……まあ、今回は“そういうこと”でもいいでしょう」
「……というわけで、俺たちの学校からイジメはなくなったってわけさ」
俺は自慢げに、兄貴にその話をした。
「ふーん……そりゃすごい。ノーベル平和賞として、はちみつきんかんのど飴を進呈しよう」
だけど反応はイマイチ薄くて、褒めてはいるけど気持ちはまるで入ってない。
俺の話を信じていないのか、あんまり興味がないのか、学校の課題で忙しいからなのか。
「欲しがりだな……じゃあ、一つだけ聞こうか」
リアクションに納得のいかない俺に、兄貴は渋々といった感じで質問をした。
「お前たちが“どのような修正をしたのか”……そこを説明していないぞ」
「聞いて驚くなよ? ズバリ……プログラムから『イジメって言葉を消した』のさ!」
「……は?」
兄貴ですら予想外だったらしく、呆気にとられている。
「みんな『イジメ』って言葉があるから過剰反応して、物事を冷静に見れなくなる。つまり『イジメ』って言葉を使わなければいいんだよ。だからプログラムからその言葉を全部消して、他の適当な言葉で補った」
「……なあ、それってイジメを別の言葉に置き換えただけで、イジメそのものは無くなってないんじゃないか」
「兄貴、何言ってんだよ。イジメって言葉を無くせば、イジメだと思わなくなるってことだから、イジメもなくなるんだよ」
そう力説したけど、兄貴はずっと冷めた態度だった。
「はいはい、分かった分かった。弟の成長を実感できて、兄の俺も鼻が高いよ。のど飴全部やるから黙ってろ」
どうやらこの方法が世界に浸透するのは、もうしばらく先になりそうだ。
話に出てくるプログラムが具体的にはどんなものかは知らないけど、ロクなもんじゃないことは確かだ。
ルビイ先生はそのプログラムの違和感に気づいて、最初の内は反対していたんだろう。
だけどそれが分からない他の大人たちは、先生に圧力をかけて最終的に従わせた。
その環境と、そのプログロムが、先生から心の余裕を奪ったんだ。
―――以前、兄貴が言っていた。
「余裕ってのは、窓の通気と一緒だ」って。
あんな息苦しい場所で淀んだ空気を吸い続けていたら、誰だって心の余裕がなくなるに違いない。
そしてタイミング悪くブリー君とツクヒの一件が重なり、ルビイ先生はプログラムと化学反応を起こした。
それをきっかけに、周りの大人たちはルビイ先生を更に追い詰めるという悪循環。
「なんだよ、それ……ブリー君の件がイジメだっていうなら、ルビイ先生がやられていることは何だってんだ!」
「私、イジメ対策は結構だと思うけど、これは変よ。『イジメはよくない』だとか、『自分がされて嫌なことを相手にするな』って口を酸っぱくして言ってる人たちが、あんなことを平気でしている時点で失敗だわ」
みんなフツフツと怒りが湧いていたけど、その矛先をどこに向ければいいか分からなかった。
プログラムを考えた人たちなのか。
それに疑問を持たず、「イジメ対策だから」と手放しで賛成した人たちなのか。
「へっ、結局のところ皆イジメが大好きなんだよ。自覚がないのか、認めたくないのか、否定したがるけどな」
行き場のない怒りに震えていたその時、ツクヒがいつもと変わらない調子でネガティブ節を炸裂させる。
それは、まるで俺たちの頭に冷や水をかけるようでもあった。
「イジメが良い趣味じゃないことは分かっているから、“理由”をつけて正当化するんだ。“許されるイジメ”にしようとしている」
「“許されるイジメ”って……『どんな理由があってもイジメていいことにはならない』って、そう言ってたのは先生たちだぞ」
「はんっ、理屈の上では間違ってないだろうな。だが―――」
「『間違ってないだけ』。ツクヒはそう言いたいんだ?」
「ふん、分かってるじゃないか。綺麗に見られようとする人間ほど素顔は醜い。薄い化けの皮でそれを隠しているんだ」
ブリー君までツクヒの話に乗り出した。
二人は少し前まで知り合いですらなく、ペットボトルで叩き合っていた仲なのに。
波長が合うってやつなのだろうか。
「で、その“理由”って何?」
「とどのつまりは“愚か者”さ。みんな愚か者が嫌いだからな。そして嫌いなものをイジメることほどスカッとして、正当化のハードルが低いものはない」
「誰だって愚かな面はある。その面に照準をあわせて引き金をひく。そうして愚か者の弾痕をつければイジメられっ子の完成だ」
「なるほど、“愚か者”ってそういう感じで決まるのかあ。それが“許されるイジメ”になるわけだね」
「その通り。イジメっ子がイジメられっ子になりやすいのも、そのせいだ。だから皆イジメられる者がいないか常に目を光らせ、逆に自分がイジメられないように毛を逆立たせる。この世はそんな獣たちで溢れたディストピアなのだ」
ツクヒの軽快な毒づきと、ブリー君のぬらりくらりとした相槌が、俺たちの調子を崩していく。
だけど、そのおかげで俺たちは冷静になれた。
そうだ、ただ怒っているだけじゃ意味がない。
その怒りを無闇やたらとぶつけるのも違う。
大人たちがあんな調子なんだから、俺たちが動かなければならないんだ。
「クレバーかつクレイジーに、俺たち子供の悪知恵を有効活用しようじゃないか」
「先生たちを説得して、か、改心させる……とか?」
「通じるとは思えないな」
いい歳した大人が、子供に『お前がやっていることは間違っている』なんて言われてマトモに聞き入れるとは思えない。
もしも俺たちに言われて聞き入れる程度なら、あんなことをする前に自分で気づくはずだ。
「私の母、PTA関係者だけど、こういう件には一枚噛んでると思うわ。つまり容認済み」
一体、どうすればいいんだ……。
「ミミセン、何かないか?」
俺はミミセンにアイデアを求める。
こういうとき知恵を授けてくれたり、考えをまとめてくれるのがミミセンだ。
「そうだなあ……うーん」
それでも、うんうん唸りながら知恵を搾り出してくれた。
「解決の糸口があるとするなら……話に出てきた『新・イジメ対策プログラム』……そこに何かある気がするんだ」
この学校社会のバランスを崩し、ルビイ先生、他の先生たちを狂わせている原因。
それは『新・イジメ対策プログラム』にあるとミミセンは睨んだようだ。
生徒たちの知らないところで、何かが起こっている。
俺たちはルビイ先生の周辺を調べることにした。
調べるべき場所の見当は、既についている。
俺たち生徒がよく知らない場所、あまり利用しない(できない)場所が特に怪しい。
そういう場所は、逆に先生や大人たちがよく利用する場所だからだ。
