はてなキーワード: 社会生活とは
ネットウォッチ界隈(?)で話題のイケダハヤト師だが、彼のこれまでの言動を見ていて、これはどうも「自己愛性人格(パーソナリティ)障害」に該当するのではないかと思えてきた。
下記サイトにはこのように記されている。
自己愛性パーソナリティ障害の特徴・症状・治療法 [メンタルヘルス] All About
自己愛性パーソナリティ障害には、「自分は周りのみんなとは違う」と、自分を特別視し、自己の外見、能力など、自己の属性に自信を持ち過ぎる傾向があります。
同サイトより。この障害が生じることで
他人には、自分に対する賞賛の言葉や特別扱いを求めるのに、相手の気持ちにはまるで無頓着なことが多く、対人関係において深刻なトラブルが生じやすくなります。
やまもといちろう氏と間で現在進行中の件をはじめ、この手の(自分を特別扱いし、相手の気持ちに配慮しないことが原因の)トラブルがよく見受けられるのはご存知のとおり。
wikipediaより。「以下のうち5つ(またはそれ以上)当てはまれば自己愛性パーソナリティ障害だと診断される」そうだ。
1.自己の重要性に関する誇大な感覚。自分の業績や才能を誇張する。
2. 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3. 自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人や施設(団体?)にしか理解されない、または関係があるべきだと信じている。
4. 過剰な賞賛を求める。
5. 特権意識、つまり特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6. 対人関係で相手を不当に利用する、つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7. 共感性の欠如。他人の気持ちや欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
以下、1つずつ確認してみたい。
彼はしばしば、自分の重要性を誇大にアピールする。たとえば「僕は強者」と発言したり、最近の記事では自分のことを「優等生」になぞらえた発言をしている。
広がる格差と、強者に求められる「ノブレス・オブリージュ」 - ihayato.書店 | ihayato.書店
さらに厄介なことに、こういう人間は自分が弱者であることすら正当化します。「おれは落ちこぼれだから、目立っている優等生を叩く権利がある」というロジックです。
大衆を愚劣へ導く切り込み隊長 - ihayato.書店 | ihayato.書店
twitterのフォロワーが2万人を超えたことについて、下記のようなツイートをしている。2万人程度で?と思うのだが(しかも単なる野次馬的フォロワーもいるであろうし、せいぜい数十人の信者から罵倒されて終わりじゃないのかな…)、それでも「僕を怒らせたら人生潰せるからね!」と、自分に強大な力があると空想している。
フォロワーはしばしば無条件で支援してくれる存在なので、その力に甘えてはいけない。影響力が高ければ高いほど攻撃力は高まる。大袈裟ではなく、人の人生すら潰せる。
https://twitter.com/IHayato/statuses/172691977199030273]
また、やや違った角度からになるが、こんな例もある。彼は周囲から「一貫性のなさ」を指摘されたとき、下記のようなツイートをしている。指揮でも作曲でも多才にこなすのは0.0001%レベルの天才バーンスタインだからこそできることであり、そこを自分を重ね合わせるあたり、自分も相当の才気を持っている空想しているようである。
一貫性がないと批判する人もいるのだろうけれど、僕が僕であり続ければ、一貫性のなさすら個性になる。かのバーンスタインだって、指揮やったりミュージカル書いたり現代音楽書いたりしてますしね。試行錯誤も寄り道も、全部含めてバーンスタイン。
Twitter / IHayato: 一貫性がないと批判する人もいるのだろうけれど、僕が僕であり続 ...
