はてなキーワード: 自尊心とは
考えてみた。
・彼はとある言語の勉強しているのだけど、日本でレベルを上げるためにはネイティブの恋人を作るのが一番いいとか言ってくる。
→その考えは正しいと思うし、他意はないと思うのだけど、傷つく。悪かったな、日本人で。
→いいんだよ、勉強したいんだよね、話せるようになりたいし、海外の友達作りたいんだよね。わかるすっごくわかる。でもね応援したいけど、ちょっとさみしいんだ。
→私も私なりに自分の人生たのしく頑張って生きてる。でもここ十年の中で一番不調の今、私にとって眩しすぎるよー。
・いっしょにやろうってさ
→やりたいよーーーやりたい。でもわいには無理なんだよ。。。
3)自己嫌悪に陥りたくない
→嫉妬って自尊心高い人でもするもの?自分に自信がないひとだけ?こんなことに心かき乱されず、自分の人生をきっちり生きたいのに。
→私が彼を尊敬しているのと同じだけ尊敬されたいって思っちゃう。
宮台真司さんと二村ヒトシさんの対談でだれかが言ってたけど、恋すると恋人が光になるゆえ、自分の人生が暗闇だったことに気づいちゃうんだよね。
多分、彼氏に負けないくらい私も自分の人生をストイックにやりきる他ないのだと思うのだけど、彼氏と良い関係を築きたいために自分の人生を頑張るって目的と手段が逆転してるじゃん。。。なんのために生きてるのかわからなくなる。
恋愛は楽しくて辛い。
AKB系列、ジャニタレの適当なダンスとは比べものにならないぐらい上手い。昔の指原のこの発言には本当に幻滅した。
https://news.livedoor.com/lite/article_detail/8159790/
当然整形で治してるわけだから、その甲斐もあって顔は整っているのだと思う。(個人的な好き嫌いは別として)皆同じ顔という批判もあるし、実際そうだが、ファンには区別がつくならまあ整形成功だろう。
個人的には5人ぐらいがベストだと思うが、AKS系列のように48人もいないところは良いと思う。人数が多いの、キモい。
東アジア文化の最先端、という虚構で見事に若者を騙せたと思う。カンナムスタイルの再生数詐欺は有名だが、そこまでして「流行っている」と押し切って実際にそれなりに流行らせているのだから、まあ勝ってると言っていいだろう。短期留学に何度か行って思ったのだが、白人国家に住むマイノリティアジアンにとってKPOPスターは、アジア人の自尊心を満たす拠り所なのではないだろうな。東南アジア、オーストラリア、アメリカ、中国人と薄い関わりを持つ機会が点々とあったのだが、どの国の人の中にもにもKPOPファンがそこそこいた。日本のアイドルは世界展開する気も、する能力もないが、そこに成功している点は素直に凄い。国内市場の狭さ故なのだろうか。
大東亜共栄圏のような夢をアジア人ファンに見せている気がする。
日本にもダンスの上手い世界進出アイドルはいる。ハロプロだ。しかし、ハロプロはもう一般知名度はない。あそこにはドルオタしかいない。また、AKSも若い女の子ファンはそこそこおりファッション誌でモデルもやっているが、実際に金を出している層はおっさんである。おっさんから金をむしり取るビジネスとかした日本のアイドル文化より、かっこよくて可愛い韓国アイドル(という虚構)に若者が心惹かれる気持ちもわからなくはない。
KPOPファンの友人がいるので、なんとなく内情を把握してはいるが、実際に名前と顔が一致するアイドルはいない。KPOPファン、armyとかonesとか名乗ってる彼女らは独自の(韓国から発信されてくる)文化を受け取り、再発信している。「ハングルが可愛い」「韓国語はわからないが発音が可愛い」など難解なコンテキストの上でガラパコス化した可愛い文化を築いていて、まあ理解不能なんだが、凄いと思う。水を差す奴らがいないので、加熱されやすいのだろう。好きじゃない奴にとっては微塵も興味を持てない対象であるが、好きな奴にとっては神様、という分断を少し感じる。
若い子のトレンドはkpopっていうのが嘘で無くなってきていると思う。日本の文化のリバイバルが韓国の最先端と一致したのと、「かっこいい西洋」がアジア人賛歌への立ち還りによって「かっこいい韓国」への移り変わりが起こったのが上手く言ったのかなーと思う。
若者間でも左翼と右翼のように「kpopが好きで親韓の人々」「普通に日本のポップカルチャーが好きな保守的な人々」っていう分断が起きているのが、なんとなく怖いところだと思う。kpopファンはkpopファン同士固まるからそこでヒートアップしやすいのだよな。
個人的にはkpopファンは妄信的でうざいので嫌い。「日本文化sage、韓国文化age」が彼女らには根付いてて、ジャニオタなどとの軋轢を生んでいるところも頻繁に目にしてきた。
まあ政治には全く関係ないが、かつてセーラー服を着ていた頃に見てきて思ったことを書いてみた。田舎者なんでこれでも韓流オタク少ない方だったと思う。都会はみんなオルチャンメイクとか地獄かよ。椎木里佳みたいなのがインフルエンサーなんでしょ。きついっすわ。
特徴
犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは以下のように定義している。
良心が異常に欠如している
慢性的に平然と嘘をつく
行動に対する責任が全く取れない