花壇から数メートル離れた先にある窓、そこから見える職員室の風景こそが目的だ。
近くには大きい茂みがあり、数人が体を隠せる。
「ねえ、こんなにコソコソする必要ある? 茂みのせいで体がカユくなるんだけど」
ブリー君は不満を漏らしつつも、なんだかんだ付き合ってくれる。
どうやら、俺たちのクラスに随分と馴染んできたようだ。
「先生たちに話を聞いたりだとか、他にもっと真っ当なやり方があるんじゃ?」
「ブリー君、それは期待できない。先生たちが包み隠さず話してくれると思う?」
「……確かにそうだね」
どうも大人の世界ってのは、子供に隠しておきたいものがたくさんあるらしい。
赤ちゃんはどうやって生まれるか、サンタの正体、あの人は今―――
それらは尤もらしい理由のものから、大人の一方的な理屈で見せないようにしたり、見せるにしても都合のいい部分だけ切り取ったりなど色々だ。
いずれにしろ、「見せろ」と言われて素直に見せてくれるものじゃないだろう。
ムカつくのは、それで子供たちが納得すると思っているところだ。
だけど、俺たちはそこまでノロマじゃない。
普段はその気がないだけで、大人の目を盗めば見れることくらい分かっているんだ。
「で、どんな感じ? ルビイ先生に何かいつもと違うところはある?」
「うーん……忙しそうではあるかな」
だけど、これといって気になる点は見えてこない。
アテが外れたのだろうか。
「ぼくにも見せて」
何の成果も得られない張り込みが予想以上に退屈だったのだろう。
そうしてブリー君が望遠鏡を覗いたとき、どうやら何かに気づいたようだった。
「何だ!? 何か見つけた?」
「いや、ごめん、気のせいかも」
「なんだよ、ビックリした」
「ルビイ先生が特に忙しそうに見えたけど……単なる誤差だと思う」
結局、俺たちの張り込みは大した成果を得られずに終わった。
俺たちのいた場所からだと職員室内の音は聞こえないので、別の場所から聞き耳をたててもらっていたんだ。
こちらが特に何もなかったのだから、タオナケ側も大した情報はない。
そう予想して何気なく尋ねた。
だけど、どうにも反応が重苦しい。
俺たちの仲間の一人であるミミセンは、聴力が非常に高い。
職員室内の音を鮮明に聞き取れたのだろう。
そしてこれは、かなり“嫌な音”を聴いたときの反応だ。
「久々に聴いたよ。あんな酷い雑音……」
「一体、何が聴こえたんだ?」
「ルビイ先生、『新・イジメ対策プログラム』導入したの正解でしたねえ。早速、自分のクラスで成果が出たじゃありませんか」
「……そうですね」
「なのに、一人だけ反対している人がいたのは不思議ですよねえ。誰でしたっけ……」
「…………」
「え……私がですか」
「こっちは忙しいんですよ。我々は『新・イジメ対策プログラム』を頭に叩き込まないといけませんからねえ」
「ルビイ先生なら、これくらい出来る余裕はあるでしょう」
「そうですよ。手を抜かないでください。そんなことだから、自分のクラスのイジメ問題に鈍感になるんですよ」
いや、孤立しているだけじゃない。
余計な仕事を押し付けたり、隙あらば嫌味な言葉を捻じ込んだり。
周りのルビイ先生に対する扱いは、酷くゾンザイで悪質だ。
『新・イジメ対策プログラム』とやらを理由に、ルビイ先生を追い込んでいたんだ。
「あなたたち、何をやっているのか!」
というより、実質的にその範疇に収まるから、俺たちはこのルールで戦っている。
なのにルビイ先生は、二人の間にすぐさま割って入った。
「イジメが駄目だということくらい、みんな分かっているでしょ!」
先ほどの盛り上がりが嘘のように、辺りは静寂に包まれる。
「……イジメ?」
ケンカだという理由で止めたのならまだ分かるけど、何でイジメなんだ。
「ルビイ先生? 何か誤解があるようですが、これはペットボトルによるチャンバラであって―――」
「そのペットボトルで、チャンバラという名目で、ツクヒ君は一方的に殴られていたと?」
どうやら、『(先生が)その時に見た場面が、一方的のようだったから』という理由で、イジメと判断したらしい。
実は俺たちの知らない価値観があって、それを基準に判断したのかと思ったら、ただの早とちりだった。
「いや、ルビイ先生。確かにやや原始的な争いではありましたし、健全だと断言するものではなかったかもしれませんが、これをイジメと判断するのは大雑把すぎるのでは?」
「言い訳なんて聞きたくありません! どんな理由があってもイジメていいことにはならない!」
「落ち着くのは、みんなの方です!」
当事者の主張すら捻じ曲げてきた。
みんなの言い分を聞いてから理解を深め、それでも安易に白黒決めたりしない人だ。
生徒をちゃんと見てくれているという実感をくれる、信頼できる先生のはずなのに。
これじゃあまるで、俺たちが嫌っている大人そのものじゃないか。
「ちょ、ちょっとルビイ先生。二人の話をちゃんと聞いてやりなよ」
「あなたたちも同罪です! こんな状況になるまで見て見ぬフリをするだなんて!」
周りがフォローしようとしたら、見境なくこちらまで巻き込んでくる。
取り付く島もない。
そして有無を言わさず、教科書にのっているような道徳を語り始める。
本来の授業などお構いなしに、それは数十分も続いた……。
その日の昼休み。
グラウンドの鉄棒がある場所で、俺と仲間たちは今回の件を話し合っていた。
『今回の件』というのは、ブリー君のことだとかペットボトルによる戦いだとかじゃない。
ルビイ先生のことについてだ。
「あんな取ってつけたような説教をする人じゃないと思っていたが……」
「私、すごく驚いたんだけど、あれはもうヒスよ」
その場にはブリー君とツクヒもいて、同じく話に参加していた。
「ぼくは転校してきたばかりだから、ルビイ先生のことはよく知らない。けれど、冷静じゃなかったのは確かだね。さっきのツクヒよりマトモじゃなかったよ」
「そこでオレを引き合いに出すな」
少し前にあったギクシャクした関係は、もはやどうでもよくなっていた。
それよりも、明らかに様子のおかしかったルビイ先生をみんな心配していたんだ。
「ツクヒと同じく虫の居所が悪い日だったのかな」
「仮にそうだとして、ルビイ先生があんな風になるか? 今まで見たことないぞ」
「うーん……ドッペルはどう思う?」
俺はドッペルに意見を仰いだ。
みんなが話している間も、常に何か言いたげだったからだ。
「み、見たんだ」
すると恐る恐る、一言ずつ噛みしめるように喋り出した。
目にクマ?
