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はてなキーワード: 社会生活とは

2013-12-07

俺がモテないのはどう考えても宇宙が悪い

自分で認めちゃうけど、俺はいわゆる「モテるタイプ」の男ではない。

見た目は槇原敬之土田晃之を足して2で割ったような感じで、よく老け顔と言われる。

中身だって全然大したことはない。自覚している欠点を数えると片手じゃ足りないくらいだし、

人付き合いが良い方ではないので、あまり友達がいない。

それでも、だ。

クラスの「大したことない男」なんて世の中ゴロゴロいる。

そいつらが全員、彼女ができないかというともちろんそんなことはありえない。

モテテク」とかよく聞くけど、というか実際そういう本も読んだことあるけど、

別に特別な技術を身につけなくても、清潔にしていて普通に会話が出来るのであれば、彼女くらい作れる筈なんだ。

実際、俺くらいの年になると(20代後半)、学生時代全然モテなかった奴でも普通に結婚したりする。

そして別にそのことに対する違和感はない。何であいつが??とか全然思わない。

だって女性の方だって結婚適齢期な訳だし、いつまでもイケメンイケメン言ってられないし、

というか人生経験を積んでいくに連れ、見た目とか表面的なモテテクに騙されなくなっていくだろうし。

ただしイケメンに限る」を使うことが許されるのは、せいぜい大学生までだろう。

あえてもう一度言うけど、別に特別な人間けが彼女を作る権利を与えられているわけじゃない。

社会生活をまともに送れているのなら、普通彼女くらい作れる。

もちろん本当なら俺だって例外ではない。欠点が沢山あると言ったけど、どれも常識の範囲内だし、

最低限の身だしなみにも気を使っている。人付き合いは苦手だけど、談笑くらいはちゃんと出来る。

だけど俺は今までまともに彼女を作れた経験がない。

より正確に言うと、好きになった女性と付き合えたことがない。

お互い寂しくて何となくくっついた経験はある。

ただし、性交をするまでの仲にはなれず、すぐに別れた。

まり未だに童貞というわけだ。

22歳くらいまでは、いわゆる「非モテ」な仲間が何人かいたけど、

つの間にか未だに非モテなのは俺1人になっていた。

(一応言っておくけど、ここでいう「モテ」ってのは「複数人の女性に好かれること」

ではなく、「好きになった人と付き合えること」な。)

何故だろう、と思っていた。

何故俺だけが

一応、いくつか原因を思いついたりもした。

出会いの数が少ないから」「消極的性格から」「男性的魅力が乏しいから」

どれもそれらしい理由だ。これらを直そうと努力した時期もあった。

オフ会婚活パーティーに参加したり、出会い系サイトに登録したり、

ファッション勉強したり、体を鍛えたり、色々やってみた。

けど駄目だった。努力は全く報われなかった。

結局のところ、出会いが少なかろうが、消極的だろうが、頼りなさ気だろうが、彼女ができる奴はできるのだ。

上に挙げたモテない理由なんて、全部自分を納得させるための言い訳に過ぎなかった。

では何故俺はモテない。

見た目とか中身とかそういう次元の問題ではなくて、もっと根本的なナニカがあるような気がしてならない。

例えば、大宇宙意思が俺に恋愛成就させまいとしている、とか。

そういう馬鹿げた発想を半分本気で考えてしまう程度には追い詰められている。

そしてそうなるともうモチベーションを維持するのは困難だ。

何やっても成功する気がしないのだからだって敵は宇宙だ。勝てるわけがない。

やはり孤独死する覚悟を決めるしかないのだろうか。

そして俺は結局何を主張したかったのだろう。

自分でもよく分からない。

2013-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20131206152251

単にもてはやされてるブロガーが嫌なだけなんだから、もう、はてな自体見ないしか方法は無いっしょ。

どんなにフィルターかけようが何しようがもうサービスとしては質を保つのは無理もんで、

現状のブクマの付き方とかで良し悪しを判断するしか無いわけで。

それ以外でもTwitterでもなんでもgoogle検索しても、嫌なブログが目に入ってくるのは否めないが、

まあ、下手な与太話みたいなブログは間違えて開いたら直ぐ消す様にして。

普通になんか必要情報探すだけならそんな変なのひっかからないでしょ(アフィが強い物とかそういうのは駄目だけど。)



増田ブロガー嫌い、って言ってるけど、要するにそういうの沢山見るようにしてるからだよね。

おれもまあ、人のこと言えず、最初はそういうのちょこちょこ見だして、はてブも参考にしてりするようになって来て、

んで、最近、同じようにらいふはっくだのぶろがーだの、ホントキモいし嫌な気分にはなってるけど。


最初RSSで色んなブログとか登録してて、んで、ある時からそれだとあふれるからはてブとかキュレーション系だけに切り替えてたけど、

最近、それだと逆に偏る様になって来たから、やっぱり必要サイトRSSはきちんと登録しておいて、

はてブとかはホントにざーっと見逃してもいいか適当に流す様にだけするようにしてる。

なんとなく、タイトルで客寄せしようとするのも分かる様になってくると余計なの開かなくなるし。

後は新着ブクマとかでも特定のブログとか簡単にブロック出来たらいいんだけどね。。。(新着ブクマRSSで取ってるんだけど、そいうのできんのかな?)



ブログで書けって方、絶対いらっしゃるんですよね。

ブログないの! 作るつもりもないの! 増田が好きなの。

これは分かるわ。てか、ブコメしてるのも同じことだからね、ある意味

社会生活のすべてや家計をかけて書いてるわけじゃないでしょ?

