はてなキーワード: 始皇帝とは
オタクへ
似たような作品はあるのに(文豪やFGO)?前に作者は日記に同じネタをあげてたのに?
急に怒るゴリラのように荒れててこわい…。
という声を見た。
確かに、そう思うと思う。私もヘタ楽しんでた時には界隈のルールが厳しくて(今思えばゾーニングのためのルールだった)なんで?と思ってた。今では自分を100叩きしたい。
我々ゴリラが何にそんなに怒っているのか整理することで、「もしかして私を襲ってくる?」と不安な人が、我々の怒りの矛先と気持ちを分かって安心してくれたらと思う。
この国じゃない、近代じゃない政治家(織田信長や始皇帝)なら問題にならない。もし同じ作者同じネタでも同人誌なら、きっとそんなに問題視されない。じゃあ、どうしてこんなに声が上がっているかと言うと、
以下で、少し詳しく説明する。
①この国の近代政治家のかわいいキャラ化が駄目なのは、その政治家が踏みにじった人とその子孫」をもう一度傷つけるから駄だ。政策(戦争含む)で傷ついた人、差別に苦しむ人、そしてその子孫のまだ痛む傷口を、「辛い〜でも尊い🙏」と消費してしまう。だから、近代のキャラ化は慎重にしなくてはいけない。
例えば、星野源の横で犬を撫でている総理を、キャラ化にして「かわいい💞」と萌えている人が隣にいたらどうか。私なら「おまえをもやす」と言いたくなってしまう。この企画が進行することで、これのもっともっとキツイやつを感じる人が、たくさん出る。在日コリアンの方の苦しみと不安は、いかばかりかと思う。本当に辛い。(詳しくは、この本がおすすめです。
レイシズムとは何か https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%81-%E8%8B%B1%E8%81%96/dp/4480073531)
また、現体制へのプロパガンダとなる危険が大いにある。過去の総理のキャラ化を皮切りに、今の総理をキャラ化したくなるのは想像に固くない。私も年季の入ったオタクなので、その状況になったら絶対創作する。そして、創作したら愛着が湧く。創作する前よりも、現総理と現政権へ好意的な気持ちに変わってしまう。
税金で桜を見られようと、ヘイトスピーチを容認されようと、ひとたび萌えれば必ず現体制に好意的になってしまう。私は見境のないオタクなので分かる。あなたはならないかもしれないが、一定数のオタクは絶対なる。
まず、文豪の作品。政治家は常に大きな影響力をもつ。文豪が直接人を害する数とは比べ物にならない。ここが近代文豪を取り扱ったものとこの企画の違いだと思う。
そして、FGO。織田信長や始皇帝がかわいいキャラ化されても、現代の政治へのプロパガンダにはならない。その点がFGOは薄皮一枚違う。
さて、戻って、②日本全国の本屋コンビニに並ぶこと。これが一番本当に駄目。
私はアイディアや創作は自由であるべきだと思うし、ねほりんぱほりんで言ってた「裾野が広いからこそ山は高くなる」っていうのがその通りだと思う。デボン紀のようにあらゆる方向に向かって作品が生まれる中で、今までになかった素敵なものが生まれると思っている。作者は想像力やキャラデザインの魅力のある人だし、どんどんアイディアを出したらいいと思う。
だからこそ、出て来たアイディアを日本全国の本屋コンビニに並べていいか、出版社には倫理観に則って考えるのは出版社の仕事ではないだろうか。
作者に落ち度がないとは言わないが、自省にはある程度限度がある。(その点、最近の漫画家さんの作品の自省や価値観のアップデートは素晴らしいと思う。)
繰り返しになるが、ジャンプSQに掲載して日本全国の本屋コンビニに並べていいか、まだその政治家について予備知識のない10代に見せるものか倫理に照らして出版社でしっかり考えるのが仕事ではないだろうか。18歳から選挙権はある。
いだてん面白かったしゴールデンカムイ面白いし、近代作品もっと増えてほしい。
でも、安易で思慮の少ないかわいいキャラ化は、その無配慮故に笑いながら誰かを刺すことになる。私がそうだった。今になって自分の思慮の無さを猛烈に悔いている。だから同じようになる人は増えないでほしい。
分別のある人は、易易とは取り扱わないか、しっかり調べて練ってから作るか、ゾーングするかする。
そのどれも怠っている様子が見られるから、心配だし不安だし、怒れるゴリラのように荒れている。
もしあなたが、あの企画を見るときには「かわいいイラストコーティングをされた現総理への惚れ薬」を食べることをイメージして心して食べてほしい。でも、見るも見ないもあなたの自由なので私には止められない。
ここまで読んでくれた方がいたなら、ありがとうございます。あなたは、いい人です。今度会ったらバナナあげます。🍌
ライフスパンなどという本がもてはやされる昨今ですが、太古の昔から人々の夢は不老長寿、不老不死でした。
秦の始皇帝は水銀をのんだし、現代人もオートファジーを意識してプチ断食やらリーンゲインズしたりNMN飲んだりHIITで不良ミトコンドリアをぶっ壊しています。
ミトコンドリアというのは皆さんご存知の通り、細胞に寄生している生物で、人々はこの物体をもって細胞と共生しているとか、酸素からエネルギーを作り出す発電所などと申しておりますが、
実態はと言うと、そこいらじゅうの動物の細胞という細胞に寄生しているウイルスの一種でございます。