基本的に、彼は自分の間違いを認めない性向がある。たとえば、やまもといちろう氏に「ちゃんと仕事やってくれ」くらいのことを言われた際に、それに逆ギレして両手グルグルパンチレベルの人格攻撃。
では、そういう性向がどこからくるかというと、彼の「自己特別感」だと思われる。自分は特別だと思うから、自分は常に間違っていないと考える。(多くの人がそうであるように)もし自分のことを特別視していないのであれば、「自分にも非があるのかも知れない」とどこかで気づけるはずなのだが。
大衆を愚劣へ導く切り込み隊長(イケダハヤト) - BLOGOS(ブロゴス)
同じくやまもといちろう氏との対談企画において、彼は「収益をNPOへ寄付する」と言い出した。周囲としてはちゃんと対談さえ実現してくれさえすればよいのだが、わざわざNPOとか寄付といった構想を示すあたり、賞賛を得たいという彼の承認欲求が見え隠れする(しかも、彼が具体的な寄付先を示さないため周囲から不信感を持たれつつあることはご存知のとおり)。
隊長、イベントやりましょう。ただし条件があります - ihayato.書店 | ihayato.書店
また、得意の「カジュアルにブロック」によって都合の悪い意見は次々と切り捨てるが、これも賞賛だけを集めたいという意識の裏返しなのだろうと思われる。
これも、「収益をNPOへ寄付」の話が当てはめられる。繰り返しになるが、当初は単なる対談イベントであったはずだが、尊師から一方的に「条件」を出してきた。やまもと氏が大人の対応を見せて生暖かく成り行きを見守ってくれたからこそよかったものの、こういった言動こそ、まさに「自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する」彼の性格が現れている。
彼が他人の記事や書籍を利用して「コピペ記事」を量産しているのはご存知のとおり。たとえば、はるかぜちゃんのツイートをもとに記事を投稿しPVとアフィリエイトを稼ごうしたことがあった。
イケダハヤト,はるかぜちゃんネタで我田引水しようにも,本人からステマと言われて撃沈される - NAVER まとめ
はるかぜちゃんの件でこのような批判を受けている。やはり共感性に欠けるのであろう。
イケダハヤトさんのエントリ、ブログで稼ぐために、はるかぜちゃんを利用している印象を受けます。これは不快。というか、他者に対する思いやり、想像力がなさすぎ。
Twitter / BirdWing09: イケダハヤトさんのエントリ、ブログで稼ぐために、はるかぜちゃ ...
また、「マックジョブ」発言で炎上したこともあった。最高レベルのオペレーションノウハウを持つマックで働くことは多くの学びがあるはずだし、プロ意識を持って働いている方も多いのだが、そういう人々の気持ちを想像せずに見下すような発言をしている。
イケダハヤト,マクドナルドでバイトする人々に蔑称をつけて炎上 - NAVER まとめ
彼は誹謗中傷はもとより、まっとうな意見や批判に対しても耳を貸さず考えを改めようとしない。ということは、尊師の心中ではそういった意見・批判も「嫉妬」と捉えて切り捨てている可能性がある。
たとえば下記のようなツイートがあった。もしかしたら本当に嫉妬している人もいるのかも知れないが、周囲からの批判や異論をいくつか見る限りでは、贔屓目に見ても嫉妬として捨てきれない意見が多い。おそらく痛いところを突くような意見について「これは嫉妬だ」と解釈することで、心の平安を得ているのであろう。
Twitter / IHayato: BLOGOSアワードへの反響をなんとなく見てみたら、大人の妬 ...
それにしても、コピペブログを量産したり、やまもといちろう氏との対談イベント絡みでこれだけ「仕事ができない人認定」されている人を、誰が嫉妬するのだろうか…
彼の尊大さ。傲慢さ。これについては言うまでもないことであろう。自分を成長させてくれるかもしれない意見に謙虚に耳を傾けることなく、
めんどくさい人はカジュアルブロックで!
Twitter / IHayato: めんどくさい人はカジュアルブロックで! ...
また、「イケハヤ目線」なる言葉があるが、下記の記事では「上から目線が嫌い」という内容を上から目線で語るという離れ業を演じている。
「下から目線」を持とう - ihayato.書店 | ihayato.書店
…ふむ。5つどころかすべてが彼には当てはまってしまうなあ…
ともかく、以下ではその障害の治療法について紹介する。
では、彼がこの障害に該当していたとして、その治療法はというと下記のようになる。