いや、結構な人がかけて書いてるよね、少なくとも、毎日の様に炎上してる人たちってほとんどホント仕事してない人たちじゃん?

はてなの上位有名人って皆人生失敗した人たちじゃないの?キチリン、もとい、ちきりんかいう人だけが人生上がり後に書いてるみたいな感じで。

(でもまあ、ホントに同じ様な道で上がってる人はこんなくだらない形で表に出たいなんて思わないだろうし、仕事結局上手く行かない所があってまだ人生欲求不満なんだろうけどね。)


具体例を挙げよと言われても遠慮します。

はてなの中ならいくらでもいんじゃない?俺はその人達宣伝になるから逆に挙げたくないけども。

2013-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20131205214325

どっちかっていうと、

正しいことは何かを自ら考え、それを自己で判断し、判断の結果を自分責任を取

取ろうがどうしようが、代官を裁ける人間がいない。権力に守られた悪は、権力しか排除できない。というのの象徴な気がするけどな。

街で起きてる問題なら、町民が解決可能だが、お代官様が悪党となると、町民にはイッキ起こすしか無いけどイッキは死罪だからな。

詰んじゃってる時代の話だろ。

 

それに、集団生活というか、社会生活をしているなかで判断の結果を自分責任を取れることばかりかというと、

権力を持てば持つほど、他人に被害が及びやすくなるという意味で、責任をとれることばかりじゃないけどな。

辞任すれば責任取れるというのは、あくまで社内の話で。何がしか被害者からすれば辞任は責任逃れになるからな。

難しいよ。

2013-11-30

4月2日世界自閉症啓発デイだそうな。

しか知的障害のある方はともかく、知的障害を伴わないいわゆる「発達障害」についてはそもそも概念を疑った方がいいのではないかと思うのですが。

発達障害」について変に「理解」されても困るなあというのが正直な所。

おかしいのは過度のコミュ力を要求される社会の方だという、発想の転換も必要なんじゃないかと思いますよ。だって昔は今で言う発達障害に分類されるような人が問題なく社会生活を営んで、それどころか優れた業績を残していたりするんですから

寧ろいわゆる発達障害の人は通り一遍仕事よりも知的仕事創造的な仕事に向いていて、良きにしろ悪しきにしろイノベーションを起こせる可能性を秘めていると思うのですが今の社会はそういう人々を弾きだすばかりか無理に矯正して人並みにしようとしているみたいで、物凄く勿体ない損失を生み出しているんじゃないかと思いますよ。コミュ力はないけれど人とは違った発想が出来る、集中力がある、思考力がある、これって立派な長所なのに。金の卵台無しにしているような残念感。しかもそれを良い事だと思っているから救えない。

職業訓練とかもその幅が物凄く狭いですしね。政治家になろうとか芸術家になろうという教育は行われない。

個性の範囲で済まされる人間発達障害といって障害認定してしまう事は、肌が褐色だから障害だとか、髪がカールしているから障害だと言っているのに等しいのでは?目が見えて耳が聞こえる、手足も動く、学力も高い、そういう人間障害者認定する社会の方に問題があるとは考えないのでしょうか。

労働者画一的笑顔押し付け企業の在り方は、社員全員を意図的金髪碧眼で統一するような薄気味悪さがあります

発達障害には「障害じゃなくて個性」という言葉が当て嵌まると思う。なのに障害者認定する事が該当者のためになっているという勘違いした人権意識がどんどん広まっているのが嫌だなあ。

2013-10-14

原因不明の病気になって数年

治る気配もなし。

原因もわからない。

社会生活を送る上で、いろんなハードルがある病気

この病気からって死ぬわけじゃない。

見た目じゃわからいから、理解もされにくい。


もともとポジティブだし、生きてればいいことあると思ってた。

ちょっとした楽しみくらいならあるけど、そろそろそれだけじゃきつくなってきたな。

僕はこの先、何を糧にして生きればいいんだろうなぁ。

2013-10-07

http://anond.hatelabo.jp/20131007164319

究極的には、視界に他人が入るのが気になってウザイんだけど、といわれた。

そんなの仕方がないと返す必要が有るように

『いきなり飯食ってる最中に対面に他人が座るのが耐えられない』というのを常識にしてはいけない

=それを許容すると社会孤立化する人が増えるから、この対応で合ってる。

 

必要なのは、相席で気分が悪くなってしまうんですけど、相席で気分が悪くならないように練習するにはどうしたら良いですか?という質問だ。

社会生活対応させるためには、ボッチ席を作るのではなく、ぼっちが相席になれるようにしないとダメ。そのためにどうしたら良いかと考えるべきでそもそも元増田が変。

 

ボッチは社会生活に慣れろ!とボッチの俺が言う。俺達は社会生活にも対応しなくちゃダメ。むしろ、ボッチのまま孤独死しろと言う今の社会にこそ異議を唱えたい。

ボッチには練習する場所が少ない!

