はてなキーワード: 社会生活とは
痴漢や強姦の被害を受けた女性でも、加害者がイケメンであれば許すしブサイクなら即通報するものだ。
それが、日常的に行われている性的なスキンシップであったり恋人同士や夫婦間の営みの最中であってもだ。
気持ちが良ければそれで不問だし、気持ちが悪ければ訴える。ごく自然の行動だ。
さて、日本の世の中では不倫は悪しきものとしているが、実際はどうだ?
ある元アイドルの不倫報道では浮気相手の男がイケメンだったため周囲の反応は意外に良かった。
一方、大鶴義丹やそのまんま東の不倫はどうだったかというと、女性陣から総スカンを喰らっていた。
この事からも分かるように、日本社会では理不尽といっていいほどイケメンが優遇されブサメンが不遇な扱いなのだ。
よって、日本社会では、イケメン無罪ブサメン有罪が適用されていることが証明されただろう。
採用基準に顔判定というのがある。
履歴書やエントリーシートに顔写真を貼らせるのは、為人を見るためでも今後の選考用だからでもない。
その人が美形であるかどうかを見るためだ。
例えば、受付嬢の募集で必ずと言っていいほど美人が採用されているが、顔採用を行っているためだ。
それは会社の顔を決めるためであり、篩に掛けられるのは顔かたちが整った人間であることが前提だ。
学歴なんてものは、社会生活に全くといっていいほど役に立たない。
世の中には学歴採用を謳っている会社はごまんとあるが、その内情は顔採用のついででしかない。
日本社会では、まずイケメン無罪ブサメン有罪が適用されていることが前提だ。
例えば、会社説明会や他社へのプレゼンで顔の整った人間と、そうでない不細工な人間ならどちらが説得力があってその会社が素晴らしいと感じられるか、である。
内容が多少稚拙でも、イケメンであれば許されブサメンであれば許されない風潮はあながち間違いではない。
マスメディアは、道端の人間で近くの不細工よりも遠くの美形の意見を尊重する。
それは、そういう人の意見の方が視聴者に正しい先入観を与えられると考えての行動だからだ。
逆にそうしないマスメディアがあれば、それこそ物事を正しく公平に周囲に左右されず客観的に捉えられていると言えるが、
そうでない事が多いのはまずメディア自身がそれを恣意的に行うためである。
彼らは、日本社会では、イケメン無罪ブサメン有罪という前提があって初めてジャーナリズムをかざすことができるのだということを理解している。
こうして、彼らの印象操作が巡り巡って日本社会の循環を担い、結果的にイメージ戦略が出来上がるという仕組みを手伝っているのだ。
アニメが原作絵と違って気持ち悪いと評判の惡の華。1話を見て興味を持ち、ネットであらすじを探って、原作本を全巻購入し、幾度と無く読み返してもまだ飽き足らない。子どもじみた中学生らしい登場人物が、思春期特有の心理状況を抱えながら、自己を萌芽させ、徐々に顔つきも大人びてくる。当初はギャグテイストの悩みや災難も、次第に力を帯び、心をえぐり、魂をすりつぶすほどの痛みになる。登場人物は傷つきながらも正気を失わず、自分の心が発するの声にしっかりと耳を傾け、美しくも悲しい物語を紡いでいく。マンガやアニメの主要な購買層が求めている作品ではない。思春期で思い悩む少年少女とってのバイブル、恋愛や社会との関わりの中でひどく傷を負い、いまも人知れぬ痛みを抱える人々にとっては、癒しの物語となるだろう。
高校生編はまだ途上なので評価は避けたい。蛇足にならないよう願いたい。常盤さんと付き合うことになったが、仲村さんが登場するならば春日には破滅しかない。常盤さんという人物が、高校生となりある程度社会性を身につけた仲村さんとしての役割を担うならば、仲村さんは永遠に登場してこないだろう。
中学生編は、3巻の峠を境に前半と後半に分かれる。前半は主人公が、あこがれの娘の体操着という、無意識の海に落とし込んだ財宝とも言うべきものを盗むことから始まる。思春期は幼い子供だった時代と別れ、自我が覚醒する時期。親や学校、友人らと同一の存在であり、他とは異なる自分というものがなかった幼い自分に別れを告げる時期。未知の財宝を奪うという行為は、通常の意識よりも深いレベル、無意識から発せられる。さらに、住み慣れた世界から自己を引きはがす未知のモンスターが登場。深淵からの使者、仲村佐和に秘密を握られ、否応なしに「自己の覚醒」へと突き動かされる。すべての出来事は現実と同じく、良い結果と悪い結果の両方をもたらす。そして自己の表現とは属する社会の道徳とは相反するものになる。すべての結末は死、解体、別離。カミソリの刃先のような危険で細い一本道を命がけで渡る春日の姿は、一種の英雄譚のようだ。
自己の表現すなわち仲村の呼ぶ「変態」が本作のテーマか。分かりもしないボードレールをこれみよがしに見せつけて俺は他の奴らとは違うんだと悦に入る気持ち悪いネクラうじうじ男、春日。彼が未知からの召喚に応じ、キリストの受難のような試練を受ける。思わずあこがれの佐伯の体操着を盗み、思わず嫌われ者仲村をかばい、思わず佐伯をデートに誘って思わず告白する。仲村に本当の自分を黒板に書けと言われ、一度は断るものの、仲村が溜め込んできた周りの世界への鬱憤を知り、さよならを告げる仲村を思わず引き止める。自身のカミングアウトだけでなく、芸術作品のように自分の存在の全て教室にぶちまけて仲村の言う「クソムシの海」を創り上げる。完全なる自己の覚醒は住み慣れた世界との別れ。仲村とともに「向こう側」を目指すも、愛すべき社会を体現した佐伯が立ちはだかる。唾棄すべきもの、社会から忌み嫌われるものだったはずの「ありのままの自分」が佐伯から受け入れられ涙を流す。だが、一人で「向こう側」に向かおうとする仲村を思わず引き止める。引き止めたことに驚いたのは春日自身。言葉が出てこない。行くか戻るか2人から選択を迫られ引き裂かれる春日。普通に佐伯と「付き合う」ことができず、仲村の求める「変態」にもなれない、自分が空っぽであまりにも無力な存在であることを思い知らされる。
後半も「変態」行為が自己表現だが、その行為には一切の欲望や情念は込められていない。愛の表現そのものだ。愛は自己の表現であり、社会の価値観とは反するもの。峠の心理状態のまま時間が止まり、仲村にも佐伯にも歩み寄れない春日。3者は峠の出来事で自分の存在をズタズタに引き裂かれている。社会性の権化だった佐伯は親友木下に付き添われることで辛うじて社会生活を送り続ける。春日と仲村は以前にもまして社会とは関係を持てない。木下は佐伯と春日の関係修復を試みる。互いに相手から好きだと言われたいとの思いはあるものの、これ以上傷つきたくないというのが本音だ。もう引き裂かれる痛みに耐えられない。双方とも無表情を装い、相手を拒絶する言葉を放つ。佐伯と別れ、残るは干からびて死んでいくだけの日々。夢のなかで、それまで気づいていなかった仲村へのいとおしさに気づく。仲村への気持ち以外の他の全ては意味のない空虚な存在。自分の「向こう側」は仲村の中にある。仲村を笑わせるためならば、社会も自分自身さえも捨ててしまおう。愛の巣そのものの秘密基地を作り、佐伯を除くクラスの女子全員のパンツを盗む。変態行為は仲村への愛のメッセージであるとともに、佐伯には決別のメッセージ。佐伯への決別の決意を知った仲村はようやく春日の思いを受け入れ、世界で2人にしか分からない特別な関係、すなわち「契約」を結ぶ。
一方、決別のメッセージを受け取った佐伯は、自分の抑えこんできた欲望、自分そのものの萌芽を迎える。社会性の象徴である木下を伴いながら、春日と仲村が創りだす2人だけの世界を探求する。それは木下にとってはただ変態、犯罪者の異様な空間。だが、佐伯にとって、自分には絶対にたどり着けなかった世界。嫉妬と羨望と欲望の対象、世界の求める姿を演じることなく自分の好きなことを自分の思いで自ら創造する世界。彼女の求めたすべてがあった。悪行を社会に知らしめることは、春日と仲村の2人だけの絆をさらに深いものにしてしまうだけ。木下と決別し、麦わら帽子と共に自らの演じてきた仮面を脱ぎ捨てる。春日が仲村のために創り上げた世界を燃やし尽くし、春日をセックスで取り込むことで仲村から奪い、自分のものにするという欲望をさらけだすも、春日に拒絶され、仲村との対決にも敗北する。