ミトコンドリアをオートファジーで壊すのは、単純に不良となったミトコンドリアが生成する活性酸素が、細胞へのダメージを引き起こす、つまり、炎症が起こってしまうのをどうにか減らしたい。
炎症が少なくなれば、老化の時間稼ぎになるという理屈でございます。
ミトコンドリアが手のひらサイズになったさまを想像してください。かれの頭から伸びる一本の触手
その触手が、秋の夕暮れの涼し気な風にゆれる時、人々はみな帰路につきます。
中には帰路につけない過酷な人生という労役を務めているひともいます、彼らのミトコンドリアは、デスクに置かれているモンスターエナジーに触手を伸ばして、砂糖たっぷりまぶされたカフェインを摂取しており、ミトコンドリア特有の黄緑色の光を一層輝かせています。
ミトコンドリアを肩に載せ夕暮れを散歩したら、鈴虫の音色に合わせて、彼ら(もちろん雌雄区別ありません)の緑色の点滅が揺らめきます。
あたり一面に敷き詰められているミトコンドリアの中を流れる風こそが、酸素であり、そのミトコンドリアから伸ばされた、数々の触手は、十五夜の月明かり照らされて、一種の芸術作品のような佇まいを見せます。
一つ一つ一生懸命に酸素から細胞活動のエネルギーを生成しているミトコンドリア様を指して、寄生生物やら、ウイルスの出来損ないなどというとんでもないことを言う輩もいます。
ましてや、うまくエネルギーを作れなくなったり、活性酸素を生成してしまうような、ちょっとドジなミトコンドリアがあるからと、断食やHIITでオートファジーをするなど、そのような凶悪な行為が許されるはずはありません。
人間はミトコンドリア様を生かすために動いている器に過ぎません。
夜風にゆらゆらと触手を揺らしながら肩に乗っかっているミトコンドリア様と散歩をします。
近頃は夜の気温も一層下がってきました、そんな夜空の下を歩けば、この街の光の数だけ、ミトコンドリアと人間のドラマがあるのです。
韓非は韓の諸公子である。彼の著作(『韓非子』)「五蠧篇」を読んだ後の始皇帝は「この著者と親交を得られたならば死んでも構わない」と感嘆したが、いざ彼を手に入れた際には李斯の讒言により死なせてしまった。
宋人有耕田者。田中有株。兔走触株、折頸而死。因釈其耒而守株、冀復得兔。兔不可復得、而身為宋国笑。今欲以先王之政、治当世之民、皆守株之類也。
五蠧篇の要点は「世異なれば則ち事異なる」「事異なれば則ち備え変ず」という点にあり、したがって「守株」も先王の政の踏襲を理想とする(儒家的な)思想を戒めるものであり、故に現代語としても「いつまでも古い習慣にこだわること」の意で用いられる。
しかし、守株の故事だけを抜き出すならば、ウサギが切り株で転ぶという再現性のない幸運に遭いその再現を当てにして無為となることの愚かしさを描写したものだ。林修が言うところの「成功体験は人の目を曇らせる」という例である。
緊急事態宣言前の自粛要請によって十分な接触減が達成されていたことの再現を当てにして「緊急事態宣言はやりたくないから努力しろ」等とだけ述べて無為でいるのは、株を守る行動に等しい。
1 『北京大学版 中国の文明』掲載の「大事年表」をベースに、wikipedia「中国の歴史年表」「夏商周年表」その他の記事で補った。
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前1600頃 殷(商)の創建(殷(商)・太乙(成湯)) <殷(商)>
前453 三晋(趙、魏、韓)成立(諸侯に列されたのは前403) <戦国(時代)>
前350 秦が咸陽に遷都する。秦において商鞅の第二次変法が実施される
前256 秦が東周を滅ぼす
前221 秦が燕・斉を滅ぼし、秦による中国統一が成る。秦が貨幣・度量衡・文字を統一する <秦>
前206 秦滅亡。鴻門の会。漢の高祖元年
前154 呉楚七国の乱
前136 儒教官学化 ※異説多し
前115 均輸法(漢・武帝、桑弘羊)
前110 平準法
18 赤眉の乱
25 劉秀が皇帝を称する(後漢・世祖、光武帝)。後漢が洛陽に遷都する <漢(後漢・東漢)>
200 官渡の戦い
208 赤壁の戦い
220 後漢・献帝が曹丕(魏・文帝)に禅譲(後漢滅亡、魏成立)。九品官人法制定 <魏>
263 蜀漢滅亡
265 魏・元帝が司馬炎(晋・世祖、武帝)に禅譲(魏滅亡、晋(西晋)成立) <晋(西晋)>
291 八王の乱
304 劉淵が大単于・漢王を称する(前趙成立) <五胡十六国(時代)>
316 西晋滅亡
485 均田法発布
613 楊玄感による反乱、隋の統治が崩れる
619 租庸調制の実施
668 唐が高句麗を滅ぼす
845 唐・武宗による宗教弾圧(仏教、景教、祆教、マニ教)、会昌の廃仏(~846)
875 黄巣の乱(~884)
904 朱全忠、唐の実権を握る
907 朱全忠への禅譲(梁・太祖)。唐滅亡。梁の建国 <梁・五代十国>
1004 澶淵の盟
1069 宋において王安石の新法が行われる
1125 金が遼を滅ぼす
1126 靖康の変、金が北宋を滅ぼす
1206 モンゴル部のテムジン(ボルジギン氏)、ハンを称する(チンギス・ハン、元の太祖) <モンゴル帝国>
1229 オゴデイがモンゴルの大汗として即位する(オゴデイ・カアン)
1234 モンゴルが金を滅ぼす