罪悪感が皆無
口が達者で表面は魅力的
オックスフォード大学の心理学専門家ケヴィン・ダットンによると、サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義、である[1]。現状では、チェックリストのみが診断基準であるので医学的にサイコパスと同じ状態であっても反社会性がなければサイコパスとはならない。反社会性などの診断基準を満たす者は幼少期からの素行問題など行動面の異常を示すことが多い[2]。
日本国の精神保健及び精神障害者福祉に関する法律・第5条に、「この法律で『精神障害者』とは、統合失調症、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者をいう」と定義され、精神障害者に該当しつつ、保護の対象者と成る事を法的に認めているが、必ずしも全てが該当するとも言えず、時代相応の医学(科学)的な診断結果に基づいて判断される。
サイコパスの主な特徴は、極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義、であり、サイコパスの人間の大部分は殺人を犯す凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者であるとされている。
しかし中程度以下のサイコパスであれば、社会的成功を収めることも多いとされている。サイコパスはその定義上、悪人とされる[3]。そして彼らが悪事に手を染める理由にはありとあらゆるものがあるとイェール大学の心理学専門家ポール・ブルームは断定している[3]。
今まで「情緒」というものに左右されているのだと思っていたが、
ここ一ヶ月ぐらいの報道の中で何度も「自尊心」という言葉を見た。
彼らの「自尊心」というのは必ずしも「誇り」とイコールではないようだ。
彼らの行動はすべて説明が付くような気もする。
とにかく負けることが嫌なのだ。
考えてみれば彼らがちゃんと負けたのは百年以上も前のことで、
負けることへの耐性が失われているのかもしれない。
「コーチおやじ」というものが存在する。主な生息地は動画サイトに若者が投稿した演奏動画のコメント欄で、そこによく出没する。
主な生態としては基本的にダメ出し。やれ「ピッチが」だの「モタる」だの「音の粒が揃ってない」だの具体的な計測方法のない切り口でダメ出しをする。そして主に若い女の子がギターやベース、ドラムを演奏している動画に現れては、そう言ったダメ出しをすることを好む。
(あと最近気づいたのは、街角で弾き語りをやっている女の子にも何やら延々と喋ってるおやじもよく見かける。これはダメ出しなのか何だかわからないが、腕を組み得意げに何やら喋ってる。女の子は片付けをしたいらしく困惑した笑顔で対応するのだが、彼女のその困惑には気づかず笑顔にだけ気をよくしてペラペラ喋ってる。CD-Rを買ってあげてるのかはわからないが買ってなさそうだ。)
またコーチおやじは、女の子が習得する楽器に関してステレオタイプの先入観を持っているだめピアノ、シンセ、エレクトーンなどの鍵盤楽器の投稿動画にはまったくと言っていいほど姿を見せない。そこにも稚拙な演奏が相当あるにも関わらずである。だからロック系の曲を演奏するギター、ベース、ドラム専門に出現する。とにかく女の子がこれらの楽器がうまいことを許せないのだ。
たまにそのダメ出しに対して誰かがコメント欄で反論をすると「批評も許されないのか」「慣れ合ってヨイショコメントしかしちゃいけないのか」的な開き直りを見せる。ひどい場合はコーチおやじのダメ出しコメントばかりが動画に並び、いつしか投稿主は動画を削除してしまう場合もある。
コーチおやじの本質、それは「尊敬されたい」「愛されたい」である。「なるほど!わかりました!これからも指導お願いします師匠!」と言われたいのだ。とっくの昔に現役でなくなってる、もしくは現役時代そのものが存在しなかったかもしれない自分にだ。空想の、虚構の、眩い白日夢はこの上なく心地よいのだ。また相手が女性動画主だったらあわよくばねんごろになりたいってのもあるって言ったら邪推し過ぎだろうか。
だがコーチおやじの願望が叶う日は決して来ない。なぜならば若者たちが動画を公開するときに期待するものは「賛辞」と「励まし」だけなのだから。コーチおやじの「尊敬されたい」「愛されたい」とは対極の、はるかに青く純粋な衝動だ。コメントでもっともらしいダメ出しなんかもらわなくとも、彼らは再生数という言い訳の出来ない評価と対峙することになるのだから。こういうとコーチおやじは「再生数がすべてなのか」と半笑いで反論しようとするだろう。そうだ、すべてだ。
ここまで読んだ人は気づくと思うが、俺がまさにそのコーチおやじだった。
ここは「だった」と過去形で言わせてもらう。何故ならば俺はその空想の中の自尊心を、よりによって自分の息子に剥ぎ取られ、丸裸な状態の滑稽な初老の男である自分を突きつけられ、激しい屈辱と自己嫌悪とともに目が覚めたのだ。「コーチおやじの滑稽さ」に。(ちなみに息子は音楽はやっていないのだが、どう突きつけられたかは本題とそれるので省略する。ただ、涙ながらに訴えられ目が覚めたとだけ言っておく)