仲村は勝利したものの深い傷を負う。後半の仲村は未知のモンスターではない。攻撃的な性質は持ち続けているものの、春日を受け入れるまでは、いばらに閉ざされた眠りの森の美女。春日を受け入れてからは愛の対象者として存在する。変態行為を求めることはない。ただ自分を喜ばせるためだけに、他のすべてを捨てて一生懸命になってくれる男の子、春日の存在を嬉しく思う一人の女の子だ。2人の間に割り込んできた佐伯の存在により、自分と春日の関係は誰からも祝福されないもの、自分の存在は周りを不幸にするだけのものだと思い知らされる。行き着く先は死か破滅しかない。だけど私は死にたくない。
春日の隠し事が徐々に露見し外出禁止となる。春日を閉じ込める家は地母神の胎内そのもの。放火の懺悔を決意した佐伯は春日の元を訪れ、2人で罪を告白し元の世界で生きる道を提示する。佐伯に心を引かれそうになるが、仲村を信じ想い続け、佐伯を拒絶する春日。行き着く先は破滅のみだと分かりつつも。佐伯の自白とともに、佐伯の分身とも言える木下の手で、すべての出来事が世界に露見される。誰一人幸せにできなかった。何一つできなかった春日。閉じ込められた檻を力づくで破壊し、閉塞した社会の胎内から春日を引きずり出したのは仲村だった。社会から拒絶されるならば、社会そのものを拒絶し、春日を殺し、自ら死ぬ覚悟をしていた。仲村にとって、自分の知らない自分を引き出してくれたのはいつでも春日の自己表現の爆発だった。春日がかぶっている皮を一枚一枚はがす度に、仲村は自分自身を発見していた。運命の夏祭りは明日。すべてが終わるのは明日。もう時間がない。向こう側を、自分自身を見つけなければ。全裸にし、皮膚をめくっても出てこない。バットで脳みそを叩き割れば出てくるのか。殺す気だった。だが、できなかった。私は春日くんを失いたくない。刺のある言葉を周囲に発して、無関心無表情を装って、硬い殻で閉じ込めて、ずっと守ってきた本当の自分、見たくなかった裸の自分自身。弱々しくて、壊れそうで、大嫌いな自分。世界がクソムシじゃない。私がクソムシ。私がいるから、こんなにも世界は生きづらくて苦しい。決して消えることのない自分。ありのままの姿をさらけ出した仲村を春日は魂の咆哮とともに抱きしめる。2人は心中することで、周りの世界のすべてを拒絶し、魂の永遠なる結合を図る。夏祭り、2人は世界に向けてありのままの自己、この世に生きた自分という存在そのものを叫ぶ。仲村は春日を愛していた。そして愛する春日が、両親や佐伯、社会から愛されるべき存在であることも知っていた。世界から拒絶され、孤独の深淵で苦しむのは私一人でいい。あなたは生きて。春日を突き飛ばし、一人で死へと突き進む。だが、その仲村自身も世界から愛されるべき存在。死から拒絶され、2人、いや佐伯を含む3人は、桐生市という地母神の胎内から外の世界へ排出される。そこで中学生編は終わり。
主人公の春日くんの心理描写はあるものの、仲村や佐伯についてはどのような心理状態でいるのかあまり描写がない。だが、2人とも自分にしか分からない悩みを抱え、自分の信念に基づいて行動している。物語の都合や作者の都合で動かされる人物ではなく、自らの意志で動く生きた人間だ。春日に自分の心の奥底に秘めた何かを求めてしまった2人の少女が作者の意図の範疇を超えて動きまわる。自らの意思で動く登場人物が自然と創り上げてしまった物語が惡の華の中学生編ではないか。仲村が、佐伯がどんな気持ちを抱えてその場にいたのか、想像を膨らませながら読むと深い、深すぎる物語。まるで恋人の心を探るような、自分を拒絶した異性の心を探るような、そんな作業にも感じられる。
面白いおもしろすぎる物語。エンターテイメントではない。現実の人々は、自分自身との関わり、愛すべき存在との関わり、社会との関わりの中で、必ず傷つき、苦しむ。この物語は生きる糧となる物語。魂に必要な食べ物。癒えることのない痛みを和らげる物語。閉じ込めて見ないようにしていた心の古傷を思い出させ、生きる歓びに涙を流させる物語。世界は悪意と欲望で満たされている。常に腐敗し悪臭を放ち続けている。自分自身も、かつては不滅の存在に思えていた社会そのものも、実は有限で不完全な存在に過ぎない。すべての欲望、情念、怒り、迷妄を捨て去った後、哀れみの心が生まれる。法隆寺、玉虫厨子の捨身飼虎の図で描かれるように、愛する人のため、社会のため、神に捧げる供物のように我が身を捧げることで、初めて完全無欠、永遠の存在を感じることができる。世界の中心はここにある。永遠は今この瞬間にある。神は常にあなたとともにある。
俺の周りにそんな人多いが共通の特徴がある。
明るくて社交的。人に対して親切。外見も著しく悪くはない。けどとにかくモテない。本人はモテたいと思ってる。
そういう人がモテない決定的な理由
・批評が癖になってる
自分の仕事に関する事とか、その他社会生活一般の問題について真面目に考えてるし勉強熱心なのは良いけど、批評的な語り口が癖になっている。
「〜だから〜すべき」って話が多いし、他人の仕事についても「誰々はこういう考え方だからこういう仕事の結果になる」とか「どこそこのクライアントはこういう風潮があるからこういう仕事の仕方になる」という上から目線と受けとられかねない批評を無自覚にやっている。
一般的に批評というのはマナー違反と受け取られるシチュエーションの方が多いという事が分かってない。
そういう批評的な知識を持ってる事が女性から尊敬されると勘違いしてる。
・グルメ気取り
外食を好み、色々な店を知っている。それだけなら問題ないがやはり批評的。自分の得意ジャンルで「こういう店知ってるから一緒に行こうよ」と女性を誘うきっかけを作ろうと頑張ってはいるが、はっきり言って女性から見たら味にうるさい傾向というのはマイナスでしかない。自分の作った料理も批評して来るのかなって思うもん。
・人の世話を焼きすぎる
残念だけど良い人であることがマイナスになっている。自分の仕事そっちのけで後輩にアドバイスしたり、自分と違う専門職の人に対しても批評的な視点でアドバイスしたりする。それも多量の時間を割いて。本人は組織のために良い事をしていると思い込んでるので、その結果自分の仕事が遅れている事を全然問題視してない。
さらにここで決定的な非モテポイントとなるのは、批評的なアドバイスはするんだけど、自分自身のスキルが批評においついてないために直接仕事を手伝ったり手助けする事ができない点。正直言ってアドバイスされる側としては、そのアドバイスの結果考えなきゃいけない事が余計に増えるだけで仕事は進まないしありがた迷惑だったりする。
結局の所、女性から見ると「人の気持ちを分からない人」と映る。
こういうのなんとか障害とかなんとか症候群とかいう便利な言葉で片付けるのは簡単だけど、とにかく「語ることを止める」のを意識すれば改善されるんじゃないかなと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130510010751
脳内には「ドーパミン」という向精神剤に似た成分が自然分泌されます。
しかしドーパミンに依存してしまい、ドーパミンを大量分泌させるために一生懸命になり、
日常生活にまで支障が出るようになると、もう立派な依存症です。
アルコール、タバコ、コカイン、大麻、その他のドラッグ類への依存状態とあまり変わりません。
以下の項目に当てはまるものが多いほど、恋愛依存症の危険性が高いです。
恋人にあうために、仕事・学校・人と会う約束などのスケジュールを反故にしたことがある
恋愛に多くの時間を費やしすぎて睡眠不足になることが、何日も連続してしまう
向かい会わなければいけない嫌な問題から逃げるために、恋人に連絡することが習慣化している
会社や学校のパソコンなど、禁止されている場所でも我慢出来ずに恋人に連絡てしまう
恋愛的なイメージが考えを支配して勉強や仕事が進まないことが頻発し、職場での評価や学業成績などが危機的状況に陥っている
恋愛を得られるコンテンツを見ること以外に、これといって趣味・ストレス解消の手段が無い
恋愛産業が広がる前の恋愛は、探してお金を支払うことをしなければ入手できないものでした。
そのハードルの高さが、多くの人の依存症化を防いでいたと考えられます。
