「辞める? それまた突然、なしてぇ?」
ダマスカスはいつも従業員たちに気を配っていて、母たちの働きぶりも知っている。
辞めるような兆候はないと思っていた。
「ということは、何か不幸なことでも……あいや、こういうのこっちから聞くのダメか」
「いえ、お気遣いありがとうございます。何か大きな理由があるってわけじゃくて……色々細かいことが積み重なった感じで」
「そっかぁ、それだと解決しようがないなあ。今までお疲れ様でしたってことで。あ、今週分の金はすぐ送りますよって」
こうして二人は『256』のもとを去った。
元同僚たちとの交友関係は今でも続いており、おかげで充実した余暇を過ごせているから、だとか。
ここからは余談だ。
あれからしばらく経った後、俺がタケモトさんから聞いた話である。
「どうやら『256』は、一昔前にあった大手の会社が解体後、残った者たちで起業して出来たようだ」
なるほど、元手はその時点であったってことか。
「では、どうやって儲けを出しているんでしょう」
「そりゃあ、顧客だよ」
『256』は独自の技術で作られた自社製品を多方面に、かなりの高値で売りつけていた。
「顧客を差別しない」といいつつテロリストに売ったり、軍事利用されることも容認しているらしい。
それを聞いて、俺はあることを思い出した。
「包丁で刺された人間がいたら、それは包丁で刺した人間の問題。包丁を作った人間のせいにしてはいけない」
とある刺傷事件に対して、『256』代表取締役が出したコメントだ。
その事件は『256』とは何の関係もなく、コメント自体も理屈は通っている。
だが『256』の実情を知った後だと、何ともいえない嫌悪感を覚えた。
ブラック企業がブラックなのは、端的に言ってしまえば労働者を搾取しているからだ。
搾取で成り立つ経営は下の下だが、それでもやりたがる経営者は後を絶たない。
『256』はその搾取する対象を、労働者以外にしただけだったんだ。
「そういえばタケモトさん。気になっていたんですが、あの時なんで『256』はキナ臭いって母に言ったんです? あの時点では『256』についてロクに知らなかったんでしょう?」
「とどのつまりは勘だが……強いて言えば、そのセンセイって人と同じ考えだ。とても普遍的な理由だよ」
「普遍的?」
「例えばファストフード店は不健康を蔓延させる。そして不健康な労働者が増える。病院に行く人も増える。医者が忙しくなり、病院の労働環境はより酷くなる」
「うーん……何の例えです?」
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