80年代に成毛茂という70年代のギタリストがやっていた深夜番組は、その骨太の説得力に薫陶を受けた何人かの門下生が凄腕ギタリストとなり、副産物として有象無象の門前の小僧を生み出した。ようするに「薫陶」ではなく「受け売り」止まりの奴らだ。俺はまさしくこのクラスタの人間。
そして90年代から00年代にかけてE〇Pとかの音楽専門学校に入ったはいいが、バンドやるでもなく真面目に授業受けるでもなく、身に付いたものはと言えば出会い系サイトのサクラのバイトによる昼夜逆転の生活習慣というだけの奴ら。
両方に共通しているものは、何ら後進が手本とできる見本となる演奏音源や映像を残すことも公開することもなく(そもそも今で言うところの「なろう」だったので存在すらしないかもしれない)、ただ曲と楽器と半端な受け売りの楽典の知識だけを元に、投稿動画をあれこれ批評と称してこき下ろす。全員が全員そうだとは言わないがコーチおやじの本質はおおむねこれだと思う。
あのな、ご同輩。今は時代が違うんだよ。まず機材が違う。昔のようにMDやテープを何度も聴き直して音を拾わなくてもコピーができる。アンプだってライン録りで遜色ない音もできる。8トラックでピンポン録音なんてアホらしいことだってする必要もない。だけど彼らはそうやって楽になった分のリソースをどこに注ぐと思う?彼らはやっぱりその分純粋に練習に注ぐんだよ。彼らは試行錯誤の必要がない分まっすぐに練習するんだよ。俺たちよりも合理的なやり方で、何よりも当時の俺たちと同じくらいの熱意でもって。今の若い子たちの演奏が(女の子のそれも含めて)抜群にうまいように聴こえるのは錯覚じゃない。本当にうまいんだよ。
だから彼らが、あなた方やかつての俺がかすかに期待する「尊敬」や「愛情」をお前らに向けることは未来永劫あり得ないんだ。とっくに現役じゃないかそもそも現役だった時代すら存在しなかったおやじたちに。だからコメント欄で偉そうなダメ出しするのはやめよう。気に入ったらlikeをクリックして、気に入らなかったらdislikeすらクリックせずに二度と観なければいいだけの話だ。
とは言えやはり俺もいまだに「尊敬」と「愛情」が欲しいことは否定できないので、
DTMと呼ばれるものに手を出すことにした。つまり若い連中が群雄割拠する世界に、かつて打ち込み専門の誰かが言った「楽器が弾けるというのはデカい」をわずかな希望として胸に秘めながら、ひっそりと足を踏み入れることにした。pro toolを始めとした機材を大人買いした。使い方を早くマスターするためにインストラクターに素直に教えを乞うた(オヤジは金があるんだよ)。これで俺も再生数に一喜一憂する奴らの仲間入りだ。指がすっかり動かなくなったというより広がらなくなって難儀してはいるんだが、まあコーチおやじよりは健全だと思ってる。
風俗店を利用する同級生あるいは同僚を、心の中で「俗物」と罵っていた。先輩社員の奢りでピンクサロンへと吸い込まれていく同期を、心の底から軽蔑していた。私は今日、その男根への承認という勲章を求めて風俗店を利用する許されざる「俗物」となった。最もなりたくなかった存在へと身を落としてしまった。それだけではない。下らない自尊心と間違った配慮、そして醜い自意識によって、正常に風俗店を利用する彼らよりも程度の低い存在へと成り下がったのだ。そして、自分の汚れた心の言い訳にこのような俗物的な文章を書き残すことが、さらに私自身を俗物へと貶めるのだ。
私は鬱病だった。毎日のように精神的発作を起こし、衝動的な自傷行為――主に私が許し難いと感じている非道徳的な行為を私自身が行うこと――に明け暮れ、一人孤独に単調な日々を過ごしていた。それでも、他者を私の精神的安定の材料として利用しない、という規範を自分に課していた。それが今日、あろうことか破られたのだ。気づいたときには風俗街にいた。私は自身が脳内で散々に罵倒していたあの「大学生」あるいは「社会人」達と同じ線の上に立っていた。ここ数ヶ月の見窄らしい自らの行いを、許されざる粗相の数々を精算するため、最も忌み嫌う場所へとこの脚が無意識に私の身体を運んだのだ。私は鞄から精神安定剤を取り出し、僅かに残っていた飲料水でそれを胃の中へと流し込んだ。
何度も嘔吐しそうになりながら、それまで未来永劫に自分とは関係のない場所だと思っていた欲望の通りを歩いていく。私はこれから、今まで見下してきたあの俗物達と同じ存在となる。価値のない私にはそれくらいの地位が相応しい。しかし、ああ、なんということだろう! 真面目に労働として性交を提供している女性が、そんな卑俗な目的のためにこれから私と交わるという悍ましき状況が発生しているのだ。なんと失礼なことだろう。なんと不誠実なことだろう。彼女らはその吐き気を催すような目的に協力するため労働時間とその身体を提供することに同意するだろうか? ――するはずがない! もしそうでないのであれば、同意しないことを強く勧める! 性産業に従事するということ自体が――その産業構造が現実的に女性への搾取を含まざるを得ないという事情こそあれど――世間一般で言われているような尊厳を切り売りする行為だとは思わない。しかし、私のこの悪意に満ちた目的を拒絶せず性交に応じることは人間の尊厳を切り売りする行為だと言っていいだろう。根源的な悪人である私は、黙ってその目的を達成しようとしているのだ。他者を利用してまで!