をあえて探さなくても、一般サイトに恋愛産業による恋愛的な広告バナーが貼られていたりもします。
普通にインターネットをしているだけで、私たちは繰り返し連足のイメージを喚起させられます。
たまたま嫌なことが起こったときに、気軽に連足に逃げさせ、ついには依存させる仕組みになっています。
この依存症の正式名称は「連足依存症」です。恋愛が一つのくくりで語られています。
恋愛為依存は、タイガー・ウッズの多重不倫の例などが有名です。
恋愛依存の結果として、不倫以外にも性病、望まぬ妊娠、売買春、痴漢、強姦、性的虐待など数多くの問題が起こります。
よって、精神医学会でも問題にされがちなのはこの恋愛行為依存のほうです。
恋愛によるドーパミン依存の場合、人と関わらずとも依存対象を得られます。
よって、ドラッグの治療施設のように依存対象からの完全隔離を行うことが出来ません。
ユタ州にある施設では恋愛依存症患者の治療が行われていますが、
そこで得られた結論は、恋愛依存の治療はコカイン依存の治療よりも難しいというものでした。
恋愛コンテンツは、コカインのように身体から完全に出し切ることができません。
人と関わらずに依存物質を自力で生成できることは、依存の発覚の遅れにも繋がります。
「なぜか人付き合いを絶ち、ネットばかりするようになった」
こうした「理由のわからない引きこもり化」で、混乱している家族が居ます。
それらの原因のうちのいくらかは、恋愛依存であることが考えられます。
日本では「非モテ」という流行があったようです。恋愛行為を自主的に一定期間禁じるというものです。
「非モテ」の効果として「頭がすっきりする」「やる気が出る」「集中力がアップする」等がよく挙げられますが、
これは実際には「非モテ」の効果ではなく、「恋愛依存状態から脱却できている状態」…
…つまりそれが本人の「普通の状態」であることが考えられます。
「非モテ」をしても、何も変わらないという報告もあります。その方は、元々依存状態では無かったのでしょう。
①
>これはそういうゲームなのです。
ゲームは現実を基礎として可能性や実現度に関して人間の知覚において擬似的に体験させることで快楽を得る嗜好の形態です。
現実がゲームに似ているのではなく、ゲームは現実を基礎として現実の世界において存在できるように作成された商品です。
ゲームが現実の下位クラスであることを認識するには大人になって感覚による知識などを得ることが必要ではないかと想像されます。
現実のルールを基盤にしていないゲームがなにかひとつでもありますか。
たとえば「夢」は現実にはいまのところ存在していませんが、夢と似た構成のゲームがありましたか。
「Aさんに声をかけたらBさんだった。Bさんはカエルで、私は橋を渡ろうとしたら足元が崩れてちがう商店街に移動して、お店で飲み物を買おうとしたらそこは実家だった。実家は農家でまわりに民家はなく。」
みたいなストーリーを自分自身がたった一人体験したという以外の話を、夢という記憶に近い情報を共有できていない現在の段階で聞いたことがありますか。
現実のルールを基にしてはいますがそれをゲームという感覚で共有しようとしている行動自体が「夢みたいなもの」ではないですか。
あなたの夢見た世界を現実にする手段としてはゲームがあると思いますが、世界はオーナーもメーカーもユーザーも無いですよね。
世界を支配しているのは特定個人だ、という「夢」も抱くのは自由です。それをおしゃべりして受け入れられる友達は、社会に出たら数が少なくなっていくのではないでしょうか。
②
>これから数十年後、日本の子供達は公務員の家族の子供がメインになります。
匿名掲示板で自由を謳歌されているようですが、匿名なので個人について意味はありません。どれが僕の文章ですと開示いただいた分だけをまとめとして情報を総合的に得ますがさらに他にも文章があったりまたは他人の文章を項目に加えても判りようがありません。
それを踏まえて匿名の方が特定個人や団体を指摘しても「フィクション作品にでてくる団体が実在しているか、またはそれらを具体的に指摘しているものか」という価値観には疑問を匿名である私個人は抱きます。
もちろん今後それが発生するか、その市場規模はと思い図ることができる情報でないことではあります。歴史上成功例があるから効果があるだろうというのは意味の無い発言ということになります。
では転じて意味のある発言と考える候補とすると「歴史上成功した例を私が実際に取り組み始めます。この結果がでることは自分は確信しております。」ということになります。
実行すること自体にのみ「意味」という他人の評価を得る結果を生成します。
行動すれば結果はでる、だがしないまたは行動しても結果は目に見えているという情報そのものはその時点で情報としての役割を終えている末端消費商材ですので、情報を得た時点で取引が終了しているものと同等の価値、転売時にどれほどの価値になるであろうかと考えます。
特定の業界を席捲した成功者がいかにして市場の全てを掌握できたかという伝記本を情報として販売したとしても、その業界にはもう他者の立ち入る隙は無いという裏づけ情報を手に入れてもその市場に入るための手段に自身の研究として使う以外、転売したりするときに本の値段以上の価値が発生するものでしょうか。
これからの時代、これがメインになる、これが大多数になるであろう、こういう流れになる、はどの業界のどの部分がどういう方向になるのか、ただ大きなタイトルをもってきて「こうなる」というのでは「大きな船は遠くまで旅ができる、しかし小さな港につけることはできない」といったなにやらすごい発言のようですが実際の船を所有するオーナーはそんな名言を教えていただかなくてもわかっている話で実際そういった条件を前提に行動をされていくことと思います。
この文章をはじめ、なにがどうなるというのを行動もせず発言すること批評すること、批評について賛同者に実行者を含めない場合または評論自体が感覚として自身が認識したことを羅列するだけでは「自分の感覚を自己紹介しているだけ」ということになります。
自己紹介自体には自己という存在を相手に知らしめることとして十分な意味がありますが、匿名である状態での自己紹介にはなんら意味はありません。
②が文章の大半を占めるので、お伝えしたい内容のほとんどになりますが最後に
日本、世代、現実、経験、理論などはご感想に述べられていることについてご自身と、お話をされていることとに一切関係がありません。
世界のなにがどうなっても、いつもどおりの仕事をしていつもどおりのお給料をもらって、いつもの買い物にいったらいつもと違っていてショック、ということになるかと思いますがご自身には変化が一切なく供給されるものについての変化にご自身が感想を抱くだけで、それはご自身単体の感想です。
「世界が変わったのにみんな何にも思わないのかよ俺だけが世界の異変に気付いているのかよ」とかフィクション作品にまみれているという雰囲気がまた未成熟さを感じさせるのだと思いますが、大人になればそこまでピュアな心を維持できません。
他の方がとくに顔色を変えずに消費税が割り増しされた商品を買っていく様子をみて「社会がおかしい」とかよりも自分の家計と会社の残業時間を鑑みることなどを一例にしたいと思います。
自分の残業時間で生産された商品が流通市場の何割り増しになってコストをいくら下げて売上がどれほどあがってそこからの納税分で社会サービスがいくら向上して社会がよくなるとか、考えなくても日々の業務を懸命にすることで成果はでるはずなので考慮する必要も意味もありません。
そのうえで労働と対価と社会性についてご自身の環境を疑問に思うことがあれば、発言の方向性はまたちがったものになるのではないかとおもうところから「社会生活が充分ではないのではないか」という感想を受けることになるのではないでしょうか。
総理がバカで右翼で経済が滞って日本人の意識が低くて戦犯で商品のレベルが下がった、とそういう見識をお持ちだとお話をされてなにがどうなるのですか。
だれが、どうするのですか。
ご自身が満足する以外に、ご自身が満足するためだけに自分のストーリーを人に「そうだね」といわせしめんとしている以外が、なにか文中に存在していましたか?