1236 モンゴルのバトゥ(チンギス・カンの孫)らによる西征
1260 クビライがモンゴルの大汗として即位する(クビライ・カアン。セチェン・カアン。元・世祖)
1264 アリクブケ、クビライに降伏する
1271 クビライ・カアン、モンゴルの国号を元に改める <元>
1279 元が南宋を滅ぼす
1281 弘安の役
1351 紅巾の乱
1371 明で海禁令が出される
1388 北元の滅亡
1399 靖難の変
1435 この頃より宦官の専政がひどくなる
1449 土木の変
1616 女真族のヌルハチ、満州(中国東北部)に後金を建国する <後金(清)>
1638 ホンタイジが後金のハーンとして即位し、国号を清に改める。
1644 清が明を滅ぼす(北京陥落)
1673 三藩の乱
1689 ネルチンスク条約
1696 ジュンガル部討伐
1716 地丁銀制
1728 キャフタ条約
1798 白蓮教徒の乱
1850 太平天国の乱(~1864)
1861 西太后の垂簾聴政(~1908)
1884 清仏戦争
1899 義和団の乱
1904 日露戦争(~1905)
1911 辛亥革命
1931 満州事変
1934 中国共産党による長征
1936 西安事件
1939 第二次世界大戦(~1945)
1946 国共内戦(~1949)
1951 三反五反運動
1957 反右派闘争
1958 大躍進政策の開始(~1958)
1978 鄧小平が中国の最高指導者になる。改革開放政策の開始
私は一介の十二国記ファンである。中高生の頃にはまり、「白銀の墟 玄の月」で再燃した。
本記事では、十二国記世界の疑問点について語り、次回の短編集の内容について、時には私の好みで脇にそれつつも、予測したい。その途中で、私自身のこの作品に対する解釈や思い入れにも立ち入るかもしれない。
各物語のあらすじについては、熱心な読者が多いと思われるので、略す。さて、この順で読み返すと、次のような傾向がみられる。すなわち、王と麒麟の視点から見た世界よりも、庶民から見た世界の比重が大きくなっているのだ。確かに、「月の影 影の海」では陽子は大変な苦労をして玉座に上り詰めるし、「風の万里 黎明の空」「黄昏の岸 暁の天」では、いかに王としての責務を果たすかが語られる。一方で、同じ「風の万里 黎明の空」は民衆のレジスタンスの物語であり、それがさらに大輪の花を咲かせるのが「白銀の墟 玄の月」だ。これは都市の規模ではなく、国家規模にわたる抵抗だ。
もう一つの傾向とは、読者層の拡大である。もともと少女向けレーベルで出版されたからだろうか、十代の少年少女にとって教訓となるような個所は少なくない。「風の万里 黎明の空」における鈴、祥瓊の扱いを見れば顕著だ。一見同情すべき境遇にいるようでいて、それに甘んじている彼女らを待ち構えているのは叱責であり、罰である。この年齢になって読み返すと、幾分説教臭く感じなくもない。
しかし、「丕緒の鳥」からシリーズ全体の印象ががらりと変わった。組織の中で働く官吏や、避けられない災害を前にして自分のできることに必死になる民衆の姿は。年齢を重ねた読者の心も打つ。少女向けとされる小説から最も縁遠いように思える、中高年の男性もうならせるだろう。この作品は、あまりにも不条理な世界で生きる人々へのエールとなっている。
つまり、これから尚隆や陽子の視点から物語が描かれることは少なくなるのではないか。きめ細やかな民の物語を描くとき、王の存在は強すぎる。「東の海神 西の滄海」も、一歩間違えれば「俺TUEEE」っぽくなってしまう(そうならならずに尚隆が有能かつ魅力的に描ける腕前がすごい)。そう考えると「白銀の墟 玄の月」で出てきた尚隆は作者なりの大サービスだったのかもしれない。それに、神隠しにあった泰麒で始まった物語は、一応は解決しているのだ。王や麒麟のこの先に物語は、長編としては出てこないかもしれない。
前項でも述べてきたが、次に尽きるだろう。
十二国では天帝が定めた天綱が憲法としてあり、王が定める国法、地綱はそれに反することはできない。また、州の法律も王が定めた法に反することはできない。
天帝は民に土地を与え、それを耕すことで生計を立てるように命じた。逆に言うと、天の設計した社会では、民衆は生まれた里で農業だけをして過ごすことしか想定されていない。
しかし、現実はそうではない。「図南の翼」に出てきた珠晶の家族のような大商人もいるし、「白銀の墟 玄の月」に出てきた宗教関係者もいる。冬器を作る工房もある。私塾もあれば宿もあり、雁のように豊かな国では副業で馬車を出す者もいるし、事実上の奴隷だっている。
そして、最大のイレギュラーが定住民でさえない黄朱の民だ。彼らが歴史に関わってくるあたり、実際の中国の歴史にもよく似ている。
言い換えると、天は王と官吏と農民だけの世界を想定していたが、天の条理の隙間を縫う形で民は複雑な社会を形成してきた。そして、この世界の民衆はルールの穴をつき豊かに暮らしているし、謀反を起こす力もある。これは、専制君主の世界ではあるけれども、ランダムで選ばれた大統領に支配される民主国家の姿に、少し似ているのだ。私たちの世界の大統領・首相も間接的に選ばれるため、民意がどこまで反映しているか、はっきりしていないところがある。十二国世界は、実は私たちの世界の鏡像なのだ。