 

しろリア充100人いるところに放り出して、平気だから、仲間作ってみ!というほうがはるかイジメだ。相席なんて1人なんだし、話しかける必要性もないんだから最高の練習場所じゃないか

2013-09-28

http://anond.hatelabo.jp/20130928030907

横だけど、それこそ先入観じゃね?そりゃ、体力的な面で子供の時と比べて劣ることはあるだろうけど、子供時代と同じような視点感覚スポーツなり趣味なり勉強なりに取り組めば、それなりに結果は出るだろ。

だが、お前みたいな経験者は必ず「出来ない」という。なぜか。自分経験した辛さ・苦しさを他人が簡単に乗り越えようとすることに嫌悪感があるからだ。だから元増田のように初心者がいきなり波に乗れたりする事実に我慢ができなくなる。

俺は別に元増田天才でも運動神経抜群でも無いと思うよ。あんたの言うように海の怖さに対する認識もそれなりに持っていたと思う。でも、それ以上に「楽しさ」とか「波乗りしている姿」を想像していたから、そんなに下手打たずに乗れたんだと思う。

これは別にスポーツ趣味じゃなくても、一般的社会生活でも一緒。お前にもはじめてやることでなぜか上手く行った経験あるだろ?それと一緒。なのに、お前が経験しているサーフィンを例に出されたからって否定するのはおかしい。

2013-09-09

日本人オリンピック好きは世界的に見て特殊

いい悪いは別として、世界的に見て日本人は、文化的社会的、そして言語おいても極めて特殊だが、異常にオリンピックが好きな事も特殊。

そんなに努力したら報われる瞬間に飢えているのだとしたら、未だ社会生活仕事で、健全で公正な環境に置かれていないということか?

実際問題どうなのだろう? 

純粋に考えるとオリンピックが好きということはスポーツが好きということになる。ところがどうだ、サラリーマンの大半が休日又は

仕事の後に、スポーツに興じ汗を流しているという話は聞かない。そのような光景はあまり目にすることはない。

その代わりに目にするのは、抱えきれない日々の不満を、アルコールで解消しようとする、お腹の出た酔っ払い達だ。

その横を流行りのジョギングシューズ、ジョギングウェアーに身を包んだ健康志向の誰かが、お気に入りの曲をipodで聞きながらすり抜けていく。

俺は夢でも見てるのか?

マラソン中継を放映している国、それを飽きもせず見続ける国民。私はそんな国は日本以外知らない。世界を知らないだけなのか?

この状況を客観的に見れば、日本人スポーツを観るのは好きだといえるが、自ら進んでスポーツをする事はあまり好きではないということになる。

果たして本当にそうなのだろうか?

中学高校部活等を通じてスポーツで汗を流す少年少女は多い。それが例え決められた制度であったとしても、スポーツに興じてることに変わりはない。

この期間で自らが興じるスポーツが好きになる人も多いだろう。

そして、そのスポーツに対するアクションは、”観ること” よりも "する事" の方が大きなウエイトを占めている。

それがいつの間にか逆転するのだ。

スポーツ価値観が、健康的な価値観から余暇的な価値観に置き換えられると言ってもいいだろう。

その背景に見え隠れするのは、 仕事が一番でなければいけない という強迫的なあれだ。こう感じるのは考えが飛躍し過ぎだろうか?

かくして、仕事に疲れ果て、体を動かくこともままならない日本人の、スポーツをしたい欲求を満たす為に、代わりに、スポーツ映像メディアは垂れ流す。

自分の満たされない欲求を、映像の中の選手投影する。選手たちは、希望どおりの働きをしたり、逆に残念な結果を出したり、とき想像を超えた活躍視聴者を刺激する。

筋書きのないドラマに感激し、明日へ希望を持つ。

そう、視聴者にはスポーツをする時間も、余力も持ち合わせていないのだ。

もっとくれ!、もっとくれ!もっと!」「視聴者は欲しがってる、こいつはヤツらの希望を満たすドル箱だ!どんどん垂れ流せ!」そんな幻聴が聞こえてきた。

こうなるともはや、スポーツ映像麻薬だ。アルコールだ。

視聴者は、お腹の出た酔っぱらいだ。アル中だ....

こんな話がある。

オリンピック放映権ドル箱ビジネスで、年々高騰している。その対策としてNHKを含む民放6社がお金を出し合い、放送権を獲得することにした。

1976年モントリオールオリンピックから今にまで続いている。オリンピック期間中、ほぼどのチャンネルを回してもオリンピック放映となるのはその為だ。

各社は特色を出すためにタレント芸人を起用した演出を模索する。芸能人にとってもオリンピックは稼ぎどきなわけだ。

話を戻そう。映像というのは優れた面も沢山あるが、使い方次第では非常に危険装置に成り代わる。

から洗脳に使われたように、無意識化の脳に直接働きかけるため、思考や行動をコントロールすることに威力を発揮し、中毒性も高い。

これは少なくてもメディアの中枢に関わる人達には常識と言えるものだろう。

だとしたら、結果的にメディアは、 仕事が一番でなくてはならない という強迫的なあれに協力、貢献し、スポーツをすることもできないぐらい疲弊し、時間ゆとりもない国民を作り出してしまった。と言い切るのは歪んだ視点なのだろうか?

しかし、そんな惨めな自分たちに気づき、これではダメだとゆとり教育を推進し、彼らが社会に出ると、ゆとり教育は失敗だった。ゆとりは使えないと大合唱し、元の詰め込み減点方式の教育に戻すのは、なんの三流喜劇なんだか。

2013-09-07

http://anond.hatelabo.jp/20130907023237

月並み言葉になるけれど、自分をどうにかできるのは自分だけってことなんだろうね。

これはたぶん投薬を受けても同じなんだろうな、と思ってる。

投薬を受けたところで神経伝達物質の取り込みが多少阻害されたり向上したりするだけなので、自分の考え方や悩みが消えてなくなるわけじゃないしね(元増田バイオ系っぽいからたぶん詳しいだろう)