最も店舗の密集する地帯に入ってから入店まではそう時間を要さなかった。雨が降っていたこともあってか、休日の夜にしては人通りがかなり少なかった。私は「これ以上ここを歩くのは耐えられない」と感じた地点で歩みを止め、二、三歩戻って完全に初めての領域へと足を踏み入れた。目に映った中で一番美しいと感じた風俗嬢を選び、直後にはその行為が行われる部屋へと導かれていた。他者の外見を値踏みするようなことをしてしまった自分がいやになった。自分は最低の人間であるという自覚が床板を踏みしめる毎に強くなっていった。
部屋に入ると彼女は料金表を提示した。風俗を利用したことのない私には躊躇いの気持ちが生まれるような数字が並んでいた。しかし、高ストレスな仕事には高額な給与が支払われるべきであるから、私はちょっとした電化製品を買うくらいの紙幣を財布から取り出して嬢に渡した。報酬をどこかへと持って行った後に戻ってきた彼女は「じゃあ、脱ごうか」と言った。私は大袈裟に恥じらうような態度を見せ、服をすべて脱ぎ、私の小柄で貧相な身体を露出させた。嬢の身体は今までに見たこともないほど整った曲線を描いていた。乳房も乳首も、腰のくびれも、肌の質感も、すべてがお手本のように綺麗だった。陰毛が除去されているのも相まって、その造形は芸術的ですらあった(後から考えると、このことも私の陰茎の勃起を妨げる一因だったのかもしれない)。
彼女は私に寝転ぶよう促し、乳首を舐めた。あまり気持ち良いと感じなかったが、私は童貞のごとく過剰に喘ぎ声を捻り出した。ある程度ペニスの固さが保たれてきた頃に避妊具を装着し、口淫を施した。口淫にも少し物足りなさを感じたが、私は情けない声で喘ぎ続け、呼吸を速くした。嬢は私の童貞的な反応を楽しんでいるように見えた。不誠実な利用客である私ができるせめてもの償いは、彼女が仕事に伴い感じるであろうストレスを少しでも減らすことだった。私が彼女にリードしてもらう形で性交が行われた。仰向けになった私の九割ほどの固さになった陰茎の上に、彼女の女性器が乗った。騎乗位である。性交が始まってしまったのだ。私はだんだんと罪悪感に侵食されていった。実際、何度も中折れし、心配する嬢に謝罪を繰り返した。「なんだか、とても悪いことをしているような気がしてくるのです」と私は言った。嬢は相変わらず整った顔で、ふふっと笑った。嬢に導かれるがままに体位を変え、騎乗位、正常位、後背位、そしてまた正常位で必死に腰を動かした。彼女の顔は何年も前に別れた元恋人に少し似ていた。正確には、元恋人の加工に加工を重ねたセルフィに似ていた。嬢はそれほど美しかった。しかし、中折れは何度も繰り返された。そうこうしているうちに制限時間は迫り、残り時間が少ないことを告げるベルが鳴った。嬢は残り少ない時間でもう一度挿入をして射精させようとしてくれたが、陰茎の固さを保つために実施された手淫の間に射精してしまった。私は「すみません」と謝った。嬢は数十分間ずっと私の童貞的な反応を楽しみ、時間内に射精できるよう最大限協力してくれた。とても申し訳ない気持ちになった。
性交を終え、受付の中年女性との短い談笑を済ませ、来た道とは別の経路で自宅へと急ぎ気味に歩みを進めた。身体を人通りの多い道へと近づけながら、私は自分の心にあいた穴がまったく埋まっていないことに気がついた。自罰的行為と、それに伴う射精は私の心の問題を解決する方法ではなかったのだ。家に着いた頃には、嬢の顔も思い出せなくなるほど記憶が曖昧になっていた。ここまで書いた文章以上のこと、すなわち映像的な記憶は綺麗に脳内から消し去られていた。ただ、彼女の容姿が美しかったこと、私が情けない姿を他者に見せてしまったことだけが今日の出来事の象徴としてぼんやりと頭に浮かぶだけだった。私は本当に風俗店を利用したのだろうか? それすら疑問に思うほど、私の体験の密度は急速に小さくなっていった。確かなのは、財布の中身が随分と減っているということと、私が以前より私自身を嫌っているということだけだ。
読んだけど、読んでから結構古い本だと気づいた。トランプというか貿易摩擦の話で更にややこしくなってる、もっと新しいのを探さないと。
客観的に書かれてる気がする、そんで日本の方がアホに見える。そういう問題じゃないが。もっと真剣に謝罪して金出して、で済む話だったかもなのに今や世論がどっちみち許さないしネトウヨやら保守議員やら余計なことしてくれたな本当。
でも、戦争だとか経済が限界だとか極端な希望で語るんじゃなくもっと冷静に見て考えないといけないとは思った。グローバリズム、大国主義、歴史は繰り返さんだろうけど、余計なことだけど結局全部自尊心の病とマスキュリズムの話なのでは?知らんけど
4月からずっと希望していた発達障害のある人の支援をする仕事に就いたんだけど知能検査のテスターをし始めてめちゃくちゃ不注意を指摘されるようになった。検査中は裏で指導役が見てくれてて結果をまとめたあともチェックしてくれる。10件以上検査を取らせてもらって2,3人ほど1人で入った以外は全部指導役同席。そんな状況でミスを連発してしまい、今までの人生で本当に言われたことの無い「不注意」を指摘されるようになってしまった。おそらくADHDだと思われている。