自己愛性パーソナリティ障害の治療ゴールは、他人の気持ちを汲めるようになることです。主に心理療法が行なわれます。ただ、他人の気持ちを汲めるようになるということは、自分の優越性をある程度否定することでもあります。本人にとって受け入れがたいような場合、治療が難しくなってしまう傾向があります。
薬物療法が必要か否かは個人個人の病状によりますが、自己愛性パーソナリティ障害では、年齢を重ねるにつれ、自己愛の源である、性的魅力、肉体的能力などが失われて、気分が落ち込み、薬物療法が望ましくなるケースが少なくありません。具体的な治療薬に関しては、気分の大きな落ち込みに対しては、抗うつ薬。気分の移り変わりが大きい場合は、気分安定薬……など、状況に応じて、治療薬が選択されます。
自己愛性パーソナリティー障害では、他人からの批判など、日常生活でも自意識がダメージを受けることが多くなってしまいます。大きな心の苦しみにつながらないよう、早期に精神科(神経科)を受診することが望ましいです。もしも社会生活上、自己のナルシスト的傾向のため、心の苦しみや落ち込みが大きくなっているような場合は、ぜひ、精神科(神経科)受診を考慮してみてください。
今は若くて一定数の信者(?)もいるからよいのかも知れないが、年齢を重ねたりネットでの知名度が下がってきたりすると薬物治療に頼らざるを得なくなる可能性があるということだ。
というわけで、尊師にはぜひ治療やカウンセリングを受けられるところに行ってほしい、と思う。今の彼に必要なのはきっと、的を射た批判とか異論ではなく、まず専門家のところに行って治療に専念することなのだと思う。
この段階においては,社会生活上のきまりや基本的なモラルなどの倫理観を育成する観点から,児童が法やきまりの意義を理解し, 遵法の精神をもつところまで高めていく必要がある。また,それとともに,他人の権利を尊重し,自分の権利を正しく主張するとともに,義務を遂行せず,権利ばかりを主張していては社会は維持できないことについても考えを深め,義務を大切にし,自分に課された義務をしっかり果たす態度を育成することも重要である。
「フリーライダーは社会の敵」だと指導要領解説に明記されて、小学生のうちから学校でこの考えを叩きこまれてるんだから、そりゃ片山さつきのツイートに賛同する人も出てくるわけだ。
社会生活を送るためには、最低限、50文字のひらがな、50文字のカタカナ、2000字弱の漢字の読み書きができないといけない。
しかも漢字の多くが2種類以上の読み方を持ち、使いどころと読み方をセットで覚えなければならない(中国語は多くが一通りの読み方)。
文法は言語の世界では少数派の、SOV系(英語、中国語を含む多くの言語はSVO系)。
しかも助詞によって、主語や目的語の順序を前後させる事ができる。
というか、主語を省略することが多い。
動詞は各に活用の種類が決まっていて、個別に覚えなければならない。
形容詞すら活用する。
まっとうな社会人として振舞うには、敬語を使い分けなければならない。「私は」「俺は」/「拝見します」「ご覧ください」etc
難読人名/地名多すぎ。日本人の中でさえ戸惑うこともしばしば。
地方では方言が色濃く残っており、標準の日本語だけでは理解できないことも。
母音が5つと少ない(二重母音がない)ため、発音は比較的簡単だが、弊害として外来語が間延びした音節に区切られたり、似ても似つかぬ音に変換され、理解しにくい。
Michael→英語:Mi・chael(2音節) 日本語:マ・イ・ケ・ル(4音節)
water→英語:wa・ter(2音節:『ワラ』に近い) 日本語:ウォ・ー・タ・ー(4音節)
何か勘違いしてるみたいだけど、
どの業界であれ、「顧客とは誰か」を定義することは業界の側からも可能であって、
ナマポかどうかは基準にならないとしても他の基準を設ける事自体は可能なのは
常識としてわかっているよね?
愛玩動物連れをご遠慮願う飲食店、長時間のお喋り及び待ち合わせ厳禁のコーヒー専門喫茶店、
線引きってきちんと理由さえつけば結構自由になるもんなんだよね。
そしてそれは当然で、どこの業界だって(建前上であっても)ある程度ポリシーとか理念を打ち立てて
行動基準としてるんだから、理念に沿わない相手は顧客の枠外として切って捨てることが
どの業界であれ、たかだか一個人の自由意志より優位なものがあるんだよ。
客だからって要求が何でもまかり通るわけないじゃん。
一般に外向的で社交的な人間はコミュニケーションが達者と思われているが一概にそうとは言えないのである。
コミュニケーションが上手であることと外向性は社会一般に考えられているほどには強い結びつきが無いんだよなあ。みつを。
むしろ、外向的人間のほうが「特殊」と言って良いくらい、コミュニケーションの仕方がまわりくどいことが多々あるのだ。
ここでコミュ力のために重要だとされている要素の一つに人に対する思いやりや人の心を推し測る力がある。