これまた月並み言葉になる(そして私自実践し切れていないところなんだけど)けれど、自分不安や不満の中身を詳しく見ていって、自分に正直に生きることが全てだと思うよ。

それで具体的な行動にまで次の一歩を細分化していく。それで解決すれば万々歳だし、どうにもならないなら悩んでも仕方がない。


あと、これはあくまで私の場合が、っていう話だけど

私は趣味大事にしたいからこそ、社会生活を頑張りたいと考えている。

金銭的にどうこうって言うより心理的なもので、現実社会生活からの逃避で趣味に取り組んでも、いいものは作れないと思うから

その両立の手のひとつが「趣味仕事にする」ということだと思う。でも趣味以外に仕事を持つと、仕事がいやになったとき趣味が心の助けになるし、趣味がめんどうになったら仕事に打ち込める。

2個以上の車輪を持つというのは、心理的にとても楽な状態なのではないかと思う。

2013-09-01

匿名トラックバック数を気にするのが気持ち悪いという主張とか

どうなんだろう、「増田なのにトラックバックがたくさんついたら嬉しい、みたいなのは気持ち悪い!」

とかそういう意見を見ることが多いけど、自分は逆に、自身が書いた記事で反響が多い時はうんざりしてしまう。

逆に過疎化した地域を求めて記事を書いたりしてしまう。

コメントなり、ブログ記事なり、何か知らの文章をネットに送ろうとする以上、「誰かに見られたい!」という自身の

自己顕示欲はあるのだろうけど、トラックバックやらコメントやらの反響があったらうれしい、という感覚は無い。

逆に、沢山ブコメやらトラックバックやらが付くと、途端にめんどくさくなって放置してしまう。

それがたとえ良性のものばかりだとしても。

そういう性格なのかもしれないけど、これはリアル生活でも人間関係を築く上での障害になる。

「誰かに見てほしい、知ってほしい」「この人は分かってくれた、嬉しい!」という感覚

それによる選別こそが、つまるところ人間関係の基本だからだ。

当然こういう思いがないと、恋人ができても長続きしないし、無二の親友も出来にくい。

自分自身が正にそんな人間だ。きっとそんな人間の方がどこか異常なのだろうと思う。

そういう風に考えると、「誰かに注目されてうれしい!」「何か影響力のある俺スゲー」っていう感覚

社会生活を営む上で健全なんじゃないか?と思う。

けれどこういう人間として健全であることは賛美されることはなく、逆に批判の対象になる。

ネットって面白いなーと思う。

2013-08-24

http://anond.hatelabo.jp/20130823234812

この人が解約したかったのは「社会性」だ。

インターネット人間の先鋭的な側面を映す鏡であって、

似たようなことは頻度は低くとも現実でも起こる。

もちろん程度の問題であるので、ネットがきつすぎるならその判断は正しい。

しかしその判断に従って閾値さらに下げていけば、社会生活自体が苦痛になるだろう。

逆に、ネットを通して、「人間ってそういうもの」という受容性を鍛えることもできる。

どちらかというと、そちらの方が長期的に見て幸せになれると思う。

2013-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20130809115632

人間はもう本能の壊れた去勢済みの生き物だよ。

そうじゃないと社会生活送れないでしょ。ムラムラしたら襲っちゃうようじゃ。

http://anond.hatelabo.jp/20130809103144

40日くらいで日焼け止めとファンデ1個、2~3ヶ月ごとに化粧水使い切るから化粧直し&休みの日やそこまでの買い物にも手を抜かない前提で考えていた

日焼け止めに乳液、トリートメントやヘアクリーム、油取り紙、制汗材、身だしなみ用カミソリの替刃とか細々とした日用品費って結構かかるから

専業で基本家の中で極力外に出て行かなければファンデの消費はそれくらいで済むのか いいなあ

子どもを産んで休む期間は私もそうしたい いやそうしよう

社会生活送れない程見苦しくはならないし

まりせっかく髪伸ばしているのに身だしなみの手入れが行き届いていない「残念な女」になるわけね まあ家計に余裕が無ければ仕方ない

私も5000円の小遣いは自分美容趣味ではなく食費の補填に使っているとみた

http://anond.hatelabo.jp/20130809093349

横だけど、毎月化粧品数個なんて買わないでしょう

化粧品って一式揃えたら、あとはファンデ半年に一回買うくらいで

アイシャドウとか口紅とかチークとかはそうそう減らないから、年に一つ買うか買わないかくらいで足りると思う

もちろん普通の人は、気分を変えたいとか今使ってる色はあまり似合ってない気がするとかで色物も頻繁に買う事もあるけど

かつかつの生活してたら、化粧品なんてそんなに買わないでしょう

まめに美容院行かなくても、染色しないロングヘアをコンパクトにまとめてれば社会生活送れない程見苦しくはならないし

毎朝旦那さんにお弁当作ってるのなら、外で一日遊ぶ日は子供自分の分のお弁当もついでに作るだろうし

月五千円のお小遣いもっと違う事に使うんじゃないか

食費が少なすぎるので、こっそり食費に回してるような気もする

2013-08-06

このまま科学が発展して

たとえばデザイナーベビーを誰でも簡単に作れるようになったり、

他人の記憶を簡単に操作できるような機械が開発されたりしたとき

はたして人類はこのままの社会生活を営めるのだろうか。

もしも核兵器が誰でも簡単に開発できるようになって、

世界核兵器が行き渡ったとしたら、

もはや戦争にまつわるコントロールは完全に失われてしまうだろう。

それと同じことがいま社会レベルで起こりつつあるのではないか

(まあ一般市民レベルでも核兵器を持てるならその時点で社会崩壊しているだろうが)

はたして決定的に社会崩壊せしめる科学技術は実現しうるだろうか。

それはどのようなものになるだろうか。

いつ開発されるだろうか。

そして人類はどうやって崩壊を防ぐのだろうか。

2013-07-27

セックスしたい。

電車痴漢ニュース見るとさ、「あんな密室で密着して、男なんだからムラっと来て当然なんだよ!」って叫びたい。

そもそも、痴漢とき社会生活がご破算になるってことがおかしいんだよ。

痴漢ぐらいおおらかになれ!