教育現場では「うんそうだね」とは言われなくても実際に今後行動する指針や論理の基盤としての知識をできるだけ記憶の引き出し上部にもってこようと繰り返し伝達したり、行政は「うんそうだね」という書き込みだけではなく実際に生産、消費、成長を促すことを紙切れに書いた文字や電子の塵にしないように印紙をはりつけて価値のある物質として約束を物質化したり発言を物質化したりしていますが、末端で消費する個人は自身の時間や身体能力などを消費して自分自身を切り売りしなくてもよい備蓄を得て、それを交換に他人の生産物と交換していますが、ご自身は消費するだけで他人から金銭を必要とするような生産、再利用性や価値を文中のどこに含まれていたかを考えて、「無料で匿名なのに再利用価値がある情報だ」という評価を一人の対話者から得ていることで「一人からは義務教育以下の消費行動である」と認識されている可能性があります。
世界に問題があふれているなら、解決してください
それをしている大人がわるい、というならだれが悪いのか、だれと話をしてどういう方向にすすめれば問題は解決するのか、個人名または団体に発言者ご自身が依頼できる数の案件を挙げてみてください。
たとえば、日本は最低でなんの価値もなくて失敗ばかり、なら日本以外の成功している国に移住してください。
移住できない理由について、移住を許可しない人間の名前と、移住を許可するための条件を教えてください。
移住先が見つけられないのであれば、日本よりよい国の条件を挙げてみてください。
また日本をよくするのであれば、誰がどうするかという意見はもちろん重要ですが、その人たちを動かすための方法とコスト回収方法を教えてください。
それらを解決しましょう。
移住したいがお金がない、とかあるかもしれませんがそれならお金を稼いでください。
どうやったらお金がかせげるか、それをご自身で考えるのは大人であれば必要だと思いますし、しろといわれたことをするのであればご自身の生活を24時間ソーシャルメディアで流せばいいのではないかと私は意見します。人にいわれたことに隷属しねぇ、とか言われるのでしたらご自身で考えてください。ご自身でお金の稼ぎ方が思いつかないのであれば、それがご自身の「国内での価値」なのだと思います。
「そういうのはわかんないんだけど、雰囲気として自由じゃないなーってゆうか、なんかもっとでかいことしたいし。俺を満足させられない世間って、俺さえも満足させられるようにするってことが社会じゃない?」
とか、権利は主張して責任、責任といっても「なにかしろ」という命令ではなく「自身に対する入金先の明示と、交換する有価物の項目を明示する」ことを責任と称しその責任を放棄している状態を「中学生みたい」と言われているのではないでしょうか。
買えもしない車の乗り心地を評論したり、いやなら出て行ける店に居続けて文句をいったり、こうするともっとよくなるという意見について実行内容に一切加担する要素がない状態のことを「きみのその行動をもし実際に行うとしたら、君ではできないので他に代理として行う人がいるのか」という状態を保護者つきという状態と表しているのではないでしょうか。
大人さんの方でしたら「税金、おさめてるし」以外の社会参画とご自身で取り組める改革についてご意見を発してみてはどうでしょう。
子供の方でも税金は納めてらっしゃいます。もちろん保護者の方のお財布から。
保護者の管轄化にあることが「子供」と評価される基準で年齢や容姿ももちろん含みますが「親に生活を維持してもらっている状態」を何歳になっても「子供」だと評価されることもあると思います。
子供である場合は「保護者の生活がよくなりますように」といった意見の出し方が理想的という基準からも「子供」と揶揄するにあたって、評価者の見解から小学生やら中学生などといった表現をすることがあるかもしれません。
仕事もお金もなくても、デモには参加するとかいう人も、いると思います。
行動だけじゃない、言葉にも意味がある、というのであれば公証人役場にいって印紙を貼るべきです。
有料サービスのWebメディアを使うことでも、それなりに価値はあるのではないかとも、思います。
この「私個人」という匿名の相手に対して一言一句、ご自身の感想を述べるのはご勘弁いただければと思います。匿名の私とあなたがなにをどう交流してもお互いにも閲覧される状態にも何も意味がありません。
私自身も、匿名のアノニマスダイアリーという日記をつかって自分の文字を自分のために書いただけであって、お返事を全文引用されて書かれても拝見できませんしお返事も差し上げることができないと思います。
もし返事をされても匿名ですので、返事を「送った相手からの反応」という事実としてお返しすることができません。
もちろん「私はこの文章があなたのものだと確証しているので、こう書いた」と「日記」に「自分の思い」を書かれるのはご自由です。
重ねて「そんなことはない、俺は大人だ。」という主張をする方法として挙げたいのは「ご自身の社会参画と憂思する案件に対するご自身の取り組みの紹介」を用いるで、指摘された「存在理由をビーコンのように発するのは出席簿に返事をする学生みたいなもの、哲学的にハイと返事しようが理化学的にハイと返事しようが大人は子供の夢想をにっこりわらって処理するだけ」を回避できるのではないかと、私は思います。
人に見せたりしない日記に、誰かや何かに対して、どうしたほうがいいとか、書いたりしたこと、ありますか。
匿名の日記が「日記」であることは、ご自身のためだけに記録する媒体であることを意味するにちょうどよいタイトルなのではないかと感じています。
アノニマスダイアリー自体に閲覧数が多いからそこに便乗して自己を個人として紹介していっても、だれにも見せない日記に本当の俺はちがうんだといくら書いてもというそれに似ていませんか。
世界を変えるにはまず自分から、その自分のために自分以外の書き込みもある日記という存在はなんだか有効に活用できそうではないかと、私は感想を持っています。
未だにコミュ力が戻らない。
一回行ったらスナックに連れてかれて
そういうのに対してどうにもこうにも対処ができず
しどろもどろして
いてもたってもいられず
勝手に店を出て家に帰ったことがある。
できるだけ交わりたくないと思ってしまっている、
いや、同期に関わらず万人に対してできるだけ
自分のことを話したくない。
できるだけ自分の経歴を話したくない。
いつもどもって「あはは、どーも」的な上っ面の
非コミュな会話で終わらす。
気の利いたジョーク的会話もしどろもどろでぐだぐだになってしまい
たぶん傷つきたくないから
保身で自分のことを話したくないのだと思う。
暗い部屋の中は神経をきっと研ぎ澄ます、社会生活に不必要なくらいに。
創って創って創って創りまくらなければいけないと思う。
神経を研ぎ澄まして他人とは違う何かの体験と経験とクリエイティビティで
僕だけができることをやり遂げなければいけないと思う。
うだうだぐだぐだ述べてきたが
生かさなければ魂が僕が全国100万のニートが浮かばれないってことだ。
ニート経験は想像以上に人を変えてしまうし、想像以上に後先まで苦しむことになるだろう。
ただしこの人生を僕はまだあきらめてつもりはないし
だから今日もプログラミングをする。僕なりの表現手段として会社でも自宅でも
作品を創る。
http://anond.hatelabo.jp/20130430134002
それなんて俺の話かと思った。
俺は今学生で、もうあと一年も経たずにモラトリアムから卒業する。
イラストは描くけど漫画は描けない。小説は書くけど長編は無理だ。憧れや妄想はある。そんな状態。
でも俺はやっぱり『漫画』が描きたい。
「ストーリーのある完成品」こそが一番もっともらしい創作だと思っている。
それに魅力を感じるから諦められない。
あと、以下のようなことを考えたからというのもある。
学生時代は正直言って暇な時間なんて山ほどあったし、学生サークルと言う名のぬるま湯でいい気になってたりした。
後輩に絵を教えることに遣り甲斐を感じたり、少しずつ上達していく自分に対して満足していた。
それでよかったんだと思う。事実しあわせだった。芸が無いと言われようが、自己満足だと言われようが、俺にはそれがしあわせだった。
でも、社会人になったらどうだろうか。
限りある時間で必死こいて創作して。でもその結果できあがるものは目新しいものはなくて。
「描いていて楽しい」を理由に創作するには、たぶん年齢は邪魔なんだよ。
だから俺は、ストーリーという価値を自分の絵に付加することで、逃げ道を作りたいと思ってる。
そしてたぶん、そっちの方が長く創作を続けていられる。俺は趣味で絵を描いてるだけのくそったれだけど、でも筆だけは絶対に折りたくない。
ここ数年で、"絵を描かない"タイプのひとと会うことが多くなった。その時学んだことがある。
彼らが価値あると認識するものは、なにも美しい線や凝った構図ではない、その背後のストーリーなんじゃないか、ということ。
元増田がどう考えるかは分からないけれど、俺はそういった人にこそ自分の創作を見てほしいし、魅力あるものと認めてもらいたいと思った。
だってさ、女の子のバストアップのイラストを見せられても「フーン」だけど、四コマ漫画を見せられたらそれがたとえきったねぇ絵でも感想が沸くじゃん。
俺は自分の絵を見た誰かに感想を持ってもらいたい。そしてそれには漫画が一番手っ取り早い。
創作者たるものあれができなきゃだめ、こういう考え方じゃなきゃだめっていうあれだ。
なんでも、『漫画が"描ける"人間というのは、そんなことを云々考える前にまず"描いている"。だから考えてる時点でお前にその資格はない』んだそうだ。
まあ、そーだろーなーとは思う。正直正論だと思う。
だって俺達がやってるのは創作云々の前に趣味なんだ。楽しいからやってるんだ。自己満足なんだ。オナニーなんだ。
それの何が悪い?