しかしよくよく考えていくと実は社会一般の大多数のコミュニケーションのシーンにおいて本質的なのは人の心を読むといったしばしば無理難題な芸当ではなく実に単純明快空気を読むことである。
ここに一つのつまずきの石があるのだ。人の心を読むことなど到底難しい。苦手な人にとってなおさら。それなのにそれを要求されて社会生活に絶対不可欠だと信じ込みコミュニケーションの難しさに何度となく立ち向かっては打ちのめされるのだ。
そんなことを延々と繰り返している人が非常に多い。だが、「心を読む」と一般に思われている行為のその中身をよくよく見てみると、
なんてこったい単なる空気を読むこと、つまりその場その場の状況にあわせて振る舞うことだったのだ。必要とされていることは実に単純なのだ。
外向的で社交的な人間もしばしばプライベートなコミュニケーションを苦手とするがそれもそのはずである。彼らは決して人の心を読むことに長けているわけではないからだ。空気を察知し、空気に合致した言動の引き出しがあるだけのことなのだ。
むろん外向的かつ内向的な人間もいる。外側だけでなく内側にも心が向いている人間はどうなのか?まず内側に心が向くことで自己の多面性によく開かれている。これに外向性も加わるから自己の多面性を外側に適切な形で表現できる。
だからプライベートな距離の近いコミュニケーションにおいても自己を包み隠さずありのままに表現することができる。さらに、自己の多面性を理解する人間は人間の多面性をも理解しているから他者の多面性にも理解が深いことが多い。
したがって他者の多面性も理解することができ、他者をありのままに理解したり認めたりすることができる。だからプライベートな対話も得意なのである。そしてそうした要件を満たして初めて「人の心が読める」と言えるのである。
しかしそんな人間はわずかである。多くの外向的な人間は内向的ではない。これは断言していい。というのも、外向的な人間種族がどのようにして形成されるかを考えるとわかる。
周囲に合わせなきゃという同調圧力が外向性を促進し、そうした歪んだ外向性が人類の長きにわたる歴史を通じて遺伝されてきて現在に至っているのだ。
だから特に日本のような国においてはそうなのだが外向的な人間はたいていのケースにおいて内向的な気質など持ち得ないのだ。これが外向的人間のコミュニケーションの特殊性である。
パニック障害は脳科学的、解剖学的に見れば大脳皮質の異常です。
この大脳皮質の機能が低下してくると些細なことで混乱し、半狂乱になってしまうパニック障害の症状が出てくることが知られています。
実際にパニック障害の人では、前頭葉が委縮してその活動レベルが低くなっており、逆に扁桃体と言われる情動脳の活動は高まっているということもわかっています。
強迫性障害と言う病気があります。この強迫性障害の症状とは、頭の中に生じる雑念や妄想が常に頭から離れづに、その症状によって社会生活に支障が出るほどになる状態をいいます。
この病気では、たとえばガスの元締めされているかや、ドアのカギをちゃんと閉めたかという言ってみれば思考(=雑念、妄想)が頭から離れないんですね。
それによって、半狂乱になってやはり生活に支障が出てしまっているのです。
このパニック障害もそうでしたが、下の強迫性障害もまた脳を見てみると、大脳が機能低下していて扁桃体の活動が高まっていることがわかっています。
実際に
パニック障害の患者は、強迫性障害も持っていることが多いですし、反対にパニック障害の患者も強迫性障害を持っていることは多い・。重ね着が多いわけです。
というよりも、これらの病気はほとんど同じだとみてまず間違いはないでしょう。
その理由は、上気したとおり、脳機能的に見ればほとんど同じ原因で生じているからです。
ただ、見た医師によって
診断の見解が相違しているということでしょう。
各々の医師では学んできた背景知識に偏りが生じているためにどうしても酷似疾患の分散が容易に生じてしまいやすい。この例の他では、境界性人格障害とADHDなどが同様でしょう。
そういうわけで、重ね着診断されていたとしても悲観されることはなく、
同一の脳の問題で起きているのだなと認識すればいいのではないかというのが、上のリンクページですが、まさにその通りかなと、私自身は考えています。
お前の人生は結婚したら終わるのか? 結婚したら翌日は葬式か?
お前完全にとにかく結婚は不幸と洗脳されすぎて話が噛み合わないよ。
幸福か不幸かは本人たちが決めることであって、増田が決めることでも俺らが決めることでもないよ。
何度も言うが、おれの親は何回も離婚して結婚で不幸になってるから! 不幸なのは目の前で見てますから。馬鹿じゃねーの?