今後の作品の傾向としては、黄朱の民のように条理からはみ出てしまった人々にもスポットライトがあることと思う。と同時に、黄朱の民はこの世界の条理に生じた大きなほころびでもある。現に、彼らの里木はよそ者が触れれば枯れる、大きなペナルティを負っている。
それと、この世界では思いのほか宗教がしっかり根付いていた。我々が最初にこの世界の宗教を教えてくれるのが合理主義者の楽俊だったため、この世界の人々はあまり天に頼らない印象を受けたが、子供を授かるには祈るほかはないわけで、むしろ熱心な信仰がないと不自然であった。
十二国記が元々は少女向けに書かれたことをうかがわせる設定はいくつかある。例えば、王と麒麟の運命的な出会いだ。女性向けフィクションにはオメガバースをはじめとして、そうしたパターンが多い印象がある。もう一つはときとして未婚の女性をひどく不安にする妊娠・出産からの「解放」だ。女性の苦痛が大幅に減らされており、またこちらの世界とは異なるいくつかの価値観も女性に優しい。王も麒麟も官吏も(軍人を除けば)男女同数だし、子供のいる女性は再婚相手としてむしろ歓迎される。ジェンダーSF・フェミニズムSFとして十二国記を読み解くことも可能だろう。血縁意識が薄いのもその傾向を示している。とくに、楽俊はこちらの遺伝について、似たような顔をしたやつが同じ家にいるのが薄気味悪いのでは、と漏らしている。
しかし、この期待は裏切られる。ここはけっして楽園ではなかった。「白銀の墟 玄の月」のなかで李斎は、男社会の軍隊で生きる女性の苦しさを吐露する。また、明らかに性暴力を受けた女性も登場する。それに、序盤からすでに妓楼も登場している。この世界のセックスワーカーがどれほど過酷な生活を送っているかは不明だが、妓楼に行くことはあまり道徳的に褒められたものではないようである(余談だが、楼閣が緑色に塗られているのは現実の中国にもあった習慣であり、「青楼」と呼ぶそうだ)。
考えてみれば、官吏は女性も多いとされながらも、登場する官吏の多くが男性である。育児の負担がこちらよりもはるかに少ないので、昇進や待遇に差があるとも思えないのだが、これも隠されたテーマかもしれない。
それと、生理の問題がどうなっているかもはっきりしない。初期作品の傾向からすると生理から「解放」されている可能性が高かったが、女性の苦しみをテーマとするならば、生理のしんどさやそれにまつわる迷信・タブーが出てくると考えるほうが、筋が通っている。
天帝が女性、または西王母が兼任している可能性が、ふと浮かんだ。別に女性が王になれるのだから、天帝が西王母より偉い理由は別にない。
十二国記って男性しかいない場所がないこともなんだか怪しい。軍隊も三割は女性だ。逆に、女性ばっかりの場所が蓬山である。麒麟を育てるのは女仙たちだからだ。これも天帝女性説を補強しないだろうか? また、妖魔が雄だけというのも、なんだかそれに関係しそうだ。単純に作者が女性だというだけのことかもしれないが。そもそも「いない」可能性もあるが、根拠は全くない純粋な空想だ。
考察サイトが華やかなりしころ、いくつかのサイトでは天帝がラスボスなのではないか、という説がまことしやかにささやかれていた。確かに「黄昏の岸 暁の天」での天の対応はあまりにもお役所的ではある。ルールに従わなければ何もできないところが、法律に定められていなことは原則としてできない公務員によく似ている。
だが、もともと中国・道教の死生観がそういう面がある。「救急如律令」も、法令を守るように促す言葉であり、古代中国の役人が賄賂に弱かったように、今でも神々に心づけを渡す習慣がある。
そして、自分は天帝がラスボスになりえないと考えている最大の理由が、十二国記が不条理にあらがう人々の物語であるからだ。天帝を倒した後どんな世界を作るにせよ、人間が作り上げた世界である以上はやっぱり不完全なものになるだろうし、仮に完璧な世界を作ってしまったら、それは理想郷を描いた現実逃避のための小説になってしまう。「黄昏の岸 暁の天」のなかでも陽子はつぶやいている。天が実在するのならそれは無謬ではありえないのだ、と。
私が次回の短編集に出てくると予想する要素としては、今までの物語を受けて次の通りだ。
また、
そして、長編がありうるとしたら
と考えている。
少しろくでもない空想をしてみる。六百年の大王朝が滅びるとしたら、それはどうやってか。
王朝の最後にはいくつかの傾向がある。一つは陽子を暗殺しようとした巧の錯王や、慶の予王のように、王個人の劣等感に押しつぶされるパターン。もう一つは芳の王(祥瓊の父)や一つ前の才の王(黄姑の甥)のように、長所が裏目に出るパターンだ。祥瓊の父は清廉な人柄であったが、完璧主義者で罰が苛烈に過ぎた。黄姑の甥も正義感にあふれていたが、現実を検討する能力に乏しかった。
で、奏の特徴としてはのんびりとした気風がある。これが欠点となるのは、のんびりした気風で対応できないほどの速さで十二国世界に変化が起きる場合だ。つまり、利広の情報収集を絶てばいい。彼が旅先で死亡するか、家族が業を煮やして彼を王宮に拘束するかだ。ところが、「帰山」では、しばらく王宮暮らしをしろ、という趣旨の台詞がある。