生き甲斐なんだ。自分が考えた線がこの世界に具象化されて形を持つ。俺がほんの少し右手を動かすだけでそこに今までになかった世界が具象化される。
俺は自分に自信が無い。無能だ。でも自分の描いた線には自信を持てる。ド下手くそでもオナニーでもただの趣味でも、俺は俺の描いた絵があれば自信を持って社会生活が送れる。
だから俺は、創作し続けるために漫画と言う手段を選びたいと思ってる。効率よく自己満足に浸るために。自分で自分を認めてやるために。
なんだか自分語りになっちゃったけど、俺の場合はそんな感じだ。
元増田はどうだい?
Webなんかではカジュアルな罵倒語として「アスペ」という言葉が氾濫している。
発達障碍は一説によると人口の5%くらいいるようなのだが、そもそもこの発達障碍なる言葉自体、一般に知られたのは割合最近の実感がある。
でも当たり前の話だけど、言葉や概念が知られる前から、それに相当する人は存在したわけで、40代、50代以上の人でも発達障碍のひとは社会に生きている。
重度の人はさすがに社会生活が困難なので家族の世話になっているのだろうが、そこそこ軽度の人は終身雇用システムの中でいろんな会社で「つかえないオッサン」として生きてしまってるんじゃなかろうか。幸か不幸かは判らないが。
自分もその種の「つかえないオッサン」には遭遇したことがあるが、あれは、能力の欠如と言うよりは、やはり発達障碍という病気なのだと思う。
>昔から中学校の不登校率が一番高いというのは初耳、というよりもすごい驚きなんだけど、これって知る人は知ってるの?
ただ、この“教育関係者”に教員が含まれてなかったりすることがあるのがなんとも。
でもまともな教員なら、たとえ自分が中学校教員でなくても「全てにおいて中学が一番ひどい時期」ってのはちゃんと知ってる(ハズ
「あー、こんな人間がマトモな社会生活ができるわけがねぇ(笑」
って割り切る理由付けができたので、そういう意味じゃ過去のことはそれはそれで現在の自分にとって役には立ってる。
社会的には最底辺もいいとこだけどね。
親のことは一生涯許すことはないと思ってるが、でもだからって殺してやろうとか一生顔も合わせたくないとも思わない。
「じゃあ、あの時自分が親の立場だったらもっとマトモな対応ができたか?」
自分にもできないように人にも出来なかったよな、と。
http://anond.hatelabo.jp/20130417192857
完全に負け惜しみw
>「女としても人間としても尊重してくれる」人は、「女としての価値」がなくなっても大事にしてくれるし。
上の誰も「女を若さだけ」で判断してないでしょ
「若さも重要なファクターだ」という当たり前すぎることを言ってるだけなのに
どれだけ発狂してるんだか
って感じの意味不明な文章書いて自己完結するのが好きなんだろ。
脳に生まれつきの欠陥があるのかな
こういう女が多すぎて、それが女の価値をさらに下げてるんだよね
元増田?が書いてる
>そんなに触れちゃいけないタブーだったのか。
これだねw
マスゴミが長い間 金儲けのためにオバサンをヨイショしすぎて
「あなたの周りの紳士な男たち」も、「同じことを思っていて」も
「口には出せないだけ」ですよw
そんなことしたら根回しされて社会的に抹殺されてしまうからねw
ここに書き込んでる男たちも
「現実ではこんなことは言わない」
ってわからないのがすごいw
愛し愛された経験があれば
こんなおかしなことは書かないでしょ
http://anond.hatelabo.jp/20130417092420
>30代で1人身の女が、20代のときは楽しく過ごせた彼氏がいた、なんてこと無いから。
これ、自分を基準に言ってるだけだろ。
本当に頭の悪い女性が多すぎる
(特にネットは書いた言葉が残るから、知性の差が明らかになってしまうよねw)
(女が言う「コミュ力」って、たいていがマシンガンのごとく無意味なことをしゃべり続けることだとカンチガイしてるからw)
>30歳の彼女でも「ハツカレにドギマギする初々しい女性」であり得るから。
これはありうると思うよ
それを嬉しいと思うか、「気持ち悪い」と思うかは、付き合う男が感じるものだけどねw
>正直、50歳から見たら、20歳でも30歳でも中身に大差ないし。肌の色つやなんかも大差ないよ。
50歳になると老眼で目が見えなくなるの?
それでも肌触りが違うのはわかるでしょ
>20歳でも30歳でも中身に大差ないし
これを言ったら、30代のオバサンたちがマスゴミに洗脳されてきた
「30代は経験で成長していい女」「だから若い女に負けない!」
という嘘を否定することになるぞw
実際は個人差が大きい。
>肌の色つやなんかも大差ないよ
あなたの目が悪いのでは?
まあ、どちらも化粧厚塗りで肌汚いのが多いけどさ
30過ぎると申し込みが激減するの?
メンへらさん?
>30過ぎたら、ろくにセックスも出来ないくたびれ男になるんだから
???
気持ち悪いオバサンですね
>歳相応の相手と相手を尊重しあいながら付き合ったほうが
この結論にしたいだけwwwwww
自分が望む結論に引っ張りたいだけの意味不明な文章を書いて恥ずかしくないのかな?
これでよく社会生活を送れるなと感心する。
周りにいる人たちはさぞかし迷惑だろうね。
こんなお局様がいたら悲惨w
>論破だな。
論破になってないのに
これ使うのって
頭の弱い女性に多いよねw
反論してる女性たちが
「女性は年齢を重ねても 中身のないオバサンになるだけ」
ということを
(実際、ファッションやら、恋愛やら、消費活動に脳内メモリーの大部分を使ってるから当然だよね)
(専業主婦はTVでワイドショーか、 ママ友 OR 2chで旦那やトメの愚痴w)
中身の成長がないのだから
タイトルの
これを「成長したw」オバサンたちが証明して終了www
ネットを徘徊していると、メイク関係で荒れている話題をときどき見かけます。
その中で「社会人としてメイクは最低限の身だしなみである」という主張が必ず出てくるようです。
一方で「メイクなしでも社会生活は問題なく送れる」という主張はあまり見たことがありません。
そこで、30代ノーメイク女である自分の人生を晒すことで、ノーメイクの生き方について考えてみたいと思いました。
問題なくかどうかは分かりませんが、少なくとも生きることは可能であるという実例です。
できることならメイクをせずに生きたいと思う若い女性の方は、参考になれば幸いです。
現在はお風呂上がりにニベアをちょっと塗るのと、唇が荒れた時にリップクリームを塗る以外、本当に何もしていません。
化粧水もつけないし、脱毛もしないし、眉も整えていません。ネイルも爪切りで切る以外の手入れはしていません。
美容院には2,3ヶ月に1回行きますが、毎日の髪のセットは櫛を通す程度しかしないので、気合入れてカットしてくれる美容師さんには少し申し訳なく思っています。
結婚式などに出席する際は、産毛を剃ってファンデーションと口紅をつけます。余裕があるときにはアイシャドウとチークを追加しますが、時間がない場合は省いています。
20代から30過ぎくらいまでの間には、何度かメイクデビューに挑戦しようかと、道具を買ってみたりしたこともありましたが、1か月もしないうちに面倒になって元に戻るのが常でした。
男性とお付き合いしたことはありません。そもそも恋愛願望が薄く、あまり異性にアプローチをかけたりしたことも無いので、これはメイクのみの問題ではないかもしれません。
一方で、友人知人には不自由していません。学生時代からの友人とも年に数回会って話をしますし、社会人になってから出来た友人もそれなりに居ます。上司や先輩、後輩とも親しくできています。
会話がメイクのことになると、私は専ら聞き手に回るほかありませんが、それほど多いことではないので特に不満はありません。
仕事の上でも特に困っていませんが、これは職種による差が大きいのではないかと思います。
私は医療・介護関係の職に就いており、仕事中は大抵マスクをしています。
周囲にメイクせよと言われることは時々ありますが、仕事上ではなく、友人からのアドバイスとしてです。それも最近はめっきり減ってきました。
いずれにせよ少数派になることは間違いないので、それを辛いと感じる人は、失うものが大きいかもしれません。
自分の中で、どういう部分がノーメイク人生を送るにあたって重要だったか、考えてみます。
まず、家族があまりメイクを重視しない人達でした。なので私もこのように成長したのでしょう。
人見知りせずに誰とでもだいたい同じ調子で話せる性質なので、これが友人知人を作るのには役立っていると思います。
恋愛願望のみならず、綺麗になりたいという欲求がないのも大きなポイントかもしれません。多少なりとも綺麗になろうと思ったら、やはりメイクをする以外の方法は思い付きません。整形してもノーメイクでは駄目だろうと思います。
それと、上で書いたように、職業の選択はとても重要に感じます。
知人でノーメイクな人達の職業は、医療・介護関係の他では、研究職、デザイン関係、専業主婦などです。
逆にメイクは嫌いだけれど仕方なくしているという知人は、事務職、派遣社員などをやっています。
それ以外ですと、食品関係などはノーメイクでも許容されるのではないでしょうか。
ノーメイクでそれなりに生きることは、不可能ではありません。
その条件を満たす努力よりは、面倒でも我慢してメイクした方が良いという場合もあるでしょう。
メイクする派もノーメイク派も、お互いに迷惑をかけなければ共存できるはずですから、うまく妥協してやっていきましょう。
乱文失礼いたしました。
ブクマやトラバありがとうございます。私にとっても参考になる点が多いです。