それはいつも通りな気もするが。
「いつもより濃かった!」
なるほど、濃さが違ったのか。
「鉛筆で例えるなら?」
なんてこった、大変だ。
ツクヒは普段から不機嫌が服を歩いているような人間だったが、この日は特に虫の居所が悪かったようだ。
体調が完全に回復していないのだろうか。
それとも昨日は寝入りが悪かったのか、はたまた寝起きの低血圧か。
朝食を食べ損ねたからなのか、朝の占い番組の結果がダメだったのか、エレベーターが中々こなかったからなのか、通学路の信号で尽く足止めをくらったからなのか、気温がいつもより低めだったからなのか、湿度が高かったからなのか、変なところで足をつまづいたからなのか、苦手な先生が話しかけてきたからなのか。
結局のところ理由は分からないけれど、当の本人すらよく分かっていないんだから、俺に分かるはずもない。
でも分かっていることだってある。
何かを指摘して、それが結果的に合っていても間違っていても、火に油を注ぐ可能性がある。
「どうしたの? 随分とイライラしているね。食生活が偏っているんじゃない?」
対立は決定的となった。
「御託は結構」
ツクヒは、ペットボトルの飲み口部分を握り締め、既に臨戦態勢だ。
俺たちはそれを止めようとはしない。
いま、あの場にいるのはツクヒじゃなくて、俺たちの誰かだったかもしれないのだから。
「ブリー君。どうしても断る理由があるのならいいけど、ないのなら受けて立った方がいい」
「ブリー君には自覚がないようだけど、これは必然的な戦いなんだ」
「もう、分かったよ。やればいいんでしょ。でも、何でペットボトル……」
気圧されたブリー君は、渋々といった感じでペットボトルを握り締める。
このペットボトルを武器にして戦う慣習は、学校の生徒たちによって作られた。
なぜこんな方法が生まれたかというと、「怪我をしにくいため」。
そして何より「子供のケンカに大人がしゃしゃり出てこないようにするため」だ。
だけど、これは両方とも大人の言い分だ。
お年玉と一緒さ。
身勝手な大人は、その“お年玉”を子供たちが与り知らぬところで使う。
そんな状態で、もうどうにも止まらないことが起きた時、子供だけの社会で何ができる?
大人たちが毎日どこかでやっていることより、遥かに平和的なケンカだ。
なのに、出しゃばりな大人たちは大きく騒ぎ立てるんだからバカげている。
同じ人間として扱っているようで、内心では子供たちを見下しているんだ。
だから、違うレイヤーに平然と土足で入り込み、その干渉が正しいとすら思っている。
そんな大人たちに、俺たち子供の世界を侵略されるのはゴメンだ。
そうして当時の子供たちは、子供たちによる子供たちのためのルールを自然と作っていった。
それは時代によって形を変えつつも、今なお残り続けている。
このペットボトルによる戦いも、その一つってわけだ。
そして今、その火蓋は切られた。
「おい、ブリーどうした! 腰が入ってないぞ!」
「いや、だって、ぼくはこれ初めてだし」
「ビギナーであることを言い訳にするな。オレはこの容姿のせいで、10戦10敗だ」
「それ、きみが弱いだけじゃ……うっ、脇はやめて」
今回使われていたペットボトルは、エコタイプだったので柔らかめ。
しかも、二人とも運動神経がよくないから、勝負の内容は凄まじく泥臭かった。
「さっきからお前は、口だけか!」
「ぐっ……ぼくは間違ったことを言ってない」
「“間違ったことを言ってないだけ”だ! お前はそれをウィルスのようにバラ撒く! だからみんな近づきたくないのだ!」
それでも俺たちは見入った。
ツクヒがブリー君に投げかける言葉、振り下ろされるポリエチレンテレフタラートによる一撃。
それらは、いつか誰かが実行していたに違いない。
それがツクヒだったというだけだ。
「オレはまだまだギブアップしないぞ!」
「こっちだって!」
ブリー君も雰囲気にあてられて、ペットボトルの振りが本格的になってきた。
「いいぞーやれー!」
「チャイムが鳴るのはまだ先だ! 頑張れー!」
ドッジボールをしていたときよりもエキサイトする、とても自由で豊かな感覚だ。
「あなたたち! 今すぐにやめなさい!」
だけど、終わりは突然だった。
俺たちによる俺たちのための闘争は、より力のある人間によって簡単に介入され、無理やり組み伏せられる。
それをしたのがルビイ先生だとは思ってもみなかったけど。
「よお、しばらくぶりだな。マスダ」
俺を呼ぶその声にギクリとする。
聴こえた方に目を向けると、そこにはツクヒがいた。
「お、おお、ツクヒじゃん。久しぶり」
そうだ、ツクヒ―――こいつがいたんだ。
「なんか手強い風邪だったらしいけど、治ったの?」
「そりゃあ愚問だぞタオナケ。治ってなきゃ、まだ休んでるっつーの」
「な、長く休めて羨ましいなあ……」
「ドッペルか……オレもそう思ってたんだが、今回はマジで酷くてな。何もする気が起きないし、大好きなラーメンすら碌に食えなかったときは絶望したぞ」
俺たちのいる学級はクセの強いやつが多いが、ツクヒはその筆頭だった。
「まったく。オレの容姿が良ければ、ウィルスもここまで暴れなかっただろうに」
こんな感じで、ツクヒは自分のコンプレックスに原因を求めたがる。
自分の思い通りにならないことがあったり、気に入らないことがあるたび、因果関係なく「これも全てはオレの容姿が悪いせいだ」とうそぶくんだ。
呪いの装備は大きなデメリットがあって、自由な付け替えもできない。
だけど多少のメリットもあり、その気になれば普通の装備より使える。
あいつがそこまで自覚した上で利用しているとも思えないけど、いずれにしろ卑屈な奴だ。
「うん? 見慣れない輩がいるな」
ここにきて、初めて見たわけだ。
「あれが噂の転校生か。どうやらクラスに馴染めていないようだが」
「ま、まあ、まだ転校してから日が経ってないし……」
「ふぅん……とりあえず挨拶しておくか」
ツクヒはそう言って、ブリー君に近づこうとする。
俺たちはそれを止めようとした。
「私、挨拶は大事だと思うけど、別にしなくてもいいと思うわよ」
「何でだ。クラスメートなんだから、挨拶くらいしてもいいだろう」
「だ、だって……ツクヒはブリー君のことをよく知らないし、ブリー君はツクヒのことをよく知らないし」