スカートめくりたああああああああい

2013-07-23

「人付き合いが苦手」の違い(メンヘラ喪女

ネットリアルメンヘラ出会った経験上、自称「人付き合いが苦手」という

パターンが多い事に気付いた。

私は喪女なんで、自分も「人付き合いが苦手」と思っていたんだが、彼女らと私の

「人付き合いが苦手」がどうも違うように思う。だって彼氏を切らした事もなければ

友人と(主に夜)毎日遊び回っといて「人付き合いが苦手」、ってどういう思考なの??

完全に主観なんだが、

喪女

 →皆の輪に加わるのが苦手。なのでわざわざ入ろうとしない。

  単独行動は特に忌避せずできる。だってラクだもの

  一人行動は「寂しい<<<気楽」的な思想。

メンヘラ

 →皆の輪に加わるのが苦手。でも一人は耐えられないので何が何でも

  入ろうとする(社会的に見て不適切な行動もあり)。

  単独行動は命の危機。だって寂しいの!死にたくなるの!話聞いて!かまって!

  一人行動は「寂しい>>>気楽」的な思想。

…って風に感じてる。 

後は社会生活適応できる/できないという所が「人付き合いが苦手」に関わって来るのかなあ。

要は状況に応じて自分を場に適応させられるかどうか、という事。

具体的には、例えばお店に洋服を買いに行ったとして、店員に「お客様にはもっと大きなサイズ

いかもしれませんね」と言われたとする。そして自分が「もしかしてデブって言われてる?」と

感じたとする。そういう時の店員への返し方として、

社会生活適応できる→大きなサイズがあるか聞いてみる、店員のいう事はさらっと流して別の店に行く等。

           トラブルは起きない。

社会生活適応できない→客に失礼な事言うなんて!とマジ切れしてクレームをつける。

            トラブルは起きる。

の2パターンが予想されるわけだが、メンヘラの言う「人間関係が苦手」というのは後者のような

状況を指しているんだろうか?だとすると、

喪女の「人付き合いが苦手」=友人・恋人として他人との関わりが苦手。他人と関わる意思・行動力が薄い。

メンヘラの「人付き合いが苦手」=感情優先でコミュニケーション方法として適切な方法を取れない。他人と関わる意思・行動力が強い。

という事?私の推測ではここが限界

誰か客観的に「人付き合いが苦手」の意味の違いを理解できてる人はいませんか?

2013-07-14

http://anond.hatelabo.jp/20130714172626

お前のマジョリティからは正しいとはされないけどもやりたいこと、

ってなんなんだよ?

周りの目を気にする人ほど正しいことしかできなくなるよね。

正しいことってつまりマジョリティがよしとする行いってことだからね、批判されにくいんだよ。

特に今の時代ネットちょっと間違ったことを言おうもんならあちこちから批判されるし。

勿論、マジョリティ正義、となってしまうことはあるけど

逆に今の時代ネットで全て記録として残る以上、

誰かが正しい情報源を持ってくればいくらマイノリティーだったとしても正しい、と認められるし、

マイノリティー側の発信も随分しやすくなったと思う。

「これやったら叩かれるな」って発想が常に付きまとうから正しいことしかできなくなる。

そりゃ、叩かれるのがマイノリティー、なのではなく、やることが自分でも正しいとも確信持てないものなんだから

やるなよ。人に名迷惑かけるだけだろ。

そういうのを学習するのが学校だろ。

結果、常に正しいことをしようとするあまり自分のやりたいことを押さえつけ、禁欲主義に走り、もう自分が何をしたいのかもわからなくなる。

別に悪いことをするよう勧めてるわけではないんだけど、ちょっとくらい間違ったことをした方が人生楽しいんじゃないのってはなし。

もちろん犯罪を推奨してるわけでは決してない。

法律人間社会生活を営む上で最低限守らなきゃいけないルールだし、守れないやつは山奥にでもこもって一人で生きるべき。

でも、逆に絶対に守らないといけないのって法律くらいなんじゃないのかな(明らかに他人の迷惑になる行為は言うまでもなくダメだけど)。

法律守ってる範囲内でやってりゃ、文句言う奴が居ても別に構わなければいいだろ?

実際、それが正しければ周りもついてくるだろ?何言ってんだ?

学校課題とか無視して友達と遊んじゃってもいいと思うし、

別にいいよ、別に勉強が全てではないし、所詮学校課題が将来生きてくために100%必要ものでもないから。

ただ、その程度をこなそうとするだけで友達と遊ぶとかが十分に出来ないようじゃ

将来まともな仕事は出来ないということくらい理解しろ

街中で女の子ナンパしちゃってもいいと思う。

パチンコやってみてもいいと思うし、

アホみたいにお酒飲んでみてもいいと思う。

少なくともマジョリティーに文句言われることじゃないだろ。何いってんの?