これが奏の滅亡フラグかといえば穿ち過ぎな気もするが、宗王一家は全員同じ筆跡で公文書が書けて、しかも御璽を押した白紙が大量にあるので、一度分裂したら矛盾した命令が出されまくって国家の体をなさなくなり、あっと言う間に沈む危険がある。白紙委任状ほど危険なものはない。ああいう仲のいい家族が崩壊する様子を書くのって、日本人作家は上手だというイメージがあるが、数ページで滅んだ、と示されるのもまた冷たくていい。
「王気」という言葉は一見すると単純な造語である。しかし、景麒は、自分は半ば獣なのだ、と述べている。さて、「王気」にけものへん「犭」がつくとどうなるか。「狂気」になってしまうのである。失道は避けられないのかもしれない。
黄海を取り巻く四令門のある街で、雁では未門と申門の代わりに人門、恭では辰門と巳門の代わりに地門がある。では、言及されない才と巧ではどうなるか。陰陽道を考えると、才では丑門と寅門の代わりに鬼門、巧では戌門と亥門の代わりに天門、と思われる。
十二国記を初めて読んだときには、本編と「戴史乍書」の関係って、講談や旅芸人のお話と、正史みたいなものだと空想していた。三国演義が歴史書の三国志やその注釈から成立した、みたいな話だ。つまり、本文も旅芸人の語りであり、実際に起こった歴史とずれている可能性がある。
また、中国の歴史を知るにつれて、歴史書の記述はわざとそっけなくしていると考えるようになった。春秋の筆法というか、どのような事件が起こったかをどのくらいの濃度で書くかによって、歴史的な出来事に対する価値判断が含めているわけである。細かい経緯を書いた記録はたぶん別にある。
最近は、国家機密をぼかす目的もあると踏んでいる。阿選の幻術なんかの記述があっさりしているのも、たとえば妖魔が符で使役可能だとか、王と黄朱とのつながりとか、暴力を行使可能な麒麟がいるとか、かなり危険な情報だ。事情を知っている人が読むと「ああ」ってなるが、それ以外の人は読み飛ばすようにできている。
楽俊の姓名である張清は水滸伝に出てくる。しかし、水滸伝は盗賊が活躍するピカレスクロマンである。文人肌の楽俊とはだいぶ違う。
桓魋は少し近い。孔子を襲った荒くれ者と同じ名前だ。そして、面白いことに「魋」だけで「クマ」の意味がある。「熊どん」というほどの意味を持つ字なのだおるか。
祥瓊の父の字は仲達で、三国志の諸葛亮のライバル、司馬懿と同じだ。雁の白沢は瑞獣の名前。「白銀の墟 玄の月」の多くの官吏たちも、実在する中国の官僚や文人たちから名前が取られている。とはいえ、名前が同じだからと言って同じような人物像とは限らないので面白い。
「帝」という称号は始皇帝の考えだしたものだ。諸侯が王を名乗ったため、王のタイトルに重みがなくなってしまった。そこで、王の中の王を意味する称号が生まれたのである。
しかし、それを考えると十二国記世界では帝の称号が生まれないはずだ。なにせ、侵略戦争がありえないのだから、王よりも上が出てくるはずがない。そのため、王より上の称号は、山客か海客由来の語彙ということになる。
語彙だけではない。現実の中国の文化には、周辺の異民族との交流から生まれてきた要素が結構あるので、十二国世界でそれらが取り入れられたいきさつも妄想するのは楽しい。例えば、スカートやキルトではない、ズボンやパンツ状の服は騎馬民族に由来することが多い。そこまで考えるのは野暮かもしれないが、十二国世界が匈奴や西域の影響の薄い中国の文化を持っていると空想するのは、歴史ヲタにとってはきっと楽しい時間だ。
十二国記のアニメで、景麒が塙麟に角を封じられるとき、「生心気鎮風」と読める金文が刻まれるのだけれど、あれって根拠があるのか。私にはわからなかった。
つらつらと書いてしまった。
残念ながら、小野不由美の他の作品との比較・検討はしてこなかった。未読のものが多いためだ。また、作者の細かいインタビューも入手できていないので、見落としているものがあるかもしれない。
積んである本を片付けたら、ホラーは苦手だがぜひぜひ読んでみたい。
そして、次回の新刊をのんびりと待っている。小野不由美先生、本当に泰麒の物語の物語を完結させてくださり、ありがとうございました。
始皇帝で有名な秦に趙高という宦官がいた。中国史上まれに見る奸臣で、始皇帝の遺言を捻じ曲げ太子を自決に追い込んだ上、自らの息がかかった末子を傀儡の二世皇帝に仕立てて権力を掌握。邪魔になる有力者を尽く処刑し、人民には苛酷な労役を課した。これにより秦全土で反乱が発生、その事実が皇帝の耳に入らないよう握りつぶす趙高だったが、反乱軍が都のすぐそばまで迫るに至って隠しきれなくなった。趙高が宮中に「陛下、珍しい馬がおります」と鹿を連れてきたのはそんな折のことだった。
皇帝は「何を言う、鹿ではないか」と返したが、趙高はそれを流し「卿らはどう思うか」と群臣に問いかけた。趙高に阿って「馬」と返す者もいたが、「鹿」と返す気骨ある者もいた。「鹿」と答えた者たちは後日、趙高によって全て処刑された。これが「馬鹿」の由来(のひとつ)と言われる「指鹿為馬」である。ちなみに「指鹿為馬」も「道理に合わないとわかっていても無理やり押し通すこと」という意味の四字熟語になっている。楯突く者を全て排除した趙高は、ついに皇帝を弑逆した。
本邦の首相は時折ヒトラーになぞらえられるが、むしろ趙高が妥当だと考える。小人物が権力を握るとそれを守ることに汲々とし、「指鹿為馬」な真似をする。森友、加計、桜、検察官定年延長。枚挙にいとまがない。