うかつに結婚したら、簡単に不幸になるから、みんな がんばってんだろ。
だれも、何でもかんでもとにかく結婚すればいいなんて、一言も言ってないだろ。 言っていないことは言っていないんだから増田が都合よく解釈するなよ。
とにかく結婚しろって言われて、つぎにダメな相手連れてきたら、そいつは辞めろって言われるんだよ。
段階とかステップとか考えろ。1手読みじゃ人生は不幸になるぞ。
矛盾じゃないんだよ、段階なんだよ。
そしてその上で 結婚しない自由は誰にでもあるんだよ。
もう一度 いうけど 『結婚しない自由は誰にでもあるんだよ。』 だから 結婚しろって言われるんだよ。
本人が嫌なら結婚しなくてもいいんだよ。 だが、後押しが必要な時もあるから 結婚しろって言われるんだよ。
横だけど
これはこれで正論ではあるのですが、「未婚」は「低学歴」と同じく社会的なハンデキャップになりますので、好むと好まざるとにかかわらず、まっとうな社会生活を送ろうと思ったらクリアしておいたほうがいい義務のようなものです。学歴が目的で進学しても楽しくはないかもしれませんが、低学歴では幸せになりにくいのもまた事実です。
いやいやいやないでしょ。お前ありえない。
未婚はハンデじゃないとかそういうところ以前に、義務の結婚に付き合わされる人間の気持ちを考えてない。
配偶者ってのはアクセサリーとかステータスじゃなくてパートナーなのよ。お前の見栄のために結婚してやろうなんて慈母のような相手はまず居ないよ。
若けりゃ若気の至りがありえたかもしれないけど(「この人には自分がいなきゃダメなんだ」的な)、でもアラフォーで衝動や思いこみで行動するやつはいないしいたらちょっとヤバイよ。
観念しなよ。お前は立派に「結婚しない(できない)一部の特別な人」だよ。
想像してごらんよ、姉や妹や娘がいたら見栄で結婚したいとか言ってるアラフォーとの結婚賛成できるか?
姉妹娘自身が相当ゾッコンで惚れこんでて絶対結婚するんだと頑として譲らなかったとしても「愚痴とかきくし、いつでも逃げておいでね」くらいの一言をかけちゃうレベルだよ。
というのは、まあ正しくて、要するに価値観が共有できないということでしょう^^。
自分の価値観と相容れない価値観をもってきて、無理に共感しようとしたり比較したり、あまつさえすりあわせたりしようとすると、ひどい違和感を感じるのは当然で、むしろ「女である」という一点だけで、そこを越えられるはずだと思っていたとしたら、それはまた随分と不用意な、と思います。そこでは、科学者が対象を分析するような手つきで「相手と適切に距離を置きながら、事実として理解すること」が求められます。
別な方が、ツリーの中で、晶さんを「普通だ」と言ってるのがどういう意味でなのかは、私には分かりませんが、私が晶さんのブログを読んで思うのも、やはり「普通だな」という感じです。むしろ好感をもてる部類に入ると思います。
それは、要するにこの人が「普通に教養があって(色々な本とかを自分の楽しみや仕事の必要で読んで)」「普通に仕事を離れても友だちがいて交流したりしていて(blogからその様子が伝わってきます)」「普通に豊かな感性があって(マニキュアをすると人に会いたくなりますね、とか、素直にそうでしょうね、という感じ)」「普通に仕事熱心で」……要するに「価値観は異なっても、人間としては普通」であり「話をしたり友だちになれそう」と感じられるからです。
「価値観」は、人それぞれに異なるものですから、普通であるとかそうでないとか、そんな判断を下すのはおこがましいと思いますし、それは宗教論争と同じですから、社会的な関係を育む上では余り触れないのがマナーだろうと思います。その意味で、どんな価値観をもっていようと、社会生活に適応できる/できている人間というのは、おおむね「普通」と呼んで構わないと思いますよ。
緑の党が発足して、緑の風というのもあり、脱原発デモにも2万ぐらいきてるそうで
原発をなくせと言っている人は、政治家に味方を作りデモでマスコミに味方を作り
個人的には脱原発の方向へ進んでほしい。原発がなくて電力がまかなえるか?という課題はあるが。
原発をなくしたら、そのあとに
「地球温暖化」「社会生活のスタイルを変更」という問題が待っていることを忘れてはいけない。
私が小学生の頃は、夏は28度くらいが普通で30度になると珍しい、そんな夏休みだった。近年、35度ぐらいになってしまった。
地震や津波でたくさんの人が犠牲になったが原発で死んだ人がいるか?もちろん影響を受けた人は多いだろうが
「台風で死ぬ人」や「交通事故で亡くなる人」の方がよほどたくさんだろう。温暖化は台風や豪雨を強め、自動車は人を殺す。
脱原発と言っている人は、同時に
原発をなくした後、自動車運転も制限する活動を始めた方がいい。温暖化の原因は自動車だけではないが。
都会で15分や30分の距離を、買い物のために車で移動する。そして運転席以外の5人分の席は余っている。とても滑稽だ。
若者が自動車に興味を持ちづらい、金がなくて買えないことで死亡者数は減っている。いい機会なので
防災対策の名目で、建設業に消費増税の金を回し道路を作るのではなく、公共交通機関を充実させてほしい。
コンビニはなぜ電気の自粛を一年でやめてしまったのか。自動販売機は、パチンコ屋は?その携帯電話は使う必要があるのか?