自分は正しいことしかできないタイプ人間で、自分と同じような人もわりといるんじゃないかなと思って書いてみた。

違うわ、単に言われた事以上の事が出来ないだけの能力しか持ってない馬鹿だ。

少なくとも学校勉強レベルでも自分から考える様な訓練ができてなかっただけだ。

そういうのが才能だとか、環境だとか、だったらもう運が悪いと思って諦めろ。

そうじゃないなら自分で考える努力しろよ。

もっと楽に生きてもいいと思う。

楽に生きるためにはまずそれに見合うだけのことしろよ。

そうじゃなきゃ、イージーモードで生きられる程の遺産を残せない親を恨め。

つの間にか正しいことしかできなくなってた

周りの目を気にする人ほど正しいことしかできなくなるよね。

正しいことってつまりマジョリティがよしとする行いってことだからね、批判されにくいんだよ。

特に今の時代ネットちょっと間違ったことを言おうもんならあちこちから批判されるし。

「これやったら叩かれるな」って発想が常に付きまとうから正しいことしかできなくなる。

結果、常に正しいことをしようとするあまり自分のやりたいことを押さえつけ、禁欲主義に走り、もう自分が何をしたいのかもわからなくなる。

別に悪いことをするよう勧めてるわけではないんだけど、ちょっとくらい間違ったことをした方が人生楽しいんじゃないのってはなし。

もちろん犯罪を推奨してるわけでは決してない。

法律人間社会生活を営む上で最低限守らなきゃいけないルールだし、守れないやつは山奥にでもこもって一人で生きるべき。

でも、逆に絶対に守らないといけないのって法律くらいなんじゃないのかな(明らかに他人の迷惑になる行為は言うまでもなくダメだけど)。

学校課題とか無視して友達と遊んじゃってもいいと思うし、

街中で女の子ナンパしちゃってもいいと思う。

パチンコやってみてもいいと思うし、

アホみたいにお酒飲んでみてもいいと思う。

自分は正しいことしかできないタイプ人間で、自分と同じような人もわりといるんじゃないかなと思って書いてみた。

もっと楽に生きてもいいと思う。

2013-07-06

やはりドリーさんの書籍クリティークはまちがっている

 というわけで一本何か書いてみようという安易意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。

 さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。


 さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評おいて人気を博した、ネット出身の新鋭ライターブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。

 ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしま塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。


 さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います


 自分アッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きから視点おいて、批判対象(アッパー雰囲気を纏うものや、ハイソ雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております

 こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイカルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。


 ドリー氏がamazonにて村上春樹批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります

 ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。

 そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要ものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。

 しかし! しかしです。

 ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。


 これは、私が主観的立場おいて評している事柄ではありません。

 というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。

 つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。


 アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。

 というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。


 ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。


 『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。


 アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカ自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」


 「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ


 アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなもの・・・



こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています


それにしても自分大好きオーラでまくってます

身のこなし、言葉の節々から自己陶酔感がただよってるんですよ。


 なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています

 これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミ面白い(笑)

 ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります


 しかしです。

 実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミ果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています


 と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――

 ――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――


 ――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚自分性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。

 その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております


 ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?

 つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当ものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。

 ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。

「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい


 しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろアカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪存在しているということなのです。

 付け加えるならば

この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学経済学部教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われていますしかし、多崎つくるが生きている現代世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営スピーチおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。


 ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブグリーンバスローブ」について批判しております

 曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。

 しかしです。このような緑の色、というのは、西洋おいはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。

 主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイル生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬感情を表す「オリーブグリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。

 しかし、ドリー氏はこの「オリーブグリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております

 これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩文学比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にの視点おいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。

 ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。


 さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力文学表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と

2013-06-19

発達障害者は「特別」なんかではない。

例の「田舎ツライ」ってヤツ→http://togetter.com/li/519951

この人からは、「周囲が悪いか自分は辛くて可哀想なのを分かってくれ。そしてこのままの自分を受け入れろ」って本音の喚き声しか聞こえない。

自分も「田舎に転居」以外の要素(都市近郊育ち、発達障害持ち、親と上手くいかない、甲斐性なし、結婚社会生活の逃げ場求めてすがった)はほぼ同じ(つってもそう都会でもないが)。

確かに社会生活しんどい。「分かってもらえない」気持ち、「どうも誤解される」「自分意図にないことを勝手忖度解釈されて言いがかりをつけられる」等々の被迫害感はベースに育まれてる。

自分の何がいけないんだろう、自分の「当たり前」が他の人(親など含む)とズレるのはなぜだろう、って、発達障害が分かった今でもやっぱりいっぱい考えるし、そういう無理でデフォ生きにくいし「恨み」みたいなものオセロの裏みたいに育ってる。

けどさ、だからっつって「ありのままの私のままでそっちが受け入れろ」なんて思わないよ。それは思わん。

だってさ、健常者だって多かれ少なかれ同じ思い持ってるし、その上で他人や社会に合わせる努力してんじゃん。みんなちょっとずつ譲り合ったり我慢したり変わろうとしたりそれでも合わなかったら離れたりして、自分で頑張ってるじゃん。

人よりできない分の苦労はあるさ。そりゃーある。当然だ。できないんだから。その上ひとさまに迷惑もかける。それも、そんな自分でも受け入れ愛してくれる人に一番迷惑をかける。

でも、普通にできることだってあれば、人よりもっとできることだってあるかもしれない。別にアスペ天才とかじゃなくてもっと普通の話で、人それぞれ得意不得意があるってそういうもんだろ?好きなこと嫌いなことがあったり、嫌いなものへの許容度にバラつきがあったり、別に誰にでもある当たり前の話じゃん。

まり「どうやって人の間で生きるか」って現実的な話でいえば、程度問題なんだよ。

発達障害って免罪符でもなければVIPシートご招待券でもない。単なる障害で、他の多くの人ができることがだいぶできないってことなだけだ。

程度が重いかしんどいし、脳みその癖のせいで、自分が変わるのは人生かけた苦行みたいなもんだが、助けてくれる人の手も借りつつ取り組んでいく努力くらいは社会人としてするべきだ。