空間認知的な部分が弱いのは自覚しているので見落としやすい課題は何度も確認する。時間がかかるのは仕方ないと言われているので他の仕事を挟み、時間置いて確認する。1人につき2日ほどかける。しかしあとから今これだけ見たとしても指摘されるかもしれないと思うと緊張して目が滑る。結局間違えて、「また?」と言わんばかりの視線で指摘される。報告書のミスも、日付のミスなどは減ったが微妙な図形のズレとかますに綺麗に文字が入っていない、これをお渡しするんだからと言われて納得はするが、恥ずかしさと緊張で頭が沸騰しそうな状態になる。結局、ひとつの図形を整えるのに1時間かけてしまった。指導役の指示も完全にADHDへの対応になっていて申し訳ない気持ちしかない。こんなことなら今の仕事を選ばなければよかったと思ってしまう。ずっとやりたい仕事だったのに。
ADHDの特性はたしかに持っているし、ASDの特性も持っていると思う。ただ診断がつくほどではなく、傾向ありとするにも微妙なライン。母から幼少期の話はきいているし、医師に相談したこともあるのでこれは間違いない。強迫と自己愛がかなり強く、そこで苦労した学生時代だったもののそこは受容して上手く付き合っていこうねとお世話になった先生から言われ、それなりに頑張ってきたつもりだったが。
自分でもこれほど不注意不注意と言われるのは予想外だったし、気をつけたら気をつけた分だけ落ち込む。今も書きながら泣けてきて仕方が無い。自分が惨めで、これほど迷惑をかけながら職場に居座ることが辛くて仕方ない。今まで懸命に育ててきた自尊心は毎日しぼみ続けている。他職種の同期がどんどん仕事を任されているのを見ると、どれだけ自分が期待されず、厄介者だと思われているんだろうとただただ悲しくて仕方ない。今もお腹が痛くて仕方ない。
不注意の原因は分かっている。なれない仕事と仕事の他にやらなければならないこと、新しい環境がかなり負担になっていること、それによりうつ状態に近いこと、それに起因する注意力散漫になっていること。それから元々人の目がとにかく気になること、過度に緊張して人から見られていると力が発揮できないこと、今の監視されているような状況が心底辛いこと。それらが要因になっていることは間違いなく、ある程度野放しにしてもらえたらそれなりに結果を出せる自信はある(いや、あった。)。根拠はこれまでの自分はそうやって評価されてきたから。それを知っている人は自分以外にも多数いて、放っておいてくれるほうが安心することを知ってくれ、許してくれた環境下ではうまくやってこらた。
自分が発達と疑われていることが辛いのか、だとしたらもうこんな仕事やめてしまった方がいいんじゃないかとも思う。自分はなんて傲慢な思いで今の仕事を選んだんだろうと。とにかく自分のことが嫌で嫌で仕方ない。自分で自分のことを嫌だと思っている自分が嫌で、とにかく無価値でそれでもまだあれしたいこれしたい、という思いがあること、生きようとしていることが恥ずかしい。
要は当人にとってコンプレックスになってたり、無駄に追い打ちかけて笑ってるやつ。
当たり前のように存在してて、今も多少トーンは抑え気味だったりTPOをわきまえる風潮出てきたけど存在してる。
あれって、結局、優位に立つ、下には下が居るというのを共有するって感じで自尊心保つのとか、ストレス発散するのに最適なツールで笑いと繋がったのが最悪だったと思ってる。
他人に向けるか自分に向けるかで自虐ネタも似たようなジャンルだと思う。
小学校時代過ごした街は、元々畑だったのが駅が出来て、先祖代々住んでる土地持ちと、公営の団地の家族と、結構高いマンションやら畑つぶして立てた分譲住宅に移り住んできた家族とでごちゃ混ぜになってた。
当然のようにいじめもあったし、いじめとは違って、無視したりいじめ続けたりするほどではないけど、最底辺の友達としていじられたおしてるキャラも居た。
ヤンキーの元みたいな暴力的な奴もいたし、20人の男子が、上位集団(ポジティブでハイスペックなやつか明るい暴力的なやつ)、中位集団(人付き合いの上手いお坊ちゃまやスペックそこそこの中流家庭の子)、下位集団(それ以外の中でも友達付き合いが可能なレベルの人間、顔が不細工だったり、頭悪かったり、家が貧乏だったり、運動できなかったり色々問題は抱えてる)、ほとんど誰とも絡まないやつ数人、いじめられっこ、みたいに分かれてた。
上位中位はそれなりに仲良く、中位と下位も時には一緒に遊んだりするんだが、上位と下位となると明らかに接し方が変わってくる、お前らよりも上だってのを隠すつもりもない。
もちろん中位は下位をある程度は見下してるんだけど、まだ距離が近い分上位に対する時ほど卑屈にならずに済む。そう、小生は下位グループに属していた。
下位グループは今でいう陰キャっぽいやつらが、でも俺たちそれなりに楽しんでるんだぜって仲間内だけで支え合ってるツイッター民みたいなもんだから、そんで関西人だったから自然と、面白さが評価基準になっていく。下位の中でも上位をキープするために、上位や中位とうまく付き合うために。その他諸々の理由で。
そんときに、もっとも容易に笑いっぽいなにかを得られるのは、いじり、不謹慎ネタだった。不謹慎に関しては中学ぐらいから流行りだしたか。
さて、そもそもはいじりや不謹慎のお手本としてテレビでそういうお笑いをやってるのが悪く、どんどん排除されてってるが、じゃあその穴は誰が埋めてくれるんだろう。
今の小学生もお笑い好きだったりコロコロ読んだりはしてるだろうけど、小学生にとってオリジナルネタを開発するのはハードルが高い。
テレビのモノマネになってしまう。いじりや不謹慎の便利なところは学校の先生モノマネと一緒で、洗練されたフォーマットを身内で置き換えることでさも自分が作り出したネタとして披露できるところにある。
当時はそういう目の付け所、いじり要素を発見したり(モノマネでいう先生の口癖とか特徴的な動きとかか)、新たに街で発見したおかしなおじさん、地元にはまだまだ沢山出没しているが、そういう明らかに地域の大人たちからもはみ出している存在にあだ名をつけたりする能力を磨き合っていた。