「んん?……だから挨拶なり、自己紹介なりするべきなんじゃないのか?」
ツクヒの言うことは尤もである。
ロクなことにならないという予感がありながらも、俺たちにはツクヒを止める理由がなかったんだ。
ツクヒとブリー君の初対面。
「よお、初めまして、か」
「あれ、きみは……」
「ツクヒと呼んでくれ。よろしく」
「うん、よろしく」
俺たちはハラハラしながら、二人の様子を遠巻きに見つめていた。
今のところは滞りなく会話が進んでいるようだ。
「そうだなあ、ちょっと換気が悪いかな。椅子も座り心地がイマイチ」
だんだん、雲行きが怪しくなってきたぞ。
「そうか、まあ気にするな。お前が美人ならば、すぐにクラスに馴染めただろうが、そうじゃないなら気長にいくしかない」
ツクヒはツクヒで、いきなり悪癖が出てしまった。
失礼なことを言っているが、まあツクヒなりの気遣いなんだろう。
あいつは自分の容姿にコンプレックスを持っていると同時に、それを便利な言い訳の道具だとも思っている。
ブリー君にも、その便利な道具を手渡したつもりなんだ。
だけど、そんなものが伝わるはずもない。
「別に見た目は関係ないよ。仮にそうだとして、見た目で判断するような人と仲良くしても、ねえ」
ブリー君がそう言葉を返すと、ツクヒの眉の角度が少し上がった。
マズい。
「それに見た目を理由にするような人間と仲良くしたい人もいないだろうし」
そして追い討ちの言葉だ。
言ってることの是非はともかく、ツクヒのスタイルを否定し、そしてツクヒ自身まで否定するものだった。
もちろん、ブリー君は悪意や皮肉をこめて、ツクヒを狙い撃ちして言ったわけではない。
ただ、人の機微を察知しないため、自分の言っていることで相手がどう思うか考えないんだ。
「そうか、そうか……」
口調は穏やかでありつつも、ツクヒの眉は既に急傾斜。
「お前の言いたいことは……よーく分かった!」
上手く言葉には出来ないが、ツクヒはいてもたってもいられなかった。
スタスタと自分のロッカーに向かうと、ガサコソと何かを漁り出した。
おもむろに取り出したのは、大きな空のペットボトルだ。
それを二本携え、ブリー君のもとに戻ってきた。
「え、どうしたの、何そのペットボトル」
ツクヒは有無を言わさず、片方のペットボトルをブリー君の足元に放り投げた。
「オレと戦え! 決闘だ」
「えー、皆さん、こんばんは。今回は新プログラムの説明をさせていただくため、先生方にも全員集まってもらいました。ではPTA会長。よろしくお願いします」
「はい、うけたまっ。それでは皆さん、お手元の資料をご覧ください」
その資料の表題には、妙ちきりんなフォントで『新・イジメ対策プログラム』と書かれていた。
「現代社会は流動的です。我々も高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変な教育をしなければなりません。学校という小規模な社会においてもそれは同じであり、然るにこのイジメ問題も―――」
勿体つけた言い方をしているが、要は学校のイジメ対策を強化しようというものだった。
数週間前、近隣の学校でイジメ問題が各メディアで取り上げられたこともあり、彼らはピリついていたんだ。
そこで今回のプログラムを急いで作った、てところだろう。
だけど、そうやって作ったものがちゃんと出来ているはずがない。
色々書かれていたけれど、要約するなら「イジメらしき行動には問答無用で介入して罪・即・罰」といった感じ。
「―――以上になります。特に反対意見がなければ、このまま適用していただこうかと思いますが……何か質問はありますか?」
PTA会長はこう言っていたが、プログラムの適用はこの時点でほぼ決まっていた。
“イジメがよくない”という点では意見が一致しているので、下手な反論をしてもヒンシュクを買うだけだからだ。
それでも、そのプログラムの内容に難色を示す人がいた。
「なぜでしょう。ルビイ先生」
「やや過剰反応といいますか……イジメと言っていいのか分からない微妙なラインを、大人の尺度で判断するのは如何なものかと」
「何ですと?」
生徒たちだけで解決することが可能ならば、生徒主体でやらせるようにしている。
「私たちが必要以上に目くじら立てて、生徒たちの間に介入して問題化させる。それが果たしてベターなのかが疑問なんです。仮にやるとしても、現実問題として教師側の負担が大きすぎますし……」
だけど、ルビイ先生の教育に対する姿勢を、職務怠慢だと感じている人も多くいた。
穏当に、あくまで一つの意見を述べたにも関わらず、周りの人たちから怒号の嵐。
「何を悠長なこと言っているんですか! イジメ問題は、早めに解決しなければ取り返しがつかないんです」
「イジメを認知していなかった学校が、どれほどの責任を追及されるか」
「PTAからはもちろん、大事になればメディアで世間にも広がっていくんですよ。それだけイジメは深刻に見るべき問題なんです!」
「あなたはそれでも教師ですか! 児童の上に立ってモノを教える仕事にをナメているんですか!」
会議室という閉鎖された空間で、その波を一身に浴びてはひとたまりもない。
「い、いや、私はただ冷静に対応しようと言いたいのであって、イジメを容認しているわけでは……」
ルビイ先生はその大きな力に抗えるはずもなく、慌てて取り繕うのが精一杯だった。
「では、“満場一致で賛成”ということで。『新・イジメ対策プログラム』を、みなさん頭に叩き込みましょう」
ルビイ先生はただ黙って、他の職員に合わせて頷くしかなかった。
「はあ……」
『新・イジメ対策』に関する分厚い資料を目の前に、ルビイ先生は人知れず溜め息を吐いた。
場面は戻り、俺たちのクラス。
裏で起きていることなんて知る由もない俺たちは、未だブリー君との距離を測りかねていた。
最初の内は頑張って仲良くなろうとする奴もいたけど、数十秒ほど会話をするとすぐに諦めてしまう。
そんな感じで、一週間経ってもブリー君は孤立している状況だった。
コミニケーションをとれる余裕も、俺たちにはもはや残っていない。
「ちょっと可哀想だけど、当然の結果よ。あんな子と上手くやっていくなんて無理だわ」
タオナケはすっかりブリー君のことを嫌ってしまったようで、遠巻きに見ながら毒づく。