もちろん発達障害自分のせいではないが、自分人生自分のものだろう。引き受けるしかないじゃないか

手持ちのカードで勝負する。それしかないじゃないか

障害だの健常だの、もっと言えば環境だの親がどうしたの金だの、何にしたって今目の前にある材料でどうするかを考えてやるしかないじゃないか

ようやくオット氏の庇護と扶養のもとに入れたんだから安心して引き籠ってオット氏だけ見つめて愛して幸せ堪能すればいいのにね。健常者でもそんな女性だっていっぱいいるよ。

んでこんな顔も見えないどこの誰とも分からないネットで広く共感を募らんでも、リアルに接する人達とどう交流していくかを丁寧に見つめて行動していく方が、ずっと生きやすくなるよ。

あとは蛇足

・やむにやまれず田舎のオット氏のとこに転がり込むしかなかったんだ、とさも被害者であるかのように語ってるけど、自分瑕疵には思い至ってないんだなぁとか。まあでも、いるよなこーゆー人。

自分自分田舎者だと思ってるけど、一方でアーバンな感じの社会しか暮らせない人間だというのは重々承知してる。だから「オット氏に救ってもらう」ことと「(書かれてるような)環境に住まう」ことを冷静に秤にかけた上で、前者を選ぶなら環境へは相当の覚悟と決意もって行くけどな。そこに思い至ってなかったらしいのは完全にこの人の瑕疵だ。プロフIQアピールその他を見ると余計にそう思えて片腹痛い

勝手に悪いが、オット氏に同情をおぼえるな。被害者意識でいっぱいいっぱいの女をかつかつの中で食べさせてやって、挙句あんなとこでおおっぴらに愚痴られるとか。

分析3割って、分析なんかどこにもない。あるのは主観事実解釈ばかり。多分この辺の自己認識の誤りが、こじらせに繋がるんだろうなぁ…まあこーゆー人もいっぱいいるか

2013-06-16

橋下徹 夫婦別性に関する発言

◆(吉田利幸君) 

前略

 それから次に、夫婦別姓、これについても大変危険な法案だと思っているんですね。

 というのは、家族解体すれば、必ず地域解体し、まさしく愛する祖国解体する可能性もあるというようなことにもなりかねない。

 そこで、お伺いをいたしますが、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の姓を称することを認める選択的夫婦別姓制度の導入を柱とする民法改正案が二月十九日に明らかになりました。

 制度概要は、婚姻時に同姓にするか別姓にするか、夫婦合意に基づいて選択するものであり、別姓を選択した夫婦の子どもは、夫または妻の姓のどちらかの姓に統一するものであります

 私たちの家庭、家族は、古来より祖先と子孫は一つの血と命でつながり、固いきずなを持って社会生活を営んできました。しかし、夫婦別姓制度の導入により、夫婦間に生まれた子どもの姓について、父親、母親のいずれかの姓を選択できるようにした場合夫婦間、親子間で異なる姓を名乗ることになり、家族の一体感連帯感が損なわれるおそれがあります。また、そのことが子どもに悪影響を及ぼすことを深く危惧しております

 夫婦別姓が認められると、家族、家庭の連帯感が崩壊するおそれがあるとともに、先祖から受け継いできた家の歴史と縦軸の命のつながりを壊し、そのことが郷土愛をはぐくむ心の喪失にもつながります家族をめぐる痛ましい事件が多く報じられ、家庭崩壊の危機が叫ばれる中、選択的夫婦別姓制度の導入は、家族の一体感きずなを損ね、さらに家庭崩壊助長してしまものです。

 我が会派しましては、家族きずなを大切にしたいため、選択的夫婦別姓制度について反対の立場でありますが、知事はこのことについてどう認識をされてますか。

議長朝倉秀実君) 知事橋下徹君。

知事橋下徹君) 僕も、議員と同じように、家族というものが一番大切なコミュニティーで、家族きずな、これは一番守らなければいけない価値であること、ここはもう全く異論はありません。ですから家族、そこから発展するコミュニティー、こういうものを大切にするために、校庭の芝生化事業を含めて、とにかくコミュニティー家族きずな、こういうことも一生懸命やっているところであるんです。

 ただ、ちょっと気になるのは、姓と家族きずなというものイコールなのか。僕、弁護士をやってましたので、離婚問題、よくやってました。今、離婚率は三〇%と言われている中で、姓が同じでも家族きずながないところはいっぱいあるんですよね。ですから、もし本当に姓がそれだけ家族きずな重要なんであれば、日本離婚なんていうのはないと思うんです。でも、やっぱり現実にこれだけ離婚がどんどんふえてきてるというふうな状況を見ると、姓の一致と家族きずなというものを単純にイコールで考えることは、社会科学的に非常に疑問なところがあります

 それともう一つは、子どもに対して悪影響を与えるというところなんですが、これも僕のことを言わせてもらいますと、うちの母親再婚してますので、僕は橋下、母親東山と姓は違いますけれども、しかし、子ども立場で悪影響を受けたことなんて一回もありませんし、僕と母親の姓が違ったところで家族きずなが薄まってるなんていうのは全く思ったこともありませんので、姓と家族きずなというものを簡単に同一視することには非常に危険性があるんではないのかなというふうに思っています

議長朝倉秀実君) 吉田利幸君。

◆(吉田利幸君) ちょっと、これは皆さんにも聞いていただきたいんですけども、実はトフラーという方が、「我々人類未来にもし重大な危機が到来するとするならば、それは核兵器によるもの地震などによるものではなくして、人々が家庭本来のとうとい意義を喪失し、それに由来して家庭が崩壊してしまときであろう。家庭の崩壊は、人間性の崩壊を招来し、社会国家も成り立たなくなる」と、こういう言葉を残してるんですね。