いじりもはじめは容姿や能力から親の仕事とか家のにおいとか、まあ陰湿だし、なにも褒められたことではないのだけれども、新たな要素を発見しては飽きるまでいじるという行為。
完全無欠によろしくないことなんだけれど、そういった行為を通して、空気を読んだり、人との距離を測ったりという経験値も明らかに積まれてただろう。
そして、ネタが受け入れられたことや他者より優位に立ってるという思い込みを通じて、精神的な平穏を保っていられた。
勉強も運動もできず、家が裕福でなく、ルックスにも恵まれていない、でもクラスの一員としてはみ出さずに居場所を作るにはそういう能力が必須だった。
そしてそういう子供が成長した今、場末の飲み屋ではいまだにいじって笑いを取るおっさん、不謹慎ネタをぶっこむおっさんが多数生息している。
もちろん、社会に出て、限度をわきまえたり、相手を選んだり、笑いに変える(付き合いでのお愛想も含め)能力は多少成長している。
が、そもそもオリジナリティなど皆無で、他人のフォーマットをアレンジする以上の能力がないので、それ以外のネタとしてはせいぜい漫画のセリフを引用ぐらいしか引き出しは増えていない。
現時点でのおっさんは、それ以外の武器を持ち合わせていないのだ。
そして、それ以外のコミュニケーションで己の居場所を作ることができなくなっているのだ。
なんとか己の自尊心を見たそうと軽はずみな発言などしようものならマウンティングおじさんと呼ばれてしまう。
そして人をいじることしかできないおっさんや、不謹慎なネタを平気で口にするおっさんは若者から煙たがられるようになってしまった。
狭い範囲の観測で恐縮だが、50代以上は過度ないじり世代、それ以下は不謹慎ネタの比率が高いと思う。
年配にいじりが多いのは、年上なのをいいことに十数年、あるいはそれ以上の期間、いじりネタ一本で生きてきてしまった上の弊害でもあろう。
そして、今の40代はひょっとすると年下が増えて、いじりのダークサイドに堕ちてしまうのかもしれない。
あと30代は自虐が多い。
20代は引用ネタが多いような気がするし、そこそこ自虐も使う。もちろんそういう傾向が見えることもあるってだけで、きっぱり割り切れるものでもない。
とにかく、40代の小生からしても50代のいじりは見てて辛いものがあるし、なんなら年下から我々も同じように思われているのだろう。
時代が変わってしまったんだから、新しい能力を手に入れて適応すべきだが、今更困難だ。
それでも、いじりと不謹慎は排除すべきだとも思う。人を貶めることで結局自分に跳ね返ってくるからとか綺麗ごとを言いたいわけではない。
単に、それが時代に合わなくなり、取り残されたおっさんが集う呑み屋以外に居場所がなくなってしまうからだ。
もちろんこのまま同様の人種だけが集まってなれ合って終わりを迎えることも簡単だ。
男性への差別や抑圧をやめましょうって話で、身近な抑圧の例としてよく上がるのが「非モテや童貞を馬鹿にする」ことだ。
そういうのをなくしていく方向だと、男性もジェンダーロールからの解放をイメージしやすいだろう、みたいな論調になる。
ぼくは35歳童貞ひきこもり精神障害二級男性だが、あれにどうも納得できない。
そりゃまあ童貞の一人として、童貞であることを馬鹿にされることはない方がいい。そこはそう。
でも、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさは、そこが核心じゃねえだろ。
童貞であることが馬鹿にされない社会がいいよね、と語られる時、ぼくはいつもそこに「童貞であることを馬鹿にしないから、君みたいなやつは童貞のまま一生寂しくいてね」という意識を感じてしまう。
ぼくが真に望んでいるのは、童貞であることを馬鹿にされない世の中より、簡単に童貞じゃなくなれる世の中なんだよ!
より正確に言えばセックスそれ自体じゃない、セックスできる人間関係が、恋愛関係が欲しいんだ! 孤独から救われたい! だから性風俗でのセックスは解決にならない! まあセックスもしたいが!
孤独への救済がないことが、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさの核心だろ。その寂しさは、孤独を馬鹿にされなくなったからって楽になるもんじゃない。
なのに馬鹿にされなくなるのが旗印になるのは、ズレているし、むしろ目くらましされているように思えてならない。
たとえば、毎日ご飯をトイレで食べている中学生くらいの子を想像してみてくれ。男でも女でもいい。
もしもぼっちが馬鹿にされなくなったら、便所メシしていたその子は教室で一人で堂々と食べれるようになるかもしれないよ。
その子が、モノを食べる時は誰にも邪魔されず自由で独りで静かで豊かで、孤独のグルメをするのが好きなタイプだったらハッピーエンドで文句なしだ。
でも、本当は人とおしゃべりしながら食べたい子については全然解決してない。
「堂々と気兼ねなく一人飯していいですよ! おめでとう!」そう言われて、曖昧な笑いを浮かべた後、窓から二列目最後尾の席で一人食べているその子が、背筋を伸ばしていそうか? 馬鹿にされるわけじゃないのに、背中を丸めていないか?(猫背が悪いわけじゃないけどね)
こういう話をすれば、「結局いつもの女をあてがえ、女を所有したいって主張か」と言われるのが予想できる。
なあ、深刻にぼくが苦しんでいる抑圧の一つは、そういう黙らせ方のほうだぞ?