「う、うん、別に悪い子じゃないんだけど……話すと、すごく疲れるんだよね。め、免疫細胞がガリガリと削られていく感じ」
それに対し、ドッペルは控えめな表現をしているが、ところどころにトゲを感じる。
「まあ、大きなトラブルが起きないだけマシ……か」
俺もこの状況を妥協するようになっていた。
ブリー君の今の立ち位置に問題なんてなくて、そこから無理に動かす道理もないんだ、と。
だけど、この時の俺たちは忘れていた。
ブリー君に気をとられすぎて、気づいていなかったんだ。
ブリー君と接触していないクラスメートが、まだ一人だけいたことを。
結果、俺のいるAチームは負けた。
勝敗は内野の残り人数で決まったんだけど、Aチームは俺1人で、Bチームは2人だった。
「うーん、惜しかったね」
俺たちは、それに気のない返事をする。
「……そうだね」
そう、僅差だった。
不平不満を垂れ流して味方チームの士気を下げつつ、パスで敵に易々とボールを渡し、避けるそぶりすらせずやられたブリー君をだ。
もちろん、俺たちのプレイに何の落ち度もなかったわけじゃない。
最も悪目立ちしたのがブリー君というだけだ。
でも、ブリー君が文句をブツブツ言わなければ、パスくらい最低限できれば、避けるのをもう少し頑張ってくれれば……。
そのどれか一つだけでも多少できれば、マシだったなら勝てたゲームだ。
極端な話、ブリー君がAチームではなくBチームにいれば……いや、ブリー君がいなければ勝てたに違いない。
僅差で負けたという結果は、そんな鬱屈とした思いを大きくさせた。
だけど、そんな俺たちのことなんてブリー君は知ったこっちゃない。
「やっぱり戦術不足が敗因だと思う。もう少し対策を練るべきじゃないかな」
「外野も、もっとパスを回して相手を動かして、体勢が調わなくなったら足元を狙えばいいんだよ」
まあ実際のところ、ブリー君の言っていること自体は的外れってわけじゃない。
言ってる本人がまるで出来ていない点を除けば、一理ある指摘だ。
だけど「ブリー君が足を引っ張ったから」という指摘の方が、何理もあるのは変わらない。
そのことを言わないよう気を遣う俺たちと、その可能性を1ミリも考えないブリー君。
俺たちはそう言いながらブリー君に背を向け、小走りでその場を後にした。
ブリー君が後ろからまだ何か言っていたが、自分たちの会話でそれをかき消す。
それは、良いやり方ではなかったけれど、それが俺たちの精一杯だった。
あの時、ブリー君の顔を見たり、声を聞いたりする余裕が俺たちにはなかったんだ。
本心からくる心ない言動が、いつ表に出てくるか分からなかったんだから。
「私、女だけど、ああいうのと上手くやっていける気がしないわ」
俺たちにだけ聞こえる声量で、誰かがそう呟く。
仲間のタオナケだ。
「自分の言っていることが周りにどう思われるか、まるで考えていないんだもの。すごく無神経で、そのことに無自覚で、自分のことを客観的に見ようともしない」
タオナケの言うことには同感だ。
「タオナケ。そういうことは出来る限り声に出さない方がいい。ロクなことにならない」
「私、オカルトは好きだけど、言霊だとか本気で信じちゃいないわよ」
「そういう話じゃあない。言いたいことを言うのに慣れてしまったら、いずれ歯止めが利かなくなっていくと思うんだよ。そうなったら俺たちはブリー君と同じだ」
俺たちはクラスメートとして、否が応にもブリー君と接していかなければならない。
毎回、苛立ちを言葉にしていたら身が持たないんだ。
「無理して仲良くする必要もないけど、だからといってトラブルも望まないだろう?」
「私、その理屈は分かるけど、何だか不服だわ。こっちが一方的に我慢を強いられてるみたいじゃないの。ねえ、ミミセン?」
タオナケが仲間のミミセンに話を振るが、反応は鈍い。
「おい、ミミセン」
俺はミミセンを軽く小突いた。
「……あ、ごめんタオナケ。聴こえてなかった」
雑音を嫌うミミセンは、その名が示す通り耳栓をよくしている。
それでも普段は近くの会話くらいは聞こえるんだけど、その時は耳当てまでつけて音を防御していた。
しかも、その耳当てを手で押さえつけた状態で、小さい呻き声まであげているのだから聴こえるわけがない。
「私、戸惑ってるんだけど、ミミセンどうしちゃったの?」
「どうもブリー君の声が、だいぶ耳に“くる”みたいなんだ。声質とか、喋る時の抑揚とか、色んなものが相性悪いみたいで……」
ミミセンの反応は極端なパターンだけど、この時点でクラスの皆が精神をすり減らしていたのは事実だ。
冬休みに入る少し前、衣替えが済むかどうかのビミョーな時期。
「この度、私たちのクラスに新しい仲間が増えます。さあ、どうぞ入ってきて」
担任教師のしゃらくさい言い回しと共に、その転校生は教室に入ってきた。
第一印象は可もなく、不可もなくって感じだ。
強いて言うなら風貌が若干イモくさくて、身だしなみにはやや無頓着なタイプってくらい。
「ええー、転校生のブリー君です。両親の仕事の都合でこちらに越してきました……はい、どうぞ」
「……」
教室内が、妙な静かさで覆われた。
担任も俺たちも戸惑う。
「あのー、ブリー君?」
「先生、『はい、どうぞ』と言われても、どこに座ればいいか分かりません。空いているところを適当に座ってもいいので?」
「え……あ、うん。それでもいいけど、その前にみんなに自己紹介をしましょう」
「うん、そう。じゃあ自己紹介どうぞ」
「う、うーん……そうかもしれないけど、本人から直接言った方がいいかなあって」
「自己紹介した方が良かったのなら、先生が紹介する必要はなかったのでは?」
こりゃあ、中々に面倒くさそうな奴が来たな。
俺だけじゃなく、この時みんなそう思った。
それから数日経ったが、この転校生の厄介さは俺たちの予想以上だった。
例えば体育の時間など、グループで何かをやる時はそれが顕著だ。
「今日はドッジボールをやりまーす。出席番号が偶数の子はAチーム。奇数の子はBチームに分かれて」
この時、俺はAチーム。
「そもそもボールをぶつけるゲームなんて、危ないのに何でやるかなあ。それに、ぼくみたいな球技の苦手な人間まで巻き込んでやらせないでよ。共産主義とか現代の遺産なのにさあ」