 それからもう一つは、一九九六年一月、これは米国のことですから西暦で読みましたが、クリントン大統領一般教書演説で「家族は、米国人生活の基盤である。より強い家庭を持てば、より強い米国を持つことになる」とこれは、大阪府にも置きかえたら、私は夫婦別姓は家庭の解体から人間性の崩壊へと進み、地域崩壊につながるということと思いますしかし、これはまた議論するときがあると思いますので、次に移らせていただきます

平成22年  2月 定例会本会議-02月26日-02号

http://kaigiroku.gikai-web.jp/kaigiroku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?A=frameNittei&USR=osaosaf&PWD=&L=1&DU=0&R=K_H21_02260002_TXT_L00000037_00000273

2013-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20130614101956

境界性パーソナリティ障害の中でも、社会生活を営むのに支障が出る従来型(低機能型)に比較して、社会的活動は一見何ら問題ない、どころかある分野では高パフォーマンスを発揮する高機能型。なので、余計に「外部」からはわかりづらく、家族などの身内にしか内情は分からない。自分の身内がこのタイプの障害だと、心底辛い。周りに窮状を訴えても、先ず信じてもらえない。ランディクリーガー書籍に詳しく書いてある。

2013-06-05

生活保護を受けられないクズに向けた社会生活方法を教える

先に断って置くが。フィクションからな。フィクション

いかフィクションだぞ。「フィクション」だ。

手順

1、適当会社就職。(現在就職難と呼ばれてるが、馬鹿大学生が身の丈弁えずに会社を選り好みしてるだけでに場所さえ選ばなければ余裕で就職できる。)

2、気が向き次第速攻会社を辞める。それによって「離職者」となる。

3、職業訓練校に通う。そこで職業訓練受講給付金を受給する。(職業訓練校は離職者を対象してる事が多いので、わざわざ就職して辞めたのはその為。)

4、世間体として「出来の悪い人間」のレッテルを張られるが、職業訓練校に通う事で微量ながらも労働意欲を誇示できる。その為、一定の年齢を超えると近所の噂にはなる物、先程のレッテル程度で済む。

5、僅かな知識欲と財布が満たせる。

6、社会的、家庭的に死ぬが、気にさえしなければ安穏とした生活が保障される。

俺は今年で40を過ぎるが、職業訓練校には50過ぎのハゲ散らかしたおっさんもいる。お前が職業訓練校へ通ったとしても浮くことは無いから気にするな。

最後一言フィクションからな。「フィクション」。

2013-05-29

キチガイいか生活困難かを手短かに説明しま

ナマポ不正受給だのと声高に叫ぶ人間が世の中にいるけどガチキチガイにとって本当に生活ってむずかしい。

キチガイはよく物を壊します。ダメだとは思っても理性で制御が利きません。だから命の危機に瀕することも多いです。

壊すものはさまざまですが、扉を壊して出られなくなることが結構あります。なのでSOSできるようにケータイを持ち込んで入浴したりするわけですw

キチガイに対して人々はあまり親切ではありません。なのでなるべく親切な人にものを頼みます。物を壊したときは業者の窓口に電話かけるよりも不動産屋に頼むのが一番です。

それでも不動産屋の女性にはよくからかわれます。茶化されて全然関係ないこと訊かれたりしてまともに相手されないわけです。プロ意識が低いと非難するのは簡単ですがガチキチガイなので仕方ありません。

そんなこんなでなかなか物を直してくれる人に相手されないので、壊れたままといった事態が常態化します。例えばそうですね、玄関の扉が壊れて行き交う人から中が丸見えになっているんです。

そんな危険な状態で眠ってしまうと泥棒の危険があります。盗むものもあまりありませんがパソコンだけは困ります。なので必死に壊れたその日のうちに不動産屋に電話するんですが相手にされないw

あとキチガイはなぜかDQNに好かれますアパートの同じ階のDQNキチガイの部屋に我が物顔であがりこみますキチガイの防衛手段として必死に叫んで出来る限り狂ったフリをして追いだそうとします。

が全く動じないどころか笑い転げているんです。キチガイ必死努力でおいだしてもまたすぐあがりこんじゃうw

キチガイの部屋の前を通るたびに何かしらちょっかいしに上がり込みにいくわけです。しかもその上がり込みかたがいやらしい。

ところでキチガイ勝手にいたずらされるのが嫌ですから、壊れた玄関の扉とは別の、部屋の扉を開けっ放しにすることで、常に部屋からアパートの共用スペース(通路)が見えるようにしているんです。

ところがその部屋の扉がいつの間にか閉まっている。DQN仕業なことは明らかですが、なかなか不気味です。キチガイはそれに気付くとギョッとした顔をします。

そして憤然とした表情で立ち上がるとキチガイを探しにいきます。たいていバスルームなどに隠れています。なんとか追い出すのも一苦労です。

ここまで読んで、この文章のキチガイは実はただのイジメられっ子では?とか、DQNのほうがキチガイだろ?などとは思わないでください。そう思われると前提が崩れます

キチガイガチのやつです。DQN非常識で幼稚だけど社会生活を営めるほどには精神はまともです。そういう前提で、キチガイいかに大変かに驚きながら読んでください。

最後になりましたが、キチガイの特殊な一例に過ぎないのではという声もあるでしょう。確かにそうです。ですが、似た例は枚挙にいとまがありません。決して珍しくないのです。

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