実のところ童貞を馬鹿にされることなんか大した悩みじゃないんだ。というかそもそも、童貞を馬鹿にされていることなんかそんなに遭遇しないぞ。はっきりと煽られることも多くない。社会全体のうっすらした空気みたいのはあるかもしれないが、グサッとくることは滅多にない。
ぼくが苦しんでいるのは、男が寂しいし他人と繋がりたいし女性と繋がりたいという嘆きや欲求を、罪深く、知能が低く、暴力的で、非倫理的だと断罪する抑圧の方だ。
こいつは効くぜ、ネットを巡っていれば三日に一回は、明確な攻撃性を持って刺してくる言葉に出会える。
昔から、さびしい女が男を求めることは、はしたなくふしだらだと抑圧されてきた。今も続いているだろうし、そういう圧をかけてくる奴はマジでファッキューだ。だが現在、「ふしだらだと言う奴こそが抑圧者だ」という反論も耳を傾けられるようになってきた。
一方さびしい男が女を求めることは、過去には男の甲斐性などと過剰に称揚されてきたが、現在は暴力的だ支配的だと断罪され、抑圧されるようになってきた。そして、「関係欲求の暴力性を強調する奴こそが抑圧者だ」という反論は、ほぼ聞く耳を持たれていない。
ぼくが苦しいのはこっちの方なんだよ!
「女に手を出さないヒョロ男は男性失格」から解放されそうだと思ったら、「女に手を出すキモ男は人間失格」になってるじゃん! 極端から極端かよ!
だいたい、女を所有するとか女に手を出すとかって言われやすいのがおかしいよな。現代において人間関係は相互の結びつきなんだから、互いに手を伸ばし合って握り合うもんじゃん。
ぼくはその相互関係を求めてるのに、一方的な所有をしたがってるのだと言われるのは心外だ。
それに男から手を伸ばす行為はちょっとでも不手際があると怖いとか暴力的だとかイタいとかキモいとか言われる。
真面目で丁寧なメールのつもりが長すぎてキモいロミオメールになったり、4℃をプレゼントしたりサイゼで食事したり、気さくなやりとりのつもりがおじさんLINEと言われたり、タイミングの変な告白が告ハラと責められたり、鼻の下を伸ばしたり、胸やお尻を見ちゃったり、英字Tシャツ着てたり、OKな下ネタとNGな下ネタのラインを見誤ったり……それくらいの失敗するだろ。もちろん殴ったり怒鳴ったり痴漢したら通報されるべきだけど、恋愛慣れしてない色気づいた男の不手際レベルのものをそこまで揶揄して、恐怖感を与える迷惑行為とまで断罪してたら、ただでさえ自信なくやってんのに萎縮して手を伸ばせなくなる。
そして動けなくなったぼくに言うんだ、「待ってるだけだからダメなんだ」「施してもらえると思ってるんだね」「受身で奉仕してもらう関係を望んでるみたいだけど、それが相手を所有したいってことだよ」。
こう論じていけばわかるかもしれないが、揶揄されて本当に辛いのは、童貞への揶揄じゃなく、臭くて常識がなくて外見や服装が悪くて無神経で会話が下手で不快でキモいことへの揶揄と抑圧だ。
それによって自尊心が削られ、動けなくなり、人と関われなくなる。童貞維持はその関われなくなった結果に過ぎない。
たとえばオタクは臭いと言われるけど、あれはオタクへの抑圧というより、臭い人間への抑圧だと思うし、それがキツい。
自臭症患者が増えるのも納得ですよ。
毎日風呂に入れ、デオドラントコントロールしろ、小奇麗な服を着ろ、美容室に行け眉を整えろ、ちゃんと人と会話しろ、常識を持て、思いやりを持て、価値観をアップデートしろ、老害になるな。
そういうのができない奴は、馬鹿にされても抑圧されても当然だ、キモくて不快なんだよ、迷惑だから人と関わるな一生孤独でいろ。
おいおいおい、おいおいおいおいマジかよ。そんな残酷なこと言っちゃうかよ。
この手の毎日マメに心身を整える営みがクソ苦手な人間が少なからずいるってのにな。
童貞は人と関わるななんて言われたことはないが、こっちは毎日のように目にするぞ。男に対しても女に対しても言われる。男からも女からも言われる。
さらにヤバいのは、この不快な人間への抑圧というのは、「君みたいなやつは童貞のまま一生寂しくいてね」に簡単に繋がるってことだ。
「増田君、クサくてブサくてキモくて会話通じないよね。君みたいな人って不快なんだよね。不快だから人と関わらないでほしいんだよね。人と関わらないでほしいからもちろん女の人とも関わるべきじゃなくて、非モテで童貞のままだろうね。童貞って要素を馬鹿にするのは止めるから、その孤独は受け入れてお行儀よく独りで対処してね。これはみんなの幸福のためだから抑圧じゃないよ」
だがその叫びは、きっと迷惑だと怒られ、耳を傾けてくれる人は少ない気がしている。
私も毎日マメに心身を整える営みがクソ苦手なんですけど、スネ毛も脇毛も剃らずに髪ボサボサのまま話しかけてもいいですか? たぶん嫌だと思うんだけど。
こういうブコメがついた。
いいですか? という問いに対しては、いいですよ、と答える。
いきなり体験談を語るが、ぼくは以前、髪がほつれ気味で70年代みたいな花柄の模様の目立つ、くたびれたヒッピーみたいな女の人に話しかけられたことがある。
いきなりでびっくりしたけれど、何やかんや世間話をして、実はバス代がなくて貸してほしいと言われた。
なんとなく雰囲気が変わっていて話すのが楽しかったので、もちろんいいですよ、と400円を渡した。
あとでこれを他人に言ったら、典型的な寸借詐欺じゃんと言われたので多少ショックだった。