>古い化粧品は止めた方が良い
そうですね、いい加減買い替えます。
短時間で使いきれる少量の口紅などないかと検索して、リップパレットというものの存在を知りました。
今度はこれを試してみようかと思います。
>日焼け対策
あまり日に当たらない、程度でしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20130402215709
この記事について。
私はただ一つ「この記事には論理的誤謬があり、なおかつその誤謬によって害が引き起こされる可能性が大いにある」という話をしたいと思います。健常者がどうのアスペルガーがどうのという話ではありません。まあ書きながら考えるので変なところに着地するかもしれませんがとりあえず目指すのはその辺です。以下本文。
まず、「健常者にも色々いる」とご自分で述べておられますね。
それにも関わらず、「だからアスペルガーは嫌がられるんだよ」という主張の論拠として使われているのは知人のアスペルガー男性のエピソードのみ。アレかな、「アスペルガー症候群にも色々いるんですよ^^」っていうツッコミ待ちの記事なのかな。
「私の知り合いのアスペルガーが嫌がられる本当の理由」という題名でもないしそのように解釈できる文言が本文中に書かれてもいない以上、「こういうわけなのでアスペルガー(の人間は普通皆)嫌がられるんだよ」という意味にしか解釈できませんよね(論拠は筆者の会ったことのある「アスペ男性たち」の印象と、たった二人の人間のエピソードだけだけど)。すくなくとも筆者の方はそのような意味をこめて書かれたと解釈したんだけど、違ってたら申し訳ありません。
まあ自分で「自分は医者でもないしアスペルガー100人に会ったわけでもない」と丁寧に注をつけておられるし、「アスペを全否定はしない」とまで書いていらっしゃるので、この題名はどちらかというと人を釣るために極端な題名をつける技法の一種ではあるのでしょう。
しかし、「アスペを全否定はしない」のくだりの直前まで「アスペルガーは~」「アスペは~」と相も変わらず「普通アスペルガーはこうなんだよ^^」とでも言わんばかりの叙述が頻出していますよね。というか全編そうなんだけど、「健常者はこうなのにアスペってほんと迷惑だよね、困るよね^^;」という記述、論調になっています。実際に読み取れるのは「私はこうなのに知り合いのこいつらはこんなやつらなんだよね、困るよね^^;」という内容だけであるにも関わらず、一般論に見せかけようとしています。
つまり、この筆者は、「自分VS自分の知り合いのアスペルガー」の構図を「健常者一般VSアスペルガー一般」という構図に敷衍しようとしているんです。
自分は「自分VS自分の知り合いのアスペルガー」という例しか知らないにも関わらず、「健常者一般VSアスペルガー一般」として、あまつさえ「アスペルガー一般」を悪であるかのように語ることは紛れもなく邪悪な錬金術です。比喩を使わずに言うと、詭弁です。自分の「知り合いの困ったアスペルガー」という個別事例を「アスペルガー症候群の人間全般は困る」という大きな空想に仕立て上げる言葉の錬金術は、意図的にやったならば紛れもない邪悪です。この「自分は医者でもない~」や「アスペを全否定は~」のくだりは、この邪悪な錬金術をごまかそうとする、実の伴わない、卑劣なエクスキューズであると言わざるをえません。
……とここまでかなり過激な言葉を使ってきましたが、これは「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」が書かれた意図をまあ悪いほうに解釈した場合の話です。よりマシなほうに解釈するなら、この筆者さんは<早まった一般化>の罠にうっかりはまってしまったものとも考えられます。<早まった一般化>とは、要するに「X高校の生徒Aは不良だった。X高校の生徒Bも不良だった。したがって、X高校の生徒は全て不良である」とやってしまう論法のことです。当然ながら論理的に妥当ではありません。しかしよくやっちゃう誤謬だからこそ名前までついているのであって、うっかりやってしまうことがあるのは仕方ないともいえます。
しかし、これを「仕方ないねー、次から気をつけてねー」で済ませてしまうことはできないと考えます。
なぜなら、意図的であれうっかりであれ、「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」が「ある特定のグループの人間を妥当な根拠なくdisり、彼らの悪印象を植え付ける」ものになっているからです。
「妥当な根拠なく」というのは上段に述べたとおりです。
筆者は「自分の会ったことのある男性アスペルガー達」の話を「実際の、正しいアスペは~」と、何故かアスペルガー全般の話としかとれないような言い方で敷衍しています。そして、「だからアスペは嫌がられるんだよ!」とdisっています。筆者の方もうっすらマズいと思ってはいるのか「アスペを全否定はしませんが~」とか書いてはいますが、そもそも「アスペが/アスペを」と書いた時点で「アスペ(ルガーの人全般)が」という意味になってしまっていませんか。
これを「うっかり」やってしまったのならば、筆者の方には思慮が足りません。言葉は悪いですが、言い方が悪くて周囲と軋轢を起こしまくりなおかつ自覚できない反省もしない、コミュ障(の一種)と同レベルです。言葉の使い方が悪く、主張の論理的妥当性を吟味していないばかりに「X高校のやつらってマジ不良だわーサイアクー」という誹謗中傷になってしまっています。ご自身のためにもお気をつけになるべきだと思います。
これを「意図的に」やったのならば、ただの根性曲がった悪人ですね。社会のためにも大人しくしててください。
ここまで書いてきたのは、「自分が知っている個別事例のみを根拠に何故か一般論として特定の人々をdisり彼らへの悪印象を植えつけようとする」のはどうかという話であって、本質的に健常者(というか定型発達)がどうのこうの、アスペルガーがどうのこうの、という話ではありません。ただ<早まった一般化>にはお気をつけを。邪悪な意図があろうがなかろうが、あなたが「結果的に」悪人と同じことをしている可能性は大いにあります。
おわり。
■■■
おまけ
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↑では「アスペルガーが嫌がられる本当の理由」について、個別事例を一般化してdisるの
はよくないとおもいます!という話に(最終的に)なっていましたが、それとは別の視点
でこの記事につっこんでみようと思います。特に主張の芯もなく(というか主題から外れた枝葉の話で)論理の組み立てが甘いので本文からは省いた話です。二つぐらい書きます。
1、
上でも言いましたが、アスペルガーの症状をまとめたサイトには、
「空気が読めない」「裏表が無い」
「一つのことに夢中になる」
「アスペは、我々がきちんと説明すればわかってくれる」
頑張れば楽しくつきあっていけそうな気がします。
思わない。思わないから。その説明読んで天然ボケのかわいい人と思うのはあなただけ。
まああなただけというのは言いすぎですね。人によってこの説明文から受ける印象は分かれるだろうということです。で、人によって印象の分かれる説明文に関して自分の感じた印象を述べるところまでは何の問題もありません。が、この後にこう続くんですよね。
でも、実際はそういう単純なことではなく、
・健常者がアスペに状況を一生懸命わかりやすく説明しても、アスペは理解できないし、
意見を曲げずに屁理屈を返す。口が達者。こっちが強く言えば逆ギレし、怒鳴って癇癪を起こす。
これが、正しいアスペルガーの症状の説明であり、
以下アスペルガーdis。この辺の記述が個別事例なのにアスペルガー一般の話として語られている以下略という話は上段を読んでいただくこととして、この一連のくだり、実はこんな構造になってるんですよね。
ここ、2. 以降の内容(「でも、実際にはそう単純なことではなく~」以降)をより悪い印象にするために、本当は印象の分かれる説明文について、わざと「こういういい感じに見えますよね?」と持ち上げているんです。まあよくあるレトリックとはいえ根拠レスなdisを効果的に演出するために使われるとつっこみたくもなるし筆者に悪意が感じられそうになるので困ります。
別に悪意とかなくても無意識に使われがちなレトリックなので上段でこの筆者に悪意があると断定するのは避けたんですが、私最初は「ドーモ、元増田=サン。悪の増田滅ぶべし」って感じで書いてたんですよね。それはこの辺が原因でした。
でもこれ2回もやってるんだよなーこの人。
2、「価値観が違う」ことが分かってなければ「価値観が違う人に説明」などできない
この筆者の方は、アスペルガーのお知り合いとコミュニケーションするに際して、かなり「惜しい」感があります。すなわち、
と「感じて」はいるようなのですが、「分かって」はいないということです。
このアスペルガーのお知り合いの方たちは、被害者、もしくは自分が庇った加害者の気持ちでさえ、他人の気持ちがまったく斟酌できなかったようですね。それは私も記事から読み取れました。心中お察しします。
しかし、このアスペルガーの方たちが、筆者の方の説明に納得せず暴走し続けていたのは何故なのか?これも筆者の方が仰っているとおり、「価値観が違う」からなんでしょう。(このアスペルガーの方の価値観が「根本的に」「健常者と」違うかどうかは断然議論の余地がありそうですが、それはまた別の話しになるのでさて置きます。)
では、「価値観が違う」ってどういうことなんですか?