趙高は三世皇帝によって殺されたが、我が国は国民の半数が「馬鹿」であるためどうやら首相の地位が揺るぐことはなさそうである。
なおこの趙高は『平家物語』において最初に名指しされている国賊である。その鐘の音が「諸行無常の響きあり」と評された祇園精舎だが、現在は歴史公園となっており、そんな響きが聞こえてくることも、もう無い。
少し前、何をトチ狂ったのか、ボロいラブホテルに男一人で泊まってたことがあった。
国立の繁華街から少し離れた、築何十年経ってるんだかという感じの昭和感溢れる、当然WiFiなどないラブホテルだった。1泊6000円。
時刻はちょうど終電の終わったころ、特に眠くもなかったので、ずっとスマホゲームをやっていた。
壁が薄いのだろう、向こうの部屋から男の話し声が聞こえた。
自分の方は、これまたトチ狂っていて、FGOのガチャに一喜一憂して大声で独り言を言っていた。
「始皇帝出ねー!!!」とか言っているうちに、課金しても一向に始皇帝(という星5キャラ)が引けないので本当にイライラしてきた。
イライラしたので飯でも買おうと思い、外のコンビニに行くことにした。
フロントのおばさんに鍵を返して外で弁当とビールを調達し、部屋に帰ってきた。フロントで鍵を受け取り、ふと部屋選択機を見てとんでもないことに気が付いた。
ランプが消えているのは自分の部屋だけだった。同じ階どころか、建物全部で宿泊客は自分だけだった。
震え上がりながらも、自棄になってビールで恐怖を打ち消し結局一夜を明かした。何事も起きなかった。大学5年、23歳の冬だった。
俺はずっとマンガ「キングダム」を歴史スペクタクルマンガだと思っていたが、違った。
地元、都道府県、そして全国の高校のやべーやつらと戦って、全国制覇を目指す。キングダムのフォーマットはそれだ。
だからオリキャラ、史実キャラ問わず量産型なやばいやつが途切れることなく出てくる。「秦六将」とか「三大天」とか「魏火竜」とかは「〇〇高校四天王」みたいな感じだし。
と言うわけで自分の中で整理はついた。
それと同時に、寝る前とかに妄想してた「俺のキングダム」が先日無事始皇帝が死に、次世代の英雄たちが顔見せして終わったので、俺の中のキングダムをここに書いて残しておきたい。
いやー、項燕は強敵でしたね…。
この3つだ。
この3つを経糸に、キャラクターを緯糸にしてストーリーが紡がれていく。歴史スペクタクルとしては標準的な形だ。
そして、主人公の信はこの3つの舞台全てにかかわっているという、まさに主人公らしい立ち位置にいる。
そして、それぞれの舞台で魅力的な人物が多数いるので、何をどうやっても面白くならないわけがないのがキングダムの魅力だ。
それを一つずつ解決して、信と政がどんどん力をつけていく。この3つの舞台を上手く使えば、「有名人=とりあえずめっちゃ強い」というヤンキーマンガ的文法から脱することも容易だ。
ヤンキーマンガを揶揄しているわけではなく、歴史を描くのにヤンキーマンガスタイルは合わない、と言うことだ。
さらに、3つの舞台それぞれにラスボスとなる人物が存在することも非常に大きい。
原版の「キングダム」でもこの宮中編は極めて面白い。特に弟の2度の反乱のストーリーは素晴らしい。弟君には生きてほしかったぞ…!壁さんはそんなに…。
後宮のドロドロとした問題が、回りまわって政治の問題となり、そして戦争に至るという、ある意味で「全ての元凶」であることもポイントだ。
そして、そのど真ん中に秦王・政がいるわけで、のちの始皇帝となる彼の胸中にもスポットライトが当たる。ともすれば闇に飲まれる政を救うのが信であり、テンであり、向ちゃん陽ちゃんである。
特に信は様々な事件で後宮に切り込んだことのある人物なので、後宮と言う閉鎖された環境を大きく振り回す役目も持っている。
そして、政治や戦場という表舞台には出てこない、もう見た目からしてヤバい奴らが出てこれるのもこの宮中編だ。
ベルセルクのバーキラカ編がめっちゃ面白かったように、キングダムの宮中編も面白いのだ。ここぞとばかりに妖術!仙術!奇々怪々!な人外どもの共演が魅力だ。
そして、この宮中編で出会ったキョウカイと戦場編、そして政治編を共にしていくという、まさに「裏から表舞台に、闇から光にぐいぐい引っ張り上げていく」信というキャラの魅力も存分に楽しめる。
テンは軍師としてではなく、この後宮における諜報活動をメインの舞台にして、趙高と対決しつつ、対外的には山の民との折衝を、内に対しては暗殺者たちの警戒を、そして信が戦場に行っている間の領地経営などをすれば、「テンにしかできないこと」によって信や政をサポートできる。
キングダム世界の最強の暗殺者として描写される荊軻は、政、信、テン、キョウカイと物理的に対決することができる貴重な存在だし、中国史上最も有名な暗殺者(だと思う)で、しかも人格は高潔。また「傍若無人」の語源にもなった男として(語源は結構いい意味)、知名度もエピソード的にも隙がない。
理想のためには己の手を汚す、歴史に汚名を残しても構わないという政に向かって、「そうはいってもお前がやっていることは中華全土の民を苦しめる行為である」と喝破できる暗殺者。荊軻こそ宮中編ラスボス。
ここに至り、政や信はルァァ!ではなく、筋として、現実的な回答としての「善い国」を目指さねばならなくなる。そして、史実では成功したとは言えない始皇帝の各種改革の意義も、きちんと読者に提示することができよう。