日本では車が一家に2台くらいはあり、ほとんどの人が携帯電話を持ち、大量生産・大量消費。
壊れやすいモノを作って何年かに一度は購入してもらう、そんな生活をしているが
http://anond.hatelabo.jp/20120704205323
だから、城下町の武家屋敷地域を除けば、農村地帯は全域が部落地帯。単に士農工商の農民しか住んでなかった集落のことに過ぎないから、いわゆる被差別部落の部落とは全く違って補助金なんて当然出ない。部落という言葉はありふれて誰もが馴染んでいる日常用語だし、それ無しではどんな社会生活も成り立たない。小中学校時代も全員が部落の子供達だから、部落差別問題は教育として取り上げようがなかった(子供が変な勘違いしたら大変なので)。
なのに近年、関東以西の部落差別問題のせいで、東北の部落まで名称変更をさせられて非常に面倒。
「ここから〇〇部落」の道路標識は一枚も余さずことごとく「ここらから〇〇町内会」に建て替えられた。老朽化していた訳でもないのに何故わざわざそんなことするのか。県庁と教育委員会の人達の話を聞いたら、他の地方の人達が持つ部落意識への対策ということだった。東北の部落に部落問題の差別は無いとアピールして全国に浸透させる労力よりも、自分で自分の名称変更する労力の方がまだ少ないと判断したらしい。東北の部落は被差別部落では無いというアピールは、それこそが被差別部落に対する差別になるからできないし。
お陰で、あらゆる行政や教育や市民活動で、部落消滅のための名称変更が大進行中だ。「〇〇部落」と書かれた古くから伝わる記念碑や神輿も「部落」のところだけ修正された。「〇〇部落PTA」と書かれた交通安全旗とかも回収。今まで全部「部落」で習慣的に統一されて便利だった呼称が、何の決まりも無くバラバラに、一部は町内会と変更されたり、また一部は地域や地区と変更されたりしている。全くもってゴチャゴチャと名称乱立でみんな大混乱。「消防団の場合は〇〇部落が〇〇区域になったんだっけ?〇〇町内会?何だっけ?」と書類書くのもいちいち新名称を確認しなくてはならないので面倒臭い。そもそも、部落差別なんて過去の遺物になってるであろう今の時代にガンガン推し進める必然性なんてあるのか。それに何より、これらの名称変更には、税金だったり部落の共同出費だったりして相当に無駄金がかかってる。
そんな訳で、どこかの意識の高い人達が部落差別問題と騒げば騒ぐほど、差別を無くす教育よりも、部落は差別対象だったという知識の方が広まって、今まで差別なんて無かった関係ない東北の部落までもが差別対策をすることになってしまっている。余計な金払って伝統的名称を排除した挙句に大混乱で、こんな面倒な羽目になってとんだとばっちりだ。
先週母方の祖母が亡くなった。
小さい頃は家が近かったこともあり、祖母には頻繁に面倒見てもらってたし、
遠方に引っ越してからも盆正月は会いに行って一緒にご飯食べて話して、縁遠かったという事はない。
そして先日、そんな親しい人が亡くなった。
26歳にして初めて初めて親しい人を亡くした。
訃報については亡くなる数日前の時点で「そろそろ覚悟決めて」って親からメール来てたから、さほど驚かなかった。
訃報聞いてからすぐに飛行機で祖母宅にいって通夜、翌日に告別式やって帰ってきた。
危篤の連絡時点で覚悟を決めるために、祖母が死んだらどう思うか考えたし、
実際に対面したときから遺骨を拾うときまでの想像とのズレも確認した。
驚いたことに、一貫してそんなに悲しくなかったのである。
この考えを放置することは、社会生活を営む存在が幸福を享受することを目的とすれば、非常に「良くない」。
原因は特定して公開するべきであり、可能なら思考を変更し、最低でも自分の中で落とし所を作る必要がある。
そんなわけでこの数日間で思いつく限り可能性を出した。
自身の中で腑に落ちた原因を以下に記載する。
真っ先に思いついて胸糞が悪くなった。
ただ一件唾棄するべき原因に見えるが、そればかり考えて他の事に手がつかなくなる事はより悪い。
本能的に感情の配分を調整しておめでたい心になっている可能性は否定出来ない。
数年前から入退院を繰り返し、何度か危篤状態になっていたこともあり、
逆にこれまで持っていたことを幸運だとする考え方もできる。