「価値観が違う」ということは、この場合「筆者の価値観に基づく説明では、アスペルガーの知り合いを納得させることはできない」とういうことです。なんだ当たり前じゃんと思いますか?ですが、これを元にすると、先に筆者の方も挙げていた「アスペルガーの特徴」の解釈が違ってきます。
「アスペは、我々がきちんと説明すればわかってくれる」
これです。
この「きちんと」が曲者だったということです。
筆者の方は、「きちんと」説明できていません。
筆者さんのエピソードに出てくる「アスペルガーの知り合い」、すなわち「価値観の違う相手」に説明し納得してもらうには、「相手の価値観に基づいて納得できるように説明」する必要があります。これは相手がそのアスペルガーのお知り合いでなくとも一緒です。自分で善悪の判断ができない子供に「あなたのお母さんが、それはダメって言ってるよ」とさとしたり、宗教が違う人間、住んでいる文化圏の違う人間にどうにかこちらの事情を分かってもらおうと四苦八苦したりするでしょう。そんなときにひたすら大人の価値観、自分の宗教、文化圏の価値観に基づいた主張、説明のみで分かってもらえるでしょうか?
アスペルガーのお知り合いの価値観のもとでも分かってもらえるように説明した、と取れる文章は残念ながら記事のどこにもありませんでした。ならばわかってくれなくても当然ではないでしょうか。
分かりやすく説明した、というのはあなたの価値観にもとづいた主観であって、相手に何かを納得させたいのであれば、あなたの価値観だけにもとづいた説明などゴミも同然です。相手に理解できる論理になっていないのであればそもそも説明になっていません。あなたの説明が普段普通に通じているように思えるのは、あなたが多数派の価値観の中にいるからであってあなたが正しいからではありません。
ただ、定型発達の方もとい「健常者」がアスペルガーの方の価値観、アスペルガーの方に通用する論理を理解するのは難しい場合が多いと思います。お互い論理的に正しくてもその論理の使いどころがそもそもずれている場合が多いですし、論理ではなく感情に拠るところが増えればお手上げでしょう。筆者の方はアスペルガーのお知り合いを「お世話」しているようですが、それがアスペルガーのお知り合いが円滑に社会生活できるように周囲との人間関係をとりもっている、という意味なのであれば、筆者のかたはそもそもその「お世話」に必要な理解の試み、もしくは努力、もしくは能力そのものが足りていないのだと思われます。価値観の違う相手とうまく付き合おうとする試みに疲れる、もしくはそれができないのであれば、無理に「お世話」しようなどと思わずできるだけ相手と付き合わないようにするのが最善ではないでしょうか。
経済的には苦しいでしょう。
私も、会社が傾いたのと親が死にそうになった(その後持ち直したが)の時期がいっしょになり、退職後、再就職の機会を逃し3年ほど無職透明、たまに請負仕事をやる身分でした。就職活動もしましたが、30代半ばではなかなか仕事も見つからず、失業手当が切れた後は貯金がどんどん減っていき青くなりました。
ではその間なにをやっていたかというと、介護やったり兄弟のこどもの家庭教師やったり、PC修理やったり、親戚が大怪我すれば毎日掃除と料理に行ったりしていました。社会生活に参加しているという意味では、有償とは言いがたい小遣い稼ぎですが、小さい社会の社会貢献で重宝され、いつもは会えない人たちとも日常的に顔を合わせるようになりました。
らしいです。
日本の労働者の8割だか9割が(非正規を含む)サラリーマンだと聞いたことがあります。
そのくらい日本では雇用されることが普通ですし、そこから外れるとアイデンティティをたもつのも大変だと思います。
でも、それ以外のことに価値を見出すことはできないでしょうか。
南の島で、いい年こいた成人男子が「就職して稼ぐこと以外」で地域社会に認められているのなんかを見たりすると、そういう生き方もあるなぁと思うわけです。
韓国のチェジュ島なんて昔は男性は学問するのが本業であり、仕事は女がやるものだったらしいですし。ローマ帝国では仕事は奴隷がするものだったらしいですし!
無論、なにもしないろとは申しませんが、金を稼ぐこと以外で周囲に貢献していくことも視野に入れたほうがいいです。
とにかく、自尊心を失わないようにうまく生きてください。
追記:
私の場合ですが、この周囲でやってきたことがめぐりめぐって今の会社に評価されて入社しました。
極端に寝付きが悪く、しかも一度寝るとなかなか起きられない、という困った体質にずっと悩まされてきた。
一度寝てしまうと眠りは深い上にロングスリーパー気味なので、寝始めの時間が遅いとその分だけ起きる時間も後ろにズレてしまう。
薬もいろいろ試したけれど、睡眠導入剤も効かず、睡眠薬は逆に効きすぎて起きられなくなり、十数年ずっと毎晩酒の力で無理やり寝る生活を続けてきた。
結婚してからは妻が起こしてくれるようになって何とか社会生活に適応してたのが、3年前に別居したのを契機に遅刻癖が再発した。
それでもなんとかギリギリ起きて出勤してたんだけど、2〜3ヶ月に一度はちょっとした遅刻をやらかしてた。
それが昨年後半すごく調子が悪くて、2日連続で遅刻とか、夕方まで起きられなくてそのまま欠勤とか、とにかく酷い状態が続いてた。
そしたら勤務先でかなりマズいことになり上長に詰められ「とにかくいちど病院で診てもらいなさい」という流れに。
それまで自分が病気だとか考えたこともなくて「こんなのハゲ・デブ・ワキガと同じ体質なんじゃ!しゃあないやんけ!」くらいに思ってた。
気は進まなかったけど、今年2月の初めにネットで調べて見つけた専門外来(※そんなのあったんだ!)に行ってみた。
そこでいろいろ聞かれたあとにズバリ言われたひとこと。
「これほぼ間違いなく睡眠相後退症候群(DSPS)という病気だと思います。大丈夫。今は治療の方法も色々ありますし、当院でも半分くらいのひとは1〜2ヶ月、ほとんどは半年以内に治療効果が出てますよ。」
とりあえず1ヶ月間のあいだ日常の生活リズムを記録して、それを見てからカウンセリングと診察を受けてから治療法を決定することになった。
あと、このあとで「こういう厚労省との共同研究プロジェクトがあるんですが、簡単なアンケートに答えていただけますか?あくまでも任意なんですが。」と言われて、まあ拒否る理由もないし、やってみたアンケートというのがこちらにありました。 (http://www.sleepmed.jp/q/meq/)
※あとでFacebookでネット上にあるってのが流れてきて、このときに提出したのとまったく同じ設問で、挑戦してみたらサンプル数1,170人中で上には2人しかいなかったww
2月末、2度めの通院。
1ヶ月分の「 google:睡眠表 」を見せながら、ふだんの生活の様子とかいろいろ聞かれた。
続けて医師の診察。
だいたいカウンセラーさんと同じ事を聞かれた上で(※カウンセリングの内容は電子カルテでシェアされてる)、正式な病名はやはり「睡眠相後退症候群」。
とりあえず投薬治療を開始することになった。
処方された薬は「 google:ロゼレム錠 」。
眠りに関わる脳内ホルモン「メラトニン」の受容体に作用される薬だそうで、これを毎晩同じ時間(20時)に4mgを30日分まとめて処方された。
そして次回の診察を4週間後に予約した。
※このあと薬局に行ったら1錠8mgを半分に割って分包する作業で30分ほど待たされた…
この1週間後(今から3週間前)、夜中に酒を呑みながら(※オイオイ)ネット巡回していて、ふと見かけた敷布団を酒と株価の勢いにつられて買ってしまった。
結論から言うとこれが大正解で、明らかに睡眠の質が上がったのが自分でもわかった。
寝起きの爽快感がぜんぜん違う。
そして本日3度めの通院。
まずカウンセリングで睡眠表を見せながら1ヶ月間の様子をいろいろ話した。
「まあまあ改善の兆しは見えつつありますけどもうしばらく続けましょうねー」だそうで。
※このとき次のカウンセリングでこの話をしたらこう言われました。
続けて医師の診察。
こちらはざっくり治療開始後の様子を聞かれ、同じ投薬治療を継続することになり、処方箋を出してもらっただけですが。