ボールを捕れなくても、内野で避け続けているだけで相手のミスを誘えるし、時間切れに持ち込めば残り人数で勝利に貢献できる。
能力や積極性に違いがあっても、誰もがチームの力になれるゲームなんだ。
体育でやるスポーツとして鉄板なのは、それなりの理由があるわけだ。
……とドッジボールの良さを俺たちが説明してもなお、ブリー君の調子は変わらない。
「あ~あ、突き指とかしたくないなあ。ボールのゴム臭さも気分が悪くなるし」
当然、チームの士気は下がり続ける。
それと同時に、俺たちのブリー君に対する評価も下がり続けることになる。
まさか、こんな形で足を引っ張る人間がいるなんて思ってもみなかった。
俺たちはどんな遊びにおいても、どんな鈍くさい子でも、いないよりはいたほうが良いと思っていたし、楽しいとも思っていた。
だけど「こちら側のどこからでも切れます」が切れないように、何事も例外というものはある。
その例外が自分たちの身の回りで起きたことは衝撃的だったけど。
『この世から失くすべきだけど、絶対に失くせないものって何だろう』
主人公は登場人物に、そして読者に度々そう語りかけてくるんだ。
登場人物はその度に色々な答えを出していくが、それに対して主人公はイエスともノーとも言わない。
そして、答えが結局は何なのか、その本の中では書かれずに終わる。
俺は物語のこういう“やり口”は嫌いだ。
特定の読者が喜びそうなものを散りばめて、肝心なことをボカして書いて、いい感じに解釈することを期待して、何となく深い物語にしようとしてる。
こんな本の感想文を書かなきゃいけない、俺みたいなガキのことを何一つ考えていない。
結局、俺は兄貴から伝授された“感想文の埋め方”を駆使したけど、貰った評価はBだった。
『“この世から失くすべきだけど、絶対に失くせないもの”が何なのか。たぶん主人公も、その他の登場人物も、そして作者も思いついていない』と書いたのがマズかったらしい。
クラスメートは何て書いたんだろう。
ミミセンは「雑音」。
タオナケは「男女」。
ドッペルは「関係」。
ツクヒは「容姿」らしい。
クラスメートじゃないシロクロにも一応聞いてみたら、「自分自身」と答えた。
何だか深いようで、実際は浅そうな答えばかりだ。
それに、これだけバラバラの答えが出てくる時点で、やっぱり俺の感想は間違っていない気がする。
ちなみに兄貴にも聞いてみた。
「そういうのは作中の文章から、それっぽい言葉を抜き取るんだよ。それが見つからないんだったら、大人が喜びそうなこと書いとけ」
流石だ。
『この世から失くすべきだけど、絶対に失くせないもの』なんて、ほとんどない。
本気で失くしたいと思っているなら、そう思っている人がたくさんいるなら、失くせないはずがないんだ。
実際、俺は失くせないと思っていた“とある事”を、失くす方法を見つけた。
今回はそのことを話そう。
「辞める? それまた突然、なしてぇ?」
ダマスカスはいつも従業員たちに気を配っていて、母たちの働きぶりも知っている。
辞めるような兆候はないと思っていた。
「ということは、何か不幸なことでも……あいや、こういうのこっちから聞くのダメか」
「いえ、お気遣いありがとうございます。何か大きな理由があるってわけじゃくて……色々細かいことが積み重なった感じで」
「そっかぁ、それだと解決しようがないなあ。今までお疲れ様でしたってことで。あ、今週分の金はすぐ送りますよって」
こうして二人は『256』のもとを去った。
元同僚たちとの交友関係は今でも続いており、おかげで充実した余暇を過ごせているから、だとか。
ここからは余談だ。
あれからしばらく経った後、俺がタケモトさんから聞いた話である。
「どうやら『256』は、一昔前にあった大手の会社が解体後、残った者たちで起業して出来たようだ」
なるほど、元手はその時点であったってことか。
「では、どうやって儲けを出しているんでしょう」
「そりゃあ、顧客だよ」
『256』は独自の技術で作られた自社製品を多方面に、かなりの高値で売りつけていた。
「顧客を差別しない」といいつつテロリストに売ったり、軍事利用されることも容認しているらしい。
それを聞いて、俺はあることを思い出した。
「包丁で刺された人間がいたら、それは包丁で刺した人間の問題。包丁を作った人間のせいにしてはいけない」
とある刺傷事件に対して、『256』代表取締役が出したコメントだ。
その事件は『256』とは何の関係もなく、コメント自体も理屈は通っている。
だが『256』の実情を知った後だと、何ともいえない嫌悪感を覚えた。
ブラック企業がブラックなのは、端的に言ってしまえば労働者を搾取しているからだ。
搾取で成り立つ経営は下の下だが、それでもやりたがる経営者は後を絶たない。
『256』はその搾取する対象を、労働者以外にしただけだったんだ。
「そういえばタケモトさん。気になっていたんですが、あの時なんで『256』はキナ臭いって母に言ったんです? あの時点では『256』についてロクに知らなかったんでしょう?」
「とどのつまりは勘だが……強いて言えば、そのセンセイって人と同じ考えだ。とても普遍的な理由だよ」
「普遍的?」
「例えばファストフード店は不健康を蔓延させる。そして不健康な労働者が増える。病院に行く人も増える。医者が忙しくなり、病院の労働環境はより酷くなる」
「うーん……何の例えです?」
そうして数週間が経ったある日。
「マスダさん、おかしいと思いませんか」
いつもと同じように仕事をしていた時、センセイはそう疑問を投げかけてきた。
「何がです?」
「何が……ってこの会社がですよ」
センセイはさも当然のように言ったが、母は要領を得なかった。
母はこれまで、経営だとか雇用だとかいったものとは直接の縁がない人生を送ってきた。
世間一般的な異変を察知することは出来ても、詳しくないものについては勘が鈍る。
母もその自覚はあったので、センセイが何を問題にしているのかは素直に気になった。
しかし、センセイから返ってきた言葉は、これまた要領を得ないものであった。
「完全週休2日制で、祝日も休み。給料が良い。労働時間は厳守。働いているときも割と自由がきく。休憩は頻繁にできる」
母は理解に苦しんだ。