荊軻とキョウカイの戦いはワレブシンなどとは格の違う激戦が展開される。
闇を心に宿す聖王である政と、光を心に宿す暗殺者の荊軻という対比もいい。
荊軻がどのような最期を迎えても、読者に強烈な印象を持たせられるはずだ。
また、結局のところ最後の最後まで残る秦国最悪の毒である趙高のヤバさも存分に描くことができる。趙高と荊軻の対比も面白いかもしれない。人格最悪の宦官と、人格最良の暗殺者とかね。ベタかもしれないけど。
主人公がどんどん成り上がっていく、となれば、それはもうアメリカンドリームの世界なので面白くないわけがない。
クッソボロい小屋から始まって、村、町、郡、県、そして国政にもさんかする秦国の重要人物になっていく様は、政の目線から見ても面白いものになる。
政が初めて信に褒美を手渡したシーンは名シーンだ。家で待ってるテンもかわいい。
最初のうちは昌文君の後ろにくっついて国政や外交を見学するわけだが、そこにキョウカイも連れて行ったりしたのは面白かったな。
賓客として訪れる各国の重要人物との縁もできるし、そこから戦場で対峙するギャップもいい。
テンちゃんには後宮での諜報活動の傍ら、こちらに注力していただいて、戦場でストレスを抱えるよりこちらでほのぼのと領地経営をしていただきたい。たまにキョウカイが飯を食いに来るとか。
そのうち王騎の城をもらえることになったりとかね。
秦は法治主義がかなり浸透してるので、その法治主義の利点、欠点(商鞅の件みたいな)をひきつつ、では信はどういう国を理想とするのか、政はそのためにどういう王でなければならないかが描き出される。
領地経営を通じて、信は大きく成長し、その経験が戦場でも生かされることになるだろう。
なぜ法治国家であった秦が強かったのか。他国との違いは何か、かかすことのできないストーリーになるだろう。
ラスボスはいろいろと考えられる。外交面では斉王だろうが、「国家運営」と言うところまで話が広がれば、丞相・李斯とどういう関係になるかが問題になるだろう。
また、後宮編ともリンクするが、政の二人の息子の問題が大きくクローズアップされる。
信は王子にどうかかわるのか。
そしてここでは蒙恬も大きな役目を果たす。
蒙恬は知略、政治にも優れたイケメンで、最終的に政の長男を奉じて最後まで行動(史記では批判されているが)し、悲劇的な最期を遂げることになるのだが、そこに至る伏線を張り巡らすにはちょうどいいだろう。
この政治編のサブ主人公は蒙恬と言える。李斯、趙高に対抗するにはどうするか、王子をどう教育するか。
個人的に、政の長男扶蘇に「おじさん」と呼ばれてめっちゃなつかれる蒙恬が見たい。
むしろ扶蘇は女の子でもいいぞ。女の子だから継承者から廃された、とかね。
蒙恬はテンちゃんとくっついてもいい。むしろそれだけの材料は十分にある。
宮中編がトリガーとすれば、政治編は撃鉄と言うことになるだろうか。
そして、全ての決着をつける弾丸となる戦場編に舞台は移動する。
誰が至強か!?
誰が至強か!?
汗 明 !
大体このノリでOKだ。文官だった汗明さんがこんな至強に。それがキングダムの戦場である。
宮中編、政治編とはまたベクトルの違った奇人変人のステージとなるこの戦場編では信には思う存分ルァァしてもらって、キョウカイにはスヒンしてもらえばそれでいいと思う。
ここに関してはさほど言うことはない。みんなが思っているような戦場を思い描いてくれればOKだ。
ただ、ぶっちゃけもうちょっと項翼の格は上げてほしいし、何なら戦国最強の項一族とか捏造して項翼のみならず項翔とか項離とか項飛とか「項+飛翔系」の量産型をそろえてもいいかもしれない。ダメか。
それはともかく、李牧さんには政治編でも活躍してもらえるので、戦場での出番はここ一番まで取っておいてもらって、部下のニンジャマスクには退場していただければそれでいいような気がする。ニンジャマスクはなる早でキョウカイに切り捨ててもらえるとありがたい。
上手く描写すれば王賁とキョウカイがいい雰囲気になる寸前のところくらいまで言っても受け入れられると思うんだよね。
ラスボスは当然のごとく項燕。
カリンさんは政治編でも頑張ってもらえばいいので、やはりラスボスはこのオッサンだろう。
後の覇王・項羽のおじいちゃんなので、ぶっちゃけもう項羽として描いてもいいんじゃないって感じはする。歳の問題はあるが。
というのも、信が楚に20万(だっけ)で攻め入った時、蒙恬も一緒にいるのだ。
蒙恬=知将+イケメンなので、蒙恬がいたのにそんな無様なことにはならんだろと言う予測がつく。
そして、歴史系作品の魅力と言えば、「なぜその人物はそんなことをしたのか」に上手い理由をつけるのが醍醐味。
ならば、簡単に「なぜイキリ散らしたのか」に理由がつけられる。
それは、
でOKだ!
楚は国土がでかい。長江もある。ゆえに他国からあまり侵略を受けていないので、楚の内部の城郭がどうなっているのか、兵士はどれくらいいるのかが全く分からない。
なので、だれかが犠牲になってでも強行偵察&戦力を評価をしなければならない。今秦国が動かせるのは80万しかない。いきなり80万で出て行っても、翻弄されて撃破される可能性がある。
ならば、秦王の最も信頼の厚い将軍である信がその「潰れ役」を買って出て、次なる勝利の布石とする!