んhttp://anond.hatelabo.jp/20130314212000
すごくよくわかる。
その膨大なパターン学習を経て、未だにどうにか社会に所属し続けている人間の一人だけど。
本来、この社会生活は自分の手に余る。自分の能力を越えているものだな…というのは日々実感としてある。
大変なのはみんな同じだってのは分かるんだが、実際、学校でも職場でも物凄く体力を消耗させられてきたし、十年以上同じ仕事をしてきた今となってもそれは殆ど変わらない。次から次へと新しい問題が出てくる。
このパターン学習なんてものに限りがあるわけじゃないから、当たり前の事なんだけどな。
前職から現職に移る合間の期間には、体に何も異常が見つからないのにほぼ寝たきり状態に陥った事もある。
頭空っぽにして言われた事だけこなしているのが一番ラクだけど、その生活すら正直手に余ると感じている自分がいる。
人と合わせる能力がないみたいな軽蔑のされ方をするけど、それは無視する以外にもう方法がなくて、どうしようもない。
アレだ、「自分は!こんなに!頑張っていますから!能力発揮してますから!先輩も!それくらいやってください!」みたいなアピールのうざい態度のでかい後輩とか入ってくるのが一番めんどくさいんだが、色々接してみた結果、やはり無理して接することなくスルーするのが一番いいとわかったので普通にスルーしてる。
まあ…あなたがある方面で一定以上の働きを見せなくとも、職場は勝手に回っていくし、回らないならどうにかするのは経営者の仕事だ。心労を感じたり責任を取ろうと思いつめたりする必要なんてない。
それに仕事ったってひとつの作業だけこなすわけじゃないんだし、仕事の中で得意な作業見つけて頑張ればいい。
空気読めない奴が長く勤めるコツだ。
http://snowymoon.hateblo.jp/entry/2013/03/10/201924
このエントリーを読んでこの方は法学というものを誤解していると思ったので書いてみました。
以下は理系と文系の違いという点からは少々話がそれるのを念頭において読んでほしいと思います。
彼は法学は演繹法タイプであり、帰納法で行っているからこそ法体系が矛盾だらけなものになっていると主張してます。
これが正しいのかということを考えてみたいと思います。
法律の解釈とは出来上がった法律の条文の意味をさらに具体的に明らかにすることです。
もう少しわかりやすく言うために法律が出来上がってから具体的に事件に適用されるまでを簡単に言うと
①社会において現在あるルールでは解決できない問題・事件が発生する。(これは様々な要因により国民の社会生活に変化が起きることによる)
↓
②このような問題・事件を解決するための基準(すなわち法律)が必要となる。
↓
③国会により新たな解決基準が提案・審議・可決される。(法律の制定。この際に全ての起こり得る事案を想定して条文を作るととても冗長になるから必要な規制範囲を網羅するために一定程度条文は抽象的にならざるを得ない。)
↓
↓
⑤条文からはこの法律を適用していいかどうかが明らかでない場合がある。(条文が不明確、あるいは事案が複雑でこの条文を適用する場面であるかが不明確であるなどの理由で)
↓
⑥法律が制定された趣旨から条文の意味を解釈する。(法律が作られた理由・根拠などから抽象的な条文の意味を具体的に明確にする)
↓
⑦法律を適用するまたは不適用することによって事件を解決する。
以上のようになります。
法学における法律の解釈とは上の流れの④から⑥までのことをいうのです。
ここにおいては個々の事案にそってすでに一般的に定められた法律(理系的にいうと一般法則)をあてはめる作業です。
この一般法則にあてはまるかどうかを法律が作られた趣旨から考えて結論を導くのです。
つまり一般法則から理論を積み上げて条文の不備を補う理論を考え出すのが法学の分野であってこれは間違いなく演繹的な考えかたではないでしょうか。
法学とは彼が言うように演繹的に思考すべきものであり、現にそのように行われているものなのです。
法学が帰納法で行われているというのは彼の思い込みではないでしょうか。
また、彼はルールが我々のわからないように勝手に作られていると主張しています。
確かに法律は星の数ほどあり、それらは全てを把握することは困難な状況です。
おそらく矛盾する点もやまほどあるでしょう。
しかし、現在では解決すべき問題は我々が把握できないほど山ほどあり、これらの解決基準を全て国民全体で議論していては何も決めることは出来ないでしょう。
そのため我々は選挙で国会議員を代表者として送り込むことでそれらの議論を代わりにやってもらってるのです。
すなわち多数決によって代表者を選び、多数決によって代表者が法律の可決を行っているのです。
もちろん現在はインターネットの普及で法案の作成・審議にオープンソースの考え方を用いることも提唱されています。
これが実現すればより民意を反映した法律の作成が可能となるからこれには私も賛成です。
ですがやはり可決の際には代表者による多数決によるのが合理的であるでしょう。
このような多数決のやり方が合理的と言っても多数であれば正しいとは限りません。
代表者といえども間違うことはあるし、時代の進展とともに法律の制定当時とは状況が変わっていることもあります。
その誤りを是正するためのものが裁判所の違憲立法審査権なのです。
最初から憲法に基づいた法律を作ればいいだけといいますが、民主主義において多数決を採用する以上、これは人間が行うことであって誤りがないことなどはありえません。
その民主主義の誤りを是正するために用意された制度が違憲立法審査権なのです。
彼の言っていることは法学が間違っているから生じるのではなく、立法過程に問題があるから生じたものであって、思考法の違いで生じたものではないと考えます。
奥歯に物の挟まったような言い方とか、
「正面からちゃんと論じないのは逃げ」
とか
「こういうとき正面から論じた○○は株を上げて、こういうやつは下げたな」
とか言うのって、
なんか違うと思うんだよな。
具体的に言うとさ、取引先の社長がズラだったとするじゃん。
新社屋の棟上げとか、なんだとか、結構屋外でも仕事の付き合いあるじゃん。
当然、飛ぶだろ。社長のズラ。
とか、正面から言わないじゃん。
「今後も、激しく輝いていきましょう!」
とか、ジョークにもしないじゃん。
そういう時はさ、フツーはその手のことには気を使うだろ。
全く触れないか、触れたとしても遠回りに周辺に対することにするだろ。
「生憎の強風とはなりましたが、社長の穏やかなお人柄もあり(」
とかさ、
Twitterとかでも絶対触れないじゃん
とかさ、
そりゃ担当者が怒られるだけならまだしも、
どう考えても今後の付き合いに影響でて、会社に悪影響があるしさ
って、ことまで考えるとだよ
それか、「俺の言葉に俺が責任を取る!」と言って、周りの影響を考えてないか。
そりゃカッコイイけどさ、
例えばTVで影響あるグループに真正面からフツーに言わなきゃいいこと言って、
次からNG事務所扱いになってさ、なんか芸人でも微妙どころ呼ばれなくなったときにさ、
なんか呼ばれなくなった後輩タレントの女房子供の面倒みてくれんの?
と、言うフツーの組織の一員としての社会生活の責任を考えて世の中みてみると
相当気を使ってみんな喋ってるというのがわかるし、
なんてことを思った。
引用元の文章では、存在感が無さすぎて忘れていたとか、付き合いが浅いから優先順位を下げられたことであぶれただけで、
悪意をもってそいつだけハブってやろうとはしてないように読み取れるけどね。
それですら喧嘩売ったことになるなら大変だ。
えー
存在感の多寡にかかわらず、自分の部署の人数を把握してないとか不足を出すってのは
何の印象もない非・魅力的な相手の名前を忘れたり、居ることに気付かなかったり、ついイベントに誘い忘れたりすることも攻撃で、
喧嘩売ってることになるのか?
だから魅力の多寡なんかそこでは関係ないって話をしてるんだけど…。
魅力を考慮すべきなのは個人的お付き合いの相手を選ぶときだよ。
パブリックなとこで扱いに差をつけるのは受け手にとってもそれを見てる第三者の目にも
悪意のある攻撃だ。
本当のなんとか障害なのか
ホンマモンだったか。
恐れ入った。