ただ解釈によっては「死ぬことが予定調和になっている」「生きている人を死人扱いしている」にもなる。
世の中に積極的に関わらないこと、フィクションの摂取のしすぎが原因で、目の前の事実が
ガラス1枚隔てて見えたり、モニタの向こう側に存在している感覚に囚われることがある。
世の中に参加することが好きでないなら、自身の心と身体を安全な状態にして世の中を見れるので居心地の良い考え方である。
一方でこのスタンスで生きていると他者から観察されるとき、檻の中のサルを見る目で見られる。
葬儀の参列者も、臨時で席を相当数追加する程度に多かった。
ここまで数があると悲しむ気持ちに「働かないアリに意義がある」の理屈が通る。
人気者は放っておいても誰かが救済するため、参加する意義を見出せない。
葬式中に周りを観察していたら、良く泣く人はいわゆる「リア充」だった。
昔テレビのバラエティとかドキュメンタリーとか、なんであんな簡単に人が泣くかが理解できなかった。
理屈をもう少し若い頃に理解しておきたかった事項ではあるが、人前に出るのが好きな人間は演出家だった。
内面で生まれた感情を外に向ける際に、ごついアンプを通している。
そこまでで事態が完結すれば大したことはないが、人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるらしい。
模倣を通じて本物に至る概念が感情にも該当するとは思っていなかった。
1とリンクした原因でもある。
祖母の死顔を初めて見た時に、悲しい感情よりも怖い感情が強く出た。
骨あげ時に特に感情が動かなかったことから、顔の造形に対する違和感、不気味の谷が原因である可能性が高い。
また今回親しい人の初めて葬式ということで、事をうまくやろうとして調べごとしたり周りを観察することに注力していた。
意図してかせずか、別のことを思ったり考えていたために悲しまなかった可能性はある。
とりあえず6つ原因を挙げた。
この原因からどう思考を持っていくか何も考えてなかった。
とりあえずこの6つから自分自身がどんな人間か読み取ってみる。
・オタク
・根暗
・消極的
・世間慣れしていない
自分自身に対して碌な形容が出て来なかったがしかし、こんな奴は現代社会だと掃いて捨てるほどいるだろう。
ということはみんな外に出さないだけで同じ考えを持つ人間が多くいる可能性は高い。
と、ここまで結果を想定せずにダラダラと文章を綴っていたが、ゴールが見えてきた。
気にしなければいいのである。
まわりからもそう見えるし、自分の内面にそう言い聞かせて納得させることもできる。
そういう意味では葬式自体がそもそも悲しくない人間も内包するようにできている。
つまり昔からそんな人間がいるということだ。何一つ精神的不具者ではない。
でもこれさぁ。
俺がセーフなら河本もセーフだよな?「扶養する能力と必然性」って俺にもあるじゃん明らかに。
三親等以内だし、俺にはカネがある。少なくとも扶養できるだけのカネがある。
これ、どうやって区別すんの?行政の制度として確立したときに、河本と俺がどう区別されんの?されないと思うよ?
今回の件だって、河本に非ないじゃない。仕送りしてたとしたら、仕送りを受けているにも関わらず
生活保護を不正受給した母親が悪いし、仕送りをしていなかったとしたらそもそも受給が問題ない。
でも、そうは解釈されず道徳的観点から河本フルボッコじゃんこれ。
この調子でいったら、俺がヒドい目に合うの目に見えてんじゃんよ。
クソ親からやっと抜け出したと思ったのにまたこれか、と。大体、世の中に結構こういう人間多いと思うんだがね。
こんな河本たたきの大合唱になるほど、世の中の人間は扶養義務を果たしたくてしょうがないのかね?
理解できねえよ。
「普通に餓死すればいい」って親を餓死させた時点で社会人はゲームセットじゃん。報道されるし。
「親を餓死させたクズ」の肩書きを背負って社会生活なんてできるかよ。なんかもう、馬鹿じゃねえの。
大体よ、20代の若者が親を扶養するハメになったら生活のすべてが犠牲じゃねえの普通。収入から考えて。
そんなにゲームセットしたいのか、若者。「ウチの親は・・・」なんて思ってるかもしんないが、
あるとき突然経済的ゴミ虫にクラスチェンジする人間は少なくないんだよ。まぁ、俺の親は生まれついてのクソ虫だったがな!