そんな中で労働環境が快適だというのは歓迎すべきことだ。
なのに、センセイはそれがおかしいのだという。
「2階を見ましたか? 雑貨屋があって品揃えも多い。自販機もやたらと色んなものがある。自社オリジナルといっていますが、それにつけても安い。いや、食チケで払えるから実質タダですし。労基を大事にしているのはまだしも、福利厚生まで充実している。私たちのようなパートタイマーにまで、です」
「それの何が問題なんでしょうか」
「福利厚生は社員の満足度を上げたり、モチベを維持させたり、労働力の向上が主な目的です。あったほうがいいのは間違いないですが、費用対効果が不確かなので会社によってピンキリなんです」
「結構なことじゃありませんか。つまりホワイト企業ってことでしょう?」
「その“結構なこと”を、多くの会社はしたくても出来ないんですよ。最近できたばかりの会社がここまで厚遇なのは、経営として異常なんです。経営は常にコストとの睨み合いで、どこを削れるかいつも考えていますから」
主にこの人材を安く、雑に扱う企業を「ブラック」と呼ぶことが多い。
それに対して、この『256』という会社は人材に金をかけ、丁寧に扱う。
ホワイトといっても過言ではないのだが、センセイはそれをやりすぎだと主張していた。
「それだけ余裕があるってことでは? 急成長している会社らしいですし……ん?」
コストをかけるにしても元手がいる。
「このモニターから、それぞれの機械の状態が分かるんで。何かあったら知らせてください」
「そんなことをパートの、しかも新人の私たちに任せても大丈夫なんですか?」
ダマスカスの説明によると、そもそも各々の担当者が見張っているし、異常が滅多に発生しないため簡単なのだという。
つまり問題が起きた時、それを取りこぼしにくくするための、あくまで念のための仕事というわけだ。
「管理を何重にもやるなんて、随分と念入りなんですね」
「我が社は精度の高さがウリってなもんで。もしも客から文句でても、ウチらは悪くないってことの証明になるでしょ?」
中々に不適な物言いだが、それだけ自社の作るものに自負があるってことなのだろう。
モニターで機械の状態は一目瞭然であり、もしも異常があった場合は近くにあるボタンを押すだけでいい。
センセイとの二人体制なので、休憩も頻繁に入れることができた。
「あ、マスダさんも休憩ですか」
「ええ、といっても休むほど疲れてもいないんですけどね」
「ははは、ここって暇ですもんねえ」
「私はサイボーグなんで、余計に力を持て余すんですよね」
「ええ!? マスダさんってサイボーグなんですか、全然気づかなかった……」
「二人目を生んでからは生身の部分もきつくなってきて。今ではほぼロボットですよ」
「いえいえ、寿命はありますよ。脳と心臓は人間のままなので、そこは老化していくんです」
「ああ、そこら辺はサイボーグって感じなんですねえ。全部機械にしたりしないんですか?」
「そこまでやっちゃうと、もうロボットって感じがして。それを夫に話したら、『二足歩行だからロボットじゃなくて、アンドロイドだろ』って真っ先にツッコむんですよ」
「ああー、いるいる。話の本筋より、そういうところ訂正したがる人いるよねー!」
「ははは」
仕事は面白みがなかったが、それでも同僚と良く会話ができたので退屈はしなかったらしい。
当時、母が仕事での出来事を嬉々として話していたのをよく覚えている。
充実していた、ってことなのだろう。
「わっほーい、僕は班長のダマスカスと申しまする。よろしくござまーす」
「モーマンタイよ、マスダさん。部下の名前を覚えるのは上司のタシナミン。しっかりインプット済み」
職場の快適度は上司の人柄が大きく関係しているといわれている。
「あれ、制服に着替えなくてもいいんですか。私服のままなんですが……」
「いやー、そういうのウチはないっぽいんで。あ、でも、お色直し?……とかしたいならシャワーとか、メイクするところはありますぜ」
職場に着くと、そこには既に働いている人が数名いた。
出来たばかりの部屋なのか、掃除が行き届いているからなのか、職場全体が広くて小奇麗だ。
反面、各持ち場は私物らしきものが置かれており、独自の空間を作り出している。
「割と自由にやれるんですね。これだと問題が起きたら大変じゃないですか?」
「そういうのはオカミさんにお任せですよ。僕たちは与えられた仕事だけ適当に……『適当』の使い方あってますけ?」
「合ってる、と思います」
「うーん、合ってる。良かった……まあ、そんな感じで、やることやって問題が起きるんならオカミさんの責任ってなもんで。僕らが気にすることじゃございやせん」
下働きの人間に責任がないというのは結構なことで、とても働きやすい職場といえた。
母はとりあえず求人情報だけ印刷してもらうと、言われたとおり慎重に考えてみることにした。
「どうでした、マスダさん。御眼鏡に適うものはありましたか?」
「あ、センセイ。一応はあったんですけど、担当の人がもうちょっと考えてみてはどうか、と」
「ほぅ、私にも見せてください」
センセイは求人紙に目を通す。
「『256』は機械やAIによる技術開発、研究、及びその製造をしている会社……」
「条件は申し分ないですし、これ以上のものはそう見つからないと思いますね……額面どおりに受け取るなら、ですが」
「と、言いますと?」
「公式サイトを見てみましょう」
センセイが、持っていた携帯端末で『256』について調べ始めた。
「最近出来た会社のサイトにしては随分とデザインがしっかりしてますね」
「プログラムなども作っている会社ですから、ここを疎かにしているようでは話にならないでしょう。重要なのは書かれている情報です」
迂闊な企業は、こういったところにすら綻びを見せる。
明らかな問題点を耳障りの良い言葉に代えたり、重要な事柄なだが都合が悪いので書かれていなかったりだとか。
しかし『256』に書かれた情報は過不足なく、あからさまな美辞麗句を並べた欺瞞もない。
その後も外部からの情報や評判なども調べてみるが、好意的な内容が多い。
中にはネガティブでキナ臭い話も一定数あったが、怪文書じみた内容のものがほとんどで真に受けるようなものはなかった。