でもぼくはあの女の人をあの時気に入っていたのだ。
話が長くなったが、ぼくは好意のない相手とは手袋越しの握手すら嫌だが、好意を持つ相手であれば三日ほど風呂にも入らず作業してる最中に居眠りして口から垂れそうな涎を素手で受け止めることもできる。
あなたがオシャレかどうかとか、清潔か否かは、気に入るかどうかを左右する一要素でしかないので、ネット越しでもリアルでも実際に交流しないと気に入るかはわからない。
そのためにはぼくがここで連絡先を公開するべきだが、申し訳ないが、それをする勇気はない。
なぜならこんな、世の中から怒られるだろう記事を書いた上で名を明かすのはあまりにリスキーだからだ。
そもそもこの記事を匿名ダイアリーに書いたのは、記名でこういう話をしたら面倒で厄介でキモくてクサくて女をあてがわれたがってる奴、と思われて、しょっちゅうネットで議論してるような人たち以外の普通のネットユーザーとは関係がブツブツ切れると容易に予想できるからだ。
記名でするのが躊躇われるくらい、こういう訴えや吐露は、すべきでないものとして扱われている。
「その悩みは君自身がそれを『悩むべき欠点である』『~でなければならない』として自分を縛ってるからだよ」式のカウンター、最強カードの割に言われた側にプラスになることがほぼないから禁止にしたほうよくない?
将来の夢も、性的対象が同性だったり異性だったりも、孤独も、生活水準も、作業能力も、社会からの評価も、全部気の持ちようで自分を解放すれば現状に満足できるんだよ~みたいなの、そんなん言われましても大体の人は深い疲労感と共に黙るしかできませんぜ。
特に「性的愛情のある関係が欲しいが同性愛は無理」に「それはホモフォビア。同性同士で支え合えばいいじゃん」っていうの、ビアンやゲイに「異性愛でいいじゃん」っていうようなもんだよ。
2019/8/13 朝 追記
またモテない女がいないことにされてる、という反応もあった。
ぼくが童貞だから、処女について踏み込んだことを言うのは腰が引けて、積極的には語れなかった。
ただ、「孤独への救済がないことが、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさの核心だろ」と書いたことや、便所飯をする子供のたとえで性別を限定しなかった辺りが、一応、モテない女への目配せであった。
伝わりづらかったようなので、男でも女でもいい、など多少加筆しといた。
童貞の男ではなく、孤独な人間が苦しいのだ、というのがこの記事の要点である。
その上で、実感を持って語れる、男性である故に孤独から脱出しづらくなっている具体例について多めに書いたけど、そこはまあ許してほしい。
でもぼくの/男の/童貞の/人間の、の辺りに主語がデカすぎるとも言われてるので、どうしろってのよ~って感じ。
実は、以前にも孤独と童貞について書いてブクマが集まったことがあるのだが、それぞれ書いたのが2014~5年(再投稿2017)と、2017年だった。
そして、二年後にまた報告してくれというコメに星がついていた。
この記事はそれをすっかり忘れて書いたものだが、不意に思い出した上に時期的に合っているのでトラバしておく。
ただ、今では考え方の違う部分もあるので、この記事の意図が過去と同じだと読解するのはやめてほしい。
それにしてもぼくは二年毎に孤独に耐え兼ね吐き出したくなるのだろうか? いや、静かに埋もれた記事もあるので、そういうわけでもないな。
色んなものに追い詰められ、もうソープに行くしか無いと思った。あの時はその選択肢しか無かった。そうでなければ自分はもう終わりだと思った。
非モテで、自己肯定感が低く、異性から人間として扱われたことのない人ほどソープの毒は強く効く。初めて自分が生きているのを実感できた。自分も、他人と同じことができるんだと錯覚できた。
では、できなかった時は?
一度できたことが何故かできなくなった時、そのダメージはできなかった時よりも大きなダメージを与える。やっぱり自分はダメなんだ、動物程度の本能すら持ち合わせていないんだ、生きている意味なんてなかったんだ。
所詮非モテは社会のお荷物だ。モテが素人と好き放題にやってる中、非モテは予約戦争に巻き込まれ、性病に怯え、中折れに自尊心を砕かれ、自分の存在理由を考える。
また追い詰められてしまった。やはり、童貞を失うべきでは無かった。
安易に「ソープに行け」という言葉を発するのは止めて欲しい。せめて同時に「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と付けて欲しい。
定期テストはほぼ満点を連発し、模試も学内で1番なんてことはザラだった。
努力すれば1番になれると思っていたし努力しない奴が堕ちていくだけだと感じていた。
俺より賢い奴らがゴロゴロいた。
がむしゃらに努力して負けることがださいと感じるようになった。
中途半端な努力に留めることで中途半端なポジションに浸り、中途半端だからこんなものだと逃げ道を作った。
全力でやった結果を受け入れることが怖く、保身に走っただけではないのか。
俺は虎にもなれなかった。
自尊心と羞恥心、怠惰ゆえに、全てを捨てて虎になった李徴のほうがまだマシではないのか。
現状に満足できず、かといって現状を変えようとも捨てようともしない俺は虎にすらなれないのである。