時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。
というツイートで人気の自由民主党憲法改正推進本部事務局次長・起草委員会事務局長いそざきさんのHPを読む
http://www17.ocn.ne.jp/~isozaki/index.htm
http://www17.ocn.ne.jp/~isozaki/myopinion.html
第4項で、現行憲法では、天皇の国事行為には、内閣の「助言と承認」が必要とされていましたが、天皇の行為に対して「承認」とはいささか礼を失するものであることから、「進言」という言葉に統一しました。従来の学説でも、「助言と承認」は一体的に行われるものであり、区別されるものではないという説が有力であり、「進言」に一本化したものです。
礼を失するってなんだろう。
実質が「助言と承認」であるものを、それを「助言と承認」と呼ぶことは礼を失するが「進言」といえば失しない、ということはあるんだろうか。
実質が「助言と承認」である行為をすること自体が礼を失する、という意識と結びついてないだろうか。
わーお
ここで、従来の「公共の福祉」については、全て「公益及び公の秩序」と言い換えることに、平成17年の憲法草案のときに整理されています。「公共の福祉」という言葉はやや概念が曖昧であり、普通の言葉に換えれば「公共の利益」のことであって、一言で言えば「公益」のことです。それに加えて、権利の行使が社会秩序を乱すものであってはならないので、「公の秩序」という文言を添えたものです。「公の秩序」というと、すぐ「反国家的な行動を取り締まる考えか。」と聞かれますが、「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味しています。他人に迷惑を掛けない行為であれば、規制の対象になることはありません。
ここも「助言と承認」と同じことをおもう。
今までと同じものを普通の言葉に言いかえるだけだ、みたいな口調だけど、
今までと同じように運用すべきとは思っていないよねあなたたち、って。
第13条は、従来幸福追求権の規定と言われており、そのことに変更はありませんが、「個人として尊重される」という部分については、個人主義を助長してきた嫌いがあるので、今回「人として尊重される」と改めました。従来の「個人として尊重される」がやや意味不明な文言であり、「人の人格を尊重する」という意味で「人として尊重される」で十分と考えたところです。
「個人」と「人」ではずいぶん違うと思う。
あまり変わらないと考えているのか、違いがあるとした上で「人」とするべきだと考えているのかはっきりしてほしい。
第59条の法律案の議決及び衆議院の優越においては、最終的に何も変更しませんでしたが、党内議論の中で、第2項に規定する参議院で否決された法律案を衆議院で再議決する場合の要件について、「3分の2以上の賛成から引き下げて、ねじれ現象ができるだけ起きないようにすべきではないか。」という意見がありました。それを「過半数とする。」という意見もありましたが、それでは「参議院の存在を否定するものだ。」という意見が大勢でした。中を取って10分の6とする意見もありましたが、法令上議決権の規定で10分の6というのも前例がなく、この部分の変更はしないこととしました。
こういう話はおもしろい。
なんで2/3はよくて6/10はダメなんだろう、とか話しながら思うんだろうな。根拠ないもんな。
第6章 司法
司法制度については、大きな変更はしていません。第4章国会、第5章内閣と来れば、第6章は「裁判所」となるはずなのですが、どういうわけかこの章だけ「司法」という章立てになっています。このことを直そうとも考えましたが、やめておきました。
なんでだろう。裁判官がおこるのかな。
俺はたぶんサヨク気味なのでいろいろ反発するけど
いそざきさんが頭いいか悪いかつったらバリバリいいだろうと思った。
ただし、事後対応は下手だとおもう。
何が高望みなの?
横レスだけど増田は高望みじゃなくて、手段や過程を目的(望み)だと勘違いしてる。
「まともな社会生活を送る」やら「借金がない暮らし」ってのは「心安らかに生きる」という最終目的の為の手段や過程の一つに過ぎないだろ。
まともな社会生活や借金なし生活にこだわるあまりに無理をして心身を壊してたら本末転倒だよ。
それを「貧乏な環境にいただから当たり前、仕方ない」と思うんじゃなくて
「自分は貧乏な環境にいたので貧乏を極端に嫌ってしまうという歪みがあるんだ」と思わないと。
そうやって歪みに引っ張られないよう意識しながら生きてかないと変な無理の仕方をしてしまう。
(そして心身を壊して結局自分のなりたくなかった状態になってしまう。)
「努力しても報われない」とか「努力に疲れた」と言う人は手段や過程にこだわりすぎてて
(このやり方じゃないと、この望みを叶えないと絶対に幸せにはなれないと勝手に決めつけて)
苦しんでる人が多い気がするなあ。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-5019.html
こんな論理的に破たんした言動じゃ、まともな社会生活送れないだろうに。
どうして生きてられるんだ?
考えられる答えをいくつか。
③キチガイはすべてに対してキチガイな振る舞いをするのではなく、ごく一面にのみキチガイな振舞いをする。ネット上の話はその一面が強調されただけである
①じゃ身も蓋もないので、②、③かな。
旦那さんはまともな人だから、何とかDQN親を養えれるのだろう。
このDQN親も普段は社会生活が送れる程度にはまともだが、娘の名前に対しては特別な思い入れがあった。
それを娘が学校でバカにされた(と思いこんだ)。