「へえー、転職した元社員からも高く評価されているのは珍しいですね。こういうのって会社側に落ち度がなくても刺々しいこと言う人多いんですが」
「……やっぱり、ここで働こうかしら」
タケモトさんの言っていたことが未だ気がかりではあったが、調べた限りでは『256』は優良企業だ。
これ以上、悩む理由はないように思えた。
「そうですか……では私もここで働いてみましょうかね。ちょっと気になることもありますし」
「知り合いがいれば働きやすいですからね。それに、働くのに高尚な理由なんて必要ないですよ」
もしブラック企業だったなら、すぐさま辞めるなり、出るとこ出ればいい。
そういった打算もあり、二人は『256』で働くことを決めた。
「あ、タケモトさん」
タケモトさんは、俺たちマスダ家の隣に住んでいる人だ。
「ここで働いているんですね」
「んー、ちょっと待ってくださいよ」
タケモトさんは気だるそうにパソコンをいじり出した。
職業斡旋所に送られてくる求人情報はそのパソコンに詰まっており、大抵の仕事は見つけられるようになっている。
「パートタイムで、ある程度の融通が利く……かつ奥さんで出来そうなものかあ……」
タケモトさんの独り言は声が大きく、そして端々から不機嫌さがにじみ出ている。
強いて理由を挙げるならば、その日は少し忙しかったからなのだろう。
『仕事が嫌だったら、職場に顔だけ出して給料だけ貰えばいいんだよ。或いはストに使うエネルギーを副業にでも回せばいい』
以前、どこかでタケモトさんはそうボヤいていた。
労働に対する考えや臨み方は人それぞれであるが、タケモトさんの場合はその情熱がまるでないようだ。
タケモトさんの仕事は、相談する人間の数や質に比例して忙しくなる。
給料が欲しいから働いているだけのタケモトさんにとって、内容や是非に関わらず忙しいこと自体が気に入らないのである。
それでも、やるべきことは最低限やるだけ上等な方なのかもしれないが。
「うーん……ある、っちゃあ、あるっぽい、です、ねえ」
パソコンをいじり続けて数十秒後、どうやら条件に合うものを見つけたらしい。
しかし依然、歯切れが悪い。
「どんな仕事なんです?」
「要は機械の操作ですが、資格が必要ないようなんで、そこまで難しいものではないかと」
「ああ、いいですね。私はサイボーグですから、その分野はそれなりに詳しいですし。ここに決めます!」
タケモトさんの機微を意にも介さず、出てきた求人情報に母はやる気を見せる。
「えぇ……近所のよしみで忠告しますが、もう少し慎重になったほうがよいかと」
母のそのリアクションでさすがに心配になったらしく、タケモトさんは説明を始めた。
「この会社は『256』っていう機械メーカーなんですがね。かなり最近できたところのようで、成長も著しい企業らしいです」
昔、母が事件に巻き込まれて重症を負ったとき、その会社のおかげで一命を取り留めたらしい。
だからなのか、同じ機械メーカーである『256』に興味が湧いたようだ。
「へえ、すごいじゃないですか」
だけどタケモトさんは違う。
「人間と同じで、健全な成長というものは緩やかなもんです。その摂理を無視して大きくなるってことは、不健全な成長である可能性が高い」
「どういうことでしょう?」
「キナ臭い……オレが言えるのはせいぜいその程度ですかね。確信のある何かを知ってるってわけじゃないんで。憶測に憶測を重ねるのはデマと一緒になりますから」
この時、どうしてタケモトさんはそんなことを言ったのか、母には理解できなかった。
俺がティーンエイジャーになって間もない頃の話だ。
「バイトでもしようと思ってるの」
母は俺たち家族にそう告げた。
「それはまた……どうして? 別に家計が苦しいわけではないだろう」
「有り体に言って、やることがないの。家事はほとんど機械がやってくれるんだもの。実質的に私がやっているのは、その補助と言ってもいいくらい」
母は専業主婦というやつで、少し前までは大忙しだった。
しかし、現代科学の賜物は母を楽にしていくと同時に、仕事に対するモチベーションも奪っていった。
そして、俺たち兄弟は成長していくと手がかからなくなり、自分で出来る範囲のことはやるようになった。
母が今までやっていたことは徐々に減っていき、自分だけの時間が大きくできたわけだ。
「子供が自立していくことは親として喜ぶべきなんでしょうけど、同時にメリハリもなくなっていくのよねえ」
しかし、そうして出来た時間は中身がなく、ポッカリと空いている状態だった。
「あなたは仕事で夜に帰ってくる。子供達は学校から帰ってきたら友達と外へ遊びに行く。キトゥンは躾ができてる上、子供達が世話するからエサをあげるくらいしかやることがない。自分の身体のメンテナンスだけで、残り時間は潰せないの」
「うーん、なるほど……だけどその空いた時間を仕事に費やさなくてもいいんじゃないか。自分だけの時間なんだから、趣味だとか、もっと有意義なことに使えば……」
「私に必要な“有意義”が、そういうものじゃないってことくらい分かってるでしょ?」
母は無趣味な人間で、やりたいこととやるべきことを直結させた人生を送ってきた。
それで充実していたし、不満もなかった。
以前、センセイがそう言っていたのを思い出す。
だけど、こうも言っていた。
『難点は、常にやるべきこと、やりたいことを追い求める人生になりやすいってところだな。やるべきことがなくなれば、やりたいこともなくなるからね』
まさに母はその体現者だったのだろう。
結局、反対する理由もなかったので、俺たちは母のやりたいようにさせた。
「うーん……丁度いい条件のがないなあ」
入り口近くに貼られた求人紙に目を通していくが、都合のいいものは中々見つからない。
「おや、マスダさん。珍しいところで出会いましたね」
声をかけてきたのはセンセイだった。
「そんなところです。とは言っても、ここに貼られているもので目ぼしいものはなさそうですね。良い条件なのは、既に持っていかれたのでしょう」
「そうなんですか……じゃあ、他のところで探した方がよさそうですね」
「後は相談窓口ですね。ここに貼られているもの以外を見繕ってくれることがあるので。それに期待しようかと」
「へえー、じゃあ私も行ってみようかしら」
母はセンセイと共に相談窓口へ向かった。