みたいなことを信の口から言わせれば、信がこれまで経験してきたことで説得力もあるし、王翦ら歴戦の将軍も納得し、一目置かれるだろう。
そうならば、「泥臭い役もこなせる」楽華隊を率い、信の親友である蒙恬がついてきてくれることにも全く違和感がない。
王賁もこのころまでにギスギスをやめて、劇場版ジャイアンみたいな感じで送りだしてくれるだろう。
で、決死の強行偵察であることを悟らせないために(朝廷にもスパイ入ってるだろうし)、公的にも、歴史的にも、「信とかいう若い将軍がイキって20万で楚を攻める」という体にしておく。
「天下の大将軍になる」という目標の信が、「政の目指す国のために、名誉を捨てる」という、劇的な変化を見られるのだ。
そんな内情を、何となく兵士たちは察したとき、キングダム冒頭の「李信将軍!」とついていくのだろう。熱い話である。
歴史を見ると、李信の一族は「優秀だが報われない」一族であることがわかる。
李信の子孫である飛将軍・李広は武勇を誇るも功績を認められる憤死
その李広の孫である李陵は「あいつは寝返った」と勘違いされ、不名誉を着ることになった。
しかし一族は決して衰退することなく繁栄しのちの世にまで子孫を繋いでいる。
つまり、「報われない一族でありながらも、きちんと評価してくれている人がいる」という一族でもある。
その筆頭が、史記を書いた司馬遷だ。先の李陵を弁護したため宮刑を受けてしまった司馬遷は、「自殺よりも歴史書だ!」と熱い情熱を燃やし、史記を書きとおした。
李白が始皇帝について詠んだ詩があるという話は聞いているんだが、それはまだ確認できていないが、ラストシーンは李白に詩を読ませるところでしめてもいいかもしれない。
結局のところ、信が大将軍を目指して走ってきたのは、漂との約束があるからだ。
最初はただの功名心で始まった大将軍の道が、様々な出会いと別れで肉付けされていく。これがキングダムの一番の幹である。
そこで、自分の夢を命を預けられる親友、政にであい、道を同じくする。
そして、「政の目指す国を作るための剣になる」ことに目標がほんの少しスライドするのである。その道の先に、名誉を捨てて理想のために戦うという、信の本来の姿が浮かび上がってくる。
李信の大敗後、だれも責任を追及しないし、処刑もされないし、子孫は漢の時代からそのあとにも反映している。
それは史書には残せずとも、当時の人は本当のことを知っていたということにできる。
王賁あたりに「信、お前がナンバーワンだ」と言ってもらおう。
キングダムがさわやかに終わる可能はどのくらいあるのだろうか。
かなり難しい気はする。
まぁ焚書坑儒については、ある程度行ける。
焚書で焼いたのは、各国の歴史書と、法律の本だ。あと儒教の経典。
これは当時の世相を考えれば、何とか理解できるような気がする。というのも、ぶっちゃけ中華史上初の統一国家を作る、となれば、強引にでも意思は統一しなければならない。
そのために、「俺らの祖先は秦にころされたんだぜ」というような本は廃さねばならなかったろうし、儒教の経典については、はっきり言って法治国家に儒教は邪魔なので、致し方ないといえる。
なんせ、儒教は「徳のある君主が統治するなら、法律など不要」「法律なんてものを作ったら、その法律の穴を利用しようとする小物ばかりになってしまう」というものなので。
その代わり、農業書や実用書は焼かれずに奨励されたというしね。
あくまでも実利、実学、法治思想での近代的な国家運営を目指した、が、それは時代が早すぎた。という感じなのか。
あるいは、「今理解されずともよい。後世に理想を見せるための建国なのだ」と言わせるか。事実、これ以降の中華大陸は「統一しなければならない」という意識がかなり強まった気はする。そして宋の時代に中華思想が完成するわけで。
まず趙高。いうまでもなく裏ボスだ。李斯も裏ボス風味ではある。
そして、裏ボスとしての説得力最高の人物がいる。史上最高の軍師・張良だ。
なんとこの張良、史書にデビューしたのは始皇帝の暗殺だ。始皇帝の乗る車にハンマーを投げ込ませるというエクストリームな暗殺未遂を起こしており、そこで追われる身となってセンプク。その最中に軍学を学び、史上最高の軍師が誕生するわけだが、
割と裏ボスにぴったりなんではないだろうか。
むしろ張良が始皇帝を暗殺しちゃってもいいかもしれん。病気でなくなるよりは劇的だろうし。
後は妖術師徐福だな!
格はだいぶ落ちるが!
まぁいいか!
余命少ない俺には、生きている間にキングダム完結が見られないのでこんなことを書きました。
俺の代わりに最終回まで見届けてほしい。
ネタバレだけど言いたいことがあるのでここに書く。
本当に久々に、元気のいいSFを読んだ。
あとがきにあるとおり、バリントン・J・ベイリーを彷彿とさせるバカSF(←褒めてる)で、3千万人を使ったノイマン型計算機(ディスプレイにはプログレスバー付き!)なんて最高だ。
それぐらいのリアリティレベルと知った上で、無粋を承知で書く。
三体人は自分の惑星の境遇にあそこまで絶望しているのに、なぜ播種船を出さなかったのかがわからない!
自前でコールドスリープ可能(自力乾燥によるミイラ化!)で、文化レベルが高い上に自覚的に全体主義を採用していて、技術レベルも恒星間航行が可能。
挙句に生まれ落ちた惑星は解決不能の3体問題を抱えて将来がないことを科学的に分析した上で理解している。
ここまで宇宙を旅して他の惑星に移住するしかない知性体が、なぜSETIなんて確率の低い方法に時間とエネルギーを投資しているのか。
陽子を宇宙艦隊を作れるほどのエネルギーで改造して遊んでいる間に、さっさと10光年以内の可能性のある惑星に脱水体にした同胞1万人を船に詰めて送り込めよ!!
と、思ったのが納得のいかない点。
文革からの流れで真面目小説かと思ってたけど、バカSF(←褒めてる。ワイドスクリーン・バロック!)であることを思い出す流れが最高だった。
続編が楽しみ!!